実演鑑賞
満足度★★★
「戦禍を経てなお息づく映画愛」
福原充則が浅草九劇のこけら落とし公演に書き下ろし第62回岸田國士戯曲賞を受賞した作品を堀越涼が演出した。CoRich舞台芸術!プロデュースによる「名作リメイク」第2弾である。
ネタバレBOX
アジア・太平洋戦争敗戦後の東京で戦時中国策映画を撮っていた杵山康茂(鈴木裕樹)は、戦禍を生き抜いた助監督の今岡昇太(秋本雄基)とともにGHQの許諾を得ないで新しい映画を撮影しようと目論む。闇市で男娼のアザミ(段隆作)に絡まれているときに見つけた、パンパンのふりをしたカツアゲ犯の野田富美子(浜崎香帆)を主役に抜擢し、使い方がわからないにもかかわらずカメラを所持していた石王(金子侑加)とともに、当局の目をかいくぐりながら撮影を続けていく。同時期に新作に取り組んでいたベテラン剣劇俳優の月島右蔵(猪俣三四郎)は、新しい時代に合った新作劇に取り組んでいた。撮影が進むなかで、杵山をはじめとした面々は皆が負った戦争の傷跡の深さがあらわになっていく。
出演者が数役を兼ねさまざまな場面が進行していく込み入った作劇を、6名の出演者がじつに自在に、心から楽しそうに演じていた。特に戦争の酷い経験に屈せず力強く生きる石王をはじめ、撮影所のベテラン女優から杵山の戦争協力を裁く裁判長まで自在に演じ分けた金子侑加が圧巻であった。
いっぱい飾りのちいさな空間にもかかわらず、鏡やキャスター付衣装棚で仕切ることで、じつに広々と感じられた点も収穫である。終盤で石王と杵山の対話のBGMがやや泣かせにかかっているという感もなくはなかったが、照明を含め細部にまで手の込んだスタッフワークも見応えがあった。
実演鑑賞
満足度★★★
「現代に蘇る環境問題に抵抗した人々の記録」
1970年代に高知市で製紙工場の廃水が起こした環境汚染の被害と、それに対抗する人々が排水管に生コンクリートを流し込む実力行使を行った事件を燐光群が舞台化した。
ネタバレBOX
かつてはヴェネツィアや柳橋のような清流が流れていた高知だったが、 工場の廃水で川が汚染され健康被害を訴えるものが後を絶たない。そこに2026年からタイムスリップしてきた少女(永瀬美陽)が、工場の職員の女(円城寺あや)と一緒に働き当地の様子を見聞きする。並行して地元の漁師や運動家たちの動向を俳優たちが兼役してつむいでいく。大規模なセットがないながらこの俳優たちの語り口に聴き応えがあり、往時を思い起こすことができた。そのなかでも森尾舞の語りの雄弁さ、切り替えの見事さに見惚れた。ただ事件の全容がセリフで説明し尽くされた感は拭いがたく、暗転も多いため集中が途切れがちになってしまった点は残念である。
実演鑑賞
満足度★★★
「グダグダに隠れた激しい感情」
ネタバレBOX
ある居酒屋の店長が亡くなり、葬式帰りの部下(二田絢乃、小林駿)が店に集う。皆の留守を守っていた店員(市川フー、佐藤桃子)やもう一人の同僚(浦田かもめ)と話すうち、普段は隠している皆の裏の顔があらわになっていく。このやり取りをzzzpeaker演じる黒服の人物が傍観しときに茶々を入れるのだが、この人物は他の登場人物たちからは見えない。幽霊にも死神にも見える風体が特徴的である。
話題の中心にいる人物を舞台に出さずその人物を他の登場人物の対話から浮かび上がらせる芝居は数あれど、本作は葬式後の意気消沈した雰囲気から終電後明け方まで煽るように盃を酌み交わすそのグダグダ具合が群を抜いている。これまで作品を共にしてきた座組ならではであろう。やや冗長すぎる感もなくはなかったが、終盤で店長への秘めた思いから常軌を逸した行動をとる浦田かもめ演じる社員の行動など、随所に見どころがあって飽きることがなかった。
実演鑑賞
満足度★★★
「バディもの感のある『ロミオとジュリエット』」
小劇場で日本語の新しいミュージカルを上演する「ワンアクト・ミュージカル・フェスティバル」の企画でDAWN PROJECT「ロミオ アンド ジュリエット アット ドーン!」を鑑賞した。翻案・脚本・作詞はオノマリコ、演出と振付は小林真梨恵、音楽は後藤浩明である。
ネタバレBOX
タイトルからわかる通りシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を下敷きにしているが、ロミオ(工藤広夢)をカミングアウトできないゲイ男性、ジュリエット(松尾音音)をレズビアンよりのクエスチョニング女性と設定し、二人の邂逅を恋愛ではなく友情に近しいものとして描いたことが本作の大きな特徴である。ここにバイセクシャルでロミオを誘惑し次第に陥れようとするマキューシオ(藤原章寛)や、娘のジュリエットを操り人形のように見ているキャピュレット王(植野葉子)という人間関係を織り込み、SNS社会で噂が噂を呼び次第に若い男女が追い詰められていく過程を歌と音楽で自在に紡いでいた。
出演者は皆達者で見どころも多かったが、やはり主演二人のベランダの二重唱の場面が特に印象に残った。行場のない二人がお互いの一番の理解者を見つけたかのような前向きな感覚が、これまでの「ロミオとジュリエット」にはない新鮮さであった。
実演鑑賞
満足度★★★
「手練れのキャストによる秀逸な会話劇」
ある長寿アニメのアフレコ現場を舞台にしたコメディである。
ネタバレBOX
1960年代末、新人俳優の小山笑子(西出結)は新作アニメ『ぼーっとぼー子』の主役に抜擢される。脇を固める先輩たちの前で萎縮する笑子だったが、周囲の後押しで主役を演じ続け、いつしか『ぼー子』は40年以上にわたり放送が続く国民的長寿作品になるのだった。収録を重ねるなかで結束を深めるキャストたちだったが、年齢や声のイメージなどを理由にひとりまたひとりと去っていき、そんななかでも笑子は頑なにマイクの前に立ち続けるのだった。
上記を大枠に本作は手練れの出演者たちがボケとツッコミの会話を重ねながら展開していく。初日ゆえかところどころセリフにつまる箇所が散見されたが、会場は沸きに沸いていた。包容力があるもののアメリカ帰りゆえところどころおかしな日本語を話すベテラン中島詩子を演じた髙畑遊の大きさ、気取り屋が鼻につくものの家族を養うために不本意ながら成人向けアニメに出演するような藤本康治を演じた東野良平のコメディアンぶりが特に印象深い。
作者が腕によりをかけたセリフとよい座組に恵まれた本作に私が今ひとつ乗り切れなかったのは、シリアスな場面でもボケとツッコミが入るために登場人物の描き方の底が浅く、メリハリの薄さが目についたためである。自信なさげな笑子が他の登場人物のボケにだけは的確にツッコミを入れるという造形も、役の性根とはズレているように見えた。終盤、『ぼー子』のオリジナルキャストのなかで最後にひとり残った笑子が、スタッフに思いの丈をぶつける場面などよくできていただけ残念である。
実演鑑賞
満足度★★★
「規範意識を問う群像劇」
一組の男女の恋愛とも友情ともつかない十余年にわたる交流から、多様な人間関係を提示する秀作である。
ネタバレBOX
地方から上京して東京の大学に入学した永野茉莉(小澤南穂子)はフェミニズム研究会で東京出身の同級生・橋本蒼(小見朋生)と出会う。彼らは先輩の五十嵐明里(川村瑞樹)の導きのもと同じく新入生の松村理子(百瀬葉)とともに日々ジェンダーについて論じ将来を語り合う。次第に親密になる茉莉と蒼は卒業後も同じ集合住宅の隣室同士となるが、ふたりの間には友情とも恋愛ともつかない関係が続いていた。
あるとき明里は仕事でフリーカメラマンの湯原千尋(飯尾朋花)と出会い親密な仲に発展する。しかしこのことが蒼との仲に綻びを生んでしまい――己を強く責めた明里はやがて皆の前から姿を消してしまうのだった。
セクシュアリティについて多くを学び深く配慮したうえで制作したのであろう本作を観ていて、規範意識にあるときは救われあるときはがんじがらめにされてしまう人間の割り切れなさを痛切に感じた。茉莉と蒼のクアロマンティック・カップル以外にも、さまざまな性自認と性的志向の登場人物が織りなす秀逸な群像劇であった。その分やや図式的で説明的になってしまった感は否めず、特に終盤で明里の主導のもと皆が胸の内を語り合うセッションの場面と以降の語りはやや盛り込みすぎに思えた。
出演者は皆健闘しており、特に思ったことは口に出さないと気がすまない多動気味な茉莉を演じた小澤南穂子の表情の豊かさに強く惹かれた。また松村理子は、陽気でズケズケと茉莉と蒼の仲を詮索する神経の図太さと、自身もレズビアンとして葛藤する繊細さを併せ持つ百瀬葉を、俊敏な体のキレととともにチャーミングに演じていて印象に残った。
実演鑑賞
満足度★★★
「情報操作の恐怖をコミカルに描く」
第二次大戦下の大本営発表に翻弄される軍部と市井のひとびとを、計算されつくした会話で重層的かつコミカルに描く2019年初演の再演である。
ネタバレBOX
1944年12月の海軍報道部の執務室では、代田中佐(津和野諒)と報道班員たちが日本海軍の本来の損害数と誤魔化した数の差に落胆しつつ、この事実をどのようにして公にすべきか苦悶している。語尾や言い回しを工夫するなどの小細工を繰り返しているその様がおかしくもから恐ろしい。損害が大きければ作戦部から報告許可がおりず、さりとて事実とは異なる数を報告しようものなら軍務局がそれを許そうとしない。こうした海軍内のゴタゴタに目をつけた正義の新聞記者上川(鍛治本大樹)や陸軍の高櫛中佐(高木健)からの介入で、発表までの混乱は極まるばかりである。
はたして正しい内容の戦果報告がなされるのかという一連の顛末を観ていると、当局が情報操作をする昨今の政治状況を思わず想起してしまう。国立公文書館収蔵の一次資料を用いた歴史劇というだけあって厚みがあり思わず見入ってしまう場面も多かった。ただ中盤以降で結末がある程度見えてきて図式的に感じる弊はあったように思う。時折挟まれる市井のひとびとの淡い恋模様は、それでひとつの物語として成立しそうでやや盛り込みすぎに思えてしまった。思い切って軍部の描写にだけ絞って描いてもよかったのではないだろうか。
実演鑑賞
満足度★★★★
「21年ぶりに生まれ変わった傑作」
木村錦花の原作をもとに2001年に初演され05年に5代目勘九郎改め18代目勘三郎襲名披露で再演された、野田秀樹作・演出の話題作の三演である。今回は当代勘九郎が勘三郎が演じた守山辰二を継承した。
ネタバレBOX
赤穂浪士の討ち入りの報に湧く粟津の国の城内で、研屋から侍になった守山辰二(勘九郎)はひとり討ち入りがいかに愚かであるかと喧伝して皆から総スカンを喰らっている。家老の平井市郎右衛門(幸四郎)にさんざんやり込められ大恥をかいた辰二は夜更けに職人仲間の協力をあおぎからくり人形の仕掛け(片岡亀蔵)で市郎右衛門を驚かすのだが、その勢いで市郎右衛門が死んでしまう。その場から逃げた辰二の後を追う市郎右衛門の息子九市郎(染五郎)と才次郎(勘太郎)は、たどり着いた道後温泉の宿で偶然にも辰二を見つけるが、辰二は言葉巧みに平井兄弟こそわが仇と皆を言いくるめていた。敵討ちを巡るドタバタのなかで浮かび上がってくるのは、現代に通じる大衆心理の恐ろしさである。
21年ぶりの再演による世代交代によって今回は新歌舞伎の古典再演という趣がより強くなった。勘九郎の辰二は父勘三郎に比して口跡がよく身体がよく動くため、大量のセリフを淀みなく発し所狭しと動き回って喧しい。勘三郎のように柔らかさや愛嬌で会場を湧かせるというよりは、戯曲の役柄を深く掘り下げている。ただ終盤で辰二が刀を研ぐ場面で「生きてえよ」と涙声で発するくだりは、やはり年の功なのか勘三郎のほうがより印象深かったように思う。前回までは三津五郎がときに舞台を締め、ときに洒脱に楽しそうに演じていた市郎右衛門は幸四郎である。家老の風格は足りなくとも勘九郎と対等に渡り合う好敵手という絶妙な配役であった。辰二を甘やかすやや間の抜けた奥方萩の江と後半宿屋で辰二に求愛するおよしの七之助は、こちらも初演・再演を担った福助同様にうまく演じ分けながら、特におよしの場面で何度もバック転をして会場を湧かせた。父たちから平井兄弟を受け継いだ染五郎と勘太郎は若々しく、初演・再演にも出演していた扇雀が追い詰められた辰二を諭す僧良観を演じ舞台を締めた。
平井兄弟に斬り殺された辰二が大量の紅葉に囲まれながら「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲を背景に絶命する最後を観ていて、この20数年に起きた出来事に思いを馳せた私は何度も胸が熱くなった。
実演鑑賞
満足度★★★
俳優4名が初めて読む台本をもとにその場で芝居をする人気公演初のミュージカル版である。私は夜公演を鑑賞した。
ネタバレBOX
スクリーンに投写される台本は大阪新世界の串カツ屋を舞台に店の常連や店主親子、看板娘に恋してドローンでやってくる男のやり取りが紡がれていく。執筆者は不明だが上田誠の感触に近いものを感じた。数章ずつ役替りで小松利昌、中山優馬 、五関晃一そしてシルビア・グラブが男女問わず演じ分けていく。進行は林希が担った。
4名が皆白熱した演技合戦を繰り広げるなか、なかでも圧巻はどぎつい関西弁をまくしたてる常連からドローンの効果音までを巧みに演じ分けた小松の器用さである。またグラブの歌唱には客席から拍手喝采であった。即興で巧みなキーボード裁きを見せた鎌田雅人にも惜しみない拍手が送られた。
実演鑑賞
満足度★★★
「挑戦的な語りの形式」
終のすみかが過去に上演した2作品の同時再演企画である。私は2021年初演の『I’ LL BE OKAY』を鑑賞した。
ネタバレBOX
会社員のカキヤは友人のゴトウ夫妻の家に居候しているのだが、なんらかの理由でゴトウが家出してしまい、いまはゴトウの妻ミサキと共同生活を送っている。カキヤは酒癖が悪く財布を失くしたと行きつけのバーテンダーに嘆いたり、後輩に失態現場を写真に撮られたりと情けないばかりである。カキヤは純朴な人物のようでもう5年も彼女がいない。また自らを結婚に向いていないと評したゴトウの不在に、ミサキは他人に打ち明けられないことを抱えているようだ。
以上がカキヤの回想という体裁で観客に語りかけるようにして展開していくのだが、時間軸を入れ替えたうえに大石将弘と高橋あずさ2名の出演者が性別関係なく5名の登場人物を演じ分けながら進行する点が本作の大きな特徴である。思えば日常生活のなかで、たとえば知人の女性の逸話を男性が披露したり、その逆もしかりである。またあるエピソードについて話しているうちに時間軸がめちゃくちゃになることもまたある。いわばこの形式は人間の語りを立体化したようなものかもしれないと得心した。そうできた最大の理由は達者な出演者2名の演じ分けがうまくいっていたことと、役を入れ替えるごとにピアノの演奏が入ることで観客の思考がクリアになったという演出の妙である。ふたりの俳優が同じ役を演じている様子を観つづけているうちに、人間はほんらいとてもよく似ていて、差異などというものはあまりないのではないか、という奇妙な感覚に陥った。
ひとつの役をひとりの俳優が演じ続けないために感情移入はしづらく、どの時点の話なのかがわかりにくくなってしまった感は否めない。しかし終盤の回想で酩酊した大石将弘演じるカキヤが「人妻と同居している」と後輩にまんざらでもない顔で嘯くところで見せた底意地の悪さや、高橋あずさ演じるミサキが抱えた孤独を多弁せず表情で伝えたくだりなどはいちいち印象に残るものであった。カキヤが失くした財布、ミサキが失った夫のゴトウというふたつの不在がなにを意味するかは、観客それぞれによって違うのだろう。
実演鑑賞
満足度★★★
「感染症下で暴かれたこと」
2020年公演が中止となりようやく2022年に初演された作品の再演である。ポストコロナの時代に感染症について描かれた作品を観られたことに深い感興を覚えた。
ネタバレBOX
ある地方に暮らす老父(用松亮)の世話をみるべく娘の由紀(安川まり)が帰省している。体調不良で母親(坂倉なつこ)が入院してしまったのだ。幸いにも昨今流行している感染症に罹患したわけではないようだが、妻がいなければロクに身の回りのことができず、いつも言葉少なな父親を由紀は気が気でない。兄の哲也(泉拓磨)と義姉の亜希(川口雅子)夫妻、従兄弟の日出夫(吉田庸)、美佐子(青柳美希)夫妻が時折見舞いに訪れるものの、庭木の世話から日頃の家事まですべて由紀任せになっている。ようやく退院した母だったがすぐに元通りとはいかず、滞在が二ヶ月近くに及ぶ由紀の不満が一気に爆発する事件が起きてしまうのだった。
数年前まで多くの人々が直面していた感染症の流行による介護問題を描いた本作は、日常生活を淡々と丁寧に描くことでそれぞれの家庭に隠された「秘密」をあざやかに解体していく。兄夫婦や従兄弟夫婦は気遣ってはいるものの、それぞれに子どもや親の世話を負っているため誰も由紀の代わりにはなれない。老いて病み上がりの両親もまた娘なしには食事を作ることすらできず、介護サービスを受けようともしない。言葉少なな対話のなかに隠れた本心が台詞以上に雄弁で何度も見入った。父親役の用松亮の挙動に会場は特に沸いていた。さすがに似たような場面や台詞が多いため退屈するくだりもなくはなかったが、豊かな時間を過ごすことができた。
実演鑑賞
満足度★★★★
「新しい家庭を築くひとが直面する不条理」
劇場入口へと至る階段脇には幼児向けと思しきちいさな靴と可愛げな装飾が施されている。受付を済ませ扉の向こうに目にしたのはダイニングテーブルにソファとどこにでも目にするようなリビングだ。タイトルの持つ不穏さに似つかわしくない数々に首を傾げながら開幕すると、けだし傷口をえぐるようなブラック・ホーム・コメディがはじまった。
ネタバレBOX
不動産屋のタク(藤家矢麻刀)の案内で新居の内見に訪れたジュウタ(黒澤多生)とチア(豊島晴香)の間には、そう遠くない日に新しい命が産まれる。築年数に騒音対策、収納に立地条件にと新生活を夢想しながらほほえましい様子の二人だったが、じつはタクがチアと学生時代に交際していたことをジュウタが指摘すると急に妙な空気が流れる。
半年後に生まれた娘のソラをあやしているチアのもとへ「ただいま、パパですよ」と帰ってきたのはなんとタクであった。育児ノイローゼ気味のチアは、おぼつかない手つきでソラをあやそうとしたり、まもなくやってくるという母親に預けて外出を提案したりするタクの軽薄さを鋭く咎めるのだった。そこへやってきたタクの母タナコ(根本江理)は「はじめまして」とチアに挨拶をしたものだからいよいよ物語の行方がわからなくなる頃に、じつはソラが生まれる前にジュウタが急死したことが明かされる。チアの立場を慮ったタクは二人で育てることを提案したのだが、この事実をタナコには告げていないためタナコはソラがタクの子どもであると誤解してしまっているようだ。
このあとジュウタの母のカキエ(松田弘子)がやってきて事態はさらに混乱を極める。ソラを離さずこっそり持ち出したカキエはジュウタの喪失から立ち直れていないようで、あたかもじつの息子であるかのようにソラをあやし続けると、なんとソラが死んだはずジュウタになってしまうのであった。行き着く先の見えない物語のなかで、男女の三角関係とそれぞれが負った家族の物語も詳らかになる。親子とはなにか、子どもを持つとはどのようなことなのかという答えのない問いが我々観客に向けて投げつけられる。
平易な台詞とどこにでもありそうな設定で不条理を描き、近年話題にあがることの多い反出生主義や親ガチャについて観客を問う本作は、親しみやすいながらも魅惑的な仕掛けが随所に施されている。観客の認識のズレを利用して物語に没入させつつ、それぞれの登場人物を深く掘り下げる丁寧な作劇にまず感心した。
円筒形のブルートゥーススピーカーを赤ん坊に見立て、そこにソラやジュウタの声を重ねる演出もよく考えられたものである。一杯飾りながら上下に置かれた小道具を用いて部屋に屋外に、現在から過去にとスピーディな転換を実現することで、舞台が実に広々と感じられた。全体的にしっとりと、夜を基調とした照明変化も多大な貢献をしていた。
作者の要求に応えるかのように俳優たちも充実した芝居を見せ、よく調和も取れていた。過保護気味に育てられ少年時代にいじめに遭っていたジュウタは、黒澤多生が演じたからこそ「子どもを持つことは親のエゴではないか」という問いかけに説得力が感じられたように思う。継母に育てられたためじつの子どもを大切に育てたいと願うチア役の豊島晴香と、やや軽薄だがチアを思うタク役の藤家矢麻刀はほどよい釣り合いといったところである。それに根本江理と松田弘子の演技合戦が、それぞれの母親としての立場を明確にしていた。
実演鑑賞
満足度★★★
「激しい身体が描く少年の思慕」
『竹取物語』を自由奔放に翻案しながら家族の愛を描く意欲作である。
ネタバレBOX
日本最古の歴史をもつ家具屋の嫡男ノゾム(二瓶大河)は七夕の夜に輝く星に願いを込め望遠鏡を覗く。ノゾムの願いは月に還った遠い先祖のかぐや姫が実在するのか確かめ、月からの迎えを待つことだった。そんなノゾムを祖父のミヤツコ(渡久地雅斗)は古びた家具とおびただしい数の人形に溢れた部屋に住まわせ、妙な夢は持たずこの地に留まれと諭すのだった。ミヤツコをはじめ一家はかぐや姫の末裔と盲信しており、近隣の人々から「アダムスファミリー」と揶揄されている。ノゾムの両親であるらしいアダム・アダムス(玉木葉輔)とマダム・マダムス(町田達彦)とは疎遠のようである。
ノゾムの部屋の人形が次々に立ち現れては動作する様子を見ていて、どうやら現実と妄想の境目が描かれていることが少しずつわかってくる。そこで立ち現れたkaguya(高畑亜実)と名乗る少女との対話を経て、ノゾムは両親への愛の渇望を叫ぶ。kaguyaに導かれるようにして家族の知られざる過去を知り、自身が地上に縛りつけられていることを知ったノゾムは、宇宙へと旅立つのであった。
本作の魅力は大量のセリフの応酬と激しさが横溢する芝居である。俳優は皆早口で舞台上所狭しと動き回り、流れるようなあっという間の2時間であった。登場するキャラクターは皆個性的でクセが強くグイグイ押してくるが、もう少し引きの芝居があってもよかったのではないか。
セリフの言葉遊びや人形が人間に変化する身体表現など作り手側の表現したいことは十分に伝わってきたが、そこに専念した結果人物造形が乏しい印象を受けた。空に願いを込め母を慕うノゾムの激情であるとか、祖父ミヤツコの歪んだ願望など掘り下げれば深いドラマになった箇所が流されていってしまった点は残念である。加えて、身体表現の場面では不意に力が抜けて空間がさみしくなる点も惜しいと感じた。
実演鑑賞
満足度★★★★
「地域の現実を描き国家を問う」
ネタバレBOX
カーテンコールを終えた俳優たちは、松山大空襲後の荒廃した風景が投射された扉を開けた。その先に広がる松山の夜景を目の当たりにして、私は息を呑んだ。それはこの芝居がまさに現実かという切迫した内容だったからである。
幕開きで車椅子に乗った老人(上松知史)が敗戦直後の8月24日に己が携わった事件を回想する。老人の若い時分である久保田少佐と本多中尉(黒岩陽斗)は、埼玉県川口市の放送所を占拠し、敗戦に納得できない同士たちに思いの丈を伝え決起を促そうとしていたのだった。ここで急に演出助手のホンダ(黒岩陽斗・二役)の声が入って一旦芝居が止まり、演劇の稽古場へと場面が移り変わる。そこにいる俳優たちのやり取りから、先の老人の回想は実際に起きた事件であり、それをもとにした新作の稽古中であったことがここでわかる。機密書類を処分すべく職員たちが忙しく立ち働いている場面の稽古が始まると、そこへ先程の久保田と本多がやってくる。職員たちはかつて演劇活動をしていた女子挺身隊員であり、軍人の恫喝に戸惑いを隠せない。必死に抵抗していた頼子(林幸恵)や尚子(川崎樹杏)をそばに、戦争で恋人を失った幸子(汐見玲香)は久保田たちの願いを聞き入れようとするのだった。
こうして80年前の事件と稽古場の様子が描かれながら舞台は進んでいく。自らと同じ名前の役を与えられた俳優たちは80年前の事件に距離を抱きつつ演じているようだ。挺身隊員を演じているサチコ(汐見玲香・二役)は「今回の話って、未来の話っぽいて思ってる」と感じているらしい。ホンダは軍人役を演じるために座長のクボタ(上松知史・二役)にビンタをされたと言い、ヨリコ(林幸恵・二役)に訝しがられる。稽古の合間の他愛のないやり取りから浮かび上がるのは、俳優たちの演劇活動と日々の暮らしである。近隣の劇場が閉じ正職の傍ら演劇活動に勤しむ俳優たちは、周囲からの心無い言葉に傷ついている。恋人との間で波風が立っているナオコ(川崎樹杏・二役)は最近体調が思わしくないようで、わざと稽古場に居残って年長のヨリコに胸の内を明かす。新作を書きおろした作・演出家は稽古場には頻繁に現れず、やや独裁的で身勝手な振る舞いが目に付く人物らしい。賑やかながらも少しずつ荒んだ雰囲気の稽古場の俳優たちはじょじょに虚構の世界に絡め取られ、やがてサチコが予見したかのような光景が現実化してしまうのだった。
劇中劇の手法を用いて虚構と現実を重ねて描く作品は数あれど、本作はきな臭い昨今の世界情勢と敗戦時の光景を重ねつつ、地方劇団の置かれた境遇を描いた点が独創的である。作り手にとって演劇活動が切迫したものであるということを思い知らされたし、身を削るような思いで歴史と日々の生活を総括しようとした姿勢にまず胸を打たれた。80年前と現在の時間軸が行き来しながら、合間に俳優たちが羊の被り物をして牧神(山野と牧畜をつかさどる半人半獣の神)を演じる不穏な光景や、ヘイトスピーチやネットの誹謗中傷といった現代の諸問題を挟み込むという込み入った作劇はやや盛り込みすぎという感もあったが、目線がブレることなく結末まで進んでいく作劇が見事であった。ただ冒頭で介護士が老人になった久保田にビンタをしたり、終盤で爆撃の描写があるなどの点は事前のアナウンスがあったほうがよかったように思う。
作・演出の課した高いハードルに果敢に応えた俳優たちの熱演も見事である。80年前と現在の同じ名前の役ながら、自身とは距離のある人物をいかにして演じるかと苦悶する姿や、稽古場で時折見せる本音が俳優自身と重なって見えて生々しい感触がした。特に上松知史は80年前の理性的だが内面には熱情がトグロを巻いている久保田少佐と、その晩年の老いさらばえた具合、そしてやや間の抜けた座長のクボタや日本人の外国人観を揶揄するクルド人青年などを演じ分けており圧巻だった。
実演鑑賞
満足度★★★
「花盛りの娘三様」
菊之助改め八代目菊五郎、丑之助改め六代目菊之助の襲名披露の團菊祭である。昼の部の最後に玉三郎と三人の「娘道成寺」が出た。
ネタバレBOX
道行きではすっぽんから新菊五郎と新菊之助がドロドロでせり上がる。大曲に果敢と立ち向かう親子といった絵で緊張感がありながらも微笑ましい。新菊之助がすっぽんで下がってからの新菊五郎と聞いたか坊主たちによる問答はひととおり。このあと紅白の幕があがって初めて玉三郎と三人で揃った姿に観客から大きな喝采があがった。
「言わず語らず」の手踊りまで三人で揃い、このあとの鞠唄は新菊之助が新菊五郎とまず踊り、そこに割り込むかたちで玉三郎と二人で踊り分ける。父親と先輩に挟まれた新菊之助はここから花笠まで踊り抜くから大したものである。
お待ちかねのクドキはまず新菊五郎がひとりでしっぽりと、「ふっつり悋気」から玉三郎が入って男女の機微を娘姿の二人が表現する。性が倒錯し怪しくも美しいこの二人のクドキは、2004年初演の「二人道成寺」の感動を呼び起こした。客席に向け手ぬぐいを撒いてからの山づくしは新菊五郎・新菊之助親子、「ただ頼め」は玉三郎ひとり、そこから引き抜きとなり鈴太鼓を持ってからまた三人で鐘入りまで踊り抜いて幕となった。
襲名ならではの豪華な一幕を大いに堪能した。
実演鑑賞
満足度★★★
「創作を批評的に描く試み」
ソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーが最後に監督した『サクリファイス』を参照し、創作過程で起きる人間模様を虚構と現実を交えながら描いた意欲作である。
ネタバレBOX
アメリカで暮らしている演出家の過去作に出演していた元俳優の土井(油井文寧)と西川(石川朝日)は、『サクリファイス』を鑑賞した演出家が創作した新作戯曲『想像の犠牲』の上演を企画する。稽古場に加藤(佐藤駿)と友人の高木(田崎小春)、ロベール(ロビン・マナバット)が集ったはいいものの、結局本作は上演中止となってしまった。その過程を時系列ではなく現在の時点から振り返りつつ、ランダムに再現して描きながら、メンバーが客席に向けて逐一注釈を加えるというスタイルで劇が進行していく。
各登場人物たちが座組の面々に意見し合う様子を淡々と、手の動きと軽やかな足取りで紡いでいく身体性は、静けさのなかに激情がトグロを巻く独特のものである。俳優のミニマムな芝居が吉祥寺シアターの空間に負けてしまうきらいはあったが、棒読みのような台詞と表情の薄さは観客一人ひとりにさまざまな憶測を呼んだことと思う。『サクリファイス』への言及もとより石原吉郎の詩の引用が入るなど、稽古場にフィクションが入り込んでじょじょに出演者が取り憑かれていく様子に見応えがあった。強い集中を要する作品であり果たしていま自分はなにを観ているのかという気持ちにもたびたびなったが、作品全体を通した風通しのよい含味は独特のものである。ただラストで出演者が追いかけっこをして互いを車椅子に乗せようとする描写など、やや間延びしている箇所を端折ったほうがよいようにも感じた。
実演鑑賞
満足度★★★
「舞台と客席をひとつにする熱狂」
開演前の舞台上には出演者たちが談笑したり準備運動をしたりするなか、作・演出の尾﨑優人が客席に向けて前説を行っている。通し稽古をしておらずほぼぶっつけ本番であることに動揺の笑い声がたびたび起きた。
ネタバレBOX
やがて開演時間になると明かりが落ち、舞台奥に設置された会場トイレのドアを開けて俳優が舞台へ足を踏み入れる。日常と地続きの非日常を感じられるこの幕開きがまずうまい。彼女は絵本町と呼ばれる町の住人(土本燈子)であり、誰も曲がらない三丁目の街角にある通称「オバケ屋敷」へやってきたという。別段なにも不思議なことが起こらないこの町をメルヘンあふれるものにしたいと願う住人に、そこにいた老婆(尾﨑優人)が幽霊たちを呼び出す。ピアノが置いてある部屋で座敷童子(石丸承暖)と出会ったお嬢様(夏アンナ)は、座敷童との交流と別れを回想する。プラモデルに熱中するあまり数々の人造人間を作るにまでなった博士(吉成豊)は、人造人間たちと合唱をして大騒ぎである。演劇部員(早舩聖)は俳優(好姫)から芸道を学び、大人気の子役(千賀百子)は芸能界の鬼(宝保里実)にみっちりしごかれる。幽霊たちの様子を見届けた住人は、いま見聞きした様子を絵本にすると誓ってオバケ屋敷を後にするのだった。
本作の魅力は尾﨑を含む出演者たちの熱量のある芝居と、詩的かつナンセンスさもある独特の台詞である。特別な舞台装置はなく、簡素なスピーカーからブルートゥース経由で音楽を流し、スタッフが手で持ち運びできる照明を使い明かりを作るというなんともシンプルな作りながら、想像力を刺激された所以である。特に中盤、出演者全員で「ちゃぶ台」をモチーフに激しい台詞の応酬合戦見せたくだりは圧巻であった。もう少し声のトーンを落とし聞きやすい速度での台詞回しのほうがなおよいとは感じたが、冒頭の前説を含め客席は沸きに沸いていた。場面ごとに俳優の見せ場が設けられていて、さながらボードヴィルを見るような面白さがあった。
実演鑑賞
満足度★★★
「いくつもの不条理に翻弄される人々」
登場人物が何気ない会話を重ねるなかで日常に潜む不条理をあぶり出す秀作である。
ネタバレBOX
踏切下の急な坂道の麓でバイト終わりのユウコ(西出結)と小林(永井若葉)が談笑していると、坂の向こうからランニング終わりの手嶋(奥田洋平)が突進してきて口論となる。声を荒らげ責め立てる手嶋に気圧された彼女たちは、最近市民ランナーが公道を我が物顔で走っていることを非難する。しかし次第にユウコといい仲の溝部(重岡漠)や、はては小林までもが手嶋やランニング仲間の高田(岩本えり)と一緒に走るようになってしまう。予想もしなかった変化にユウコはただたじろぐばかりだ。
数日後、いつものように手嶋がランニング中に踏切の向こう側に立つと、そこから急に並行世界へと消えてゆきかけてしまう事件が起こる。そしてユウコが友人のアケミ(安藤奎)とともに踏切の向こう側を調査していると、アケミが並行世界へ消えてしまうのだった。アケミを助け出せなかった後悔からユウコまでランニングをはじめるのだが、そこで彼女は小林が走り出した恐ろしい真意を知ることになる。
本作は何気ない会話を重ねることで手嶋に象徴されるランナーの身勝手な論理や、横暴な人物に仲間をとられていく様、果ては平行世界に飲み込まれていく人間たちなどさまざまな不条理を重層的に、おかしみを交えて描いていく。小林が手嶋を殺そうとして市民ランナーしか使わない自動販売機の水に毒を仕込むものの、誤ってその水を飲んでしまった渡部が死んでしまうといった展開も周到に計算されている。この人間模様の示唆するところは観客によってさまざまであろう。数日間の話とはいえ暗転が多いのにはやや辟易したし、もう少し長い尺で観たいとは思ったものの、味読がいのある小品を愉しんだ。
実演鑑賞
満足度★★★
「戦争を重層的に描く語り」
国際演劇協会による「紛争地域から生まれた演劇」シリーズで2018年に取り上げられたカナダの劇作家ハナ・モスコヴィッチ作、吉原豊司訳の作品である。リーディング上演と同様に生田みゆきが演出を手掛けた。私はAキャストの初回を鑑賞した。
ネタバレBOX
舞台は2007~08年にかけて、アフガニスタン戦争で最も危険な地域であったパンジウェイに駐屯していた4名のカナダ軍が新聞記者のインタビューに答え当時を回想するように展開していく。唯一の女性であるターニャ・ヤング伍長(吉野実紗)は、翌日はカナダ軍とアフガニスタン・イスラム共和国新政府軍による合同作戦という晩に、スティーヴン・ヒューズ軍曹(村岡哲至)と勢いに任せ関係を持つ。極限状態を送る日々のなかで隊員の心は荒みきっていた。翌朝ターニャと若手のジョニー・ヘンダーソン二等兵(塩崎翔太)は、キャンプ付近で血まみれの子どもを保護する。クリス・アンダース軍曹(椎名一浩)とともにヘリを要請し子どもをカンダハール空軍基地の病院へ移送する手筈を整えたところに、憔悴した様子のステーヴンが合同作戦から帰還する。自分がヘリを呼んだことで作戦に同行したジョニーの傷を悪化させてしまったことを嘆くターニャだったが、続くジョニーの証言から合同作戦の数日前にターニャと関係を持っていたことが分かる。こうして残る2名の証言が続きそれぞれの登場人物から合同作戦前後の歪んだ人間関係と、現地の凄惨な模様が詳らかになっていく
原作者が数多くの帰還兵を取材して執筆したという本作は、戦争がもたらすトラウマティックな体験を浮かび上がらせる。クリント・イーストウッド監督の映画『アメリカン・スナイパー』に近い主題を取り上げているが、限られた時間軸と場面を複眼的に描くことで真相を詳らかにしていく仕掛けが鮮やかである。登場人物が新聞記者の取材に答える戯曲の設定をそこまで強調せず、むしろ心のうちをモノローグにして観客に訴えかける見せ方が利いていた。設定駐屯地の騒音や銃声以外は無音のなか、出演者4名の芝居が浮き立つ演出は見応えがあり、特にジョニーの証言における感情を逆なでするような音響と照明変化を時折絶妙なタイミングで入れた数カ所が印象に残った。観続けていくことがややしんどくなりそうな重苦しい展開のなかで、塩崎翔太がジョニーのあどけない間の抜けた具合をうまく見せて会場から引き出した微苦笑に何度か救われた気持ちになった。
実演鑑賞
満足度★★★
「向き合えない家族の真実」
小津安二郎が1962年に発表した最後の監督作『秋刀魚の味』をモチーフに、保坂萌が書き下ろした会話劇である。
ネタバレBOX
トリスウィスキーのボトルが並ぶ古ぼけたバーに、平川迪子(橘花梨)が入ってくると、そこへ父の秋平(有馬自由)が続く。10日後に結婚式を控えている迪子は秋平に話があるようでどことなく気が重そうだが、どこ吹く風の秋平は披露宴でギターを演奏させろと急に言い出す始末で埒が明かない。そこへ入ってきたママの薫(松永玲子)は賑やかすぎる関西弁を捲し立てバンドを組もうと言い出し、その距離の詰め方に迪子は困惑しつつ秋平と薫の仲を訝しむ。気だるそうに入ってきたバイトの璃(中野亜美)にダル絡みされた迪子は、つっけんどんな態度がさらに加速してしまい、しまいには秋平に「親子の縁を切る」と激昂するのだった。
幼い頃に母を亡くして以来祖母と3人で暮らしてきた平川家の父娘は、互いを慮るあまりにぶっきらぼうな対話しかできないようである。ちいさい頃からの不満をぶちまけた迪子は、先程の非礼を詫びた璃と二人だけでココアを飲み四方山話に花を咲かせる。薫に離婚歴があり成人した娘がいることを璃に教わった迪子は、仮に秋平が薫と再婚したら妹ができる、自分は中学生の頃に妹が欲しかったと打ち明ける。璃もまた母子家庭で育ったのだが、男に苦労ばかりしてきた母には複雑な思いがあるようだ。やがて迪子は電話で結婚式をキャンセルして秋平と薫を激しく動揺させる。ここでようやく迪子は、この結婚が新郎側の申し出で破談になったことを打ち明けるのだった。
『秋刀魚の味』と同様に、本作では結婚を期に顕在化した娘と父親の心の揺れを描いている。しかしそこに隠された家族の真実を明かすミステリを入れ込み、コミカルな会話劇に仕立て上げた点が大きな特徴である。なかなか腹の底を明かさない迪子や秋平と同じく、本当は迪子の母親である薫とすべてを知っているのであろう璃もまた本音をなかなか打ち明けない。説明的な台詞を極力廃し他愛のない会話のなかから種明かししていく仕掛けが秀逸である。
出演者に当て書きされたという各役はそれぞれぴったりといったところで、特に薫役の松永玲子が会場を大いに沸かせていた。ちいさな劇場ゆえに全体的にもう少し声の大きさを絞ったほうがいいようにも感じたが、皆イキイキと各役を生きていた。当初は「粉ものに白いご飯を強要してくる感じ」などと陰で薫に毒づいていていた迪子が、最後に薫が作ったシチューに「……うま」と嘆息する幕切れもよく考えられたものである。欲を言えば『秋刀魚の味』に描かれていた時代の雰囲気や結婚制度への皮肉を感じたいところであったが、肩の凝らない芝居を大いに堪能した。