ちどりの観てきた!クチコミ一覧

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少女仮面

少女仮面

オルガンヴィトー

in→dependent theatre 1st(大阪府)

2013/01/12 (土) ~ 2013/01/14 (月)公演終了

満足度★★★

唐十郎の古典的名作
会場のin→dependent theatre 1stは地下鉄恵美須町駅すぐの、本当に小さな劇場。通常はキャパ80名らしいが、この公演では舞台を広くとったらしく、席数は40ほど。

もう公演は終了しているが、以後はネタバレで。

ネタバレBOX

天井には隙間なく濃い青の紙花が飾られ、舞台中央にはタイル貼りのような模様の風呂桶。劇場は地下ではないが、地下にあるという喫茶「肉体」の雰囲気はよく出ていた。風呂桶の中には本物の水。もちろん、物語の重要な要素となる蛇口からも本物の水が出る。ラストには春日野の頭上から水が降り注ぐ。

音楽は録音もあるが、歌の部分はボーイの一人が店にあるキーボードで演奏する、という設定。

ボーイ主任のタップはうまかった。これもまた物語の重要な要素となる腹話術も巧みだった。人形と腹話術師の入れ替えを、演技でやって違和感がないのはなかなかの技術だと思った。貝の「キャサリンドレス」と髪型は・・・緑丘貝の時の若さ、みずみずしさが生きず、残念。

いろんな面で力の入った舞台だったが、春日野が「男役」でないことが、すべてをリセットしてしまう。
もちろん演技は「男役」なのだが、ロングヘアであること(それだけではないが)をはじめとして、春日野が外見上女に見えてしまってはこの物語は成立しない。それを凌駕する演出上の工夫があったとは思えない。

衰えていく肉体と無邪気な残酷さ、虚像と実像、そういう「演技」「役者」にとって普遍のテーマの、「男役」は重要なモチーフなのだ。そこをもっと大事に上演して欲しい。

図書館的人生 vol.3 食べもの連鎖

図書館的人生 vol.3 食べもの連鎖

イキウメ

HEP HALL(大阪府)

2010/11/16 (火) ~ 2010/11/20 (土)公演終了

満足度★★★★★

オブラート一枚の向こう側にある非日常
この劇団の公演を見るのは初めて。

4話からなるオムニバス。全体を通して、演出は淡々と進むタイプ。演技、衣装、装置など何一つ派手なものはない。ごく普通に、日常を切り取ったかのように淡々と話は展開していく。

ただし、「日常を淡々」だけならばなにも舞台を見る必要がないわけで、ではなぜ演劇として成立しているのかというと、オブラート1枚の隔たりで「変」な世界に入って行ってしまっているから。オブラートなので日常の世界が透けて見える、そしてちょっとの水分で溶解してしまいそうな気がする、だけど厳然と「非日常」である、という面白さ。これがこの劇団の魅力なんじゃないかと思う。

ネタバレBOX

基本的にセリフのやりとりによって場が進行していく。そのセリフが、派手ではないがほんの少し、作者の独特のセンスによって日常とは「軸」がずらされている。ストーリーの展開というよりは「状況の説明(言葉による説明ではなく、会話を重ねることによって状況が浮かび上がるという内容)」なのだが、その「状況」が、ありそうであり得ないこと(4話の中には「あり得る話」もあるが)、なのでいつの間にか作者の構築した「変」な世界に入り込んでいく。

#1 Entrée/前菜(要するに「第一話」)「人の為に装うことで、誰が不幸になるっていうんだ?」

#2 Poission/魚料理 「いずれ誰もがコソ泥だ、後は野となれ山となれ」

#3 Viande/肉料理  「人生という、死に至る病に効果あり」

#4 Dessert/デザート   「マヨネーズの別名は、全体主義的調味料」

この4話がシンプルでほころびのない演出で淡々と進行していく。基本的に静かな、大きな盛り上がりのない展開なのだけれどもそれでも飽きずに見ていられるのはセンスのよい台詞の軽妙さと、工夫された動きによる。舞台装置は料理教室で使われていたキッチン台(4台あったように思う)。これを縦横に動かしたり、くっつけたりして時には食卓、時にはスーパーのレジ台、時には病院のベッドなどいろんなものに見立てる。展開を文章で説明するとなると非常に深刻になる(特に第3話)が、実際には何分かに1回はクスリと笑いがもれる程度のくすぐりが入り(決して爆笑ではない)、テンポよく進行していくため、暗さも深刻さも感じない。

オムニバスの各パートにつけられた「前菜」「魚料理」「肉料理」「デザート」がいい得て妙だ。話のボリュームという点でもそうだし、日常からの距離という点でもちょうどそれくらいの感覚かな、と思う。

「前菜」は「通常でも起こりうる範囲」。しかしあくまで芝居という「虚構」の世界の出来事であって、通常で起こり得ない部分をほんの少し、付け加えている。それは夫である甘利文雄がガラスを突き破って外へ飛び出すという点だ。肉だと思っていた料理が実は植物性タンパク質のグルテンだった。そこで激昂するという場面は日常にはあるし、実際に充分起こり得る風景だ。たとえその激昂ぶりが度を超えていても、「日常」の範囲をはみ出してはいない。しかしコース料理が進むにつれ、そのはみ出しぶりが少しずつ、段階的に「日常」を越えていく。

メインの「肉料理」では「飲血による不老」という、全くの虚構をベースとしたドラマへとはみ出していく。その踏み出す段階の付け方が絶妙だ。そしてあくまで演技は淡々と、「自然」だ。

劇団のサイトから主宰者の作・演出家前川知大氏のブログに飛べるが、その中の日常を描いた記事がそのままさらりと舞台になった感じ。見ながら「これ、舞台よりもむしろ映像向きなんじゃないか」とか、「文章の面白さがそのまま3D化している」と思った。

「さらりと自然に」といってもそれは舞台で演じる上での「自然」であって、素で行動しているわけでは全くない。舞台上の演技であるからには発声も身体の所作も、きちんと訓練された「表現を見せる」ものであるに違いないのだが、そこに少しの力みも舞台上の演技臭いものも感じさせない。そこに非常に高い技術を感じる。

だいたいが私は若い頃からやたら力んで勢いで見せる芝居ばかりを好んで見てきた。レビュー芝居もその延長にある。目一杯のてんこ盛りが好きだ。だからその対極にあるようなこの劇団の芸風はとても新鮮で、なおかつ面白く観劇している自分を不思議に思った。

それは多分こういうことなのかも知れない。表面に現れる演技や装置や衣裳、台詞回し、ストーリー展開などはあくまでさらりとしている、しかし「さらり」と感じさせるための緻密な計算や訓練や構成力とそれを組み合わせるセンスが、実は水面下では「てんこ盛り」なのだ。例えるなら出汁をしっかり取った上での究極の薄味、というかんじ。

あと、この劇団の他の作品、特にオムニバスではないものはどんなになっているのか。この「究極の薄味」はインターバルの短いオムニバスだからこそ飽きが来ずすんなり見られたのではないか、という思いもあって、今度は是非1本ものを見てみなくちゃ、と思っている。
レビュー in KYOTO Ⅲ

レビュー in KYOTO Ⅲ

OSK日本歌劇団

京都四條南座(京都府)

2009/07/12 (日) ~ 2009/07/20 (月)公演終了

満足度★★★★

1部と2部は類似しておりかつ対照的
日舞ショーの1部「さくら颱風(タイフーン)」と洋舞ショーの2部「DREAMS COME TRUE!」はある意味で類似しているがある意味で対照的だと思う。以下ネタバレで。

ネタバレBOX

類似点は双方とも「やりたいこと」が前面に出ていて、そのぶん全体としての構成(一つの作品としての山の作り方と、エンディングへの昇華のさせ方)が弱いというところ。

対照的なところは1部の「やりたいこと」が、男役レビューに対して世間の皆さんの「多数が求めるもの」の裏をかいているところ(幽霊、散切り頭の大正紳士)で、2部の「やりたいこと」がその「多数が求めるもの」を追求しているところ。

1部を「面白い」と見るか、「ついて行けない」と見るか。2部を「ありきたり」と見るか、「かっこよくてステキ」と見るか。感想に、その人のOSKに求めるものが浮き上がるようなところがある。それがなかなか興味深い。

いずれにしてもこの劇団の結集力と群の力には見るべきものがある。
フィフティ・フィフティ

フィフティ・フィフティ

宝塚歌劇団

宝塚バウホール(兵庫県)

2009/07/09 (木) ~ 2009/07/20 (月)公演終了

満足度★★

何もかもが中途半端な作品
タカラヅカの作品を論じると、出来・不出来をはじめすべてが出演者(多くは主演スター)のせいにされてしまうところがある。それは宝塚歌劇が「トップのスター性を強く前面に押し出す」ということを至上主義としている形態ゆえのことなのだけれども、ここでは純粋に演出面ついてのみ述べてみたいと思う。以下、ネタバレで。

ネタバレBOX

石田昌也が明らかに失速している。彼の作風は(好き嫌いはあっても)とにかくスピード感と、「現代」性が売りだったのではないのか。約20年前、疾風の如く登場し、「大時代的なタカラヅカの作風」に面と向かって異論を唱え、インカム形マイクをいち早く、見せる形で導入したり、小劇場演劇ばりのテンポと、タカラヅカでは禁制とされている下ネタや今風のネタをあえて確信犯的にちりばめ、風を巻き起こしたのではないのか。それは宝塚歌劇の中では主流にはなり得ないが、タカラヅカというレトロの殿堂に外界の空気を(それに対する拒否反応も当然)入れるゲリラ的役割を果たしたと、私は思っている。

彼は2009年現在の「現代」について行けていないのかもしれない。台詞の中でブログを「トイレの落書きの延長」と斬って捨て、パソコンその他の通信機器(にFAXをいれるあたりがもうすでに時代に乗り遅れている感)をもちながら引きこもっている登場人物に「世界中が知ることができる情報は自分が知らなくてもいい」とこれまた斬って捨てる(10年前に自分が「古い」と斬って捨てた同じ刃だ)。

かといって、10年前の「現代性」は10年ばかりで円熟するわけがなく、厚みがない。スピード感と現代性を失ったところに残るのは、薄っぺらさだけだ。

しかし、そういうことを感じさせないような作り方もあったはずだ。生の舞台には生の力があり、何かで目をひけばぐちゃぐちゃとした現実的なことや理屈が入りこむ隙ない空間を作り出すことができる。しかし、それもない。

たとえばストーリー展開で一番気になった点は、「姉(実は母)と恋人になりそうな男性のいい雰囲気に『自分は邪魔者』と思いこんだ少女が家出する。嵐の中、その救出した少女(寝ているが)をはさんで、別の主演カップルが愛の告白と、虐待を受けた過去のことを話し合う」という設定。少女がずっと寝てりゃあまだいいけど、時々起きるのは何なのだろう。普通、少女のことを考えていたらこういう行動はしないだろう。せめて場を変えるとか、少女に話を聞かせないようにするだろう。あまりにも展開が雑だ。こういう雑さが、脇のキャラクターや「虐待」というモチーフを、ただのツールにおとしめてしまう。

あと、これは完全なダブルトップ作品だ。華形ひかると真野すがたという若手路線男役を、前者はインチキ不動産ブローカー、後者は結婚詐欺まがいのジゴロという役柄にあてている。孤児院で育った二人がど田舎の過疎の村で1ヶ月暮らし、人間性を得るという大筋なのだが、インチキ不動産ブローカーが幼馴染みとカップル成立するのに、ジゴロの方の恋は空中分解してしまう。この恋の描き方も中途半端この上ない。愛している女に子どもがいたということで、恋は冷めるのか、なんなのか。男は結果として身を引く形になり神職を志し、悟りの境地に突入してしまうし、女は一目惚れして強く惹かれたその男よりも、子どもの父を選んでしまう。じゃあ何で別れた?別れてからの10年間の歴史は何だ?子どもを産んだ女だって恋をするという当たり前のことを知らないのか、石田昌也。

タカラヅカだ。恋愛至上主義がスタンダードだろう。どんなに話が不整合でも、恋が成就すれば(私も含め)客の大半はうっとりするのだ。うっとりしに来ているのだ。子どもを産んだ女も、更年期の女も、いや80歳になっても90歳になっても、いつだって私は少女に戻ってうっとりできるぞ。そのタカラヅカセオリー否定するならするで、新しいものを持ってこい、といいたい。「母」に埋没させてどうする。それはあなたの嫌う「タカラヅカセオリー」より数段大時代的でレトロなのに。

タカラヅカを見る楽しみのひとつは装置だ。バウホールは小劇場ながらレビュー専用の自前劇場なので、よその舞台ではできないような工夫ができる。今回はそれもなかった。カキワリとパネル式で構成されていた。振付と歌も、目をひく(耳をひく)ものはなかった。衣裳はもともと現代劇では奇抜なもの、豪華なものは使いにくいだろう。

タカラヅカ的なところで言えばトップスターにこれでもかと光を当ててスター性を強調するのも目の引き方のひとつだが、今回はダブルトップ作品ということで、その手も使えない。しかしそれは企画の段階でわかっていること。ならば他で工夫するしかないだろう。

いみじくも「フィフティ・フィフティ」(五分五分)というタイトルが、この作品の中途半端な作りをそのまま表しているようで、皮肉な印象をうけた。

以上は冒頭に述べたとおり、すべて演出(スタッフ)面への感想。私が見たのは初日開けて2回目の公演なので、千秋楽までに出演者の頑張りと熱気でもっともっとこなれたものになっていくはずだと思う。
ベンガルの虎

ベンガルの虎

新宿梁山泊

井の頭恩賜公園西園 特設紫テント (東京都)

2009/07/03 (金) ~ 2009/07/12 (日)公演終了

満足度★★★★

唐十郎の70年代の名作
比較的シンプルでストレートだった70年代唐作品を現代に再現させようとした試み。健闘していたと思う。以下ネタバレで。

ネタバレBOX

そもそも根源的なところから考えてみると、70年代唐作品を(新しい解釈ではなく)再現させることは、70年代唐作品を越えられないということで、それでは上演する価値はないのかといわれれば、それでも価値はある、と思う。という前提で。

唐十郎演出の唐作品は、頭の中から湧き出でるイメージをこれでもかと形にしていくといった様相で、勢いがある反面、荒さがある。それに対して他者の演出する唐作品は、別の脳みそで作ったものを形にしていくわけで、戯曲検討やその他一定の理論や計算を経る必要があるせいか、一種の落ち着きというか、緻密さの感じられるものが多い。名台詞をアドリブで頭に浮かんだ端から語る場合と、いったん文字にして台詞を考えた人以外の役者が語る場合の違い、というのだろうか。

多分初演の状況劇場の舞台は、見てはいないが、出演者のアクといい、勢いといい、すさまじいものたっだと思う。それに比べると今回は「再現」を目指した分、アクも勢いもおとなしめだったのではないだろうか。だからこそ見やすい、という面もある。

とにかく、いい戯曲だと思う。「白骨」のモチーフがバッタンバンと入谷、(多分1972年に休止となった後楽園)競輪場を縦系列に駆けめぐり、そこに東南アジアに身売りされた「からゆきさん」、ビルマの竪琴に見られる帰国兵、高度経済成長を作り上げたジャパニーズ商社マン、錦糸町のキャバレーのホステスが横系列に絡む。台詞のひとことひとことが、唐独特のリリカルさと偽善ならぬ偽悪(もしくは偽エログロ)のマスクをかぶったピュアさにあふれている。それを素直に、アクなく、形にしたという印象。

中山ラビの圧倒的な歌唱力、十貫寺梅軒の円熟味(唐っぽい)、裴美香の舌足らずな台詞とぶっちぎれぶり、渡会久美子の凜とした立ち姿が印象的。
越前ファンタジア

越前ファンタジア

OSK日本歌劇団

越前市文化センター(福井県)

2007/10/03 (水) ~ 2007/11/04 (日)公演終了

満足度★★★★

成熟感を感じる仕上がり
芝居部分のトンデモ設定、ありえないほど縦横無尽の国籍考証。それなのにしっとりと、美しくなめらかに進行していくのはなぜだろう。力業でシャカリキに感動を作り上げてきたこの劇団が、無理な力業を使わなくともなめらかな世界を構築できるほどに成熟してきたからではないかと思うのだが・・。謎の解明のために、また再び、三度、見に行こうと思う。

'S Wonderful

'S Wonderful

OSK日本歌劇団

世界館(大阪府)

2007/09/21 (金) ~ 2007/09/23 (日)公演終了

満足度★★★★

百聞は一見に如かず
悲劇をあくまで陽性に明るく描くところが泣ける。ダンスに定評のある劇団だけに、ちょっとした身体表現も的確で美しい。200人劇場の空間を客席も含め、めいっぱい使った演出、耳なじみのあるガーシュインの名曲の数々とそれにまつわるエピソードも楽しい。もちろんフィナーレのダンスは活きがよく、特に娘役の、かわいいながらもキレがいいのはOSKならでは。

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