実演鑑賞
満足度★★★★
賞賛はグランプリ評において行ったので、ここでは『湿ったインテリア』について考える中で連想したものを
ネタバレBOX
本作において「母」は、ある種の役割を超えて、舞台空間に強く立ち現れる存在でした。それは、制度や役割としての「母」ではなく、「この子を抱く」と自ら名乗り出る実存としての母。まるで、ひとつの関係を取り戻すようにして、あるいは、それが一度でもあったことを手放さないようにして、母たちは赤ん坊(=スピーカー)に手を伸ばす。誰の子でもないようでいて、それでも「私の子」であると抱きしめようとする。
また、その、赤ん坊=スピーカーの存在。
その「赤ん坊」は、誰の子でもありうるし、誰の子でもない。しかしその前で、人は無意識に声をやさしくし、目線を下げ、抱えるようにして関係を持とうとする。スピーカーに宿るのは、生物的な子どもではなく、「ケアの対象」としての抽象的な存在であり、それゆえにこそ、ケアする主体を観客は観る。見立ては、その表現において作品そのものを象徴しうるのだと興味深く思いました。
父たち(あるいは“家族”たち)は疑われ、混同され、すり替えられる。しかし母だけは、たとえ赤ん坊がスピーカーに過ぎないとしても、揺らがない。それはもしかすると、母性の絶対性などと言う前近代的なことでは無く、私たちの社会や感情が「ケアの起点」として母を記憶しているからかもしれない。
『湿ったインテリア』は、その記憶に触れながら、それでもなお「誰かに応答することのかけがえなさ」を残していく。その呼びかけは、観客に届いていたように思います。
実演鑑賞
満足度★★★
未来を作る場所から、過去が立ちあがるか
ネタバレBOX
アトリエhacoという新たな拠点のこけら落としとして、地域に根差した劇団が新たな一歩を踏み出したこと、その決断と行動力には大いなる敬意を抱いています。都市部とは異なる環境で、観客とともに場を育てていこうとする姿勢は、演劇の根源的な価値と向き合う行為でもあり、まずはその一点に拍手を送りたいと思います。
物語の中核をなすのは、敗戦を受け入れられず通信所を占拠しようとする将校と、それに巻き込まれる女子挺身隊員たち。だがこの「物語」は、現代を生きる俳優たちが稽古を通じて演じることで立ち現れる仕組みになっており、登場人物の多くが本人と同じ名前を与えられている点や、演出家への不満を語る場面を含め、フィクションとノンフィクションの裂け目を俳優たちが自らの身体で渡り歩いていく様は、近年の演劇の傾向を意識しつつも、十分機能していました。
その上で、今回劇中で描かれる「稽古場でのやりとり」や「劇団運営上の内輪的な関係性」がどこまで必要だったのかについて、疑問が残りました。虚構と現実を交錯させる構造は古くから用いられてきた技法であり、それ自体が悪いわけではないのですが、どうしも話の軸が複数になるため、一つ一つの場面は映像作品のように断片的になりがちです。
また、作品の主軸となる戦争と現在の接続についても、いくつかの描写がその切実さを削いでしまっていたように感じました。黒電話や軍服といった記号的なガジェットが登場する場面では、どこかで「これは演劇の中の戦争」であるという演出上の距離が生まれてしまい、現代との断絶を埋めるどころか、むしろ際立たせてしまっていた印象すらあります。現実と虚構を地続きに描こうとするならば、その“演出上の嘘”をどこまで突き詰めるか、あるいはどこまで意識的に裏切るか、演出の選択がもう一段あってもよかったかもしれません。
作品が歴史と向き合いながら「今ここ」を描こうとする意志は伝わっています。
ただし、その意志が形になるためには、劇団という共同体の物語や、あるいは記号的な演出ではなく、表現したいことに相応しい新たな表現方法があるはずです。アトリエhacoが、その創作と様々な試作の大切な場所となることを願っています。
実演鑑賞
満足度★★★
物語はどのように結末に向かうのか
ネタバレBOX
“日本最古の物語”「竹取物語」をベースにしながら、母性の不在、家系への呪縛、自己神話化といったテーマを織り込み、登場人物それぞれの混乱を舞台上に並列的に提示していました。
舞台は冒頭から疾走し、俳優たちは場面転換も息をつく間もないほどに駆け抜けていきます。台詞の応酬や身体表現、人形が人になる瞬間など、演出の仕掛けは豊富であり、思春期の少年の妄想と現実が立ち上がる世界観は、そのゴシック的な表出と相まって魅力的でした。
膨大な台詞量、テンポの早さ、身体表現の過剰──いずれも「熱狂への階段」として好意的に受け取ることもできるのですが、反面、それぞれの場面やキャラクターの表現は少々形式的になっていたと思います。意図的な部分もあるとは思いながらも。
また、近年の暗殺事件を下敷きにしたイメージに収斂していくラストも、月(ムーン)、母(マザー)、ムーンショットなど言葉のいわゆる縁語構成的な展開で物語を推進して行くには、意味と言葉の距離が果たして効果的であったのか疑問が残る部分です。
それでも千年の昔、かぐや姫がこの世を去った物語が、今、母を求める一人の少年の物語として蘇るという仕掛けは面白く、かぐや姫が犯した「罪」を〈血族の原罪〉として再設定しようとした着想と合わせて、家系の妄執や家父長制的な構造、思春期の葛藤、過去と現代の衝突など、それらの交差点としてさらに踏み込める可能性もあったと思います。
竹取物語という古典の失われない魔力を改めて思い出させてくれました。
実演鑑賞
満足度★★★★
きっと、これからもっと熱くなる
ネタバレBOX
南極『wowの熱』は、いわゆる「メタフィクション」という構造を生かした、劇団と俳優と観客の関係性に対して正面から挑んだ一作でした。
寸劇の応酬から始まり、プールから湯気が立ちのぼるように立ち上がってくる本編の構造。それはまさに稽古場という虚構から生み出された虚構の俳優たちを、観客にそのまま差し出すような手触りでした。
特筆すべきはやはり、ホットハウスマンをはじめとする“虚構の住人”たちが、現実の劇団員たちと混ざり合いはじめる後半の展開。その可笑しみと、同時に奇妙な居心地の悪さが、まさに劇世界と現実世界との境界を撹乱していて、作品の主題そのものを身体的に味わわせてくれたと思います。
その熱がじゅうぶんに立ち上がっていただけに、クライマックスの“端栞里が南極に入団した経緯”を辿るような場面は、やや別のベクトルの熱に切り替わってしまった印象を受けました。劇団の成長譚と重なり、まさに今の南極だから描ける場面とも思います。ただ一方で、個人的には、現実に虚構が滲み出してくるあの奇妙で危険な興奮が、ふっと一度着地してしまったような感覚も否めませんでした。あの熱を、もっとホットハウスマンたちとの交錯のなかに持ち込んで、最終盤まで転がしていってほしかった。そこに、もうひと段階の“熱狂”の可能性があったように思います。
とはいえ、劇団そのものが持つ空気の温度、あるいは観客との距離感、ある種の信頼感のようなものはまさに“熱”を帯びていました。勢いに任せるのではなく、構造的な挑戦と演劇的身体の同居を目指す姿勢に、確かな地力を感じます。
何かが起こる予感は、間違いなくあります。
実演鑑賞
満足度★★★
仕事終わりに、あるいは友人と、誰とでも楽しめる一杯
ネタバレBOX
会話の余白や少しの間、そこに想いを馳せたくなるような、丁寧に仕立てられた会話劇。
娘と父、そして「ママ」とバイトの女性。たった4人の登場人物によるやり取りの中で、家族とは何か、血縁とは何か、そしてわかりあえなさの切なさとおかしみが、にじむように浮かび上がっていきます。
とりわけ印象に残ったのは、ママ役・松永玲子の佇まい。少し押しの強い関西弁のテンションが、この空間にふっと風を入れ、停滞しがちな人間関係に微細なずれと変化をもたらしていた。彼女がいることで、物語がふいに裏返る瞬間があり、そのさじ加減が見事でした。
派手な展開や強烈メッセージがある訳ではないけど、小さな言葉や行き違いを丁寧に積み重ねる。そんな穏やかな舞台だからこそ、観客は自分の記憶や経験を静かに引き寄せながら観ることになるのでしょう。上演を通じて、穏やかに自分の感情の記憶を振り返るような時間でした。誰かを誘って終演後、一杯飲みながらも楽しめる芝居だと思います。
実演鑑賞
満足度★★★
表現することと、表現する方法について
ネタバレBOX
『青ひげ』と九州大学生体解剖事件。寓話と歴史、記憶と倫理。その接続を試みた本作は、白砂と水に覆われた象徴的な舞台空間と、強い音圧の音響設計、リフレインを多用する演出によって、観客の身体そのものに訴えかけるような上演になっていました。
本田椋さんは、苛立ちや後悔を踏まえ、抑制された語りと佇まいの中に役の内面をしっかりと感じられ、作品全体のトーンを下支えしていたと思います。また、小林冴季子さん演じる娘も、台詞と動きを過不足なく繋げながら、彼女自身の身体の律動で役を立ち上げており、説得力のある存在でした。
一方で、語句の反復や抽象的な台詞を通して物語を展開しようとする意図は感じられたものの、登場人物の具体性が削ぎ落とされていたために、感情の推移や関係性の変化が劇の進行と噛み合わず、構造的な面白さと扱う内容が微妙にずれているのではと感じる部分もありました。とりわけ「正しさ」や「加害の倫理」といった重いテーマに触れるのであれば、物語構造や人物の厚みには、より慎重な設計が必要だったのではと感じます。
もちろん、前述の通り舞台美術、音響、照明といったスタッフワークは魅力的で、過剰な主張に走らず、空間としての強度を確保していた点は特筆されるべきです。
例えば、前言を否定しますが、ある種の美や劇的な表現が理屈を超えてテーマを伝えることもあります。それならば、その例えば殴りつけられるような衝撃を観客に与えるべく振り切る、といった選択肢も、このスタッフ、そして世界劇団でならあったのではと思います。
また、世界劇団は首都圏以外の地域で活動する劇団として、ツアー公演を実施するなど制作面でも評価される部分があると思います。この精力的な活動や、ある種のパワーは、劇団運営や自らの創作活動を継続させるという視点において他のアーティストも学ぶべき部分があると思います。
実演鑑賞
満足度★★★★
失われる記憶、失われる場所
ネタバレBOX
コトリ会議『おかえりなさせませんなさい』は、伊丹アイホールでの初演時にも拝見していて、今回の再演では、作品そのものの強度はもちろん、受け取る自分の立ち位置が変化していることにも気づかされました。
初演時は、アイホールという空間の記憶と切実さが作品にあるような、まもなく閉館を迎える劇場で、「帰ってくる場所」が失われていくこと、家族がばらばらになり、ツバメが巣を離れ、二度と戻れないかもしれないという感覚。それは、これまで公演を重ねてきた劇場、これまで観劇してきた場が無くなっていくことへの切なさと、静かに重なっていたように思います。
再演では、台詞のテンポがやや速く感じられましたが、それは僕が伊丹に置いてかれていたのかもしれず、照明は相変わらず丁寧で、場面を象徴的に表現しながら、記憶と現実を行き来するような舞台世界に奥行きを与えていました。
白石礼を演じた原竹志さんも印象的でした。作品の理屈を語る人物でありながら、そこに生きている一人の人間としての寂しさや孤立が滲み出ていたように思います。微細な間の取り方に、誠実な俳優の姿勢が感じられました。
いけないと思いながらも初演と比較、混在する評になってしまう。それは本作が、あまり縁のなかった劇場と僕との数少ない思い出そのものだからだと思います。この作品について語る時、あの劇場で観たことを語るのです。
失われる記憶、失われる場所。それらが喫茶店という小さな場所に持ち込まれたとき、僕たちはある種の“日常”としてそれをどこまで引き受けられるのか。終演後にその空間を後にするとき、残っていたのは、滑稽さでも絶望でもなく、ほんの少しの寂しさと、やわらかな余韻でした。
実演鑑賞
満足度★★★
真実ですら不安定なものであるとしたら
ネタバレBOX
白骨死体として発見されたちぃちゃん。その存在をめぐって、かつての同級生たちや報道者、創作者がそれぞれの立場から発語を試みるたびに、フィクションとノンフィクション、記憶と忘却の境界が揺れ動く。その構造が、語りの暴力性や“正しさ”の持つ不穏さを浮かび上がらせていたように思います。
また、本作は俳優陣が印象的でした。
ちぃちゃんを演じた結城真央さんは、その孤立や違和感を丁寧に刻み出していました。ひとつひとつの印象に残る仕草は、けれど過剰になることなく、あくまで“かつてそこにいた誰か”を静かに想起させるものであり、それが観客にとっての想像の手がかりとして機能していたように思います。
また、アイドル・レモンキャンディを演じた前田晴香さんのパフォーマンスは、作品の中で唯一華やかさを担う存在でありながら、その場に漂うどこか不穏な気配を背負って立っていたように思います。平林和樹さんが演じる音弥と百音さん演じるタルトは、作品の緊張感が高まるなかで、少しだけ呼吸を与えるような間合いと軽やかさを舞台に持ち込んでおり、劇の緊張を一度解体するような大胆さがありながら、その破綻がどこか哀しみと背中合わせであることを踏まえた造形だと感じました。
作品全体としては非常に真摯に、多くのリサーチの痕跡が伺えました。
ただその一方で、説明台詞がやや多く、また時折すぐには理解しにくい場面設定もあり、抽象的な描写と現実的な作り込みをもう少し細かく判断しても良いのではと思いました。
作り手の切実な思いが強く伝わるからこそ、観客に委ねる余白や、登場人物たちの声として自然に立ち上がってくる言葉の質感を、もう一段階繊細に編んでいくことで、作品世界により深い説得力が生まれるのではないでしょうか。
けれど、“語ること”をめぐる倫理と、それを担う人物が丁寧に舞台上に現れていた本作は、今後の展開を楽しみにさせてくれる一作でした。
実演鑑賞
満足度★★★
現代のワーニャ伯父さんはどこにいるのか
ネタバレBOX
『悲円 -pi-yen-』は、チェーホフ『ワーニャ伯父さん』を明示的な参照点としながら、地方の葡萄農家という設定とギャラリー空間の簡素なコンクリートの床が響き合い、まるで生活と経済の摩擦音を可視化するような空間で、新NISAをはじめとする現代の「投資」という制度に揺さぶられる共同体の姿をある種の滑稽さと共に提示していました。
冒頭の詩の朗読に始まり、劇中に挟み込まれたユニゾンのダンスや身体表現、あるいは劇中劇の形式で仮想通貨の乱高下を眺める俳優の姿などには構造の実験性が感じられますし、チケット代が日経平均に連動するという制度設計まで含めて、演劇を「上演+制度」として捉える視点も非常に現代的で、制作的にも高く評価されるべき作品でした。
ただその一方で、観ている最中からずっと感じていたのは、「なぜこの家族でなければならなかったのか」という疑問でした。戯曲の構成や俳優の身体には確かに緊張感があるのですが、そこに宿るべき不可逆性、あるいはこの家族が“見捨てずにいようとする”理由が、最後まで明確には掴めなかった。これはチェーホフ的な台詞の空転の中でこそ輝く“他者を放棄できない苦しさ”が、本作の構成では掴みきれなかったかもしれません。
なぜなら、チェーホフが描いたのは例えば「劇をやめたあとの人間」であって、「人が人を見捨てずにいられるかどうかを試している戯曲」かもしれず、それは劇的な決別ではなく、沈黙や余白にこそ立ち上がります。本作において、もう少しこの人物たちに時間を、見捨てずに居合わせるだけの時間、があったならば、投資という主題と、人間存在の切実さをつなぐ線はもっと太くなったのではないかと感じました。
もちろん、日本においてチェーホフを翻案するという行為自体、20世紀以降の演劇史の中で重要な意義を持ち続けてきましたし、特に“静けさ”の中で何を響かせるかを問い続けてきた作家であるからこそ、今も多くの劇団が向き合い続けています。そして現在の国際情勢においてロシア文学をどう捉えるかは避けて通れない問題でもありますが、だからこそチェーホフが遺した人間に対する無条件の眼差し、その演劇的な視点が今なお有効であることを改めて信じたくなるのです。
実演鑑賞
満足度★★★
「いま・ここ」で生まれる出来事を、そのまま一つの作品として提示しようとする、ある意味では非常に無防備で、そして挑発的な企画
ネタバレBOX
当然ながら、準備された完成品を見せるというより、その場で何が起こるか分からないこと自体が“見せ物”となる構造である以上、一定の混乱や、物語としての密度の不均衡は避けられません。また、オムニバス形式の構成は、各エピソードの色彩を豊かに見せる一方で、全体の流れとしてはやや散漫な印象を残しました。幽霊たちのエピソードはどれも魅力的で、それぞれに演者の技量と個性がにじみ出ていましたが、中心となるドラマの軸を追いかけると、観客の感情が深く流れ込む場所が限定的だったようにも思います。
ただ、そうした構造的な“粗さ”を単なる未完成として切り捨てることもまた難しく、むしろその荒削りなフォルムが、俳優たちの肉声や身体、あるいはスタッフの存在感すらも、舞台上の一要素として等価に立ち上がらせていた点はやはり興味深く、ブルートゥースで再生される音楽や、手で持ち運ばれる照明という、いわば“段取りの可視化”そのものが、舞台の外縁をかたちづくる演出として働いていたことは確かです。
また、この作品の真価は、完成度や技巧に求められるものでもありません。
むしろ、予測不能な展開と、劇場全体を巻き込む“やってみなければ分からない”という共犯的な空気が、ある種の熱をもたらします。観客の声出しや、全編撮影OKという自由な環境も、舞台をどこか二度と戻れない「一度きり」の場として輝かせていたように思います。
だからこそ、もう一歩、その“過剰な偶然性”をどう制御するのか、あるいは、どこまで制御しないまま魅力に昇華させるのか、といった編集感覚が加われば、この企画はより強度のある枠組みへと成長するのではないでしょうか。観客と舞台がともに揺れ動く時間として、その揺れのなかに何が残り得るのかを問うという点において、今年のCoRich舞台芸術まつり!でも印象的な作品でした。
実演鑑賞
満足度★★★★
「きく」ということと、自由な劇構造
ネタバレBOX
グランプリ評もありますので重複を避けますと、「きく」というテーマ設定と同時に、複数の場面が挿入される中でも、「きく」という点において一貫して物語が続く仕掛けは興味深かったです。それほどに「きく」という軸は構成上有用なもので、即興的演劇や要素が入り乱れる劇構造においても機能していたように思います。その上で審査会においては意見が割れていたことも申し上げておきます。自由な劇構造と書きましたが、それは取りようによっては乱暴な、観客を置いてきぼりにする可能性も秘めているという意見だったかと思います。自分はそれぞれの場面や登場人物、セリフも楽しく感じていましたので好意的に捉えていましたが、そこがハマらなければ途端に難しくなるのかもしれません。確かに自分は評価をしていた側ですが、そのテーマ設定以上に、様々挿入されるシーン自体を楽しんでいました。それが団体の狙いと合うかも含めて、次の上演を模索して頂けたらと思います。
実演鑑賞
満足度★★★★
いつか思い出す旅路と、コロナで流した涙について
ネタバレBOX
2020年10月にアトリエ春風舎で上演された作品のリメイク。ドライブにでた若夫婦がヒッチハイクをしている女性と出会うところから始まる。妻がたずねる 旅行ですか? と。
簡素ながら幻想的な舞台を構成する美術と照明の中で、場面は思い出とも夢とも回想とも呼べるような曖昧さで挿入される。現在の旅行と過去の新婚旅行、車内と飛行機あるいは船の上、登場人物たちも今の役なのか過去の役なのか、あるいは夢の中なのか、その曖昧さは本来観客が場面を認識するのにストレスになってもおかしく無いはずだが、ここでは心地よい。それは、本当は死んでいるかもしれない夫や、もう戻らないかもしれない時間や世界そのものを、曖昧さが包み込んでくれているからかもしれない。思えばこのコロナの数年間は、まるで現実感の無い日々を過ごした人も多いのかもしれない。けれど、決して戻らない時間と失った人々だけが現実にはあって…。その空虚な時間を埋めるような、思い出せない日々を虚構と幻想が補完するような作品に、この作品がなると良いなと思う。最後に、制作だけではなく出演、音楽と八面六臂の活躍を見せていた金澤昭に何らかの賞をおくるべきでは無いかと審査会において複数の意見が出たことを申し添えて置く。残念ながら該当する賞が無かったため、劇団内にて存分に労って頂けますことを。
実演鑑賞
満足度★★★
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクの実験室
ネタバレBOX
『本人たち』は第一部「共有するビヘイビア」と第二部「また会いましょう」からなる連作。「共有するビヘイビア」ではただ1人の出演者-古賀友樹を観客は眺め続ける。スペースノットブランクの言う「聞き取り」の、さながら調査結果を聞いているよう。被験者-古賀友樹の本人性を元に抽出したテキストと発話、行動様式=ビヘイビアを報告しますと言われれば、そのようにも捉えられる。ただそれを語る古賀の赤らんだ顔や時たま見開く瞳がある種の物語を想起するのだが、それはそれまでの舞台観劇体験を元にした鑑賞をしようとする観客に起こるバグなのかもしれない。一方で第二部「また会いましょう」では登場人物は2人に増え、その発話内容も少し意味をもつようにも感じる。同時に2人になることで起こるある種のリズムが感覚的に心地よくなってしまう部分もあり、2人の発話が、言語なのか、音楽なのか、はたまたそれとも違う振動その他と捉えて良いのか迷う。それらが獲得するものはある種の多声性なのか、あるいはノイズなのか。実験的取り組みとその言語化を為さんとする試みの両方が試されている。
実演鑑賞
満足度★★
バンドと、少し先の未来を想定した群像劇
ネタバレBOX
ある売れないバンドのボーカルとそのメンバー、そのボーカルの売れた音楽仲間、そのボーカルのバイト仲間、そのボーカルの死んだ彼女、といった人々の群像劇。死んだ彼女が遺した詩が「半魚人たちの戯れ」であり、ボーカルはそれに曲をつけて成功の兆しを見せる。
舞台は素舞台で、地明かりの照明もそれほど作り込まれてはおらずさながら王子小劇場そのものであった。音楽が重要なモチーフとなるため音響も意識していたが工夫は見られず、スタッフワークに少々疑問が残った。
脚本は近未来を思わせる用語が含まれている一方場面は断続的で、焦点を絞るのが難しかった。
とはいえ自分が見たのは初日であり、展開がスムーズになれば、例えばセリフのやりとりの上では笑いが起き、それを手掛かりに見えてくる部分もあったのでは無いかとも思う。作中言及のあった再生医療や「ムーンショット目標」は現実に存在、あるいは存在しうる物だけに描き方によってはより切実に「死」の曖昧さを描けたのでは無いかとも思う。これから間違いなく「生」と「死」は揺らいでいくのだから。
実演鑑賞
満足度★★★★
ウェルメイドなシチュエーションコメディ。
ネタバレBOX
もし現代まで帯刀が認められていたら、という世界を舞台にした討論劇。現代に相次ぐ刀剣による殺傷事件を受けて廃刀令の是非を議論するタウンミーティングに観客は参加しているといった構図。
まず真っ先に意識するのはアメリカの銃規制の問題であろう。銃乱射事件が頻発してもアメリカが銃規制に踏み切れずにいるのに対して、それを日本における刀に置き換えるのはそれぞれのナショナル・アイデンティティを上手く置き換えているように感じた。
しかしそれ以上に、コメディとして面白い。廃刀令の推進派、反対派に分かれた有識者が壇上で討論している様子は「朝まで生テレビ!」よろしく、議論の深まり以上にある種のエンターテイメント性を内包している。登場人物たちの造詣も豊かで、全日本刀剣協会の支部長や(さながら全米ライフル協会のような)、いかにもメディアに“美人”政治家と揶揄されそうな女性活動家、斜に構えた歴史小説家など、登場人物それぞれに見せ場があり、魅力があった。もう一点、評価すべきは会場を劇場ではなく区民センターなどの公共施設にしたことであろう。タウンミーティングといった設定を生かす上で、演出と制作体制が一体となった会場選定は観客にとっても効果的で成功していたように思う。応募時に団体が書いていた「ポータブルで持続可能な演目づくり」という点も、各地の行政施設で上演可能な作品と考えれば狙い通りであろう。
概ね面白いエンターテイメント作品として楽しんだが、審査会で別の審査員からは歴史的解釈やリアリズムとしての問題点について指摘があった。「国民皆が帯刀している」という点や、それが何故現代まで許容されているのかといった視点を持つと疑問に感じる観客もいるのだと認識した。シチュエーションコメディの設定にどこまで細部を求めるかは考え方次第の部分もあるかと思うが、指摘には肯く部分もあったので記載しおく。
実演鑑賞
満足度★★★
ダンスカンパニーによる異色の落語会。
ネタバレBOX
自分が鑑賞したのは《そば組》の公演で、それぞれ松竹亭白米(おにぎりばくばく丸/上田勇介)が『青菜』、松竹亭ズブロッカ(服部哲郎)が『蒟蒻問答』、松竹亭ごみ箱が『居残り佐平次』、仲入り後には『ダンスで分かる三方一両損』なる演目が行われ、最後にフィナーレのダンスで幕切れとなる。
面白かったです。あの、それは落語の出来を楽しみたかったら寄席に行った方が良いのですが、そこは工夫をしていらして、『青菜』では本当にお酒を飲んだり、『蒟蒻問答』では問答の場面でダンスが挿入されたりと、ダンスカンパニーが落語会をする、といった標題通りになっていたかと思います。いわゆる天狗連とは一味違いました。
一つアイデアがあるとすると、もっとイベントとして、お祭りとしてやっても良いのではないかなと思います。例えば出店を募ってお客さんが買えるようにしたり、地域の他のアーティストにも声をかけて出し物をやってもらったり、もっと言うと一つの公演ではなく“afterimageフェス”みたいにして、そのうちの演目の一つとしてやってみたらより広がりがあるのではないかと思いました。そうすればこういう色物に加えて、本気のダンス演目も加えて締めたりと、客層も広がるのかなと考えたりしていました。制作大変そうですが、出来なくもない気がします。
実演鑑賞
満足度★★★
唐十郎の名作と、俳優の肉体と。
ネタバレBOX
戯曲は説明するまでもないが1969年初演、岸田國士戯曲賞を受賞した唐十郎の代表作の一つ。まずは若手と呼ばれる団体が日本の既存戯曲に取り組むことは積極的に評価したい。日本の特に小劇場ではやはり新作上演が多く、戯作と演出を兼ねることも多い。それ自体はそれぞれの創作過程の上で選択してきたことであるのだが、やはり古典や名作の再解釈や現代的価値観との化学反応は、演出という職能を考える上で重要に思う。ヨーロッパが文化としての、あるいは市場としての舞台芸術を築けたこともそれぞれの時代の戯曲を再解釈して現代作品として提示する一貫性が観客と共有できる部分として用意されていることも大きいと感じる。大きく様式の異なる近松や南北にすぐに取り組むのは難しくとも、木下順二や宮本研、寺山修司といった近代における名作を再解釈する余地はまさにこれからであろう。どれも新劇やアングラといった枠には収まらないはずだ。
前段が長くなってしまったが、1960年代から連なるアングラ演劇の旗手たる唐十郎の作品にゲッコーパレードが取り組むことは、まさに前述の文脈にも適うことだろう。その上で、その上演をどう評価するかというと少々難しい。ほぼ元の戯曲通りに上演された本作は、その演劇が我々が想像しうる“伝統的”アングラの作法に則っていたようにも思う。デフォルメされた動きに節のついた台詞回し、少し毒を感じる衣装やメイク。俳優達はケレン味たっぷり。特に劇場内を不規則に力強い足どりで移動していた小川哲也演じるボーイは、自分にとって春日野八千代より印象的であった。
今回の応募にあたってゲッコーパレードは「この公演の一番の意気込みは、俳優中心の演劇を作ること」と述べ、それは演劇にとって必要不可欠である俳優が消費されず、主体的に演劇を作ることを目指しているとしていた。なるほど、それは確かに取り組まれていたのかもしれない。俳優はそれぞれ異なる演技体を持って作品に臨み、舞台美術や小道具は排除され、俳優が制約を受けるものは極力取り除かれていた。『少女仮面』の戯曲を読んだことや作品を見たことのない観客は場面が想像できない部分もあったかもしれない。それでも俳優たちは自由であったのかもしれない。では、そして、自由になった後の俳優たちはどうなるのか。舞台の上での虚構を失い、自己の肉体のまま戯曲の台詞を語る俳優は、何者になるのだろう。
ゲッコーパレードの、特にこのシリーズの取り組みは道半ばであろう。俳優が俳優として舞台に存在することになった先に何を描くのか、それは特権的肉体論の先を描かなければならないのではないか。模索してほしい。
実演鑑賞
満足度★★★
高校生5人組の卒業旅行を描くロードームービー的舞台。
ネタバレBOX
劇団の母体となる演劇部が高校の全国大会で準優勝した時の作品を15年ぶりにリメイクした上演。テキストはテアトロ新人戯曲賞佳作を受賞している。この高校の大会で上演したのが2008年とのことなので、自分とはほぼ同世代ということになる。舞台は卒業旅行中のアメリカで、道中様々なトラブルが起き、それぞれの少年達が抱える葛藤や問題を乗り越えたり抱きしめたりしながら物語は進んでいく。
物語としては映画「スタンド・バイ・ミー」よろしく、ある種の伝統と形式に則ったプロットで描かれ、斬新さの代わりに安心感を得ている。役者の演技は情熱的で、20人程のキャパの会場において熱気が伝わってきた。一歩外に出ると西成の商店街に位置しているということを意識する観客もいただろう。
ここまで書いてきて思うのは、自分は本作の本来の没入感を捉え切れていない気がする。これは、自分が“高校演劇”というジャンルを捉え切れていないことにもつながる気がしている。大人になってから“高校演劇”というものを知った自分は、それが単に「高校生の演劇」であるだけではなく、“高校演劇”自体を愛好する人々がいることを知った。例えだが野球であってもプロ野球の方がレベルが高いことは承知の上で、それとは別に甲子園球児を応援する人々の気持ちと言うべきか。ある種の熱狂は、それを知るものにしか共有出来ないものがあるのかもしれない。その時人々は、技術やクオリティを見ているわけではないのだ。
これは、何も高校演劇が特異なものであると言及したいのではなく、特定の人々が理解できるある種の文脈がその作品にとって重要な場合、そうでない人々はどう観たら良いのか、という他の作品にもつながる課題であるように感じる。
実演鑑賞
満足度★★★
実際に起きた連続児童殺害事件を背景に描いた社会派劇。
ネタバレBOX
2006年に起きた秋田児童連続殺害事件を背景に、登場人物や社名等をフィクションに置き換えている。舞台を事件から20年が経った地元メディアに設定し、事件当時の回想や登場人物の過去を語ると同時にシーンとしても舞台上で見せていく。
リサリーサ演じる藤井あかりは、殺人事件の犯人とされる役の朴訥さと儚さを好演していた。舞台美術と照明も印象的で、出演者による場面転換のスムーズさとも合わさって、転換の多い本公演の各シーンを観客が理解する助けとなっていたように思う。美術・照明はこのテーマでいてリアリズムに依らず、幻想的な雰囲気を構築していたのも成功していたように思う。
脚本については疑問を感じた。物語の軸となる地方メディアや加害者については多面的に描いていた一方で、警察や裁判所など、特に警察については無能で高圧的で人間味のないキャラクターになってしまっていた。意図的にそう描いたのだろう。そこに作者の現場の警察制度や司法制度に対する主張が見て取れると解釈しても良いが、“体制側”もまた一人一人の総体である以上、踏み込んで描いて欲しかった。もう一点、加害者の精神疾患の描き方について。加害者が家族や社会に抑圧され、精神的に追い詰められていく様子は丁寧に描かれており、同情する観客も多いであろう。しかし、こと殺人事件においてはその精神疾患がかなり大きな要因として描かれているように感じた。その点を強調する必要があったのかは今でも疑問に思っている。精神疾患と重大犯罪を結びつけて論じるのは、実際の事件を元にしていたとしても、むしろ実際の事件を題材としていたからこそ、より慎重に扱うべきであったのではないかと今でも考えている。