最新の観てきた!クチコミ一覧

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ディファイルド

ディファイルド

T-PROJECT

「劇」小劇場(東京都)

2025/02/01 (土) ~ 2025/02/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

2020年にはコロナ禍のもとCATの制作で、10数組のリーディングの組合わせで上演された二人芝居である。2001年にはアメリカで9・11の時、便利優先で進むグローバリズムへの警鐘として初演された。原作はあまり知られていない米作家でテレビがメインのようだ。今までにで、見た作品では23年にハリウッドを舞台のバックステージ話を加藤健一事務所が公演している。ハリウッドライターはホントに鍛えられるらしくとにかく繋ぎ、つないで2時間二人だけで面白く持っていく腕はすごい、と言うしかないが、中身が深いかというと、やはり、よくできたエンタテイメントだなぁ、と言う印象だ。
現代社会が便利になって失ってしまったものは・・となれば、テーマもスジの終わりも見えているので後は本の技術を楽しむ、あるいは役者がどこまで出来るか、見るしかない。
主宰・演出・出演の田中正彦(刑事役)は今は声優としてベテラン、で相手役の佐々木望共に(書庫の移動を命じられて爆薬と共に図書館に籠城する司書)と殆ど2時間しゃべりっぱなし、籠城ものだから緊張が続くので役者も大変だ。こ三演目で7年ぶりというから、やっている方は一種の麻薬に溺れているのかも知れない。話はよく組まれているが、後半はこの話どう納めるか、と言うのが関心の軸になってしまう。そこも後で考えればそれしかないというあたりに持っていく。そういう万端出来ていて、俳優もガンバテイルのはご苦労様としか言いようがないところがアメリカの普通によく出来たのエンタティメントらしい、とはいえ、このクラスの本がゴロゴロ転がっているらしいのはスゴいことだ。いわずもながの注文で言えば、こういうシチュエーションの演技としては二人とも、声優だから仕方がないが、役を客観的に見ているところは見えすぎる。
作品のタイトルと、副題が飼い犬なのは解るがそれ以上にどういう意味を持たせたかったのかよくわからなかった。


藤戸

藤戸

劇団演奏舞台

演奏舞台アトリエ/九段下GEKIBA(東京都)

2025/02/01 (土) ~ 2025/02/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

いつもながらとても素晴らしかったです。生演奏とお芝居見どころたくさんでした。内容も人の内面をとてもよく表現されていて、見ていてこちらも心が苦しくなるような真に迫ったお芝居だったと思います。演出もオープニングから良かったです。次回も楽しみにしています。

ごはんが炊けるまで(仮)

ごはんが炊けるまで(仮)

演劇企画アクタージュ

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2025/01/30 (木) ~ 2025/02/03 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

感想遅くなりました。湯呑みチーム拝見しました。とても面白かったです。ここ最近の作品は続けて拝見させていただいてますが、どれも笑いあり涙あり心が暖かくなるものばかりです。本作も、少し変わった家族のでも、心かよう家族のいいお話でした。お父さんがこの家族になった理由が知りたくなりましたね。優しい時間ありがとうございました。次回作品も楽しみにしています。

おばぁとラッパのサンマ裁判

おばぁとラッパのサンマ裁判

トム・プロジェクト

紀伊國屋ホール(東京都)

2025/02/03 (月) ~ 2025/02/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

2月4日鑑賞。沖縄にこんな闘いがあったなんて、改めて沖縄のいたたまれない過去と、その中でも逞しく明るい沖縄の人達の姿に勇気づけられた感じがしました。この度、鶴屋南北戯曲賞を受賞した古川健氏と劇団チョコレートケーキの演出家日澤雄介氏の最強コンビで、個性あふれる俳優陣が活き活きと舞台を創り上げていました。柴田さん、太川さん、大和田さん、あまり舞台人としてはなじみがなかった人たちが自然体で演じているのが印象的でした。それに唐組に居た鳥山さん、若手の森川さんも上手くマッチして好感度を持てるキャスティングだったと思います。


寂しさにまつわる宴会

寂しさにまつわる宴会

上田久美子

蒲田温泉 2階 宴会場(東京都)

2025/01/24 (金) ~ 2025/02/03 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

寂しいからなのかな、とふと思う。私がなんでも多めにしてしまうのは、寂しいからなのかなと思う。
買わなくていい量の日用品を買う時。
作らなくていい量の料理をつくる時。
どんな文章もつい長くなってしまう時。
演劇を観るのも、映画を観るのも、本を読むのも、音楽を聴くのも、お酒を飲むのも、銭湯に行くのも、セックスをするのも、結婚や妊娠や出産ですら、そして文章を書くのだって、私が好んでやっていることは全部全部、本当は寂しいからなんじゃないかな、と思うことが結構、というか、いつもあって。だけど、その生活や仕事や芸術や性交のどれをしたって結局全く寂しくない気持ちにはならなくて。
そのとき、私にとって「寂しさ」という穴は終わりのある窪みではなく、どこか果てしない場所に繋がっている四次元ポケットみたいなもののように思うのだけれど、この演劇によって一瞬そんな宇宙のような場所で何かに繋がった気がした。

projectumï『寂しさにまつわる宴会』
私はこれをわりと覚悟して、そして必ずという強い気持ちで観にいった。

この演劇を観ている間もやっぱり私は寂しかったのだけれど、少しだけ、わずか一瞬だったけど全く寂しくない瞬間があって、そのときに、そのときにこそ私の身体は涙を流した。それは果てしのない場所から届くサインみたいだった。お人形遊びをしている子どもとお人形のように、私という人間を上から見て、操っている何かがいて、その何かと目が合ったような、あるいはその何かと決別するみたいな。たとえるならそんな感覚で。

それは、理屈じゃどうこう説明できないもので、でもたまに日常生活でもある。
その人にしか言えない言葉を伝えたり、伝えられたとき。
その人にしか見せられない姿になったり、なられたりするとき。
そして、その人としか見られない景色を二人だけで見たような気がするとき。
それは手紙のような文章を書いているときや、自らの意思で熱望したセックスをしているとき、真夜中の散歩で朝や昼とは全く違う顔をした駅や店や公園に辿り着くときとも言えるのかもしれないけれど、解像度を上げるとそうじゃなくて「触れられたところのない場所に触れ、触れられる」ということなんだとなんとなく思う。

これまで宝塚という大きな舞台を手がける中で、いわゆる「推し活」についても、もっと言うならばこの国の産業としてのスターシステム、資本主義としての芸術、そしてそこに生じる諸問題を間近で見てきた上田久美子さんがその側面(それもどちらかというとネガティブな)を描く、という点において様々な感想が寄せられていることもなんとなく知っていたし、ストーリーにおいてなされるあらゆる視点からの議論についても理解はできた。
でも、正直なところ、私にとっては、そういったストーリーやその設えよりも、この演劇のそこかしこに隙間なく配合される「寂しさ」が胸に迫った。
(続きはネタバレBOXへ)

ネタバレBOX

『寂しさにまつわる宴会』は、大衆演劇を舞台に、その俳優とその俳優の推し活をする観客の、言葉を選ばずにいうならば、売れない俳優とそのヤバいファンを巡る物語だった。
工場勤務から帰宅しては夜毎ゲームの課金によってお金と時間を溶かしていたある一人の人間が、ひょんなことから大衆演劇の劇場に辿り着き、数回目の観劇で自身の存在に気づき声をかけてくれた俳優、ほとんどセリフの持たないその俳優に熱をあげていく、という話だった。そして、その熱の出力は日に日に暴走し、周囲のファンや劇団にとっては迷惑客として出禁となり、それによって俳優もまた劇団を追われることになる、という話だった。

劇団を出禁になったファンと劇団を追放された俳優。一見決して交わらなさそうな二人の人間が、歪んだ執着と無気力によって奇妙な共存関係を築き、その行き場のなさからやはり奇妙な同居生活を始め、やがて家をも無くし、路上生活者となる。そうして、灼熱の太陽の下で互いを刺し合い、文字通り体ごとアスファルトに溶けるように一つになる、姿や形、内臓すらもどちらがどちらなのか分からなくなるように一体化していく、といったラストは圧巻だった。
何が圧巻って、やっぱり俳優が体現する、いや再現する「寂しさ」が圧巻だった。
一人で生まれて、一人で死んでいくしかない人間の孤独、その穴は結局埋めようのないものなのだという真理と、しかし一瞬でも他者と一体になれたと思うこと、それを希求してしまうことによって、やはり一瞬、その穴は果てしのない場所に繋がる。たとえ思い上がりでも、傲慢でも繋がったような気がする、してしまうという体感。それが殺人(やあるいはそのような行為)であることはもちろん倫理的に良いわけが断じてないのだけど、そういった狂気のような寂しさを抱えている人間の姿に私は恐ろしくもたしかに共感をしてしまったのだと思う。
もう少し踏み込んで言うと、それが私の場合は、(この物語における)推し活や殺人(やあるいはそのような行為)でないだけなのではないかと思った。
買わなくていい量の日用品を買う時、
作らなくていい量の料理をつくる時、
どんな文章もつい長くなってしまう時、
人と一緒に大きなお風呂に入る時、異常な頻度で芸術を見たり、お酒を飲んだり、セックスをしたり、結婚や妊娠や出産ですら、そして文章を書くのだって、私が好んでやっていることの全部と根本的には変わらないのではないかと思った。

ちなみに、この「宴会」は「余興」と定義されていて、「物語をぶっ通しで上演する」という形をとっておらず、合間に上田さんによる語りや、観客参加型のアンケートなどがとられる形式になっていた。
その中で、「会場の寂しさ指数を測定する」という試みがあった。それは、観客がどのくらい「寂しさ」を感じているのかを音で測る、というもので、寂しさを感じない、時々感じる、いつも感じる、無回答の4つから自身の自認に合うものの時にひとつ手を叩く、というものだった。
プライバシー保護の観点から観客は目を閉じてそれを行うのだけど、私の観劇した回で私が感じる限り「寂しさをいつも感じる」という項目で手を叩いた人間は一人だった。一人分の音だった。
重なる音を感知しなかったのが私の勘違いでなければ、それは私一人だった。
宴会場にパチン、と響いたその音を私は他のどれよりも大きな音に感じて、とても寂しかった。
そして、自分の中にある「寂しさ」がはじめて具現化された瞬間であるようにも感じた。
目的に沿って綺麗に整えられた劇場ではなく、生活とあまりに密接な銭湯、その宴会場という雑多な場所であるからこそその体感は余計に生々しいものに思えた。

私にはこの作品を良いとか悪いとか、よくできているとかそうじゃないとか、そういうことでは語れない。だけど、こういう言い方がふさわしいかは分からないけど、芥川賞の候補作や受賞作のような純文学を読み終えたような感触がいつまでも残った。(念のためですが、芥川賞という「権威」に準えたくてそう例えたのではなく、私は毎年その候補作を全て読むという楽しみを恒例としており、あくまで芸術における「好み」という点で私の中で同じ引き出しに入った、という意味です)

私にとって、この作品は見たことのない演劇であると同時に、文学でもあった。
演劇においては、舞台上で見たその風景を記憶をたぐり寄せ反芻することができるけれど、文学においてはそれを自分の想像で補ったり、彩っていく。そのことによって、特定の風景だけではない、いくつも風景が身体の中で発生し、熱さられ、やがて揮発し、私の身体を循環する空気になる。そういう感触があった。だから、到底忘れられるはずがないというか、取り込んでしまったという感覚が最も近かった。
そして、大きなショックとともにそのことを喜ぶ心身があった。
それはまるで、灼熱の太陽の下で、誰かと一つになれたように。

私が涙したのは、三河家諒さんが『愛燦燦』を、「人は哀しい、哀しいものですね」と歌ったとき。竹中香子さんが「怒り」に変換された底知れぬ「寂しさ」を全身にまとって、そこに立っていたとき。そして、上田久美子さんが自身の言葉と語りで「寂しさ」を開示された(ように感じた)ときだった。
そのとき少しだけ私の中を循環する計り知れない「寂しさ」が救われた気がした。
宇宙のような果てしのない場所で一瞬何かに繋がった気がした。
触れられたところのない場所に触れ、触れられた気がした。
そして、その後もやっぱり私は猛烈に寂しかった。温泉とお酒と焼きそばの、自分の好きな匂いが混ざり合う宴会場で、愛する演劇を観て、とても寂しかった。
人は哀しいもので、かよわいもので、かわいいもので、人生は不思議なもので、嬉しいもので、私はやっぱり独りなのだなと、そう思った。
今日も今日とてまた文章は長くなった。
私は今も寂しいのだと、心からそう思う。
Under the North Stream

Under the North Stream

ターリーズ

OFF OFFシアター(東京都)

2025/01/24 (金) ~ 2025/01/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

10歳娘と観劇。
世田谷区北沢が下北沢と上北沢に分裂したのち、上北沢が"神北沢"に改称し東京全体を支配する...というめちゃくちゃくだらない物語(最高ですよね)なのですが、"シモキタ"という文化の喪失と戦う若者たちを等身大で力演する俳優陣の姿に思わずグッときてしまう。それはやはり≒演劇であるし、また、花まる、北とぴあ、そして重要な場面で叫ばれる「インディペンデントシアター!(※from大阪)」と多出するワードに通底する王子への愛着も演劇を愛する者には殊更グッと響く。

演劇やライブなどのパフォーマンス活動がエネルギーの無駄遣いとして規制され、破った者には厳罰が下る、という設定も一見破茶滅茶なコメディ展開に見えるけど、震災時などには実際に挙がった声でもあるので、その実切実なテーマであったりもする。
表現や創作などの文化活動が国や世界、そして人々やその暮らしにとってどういうものであるのかというクエスチョンは普遍的かつ表現を生業にする以上必要不可欠な問いかけであるし、それが若手カンパニーによってめいいっぱいくだらなくパッケージされた喜劇世界の中で叫ばれる、というのはやはり胸を打つものがありました。
そして、観終わって初めて気づいたのだけど、タイトルもUnder=下 North=北!!!

(以下ネタバレBOXへ)

ネタバレBOX

ピンチ時に少し遅れてしかし必ず現れる生き残りのパフォーマーがfrom高円寺というのも高円寺ラバーとしてはニクい展開。下北も王子も高円寺もどれもが等しく重要な文化の発生源であり居場所であること。そういう土地に向けて綴ったラブレターの様な95分でした。自ら観に行きたいと申し出た娘もナイス!
トップ・ガールズ

トップ・ガールズ

犬猫会

SOOO dramatic!(東京都)

2025/01/23 (木) ~ 2025/01/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

キャリル・チャーチル代表作を新訳(常田景子)にて上演。
一人のキャリアウーマン・マーリーンの役員昇進を祝うべく集ったのは家族でも友人でも同僚でもなく、歴史や芸術の中に姿や名を残した女性たち。時空を越えた女たちが語る「わたしたちはどう生きたかトーク」はまさに弾丸の如し。誰もが誰の話も聞いておらず、「あるある」と思わず笑ってしまうのだけど、その混沌が生き方の異なる姉妹の物語に接続し、二人を隔てる「分かり合えなさ」に着地した時、本作の鋭利な核心をぐさりと突きつけられた。
(以下ネタバレBOXへ)

ネタバレBOX

早くに妊娠したものの子を姉に託して都市でキャリアを築く妹とその娘と老いた母のケアを田舎で夫に裏切られながら一人背負うことになった姉。そのやりとりにはシスターフッドとは程遠い、女性と女性の間にもたしかにある対立や分断を感じざるをえない。
社会で活躍する女性と家を守ることに徹した女性を巡る軋轢は朝ドラ『虎に翼』でも描かれていたけれど、本作では家事や育児のみではなく、ケアラーである姉の苦悩が色濃く描かれており、その中心にケアをされる立場である発達障害を抱える娘の存在がある。家の外(=社会)からは見えづらい、しかし喫緊の諸問題が家の中に積み上がっていること、「トップ」に立つ者の背後に隠されている者の姿にはやはり現代の様相が、2025年の日本でも解決しきれぬ問題が映写されている様にも思う。

隣人を掻き消すほど声の大きな女たちの弾丸トークではじまったこの作品が、声をあげる力すら奪われた女性たちの声ならぬ声をひろいあげる作品であったこと。そう感じられる上演であったことが大きな意味を持っているのではなかろうか。戯曲の中で手をとりあえなかった女性たちの物語を、今後私たちの生きる世界でどう編み直し、再生していけるだろうか。そういうことを問われているような気もした。
女性の生きづらさやその怒りを描くときに、二項対立として家父長制や有害な男らしさが配置された結果、物語のクライマックスやカタルシスとして女性と女性が安易に手を繋がされることも多いけれど、決してそうでないところ/そうはいかないところに真実が宿っている様に感じた。同時に、インナー姿で登場した俳優が舞台上で衣裳をまとう冒頭には社会で生きるために女性が装わざるをえない様々も忍ばされていたように思う。

もはや「実録・時空横断弾丸トークバラエティ!」と銘打って深夜番組化してほしい位に面白かった怒涛のしゃべくりはじめ、俳優一人ひとりの迫力と説得力は圧巻。
ラストの石村みかさんと名越志保さんの両者譲らぬバトルでは思わず前のめりに。見逃さずにすんでよかったです。
解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話

解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話

1999会

スタジオ「HIKARI」(神奈川県)

2025/01/23 (木) ~ 2025/01/25 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

近く解体されることが決まっている建築物で行われる150年展のチケットを不手際でロスしてたことに気づいた翌日、奇しくも私はこの演劇に出会いました。
1999会『『解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話』。

私もかつて女子大に通う大学生だった。あの頃の私にも見せたかった。とってもとっても丁寧に直向きに物語に、演劇に、そして「今この作品を自分たちが上演すること」に全員が自身の生きた時間や生きる時代を以て応答するような上演。同じ年に生まれた縁で繋がれた1999会というカンパニーだからこそ成し遂げられる公演だったと感じ、見届けられて本当によかったです。

「形あるものの喪失」に思いを馳せるとき、人はそこに息づいた「形なきものの喪失」に恐れを抱く。
だけど、その場に生まれる人と人との出会いや営みを''息吹"と呼ぶならば、それは一度吹き込まれたなら失われることはい"永遠"と言ってよいのかもしれなくて、いくつもの運動ののち訪れる"平穏"が、それらをずっと見つめているのだと思う。それが再び揺らいでしまうことを心配しながら、子守歌などを歌って辛抱強く見つめているのだと思う。

"敬虔"であることに潜む孤独、不自由の裏返しである"奔放"、"哲学"に辿り着くまでの葛藤、寂しさの境地である"癇癪"、"沈黙"する時ほど騒がしい心、そして"飴玉"の様な日々が溶けるまでの時間。
いのちの息吹と同時に「名付けられる」という宿命を背負った複雑で素直なわたしやあなたの成長をこの場は全部覚えているだろう。たしかにみえた旧体育館を前にそんなことを思った。
俳優はもちろんその心身にぴたりと添った衣裳や音や光にも時が滲んでいた。

カンテン「The Foundations」Final.

カンテン「The Foundations」Final.

カンテン事務局(Antikame?)

座・高円寺1(東京都)

2025/01/22 (水) ~ 2025/01/26 (日)公演終了

実演鑑賞

カンテン The Foundatinos 【select B】を観劇。
(※催し内の全ての作品を観劇しているわけでないため、満足度については空きとさせていただきます)

劇団だるめしあん
『バイトの面接に遅刻しそうだったが、どうやら遅刻していたのは世界の方だったらしい』

女性がSEXを語ると、ましてや「セックスしたい」だなんて言うと、男性がそう言う何倍もの特異な意味付けをされ、あろうことか"肉食系"なんて言われる事。あるいはそれ全部がタブーかのように透明化される事。に私はずっと抗いたいと思っていて。だからこの演劇に出会えて本当に嬉しかった。
タイトル通り「世界の遅れ」を複数の異世界を貫きながら描くSF社会(喜)劇。ポップに、えっちに、そして、世界が反転しても対等に扱われるトピックの数々に現代とその課題を見た。
だって好きな人とセックスしたいだなんてことお日様が登って沈むくらいとても自然なことじゃないか。だけど、そういう女性はホモソーシャルの中で「エロい女」「ヤレる女」と蔑称で矮小化される。それとは逆に、いや同じ問題として、エロな話題にのれない男性にもまた”草食系”などとコミュニティ内で嘲笑の対象になったりする。
もうそんなのはどっちもやめませんか!全部やめませんか!新しい世界をやりませんか!
そういうことをポップに、しかし切実に伝える作品でした。

坂本さんの前作『ラブイデオロギーは突然に』はケータイ小説に生きるヒロインと現代を生きる女性の時空を越えたシスターフッドの物語で"女性とはそういうもの"と思わされてきた数々を編み直す様に呪いとの対峙と決別を描いていた。あの頃の自分に言ってあげたいこと、今の自分が言われたいことがギュッと詰まっていたけれど、今回はその言葉がもつ射程がもっと広がっていたように思う。
「人間が社会で傷つき立ち向かう様を、明るく、えっちに、ポップに描く」
まさにそんなだるめしあんの信条を示すような作品でした。俳優の心的負荷を考えての、それでいてカンパニーらしさをも追求した性描写の工夫も素晴らしかったです。
セックスにおける疑いと喜びがともに表現されているところも好きでした。

架空畳
『Φ(ファイ)をこころに、一、二と数えよ』

数学の世界では空集合(=要素を一切もたない集合)を意味するらしいΦ。
この世界で起きていることそのもののようだけれど、まさに人が集合することによって発生する同化と異化が忍ばされていたように思う。時空を越えたパラレルワールドに誘われる感覚はしっかりあるのだけど、デパ地下や娘のお部屋など手触りある風景が浮かび上がってくる不思議。
Φが鍵穴を意味するのだとしたら、全てがどこかに、世界の何かへと影響し、繋がっているのかもしれない。
直近の小野寺さんによる高木珠里さんのひとり芝居『伝説の女』が好きだったけど、それも始まりは居酒屋のトイレだった。多数が出入りし集まる場所。何てことない場所から物語がうねりを見せていく様が、何もない空間から演劇が生まれていく様と手をつなぐ時、私はどこでもない場所に行ける気がする。
そして多分そこにもΦが、鍵穴がきっとある気がする。独特の世界に誘う導入も効いていました。

カンテン「The Foundations」Final.

カンテン「The Foundations」Final.

カンテン事務局(Antikame?)

座・高円寺1(東京都)

2025/01/22 (水) ~ 2025/01/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/01/23 (木) 14:00

【<Select C:閉>いたる】
Select A がファンタジー、Select B が SF系だったのに対してこちらは「人生を描いた」二編?

singing dog「9人の佐藤」、冒頭、生まれた年を言いながら大きさの異なるボールを手にして次々に登場した「佐藤さん」が語る来し方……という抽象的な作品。今までに観た singing dog 作品は具象的な装置で演じられる実録系のものだったのでそれらとは真逆と言える作風にビックリ。

Sky Theater PROJECT「名前のない空」、主人公が30年の時を隔てて20分間だけ過去と現在の「中身」だけ入れ替わるという良い意味での「スケールの小さい時間ものSF」で、こういうの大好き。
そして、まず現在を見せてそこで消息不明となっているかつての友人と過去で「再会」し……という展開が巧いんだなぁ。また、現在と過去の演者がまさに30年の時を経た同一人物に見えるのも作品にリアリティと言うか説得力と言うかを与えていて見事。いやぁ、面白かった♪
なお、ラストシーンに既視感的なものを抱いていたが10日ほど経ってようやく気付いた。惑星ピスタチオ「破壊ランナー(最終版?)」(1999年)の「ボーナストラックだ。「あの人の消息は……?」と案ずる観客を安堵させて終わるのがまたイイ。

ごはんが炊けるまで(仮)

ごはんが炊けるまで(仮)

演劇企画アクタージュ

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2025/01/30 (木) ~ 2025/02/03 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

面白い、お薦め。
「家族とは」という普遍的だが 当たり前すぎるテーマ、そこに「何か違和感」という興味を惹かせる。もっともこの違和感は、例えば 宮部みゆきの小説「理由」の設定でも用いられており、(ミステリー)小説ほどの牽引力はない。ただ 家族の強い結び付き といった先入観から一歩引いて俯瞰することで見え、考えさせるところが上手い。

家族の物語は、その家族の数だけ物語があると言える。公演は、その一形態を描いており、むしろ優しく心温まる、そして居心地の良い場所なのかも知れない。古くて新しい家族をテーマにした公演、何となく小津安二郎の古き良き時代の映画を彷彿とさせる。その小津映画は映画館で再上映しており、時代が変わっても色褪せることなく楽しませている。本公演も同じような味わいが続くかもしれない。

舞台美術は劇団員が作ったらしいが、神は細部に宿る というが本当に住めそうな造作。そこで巻き起こる騒動、典型的なスラップスティック・コメディとして描いており、分かり易く楽しめる。前半の小笑い・大笑い・失笑など笑劇といった観せ方から、中盤以降は この家族一人ひとりの事情や問題を点描していく。この家族に凝縮した諸課題は、多くの問題提起をしているよう。緩い雰囲気の中で強かな物語を構築している。そして説明にある、何故 結が直人の家族に会いたいといったのか、その理由と激白によって物語が引き締まる。「笑劇」から刺激ならぬ「刺劇」になっていく変化、その印象付けが巧い。
(上演時間1時間35分 休憩なし)【湯のみチーム】

ネタバレBOX

結婚を考え始めたカップルの直人と結。結婚すれば、その家族との付き合いも生じる。そこで 結は直人に家族を会わせてほしいと頼む。しぶしぶ 直人が紹介した家族は、役割分担を持った疑似家族である。もともとは民宿で居ついた人々が家族になり、自分にとって居心地が良い場所にしている。結は違和感を持ち、そして直人は何とか誤魔化しながら といったちぐはぐな対応を面白可笑しく描く。

物語は、この家族以外の人間が加わることで動き出す。第一に、長男役の妻 佳澄が、長男役と末っ子役とが仲良く歩いているのを見かけ、浮気を疑いこの家に乗り込んでくる。誤解を解くまでの真の夫婦間の会話が、この疑似家族を成している意味を代弁しているよう。疑似家族の言葉では言い表せないコト、その雰囲気を味わうために夕食を共にすることに。第二に、疑似家族の家で暇つぶしのように漫画を読んでいる隣家の詩織の存在。実は父親が事故で要介助状態になり、母親だけでは心配で 何か事が起きたら直ぐ行けるように待機している。この外部の人たちの思いが疑似家族という存在を擁護しだす。

一方、結の両親は生まれつきの障碍者であり、その環境下が当たり前だと思って生きてきた。ところが学生時代に友達から何気なく「結の家族は普通ではない」と言われ傷つく。どのような障碍かは明らかにしていないが、結という<通訳>を通じて<普通>に暮らしている。家族の在り方、多様性が浮き彫りになる。

それぞれの役割と性格をしっかり立ち上げ、疑似家族を構成している。勿論、実家族と言われれば信じてしまうようなリアリティがある。疑似家族ゆえ、両親の強い口調も少なく、兄弟姉妹の真に迫った諍いもない。その居心地の良さが伝わるような雰囲気を演じている。両親役の飄々とした口調と振る舞い、似ても似つかない兄弟姉妹のすれ違いの会話、そして浮気を疑った妻の激高。結の心情を吐露するような激白が迫真の演技だった。
次回公演も楽しみにしております。
ごはんが炊けるまで(仮)

ごはんが炊けるまで(仮)

演劇企画アクタージュ

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2025/01/30 (木) ~ 2025/02/03 (月)公演終了

実演鑑賞

面白かったあ。
これまで見たアクタージュのなかで一番!

昔のホームドラマのようなテイスト。

ネタバレBOX

宮部みゆきの「R.P.G.」を連想させるような疑似家族の物語。

それにしても「普通」って何でしょうね。
ごはんが炊けるまで(仮)

ごはんが炊けるまで(仮)

演劇企画アクタージュ

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2025/01/30 (木) ~ 2025/02/03 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

すばらしかったです。『万引き家族』や『そして父になる』と本作の『ご飯が炊けるまで(仮)』で家族作品3部作ですね^^ 途中からかなり引き込まれました。あと、アフタートークがすごくよかったです。「ああ、そうやってキャスティングするんだ…」と思いました。それとオーディションのやり方も知れてすごく勉強になりました。

「No Woman, No Cry」

「No Woman, No Cry」

ROCKSTAR有限会社

こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロ(東京都)

2025/01/31 (金) ~ 2025/02/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

前回公演で好評だった「DJスタイル」を取り入れたコンドルズの新作公演。会場も同じスペース・ゼロで、空間の作り方もほぼ同じ。勝手な想像ですが、カンパニー自体がこのフォーマットに手応えを感じており、その土台作りや発展型を意図しているような気がします。ラジオDJとして実績もあり、しかも声質もとても良い(←これは個人の感想ですが)勝山さんがDJ役を担い、ダンス、パフォーマンス、映像などの合間にDJとして進行したり喋ったりするスタイル。

ネタバレBOX

個人的にこのスタイルはカンパニーと相性バッチリだと感じていて、複数の多様なパフォーマンスを組み合わせる構成の中に「トーク・進行」というポジションが加わることで、ライブ体験としてより自然で親しみやすくなっています。会場で募集した川柳を発表するコーナーはラジオの公開収録のような一体感がありました。ダンス公演としてのキレ・見せ所を近藤さんが要所要所でしっかり締め、全体のバランスも良いように感じます。コンドルズが長年活動してきた実績や経験値がしっかりフィードバックされ、更に尚新たな発見を模索し続ける様子は、さすがコンドルズ、という印象です。
逆VUCAより愛をこめて

逆VUCAより愛をこめて

劇団スポーツ

駅前劇場(東京都)

2025/01/31 (金) ~ 2025/02/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

ステージ上を主に三分割し、現在、未来、そして未来視?のような、未来の要所要所が見える状態を行き来しながら展開する時間軸コメディ。みたいな印象を受けました。満員状態の会場を、劇の序盤からしっかり掴み、笑いが起こるポイントでドン!と笑いを起こす様子は、この劇団の成長と実績の証のように感じられ、頼もしく思いました。

ネタバレBOX

アイディアの源泉を時間軸にしたコメディで、未来の様子が見えること、そして、バッドエンディングを回避しようと右往左往しながらタイムリープのような状態を繰り返すこと、それらが笑いの基点になっています。フレーズやネタで笑わせるのではなく、お客さんと共有できる「困った状況」を作り、そこにツッコミを入れたり絡んだりすることで笑いを起こしていたので、ライブ感、グルーヴ感を意識したアプローチだと思いますし、演劇的な笑いだと感じました。劇団員3名が「お笑いトリオ」という設定で、息の合った掛け合いは観ていて安定感がありました。
ごはんが炊けるまで(仮)

ごはんが炊けるまで(仮)

演劇企画アクタージュ

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2025/01/30 (木) ~ 2025/02/03 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

コロナ禍を経て ますます無関心・不寛容になったように思うが、本公演はそんな世態を逆手に取ったような家族の物語を描いている。説明にもあるが、「その家族には何か違和感が…」という、一般的な家族とは違うことを示唆している。この家族、そこにいる人々には何か事情があるようだが、その背景を深堀しない。その緩い繋がりこそが物語の核心であり現実の世態とリアルに結びつく。人とは関わっていたい、しかし深い付き合いはしたくない、といった心情が透けて見える。オーソドックスのような物語だが、そこに演劇らしい奇知を仕込んで観(魅)せる。観劇歴が浅い人でも楽しめる、まさに演劇らしいお手本のような公演である。

家族の一人ひとりが抱えている問題なり悩み、その多様な提起の一つ一つが観客の共感・反感や違和感を誘う。小説における中間小説的な印象だ。勿論 小説のそれとは違い、いわゆる現実でもないが非現実とも言い切れない。そういう意味では、従来型の物語ではなく、かと言って突拍子もない物語でもない。演劇の醍醐味は、虚構の世界へ誘い込まれ堪能出来るかどうか。この公演は、「家族とは」という普遍的な問いを少し違った観点から切り取っている。家族という現実を描いているが、疑似家族という非現実=虚構の世界を紡いでいる。
(上演時間1時間35分 休憩なし)【茶わんチーム】

ネタバレBOX

舞台美術は、実に細かに造りこんでいる。出演者総出で作業したらしい。この疑似家族=磯部家の居間。十畳の畳、中央奥に襖戸、その上には欄間。上手に茶箪笥や電話台、中央に大きな座卓、下手は襖押し入れと床の間、そこに掛け軸と置物。いつでも住めそうな空間を作り出している。上手の鴨居の上に3枚の色紙。そこには「結婚後は出ていくこと」「己の器を持つべし(属人器の意)」「兄姉は名前のみで呼ぶべからず」という家訓めいたものが掛けてある。因みに 色紙の言葉の意味は劇中で語られる。

結婚を考え始めたカップルの直人と結。結婚すれば、その家族との付き合いも生じる。なんと直人が紹介した家族は、役割分担を持った疑似家族である。
長男役 智陽は、子供の頃 鍵っ子で食事も一人、結婚して家庭を持ったが 子供が生まれ食事もバラバラになった。その寂しさから離婚したことにして、疑似家族の元へ帰ってきた。長女役 実里は、同性愛者で親に認めてもらえず実家を飛び出して、以来帰っていない。末っ子役 杏は、実の家族では長女で、いつもお姉ちゃんだから と言われ我慢してきた。その反動で疑似家族の中では我儘言い放題の末っ子を演じている。そして直人は、母親が過干渉で何事にも口を出す。そして新たに妹役の恵美が来ることに…。それぞれの事情や問題が触れられるがあまり深堀しない。人にはいろいろな事情があり、それを言いたくない人もいる。同時に演劇的には、その余白のようなものが観客の想像力を刺激する。少し分かり難いのが、どうして独立した人間同士の共同体空間、いわゆるシェアハウスにしなかったのか。

物語は、この家族以外の人間が現れたことによって、その疑似の姿がだんだんと明らかになる。まず 長男役の妻 佳澄が、智陽の浮気を疑いこの家に乗り込んでくる。次に 隣家の詩織、いつも疑似家族のもとでブラブラしている。実は父親が事故で要介助状態になり、母親だけでは心配で 何か事が起きたら直ぐ行けるように待機している。口で説明されても直ぐに納得は出来ない。そこで 疑似家族ならではの家族団欒を味わうため、夕食を共にすることに、それが「ごはんが炊けるまで(仮)」。ドタバタした1日の出来事を締め括るに相応しいラストシーン…大団円へ。

結の両親は生まれつきの障碍者であり、その環境下での暮らしが当たり前だと思っていたが、友達から「結の家族は普通ではない」と言われ傷つく。結は自分という<通訳>を通じて<普通>に暮らしてきた。家族の在り方、多様性が浮き彫りになる。こちらの家族を主体に描いたならば、また違った問題点を炙り出した舞台になるだろう。出来れば そんな舞台も観てみたい。

舞台技術…音楽は、場転換の暗転時に流れるだけで 敢えて抑えて会話劇を生かしているよう。照明は、その諧調が少なく 印象にない。あるとすれば、結が心情を激白する際、スポットライトで彼女の心情を効果的に際立たせているところ。なお、茶わんチームと湯のみチームでは、結の立ち位置が逆で、照明の照射も違う。
次回公演も楽しみにしております。
ごはんが炊けるまで(仮)

ごはんが炊けるまで(仮)

演劇企画アクタージュ

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2025/01/30 (木) ~ 2025/02/03 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 茶わんチームを拝見。茶碗とも茶椀とも書かず開いた表記にしているのもグー。ちゃわんは、無論茶をいれたり飯を盛ったりする器だが、材料が陶磁器か木かを分けずに両方を含む表現になっているからだ。このような細部にも気を配った脚本である、見事という他あるまい。流石に10年を迎えたアクタージュの記念すべき作品と謂えよう。キャスティング、演出、演技何れも素晴らしい。断固ベシミル、華5つ☆

ネタバレBOX


 舞台美術は、アクタージュの自作。いつも乍ら感心させる作りだ。今回の作・演は 坂井 和さん。脚本の設定が抜群だ。因みに脚本は設定が最も大切な要素だと考える。これが良ければ脚本創作は半ば成功、と言える程だ。今作の設定はその手本のような出来である。タイトルも作品内容に即した実に味のある深いものだし、設定の奇抜さが、通常我々が家族という概念で想像し続けている概念を根底から揺るがし炙り出す。傑作である。ラストシーンは、カットしても良いくらいの位置づけだ。然し演劇というものは、日常を描いていても非日常の世界である。もっと正確に言えば現実と虚構の当に狭間に存在する芸術なのだ。人形浄瑠璃の脚本セオリーにも見られるようにラストはあってもなくても良いくらいの表現にした方が良い。これは観客を現実と虚構の狭間から現実の日常に戻す為の創作者側の配慮である。このような点に迄気配りの利いた作品と観た。
『パラレルワールドより愛をこめて』 『パラレルワールドでも恋におちて』

『パラレルワールドより愛をこめて』 『パラレルワールドでも恋におちて』

ザ・プレイボーイズ

シアター711(東京都)

2025/02/02 (日) ~ 2025/02/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/02/02 (日) 15:30

『…恋…』を観劇。初見のユニットだが、帯金ゆかり出演というので観に行った。とんでもなく面白い!(1分押し)55分。
 ミチル(まちだまちこ)がカレにふられて呆然としていると、突然、未知瑠(帯金)が現われ、カレにふられていないパラレルワールドを探そう、と誘われ、ミシェル(砂田桃子)のいる世界に行くが、…の物語。3人の「みちる」はそれほど似ているとも思わないけど、とにかく笑わせてくれる。設定の妙。伏線もしっかり張って回収するし、ただただ笑っていればよい舞台だった。12月のナイスストーカーに続き破壊力爆発で大活躍の帯金だが、おなか☆すいたろうがいい仕事をしている。

藤戸

藤戸

劇団演奏舞台

演奏舞台アトリエ/九段下GEKIBA(東京都)

2025/02/01 (土) ~ 2025/02/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/02/01 (土) 18:00

能の「藤戸」。藤戸の戦で平氏に勝利をおさめた佐々木三郎盛綱が、児島の国(現在の岡山県倉敷市)の領主に着任した場面から始まる物語というCoRichに書かれたあらすじを読んだ感じだと、どんな感じか全容が分からなかった。
 なので観始めた時はどんな感じか分からない不安の方が大きかったが、観ているうちに現代音楽や映像、不気味な程に薄暗く、時々俳優に絶妙に当てられる照明の向けかた、多少の能の所作が組み合わさって、夢幻能的な幻想怪奇な独自な世界観の現代劇で、思わず現実世界を忘れその世界観に引き込まれていた。

 源平合戦の中で海上合戦が得意で児島周辺を支配していた平家と藤戸海峡を挟んで舟を持たない源氏軍が対峙する状況。
 そのなかで、源氏の武者「佐々木三郎盛綱」が先陣切って藤戸海峡を馬にて一気に児島に向かってかけ渡り源氏の状況を打破する。
 だがその為に、藤戸海峡から児島までの距離を測る為に児島の村人を水先案内人に児島の浜辺まで案内させ殺害するという衝撃的な残虐ピカレスク劇で、劇の前半から中盤に掛けての殺害再現場面や村人の母親の老婆の責められる場面、自分が殺害したことをいつまでも後悔と今を生きようとする心の狭間での葛藤でもがき苦しむ人間臭い佐々木三郎盛綱が、児島の国の領主となった際眼を失ったことからもギリシア悲劇『オイディプス王』における父殺しで実母と分からず結婚して犯し、眼を失うという同じではないが似通っており、日本版『オイディプス王』と言っても過言ではないと感じた。
 しかし劇の中盤から終盤にかけて、眼を失った上で水先案内人の村人の母親が佐々木三郎盛綱を刺殺しに来るというような安易な復讐ではなく、水先案内人の村人の亡霊によってか、佐々木三郎盛綱自身の懺悔の念が呼び起こすものかは知らねど、悪夢のように村人を殺害した後の島に上陸直後の同じ日を気付いて起きると何度も繰り返し、不死身の身体となり、無限にループし続ける、これこそが悪戯に殺された村人の怨霊によるある意味どんな呪いや復讐よりも、佐々木三郎盛綱を精神的にも肉体的にも窮極に追い詰める手段としての最大限の復讐だと考えると、スーと背筋が凍り付き、恐怖に慄いた。何より、いつの時代でも永遠の時間というものに対する恐怖と憧れは変わらぬものだと感じた。
 どんな恐怖映画やお化け屋敷にも匹敵するものを感じ、『藤戸』という能がもはや古典と化しているものの、全然忙しい現代でも通じるものを感じた。

イッセー尾形の右往沙翁劇場 2025 in 福岡

イッセー尾形の右往沙翁劇場 2025 in 福岡

イッセー尾形事務所

西鉄ホール(福岡県)

2025/01/31 (金) ~ 2025/02/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

鑑賞日2025/02/02 (日) 15:00

座席1階e列8番

価格5,500円

 タイトルには「2025」とあって、実際、公演は2025年の1月31日(金)〜2月2日(日)なのだが、全国巡業は昨2024年から行われており、そのシリーズとしては福岡公演が最終公演、千秋楽である。
 イッセーさんは、毎年必ず、八本の新作を制作、八人の全く別のキャラクターに扮して、全国九都市を巡回する。北は北海道から南は福岡、たまに九州各県に。昨年の「妄ソー劇場」も終演は福岡だった。そうして一年が終わると、次の新作に取り組む。イッセーさんは殆ど再演を行わないので、その年の舞台を見逃すと、もう一生、その年のキャラクターに出会うことはない。まさしく「一期一会」の舞台なのである。チケットが完売するのも宜なるかな。
 毎年、通しでテーマが決められるのも十年前の独立後のイッセー舞台の特徴。今年はタイトルにも「沙翁」とある通り「シェークスピア」であったが、実際に舞台を観てみると、どこにシェークスピア要素があるのか全然分からない。老人教師やバスガイド、神主さんや紙(お面)芝居屋や流しのギター弾きなど、イッセーさんの演じるキャラクターは多彩だが、シェークスピアの戯曲に登場しそうな人物はただの一人もいない。
 イッセーさん曰く、「予習は一切必要ありません」とのことだから、多分、最初からシェークスピア云々の話は釣りのフェイクだったのかもしれない。
 実は各編ともにイッセーさんの深遠な意図があるのに私が気が付かなかっただけならまことに申し訳ない。

ネタバレBOX

 全公演のラストだからと言って、イッセーさんの演技に緊張感は見られない。軽妙洒脱、当意即妙なのはいつも通り。
 ただ、毎回一人はいた、心底悪辣な人物、でも外見は穏やかな善人で、舌先三寸で他人をだまくらかして、実は陰で笑っているような詐欺師的人物、天性の偽善者(映画『沈黙』での長崎奉行みたいな役ね)は、近年とんと見かけなくなった。
 他人を意図的に騙す役には膨大なエネルギーが必要になる。イッセーさん、全国ツアーで何十公演も演じ続けるのは厳しいと避けたのかもしれない。

 今回、目立った役は、これもイッセーさんの舞台ではお馴染みの「世間の常識からちょっとズレてしまった人物」である。ズレているけれども、それで人見知りしたり慌てふためいたりはしない。実に堂々と、そのズレを押し通そうとする。常に俺が正しいんだと押し通す、歩くパワハラみたいな人物た。現実にいたら迷惑だし鬱陶しくてたまらないが、舞台上で見ている分にはひたすら可笑しい。
 例えば病休の息子の代わりに中学校の教壇に立つことになった、老教師。七十歳は超えてそうだが、滑舌もはっきりしているし、頭脳も明晰だ。ただ、知識が30年くらい昔で止まっている。おかげで、教える内容も教え方も全くの的外れ。1492年にコロンブスはアメリカ大陸を発見してないし、1192年に鎌倉幕府は成立してないんだよ、と突っ込んでやりたくなる(苦笑)。
 ここ十年のイッセーさんの持ちネタ「雪子の冒険」、役に扮するための仮面を、台の上にたくさん並べた中からなかなか探し出せずにオロオロするのはいつものパターンだが、毎回思う。イッセーさん、ホントにお面をどこに置いたか忘れてないか。アドリブ芝居はアクシデントすら笑いに変えてしまうことがしばしばだが、「雪子の冒険」はその頻度が高いのである。
 コント一つ一つの解説をしてたら書く時間も膨大になるし、体力も消耗するのでこの辺で。イッセーさん、髪の毛はすっかり真っ白になってしまわれたが、舞台上の動きはまだまだカクシャクとしていらっしゃる。また来年も一人芝居の舞台で福岡に来て頂きたいと思う。

 公演後のサイン会で、妻が亡くなったことをイッセーさんに伝えた。ワークショップに参加していた頃は、妻が一番丸々としていた時期で、あのあと妻はどんどん痩せて30キロも減量、力石徹並にガリガリになってしまった。ペンダントの写真を見せたが、誰だかピンと来なかったかもしれない。亡くなったのが半年前だと言ったら、イッセーさん、「もうちょっとだったのにね」と仰った。また会いたかったなって意味だろうか。だとしたら嬉しい。
 来年もイッセーさんはきっと福岡に来てくれるだろう。私もあと数年は生きていたい。

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