壊れたガラス
パンケーキの会
com.cafe音倉(東京都)
2024/03/16 (土) ~ 2024/03/17 (日)公演終了
実演鑑賞
リーディングの快楽。
少し前の「玄界灘」でも感激と共に感じた事だが、リーディングがもたらす劇的効果は、具象が省略されている事。観客はそれぞれの想像力で補う。ただ・・と今ふと思うのは、想像力には様々な個人的体験や知見(観た映画や書物の数や受け止めた情報と感情の量も含め)に依存する面もあるかな・・と。そこはクオリアの領域で分からないが少なくとも自分には通常の舞台を観たに匹敵する(あるいはそれ以上の、または異質の)感動をもたらした。そして、台本を手にしながらの俳優の表現力、人物造形の強靭さに「感心」している自分も居る。(制作上の憶測を言えば、拘束時間の短いリーディングなら優れた=高い俳優を呼べる。加えてもう一つの要素がありそうだが割愛。)
アーサー・ミラーの隠れた戯曲を鑑賞。紹介文に「水晶の夜」(ナチス台頭の初期に起きたユダヤ人商店のガラスが軒並み割られた事件=この事件で排外主義がある一線を超えたと言われる)を題材にした作品、とあったが、舞台は米国のとある都市であり、描かれるのはユダヤ人夫婦のあくまで「夫婦間の問題」。新聞に掲載されたドイツでの出来事として、題材は顔を出す。作家の面目躍如は終盤の畳みかけにあり、唸らせる。
諜報員
パラドックス定数
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2024/03/07 (木) ~ 2024/03/17 (日)公演終了
実演鑑賞
風姿花伝での過去作連続上演か、サンモールでの潜水艇の芝居かが最後で、二、三年振りのパラドックス定数観劇になった。
新国立への書き下ろしも未見、芸劇Eの広い空間でこの劇団の芝居を観るのは初めて。
ゾルゲ事件(1941年)を扱った脚本で、ずんと闇の時代へと連れ込む音楽と、何処かの収容施設内(二段ベッドが置かれた空間とそれを取り囲むように敷かれた廊下に当たる通路、上手斜め奥に面した通路とを区切る縦格子の壁)の装置、終始暗めの照明が雰囲気を作り、周囲を闇に溶かしている。
今しがた覆いを被せられ、時間差で連れて来られた四人が、まず事態を確認すべく言葉を交わす。後に分かるが一組だけ互いを知る間柄だったが(連行理由に心当たりはない)他は見知らぬ者同士。やがて警察だと名乗る男が現れ、一人ずつの尋問が始まる。
史実をこういう角度でドラマ化したかと新鮮さを覚えるが、話を追うのに実は必死。どうにか付いて行けたように思うが脚本の完成度としてはもう一つという感想だ。時間があればまた改めて。
波間
ブルーエゴナク
森下スタジオ(東京都)
2024/03/15 (金) ~ 2024/03/17 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
久々のブルーエゴナク、青?エゴナク?(今更な疑問)以前観た微かな記憶を手繰れば、、ある仕掛け(ルール)を施した時間の中で俳優が動いている。法則に準ずる事により示唆的な空間が浮かび上がる。最後までしぶとくそのタッチを維持して中々挑戦的ではあるな、と感じたように思う。ワークショップ的な発想と言うか、思考実験の要素が強いが、作品としての統一感はある。。
実は北九州市で10年以上続けられた、市井の人々の人物史を掘り起こす『Re:』なる試みの集成を一昨年芸劇にて目にしたが、戯曲化を北九州在住の若手劇作家たちがやっていて、コンスタントに作品発表している名前の一つが穴迫信一氏。戯曲は北九州芸術劇場のサイトにupされており、時折楽しく読み進めていたので本ユニットの主宰という顔とは別の「書き手」としての印象が自分の中で育っていたのが、「そう言やそうだった」と今回符合した。
森下スタジオは好きな場所であるのでそれが大きく後押しして観劇に至ったが、「試み」のためのスペースにとも思える空間で、文字通り試みそのもののステージであった。未知なる領域に足を踏み入れる静かな感興があり、4人の役者が「出来る」若手(と言っても相見えてより10年経ってればもう中堅の部類か)でもあり場面を面白く味わえる。「夢」の風景を夢から覚める直前まで再現する、との宣言から始まる舞台では、文脈があるようで無く、無いようである夢らしい浮遊するような、逆にじっとりとした手触りの中から次第に、現実に起きたある事の輪郭が、ちょうど夢から醒めようとする時間に現実感が増すあの感じと重なる案配で浮上して来る。着想は面白く、舞台としても面白く観られる部分は観られたが、掴めない部分もあり、惜しいという感じを残した。
アフタートークでは役者4名と演出が登壇したが、役者のコメントに演出が逐一それが責務だというように返そうとしていてそれ要らんかなぁと。まあキャラのようであるが。。
実は私の観劇回ではハプニングがあり、奇妙な体験になった。
Voice!
なかはらミュージカル
川崎市立中原市民館・ホール(神奈川県)
2024/03/09 (土) ~ 2024/03/10 (日)公演終了
実演鑑賞
地域発のミュージカルは数々あれど、、これは中々のクオリティでは? キャストは小中学高校生中心でもなく十代~五十代あたりまで満遍なく丁度いい塩梅のミックス具合であるのと、歌が引き出すカリカチュアな演技と、素に近い喋り、熱の入った演技と場面に応じて良い塩梅に、噛み心地良い料理が出されるよう。
テキストはこの団体が持ち分としているらしい川崎市中原区ゆかりの「水」に関わる史実、二ヶ領用水、多摩川水害、編笠事件を取り上げ、特に県庁への直訴を敢行する編笠事件の場面は圧巻で、民衆蜂起に等しい挙行へと高まる民衆の鬱屈も、子供らの友情、大人の偏見、そして和解といった群像ドラマの各場面と共にしっかりと描かれている。
ドラムベースキーボードギターの生バンド演奏と歌、現代風の挿入がなんちゃって感を醸しつつも、押える所を押えて、観客を完全に味方にしているのが判る場内。私の前に座った夫婦とその隣には夫の父だろう人。恐らく孫の姿を愛でに来たのだろうが、ドラマが進むにつれて身体が揺れ、ざわついてる様子、舞台上の人物の声に思わず「そうだ」と答えて隣の息子夫婦に笑われ、涙を拭きながら恥じ入っていた。素直の感情を喚起する舞台に、少年少女が持つエネルギーは不可欠と思わせた。
ミュージカルという形式が持つ要素の大部分を具備していたと思うが、瞬間の快楽の後に観客の中に残るものは何か、という点で私の中では「皆のために」「体を張って」「筋を通す」勇気が押し出されたい所である。物語中の時代考証は結構な度合いで端折られており、最後は二人の男女の結婚という事実が包容する「無礼講」なエンディングとなった。それが悪いというのではないが何かもう一歩「事実の重み」を留めるフックが欲しい感じは残った。
楽曲のレベルは中々高い。
クチナシと翁
ホエイ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2024/03/08 (金) ~ 2024/03/17 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
劇場の有終の美を飾るべく皆が思いを籠めて芝居を創り上げているかのような「夢想」をしてしまうのは已むを得ぬこととして・・、津軽弁炸裂の完成度高い「現代口語演劇」である。心地が良く、ドラマも情緒も詰まっており、魅力的な役者が粒ぞろいでもあり、幸せな時間であった。
ご長寿ねばねばランド
劇団扉座
すみだパークシアター倉(東京都)
2024/02/29 (木) ~ 2024/03/10 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「リボンの騎士」など一度観てみたい演目を結構やってる若手のサテライトは未だまみえず、今回「大人サテライト」第一回を恐る恐る観に行った。演目は十数年前に初演して以来、この座組にて二度目の上演との事。Bチームを観る。年寄りばかり、とよく見れば、老けメイクをやってたり「そのまま」だったり。前説そして開幕から中々の「実力」を見せつけられ(いや皮肉、失敬)、この先2時間大変だと思いつつも、程よく情報が提供され、散らされ、あの人とあの人がああで、こう関係して、、と横内戯曲の淡々と話を進める手際に乗せられつつ、具象たちはぎっこんばったんとやっているので半分耳だけ貸して言葉を脳内解析していく塩梅で観劇時間が進む。おやおや、と関心し始める。こりゃ無理があるなと頭の中で呟きながらも、役者の演技も苦より楽しさが勝って来る。飾らずさらけ出された身体の強さが、フィクションの中に次第に座を占めて来る。ふと漏れた言葉に、胸がざわつく。慌てて押えたものの間に合わず、涙が溢れている。
終盤近くでいきなりファンタジーが混じる。80代から100歳代までという登場人物の年齢設定もおかしいが、実際にそういう光景は無いとも言えない時代でもある。荒唐無稽も交えた話の中、老いの孤独、無念で無残な人生の境地が、ファンタジーの垣根の向こうに微かに覗く。孤独が年齢を限定しない人生の問題だと気づく。
先日観た同作者の「ジプシー」にもあった人生そして少しだけ社会・世界に触れる素朴なテーマが、今作にも流れていた。手作り感満載なセットと、俳優たちの「元気さ」が妙味。
月の岬
アイオーン
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2024/02/23 (金) ~ 2024/03/03 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
以前戯曲を読みかけた事を思い出した。当日は25分の電車遅延(確か強風の日)で冒頭15分程程遅れて入場するも、風景に既視感。親類の葬儀に出ようと喪服を着たりぐずぐずしている。。(と思ったら結婚式だったらしい。)
若手の俳優たちの名は殆ど知らなかったがよく演じていた。
松田正隆の戯曲は長崎を舞台に、微妙なバランスで保たれた関係の揺れを描く。今作は離島のとある平屋、適齢期を過ぎた「出来た」姉が、弟の結婚式に出かける準備の朝に始まり、夫婦と姉の同居生活が進む中、中学教師である弟の生徒らが訪ねてきたり姉の異性関係が持ち上がったりを経て次第に姉弟の間に築かれていた紐帯がじわじわと可視化されて来る。そしてそれを直感する嫁の行動、姉を思い続けていた男の行動がドラマの熱度を徐々に高め、融解し、液化して心に沁み広がる。
ネバーエンディング・コミックス
東京にこにこちゃん
駅前劇場(東京都)
2024/02/28 (水) ~ 2024/03/03 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ユニット名を見て「あのほぼ旗揚げ公演を観た劇団」とは思い至らず、公演日が迫って「あ、もしかしてあれ」と思い出して、予約した。(と書いたがこれも勘違いでまあまあの経歴があった。)
笑いと、意外にウェルメイド、という記憶が残っており、ウェルメイドが勝っていない事を期待しつつ。
蓋を開けると、こんなギッシリだったか、と思う程に床に笑いネタが敷き詰められた上を意も介さず歩いて行き、ドラマはドラマで進む。そうだこんな感じだった。
熱血ドラマのなぞり、という意味では人情に回収される笑いの部類ではあるが、どうにかギリギリ、笑いが勝ち、よし。と判子を押した。
人民の敵
劇団東演
東演パラータ(東京都)
2024/02/21 (水) ~ 2024/03/03 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
完成度高し。
「人民の敵」(又は民衆の敵)は縁あって良く観ていて今回が五本目だろうか。コットーネ、小山ゆうな演出ユニット(雷ストレンジャーズだっけ)、ハツビロコウにどこかは忘れたが狭小空間での上演も良かった。
東演の今作の演出西川信廣氏は分かりやすい作りにワンポイント攻めた趣向を盛り込むのが特徴(という印象)だが、今回は乘峯氏の美術のホリゾント一面に張られた背景画が見事で、空の部分の照明の当て方でガラッと変わる(時刻or季節を知らせる)。劇場としては本来舞台裏の通路に使ってるのでは、という急激な傾斜の階段が奥の上手下手にあり、ここから出ハケもやる。ただし開幕では主要脇人物が各所に立ち、暗がりで開始を待つ静止のポーズでバシッと構図をキメ?。そして左右の壁沿いに置かれた椅子に出番が終われば戻る式の演出で暫く進む。これらを流麗にこなすのを見て東演俳優も中々、と思う。
話は把握しているので多少の話の筋の分かりにくさにを無意識に補っている可能性もあるが、流れは良く、あとは細かなキャラ設定で、醸し出すリアリティが変わる、そういう部分になって来る。神は細部に宿る、とも言う。今回の東演版「人民の敵」はどういう特徴を持ったか、時間があれば書いてみる。
新・復活2024
劇団キンダースペース
シアターX(東京都)
2024/02/28 (水) ~ 2024/03/03 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
恐らく初のキンダースペースで、トルストイの「復活」も(あらすじ含め)初めて。その意味で色々と興味深い観劇だった。
目玉は「復活」なのだが、この舞台はそこに松井須磨子と島村抱月の逸話を絡めている。須磨子が「復活」のヒロインを演じるのだが、舞台へのこだわり、厳しさ、わがままさと演じるキャラとのギャップが面白い。私には「復活」の最適な「紹介」の仕方であったが、日本でこれを上演した、という事実(でなくても良いのだが)が何を含意するかという点がもう一つ飲み込めなかった。台詞の行間を観客が埋めるに委ねた感もあるが、劇的を欲する自分としては日常的な台詞からもう一つ強い言葉を役者に吐かせて最後を飾って欲しかったのが正直なところ。
役者たちは達者であった。
崩壊
糸あやつり人形「一糸座」
座・高円寺1(東京都)
2024/02/28 (水) ~ 2024/03/03 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
前回公演「少女仮面」には厳しいものを感じたが、今回は魅せてくれた。俳優&人形融合の一糸座芝居の成果。座・高円寺の広い舞台も難点にならず、馴染んでいた。
桟敷童子の世界そのものの人形劇との相性を感じさせる一面もあった。程よいフィクション性ゆえか人形の存在が「不足」でも「異質」でもなく「丁度良い」「相応しい」のである。
桟敷俳優三名も人形を手に実演。一時間20分は「圧縮」版かの脚本の筆致で、粗っぽさも感じたがそのスピード感から劇的高揚に到達し、突き動かされるように大拍手していた。(ただ座高円寺は拍手の反響が小さくて盛り上がらないんだよな。。)
花と龍
劇団文化座
俳優座劇場(東京都)
2024/02/23 (金) ~ 2024/03/03 (日)公演終了
ひとえに
シニフィエ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2024/01/13 (土) ~ 2024/01/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
観ているはずがコメントしていなかった。小野晃太郎の作品、と言えば前に春風舎でやった、言葉の流れが良く好印象の、あれだろうと思うが確かその時は「シニフィエ」とは名乗ってなかったと思う。
新田祐梨はあの小柄な青年団女優だな。うむ、間違いなく観ている。
物語の筋らしきものはあるが、あらすじは忘れてしまった。
静かに言葉を聞かせる舞台であった。作者は言葉に敏感な人だな、と思う。そして言葉に敏感である事は、人が他者に対して取る「態度」にも敏感で、現代の暴力は往々にしてそうした態度が運んで来る。・・そんな問題意識が舞台上に流れていると、その問題に自覚的に取り組む「活動」が芝居に登場する。「暴力(的なあり方)」から身を守り、あるいはそれを意識化する事で生を立て直す、その手助けをする活動であり、そこには中心となる女性がいる。
「問題化」=意識化された「それ」は、次第に肥大して排除・対決の対象となり、己の心身が「闘争」へと動員される、そういう人物の変化も描かれる。ある人を助けたい思いが、思考によって問題を普遍化し、運動となると、助けたい思いを発露させた相手と育んだ友人関係が変質し、正しさへの承認を欲してそれが得られないと耐えられなくなる。
幾つかのエピソード(人的に幾分繋がってもいる)が交互に描かれる構成だが、惜しいのは、同じ「濃さ」で場面が連ねられて行く。二時間超えの台詞劇が、つらくなる。
こういうのは恐らくテクニックの部類で、何らかの息抜きを観客に許す場面をどう挿入できるか、一コマそれがあれば随分と良いと思った。もっともそういう「場面」に人物を遭遇させるという事になると、意外な趣味だとか、それを巡って他者がどう関わるか等を加筆せざるを得なくなるかもだが。
骨と軽蔑
KERA CROSS
シアタークリエ(東京都)
2024/02/23 (金) ~ 2024/03/23 (土)公演終了
実演鑑賞
ナイロン100℃もたまにしか観ないが、ひと際値が張るKERA CROSSのチケットを「一度だけ」と購入。久々に(確か二度目の)シアタークリエに足を踏み入れた。
芝居は一定満足できるものだった。ケラっぽい箇所(予定調和というかイイ話っぽく収まりそうになる所)につい鼻白みそうになるのをこらえて、話に集中。
名だたる、と言おうか実力ある女優陣のどのあたりがチケット代を引き上げてるのか(集客を確実にするのは誰か)、そんな事を考えながらも芝居を観ていられる事に感心したりする。まあ、水川あさみが大分引き上げてるな、との結論。演技力は並だが、他の「声のいい」女優が遠目に見分けづらいのに比べ特徴ある声が強み。演技のキレの点ではケラ舞台にあっては犬山女史、峰村女史の秀逸さが際立つ。トリックスター的な溶媒的な役柄に小池栄子女史。これが効いてこその筋書きだったりする。主役の姉役・宮沢りえは「普通」で良い。姉を妬み意識し続けて幾歳月という、これもケラ戯曲に不可欠な極端キャラに、鈴木杏。これも難しい役どころ。一度どこかで見てその実力に感服した記憶だけある名、堀内敬子がやはり存在感あり。(お値段はこれら役者のアピール度全て合算したお値段だな。いやお金の話で申し訳ない。)
ギャグについて。姉と妹が所有権の主張と敢えての遠慮とを繰り返し、ドツボに嵌る笑わせ所(リフレインで二度やる)は、別役実の「うしろの正面だあれ」の冒頭のくだりをほぼなぞったもので、ケラ氏なりのオマージュと読めて嫌味が無かった。本作は同じ装置を照明変化で庭と屋内に区別していて、庭の場面に居た小間使い・犬山へ、照明変化後、屋内の階段から、女主人・峯村が声をかける。屋内シーンでは犬山の場所は一階の一角となり、「え?私?今私庭に居るはずが・・」で笑い。この犬山が、他の者がいなくなると暇つぶしのように観客に話しかけ、会話を勝手に進めて回答を引き出し、それを今度は他の登場人物に「日比谷の皆さんが○○」と弁明に用いたりと、芝居の約束事逸脱系の笑いがケラ芝居らしく多用され、だが程よい程度に収まっていた。
本編ストーリーの語り口をそこそこ補完している重要な「笑い」だが、これが一種カモフラージュとなって後に全貌を見せるのが今作。車窓の視界を遮る木々や建物のように風景の全貌を見せず、最初に見せれば何という事もない風景を最後に見せて劇的な瞬間を作る。
ふしぎな木の実の料理法~こそあどの森の物語~
劇団銅鑼
シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)
2024/02/21 (水) ~ 2024/02/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
銅鑼の舞台は幾つか目にしていて、社会派なシリアス物から人情劇風のもの、SFチックなものと色々だが、そういう「想定」からは今度の舞台は随分外れていた。勿論良い意味で。架空の「森」という世界が、舞台装置、音楽そして役人物たちの演技によって破綻なく、醒めさせる事なく形作られていたのが、自分にとっての驚きであり発見。
ただ例によって体調がやはり万全でなかったらしく、後方席で受け取る視覚・聴覚の刺激が導眠効果となり、途中幾つかの「訪問」場面が抜けた。最後も良い感じで終わっていて勿体なく思ったが、これを埋めるべく原作に当たり、舞台を想像で再現する楽しみが出来た(そう思う事にする)。
アニバーサル公演で招聘しているらしい大澤遊演出の舞台も(中なか見れていないので)拝見できたが、演出の導きでもあの世界観を作り出す(というか破綻させない)演技を銅鑼役者がやれていた事が私の中での☆三つ。
川にはとうぜんはしがある
ばぶれるりぐる
こまばアゴラ劇場(東京都)
2024/02/22 (木) ~ 2024/02/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
同じ竹田モモコ作の「ぼっちりばぁ」(青年座)を観たばかり。ばぶれるりぐる「いびしない愛」を観たアゴラで、同じく劇団公演での竹田作品だったが、関西役者(だけでなかった)によるノリか、演出か、ある種の芝居のリズムがあり、すき間があって想像力を駆使させられる。舞台は母屋と離れそれぞれの出入口とその間の土間、また離れと言っても屋根があって雨に降られずに移動でき、屋外とは壁、扉で隔てられいるので建物は別でも「内部」。そういった設えなのだがアゴラという事もあって「離れ」との距離が近い。なのでタイトルの「川には・・」の川として見るには、若干無理があり、相互の「隔たり」がテーマだろうに近いなあ・・と終始感じながら見ていた。すのこを置く事で便利!とより実感できる距離が、理想的で、対岸に立って対峙する時の距離感も、もう少しばかり、あると良い・・等と無いものねだりをしても仕方ないが。
大分あとになって確認した所、役者は「劇団員」ではなくオファーした人たち。渋い空気出してるなあ、と思わせる妹の旦那役。妹役も関西では色々と活躍との事。姉は竹田モモコ。本人が出演していたとは露知らず。他県から移住の若者は劇団5454(今はランドリーと添えるのかな)団員、残る娘(妹の)役が一人朝鮮名がいるなと思っていた若手で、実は関西の朝鮮高校出身。高校時代に(演劇部設立が叶わなかったので)劇団を3人で立ち上げ賞を取り韓国の演劇フェスに招待された(5年前)経験を持つその一人。持ちキャラでもあるらしいハキハキした役で大人らの先を行く。そして妙に理解が良く人当たりも良い青年は元広告代理店勤務で、これも年輩の姉妹の先を行く。見た目で年齢を判断して良ければ最年長の妹の夫も飄々として若者の波長を理解していた。
という訳で、この芝居は姉妹が互いに反発を覚えながらも励まし合う関係へと「促される」お話。押さえていた(とはずっと見えなかったが)感情が最後に溢れ出る情景が美しい。
デザインの仕事を家賃無しの四国の実家で継続して行こうと決め東京から出戻った独身の姉が離れに住み始め、二十歳になろうとする姪(妹の娘)が実は絵が描けて、自分の仕事の手伝いをやらせてみてその異才に気づき、自分が一歩引いてでもその才能を開花させたいと思い始める。一方娘が地元で勤めていた手作りパン屋を休みがちになり始めた頃から妹の娘の将来への懸念と姉へのわだかまりが大きくなる。芝居の冒頭で「空き家情報」を見て内見に訪れた青年はちょうど姉の引越し後のゴタゴタの場面に立ち会い、またバイトからちょうど戻って来た娘が、住居に困った彼に別の空き家情報を提供するといった事でこの家族と知った仲となる。姉と姪が二人になると姪は「さきちゃーん」と甘え、話の出来る姉のような存在であった事が薫って来る。
竹田モモコは高知県の幡多地区を舞台にした幡多弁による戯曲にこだわった劇作家だが、田舎の事情を組み込みながら現代にアプローチする。今作では田舎に飽き足らない(その人口比は現実には高い)人の都会志向と、田舎に馴染んで育った人の田舎で完結する傾向とを対置し、妹の後者を体現させている。現実にそこまで田舎の人間関係を厭わず受け入れ、それを代々引き継いでいく事を肯定的に積極的に受け入れている人格があるのか私には分からないが、情報化の現代を最も象徴する広告代理店を離職した若者を登場させ、都市的価値観の限界と、地方の限界とを提示する作品がこの作者によって今後も生み出されて行くのはこの上なく楽しみである。
夜は昼の母
風姿花伝プロデュース
シアター風姿花伝(東京都)
2024/02/02 (金) ~ 2024/02/29 (木)公演終了
東京トワイライト
劇場創造アカデミー
座・高円寺1(東京都)
2024/02/22 (木) ~ 2024/02/25 (日)公演終了
実演鑑賞
座・高円寺劇場創造アカデミー修了生が集っての作品が松田正隆氏演出の下、昨年夏より数次の稽古を経て発表に至ったとの事。
現代日本を独自に切り取った風景描写であるが、台詞量がかなり抑えられ、動作による表現が大部分を占め、その読み取りに苦労した(面白さもあるが、不明のまま放置せざるを得ない部分の割合が少々高い)。
タイトルにある「東京」をさほど気にしなかったのだが、白昼の銀座高級時計店の強盗事件を、地方の人はどう見ているのだろうとふと気になった。東京=日本の代名詞、とは限らない。
座・高円寺1は兎に角広い。このだだっ広さを活用し、何もない平面を数名の同世代(三十前後)の男女が動きまわる。照明も終盤の二、三の暗転以外は、同じ明りでステージを満遍なく照らし続ける。
言葉による説明を極力省いて作られた事は、役人物の同一性や、動作の意味等で不明瞭な点が幾つか生じた。不明部分が大きいと変数の多い方程式と同じく類推を諦めてしまう。
近年の松田正隆氏は、福島という土地かに因んだ継続的な仕事をしていたが、その手法の延長に今回の作品もありそうだ。難解というイメージが更に固定した感ありであるが、人間のちょっと笑える風情を体現した俳優たちの身体は緩みがなく、地味にポテンシャルを示していた。
509号室−迷宮の設計者
名取事務所
小劇場B1(東京都)
2024/02/16 (金) ~ 2024/02/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
まずまずであった・・とは期待の高さゆえの感想。
名取事務所の韓国現代戯曲シリーズでこの作者、金旼貞(キム・ミンジョン)作品は三度目の登場らしい。作者の傾向は判らないが、他公演の概要を見ると一つは日帝支配下の朝鮮を舞台、一つは現代(戦後のどの時期か不明)を舞台としたいずれも濃厚な人間ドラマといった風だが、今作は対象との距離を取ったドキュメントなタッチで韓国の民主化闘争時代の弾圧の側面にフォーカスした舞台。
韓国の著名な建築家・金氏の設計とされている元政治犯収容施設を案内人と共に写真家が訪れる現代と、当局から設計を依頼された当時の経緯、そして現代の案内人の元恋人かと想像させるある収監者のこと、この三つの逸話が錯綜して劇が展開する。
後で振り返ってもたげた要望は、できればその高名な建築家の人生に迫るドラマとするか、拷問を含めた権力の術策を赤裸々に抉り出す告発劇とするか、、どちらかに寄せたものを観たかった。
理由を考えてみると、民主化を弾圧した権力は憎むべき相手である。これに異論は無い。ありようがない。
だが、水責めが行われた独房を、「その用途を知った上で建築家は設計したのかどうか」を問い始めると、「そのように意図したか否かに関わらず負う責任」が埒外に置かれ、問題が矮小化して行く感覚に陥る。
仮に建築家がそんな事を意図しなかったのだとしたら、(政治的スタンスを巡る市民の責任に関して)「あまりに鈍感」である事にある種の咎は生じそうである。
実際にはその高名な建築家は中々当局のリクエストに対して(多忙ゆえか、多忙との弁解が可能だからか)回答を延ばし、会社で対応に当たった部下の一人の青年が、登場人物としてフォーカスされている。実際には彼が設計を行ったらしい推測が成り立つ格好で、芝居の中で「告発」まがいの視線を受けるのは彼である。
写真家(フォトジャーナリスト)が最後に問い詰めるのは彼である。彼女はまた、案内人に「収監者」との関係も問うが、固有名詞を担うのは建築家のみ。数知れない被投獄者を代表する舞台上の彼が、その案内人にとって誰だったかはさほど重要でない。また同様に数知れなく居ただろう権力への協力者に関してもそれが誰にとっての何者であったかは重要でない。
重要となるのは、案内者である彼女が客観的事実を述べる範疇を逸脱し、「私的」言動を取り始めてからの話で、しかしこのドラマではその瞬間は訪れない。弾圧の事実の告発は私的であり得る事を超えて大きく公的な問題群となる。
三者がそれぞれに抱えた人生の断面が見えて初めてドラマは動き始めるのだとすれば、この舞台はそれぞれの人生の行方を微かに予感させるにとどまった。作者は実は人を登場させながら無機質なその建造物を、というより建造物の無機質さ(非人間性)を感覚的に観客に届ける着想があったのでは、等と想像する。その部分に呼応するような効果音(音楽)が印象的ではあった。
養生
ゆうめい
ザ・スズナリ(東京都)
2024/02/17 (土) ~ 2024/02/20 (火)公演終了
実演鑑賞
スズナリ公演であるのと蠱惑的なチラシに惹かれて観に行く。相変わらずシビアな、ブラックな状況と独特なエスケープのカタルシス。深夜バイトで男3人、実体験がベースにありそうだが生々しさと滑稽さと奇妙な装置による効果でフワッとしてる感触もゆうめいらしい。
ウンゲツィーファ主宰の本橋龍、青年団俳優・舞監の黒澤多生、俳優の田中祐希三名による臨場感のある(ふと訪れる夢的な時間も)芝居空間が、その空間の心地良さを維持して続いて行く。冒頭の本橋氏の語りがまずドキュメントな空気満載で、これ実体験でなきゃこうならんだろ、と思わせた最初に観た「弟兄」(だったか..これはかなり実体験反映のケースだったがそれでも脚色創作部分があったのだと知って結構衝撃であった)以来、ゆうめい舞台に漂う空気である。
現代の職場空間、人間関係、状況適応テク、相互の浸食具合等の描写に目を見開かれるのだが、それら細部に時代の風景が逆照射されて行く感じもある。