舞台芸術まつり!2026春

範宙遊泳

範宙遊泳(東京都)

作品タイトル「われらの血がしょうたい

平均合計点:23.8
丘田ミイ子
河野桃子
曽根千智
深沢祐一
松岡大貴

丘田ミイ子

満足度★★★★

「AI」という題材や設定だけでなく、それによって人間の深部が揺らいだり、輪郭が解けていくような感覚が随所に忍ばされていることの“超”今日性。あまりに「今」に迫り来るストーリーと上演で、11年前の戯曲であることに改めて唸りました。

ネタバレBOX

(作品に)時代が追いついた感というか、身近にある実体を持たない知能や知性、生命が終わってもSNSアカウントなどで人格や経験がデータとして残り続けることなど、手触りある体験なども想起しながら生々しく受け取りました。

失踪した母親が人工知能の家電(ザマと呼ばれている)として現れるという設定もとても引き込まれるもので、ザマとのあらゆる関わりや共存や乖離を、俳優らが複数の役を演じ分けながら魅せる姿もある種では撹乱的な効果を生んでいて、またある種では散らばったピースが揃っていくような実感にも繋がり、奥行きのある観劇となりました。
AI/人工知能は「人間の経験や知能によって学習させられている」だけあって、当然人間の様々な影響を与える。そして、奇しくもそのことに人間らしい寂しさや物悲しさが宿っていて、その情緒をまざまざと伝える目の前の人間、その集結による総合芸術の凄みに圧倒されました。すごく陳腐な表現かもしれないのですが、人間ってすごいな、と。素晴らしくて、恐ろしい、と感じ入りました。

音楽と空間の持つ可能性を引き上げる額田演出の妙も素晴らしく、リクリエーションとして強度の高い仕上がりでした。これはほとんど好みのようなものなのですが、引きの画の美しさに息を飲むような瞬間もあったのですが、やや余白が多いようにも感じられ、欲を言えば、もうちょっとギュッとした空間で観てみたかった、という気持ちも少し残りました。

河野桃子

満足度★★★★

公演前から来場、入場、公演、終演まで全体を通して、情報も上演もガイドもスムーズで洗練されており、充実した観劇でした。

ネタバレBOX

これが2015年の作品かと、その脚本の弾力にまず驚きました。今同じ切り口で新作を書いたらどうなるんだろうという期待と興味はそれとして、なめらかに2026年の上演とした額田大志さんの演出に安心感があります。山本卓卓さんの戯曲はほかの演出家の手により強く叩きあげられる印象があるのですが、今回安定して感じられたのは、俳優をふくめた演出が空間全域に対して筋を通していたからのように思います。
音も、照明も、美術も、空間と姿勢を伸縮させていて、密度があるのに余裕がある、刺激的なのに安定感がありました。音が折り重なり、距離も時間もフラットに飛ばす演出。そこにある4名の身体は、人間を演じていなくも人間臭く、時空を超えても命を感じる。俳優の身体能力の高さと佇まいが力強くありました。
さまざまなセクションが互いに貢献しあい、充実した上演でした。

充実ゆえか、もくじの区切られた脚本構成ゆえか、全編を通して淡々とした進行は、時のない時空を揺蕩っているようでした。それは「ザマあるいはゼロ」の感覚に近いのかもしれません。
そんななか投じられる、後半の「4分の0」による叫び。無限の空間に個の声を投げかける様は数々のSF作品と重なるシーンではありますが、このアナログな叫びは2026年にリアリティを引き連れて響きます。それは大きな衝撃ではなく、私たちはもうこの世界に下半身くらいは浸かっていることを思い出させ、そこに響く叫びは希望と絶望が同居するように感じられました。4分の0役の端さんの、率直であり柔軟な演技にも惹きつけられました。

劇団活動開始から19年。四方に安定感のある上演が頼もしかったです。

曽根千智

満足度★★★★

AIが「身体」を持ち始めた世界で人間はAIをいかに眼差すのか

ネタバレBOX

2026年、AIは現実世界にある学習データを食べ尽くし、フィジカルAIの開発によって現実世界を人間を介さずに認識しようとしている。Siriが登場したときは「人間」を感じて感動したが、Claudeの登場でその感動をもう一度新鮮に味わった人も多いだろう。2015年初演時は黙示録的とも捉えられたであろう本作をこの状況で鑑賞するのは、示唆深いと一定距離を取れるものでは到底なく、圧倒的な不気味さとそれを超えてこようとする人類とAIのあまたある関係可能性への啓発に思えた。
額田さんの演出はどこまでも抑制が効いており、決して感情に没入させてはくれない。拡張する絵文字や音数の少ない音楽は俳優の身体を相対化し、強制的に観客に「見つめる」という行為の不確かさや不安定さを提示してきていた。
俳優の演技体についても、このような抽象テーマでの表現を得意とする力のある俳優によるもので練り上げられていたが、戯曲による構成の厳密さと役柄の匿名性という制約があるゆえに俳優同士の演技による交流が見えづらく、ゆえに上記に書いた抑制の効いた表現相まって、あまりに遠景に物語を遠ざけすぎるシーンが目立ったように思う。ラストシーンの絶叫によりトーンを巻き戻したが、個人的には人間とAIとの関係の揺らぎやそれゆえに生じる人間同士の近すぎる・遠すぎる関係性のバリエーションがもっと見たいと思った。

深沢祐一

満足度★★★

 「人工知能が抱える孤独」

 山本卓卓が作・演出した2015年の作品の再演である。今回は演出を額田大志が担当し、一部出演者を入れ替えての上演となった。

ネタバレBOX

 開演すると舞台上のスクリーンに断片的に「は」「る」「春」「よ」「夜」「女」などと文字が映し出され、やがて「『春の夜』『女性』『失踪』クリック」と投射される。おそらくコンピュータの学習とインターネットのキーワード検索を可視化したのかと見当をつけながら観続けていくうち、「われらの血がしょうたい」というSNS投稿を残して61歳の女性が失踪した事実が観客に知らされる。やがてバッハの無伴奏チェロソナタの旋律にのって現れた二人(植田崇幸、端栞里)は、なにかに操られるかのような不自由な動きを見せる。そのあと投射された字幕から、この失踪した女性が人工知能「ザマ」に変化したことが示唆される。

 以降はザマが存在する世界のある場所で起こる様々な出来事を、5名の俳優が何役か演じ分けながら劇が進行していく。お手伝い(井神沙恵)に言い寄るうさんくさそうな若社長(福原冠)の成功と没落、新居を探す若夫婦(植田崇幸、端栞里)の行く末、浮ついた若い警護たち(植田崇幸、埜本幸良)が不審人物(福原冠)にからむ様……こうしてザマは長い時間、同じ場所で起こる出来事をかわいた感覚で見つめ続けている。やがてこの場所が解体されると、なんとザマは「4分の0」という擬人化されたもの(端栞里)として姿を表す。当初あきらかに機械的に聞こえた「4分の0」の語りは、やがてとめどない絶叫となって人間たちを圧倒するのだった。

 失踪した人物が時間や存在を超越した人工知能になり、時間と存在に固定されている人間の世界に介在し続ける本作を観ていると、常日頃の悲喜こもごもに一喜一憂することがバカバカしく見えて面白い。同時にかわききった視座で人間界に影響をもたらすさまが、まるで己を作り上げた人間たちを凌辱するかのようにも見えて空恐ろしさを覚えた。そして後半に「4分の0」が吐露し続ける叫びは、人工知能のかわきに隠された圧倒的な孤独のように感じられたのである。情報技術が知能の延長であるならば、コンピュータのバグは寂しさや欠落といった人間の感情に由来するのでは、という本作の視座に私は深く思いを馳せることになった。

 多彩な出演者たちの演じ分けはどれも見応えがあった。ただ作品の構造上是非もないが、演技合戦を堪能するというよりは作品を構成するパーツのように見えてしまった点がやや残念である。三面スクリーンに投射された文字やビジュアルに必要以上に雄弁でない音楽、そして蛍光灯を埋め込んだ木枠のセットを使った硬質な空間づくりも作品に多いに貢献していた。私が観たのが最前列だったからか、舞台上下(かみしも)が特にガラガラに感じられたところがあったため、もう少し小さい空間で観たかった。

松岡大貴

満足度★★★★

しょうたいと、きょうそう

ネタバレBOX

ネット上に「われらの血がしょうたい」という言葉を残して失踪した、ある女性。その肉体が時間や空間を超越した人工知能「ザマ」へと変貌を遂げた世界を起点に、本作は時間と存在に縛られた人間の営みを冷徹に描き出します。 ザマはマザーではなく、無様とのこと。

複数の役を演じ分けた出演者たちは、混沌としたインターネットの世界を表現するための、精緻な劇世界を構成するパーツとして機能していました。「ザマ」の化身である「4分の0」を演じた端栞里さんは、機械的な平坦さからとめどない絶叫へと至る変貌を刻み出し、その叫びは、何を持って血とするか問うたものでした。また、植田崇幸さんのパフォーマンスは、冒頭の特徴的な身体性から劇中の情けない男たちの造形まで、作品の緊張感が高まるなかで硬軟織り交ぜた妙味を舞台に持ち込んでいました。全体としてある種の群像劇として乾いたユーモアを湛えながら、その顛末がどこか人間の寂しさや欠落と背中合わせであることを踏まえた造形だと感じました。

元々評価の高い制作面は今回も秀逸で、チケットの券種や鑑賞サポート、WEBの見やすさなど、劇団として取り組める最大限のことを行なっていると感じる。他団体や、さらに若手の劇団に取って参考にするべきところの多い制作体制だと思います。

作品のことについて、少し薄寒く感じたことがある。この扱う題材や、テーマ性について、2015年に描いたことはとても現代的で、先進的だと感じた方は少なくないはずだ。しかしこの2026年に、その内容やディストピア的な世界観、AI(インターネット)と人間の関係性について、少し既視感を覚えた。それは作品のそれではなく、ここまでのAIについての議論があまりにも飛躍的に進歩したことにより起きたのではないか。この再演が2020年ならばこうはならないのではないか。この10年に、あるいは5年の内に、現実は物語に追いつくのではなく追い越したのではないか。 もはや作品への評価でないかもしれないが、人間の想像力とAIの描く現実とのレースは、あるいはシンギュラリティまでの、人間とAIが出来る最後のきょうそうなのかもしれない。

このページのQRコードです。

拡大