実演鑑賞
満足度★★★
「語られることが隠しているもの」
なにかを抱えた7人が交わすささいなやりとりから、男女の相克や夢と現実のあわいといった普遍的なテーマが浮かび上がる秀作である。
ネタバレBOX
行路の途中峠にあるひなびた一軒家に宿を求めやってきたのは、安藤修二(仲野太賀)と兄嫁の静子(池津祥子)である。夏季のみ旅館営業をしているため季節外れのいまはこの二人以外に客はいない。部屋の奥で家の住人や近隣の住民と談笑していた修二だったが、小用で席を立った様子はどことなく憔悴している。修二は峠を越えたところにいる兄に軍服を持っていく途中らしく、そのことで人びとからかけられた言葉に動揺したらしい。彫刻家で道場を主宰している中田代表(豊原功補)は非礼を詫びるが、珍しい訪問者に興味は尽きないようだ。中田の部下の富永次郎(新名基浩)は兵役検査に落ちたコンプレックスからか、修二の持つ軍服に執心している様子である。
応接スペースで交わされる会話のなかから、少しずつ登場人物たちの背景が立ち上がってくる。この家に暮らす佐伯斗紀(二階堂ふみ)は、失踪した姉の悠子に焦がれていた正継(柄本時生)と結婚しており、悠子が飼っていたスジバという名の亀を飼っている。斗紀は甲斐甲斐しく正継を世話し、修二や中田たちにもにこやかに接するが、時折寂しそうな顔をしている。部屋の奥にいる正継の父・稔(岩松了)は中田や富永がこの家に入り浸ることを許したがために、彼らが増長する様子を斗紀や正継は忌々しく感じているようである。行き詰まった感のある斗紀は作り話を聞かせては妄想の世界に入り浸っている。玄関に飾られた熊退治の銃や時折聞こえる銃声、ヘビがスジバを狙って侵入したところを稔が杖で叩いたときにできた床の傷など、この家に刻まれた不穏さが頭をもたげはじめるなか、次第に惹かれ合う斗紀と修二だったが……
チェーホフの『かもめ』を下敷きにしたであろう本作は、雄弁でときに理性的な登場人物たちの会話の向こう側で決して語られないことを観客に想像させる仕掛けが随所に施されている。スマートフォンはおろか電話やテレビも出てこない時代設定はいつなのか、どのような戦争が起きたのかといった、そもそもの前提を自問した観客は少なくなかっただろう。それに、いつもは屈託のない正継が時折ボールペンで亀のスジバ(ロシア語で「運命」や「宿命」を意味するとあとで知った)をつっついたり、水質検査という名目で熊よけの銃を持参して出かける様子であるとか、大量の薬品を使って抑えようとしている病もちの静子が負っていることなど、それぞれの登場人物の背景に私は幾度となく思いを馳せた。
俳優は皆健闘しており、特にクセの強い富永を演じた新名基浩が、静子の持つ軍用水筒を取り上げ、返してほしければ軍服を着せろと、無理やりな論理で迫るところが秀逸であった。斗紀を演じた二階堂ふみによるヘビの逸話も、季節の移り変わりを入れ込んだ秀逸なセリフがやや誇張された台詞回しに合って、さながらテネシー・ウィリアムズ作品に出てくる女性のように美しくも妖しい魅力を醸し出していた。数回ある暗転前に挟まれるピアノの旋律が心地よく、人物の心情に寄り添うように微妙に変化する照明も作品に多大な貢献をしていた。詩的なセリフは奔放なイメージの飛躍を起こしていて、私を含め満場の客席にどれだけ伝わったか、作り手の意図をどれだけ汲み取れたのかは不安が残るが、味読の歓びに満ちた良作であった。
実演鑑賞
満足度★★★
「声が紡ぐ三つの物語」
三名の出演者(佐藤竜、吉澤尚吾、一宮周平)が何役も兼ね、加藤亜祐美がピアノをメインにピアニカやボーカルなどさまざまな音で三つの情景を紡いでいく音楽劇である。
ネタバレBOX
まずは美声院なる店で声を調整する習慣のある世界が舞台である。ある朝部長の声が急にハイトーンになったことで社員たちは色めき立つ。気になる女性の好みに合わせて声を整えるという設定が面白い。
つぎはある父子が登場する。父(吉澤尚吾)は赤ん坊のコエタ(佐藤竜)を険しい表情で優しくあやすといったことをしていたため、成長したコエタは若かりし頃の竹中直人のように泣きながら笑うといったような芸で人気を博す。しかしコエタを見捨て父は去っていくのだった――爆笑のあとにほろ苦い余韻を残す物語である。
ラストは2023年に金沢で行われた「百万石演劇大合戦」で発表され観客最多得票を獲得した「アしクサ」である。男(一宮周平)は学生時代の親友(吉澤尚吾)を自宅に招き入れるが、親友への恋心をうちに秘めている。佐藤演じるロボットの「アしクサ」はそれを声で聞き分けて気を遣う。
物語の合間に入るショートショートも面白い。他の出演者に支えられて一宮が体を逆さにした状態で発生したり、人物のオノマトペをすべて声で表現するなど趣向が凝った公演であった。
実演鑑賞
満足度★★★
「言語と記憶の誤解が生むディスコミュニケーション・コメディ」
周到に練られた脚本と俳優の力演が客席をわかせるコメディである。
ネタバレBOX
とある国際会議に親に同行してきた高貴な家柄のファロニア・デッドライン(村角ダイチ)とバッソ・フェルボーミ(ボブ・マーサム)は、ドルベルト・デュマック(高阪勝之)の斡旋で限られた人たちしか使用できないマッケンジールームなる瀟洒な部屋に集う。親たちの目を盗み深夜の会議室に集った御曹司と御令嬢は何やら商談をしているようだ。
出演者は非日本語話者が話すたどたどしい日本語を操り対話を展開するが、それがあたかも海外ドラマの吹き替えを観ているかのような心地がしてまず面白い。「すり合わせ」を「すなぎも」と言ってしまったり、お茶を汲みに部屋を出る際カジュアルな挨拶として悪気なく「殺してやるからな」と言ってしまうなど、覚束ない対話を繰り広げている。ファロニアを警戒するドルベルトは、バッソに対し「隙を見せないでほしい」「援護射撃を頼む」と念を押し己のプランへの賛同を頼んだつもりが、バッソはそれをドルベルトのファロニアへの密かな好意(隙=好き)と誤解してしまう。気を利かせて二人きりにしたバッソだったが、部屋にいたファロニアはバッソの日和見主義的な態度に「ほれてしまう(呆れてしまう)」と誤って発音してしまい、ドルベルトはそれをバッソへの好意と誤解するのだった。当然話し合いはうまく進まず、ここまでのディスコミュニケーションを解消したところで暗転すると、時代は30年後に移る。
熟年になり立場を得た3人は再びマッケンジールームに集い若き日の一夜を思い出す。この30年で皆の日本語はだいぶ向上したようだが、曖昧な記憶がまたしても相互理解の足かせとなってしまう。ファロニアは当初ドルベルトが自分に惚れていたはずだと言い張り、ドルベルトはファロニアについてバッソに「生き馬の目を抜かないでくれ」と言ったはずだと譲って聞かない。バッソはドルベルトとファロニアが二つの扉から入れ違いで出入りした場面を「ドアノブコメディ」と評した筈だと声を荒げるものの、そんな訳はないと他の二人に窘められる。ここまでくるとじょじょに観客の記憶も曖昧になってくる。やがてタイトルが意味する「頑固者」通りに三者が譲らないため各々の勝手な記憶の再現が舞台上に展開するが……
言語と記憶の誤解によるディスコミュニケーションの連続に会場は大いに湧いた。物語が進むにつれてパターンが見えるきらいはあったし、前半部のコミュニケーションの答え合わせがややくどくもたついたが、丁寧な作劇のおかげで最後のいい加減な記憶の再現の場面が盛り上がったことは言うまでもない。ボブ・マーサム演じるバッソが、場を仕切りながらも決定的な場面では「キングメーカーになりたくない」と明言を避ける情けなさ、高阪勝之演じるドルベルトの育ちの良さゆえの鼻につく態度、そして村角ダイチが女形で演じたファロニアの高貴な天然ぶりなど、役者が皆イキイキしていた。
実演鑑賞
満足度★★★
「夫婦役者による愁嘆場を堪能――『婦系図』」
泉鏡花が1908年に発表した小説をもと翌7年に初演された新派の代表的演目のひとつである。過去に手掛けたことのある仁左衛門の早瀬主税、玉三郎のお蔦の初顔合わせが実現した。
ネタバレBOX
少年時代はスリだった主税は酒井俊蔵(彌十郎)に助けられドイツ語学者に大成したものの、柳橋の芸者であるお蔦と密かに所帯を持っている。酒井に俺を取るか女を取るかと迫られた主税はお蔦に別れを切り出す。
発端の本郷薬師縁日の場でスリの万吉(亀鶴)が追い詰められる窮地を主税が救う場面で、万吉を見て往時を思い起こす仁左衛門の思い入れが印象深い。その後の柳橋柏屋で酒井に迫られるくだりでは、正座のまま二回後ろに下がって酒井に頭をつく、ここから主税の苦悩が浮かび上がる。事情を知る柏屋の芸者小芳は、萬壽のおおらかさが師弟の厳しいやり取りをうまくとりなしていた。
さて、原作にはなく新たに鏡花が書き下ろした湯島境内の場になると、まずは芝居の声真似の男二人が前幕の厳しいやり取りに沈む客席を盛り上げる。そこからいよいよ仁左衛門の主税と玉三郎のお蔦が入ってくる。玉三郎のお蔦のナチュラルな語りは『怪談 牡丹燈籠』のお峰を彷彿とさせる。主税の思いがけない告白をはじめは冗談のように受け取り、そこから真相を知り絶望に突き落とされるまでの怒涛のような感情の流れが手に取るようにわかってうまいものである。酒井からの手切れの金を渡されて思わず投げ返すところにこの女の意地が浮かんだ。主税とお蔦が涙を浮かべながら幕となる愁嘆場は決まりそうで決まらない、これが新派かと思わせる余韻を残した。
実演鑑賞
満足度★★★
「播磨屋二代の当たり役」
九月歌舞伎座は初代吉右衛門の功績を称える恒例の秀山祭である。夜の部に二代の吉右衛門が得意とした「妹背山」より「太宰館」と「山の段」、そして二代目が80歳になったらまた演じたいと生前語っていた「勧進帳」が出た。
ネタバレBOX
朝廷の転覆を企む蘇我入鹿(吉之丞)は太宰後室定高(玉三郎)の屋敷に大判事清澄(松緑)を呼び出し、帝が寵愛する采女の局の行方を詮議する。領地争いで敵対している定高と大判事だったが、二人が結託して采女の局を匿っていると疑う入鹿は、もし潔白ならば定高の娘雛鳥(左近)を入内させ、大判事の息子久我之助(染五郎)を出仕させろ、従わなければ子どもの首を打てと命じ、手にかけたら両家の間に流れる吉野川に流せと桜の枝を渡す。
短い幕だが観ておくと続く「山の段」の筋の理解が深まる。定高と大判事の不仲ぶりが玉三郎と松緑の競り合いでよくわかる。吉之丞の入鹿の芝居は堂々としているが、あまり暴君めいてないうえに時々声が割れるところが気になった。ちょっと出るだけだが荒五郎の早見藤太が入鹿から両家の監視のために遠見を渡されて花道に引っ込む、その姿形がきれいである。
続く「山の段」では吉野川を挟んだ下手側の妹山の館にいる雛鳥が背山にいる久我之助に思いを向け、それに呼応して久我之助もまた愛する雛鳥に応えるという若い二人の芝居がまずある。左近も染五郎も、役の年齢に近いうえに健闘してはいるものの、もっとあふれるばかりの情愛を感じたかった。続いて上手側の仮花道から大判事が、少し遅れて本花道から定高が入ってくる。玉三郎の定高は過去二回とも二代目吉右衛門を相手にした気迫に満ちたものであったが、後輩の松緑が相手の今回はその大きさが際立つ。昨年の初役から間もなく二演目となる松緑の大判事は玉三郎に果敢に挑んでいるが、より屈強で巌のような大きさがほしいと思った。
前回の玉三郎の定高は雛鳥に対し「貞女の立てよう、見たい見たい」の鋭い気迫が強烈だったが、今回はむしろ娘への情愛により強いニュアンスがあるように見えた。松緑の大判事も「侍の綺羅を飾り、いかめしく横たえし大小、倅が首切る刀とは、五十年来知らざりし」のところが情愛溢れんばかりであった。互いの子どもに果てようとしているところで二人の親が川を挟んで向かい合う仕方話は玉三郎と松緑の気持ちが通じ合っていて胸が熱くなる。妹山の腰元小菊の京妙、桔梗の玉朗がともにいい仕事をしている。
続く「勧進帳」では、まず菊之助の富樫が明瞭な台詞回しと、何としてでも朝敵義経一行を取り逃がさんとする大きさで圧倒された。続いて花道から入ってきた染五郎の義経の美しさに目を取られると、やがて今回三回目となる幸四郎の弁慶が、二代目吉右衛門を彷彿とさせる滋味ある口跡と大きさで客席を魅了する。菊之助と幸四郎による背丈の合った火花の散らし合いがいいので、勧進帳の読み上げと山伏問答は特に盛り上がった。真相を慮った菊之助の富樫の「今は疑い晴れ候」は万感の思いに溢れていた。染五郎の義経の「判官御手を取り給い」はもう少し柔らかさがほしい。そのあとの弁慶による戦物語は幸四郎の体のキレの良さもさることながら、ここまでの芝居がいいため特に印象に残った。
実演鑑賞
満足度★★★
「力強い演奏と舞のコラボレーション」
パーカッション奏者の加藤訓子がギリシャの現代音楽家であるヤニス・クセナキスの打楽器作品を演奏し、それに合わせて能楽師とコンテンポラリーダンサーが踊る。2022年に彩の国さいたま芸術劇場で初演した「クセナキスと舞」の一部再演である。
ネタバレBOX
第一部では「ルボンa」「ルボンb」に合わせ、観世流シテ方の中所宜夫が舞った。跳ね返るという意味のある曲名通りにゆっくりとしかし激しく弾く加藤の演奏を背景に、中村は四角く照明が当てられた空間で舞っていく。ドラムのタッチはじょじょに激しくなるが中村は揺るがない。いつもの能楽堂で謡や笛、鼓で観ている能楽師の身体が、西洋の太鼓を背景に観るとより土臭く大陸的に見えて面白い。せっかくなので前シテが後ジテにヅカッと、なにかに取り憑かれたように変わる振りも観てみたかった。
第二部は12名の若手演奏家による「プレイアデス」である。第一楽章のみ加藤が指揮に入り、あとは各楽章ごとに演奏家が入れ替わる。特に印象的だったのは第二楽章冒頭の鉄琴の合奏がうねりような倍音を生み、あたかも眼前に水の流れを見るが如くであったところである。また第四楽章で主旋律が聞こえなくなったあとにまた別の旋律が生まれては消えていくくだりを繰り返したところは、先月京都で聴いた同じパフォーマーたちによるスティーヴ・ライヒ作曲の「ドラミング ライヴ」を想起した。
第三部は加藤演奏による「プサッファ」に合わせコンテンポラリーダンサーの中村恩恵が踊った。アジア的に聴こえる冒頭の三拍子の太鼓の音色に呼応するかのように、左右の手先を広げ拍子に合わせ左右の膝を落とす鋭角的な動きがまず目に付く。そのうち急に地響きのような大太鼓の音がすると、落雷に撃たれたかのように中村の身体は崩れ落ち、そこからまた胎児が成長するかのようにゆっくり動き始めて、また冒頭の鋭角的な動きに戻る。気がつくと第一部で中所宜夫が舞っていたのと同じ四角い照明の縁を動いていき、やがて普通の二足歩行になると、美しいガラスの装飾のコンパクトに収められていた化粧をし、ガラスの椅子に戯れると、美しい玉に頬ずりをして幕となる。胎児が少女となり、やがて女王になるまでのひとときを観たかのような心地がした。
実演鑑賞
満足度★★★
「渦中に響く芸能讃歌」
1979年の初演以来シリーズ化され上演が続いている北村想の代表作である。作品世界の時系列に鑑み『寿歌Ⅱ』『寿歌』の順に二本立てで、「明星」「夕星」の2チームが上演した。私は夕星チームの初回を鑑賞した。
ネタバレBOX
星々がまたたく大空の下、核戦争前夜の荒野を大きなリヤカーを引きさまよう九重五郎吉一座宣伝隊のゲサク(滝沢花野)とキョウコ(廣田高志)、カリオ(谷山知宏)の3人は、耳は聴こえるが喋れないクマ(小林春世)と出会う。身振り手振りでコミュニケーションを図る彼らは自作の劇や歌を披露して喧しい。ようやく町に着こうかという段になると、クマが宣伝隊の悪評を流そうとした裏切り者の容疑をかけられてしまう。近くを恐竜が通りかかり放射能の影響で雲が燃えるなかでの4人の道中が、巧みな言葉遊びを交えて描かれていく(『寿歌Ⅱ』)。
核戦争後の荒野を彷徨うゲサクとキョウコの元に現れたのは、茨の冠と白い腰布をまとった貧相な身なりのヤスオ(坂本七秋)である。ヤスオはその場にあるものを増やす能力を持っていて、残り少なくなっている食料や水に飢えていたゲサクとキョウコに重宝され行動を共にすることになる。遠くの方でミサイルや爆弾の光がまたたき地鳴りが響き渡る3人の道中から戦禍の喪失を感じるものの、概して明るく騒がしいのは変わりない。ようやく町に到着した一座は人々の前で芸を披露し、ゲサクはロザリオを増やして配りだすが……(『寿歌』)
銭湯を劇場に設え直したBUoYの空間は、古ぼけたタイル張りに使い古された洗い場と大風呂が目を引く独特のものである。これだと特別にセットを組まなくとも戯曲の設定に合致していて違和感がない。過去の「理性的な変人たち」の公演ではやや声が大きくテンションが高すぎると感じられた俳優の芝居も、荒野のなかさまよう芸人たちという設定によく合っていた。ゲサクとキョウコの息のあった漫才にはじまり、滝沢花野の絶唱に唸るプッチーニの「私のお父さん」の替え歌、谷山知宏が魅せるカリオの女形や、器用な小林春世によるクマの身振りなどさまざまな芸が詰め込まれ、それぞれの俳優に見せ場が作られていた。演出の生田みゆきの面目躍如といったところで十二分に堪能したし、芸能はいついかなる時でも不要不急ではないという讃歌にも見えた。
冷戦下で発表された作品が、初演から40年以上経った現在の世界情勢を反映して新たな見え方をしているというのも発見である。坂本七秋演じるヤスオだけでなく、一座に石を投げつける町の人々など、作中のいたるところに仕込まれているキリスト教的な文明と、一座に象徴される流浪の民との対立と邂逅は、生田が昨年演出したフェルナンド・アラバール作『建築家とアッシリア皇帝』に通じるところがあった。
実演鑑賞
満足度★★★
「支配と被支配を行き来する男の半生」
ある宗教二世の流転の半生が支配と非支配の関係性を浮かび上がらせる秀作である。
ネタバレBOX
離島にある新興宗教の家庭に生まれた丸琥(久保田秀敏)は、幼少時から母(藍澤慶子)に厳しく躾けられる。友人たちから奇異な視線を浴びており鬱屈していた丸琥だったが、教室での悪ふざけで怪我を負わせた英(日向野祥)から過剰な被害要求を受けた腹いせにブチギレたことが契機となり、あたかも母が自分にしているかのように弱者を支配する術を身につける。
やがて上京した丸琥は島での息が詰まる日々を発散するかのように放蕩を尽くす。夜の街で職を得た丸琥は、路上で詩を読んでいたレイ(富田麻帆)と結婚し長女のノコ(高柳明音)を授かると、上司の中村(久下恭平)の紹介で地方の工場に就職する。過重労働により支配される側に立った丸琥の脳裏には、島で自分と似たような境遇にあったキリコ(齋藤明里)のことが過ぎる。やがて過去の腹いせで英らがノコを誘拐したという連絡が届き……
本作の魅力はスピーディかつ先行きの読めないストーリー展開である。大仰なセットを組まず、メインキャスト以外は数役兼ねる手際の良さが映えていた。扱いにくい題材で暴力的な場面も少なくなかったが、緊張感を持続させながらところどころギャグを入れ込んでいく鮮やかさは大したものである。
他方で話の展開がやや拙速で俳優の芝居を堪能する場面が少なかったことは残念である。特に冒頭、丸琥が英を静かに恫喝し支配する側に立つときに襲われる狂気であるとか、キリコの幻影に苛まれるという物語の核になる場面はサラリと流される程度で終わってしまった。藍澤慶子演じる母が丸琥を言葉で虐待する場面は鬼気迫るものがあったため惜しい。
実演鑑賞
満足度★★★
「再び集う家族の物語」
性格の違いが際立ちバラバラに暮らす三姉妹が、母の死をきっかけに再び集い、不器用ながらも絆を深めていく秀作である。
ネタバレBOX
物語は三ノ輪に住む箕輪家の次女苑子(冨岡英香)の語りから幕を開ける。丸の内のベンチャー企業に勤める苑子は子どものときから利発で成績がよく、ハラスメント気味な社長(宮野風紗音)と要領の悪い新入社員(村上弦)のあいだを取り持ったり、家庭のゴタゴタを調停する役割に長けている。仕事の傍ら余命3ヶ月と宣告された母の幹江(はぎわら水雨子)の見舞いを続けるなかで、いまは離れて暮らす姉妹や、離婚して出ていった父(藤田恭輔)と過ごした日々を回想する。
自主性の強い末妹の茜(瀧口さくら)と内弁慶な長姉葉月(中島梓織)は子どもの頃から折り合いが悪く、両親が離婚してからはさらに拍車がかかったらしい。居酒屋で働いている茜は実家を出て北千住で一人暮らしをしており、彼氏の茶柱篤人(岡本セキユ)の同棲を計画している。かたや職を転々としてきた葉月は10年前に実家を出てしまい、家族に隠れ町屋で造園事務の仕事に就いていた。物語は姉妹それぞれを主に据えた章立てで進行していき、やがて三姉妹揃って死期が近いながらも屈託のない母の幹江に会いにゆくことになる。
本作は台詞の秀逸さと流れるような展開のうまさが際立っている。あらすじだけ書けば深刻な話のようだが、随所にコミカルな仕掛けが入っていて飽きることがなかった。箕輪家のご近所さんで会ったそばから髪を切ろうとする美容師の徳永タエ子(柿原寛子)と、有名歌手と同姓同名であることをネタにしている兄の秀明(袖山駿)が、やがて三姉妹を再会させる契機を作るといった伏線も周到である。苑子の会社の社長にはじまり茜の勤める居酒屋の店長や葉月の親方、果てはコインランドリーまで演じ分けた宮野風紗音、気の弱い新入社員や幹江とギャグ合戦を繰り広げる看護師を担う村上弦の達者さも印象深い。
他方で全体的に説明過多で、俳優の演技で感じたかった役の感情を台詞が説明しすぎるきらいがあったことも事実である。冒頭で苑子が家族の状況について観客に語りかけるところも丁寧であったが、やや喋り過ぎではなかったか。子ども時代の回想や不器用な葉月が職場で邪険に扱われる様子も描きこまれていたが、あえて描かず俳優の語りで観客に伝えるという手法も考えられただろう。母親に会いにいく場面のバスの乗車やマイムでコインランドリーを表現する場面など手数の多さには感心したが、もう少し狩り込んでみてもよかったのではないだろうか。
実演鑑賞
満足度★★★
「建国神話が浮かび上がらせる韓国社会」
日本でも邦訳上演されてきた韓国の劇作家コ・ヨノクの作品である。過去にも同作を手掛けたことがあるキム・ジョンが今回も演出した。
ネタバレBOX
山で迷子になった女(小暮智美)は熊に助けられ、やがて子どもを授かる。しかし女は熊との間に設けた子どもを猟師(荒川大三朗)に殺されてしまう。他方、森に置き去りにされた男(大塚航二朗)は女に助けられ、やがて女との間に子どもを設ける。当初は幸せそうであったが、やがて二人の間にじょじょにほころびが生じはじめる。男は女友達(荒木真有美)への思いに揺れ、会社では社長(齊藤尊史)に詰め寄られる。かたや女は母(鬼頭典子)との関係に悩む。不穏な空気にはかつて女が交わった熊の存在が横たわりーー
パンフレットに掲載された作者のコメントによれば、韓国の原始部族には熊と人が結婚し家族を築く神話があり、それが建国神話になっているのだという。本作は韓国社会が歴史的に直面してきた家父長制への鋭い批判を描きつつ、家庭や会社に縛られてがんじがらめになっている男性の嘆きを描くことに成功していた。
殺風景な舞台上では出演者が箱馬を使い、心情を代弁するかのようにブロックを立てたり、演技スペースを作っていたところは見応えがあった。男と女以外の俳優が持役以外の役に声を当てたり、舞台上を駆け回るようにして動くなど手数が多い演出はめまぐるしい。惜しむらくは照明変化が原色中心で微細な心情を描くまでには至ってなかった点と、男と女の話に焦点が絞られる後半は他の俳優が作品のパーツのように扱われていた点である。
実演鑑賞
満足度★★★
「皆で奏でる音楽劇」
宮沢賢治の童話「セロ弾きのゴーシュ」をもとに身体表現と音楽を融合させた作品である。
ネタバレBOX
ゴーシュ(一宮周平)はセロ(佐藤竜)をうまく弾くことができず、楽長(佐々木ゆき)から強く注意され落ちこんでしまう。ひとり練習を重ねるゴーシュのもとにかっこうや猫、狸や鼠がやってくる。動物たちと戯れているうちにゴーシュはじょじょに上達し、やがて自身の性格も明るく前向きなものへと変わっていく。
本作の面白い点は、ミュージシャン(加藤亜祐美、志賀千恵子、鈴木広志)の演奏を背景にゴーシュやセロと動物たちのやりとりがコミカルかつ可愛げに描かれていた点である。それぞれの動物を想定して作られたのであろう音楽を奏でながら、出演者が会場に向けかっこうの鳴き声や狸が腹を叩く音を投げかけ、観客のレスポンスを受けて演奏チームが盛り上げるという円環ができあがっていた。動物役を兼ねた佐々木ゆきと轟もよ子が達者である。
一宮周平が時折見せるゴーシュの根深いコンプレックスとそれを乗り越えようとする姿勢、それに呼応するかのように佐藤竜演じる擬人化されたセロもまた性格がじょじょに明るくなっていくところなど、この二人の芝居があることで作品が深くなった。事前に配られた造花を観客がゴーシュに渡す場面で見せたゴーシュの戸惑い、そこから自信をつけていくという芝居が印象的である。セロを奏でる場面では二人で歌い上げるという表現も会場を沸かせていた。
実演鑑賞
満足度★★★
「幽閉者たちの悲喜劇」
1957年に初演された本作はサミュエル・ベケットによる二作目の戯曲である。
ネタバレBOX
アトリエ春風舎の急ならせん階段を降りた先にある劇場内に入ると、舞台中央に白いシーツがかぶさった状態で安楽椅子に寝たままの人物が鎮座している。開演前の客席にはうっすらと雑音が響き、天井に設置された蛍光灯が白、緑、紫、青と移り変わっていって、酷暑の汗がすっと引いていくかのような心地がした。
奥から足を引きずりながら脚立を伴い現れたクロヴ(伊藤拓)は、上下の天井から垂れ下がっているカーテンの上方を開き、四角い穴からこちらを覗き込んで短く笑う。そうこうしているうちに安楽椅子に寝座っていたハム(川本三吉)が起きる。彼は目と両足が不自由で立ち上がることができない。二人の会話にはエコーがかかっていて、まるで二人とも半地下で幽閉されているかのように見える。上演会場に合わせたのであろう独自の設定がまず面白い。
やがて舞台奥のドラム缶に入っているナッグ(瀧腰教寛)が顔を出し、「お粥くれよ!」とせがむがハムがいさめ、ハムの命によってクロヴがなんと犬用のビスケットを与え、さんざんに喚き散らすところを上から蓋をされてしまう。ハムの会話から察するにナッグはなんらかやらかして下半身を失ったようである。もうひとつのドラム缶に入っているネル(赤刎千久子)とはいい仲のようで、かつての甘い日々を回想している。どうやらふたりともあまり体調がすぐれないようだ。
ドラム缶に入ったままの二人を背景にしてクロヴとハムの対話は続いていく。犬を所望したハムにクロヴは一足が欠けたぬいぐるみをかしずかせる。外の天気が知りたいハムにクロヴは穴から望遠鏡を使って様子を見るが、そんなことはしなくていいと咎められる。蚤取粉をかけたり、ドラム缶に入っているナッグとネルの様子を見に行かせたり……静止しているかのように感じられる空間と時間のなか展開する他愛のないやり取りに、観客はそれぞれ思い思いを重ねることとなる。
『ゴドーを待ちながら』でひたすら待ち続けているウラジーミルとエストラゴンと異なり、クロヴはここから出ていこうとするが出ていかない。脚が不自由なクロヴは暴君のようにこき使うハムに悪態をつくものの、言うことを聞いて甲斐甲斐しく世話をしている。ふたりの支配と共依存の関係は現代にも通じる普遍性がある。職場や家族、恋人や友人、はたまた国際情勢にまで当てはめることは可能だろう。
二人ともやや声が大きすぎるきらいがあった点は気になったが、この噛み合わない対話が面白いため川本三吉演じるハムによる数回の独白があまり盛り上がらなかったのは残念である。しかし終盤でこれまでの人生を回顧しながら救いについて問う独白は見ごたえがあった。
実演鑑賞
満足度★★★
「ウクライナ情勢を重層的に描く」
坂手洋二は2022年に映画監督の瀬々敬久からの依頼で、ロシアのウクライナ侵攻に反対するイベントを開催した。そこで行われた小説『地の塩』のリーディング公演が本作の発端である。
ネタバレBOX
このリーディング公演の模様を主軸に、かつて燐光群がウクライナで行った公演での体験、そして迫害を受けたウクライナ人の模様を重層的に描いていく。雑誌『通販生活』が表紙でウクライナ侵攻を猫の喧嘩に例えたため炎上した事件も盛り込まれ、随所に私小説的な視点が入り込んでいたところが独特である。
俳優たちは何役も兼ねるうえにいくつもの時間軸が交錯するためじつにどっしりと厚みのある見応えである。作者の主張は明白だが、時としてそれが強すぎるきらいがあるため好みの分かれる内容とも思う。
実演鑑賞
満足度★★★★
「豪華布陣によるきらびやかな言葉の応酬」
1976年に状況劇場が初演し現代でも頻繁に再演される名作を、長年唐十郎作品を手がけている新宿梁山泊が上演した。劇団のチームワークと豪華な外部出演陣が合わさり素晴らしい成果をあげた。
ネタバレBOX
すえたドブ川のたもとにあるうらぶれた傘屋のおちょこ(中村勘九郎)は、傘の修理を依頼してきた石川カナ(寺島しのぶ)に恋をしていて、彼女の傘をメリー・ポピンズのように空飛べるものにしようと、居候の檜垣(豊川悦司)を相手に実験に勤しんでいる。やがて姿を現したカナは檜垣とは古馴染みであった。ふたりにはある大物歌手のスキャンダルを巡る因縁があったことがここでわかる。
おちょこのもとには、じつはいかかがわしい生業をしているカナを目当てに来たトラックドライバーの男(六平直政)や、檜垣と旧知の仲である芸能マネージャーの釜鍋(風間杜夫)らが入り込んできて騒がしい。カナは故郷の下関に戻ろうとしているが、その目的は? そしてじょじょに追い詰められるカナは逃げきることができるのか……
実際のスキャンダルに取材したという本作は、他の唐作品同様に一癖も二癖もある登場人物たちが絡み合い、地名や初演時の風俗、映画や歌謡曲といったさまざまなイメージを散りばめた言葉の応酬が見ものである。
勘九郎のおちょこは自由自在、流れるような台詞回しが群をぬいている。NODA・MAP『走れメルス』(2004年)や野田版歌舞伎4作で磨いたのであろう力量が生きており、歌舞伎公演で観るよりもイキイキ軽々とした身のこなしである。テント芝居ではよくある客イジりもなく、アドリブはほどほどに、戯曲の要求した生真面目で一本気なおちょこを熱演していた。寺島しのぶのカナは黒いドレスと傘で花道から登場したその出から目が離せず、恋に生きる謎めいた女性に見えて時折品のない言葉を挟む達者ぶりで、Project Nyx『伯爵令嬢小鷹狩鞠子の七つの大罪』(2011年)にも通じるアングラ芝居の世界を十分に生きていた。そのカナを案じる豊川悦司の檜垣の凛とした立ち姿、胸を抑えながらタバコをくゆらせる色気に見惚れた観客は少なくないだろう。これまで数々の映像で寺島と組んできた盟友ならではの安定感であった。
六平直政が鼻血をおさえたティッシュを客席に投げたり、風間杜夫が歌手のモノマネをして大爆笑をとるなど、ベテランたちは客席を大いに湧かせていた。私が鑑賞した回でおちょこの店を訪れる元女優の保健所員を演じた三輪桂古のクセのある色気、終盤で保健所所長(松田洋治)の先導でカナを捕らえにやってきた大勢の所員の群像など、端役にいたるまで抜群のアンサンブルであった。
カナをとられ檜垣を失い悲しみにくれるおちょこが預かった傘で空を飛ぶラストは、舞台奥が開き紅葉のなかの宙乗りを見せ圧巻である。かつて十八代目勘三郎が紅テントをヒントに平成中村座を作り、その実子である勘九郎がテント芝居をするというめぐり合わせに胸が熱くなった。
実演鑑賞
満足度★★★★
「円熟の話芸と新たな息吹」
半年に1度の柳家さん喬による三鷹市芸術文化センターの独演会である。今回は東京では初となる桂枝光改め四代目桂梅枝の襲名披露を兼ねた盛会となった。
ネタバレBOX
夜の部はさん喬門下の前座小きちによる「芋俵」で幕が開く。芋俵に隠れて大店に侵入した泥棒だったが、身体を逆さにされたまま土間に置かれたうえ、夜半空腹を覚えた女中に俵越しに体を弄られたりして辟易する様をコミカルに描く。大きな目とまっすぐな声の小きちの語りが印象に残る。
同じくさん喬門下の兄弟子㐂三郎は出た側から客席にVサインを向け湧かせる。「このご時世ですが吉原の噺を…」と切り出した「徳ちゃん」は、粗末な部屋に案内された若い噺家が不格好な女郎に追い回されて痛い目に遭うという筋である。郭の呼び込みから浅薄な噺家ふたり、そして芋をバリバリ食いながらゴジラよろしく入室する女郎と自在な演じ分けに観客は大喜びであった。
お待ちかねのさん喬が披露したのは「天狗裁き」である。夢の内容を妻に問われても答えず、長屋の隣人から大家、そして奉行果ては天狗に問われても答えない、というよりそもそも夢を見ていないから答えられない…という悪夢にうなされる男の滑稽さを、愛嬌ある話しぶりで披露してくれた。
中入り前は柳家門下の花緑による「あたま山」。吝嗇な男が落ちているさくらんぼを食べすぎたばかりに頭に桜の木が生え、格好の見物となったものの煩わしくなり木を抜くと、今度はそこにできた穴に水が溜まり皆が釣りをして……やや過剰なほどのリアクションと声音の使い方で主人公や隣家の年寄りを演じ分けた花緑は、襲名にそぐわないとサゲを独自にアレンジしたのが印象に残った。
中入り後の襲名披露口上には前座を除くここまでの出演者に加え、新梅枝と三鷹市芸術文化センターの森元隆樹が並ぶ。新梅枝の妻がデザインしたという浅葱色に桃色の花、萌黄色の鳥と定紋があしらわれた祝幕を背景に各人が新梅枝の人柄を述べ、三本締めで今後の活躍を祈った。
本日二度目となるさん喬は「八五郎出世」で、朴訥な八五郎が大名に貰われた妹のお鶴との再会をおかしくもしみじみと語って聞き応えがあった。大名の屋敷にあがり田舎言葉で大名家の人々とやり合うくだりはまさに自在である。
トリの新梅枝は高座を飛び出さんばかりのオーバーリアクションでさん喬やほかの噺家との逸話を披露しまずはドッカンドッカン湧かせる。放蕩の限りを尽くし蔵に囚われた若旦那を待ちわびる芸者小糸がやがて亡くなってしまうという悲劇「立ち切れ線香」で、まくらとは打って変わった静けさが客席を占め、皆の新梅枝への注目を感じさせた。小糸が何度も送った恋文が若旦那のもとには届かなかったことを女将が回想するくだりは特に印象に残った。
実演鑑賞
満足度★★★★
「よりアクティブになった充実の再演」
昨年の「CoRich舞台芸術まつり!」グランプリ受賞作の再演である。
ネタバレBOX
母親が末期がんと告知された青年の告白に皆が耳を傾けながらも実はあまり内容を聞いておらず、話題の主軸が連想ゲームのように入れ替わっていく。途中に各俳優の独白は映像で投射されたりする。そのうち「きく」という行為を筒を使った競技のようにしたり、上下に激しくカエルジャンプのようにして表現したりとさまざまな方法で戯画化し、最後には「きく」行為の身勝手さを露わにする。
このように大筋はほとんど同じだが前回とはまた異なる趣の作品になった。前回SCOOLでの上演は天井が低く横長の空間設計のためか俳優の動きが左右が中心に見えて、さながらボードビルのような心地がした。今回の上演が行われたアトリエ春風舎は、客席から舞台を見下ろすようになっており俳優の動きが前回よりもよくわかる。舞台奥の階段や客席横の入口からも出入りするためよりアクティブな印象を受けた。
初日の客席は満員で特に若い観客を中心に反応がよかった。今後の上演でより多くの観客が本作を目にすることを期待したい。
実演鑑賞
満足度★★★
「結婚とケアを巡る会話劇」
問い直しを巡る議論が続きながらもなかなか進展が見られない日本の結婚制度について、新たな視点を設けた秀作である。
ネタバレBOX
横浜市西区にある市民施設の会議室では、現在の結婚制度に馴染めない面々が集い「べつの星」という意見交換会を催している。主催者で地方新聞の記者・編集者のコーデリア(梅村綾子)のもとには専業主夫でゲイのボトム(海老根理)や、書店員で同性の友人との結婚を望んでいるヘレナ(大川翔子)、政治家秘書のロビングッドフェロー(和田華子)ら常連が顔を揃える。ゲストで妻のヒポリタ(KAKAZU)とともに参加している与党政治家のテセウス(箱田暁史)は、現在議会で審議中の恋愛や性愛関係に縛られない「互助・共助のための結婚制度」について説明し、参加者から喝采を浴びる。もうひとりのゲストである大学生のジュリエット(松村ひらり)は、祖母を介護したいがためにこの制度を使い祖母と結婚したいと皆に打ち明ける。
この会合から1年後、明日には「互助・共助のための結婚制度」が施行されるという晩になり、横浜の街で「べつの星」の参加者たちが再び集うことになる。ヘレナは友人のハーミア(渡邉とかげ)がステディの恋人であるライサンダー(かとうしんご)とも結婚すると言い出したことに腹を立て、家を飛び出してしまう。じつはゲイであるテセウスが男と会いにベッドを抜け出したことに意気消沈しているヒポリタは、ジュリエットの祖母で街を千鳥足で徘徊するロミオ(村松えり)と邂逅を果たす。ロミオを心配するジュリエットは弁護士で政治家のティターニア(小林春世)を呼び出す。じつは妖精であるロビングッドフェローの導きでコーデリアは自宅に皆を招き入れ、緊急で「べつの星」の会合を開く。果たして皆は明日、無事に結婚式を挙げることができるのか……
エリザベス・ブレイクの『最小の結婚』に触発されたという本作は、現行の結婚制度への対抗としてきわめて興味深い創作である。シェイクスピアの『夏の夜の夢』の設定を借り明日は結婚式という一晩の珍事が、軽妙な会話劇として仕上がっていた。結婚や家族、友人関係やパートナーシップのあり方などさまざまな価値観を持つ登場人物たちを一堂に会したことも面白かったが、コーデリアの同性の恋人であるオフィーリア(納葉)の元恋人が「お笑い芸人のハムレット」で、このハムレットやローゼンクランツとともにトリオを組んでいたもののホームレスになったギルデンスターン(多賀名啓太)もまたコーデリアやオフィーリアの家族になるなど、サブストーリーの設定がいちいちおかしい。
周囲にソファが数台配置された一杯飾りながら、主舞台の周りを囲むようにしてべつの動線が組まれていたため、舞台がじつに広々と見えた。舞台奥にある外広場に繋がる入口から俳優が出入りしたり、窓から外の様子が見えるように工夫したなど空間設計がうまい。夜のトーンが印象に残る丁寧な照明変化も本作の魅力といえるだろう。俳優も皆健闘しており、コーデリアを演じた梅村綾子の柔軟さ、ティターニアの秘書でじつは妖精である豆の花を演じた前原麻希の達者さが印象に残っている。
しかし私には「互助・共助のための結婚制度」とはなにかが最後までよくわからなかった。ブレイクは「最小結婚」をケア関係をお互いに承認し支援する権利で成り立つと定義しているが、そのコンセプトを日本に援用し現在の結婚制度に馴染めない人たちを包摂する制度を構築したといわれても、あまりに雑駁すぎるのではないだろうか。同性婚や夫婦別姓の議論よりも先行してこうした制度が衆院を通過する日本は、現在よりもよほどリベラルであることは疑いえない。そうなると「べつの星」に集う人々の存在根拠がそもそも成立しなくなるのではないか。会話劇として秀逸なだけ、観劇中に湧いた数々の疑問が回収されないままなかば強引に円満解決していく展開を歯がゆいと感じた。
実演鑑賞
満足度★★★★
「待ちわびている社長の不在」
ある電気工務店の詰所の人間模様が、現代における会社のあり方を浮かび上がらせる2013年初演の三演である。
ネタバレBOX
宮崎県の片田舎にある電気工務店「宮崎電業」は社長の森が入院してからというもの社内にほころびが生じ始めていた。電工出身の叩き上げである営業部長の鈴木達郎(瓜生和成)は、東京の銀行から呼び寄せた執行役員の阿部光男(尾方宣久)を紹介するが、電工の職員たちからはよそ者扱いされてしまう。現場主任の甲斐嵩(五十嵐明)は電工一筋の職人肌で、同期の鈴木ら上層部が勝手に物事を進めることに不信感を抱いていた。この紹介の場面で鈴木が電工たちの前で数回「おはようございます」を繰り返す場面が、上層部と現場組の溝を浮かび上がらせる。
時間を見つけて詰所に趣く阿部に、電工たちは少しずつ心を開き始める。若手の戸高大輔(関口アナン)は学生時代からの付き合いの妻と結婚を決め家を買ったばかり、上昇志向が強く「電工では終わりません」と決意を述べる。戸高と同期の岩切修(吉田電話)はところどころ抜けた性格で皆に怒られてばかりのようだが、底抜けに明るいムードメーカーである。社員たちの口から語られるのは不在である社長の存在の大きさである。事務員の安田小春(竹原千恵)は社長の斡旋で電工の安田学(松本哲也)と結ばれることになった。下請会社の田原電気から出向している田原秀樹(佐藤達)は親子二代で仕事を受けており、新人の関和也(土屋翔)の教育係でもある。社長が贔屓にしていたスナックを営んでいた女性の娘である壱岐幸恵(平田舞)は、グレかけていたところを半ば強引に拾われ真っ当な勤め人になった。皆が待ちわびていた社長の突然の死を鈴木が告げると、電工たちはある意外な行動を起こすことを決める。
皆が話題にする不在の人物が大きな存在を占める本作を観ていて、私は三島由紀夫の『サド侯爵夫人』を想起した。『サド』が浮き彫りにしたのは絢爛な王政からフランス革命勃発による貴族の危機だったが、本作ではいっときは栄華を極めた人格者によるワンマン経営が衰退する過程である。経営者が変わるだけで社内の雰囲気がガラリと変わったり、外部から呼び寄せた人材に敵対する様がとてもリアルで共感を覚えた観客は少なくなかったのではないだろうか。電材屋の米良産業から営業に来ている綟川剛(依田啓嗣)が当初チャラチャラした長髪の青年で甲斐にドヤサれていたが、ケンタッキーの差し入れを頻繁に持っていくようになってから打ち解け、甲斐と朝まで飲んだ翌朝は短髪にするなど、世代間対立と和解を描くことにも成功していた。
登場人物も皆魅力的であり、人間の二面性を描くことに成功していた。事実上のトップとして会社を引っ張っていかねばならない営業部長の鈴木のぎこちない身のこなし、終始座ったままの目に双肩にかかったプレッシャーを垣間見る思いがした。他方で彼はフィリピンパブで知り合った女性と再婚を決めたり、そのことをバツイチの甲斐やいい歳をして独身の長友浩二(今村裕次郎)に自慢したり、そこから長友と田原、壱岐の三角関係を描くなど、よくも悪くも公私混同甚だしい職場ならではの特徴を生かした作劇が秀逸であった。
本作初演の11年前から社会状況は変化し企業コンプライアンスやハラスメントに対する世間の目は一層厳しくなった。社員のプライベートの詮索や恫喝まがいの叱責といった描写に違和感を覚える観客に向けたアナウンスはあってもよかったかもしれない。むしろ私は時代設定が2024年へ変更されたこの三演を観ていてもあまり違和感を抱かなかったことに軽い戦慄を覚えた。やがてラストシーンで社長の葬儀を終えた翌朝に皆でにこやかにラジオ体操を終え、真顔に戻り仕事モードへと切り替えようとするときの表情の変化で頂点に達した。それはケン・ローチ監督の『家族を想うとき』を観た時にも感じた、なにがあっても、どんなことがあっても翌朝は仕事に向かわなければならないという労働者の性に胸が押しつぶされる思いがしたからに他ならない。
実演鑑賞
満足度★★★
「他者と向き合い歴史を問う姿勢」
ネタバレBOX
「私には、距離があります/その時、そこで、生きていなかった、という距離です」
たまたま買った漫画本を読んだサト(中野葉月)は、そこに描かれていたある家族の戦争体験を読んだときに抱いた感覚についてこのように述べる。彼女は常日ごろ歴史の勉強に余念がないミタ(吉田諒希)とシル(さとうともこ)に詳しく話を聞こうとするが、己の行動に身勝手さを感じ及び腰になってしまう。自分たちもまた同じような気持ちを抱いていると二人に背中を押されたサトは、漫画を読んだときは言葉にできなかった衝撃を打ち明ける。困難を抱きながらも他者や歴史に向き合う姿勢は本作の主題である。
サトはパートナーで劇団の主宰者であるリタ(田村咲星)とともに、木々や珍しいきのこが目に映える森のなかに暮らしている彫刻家のカナ(田中雪葉)とパートナーのヒロ(赤坂嘉謙)のもとに滞在している。元看護師のカナは仕事に疲れ、森のなかに移住して造形作家として活動してきた。お金はないそうだが満ち足りた様子の二人に、リタとサトは同じく芸術を志す者として共感を寄せているようだ。4人の会話の合間に時折遠くから自衛隊が訓練で出す大砲の音が挟まってくる。
並行してiPadを片手に歴史の勉強しているシルとミタの対話が描かれる。シルが覚えているのはアイヌの英雄コシャマインが起こした和人への武装蜂起「コシャマインに戦い」の1457年や、松前藩の収奪に対して発生したアイヌ民族の蜂起「シャクシャインの戦い」の1669年、多くの屯田兵が動員された西南戦争の1877年に北海道旧土人保護法が制定された1899年と、道民の歴史にまつわる重要な年号である。この二人の世界に入り込んだサトは、やがて漫画に描かれていた物語について話しはじめる。道南に住んでいたある一家は、夫[赤坂嘉謙・二役]の旭川への招集を機に結婚1ヶ月で別居、妻[田村咲星・二役]は札幌に引き上げる。2年後に帰還した夫とともに幌泉に移住するも、夫は2度目の招集で釧路へ。子ども[田中雪葉・二役]とともに夫に会いにいった妻は、帰り道で幌泉が空襲に遭ったことを知り、帰還した街がめちゃめちゃになっていた様を目撃するーー。
声高に糾弾するわけでも調べたことをそのまま劇化するわけでもなく、淡々とした日々の営みから公権力に翻弄され続けてきた道民の歴史を浮かび上がらせるこの物語は、我々観客の国家観へ静かに疑義を突きつける。取材を通して体験した迷いや対象との距離感を包み隠さず提示したことで、虚構と現実のあわいを描くことにも成功していた。そういった意味では演劇が本来持っている芸術性が生きた作品と言えるだろう。
一杯飾りで二つの世界を並行して描き、やがて戦禍の物語を再現するという鮮やかな展開も本作の魅力である。俳優や照明、音響のチームワークがよく取れていたことの証左は、終幕で砲音とともにソーラン節を歌い踊りあげるという、力強くも皮肉な見せ場に結実していた。ショパンのノクターンが流れるなか穏やかに進んでいた森の中の対話が、風船を割る演出で急にシリアスなトーンになるなど、音の使い方がうまい。ただし空襲の描写で妻の心情を俳優が複数名で嘆く重要な場面は、破壊音が大き過ぎて私の席から聞こえにくく残念に思った。
説明的な台詞がない点には好感を覚えたが、私自身に北海道の歴史やアイヌ関連の知識がなかったため理解が難しいと感じる描写があったのも事実である。その点で漫画の再現場面で一家の暮らす場所が北海道の地図上に灯されていたのは大助かりだった。また森の中の4人のやり取りを見守りながら歴史の勉強をしているシルとミタは、じつは像であるという設定も戯曲を読んで初めてわかったところである。「せんがわ劇場演劇コンクール」での上演を見越しており時間の制約があったからかもしれないが、より肉付けした内容をもっと長い尺で観たかったというのが本心である。
実演鑑賞
満足度★★★
「線の太い菊之助の政岡」
五月恒例の團菊祭夜の部に菊之助の「先代萩」が出た。今回は一子千松に実子の丑之助が配役されたからか、実の親子という実感が強くなった。
ネタバレBOX
命を狙われている若君鶴千代(種太郎)を守るべく乳人政岡が神経を払いながら茶道具でご飯を炊く「飯炊」は、空腹に耐えかねている鶴千代と千松の様子を伺いながら時に涙を浮かべて準備を進めるところが見ものである。様子を探りに来た千松を叱ったり、千松と勘違いして鶴千代を叱ったりして謝るくだりで緊張が緩むが、できあがるまでの間どうしても手持ち無沙汰に見えてしまうところである。ここは十八代目勘三郎が丁寧な手前と母性を感じさせてうまいところだったが、菊之助は淡々と仕事をこなしているように見えた。種太郎の鶴千代は気品があり、丑之助の千松はひもじさに耐える健気さが伝わってきてうまいものである。
栄御前(雀右衛門)の入りになると奥から八汐(歌六)や沖の井(米吉)ら家中の女性たちが出てきて壮観である。雀右衛門の栄御前は強さはあるもの悪の感覚があまり感じられず、鶴千代へと毒入りの菓子を強引に薦めようとして政岡と問答になるくだりが今ひとつ盛り上がらない。そこへ突如千松が入ってきて菓子を食い苦しみ八汐が刺し殺すところは歌六が憎たらしく演じて盛り上がる。皆が奥へ引っ込みひとりになった政岡が千松に「でかっしゃった」と万感の思いをぶつけるところは、実父菊五郎に似て描線が太いところが菊之助独特であった。
女たちの立ち回りのあとの床下は、右團次の男之助が豪快で手強く、團十郎の仁木弾正の目の大きさ、蝋燭でできた影が定式幕に怪しく映り見ごたえがあった。