遊園地再生事業団『トータル・リビング 1986-2011』 公演情報 遊園地再生事業団『トータル・リビング 1986-2011』」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.7
1-8件 / 8件中
  • 拝見しました。
    2011/10/22

  • 満足度★★★★

    欠落の軌跡と失速感
    1986年、日本ではアイドルの岡田有希子が飛び降り自殺し、海外ではチェルノブイリの原発事故が起きた。

    15年前から現在に至るまで、「欠落」の軌跡を追う不条理劇。

    上演時間が長時間ということで、二の足を踏みかけたが、まったく時間を感じさせず、あっというまの2時間30分だった。

    観てよかったと思う。

    劇を観ながらも、自分の人生を振り返り、特にあの狂おしいまでのバブルという時代の違和感に想いを馳せた。

    3.11以降、繁栄を尊び、走り続けてきた日本を振り返るなかで、バブルの時代を再検証しようという動きが評論や文学、演劇の分野でなされている。

    この作品もそのひとつだろうか。

    世代によって受け止め方や評価が分かれるような気がした。

    ある若い演劇人は「まったく無意味な作品」と切り捨てていたが、1986年の時点で幼年期だった人には共感しにくいかもしれない。

    ネタバレBOX

    人々はビルから飛び降りるのだが、また、ビルへよじのぼってきて、会話を始める。

    夢の中の出来事のようだ。

    「なぜ、アイドルの自殺なのか」と思ったが、人気の絶頂期に、まさに失速して死を選んだ人気アイドルの事件は、衝撃的だった。

    人がうらやむような華やかな芸能界で彼女は「欠落」を感じていたのかもしれない

    当時、岡田さんの周辺をよく知る人が私の上司だったので、事件直後は職場でもその話題が出たので印象に残っている事件だ。

    超多忙で失速を許されない職場で、休憩時間に彼女の死について話すとき、私たちは少し我に返っていたように思う。

    彼女はバブルを迎える前に失速し、死んでいった。

    チェルノブイリの事故はショッキングではあったが、どこか他人事だった。

    劇中でも、「いつのまにか忘れ去られた」と言われている。

    そのあとにやってきたバブルの時代。

    「インクスティック、タンゴ、朝まで踊ったわ」という女子高校生の述懐に、ウォーターフロントに次々現れた蜃気楼のような建築世界を思い出していた。もっとも、これらは仕事で取材したが、当時、私自身は遊ぶ暇はなかったが。

    ビンゴゲームの場面が出てくるが、これもバブル時になぜか流行り、違和感を持った記憶があるが、それを描くことで、意味不明の熱狂が再現される。

    ビンゴゲームも台紙に穴をあけていくのだが、この「穴」に欠落感を見出すことができよう。

    劇中のビンゴゲームの商品は、それだけでは使えない欠落したものばかり。

    その欠落感に気づかず、「物質の繁栄」を私たちはありがたがっていたのかもしれない。

    最後の商品、空中高く吊られた大きな箱は、棺のようでもあり、パンドラの箱だろうか。

    シャツの欠落した片袖をつけるよう注文する女性のことを「忘却の灯台守」と名乗る女がすぐに忘れてしまう。

    記憶の欠落である。

    「欠落」の暗喩に、女性たちが椅子を触りながら、同種類のシャンプーとリンスを同時に使い始めるとシャンプーが先なくなり、余ったリンスはお父さんが別のシャンプーと対で使うという

    話をし、「お母さんが使うのはちょっと高級なロクシタン・・・」というところで止まる。

    個人的には、へぇーと思いながら観ていた。

    最後に安全な南の島に逃げてきたと思った学者が実は東北の震災で死んでいた、という展開になる。

    安息の土地など、私たちにはもう残されていないということか。

    失速し、ビルから飛び降り、ビルの屋上でまた語り合う欠落した記憶の中の人々。

    彼らと同様、欠落した記憶の中で、私たちは生きているのか、死んでいるの

    か、そして、これからどこへ行こうとしているのか。

    深いところの記憶が呼び覚まされたような作品となった。

  • 満足度★★★★★

    ただなぜみんな80年代について語りたがるんだろうか?
    「古い」と言われると、確かにその通りなのですが、
    それは80年代的(に見える)作家さんに共通する感覚のような気もします・・。

    ただ、それはそれで現在もっとも影響のあると思われる方々が
    80年代の影を引きずっている(ように見える)ので、
    自分としては、リアルタイムで進行している
    芸術文化を紐解くうえでの一般教養として
    80年代を学ぶということには一定の理解を示しているつもりです。

    ちなみに今回は、2011年とバブルの時代とを結びつける、
    というものでしたが、舞台の上に出てくる若い人たちが
    「70年代よりは80年代」
    という向きで80年代に向かう、というのがちょっと、
    自分には違和感が残りました・・。

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    まぁ、自分の興味が逆に昭和初期~1960年代
    (あくまで大雑把なくくりとして)あたりまでなので、
    自分のあまり興味がない時代同士で比べられてもなぁ・・という気がしたのは確かです。
    ・・そもそもバブルの空気は両親が完全にスルーしていた大気だったので、
    自分の家の中にはかつてそうした時代が存在したという実感もないですが・・。

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    それよりかはいっそ役者の方々が40代以上の格好をして、
    80年代を回顧する、とした方が分かりやすいのかな、と思ってしまいます。

    確かに80年代に興味をもつ若い人は現在も存在するんでしょうけど、
    彼らを先導役にして舞台を進めるのはどうかな・・と思ったりもします。

    自分たちのすぐ上の世代の方々が過ごした時代なので、
    興味はあるんでしょうけど、
    そのさらに上には、もっとシンプル(素朴)で豊潤で、
    悲劇的でドラマチック(時に深い憂鬱が支配した・・)だった数多くの時代があったので、
    80年代は80年代に生きた人びとに結び付けてほしかった・・
    というのが正直な感想です。

    若い人には若い人の時代があるので、
    過去と現代とを結びつけるのは
    その時代に生きた人々の役目であるようについ感じてしまうのです・・

    また、そういうところ(見た目だけで先入観がうまれてしまうところ)が
    舞台の怖いところでもありますが・・

    逆に若い人に現在と過去とを結びつけさせるなら、
    のびのびと戦国時代あたりまでさかのぼって
    好き勝手やってほしいものです・・。

    もし、この舞台が、40代以上のカッコをした人たち
    (回想も含め、出来ればすべて本当の40代以上で)
    で構成されていれば・・印象はだいぶ変わるように思います。

    自分は、とても素敵な舞台だなぁとは思ったのですが、
    どうしてもそのあたりが引っかかってしまいました(苦笑

  • 満足度★★★★★

    素晴らしさをうまく言語化できない
    不明なもやもやが残ったままだけれど、自分自身の知識と想像力を超えたところにある何かがこの作品に格別の強度を与えている気がしました。再演されることを切に願います。

  • 満足度

    伝わってくるものが殆ど無い
    表現の仕方がもう時代遅れになっている。
    役者のレベルも低い。
    非常に退屈だった。

  • 満足度★★★

    欠落と忘却
    欠落と忘却を繰り返す人間の姿が、声高なメッセージとしてではなく、普通の人々の日常の言葉として描かれ、シリアスなテーマを扱いながらも飄々とした脱力的な笑いもあり、浮遊感のある不思議な雰囲気のある作品でした。2回の10分休憩を含めて計150分と長めの作品でしたが、各パートの長さが丁度良くて、あまり座り心地が良いとは言えない椅子での鑑賞でも疲れを感じませんでした。

    奥に手摺壁があり、両脇に高い壁がそびえ立つ間に、真っ白な空間に椅子やテーブル、日常的な小物が配置され、舞台奥上空には何も描かれていない巨大な屋上看板という、ビルの屋上をミニマルに模した空間の中で、3.11を経験した2011年と、バブルで浮足立ち、チェルノブイリ原発事故やアイドルの飛び降り自殺があった1986年が交錯する物語でした。「忘却の灯台守」と「欠落の女」いう名の謎めいた2人の同じ会話が何度も繰り返され、25年間経っても変わらない、人の忘れっぽさが描かれていました。日常的な物と言葉で構成された最後のシーンは、そのレイアウトの仕方が良くて、とても美しかったです。
    場面が変わっても変化しないシンプルなセットや、現在のシーンの次に過去を再現するシーンが続く構成などから能の作品を連想しました。

    スタンドにセットされていたり、役者が持ち歩く複数のビデオカメラによって撮られるリアルタイムの映像が真っ白な看板に映し出され、目の前の舞台で演じている姿よりむしろ映像の中の姿にリアリティが感じられて、メディアに侵食された現代について考えさせれられました。役者がカメラを持つことによって、舞台を収録した映像では見られないような、登場人物の視点でのフレーミングが可能になり、それを活かしたちょっとユーモラスなアングルの画作りがされていたのが印象に残りました。

  • 満足度★★★★★

    「記憶」だけがそこには残った
    「3.11」以後を見据えた作品、という事なので正直少し構えていたけど
    「原発」も絡んでますます混乱する中、よくここまで冷静な視線を
    保てた、と素直に凄いと思う。そして、非常に勇気と真摯さに溢れた
    舞台だったと感じます。

    ネタバレBOX

    遠く離れたチェルノブイリでの爆発事故を尻目に狂騒の最中にある
    「1986年」、

    同じく東京にとっては遠く離れていることを認めざるを得ない、「北での
    3.11」の余波もまだ少し生々しい「2011年」、

    両者の間には既に25年の歳月が横たわっているというのに、一人の
    少女の飛び降り自殺によって、一気に編集される、結び付けられる。

    三部に分かれる物語の舞台はそれぞれ屋上、パーティー会場、
    そしてどこか遠くの南の島と境目を意識しない位にまで移り変わっていくが
    どこか窮屈な、隔離感のようなものから逃れられない。
    この印象は左右を天井にまで届く、デ・キリコの絵にでも出てきそうな、
    無機質な壁面が与えている部分が大きく、舞台美術の貢献している
    部分は、今作は一層大きいと思う。

    役柄がはっきりしない登場人物の中で、終始一貫した名前を持つ者が
    二人います。「欠落の女」と「忘却の灯台守」。

    どの時代でも、どの場面でも「欠落の女」は自身の抱える欠落を
    埋めて貰いに「忘却の灯台守」を訪れるが、その度ごとに「忘却の
    灯台守」は彼女に出会った事すら忘れ果てていく。永遠に繰り返される過程。

    極端な話、「チェルノブイリ」も「3.11」も、そして「原発」も長い
    年月の中では特別な事ではなく、むしろこうした事から生まれる
    「欠落」に誰も目を向けず、無視し続ける、忘れ去る構造が、
    本作では取り上げられています。見ている射程が遠く果てまで
    延びているな、という印象があり、力強く感じます。

    この作品、テーマは深刻だけど、決して「告発」「断罪」「批判」に
    陥らないのは、作・演出の宮沢章夫氏本人がこの問題を、限りなく
    自分に近しいものとして捉えているからでしょう。

    そう、80年代と宮沢氏は切っても切り離せない関係にあり、氏には
    80年代を取り扱った本もあります。

    劇中、登場人物が当時の風俗を叫びながら踊り狂うシーンが
    あるのですが、80年代、もしかしたらそれ以前から見えない形で
    続いている、「欠落」「忘却」の問題を、自身で顧みて、反省する
    部分があったのかもしれません。その意味では、精神的自伝の
    要素もあるのかもしれない。

    逆に、作者と作品が結構近いという事は容易に読みとれるので、
    外部の思想・批評サイドでは本作品を巡って、色々といわれる事と
    思います。その事も含めて、潔くて両足で立っている、強度の高い
    作品だな、と思います。

    いつまで経っても埋める事の出来ない「欠落」、余儀なくされる「忘却」、
    この二つは物語の最後に、手を組んで感動的な結実をもたらします。

    ラストは感動的なシーンなので、敢えて詳しく書かないけど、全くの
    白の空間に、モノが並べられ(アレはもしかして被災地の…?)、皆が
    その後背景に立ち並ぶ場面の清浄さには迫力があります。

    「欠落」「忘却」が互いを埋め合わせた時、そこに残るのは確かな「記憶」。
    「記憶」は「記録」にも通じるので、誰かが連綿とある事実を忘れない、と
    いう事自体が、それだけで救いになるという、美しい物語でした。

    観ていて、昨年のNODA・MAP『ザ・キャラクター』と社会に対する
    問題意識の点で相当近しい位置にあると感じました。野田・宮沢両氏は、
    最近の社会について対談し、大いに共鳴する部分が大だったので
    影響を受けていることも考えられます。
  • 満足度★★★

    非常に有意義な作品であることは判るものの
    軽薄で気楽な1986年と震災前後の2011年を行き来する登場人物たち。ちょっと村上春樹的な(世界の終わりとハードボイルドワンダーランドや海辺のカフカ的)世界観といった風。
    無機質で凝った意匠の舞台と、国籍不明なデザインの衣装、それに幾分現実味が削がれた物語によって、妙な浮遊感を持った芝居になっていた。(以下、ネタバレ)

    ネタバレBOX

    個人的にはバブル期のバカ騒ぎと高揚感はもっとクドく描いてもよかったんじゃないかと思うし、震災前後はもっと深く切り込んでもいいんじゃないの?と思った。震災後7ヶ月という時期には、このくらいの距離感で描くのが適切だという判断なのか。

    最後のシックスセンス的なオチ(?)も、本当に必要なのか?その直後の3月11日前後の言葉の「記述」を読み上げる「リアルな風景」とシックスセンスが僕の中で噛み合わなかった。つい最近起こった悲惨な事故を物語に取り込むのはものすごく大変なことだとは思うけど、なんか釈然としないものが残った。

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