14+ 公演情報 14+」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 2.7
1-9件 / 9件中
  • 自分が14歳に戻ってしまう・・・
    客席がL字型。(というか。。。変形)
    で、ちょうどラストのいいところが、アキツ先生(雪丸さん)が、まったく見えず!

    「く、くやしい~~~~、もう1回観たい」と思いました。
    自分にとっては「お金返せ!!」じゃなかったのが、不思議。ただ、その理由を言葉にできないのは、私の勉強不足なんだろうなぁ。

    ネタバレBOX

    会場に入ると、客席が変な形。でも、満席なので、誘導されるがままに・・・f^^;

    セットは、学校の教室。その中に、アシを切られて高さがでこぼこの机がたくさん。教室の後ろが、やたら広いです。何もないのに広いです。
    人物が登場すると、うす暗い光の感じがなんとなく、
    大橋可也&ダンサーズ「ダウンワードスパイラル」を思い出しました。
    自分の中で、警戒心のランプがつきました。

    なんだかわからない警戒心の中、先生たちが出てきます。
    持ち物検査を行うのですが、机の上に乗るんですね。

    殺意とまではいませんが、嫌悪感を通り越して、憎悪みたいなもののスイッチが入ったのがわかりました。
    人の机を土足で踏む、その無神経さに。
    持ち物検査については、正統性を主張するのかもしれません。
    でも、それが「私の小さな領域」を侵すことの理由にはならないはずなのです。
    学生時代の理不尽なことを思い出して、観ながら不快な感情がぞわぞわと上がってきてました。

    ジャージ姿のサイトウ先生が、自分の中では象徴的でした。
    友人の教師から「いまどきはジャージなんて着れない。だらしないって苦情がくるから」という話を聞いていたので、逆に
    古い価値観の象徴なのかなぁ?

    サイトウ先生だけ、ジャージで方言(博多弁とは言いたくない)なのが、
    新しい価値観と既成の古い価値観のぶつかりあい
    みたいな気がしました。

    なんとなく、この学校は
    古くからの住民と、新しい住民の間で
    地域としての生活スタイルや、価値観がバラバラ
    なんじゃないかなー。と連想しました。

    ごく個人的な思い出から、かもしれないけど
    見てる自分が「14歳」の生徒の気持ちで、
    舞台上の先生たちを嘲笑ってる・・・

    そんなトワイライトゾーンみたいな錯覚に陥りました。
    ・・・自分で怖かったです。

    「十四歳の国」というタイトルから「14+」というタイトルに変えたのも
    演出の1つなのだろうと思います。
    作者がドラマドクターに入っているにもかかわらず、大胆なタイトル変更
    って、宮沢さんの器が大きいんだろうなぁ、たぶん。

    リアル14歳の人が、この作品見たらどういう感想を持つのかも気になります。
    昭和50~60年代の14歳だった人とは、全然違う感想じゃないかなぁ。。。
  • 満足度

    戯曲に何も付け加えていない
    宮沢章夫の作品は、戯曲と演出とが分かちがたく結びついているものが多い。その作品にはそれぞれに、表現上の狙いがある。
    「14歳の国」は、高校演劇等での上演のためのテキストとして書かれたために、戯曲と演出の結びつきは比較的弱く、演出に任される範囲が比較的広い。
    表現上の狙いについて作者は、「十四歳を劇にしようと思った。けれどけっして十四歳の人物をそこに登場させてはいけない」と、はっきりと書いている。
    そう、ここに出てくる先生たちはデスマスクの型を取るときの石膏のようなもので、デスマスクそのものである十四歳を髣髴とさせようとしてこそ、この戯曲の上演の意味がある。

    そのためにはどうすればよいかについて、作者はたくさんのヒントを語っている。
    そのなかでも、演出については「流れ」、演技については「やわらかな身体」という重要なキーワードを提示している。
    こんどの上演に当たっては、それらのキーワードがちゃんと理解されておらず、舞台でもまったく意識して表現されてはいなかった。

    「流れ」というのは、「台詞の背後に流れる人の意識」と説明される。コンテクストとも言い換えることができるが、その摺り合わせがまったくといっていいほどできていない。
    「無駄なことばかりしていたい」第一場で、何回も触れられる話題が、初回と2回目3回目のときとでは、その語り方が変わることで、人間関係の変化を表現することができるはずだが、そのようなきめ細かな演出や演技は、ここにはない。
    結果として、状況の変化にメリハリがなくて舞台が立ち上がらず、人物像があいまいなままになってしまうのは、摺り合わせ以前の、演出家による戯曲の読み解きがまったくできていないためである。

    「やわらかな身体」とは、「何かに押し込もうとしていない身体」のことと説明される。
    その「何か」とは、「戯曲の言葉」や「演出をする人の意図」など。小劇場以降の演技では新劇と違って、何かに押し込まない身体性を目指してきた。
    この劇団の俳優に限ったことではなく、福岡の大部分の俳優の演技は、新劇の身体性でもなく小劇場の身体性でもなく現代口語演劇の身体性でもないという、我流の身体性に依っており、時代によって変わる身体性や演技への認識は薄い。
    そのような弱点が、この舞台での演技にも非常に端的に顕れていた。

    そして、「十四歳」のイメージが、わたしの中にたち現れることは、ついになかった。

    この舞台が戯曲も含めての完全なオリジナルならば、当然ながらその評価はまったく変わってくる。
    既存戯曲に何かを付け加えたかということで言えば、戯曲を押し広げるような表現を何も付け加え得ていないし、戯曲の理解さえも不十分であることから、このような評価(星1つ)になるのはやむをえない。

    ネタバレBOX

    この舞台の京さんの感想に、さとさんは次のようにコメントしました。

    「こんにちは、どこのどなたか存じませんが、会場で多分この方かなと思ったので、是非お声かけすればよかったですね。というか、うちはこんな感じの作品なので。今後も恐らく見に来て頂いてもお気に召さないと思います。おかげさまで、公演はリピーターや口コミで連日満席で無事終了いたしました。ご来場誠にありがとうございました。」

    このさとさんのコメントに対して、わたしは次のようにコメントしました。

    「京さんの感想に対するさとさんのコメントについては、多くの問題をはらんでおり看過することができないので、コメントさせていただきます。

    ごく単純に考えると、表現者の成長のためには、きびしい意見をくれる観客ほど大事にすべきではないでしょうか。なぜそういう観客の意見に耳を傾けないのか、理解に苦しみます。
    CoRichの感想に京さんのものがなかったと仮定したらどうでしょう。とても実際の舞台を反映した感想だとは言えません。京さんの感想でかろうじてバランスを取っているといえます。そんな感想に対して感謝してこそ然るべきで、毒づくなどもってのほかだと思います。

    京さんのコメントには作品のレベルアップのヒントがあります。あの作品が完璧だと思われていないのなら、その意見に耳を傾ける価値はあると思います。いやな意見にも耳を塞いでしまわれないほうがいいと思います。そのうえで必要なら、きちんとコミュニケーションをとるべきではないでしょうか。

    それをさとさんはヒステリックに、「観に来なくてもいい」と切って捨てました。なんという傲慢さでしょう。決して口にしてはいけない言葉ではありませんか。まともな一般観客は必要ない、とも読めますが、そう本気で考えてあるとしたら気狂い沙汰です。一般観客を侮辱しています。憤りを禁じえません。

    内容に関して言えば、京さんが言っているのは作品の「レベル」の問題です。それをさとさんは作品の「傾向」の問題だと意図的に曲解して、京さんの意見を排除しています。ここはちゃんと、「レベル」の問題として捉えるべきです。

    さとさんには、以上申し述べたようなところを熟考されて、最低でも京さんの感想へのフォローをきちんとやられるべきです。」

    京さんのコメントに対するさとさんのフォローがありませんので、「レベル」の問題をわかっていただくために、やむを得ずこの感想を書きました。

    さとさんのコメントには重大な問題を含んでいることを、再度強調しておきます。
  • 満足度★★

    作り手の精神年齢が14歳
     宮沢章夫『14歳の国』を今なぜ上演しなければならないか、もちろんそこに意義はあるわけですが、それが観客に伝わる形で再構築されるまでには至っていないように思えます。
     原作は既に12年も前の作品で、その背景には神戸連続殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)があり、劇中でもそれを暗示する単語がいくつかつぶやかれるのですが、現代の「14歳」を中心としたティーンエイジャーの観客は、事件のことは殆ど覚えていないでしょう。彼らにとってもこの事件が「他人事ではない」と感じ取ってもらうためには、原作戯曲を現代の状況に合わせて、大胆に脚色、加筆する必要があったと思います。そうしなければ、この物語はただの「持ち物検査」の是非を問う程度のものとしか認識されない危険があります。
     いえ、大人ですら単純な教育問題を扱った物語としか受け取れていない様子を見ると、残念ながら今回の演出は殆ど失敗していると言わざるを得ません。一見、高い評価を受けているように見えますが、いずれの感想も原作戯曲のごく表層的な部分しか捉えていないのは一目瞭然で、そうならないことを演出は目指すべきであったのに、その視点が決定的に欠けていたことが残念でなりません。
     

    ネタバレBOX

     そもそも『14歳の国』が提起していた問題は、持ち物検査によるプライバシー侵害の問題でもなければ、現代教育のあり方の問題だけに留まるものではありません。ましてや酒鬼薔薇聖斗の心の闇を探ることでもありません。教師と生徒、親と子、大人と子ども、人と人、その関わり方そのものに確たるものを見出せなくなっている現代、それを「教室」という空間によって象徴させようとしたものでしょう。しかし、宮沢章夫の原作は、決して普遍性を持ったものではなく、あの1997年の事件を想起する形でなければ観客への訴求力を持たない、極めて基盤の不安定なものです。
     教師たちがそこにはいない生徒たちの問題について語り合う設定は、すでに山田太一が『教員室』で描いています。時代は「校内暴力」が問題化していた頃で、教師たちは、暗闇からガラスを割って投げこまれる石に、自分たちの力の及ばぬ「何か」を感じ取って、恐怖に怯えていました。教師たちは自分たちが「人間」だと信じている。しかし、窓の外にいる「彼ら」は得体の知れない「闇」そのものでした。
     しかし、宮沢章夫が描く教師たちは、既に人間らしい心を持たなくなった、酒鬼薔薇聖斗と同じ「透明な存在」です。誰もが神戸殺傷事件の悲惨さに怯えていた12年前、実は「彼」を生み出したものが、この社会そのものではないのか、「彼」は我々の「写し絵」なのではないか、そこまで踏み込んで書かれたのが『14歳の国』という戯曲であろう、と思われます。タイトルの「14歳の国」とは、14歳の子供たちにとっての国という意味ではなく、「この国の全ての人間が14歳である」という、そこまで冷徹に見通した上で付けられたものではないでしょうか。

     事件当時は、16歳未満の未成年は刑事罰には問われないことになっていました。14歳であった「彼」の責任能力を認めないということは、「彼」はまだ「人間として認められていなかった」ということです。精神鑑定によって「問題」が指摘されたことも、「彼」の非人間性を証明しているように思えました。
     しかし、「彼」を「特殊な存在」と決めつけて、彼の「狂気」だけに責任を負わせようとしていた「大人たち」。つまり「我々」ですが、我々もまた「狂っていたのではないか」。即ち、生徒も同僚の教師の目も盗んで持ち物検査を行わねばならないと思いこんでいた「狂人」は、我々自身なのです。
     「子どもの持ち物検査を行わなければならないのではないか」、そう考えるのが「正しい」と誰もが思いこんでいた時代、あの1997年だったからこそ、この物語は、私たち一人一人の心に、「自分もまた狂っているのだ」という事実を、冷水を浴びせるかのように感じさせてくれていたのです。

     しかし、この戯曲を、現在そのまま上演しても、それだけの効果は生まれません。ここに感想を書き込んでいる誰一人として、神戸の事件に触れていないことが、演出の不備を証明しています。何となく事件のことを思い浮かべた人もいるかもしれませんが、この戯曲を理解する「重要な要素」だとまでは思い至らなかった、それどころか、劇中の年号を聞き漏らして、これが1997年を舞台にしていることにすら気付かなかった人もいるかもしれません。
     それは全て、戯曲の改訂と適切な演出を行わなかった演出家の責任です。

     一応、『14+』には大きく三つの特徴的な演出が行われてはいます。
     一つは教師の一人を女性にしたこと。二つ目は、教師の一人に博多弁を喋らせたこと。けれどもこの二つは戯曲を現代化、現実化することにたいして寄与していません。はっきり言えばしてもしなくてもいい演出です。
     一番大きな演出は、登場人物たちがいつも舞台の側に「人形」のように立っていて、出番が来た時だけ舞台に上がるというものでしたが、これは彼らの本質が「ぬけがら」であることを表現しようとしたものか。それにしてはたまに舞台の袖に隠れて道具を取ってくることもあって、この「人形演出」が徹底していません。「何となくの雰囲気づくり」以上の効果を生み出してはいないのです。

     6年前には佐世保で少女による同級生殺傷事件も起きました。漫画やゲームを模倣するかのように未成年の殺人が行われ、ものごとを短絡的に捉えたい人々は全ての責任をそういった「非実在」の作品に押しつけようとしますが、現実感を失い、透明な存在となっていたのは、そもそも「私たち大人」ではないのか。私たちがそもそもこれらの事件をすぐに「忘れ去っている」ことが、「狂っている」ことの証拠なのではないか。
     私たちは、どうやったって「正常」にはなれないのです。では「狂った我々はどうやって生きていけばいいのか、ただ最後の崩壊を待つしかないのか」。
     現代に『14歳の国』を再生する意味があるとすれば、そこまで描いてこそだと思います。時代を現代に移し、新たに起こった事件、新たに起こりうる事件、それらを付け加え、「まだ何も終わってはいない」ことを示さなければ、これは単に教師の狂気を描いただけの、あるいはただの教育問題を扱っただけのものにしか受け取られないでしょう。ましてや現代は、「14歳以上」が刑事罰の対象となり、12歳程度でも少年院送致が可能になるように、少年法が改定されているのですから。
     ついでに言えば、劇中にあるような「生徒の目を盗んだ持ち物検査」などは、現代では殆ど行われていないでしょう。保護者に許可を得た上での一斉検査もごく少数になっていると思われます。その意味でも、この劇の設定は現代に合致していません。教師たちの存在、台詞が既に「うそっぽい」ので、彼らの狂気もリアリティを欠いた形だけのものに留まってしまっているのです。


     作品についての感想は以上で終わりですが、演出家による、一部の観客の感想に対する感情的な反発については残念としか言いようがありません。演出家が「裸の王様」になっていて、周囲の誰も「王様は裸だ」と指摘してもらえない、そういう可哀想な状況になっていることが露わになってしまいました。
     批判的な意見に対して、シンパらしい観客が、感想も書かずに星だけ五つ付けているのも頂けない。
     こういうことは「やっちゃいけないことだ」と叱ってあげる大人が、福岡の演劇界にはいない、このことが一番の問題であるようです。
    (この最後の感想は演出家氏と観客に対してのもので、作品評価の星には反映させていません)
  • 満足度★★★★

    机が印象的
    前に見たときのお芝居とは全然違っていました
    でも不思議で面白かったです

  • 満足度★★★★★

    大変満足しました
    投稿したのに、されていなかったのでもう一度かきます!

    装置も演出も役者もよかった。
    正常な教師たちが見せる一瞬の狂気が恐かったです。
    今後も期待してます。

  • 満足度

    またか・・・、という感じ。
    会場に入って、舞台の設定はいい感じ。
    中央に赤く照らされた、切り取った机がたくさんの舞台。
    役者たちの登場も印象的。

    しかし、他はほとんど評価出来ない。

    生徒達が体育の授業中、こっそりと持ち物検査をする教師たち。
    話はこれだけ。
    それ以上でも以下でもない。

    これを延々1時間30分。拷問に近い。

    教師たちはそれっぽい格好をしているだけで全く教師らしくない。

    何より描きたいものがハッキリしない。

    登場して来ない不在の14歳たちを描きたいのか、あくまで教師たちを主体としたいのか・・・。

    14歳を浮き彫りにしたいならば、教師たちが揃いも揃って変人(むしろ頭がおかしい)では、客の不安感を煽ったりは出来ないだろう。
    地に足の着いた人物たち、常識人だったはずの教師たちの狂気が段々と露になる・・・。といった展開の方が14歳の存在も際立ったろう。
    これでは14歳は本当に必要が無いただの記号だ。


    ドラマドクターがついてこの程度か。と思ったが、作品自体がドラマドクターによるものならどうしようもないか。



    今回の福岡演劇フェスは不作だ。

    何も起こらない話、そのなかの出来事を淡々と描く、といった内容が多い気がするが、それができるのは、それを表現できるだけの力量のある集団だけだろう。
    見せるべきポイント、演劇的表現や掘り下げをしていないのに、何を勘違いしたのか、自分たちはやれるという気になっているところばかり。


  • 満足度★★★

    完成度の高い作品だったと思う。
    一定の完成度にいたった作品だったと思う。
    1800-2000円分のクオリティはあるとおもう。

    ネタバレBOX

    個人的な感想いろいろ。
    (まだまとまってない。)

    ・神戸の事件の時代性に支えられた部分をどうカバーしたのか
    ・学校教師の身体性をいまいち感じられなかった。

    (アフタートークにあったやりとり)
    ・荷物の扱いが雑という意見については、ある根拠によりそうは思わなかった。
    ・演出プランをDDの指摘により、あやまっていたと認識し修正した
    ・DDの指摘により、キャストを変更した。
  • 悪いことはしていない
    人間はみんなそう思いながら生きているのかな。
    いいとか悪いとか常識とか非常識とか。
    本当は昼の教室なのに真夜中のように暗かったのが
    暗示的だった。
    アフタートークの感想を聞きたい。

  • 見るなら
    ホールに入って正面の客席に座るべし。

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