遊園地再生事業団『トータル・リビング 1986-2011』 公演情報 フェスティバル/トーキョー実行委員会「遊園地再生事業団『トータル・リビング 1986-2011』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    「記憶」だけがそこには残った
    「3.11」以後を見据えた作品、という事なので正直少し構えていたけど
    「原発」も絡んでますます混乱する中、よくここまで冷静な視線を
    保てた、と素直に凄いと思う。そして、非常に勇気と真摯さに溢れた
    舞台だったと感じます。

    ネタバレBOX

    遠く離れたチェルノブイリでの爆発事故を尻目に狂騒の最中にある
    「1986年」、

    同じく東京にとっては遠く離れていることを認めざるを得ない、「北での
    3.11」の余波もまだ少し生々しい「2011年」、

    両者の間には既に25年の歳月が横たわっているというのに、一人の
    少女の飛び降り自殺によって、一気に編集される、結び付けられる。

    三部に分かれる物語の舞台はそれぞれ屋上、パーティー会場、
    そしてどこか遠くの南の島と境目を意識しない位にまで移り変わっていくが
    どこか窮屈な、隔離感のようなものから逃れられない。
    この印象は左右を天井にまで届く、デ・キリコの絵にでも出てきそうな、
    無機質な壁面が与えている部分が大きく、舞台美術の貢献している
    部分は、今作は一層大きいと思う。

    役柄がはっきりしない登場人物の中で、終始一貫した名前を持つ者が
    二人います。「欠落の女」と「忘却の灯台守」。

    どの時代でも、どの場面でも「欠落の女」は自身の抱える欠落を
    埋めて貰いに「忘却の灯台守」を訪れるが、その度ごとに「忘却の
    灯台守」は彼女に出会った事すら忘れ果てていく。永遠に繰り返される過程。

    極端な話、「チェルノブイリ」も「3.11」も、そして「原発」も長い
    年月の中では特別な事ではなく、むしろこうした事から生まれる
    「欠落」に誰も目を向けず、無視し続ける、忘れ去る構造が、
    本作では取り上げられています。見ている射程が遠く果てまで
    延びているな、という印象があり、力強く感じます。

    この作品、テーマは深刻だけど、決して「告発」「断罪」「批判」に
    陥らないのは、作・演出の宮沢章夫氏本人がこの問題を、限りなく
    自分に近しいものとして捉えているからでしょう。

    そう、80年代と宮沢氏は切っても切り離せない関係にあり、氏には
    80年代を取り扱った本もあります。

    劇中、登場人物が当時の風俗を叫びながら踊り狂うシーンが
    あるのですが、80年代、もしかしたらそれ以前から見えない形で
    続いている、「欠落」「忘却」の問題を、自身で顧みて、反省する
    部分があったのかもしれません。その意味では、精神的自伝の
    要素もあるのかもしれない。

    逆に、作者と作品が結構近いという事は容易に読みとれるので、
    外部の思想・批評サイドでは本作品を巡って、色々といわれる事と
    思います。その事も含めて、潔くて両足で立っている、強度の高い
    作品だな、と思います。

    いつまで経っても埋める事の出来ない「欠落」、余儀なくされる「忘却」、
    この二つは物語の最後に、手を組んで感動的な結実をもたらします。

    ラストは感動的なシーンなので、敢えて詳しく書かないけど、全くの
    白の空間に、モノが並べられ(アレはもしかして被災地の…?)、皆が
    その後背景に立ち並ぶ場面の清浄さには迫力があります。

    「欠落」「忘却」が互いを埋め合わせた時、そこに残るのは確かな「記憶」。
    「記憶」は「記録」にも通じるので、誰かが連綿とある事実を忘れない、と
    いう事自体が、それだけで救いになるという、美しい物語でした。

    観ていて、昨年のNODA・MAP『ザ・キャラクター』と社会に対する
    問題意識の点で相当近しい位置にあると感じました。野田・宮沢両氏は、
    最近の社会について対談し、大いに共鳴する部分が大だったので
    影響を受けていることも考えられます。

    0

    2011/10/18 06:34

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大