ブルーノ・シュルツ『マネキン 人形論』 公演情報 シアターX(カイ)「ブルーノ・シュルツ『マネキン 人形論』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    彼我の差を越えて
     ポーランド人の魂に焼きついた深い傷。それは、現代においても彼らの魂の奥底に滾るマグマである。独ソ不可侵条約後、東西を分割されたポーランドは、民族の土地を奪われ、喪失していたばかりではない。彼らは殲滅戦の対象だったのである。周知の通り、ナチ以降のドイツは、分轄領内でもユダヤ人を、ソ連は、矢張り分轄領内でポーランド人を殲滅しようとしたのだ。結果、この作品で描かれているように、人は存在し続ける為に、マネキンになった。即ち、人間が、マネキン化されたのである。言い換えれば、生きている人間は、人間としての所作を剥ぎ取られ、マネキンとして生きるしか無かったという状況を表しているように思われる。そこには、故失くして存在の根拠を奪われ、自らの土地に安住することも妨げられ、存在そのものが、アポリアと化した彼らの苦悩の歴史が読みとれよう。
     然し乍ら、演出家は、俳優が単にマネキンをマネキンとして演じることを潔しとしていない。マネキン化は、演技の死を意味するだろうからである。かれは、俳優が演じるマネキンが、人格を持つことを要求する。ここが、この演出家の優れた点である。その為に俳優達に演出家が望んだのは個々の俳優自らの方法論である。再度言うが、人格を持たない存在が、人格を持つことを要求したのである。俳優達は、これに見事に応えた。
    観ている自分は、始まる早々、役者が竹馬を履いているのではないか、と思うほど大きく見えて、彼らの力量を見せつけられた。(追記4.28)

    ネタバレBOX

     演出家は、俳優達が、役をどう解釈するかに任せるという方法を採っており、如何にもヨーロッパの自我対世界という世界認識をベースにした方法だとは思ったが、現代の日本人は、アジア的な汎主体性と欧米流の自我主体性の差異を見分けることのできる個人も増えてきているだろう。とは言っても、まだまだ、文化レベルの差異は大きいので、充分に理解したという納得感を持てる人はそこそこに留まる、歴史も歴史認識も異なる。カントールを想起させるような工夫が凝らされているので、日本の和歌の伝統にある、本歌取りなどのような輻輳化も見られる。言語の差も大きい。ポーランド語以外に、ラテン語、ドイツ語、ロシア語等も使われているので、ヨーロッパで、ヨーロッパ人に立ち混じって暮らした経験を持たない日本人には、難しい点が多々ある作品ではあろう。
     だが、彼我の差を埋める、舞台上に用いられている物にも注目したい。これらは、無機的なオブジェでは無い。様々な意味を仮託され、我々の死後も存在し続ける、不変の実体である。このことの不気味と救済のイマージュをも受け取って欲しい。そして、一つの物に仮託された複数のイマージュや意味も考えて欲しいのだ。そうすることによっても、この作品に込められた別の一面が、見えてこよう。
     今作は、我々の認識に応じて、様々な壁を越え、尚訴えかけてくる根本的なものを持つヴィヴィッドな作品である。例えば、ラストに近い所で再三登場する鳥のイマージュにも注目。何を意味するか、明らかであろう。同じ物が、別の事を意味していることもある。例を挙げれば、受話器だ。これは、鳥のイマージュ、烏のイマージュ、更には、共産党幹部の机上にいつもデンとして置かれた、電話でもある。その会話によって誰が、いつ、どんな形で粛清されたかも、当然のことながら想起させるのだ。また、今でも、米兵やイスラエル兵が、其々の占領地域で同じことをやっている、壁に書き込まれた、“ポーランド人が居ない・居る”、“ユダヤ人が居ない・居る”の表示の非人間性を暴くと同時に、「ユダヤ人が居る」と叫び、壁にその旨書き込んだ、ポーランド人を通して、絶滅の危機に立たされた人間一般についても、その想像力を働かせて観て欲しい。
     その想像力を働かせるに相応しい、濃密で深い舞台である。

    0

    2013/04/26 11:44

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大