満足度★★
観客無視の舞台
みごとなのは装置だけで、たいくつなつまらない舞台だった。
詳細は、演劇感想サイト「福岡演劇の今」に書いています。
http://f-e-now.ciao.jp/20120308.html
満足度★★★
それぞれの役者さんの妙を
観たいと思っているのだけど、見えにくい状態では判断がしにくい。
とりあえず、一人だけわかったのでそこだけを集中して観てた。
竹内元一くんは身体のそぎ方やパフォーマンスが好みなので素の
しゃべり方からメロス(セリヌンティウスのほうだったか?)の演技まで
とてもおもしろく観れた。全体としてはあれ?っという感じだったけど。
満足度★★★★
次のセンター(主役)は誰か
いい演劇作品だった。満足できた。
客席単価を考えれば2,000円という料金は格安。近年の山田演出の方向性を踏襲し、走れメロスのドラマ性や脚本のテキストよりも役者の身体性や演出家の感性を中心にしているつくりだから、合わない人も少なくないだろう。
満足度★
演劇に対して不誠実すぎる舞台
期待値が低ければ、実際の舞台は概ね「そこまで悪くないじゃん」となるものだが、それを大幅に下回るとなっては、これはもう価値観の相違とか視点の違いとか、そういう問題ではない。これを演劇として認める人間には、演劇に携わる資格もなければ語る資格もないのである。Twitterやらブログやらでこの作品を褒めちぎっている感想をいくつも見たが、どれも作り手の関係者による情実に基づいた贔屓の引き倒し(つまりは実質サクラ)で、木も見なければ森も見ていないどうしようもないクズ批評ばかりであった。
いくら書くのは自由だって言っても、一般人には誉めてる連中がみんなサクラだなんて知らない人の方が多いのである。だから「これって詐欺じゃん?」と追求された場合、弁明の余地は生まれまい。せめて文章のアタマに「知人が出てるんで(作ってるんで)星一つアップ」とか、正直に書いてくれないものかね。そうすりゃ読む方は星三つくらい減らして作品評価できるから。
実際、「情実」でも絡んでいるのでなければ、こんな頭でっかちな舞台を誉められるはずがない。原作を脚色した戯曲自体はそこそこの出来だとしても、俳優は二流、演出に至ってはド三流だ。曲がりなりにも演劇にある程度の期間、携わってきたのなら、「これは違う」とか直観ででも感じられてくるものではないかと思うのだが、原作に対しても戯曲に対しても、俳優と演出はろくな読解を施さずにただ舞台に上げてみせただけのようである。観ている方としては、うなだれて「誰か止めようって言わなかったのかよ」と溜息を吐くしかない。
“Fukuoka in Asia 舞台芸術創造発信プロジェクト” 第1弾ということは、第2弾も予定しているということだろうが、そもそも福岡限定で、世界に発信できるほどの演劇の土壌がどれだけできているというのだろうか。種を撒かずに水だけ撒いたって何も生まれないだろうによ。
満足度★
自分たちが何をしているかが見えているか
舞台はコロシアムのような形式で、四方の上から見下ろすようになっている。
セットも起伏があるもので期待してしまった。
しかし、期待は悪い方に裏切られた。
舞台が始まると役者たちはおかしな喋り方をする。1人以外は「老人」という設定らしいが、どんなシーンでも(老人でないときも)普通の喋り方はほぼしない。
最初は意図があるのかと見守っていたが、どうにもそうは思えない。
せっかくの面白いセットも使いこなせていない。
それから、私が感じた大きなマイナスポイントは、非常に観辛い、ということとがひとつ。
上から見下ろす形のため、前に手すりがあるが、これがちょうど視界を塞ぐ形になっているし、ずっと頭を下げたまま見ることになって首が痛くなった。
照明も上から見られるライティングをあまり考えていたとは思えない。
もうひとつのマイナスは面白くないということ。
面白くないでは御幣を生むが、「走れメロス」を知っている人間にはただの朗読と変わらないものになっているし、知らない人間(子供等)にはよく分からないだろうと思えた。
どの解釈を取ろうとかまわないが、作品解釈も浅くつまらなく感じた。
実際、客席に数人いた子供たちが笑ったのは、役者がおかしな動きをした時と裸になった時くらいだった。
先ほど、「意図がない」の旨書いたが、語弊があると思うのでもう少し書くと、意図はあるのだろうがそれが思いつきでしかない。ということを言いたかったのだ。
「こんな演出をしたらどうだろう」「こんな表現をしてみたい」それは大いに結構だと思うが、それをすることで作品にどんな影響があるのか、観客にどう見えるのかをきちんと考えてない。考えが足りな過ぎるのだ。