満足度★
戯曲に何も付け加えていない
宮沢章夫の作品は、戯曲と演出とが分かちがたく結びついているものが多い。その作品にはそれぞれに、表現上の狙いがある。
「14歳の国」は、高校演劇等での上演のためのテキストとして書かれたために、戯曲と演出の結びつきは比較的弱く、演出に任される範囲が比較的広い。
表現上の狙いについて作者は、「十四歳を劇にしようと思った。けれどけっして十四歳の人物をそこに登場させてはいけない」と、はっきりと書いている。
そう、ここに出てくる先生たちはデスマスクの型を取るときの石膏のようなもので、デスマスクそのものである十四歳を髣髴とさせようとしてこそ、この戯曲の上演の意味がある。
そのためにはどうすればよいかについて、作者はたくさんのヒントを語っている。
そのなかでも、演出については「流れ」、演技については「やわらかな身体」という重要なキーワードを提示している。
こんどの上演に当たっては、それらのキーワードがちゃんと理解されておらず、舞台でもまったく意識して表現されてはいなかった。
「流れ」というのは、「台詞の背後に流れる人の意識」と説明される。コンテクストとも言い換えることができるが、その摺り合わせがまったくといっていいほどできていない。
「無駄なことばかりしていたい」第一場で、何回も触れられる話題が、初回と2回目3回目のときとでは、その語り方が変わることで、人間関係の変化を表現することができるはずだが、そのようなきめ細かな演出や演技は、ここにはない。
結果として、状況の変化にメリハリがなくて舞台が立ち上がらず、人物像があいまいなままになってしまうのは、摺り合わせ以前の、演出家による戯曲の読み解きがまったくできていないためである。
「やわらかな身体」とは、「何かに押し込もうとしていない身体」のことと説明される。
その「何か」とは、「戯曲の言葉」や「演出をする人の意図」など。小劇場以降の演技では新劇と違って、何かに押し込まない身体性を目指してきた。
この劇団の俳優に限ったことではなく、福岡の大部分の俳優の演技は、新劇の身体性でもなく小劇場の身体性でもなく現代口語演劇の身体性でもないという、我流の身体性に依っており、時代によって変わる身体性や演技への認識は薄い。
そのような弱点が、この舞台での演技にも非常に端的に顕れていた。
そして、「十四歳」のイメージが、わたしの中にたち現れることは、ついになかった。
この舞台が戯曲も含めての完全なオリジナルならば、当然ながらその評価はまったく変わってくる。
既存戯曲に何かを付け加えたかということで言えば、戯曲を押し広げるような表現を何も付け加え得ていないし、戯曲の理解さえも不十分であることから、このような評価(星1つ)になるのはやむをえない。
2010/07/09 02:50
演劇人にあるまじきことをしたということは認識さえもないようですし、不誠実であることにも平気なようですから、これ以上待ってもしかたがないので、「逃げた」とみなして、この件、終息させていただきます。
さとさんのこの不対応で、さとさんが一般観客をバカにしたという事実が残るということを、ちゃんと認識しておいてください。
わたしとしては、後押ししてくれるような一般観客があらわれることを期待していたのですが、世間にはいっぱいいるはずなのに、ここにはいませんでした。そのことが残念です。