走れメロス 公演情報 走れメロス」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 2.2
1-5件 / 5件中
  • 満足度★★

    観客無視の舞台
    みごとなのは装置だけで、たいくつなつまらない舞台だった。

    詳細は、演劇感想サイト「福岡演劇の今」に書いています。
    http://f-e-now.ciao.jp/20120308.html

  • 満足度★★★

    それぞれの役者さんの妙を
    観たいと思っているのだけど、見えにくい状態では判断がしにくい。
    とりあえず、一人だけわかったのでそこだけを集中して観てた。
    竹内元一くんは身体のそぎ方やパフォーマンスが好みなので素の
    しゃべり方からメロス(セリヌンティウスのほうだったか?)の演技まで
    とてもおもしろく観れた。全体としてはあれ?っという感じだったけど。

    ネタバレBOX

    舞台装置というか美術?? 曲線の美に感動した。
  • 満足度★★★★

    次のセンター(主役)は誰か
    いい演劇作品だった。満足できた。

    客席単価を考えれば2,000円という料金は格安。近年の山田演出の方向性を踏襲し、走れメロスのドラマ性や脚本のテキストよりも役者の身体性や演出家の感性を中心にしているつくりだから、合わない人も少なくないだろう。


    ネタバレBOX

    パピオにプール舞台をもつ劇場を再現していた。舞台上舞台という言葉があるが、いうならば「舞台上劇場」この挑戦は山田演出の傾向からいくとおそらく成功の重要な要因。

    冒頭にAKB48 ヘビーローテーション。
    「君に会えて ドンドン近づくその距離に MAX ハイテンション」という歌詞に走るメロスが想起される。しかしそれ以上に、浮薄というか今をときめくというか、いずれにせよ、現代の日本をもっとも象徴しうる身体性の一例をスタートに提示ないしはそういう身体性を福岡の役者の生身に通すということに意味合いを置いたとみたい。
    これまでの山田演出からすると、「わかりやすすぎる」きらいがある。

    作品は、メロスを演じる役がもちまわりのように変わり、最後は「じゃあ、次は誰が王子をやるんだっけ?」で、終わる(たしか)。
    AKB曲で芝居がはじまり、次のセンター(主役)は誰?という終わりをしているのだ(そして、主役であることをつきつけられる)。
    偶然だろうが、時代の空気感を捉える山田恵理香のアンテナは、やはり尋常ではない。


    手放しで評価するわけではない。細かいつっこみや聞いてみたいことは多々ある(開演13分押し、手すりが視界を阻害、未完成な部分や弱い演技が散見されたように思えること、企画、広報等)。
    が、全体としては自分はこの作品を評価する。いい演劇作品であり演劇公演企画だった。


    他にもいろいろ書きたいのだけど、初心者を想定している演劇サイトで長いのはうざいしレイアウト崩れるしで、今回はわかりやすいAKBネタを中心に。ながくて小難しいのは自分のブログとかどっか違うところに書きたい。もうすでに、ながくて小難しいだろうけど。
    (注:自分のスタイルであり、人に押しつけるものではありません)
  • 満足度

    演劇に対して不誠実すぎる舞台
     期待値が低ければ、実際の舞台は概ね「そこまで悪くないじゃん」となるものだが、それを大幅に下回るとなっては、これはもう価値観の相違とか視点の違いとか、そういう問題ではない。これを演劇として認める人間には、演劇に携わる資格もなければ語る資格もないのである。Twitterやらブログやらでこの作品を褒めちぎっている感想をいくつも見たが、どれも作り手の関係者による情実に基づいた贔屓の引き倒し(つまりは実質サクラ)で、木も見なければ森も見ていないどうしようもないクズ批評ばかりであった。
     いくら書くのは自由だって言っても、一般人には誉めてる連中がみんなサクラだなんて知らない人の方が多いのである。だから「これって詐欺じゃん?」と追求された場合、弁明の余地は生まれまい。せめて文章のアタマに「知人が出てるんで(作ってるんで)星一つアップ」とか、正直に書いてくれないものかね。そうすりゃ読む方は星三つくらい減らして作品評価できるから。
     実際、「情実」でも絡んでいるのでなければ、こんな頭でっかちな舞台を誉められるはずがない。原作を脚色した戯曲自体はそこそこの出来だとしても、俳優は二流、演出に至ってはド三流だ。曲がりなりにも演劇にある程度の期間、携わってきたのなら、「これは違う」とか直観ででも感じられてくるものではないかと思うのだが、原作に対しても戯曲に対しても、俳優と演出はろくな読解を施さずにただ舞台に上げてみせただけのようである。観ている方としては、うなだれて「誰か止めようって言わなかったのかよ」と溜息を吐くしかない。
     “Fukuoka in Asia 舞台芸術創造発信プロジェクト” 第1弾ということは、第2弾も予定しているということだろうが、そもそも福岡限定で、世界に発信できるほどの演劇の土壌がどれだけできているというのだろうか。種を撒かずに水だけ撒いたって何も生まれないだろうによ。

    ネタバレBOX

     建築家・野田恒雄による舞台美術は、創造性に富んでいて、確かに目を惹く。
     立方体の底に、階段式の山や池を配置し、観客席はそれを四方から見下ろす形で設置されている。底までの高さは3~4メートルはあるだろうか、照らす照明もうすぼんやりとしていて、何だか“あなぐら”の底で蠢く虫たちを覗き込んでいるような印象だ。
     これが芥川龍之介『蜘蛛の糸』の舞台だと言われたら、即座に納得しただろう。そこに寝そべっている6人の男達が、地獄に墜ちた罪人たちのように見えるからだ。
     しかし、これは太宰治『走れメロス』の物語であるはずだ。実際の運動としての「走る」行為を行うには、あまりにも舞台の拘束性が強すぎる。だがその不自然さにこそ何らかの演出意図があるのではないかと、初めはこの斬新な舞台設定に期待を寄せたのだ。
     だから、観客に“まるで闘技場の奴隷たちを見下すような不快感”を与えていることにも、なんらかの演出家の計算があるのかもしれないと、“好意的に”解釈しようとしたのだ。

     ところが、そういった「期待」はいとも簡単に裏切られることになる。
     劇の内容は、別段、このような舞台装置を必要としなければならないものではなく、通常の舞台でも成立するものであった。
     いや、むしろメロスの勇気や友情を礼賛、人と人との「絆」を訴えようとする意図があるのなら、このような観客の視線を下方に誘導する演出は逆効果であろう。
     ということは、演出家の意図がどうであれ、この「あなぐら」は、まさしく「他人を見下す」目的で構築されたものとしか判断のしようがなくなってしまうのだ。
     いったい、演出家と舞台美術家との間に、どれほどの意志の疎通が出来ていたのだろう。結果的に、このデザインを採用した演出家・山田恵理香は、他人を見下すことに躊躇しない人間であると言わざるを得なくなる。そしてこの舞台を賞賛できる観客もまた、他者を蔑む快感に身を委ねることに何の抵抗感も持たない、唾棄すべき差別者たちだということになってしまう。
     もちろん、彼らに「悪気はない」のだろうから、単に愚かなだけなのであろう。最も「好意的」に解釈するとして。

     6人の男達のうち、1人は若者である。
     「生まれてすみません」と呟き、時折どこかから幻の女の声――それは『人間失格』の大庭葉藏を慈しむ女たちの声のようにも聞こえる――に癒されているような、その彼は、「トシマオウジ」と名乗る。
     豊島皇子か年増王子か――その名が太宰治の本名「津島修治」をもじったものであることは容易に気がつく。そして、彼を取り巻く残る5人の男達は「老人」であり、自らを「かつて俳優であった者たち」であると言う。
     老人たちはオウジに「物語」を求める。自分たちが演じるに相応しい物語を、オウジから教わり、演じてみせると主張する。
     そして、オウジが彼らに与えた物語が『走れメロス』。
     「俳優たち」は、メロスの物語を口々に語る。時系列はややでたらめに、時には一度語った物語が繰り返され、語り手も演じ手もめまぐるしく変わり、それでも最後には、メロスが「走りきった」ことが語られ、物語は終わる。

     オウジは一方の山に登り、ほっと息を吐いて、老人たちに語りかける。
     「楽しかった。今度は誰がメロスを演る?」
     “老人ではなくなった“俳優たちは、口々に言う。「メロスはお前じゃないか」「メロスはあなただ」「きみだ」「私だ」……。
     オウジは気がつく。自分が「生きたい」と願っていたことを。メロスのようになりたいと思っていたことを。そして、彼は走り出す。生きるために。

     物語の大筋はこういった感じだ。
     永山智行の戯曲の基本アイデアは、往々にして破滅型の作家としてしか捉えられない太宰治が、『走れメロス』を執筆した理由は何なのか、彼にも「光」を求める時期があり、それが未来指向型の作品となって表れたのが『メロス』なのではないか、という解釈に基づいているのだと思われる。
     『メロス』解釈としては定番のものであって、それほど目新しいものではないが、シラクサの町の一青年の物語を、現代日本の観客たちに訴求力をもって観てもらう脚色としては、まあ有効だと言えるだろう。

     しかし、舞台への興味は、出鼻でいきなり挫かれる。
     AKB48『ヘビーローテーション』が大音響で流されて、6人の男達が踊り狂うのだが、どういう演出意図があったのか、全く意味不明である。
     祝祭としてのギリシャ史劇を現代のイベントになぞらえたものか、などと、これまた好意的に解釈してやることもできなくはないが、そもそもAKBも『ヘビーローテーション』も知らない観客の目には(案外多いよ)、「なんかアイドルの女の子たちっぽい歌に乗せて、変な男の人たちが変なダンスを踊ってる」としか映らないだろう。
     プロの芝居と比較するのは酷だが、ちょうど同時期に公演された山田うん『季節のない街』で使用されているベートーベンの第九交響曲、あれはたとえその曲名も作曲者も知らなくても、その「曲想」が舞台のイメージとの相乗効果を生む「計算」があって、だから演劇として成立しているのだ。
     「何の曲を流すか」あるいは「この舞台に何かの楽曲が必要か」なんて考えることは基本中の基本で、シロウトだってちょっと考えれば「これはこの芝居には合わないな」と見当が付きそうなものだが、そんなアタマなど、この演出家にはないのだろう。

     そして、老人たちによって『走れメロス』が演じられることになるのだが、まず、役柄を振り分けるのではなく、太宰治の『走れメロス』をそのまま読む「朗読劇」の手法に拠っていることにまた落胆させられた。
     学校の授業でも教科書を朗読させられることは普通だし、リーディング公演なんてものもあるから、朗読は簡単なもののように錯覚している人もいるかもしれないが、朗読劇には、大きく三つの問題点があるのである。
     第一は、文学作品は音読を目的として書かれているものではないということ。もちろん言葉にはその言葉の持つ韻律があるから、声に出して読んでも読みやすくはある。しかしその韻律は本来、「黙読」を前提としているものなので、聞く方にしてみれば「まどろっこしい」のだ。
     第二の問題点は、朗読劇は、台詞ばかりでなく「地の文」まで読まなくてはならないので、通常の演劇以上に演出家や演者に読解力が要求されることである。『メロス』の語り手は、登場人物たちの心をどう表現しようとしているのか、ただ淡々と描こうとしているのか、何かの思いを込めているのか、そこでも多様な解釈が可能になる。
     そして第二の問題と関連した、一番大きな問題点は、その「解釈」をした上でなお、観客に自分たちの解釈を押しつけるのではなく、更なる想像を喚起させる「演出」を行わなければならない、ということである。

     この舞台の最大の失敗は、この第三の問題点にある。
     永山戯曲は、まず、その「多様な解釈」を可能にするために、原作を解体し、その語り手の演者たちが次々に移り変わっていく方法で成立させようとした。6人の人間が6通りの読み方をすれば、当然、6通りの解釈が生まれるはずである。
     最後まで誇りに満ちたメロスやセリヌンティウスが生まれるかもしれないし、もう少し気弱な人物として表現されるかもしれない。実は結構悪辣に聞こえるメロスであっても構わないのだ。それがラストで「メロスはお前だ」「きみだ」「私だ」という“多重の解釈”に繋がってくる。観客もまた「自分はメロスかもしれない」という思いに共感できるようになる。
     この「読み手が次々と移り変わっていく」「時系列が前後する」発想は、永山智行オリジナルではなく、前者は朗読劇では普通に行われる手法であるし、後者は最近の演劇界では「流行り」ですらある。目新しくないだけではなく、そうまでして太宰治の本文に拘る必要がどこにあるのだろうかという疑問まで抱いてしまうのだ。
     これも、山田うんが山本周五郎の原作を一行たりとも使わずに『季節のない街』を見事に舞台化して見せたのとは好対照であるが、一応、ここまでは『走れメロス』を何とかして舞台化できないかと悪戦苦闘した跡は見受けられるので、嫌悪感までは覚えない。

     ダメだったのはやはり「演出」で、山田恵理香は、この俳優たちにワンパターンの老人演技を強いたのだ。まあ身体は役者たちが若いから老人になることは難しかったらしく、早々に放棄していたが、台詞はラスト近くまで、フガフガと、「イメージとしての老人の喋り方」に統一されていた。
     役者の個性を殺し、しかも現実の老人の喋り方とも違う、悪い意味での「マンガ演技」で、どうして観客の想像力を喚起できると考えたものか、いや、そんなものは考えもしなかったのだろう。
     「次は誰がメロスをやる?」――この戯曲の持つ面白さを、演出が全て台無しにしてしまっているのだ。「演劇の才能とは何か」なんてことはそう簡単に結論が出せることではないのだが、ここまで貧困な読解力しか持たず、「表現」とは逆のベクトルを持つ演出しかできないのであれば、山田恵理香には才能の一片たりともないと断定して構わない。

     男6人だけの舞台、という拘りも、私には理解不能であった。
     これは男女混合の方が確実に面白くなる戯曲である。若い女のようなメロスがいたっていいし、老婆のメロスがいてもいい。高慢なメロスがいたって、慈愛に満ちたメロスがいたっていいのだ。
     それが、観客にとってのメロスが、父であり兄であり弟であり息子であり、母であり姉であり妹であり娘であり、多様な解釈を促し、それが観客の共感を呼んで、舞台空間に「絆」を生むことに繋がるのだから。

     だから、この舞台を誉める人は、観る前から演出家なり俳優たちなりとの間に、「絆」を作っちゃってる人たちだけなのだね。そんな感想をいくらダラダラと並べられたって、一般人には無関係で無価値なのだ。
     「子どももおばさんも笑ってた」とか書いていた人がいるが、少なくとも私が観た回では、子どもが笑っていたのは俳優たちが服を脱いで裸になっていたあたりだけで、表層的な部分に過ぎない。あまり退屈なシーンが続くと、人はたいして面白くもないシーンでも、ちょっとした引っかかりに笑って、何とか精神のバランスを保とうとするもので、あれはそういった類のものだろう。それに、子どもは大人ほどに馬鹿ではないので、「面白かったか?」と聞かれたら「面白かったよ」と“答えてあげる”ものである。
     子どもが笑っただけで「これでいいのだ」と思えるような幼稚で底の浅いメンタリティで、果たして「演技」を構築できるものか、これもちょっと考えれば分かりそうなものなのだが。

     一番大笑いした『走れメロス』評は、「『君に会えて ドンドン近づくその距離に MAX ハイテンション』という歌詞に走るメロスが想起される」というものだった。いや、『ヘビーローテーション』ってフツーのラブソングでしょ? この歌詞から、真っ先にメロスを想起できる人間って、百万人に一人もいないと思うが。前田敦子や大島優子や高橋みなみや、ともかく制服を着たジョシコーセーとメロスとが彼の目には重なって見えるのか? それともメロスとセリヌンティウスとの間にBL的な何かを想起したのかな。腐男子かお前は。
     もしも山田恵理香が本当にそんな“ギャグとしての”意図で演出をしていたのなら、メロスとセリヌンティウスが抱き合うシーンで『ヘビーローテーション』を流したんじゃないか。その方が観客は大爆笑しただろう。
     さらにAKB48のことを「浮薄」なんて書いてるけれども、言葉の意味を知ってるのかな? で、メロスも浮薄だと言いたいのか?
     馬鹿が馬鹿を無理に誉めようとするから、こういう支離滅裂な文章を書くハメになる。しかもこいつは「初心者に長い文章はウザイ」とか書いてるが、初心者は別に馬鹿じゃないぞ? それに初心者向けマークがあるからって、CoRichは初心者だけに開かれてるわけじゃあるまい。それともCoRichに登録している人間は自分以外はみんな初心者だとでも言いたいのか?
     日ごろから他人を無意識のうちに馬鹿にしているから、長い文章を書くと、ボロを出すんだよな。もちろんこれからもどんどん長い文章を書いて、彼には底抜けの馬鹿をもっともっと晒してほしい。それが福岡のエンゲキ村の惨状が“いつまでも続く”ことを、彼ら自身の発言が証明することになるからである。
  • 満足度

    自分たちが何をしているかが見えているか
    舞台はコロシアムのような形式で、四方の上から見下ろすようになっている。
    セットも起伏があるもので期待してしまった。
    しかし、期待は悪い方に裏切られた。

    舞台が始まると役者たちはおかしな喋り方をする。1人以外は「老人」という設定らしいが、どんなシーンでも(老人でないときも)普通の喋り方はほぼしない。
    最初は意図があるのかと見守っていたが、どうにもそうは思えない。

    せっかくの面白いセットも使いこなせていない。

    それから、私が感じた大きなマイナスポイントは、非常に観辛い、ということとがひとつ。
    上から見下ろす形のため、前に手すりがあるが、これがちょうど視界を塞ぐ形になっているし、ずっと頭を下げたまま見ることになって首が痛くなった。
    照明も上から見られるライティングをあまり考えていたとは思えない。

    もうひとつのマイナスは面白くないということ。
    面白くないでは御幣を生むが、「走れメロス」を知っている人間にはただの朗読と変わらないものになっているし、知らない人間(子供等)にはよく分からないだろうと思えた。

    どの解釈を取ろうとかまわないが、作品解釈も浅くつまらなく感じた。

    実際、客席に数人いた子供たちが笑ったのは、役者がおかしな動きをした時と裸になった時くらいだった。


    先ほど、「意図がない」の旨書いたが、語弊があると思うのでもう少し書くと、意図はあるのだろうがそれが思いつきでしかない。ということを言いたかったのだ。
    「こんな演出をしたらどうだろう」「こんな表現をしてみたい」それは大いに結構だと思うが、それをすることで作品にどんな影響があるのか、観客にどう見えるのかをきちんと考えてない。考えが足りな過ぎるのだ。

このページのQRコードです。

拡大