tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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水星とレトログラード

水星とレトログラード

劇団道学先生

ザ・スズナリ(東京都)

2025/08/02 (土) ~ 2025/08/11 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

大人の風格?を見せた先般のOFFOFFでの4人芝居から、保坂萌女史の「らしい」着想が出たと思ったのが、「お婆さんとタイムリープ」。自分の口でこれを言ったら「認知症」が連想され、見事な親和性である。SFなのかリアリズムなのか、という二つのシーソーはリアリズムによる解明へと流れる所、不思議寄りの現象やダンスシーン等の舞台効果により五感に働きかけて左右に揺らし、中々の長丁場を乗り切ってフィナーレへ見事に着地させていた。
SFは設定が命、と幾度となく書いたが、本作の弱点は「一人がループしている」事であり、やがてそれは「一人だけループを自覚している」との説明で切り抜けるも、お婆さん(かんのひとみ)はリープのループ(水曜に始まって火曜の夜に終わる)を自覚するがゆえに自分は様々な対応をしており、一日に起きる幾つかの出来事さえ繰り返せばループしている事になっているというどこかいい加減な現象だ(だがいい加減だな、と思わせてもいけない)。そしてお婆さんがそろそろ抜け出したいと考え出す事から、身内のまず孫に「あたしはタイムリープしてる」と告げる。これをきっかけに母の面倒誰が見るか問題、息子家族や娘家族が抱える問題が炙り出され、一方お気楽なお向かいさん(田中真弓)夫婦と、孫の先輩、もう一人の孫娘の親友という存在が第三者として飄々と介入する。そして孫たち若者らがお婆さんをリープからの脱出を自らの使命とし、動き始める。つまり、何度も繰り返された時間(お婆さんは同じ一週間を51回繰り返して来たと言うが、後で分かった事にはその自覚以前から500回も繰り返していた)の、最後の一回となる一週間を描いたお話、という事になる。
(続く)

不可能の限りにおいて

不可能の限りにおいて

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2025/08/08 (金) ~ 2025/08/11 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

生田みゆき演出による海外戯曲リーディング、という所で「観る」つもりでいたのがふと気づくと既に公演期日。泡を食って予定を組み、幸い観る事ができた(webからの購入を一度やり直したら次は完売。当日立見席で観た)。
どこにその匂いを嗅いだかこの公演じっくりと取り組んだ舞台製作であるよりは、急ぎ上演に漕ぎ着けた感があり、その予感(?実際の所は分からないが)に違わぬ内容であった。即ち「人道支援」の仕事に取り組む人たちへのインタビュー(聞き取り)、今現在待ったなしの状況がパレスチナという土地で進行している事への焦燥が、その印象に繋がっただけ(単なる主観)かも知れないが・・私にはこの観劇体験は必要であった、と振り返っている。

俳優はずらり14名、A、Bの2チームだが裏チームの者も「証言」以外の会話や小芝居の補佐として立ち回るので、全員の姿を見、声を聞く事ができる。
一等最初、前説的な挨拶が終ると、インタビュー「される側」の会話が始まり、そこから最後まで彼らの証言だけで貫徹される(客観視する存在のナレーション等はない)。彼らは目の前にいる(だろう)俳優や関係者=演劇製作のためのインタビューに訪れた者たちに向かって語る。彼らを迎え入れる時の会話・・「私は演劇が苦手。退屈しか感じたことがない」「俳優さんとこんな体験ができるなんて考えもしなかった」「あなた、あなたに私を演じてほしいな。私は穏やかな人間。そして貴方は穏やかな顔をしているから」等々。そして徐に証言が始まり、彼ら「人道支援」を仕事にする者たちが一人ずつ立ち替わり喋ることとなる。

まずはこの演出の見事さ、に触れるのであるが、彼らの証言はほぼ全て、彼らの「訪問先」で体験した事だ。彼らはその地域の事を「不可能」と言う。本テキスト中、演劇的飛躍のある唯一の約束事。自分が住む国は「可能」であり、「可能から不可能へ入る」「不可能の言葉は分からない」といった使い方をする。不可能=紛争地のことだ。
台本を置くための譜面台を前に、最初は一列にずらり並んでのリレー・トークが収束すると、中央に一つ譜面台を残して少し後ろに椅子が横一列、俳優はそこに控え、一人ずつ中央に立って証言するフォーメイションとなる。
言葉が耳から頭へとすうっと入って来る。一番手の話から、情景が眼前に浮かび上る。一つ目は彼らの組織の旗が爆撃後の静かな町の一角にはためいているのを見た職員は、そこにいる二人の男が路上に横たわる遺体を一体一体収まりの良い場所へ移動しているのを見る。仲間であれば自分らの職務が今最も医療を必要としている負傷した人達の元に駆けつけ、処置を施すこと・・にもかかわらず彼らは、手を掛けても甦る事のない遺体を黙って運んでいる。彼らに話しかけると、「手伝ってもらえますか」と言う。語り手はその後、自分の勘違いに気づく。彼らはそこに住む人々であり、彼らはその旗を「それがはためいている時だけは誰からも攻撃されない」お守りとして用いていたのだった。彼は自分たちの組織のシンボルが、その組織のことを何も知らない紛争地の人たちのものとなっている事に感銘を受けた事を語る。証言集の幕開きである。
場内はその後、笑わせシーン以外は物音一つ立たず、張り詰めていた。
様々なシチュエーションに遭遇した彼らの様々な証言が続く。
フォーメーションは幾度となく変る。一人中央に立っての証言(後ろに横一列ずらり)はやがて、ランダムに中央へ向いた椅子の置き方となり、ある男が自分の失敗を語る。話者はしばしば女性の証言を男優が、男性の証言を女優が担う。
ある女性は自分の血の輸血で救ったあるサッカー少年の、後日談を含めて語る。そこでは少年を表わす人形が登場し(人形が中央やや左のテーブルの上、話者は中央やや右寄りに立つ)、パペットシアターに。その少年のお陰で間一髪危機を逃れた後日談は木々の生い茂る中を車で進む様を、左右両の照明の前に木の枝(葉っぱ付き)を左右交互に「近づけて外す」とやってその影で道行きを表わす影絵の手法。
やがて舞台上には何も無くなり、シチュエーションを複数で演じたり、照明だけでキャンプファイアを囲む様子に見せたり・・。その夜はギター弾き(メンバーの一人)も居て、話者が歌う「不可能」の人たちの不可能の言葉で綴られた歌声に聞き入る。彼らは他の者の証言に、常に耳を傾けている。その情景も観客の目が捉える所となる。
逸話のバリエーションに見合うだけの趣向を凝らした演出に、リーディングである事も忘れるが、人の語りというものが様々な場や状況、気分によっても言葉のトーンが変って来ることを考えれば、ごく自然なあり方だ。
台本を持ち、台本に目も落としているのに「読んでいる」ニュアンスが排除されている。語っている臨場感をキープし続ける所が俳優たちの力量を思わせる所であった。
しかし何より、テキストが夏の昼に水を飲むように耳に、脳に入って来る。翻訳の藤井慎太郎は(先日観た)世田谷パブリック「みんな鳥になって」を始め過去上演したムワワド作品を翻訳してきた人だが、今改めて翻訳が持つ力というものを考え始めている。

特記する事でもないが、終演後拍手は鳴り止まず、4コールまで続いたのだが、それが不自然でない舞台ではあった。娯楽とは何か、と考えずにおれない。

『残響』

『残響』

白狐舎、下北澤姉妹社、演劇実験室∴紅王国

シアター711(東京都)

2025/08/06 (水) ~ 2025/08/12 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

下北澤姉妹社、そして出演陣を瞥めて観劇に至ったが、紅王国/白狐舎(前者主宰の故中野氏が企画し、後者主宰の三井氏が脚本執筆)については前に一度両者が作品を持ち寄った合同公演を観ていたというのもあった。昭和史の事件を自分らに重なる「人」の視線で、「人」のドラマとして描いていた記憶であるが、今作は安倍元首相銃撃事件が題材。両団体の正体は知らねども縁あって観劇に至る。良質な舞台であった。
事件の加害者となるらしい人物の属性として仄めかされる「宗教」との関わり(被害)は、決して特殊な事例ではなく、同じアパートに住むカップルや年金で暮らす管理人夫婦ら庶民らも、不遇からの救済を望むゆえにそうした「被害」と地続きである事もいつしか見えている。「信じたい心」「弱さ」を持つ彼らに作者はその報いとしての悲劇を味わわせるわけではないが、相応の結末は到来する。
だが、劇の終盤、ささやかな人生を営もうとする彼らが小さな命を育むあるささやかな営みにおいて、初夏のある日、心和むひとときを共有する。
この感動の所以は、作者が銃撃事件を起こした人物を決して特殊なケースとして炙り出す事をせず徹頭徹尾、同じ時代を生きる人間集団=社会の中から必然的に生まれた「現象」として描いた事にある、と思う。

パチパチ

パチパチ

シリコン

「劇」小劇場(東京都)

2025/07/29 (火) ~ 2025/08/03 (日)公演終了

実演鑑賞

懐かしクロムモリブで目にした俳優名だけを頼りに、フラッと観に行った。
パチンコ屋のバックヤードでの会話、人物の絡み方、展開に目が離せず中盤まではマナコ爛々わくわくと高まっていたが、惜しかったな。人間のサンプルを取り揃えたような状況が、場所がパチンコ屋だと「普通」に見える不思議=リアルを小気味よく眺めていた所、人間の病的特徴、行動を担わせるべき人物の選択をミスってるような?
描きたいのは群像であり、長く勤めた「今日で退職する」女性スタッフの目に、最後にはそこで過ごした時間が蘇る。都会の掃き溜めのような吹けば飛んでしまう存在たちへの作者なりの温かな眼差しが作品の背景にあるのは確かなのだが。。
パチンコ屋の事情を知らなければ書けないディテイルとその狭間に発火するドラマが、真正面から描いているタッチを、あと半寸ズラして「何ちゃって」感を込めても良かったかも(適切な距離感が保てたかも)・・と。

シブヤデマチマショウ

シブヤデマチマショウ

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2025/08/01 (金) ~ 2025/08/03 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

シブヤデマタアイマショウが予想外に面白かったので、こちらも観に詣でた。例のアクターズ出身の若手が出演陣と思しいリーズナブル価格という事もあり。
冒頭のアナウンス(前口上)では簡素な美術を卑下しつつ、松尾スズキ芸術監督就任して間もなくの東急デパート解体、コクーン休館にも自虐ネタ的に触れる。氏の渋谷愛・コクーン愛の眼差しがそこに住まい、行きかう人にも届く。その一粒たちである彼ら、夢と現実の狭間に揺れる現代の二十代なりのリアルに寄り添うエピソード、台詞に心がほどけて行く。やはり独自の世界観を持つ作家であり演劇人だな、と思う。若き俳優たちがこれを目一杯、十全に体現している(歌や踊り、楽器と何気にレベル高し)。

おーい、 救けてくれ!

おーい、 救けてくれ!

鈴木製作所

雑遊(東京都)

2025/07/30 (水) ~ 2025/08/03 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

過去それなりに上演されていた模様だが認知したのは初めて。サローヤン作、に目が止まり、馴染みのある川口龍氏出演の回が都合良く空き時間に当ったので観に行った。約50分。短編戯曲として起承転結よく出来ているが、舞台としても二人の出会いの「純粋で無さ」を含めて生身の人間同士が出会うことの感慨に導かれる、匂いのある舞台だった。(短編のよく出来た戯曲で狙われがちなスタイリッシュさや軽演劇的な味付けには向わず、人間描写に徹し好感が持てる舞台。)

vol.41 「廃墟」、vol.42 「そぞろの民」

vol.41 「廃墟」、vol.42 「そぞろの民」

TRASHMASTERS

駅前劇場(東京都)

2025/07/25 (金) ~ 2025/08/03 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「廃墟」を観劇。Corichページを開き、改めてTRASH観劇歴を振り返ってみると・・題名で内容を思い出せる作品が少ないのでレビューなど眺めて「あーあの作品か」と合点。一作ずつ辿ったがほぼ観ている。初回が「狂おしき怠惰」これは「背水の孤島」が話題になったのでその次作を観たというヤツで。従ってTRASH歴13年になった。
以後観ていた中で一度、開演時間を一時間取り違えて駅前劇場を訪れ、しょんぼりと帰宅した事があったがそれが「そぞろの民」(レビューを書いていないので)。だがこの作品の記憶があったのは雑誌に戯曲が載ったのを読んだからだった(それを元に脳内で舞台イメージを作っていた訳である)。
と、今気付いたのでもう観劇には間に合わない。残念・・

というわけで「廃墟」の感想を。
新作ばかりを観てきた自分としては異例の公演に欣喜雀躍であったが、あの一晩中侃々諤々やる三好戯曲をTRASHがやると、TRASH的議論劇になるのかも・・?と一抹の不安ありであった(自分としては敗戦直後の物的に逼迫したリアリティをしっかり表現してほしい思いがあった)。だが結果は、中津留氏は基本リアリズムの演劇人であったのだな、という感想。以前文化座・東演の合同公演で観た衝撃の三好十郎世界の発見の体験に、十分拮抗した、また清新な切り口もある「廃墟」であった。
難点を先に書いておくと・・・リアリズムという点からするとキャラクターと配役の合致は望みたい。長男役の長谷川景は肺病を病んでなお「理想」に己の人生を賭けようとする造形としては、やや病弱イメージが薄い(台詞には「こんなに痩せちゃって」等とある。それでも会話は成立し、大過ありという訳ではない)。叔父役が少々リアリティに欠いた。お調子者の要素を強めに出していたが、南米に渡って一時は鳴らしていた事もある世慣れた人物像、それなりに一家言あるが殊更に(周囲の者のように)大声で主張しないだけ。熱くなりすぎず達観した所から物を言う。ある意味この劇を進める緩和剤的な位置であるが、今回の舞台では「おいおい」とツッコまれちゃう非常識側の色が強く出ていてそぐわなかった。また衣裳もセーターの色が合わず、わざとそうしたのかもだがもう少し別なチョイスがあったと思う。川崎初夏演じる居候(母代わり)「せい」は真心が表に出すぎ(役者として秀でているという事ではあるのだろうが)、女の弱さが不可抗力的に真面目な男(ここでは長男)を翻弄する「無意識の狡さ」があれば満点なのだが、という所。
浮浪者については、後半出て来て何をするでもない役だが、精神を病んだ「戦争の犠牲者」を想起させる役どころで、その描写は、本人は口がきけないだけに、彼をいじる側の演技次第という面がある。その点では次男を演じた倉貫氏の特攻帰りのアプレゲールの持つ狂気「押し出す」演技としては文句の付けようもない印象なのであるが、「見栄張り」と脆さをもう少し自然な演技の中に偲ばせる人物造形により、彼の「自然さ」を鏡として浮浪者の異常さを観客に認識させるのが、方法ではなかったか、と思う所。
顔に火傷を負った次女と、父役には満点を付けたい。

本作は「議論」としての凄みのある一方、物質的豊かさが「政治の季節(熱い季節)」を終焉させ「高度成長期」をもたらした事が象徴するように、劇中の彼らはひもじさをも「糧」として敗北からの未来を見通すための話をしている風景としても、見える。勿論、その前年まで「戦争」という激烈な状況を味わい、悲痛にあえいだ記憶が何より彼らを「その事をどう処するのか」の思考へと突き動かしているのだが、このような議論をした家族は無かっただろう。飢えをどうしのぐか、どう我慢して夜を明かすか・・そんな状態で普通議論はしない。ただしこの作品の彼らは仮にも歴史を教える大学教授の息子・娘らであり、そのような家風であった事は無理筋ではない、が、それでも行きがかり上あのような会話が生まれ、議論に発展し得るという事は奇跡に近いのであり、戦争を直に体験した三好十郎という一人の作家による架空も良い所のフィクションなのである。
にも関わらず、そこには真実があり、人間の感情があり切実な思いがある事は否めない。「戦争」というものをあの時点で三好は「憎んでもいない人たちの事を殺し」と人物に言わせ、「二千万人もの仲間を殺した」とする。このとき三好十郎は、新たに敷かれた国境(それまでは植民地・満州そして開戦後の占領地はニアリーイコール日本だった)の内と外を切り分けて人間を捉えず、「人間にとって」必要なこと目指すべきことについて考え、台詞に殴り書くように書いたのではないか。今考えるべき全てを洗い出し、ある生き方を全力で貫こうとする人物を通して議論させた。それをやらずに先へは進めなかった、のだろう。裏を返せば、恐らく「過去は忘れるべきもの」とばかり新時代を要領よく生きる人間たちが溢れていた故に、彼らを横目で見ながら、危惧を抱くと同時に彼らの分まで考え抜こうとした。

そして作者が戯曲に刻んだ言葉・・父の立場、長男の立場、次男そして次女それぞれの立場から吐かれる言葉は、彼らがその存在を賭して提示した思考をなおざりにし、遠い過去である事を良いことに都合の悪い事実を伏せて責任放棄を決め込んだ現在の日本及び日本人を、鋭く突く。意図せざる皮肉である。

ネタバレBOX

興味深い対立図式が、次男の虚無的世界観と、長男の理想主義的・進歩主義的世界観。
そして長男の立場と、父の民族的な反省(責任の自覚)に立った態度との対立だ。
長男の立場が拠って立つビジョンとして、当時共産主義が存在した。
彼は戦中投獄され、己の進歩主義的立場が如何に中途半端であったかを痛感させられた、と語る。「やつら」と、長男は言う。やつらは喧伝により、また暴力により「一つの正しさ」を国民に強制した。だが、それはやつら(資本家)が己の利益と野望のために全国民を「利用する」所行であったのであり、もう二度と私たちは彼らに騙され、利用される者であってはならない。敵は明白であり、今市ヶ谷で(極東軍事裁判で)裁かれている戦犯はその代表だ、とする。
これに対し、父は「私は日本人を信じている」と言い、日本人がこの結果を直視し、そこに至った責任と一人一人が向き合い、改めて行くこと、その先に未来があるのであり、きっと日本人はそれを乗り越え、あるべき未来を手にするに違いないと信じている・・と長男に迫る。
長男はそうした父の民族主義的な考え方、即ち責任を全体に均し、還元する考え方が本当の悪を甘やかすのだと言う。そのような論理は彼らに都合良く利用されるだけで、何の前進ももたらさない。何が悪で誰が敵かを直視し、悪を駆逐することに国民は手を携え、団結すべきなのである・・と。
唾棄するように父に言い募る長男や、冷笑で迫る次男に、心臓を病む父を心配する次女は幾度となく「もう止めて!」と厳しく論難する。大事なのはもっと素朴で、単純なことだ。近くにいる人間を思い合うこと。私たちが過ったのはそれが足りなかったからだ・・。
一方、闇市で喧嘩に明け暮れる次男は、相手も自分も傷つけて怯まない、ある達観を手にしており、怖れられている。そしてこの家族の集まりの場でもその狂気を爆発させる瞬間がある。その瞬間に彼の負った「傷」が僅かに垣間見られるのだが、長男は彼を「可哀想だ」と言い、お前も心のどこかで自分が被った理不尽さへの怒りを持ち、もっと良くならなきゃならないと思っているはずだ、と言う。その語りの間、次男は泣いているが、一瞬のうちに反転し、バカにするな、と咆える。そしてナイフを取り出す。
前半彼はニヒリズムを体現する者としての構えを崩さず、長男と彼が恋慕するせいの関係を冷やかし、長男は不実な思いはなく真剣に考えているのだからそんな風に笑うな、と怒るも意に介せず「好きならくっつけばいい」と人間=動物説を通す。特攻帰りの典型の行動を辿る次男が、戦争前は学問優秀で正義感に熱い人間だったのに・・と父も妹も彼に生き方を改めるよう説くが、次男は軽くいなし、長男の真心からの語りかけにも頑として拒絶を示す。・・のだが、その頑なさと、正義感の強い人間だったという証言とを考え合わせて浮かび上がる人間像が、切ない。

今台詞を聞いてドキッとさせられるのは、長男が説く共産主義の理想だ。
もっとも共産主義、と名は付いても、(マルクスの「資本論」を学んだのでない限り)それは平等主義や「悪は明白」という発想から問題解決を探る素朴な考え方、という程度のものであり、資本家(企業)は都合よく労働者を使おうとするからそれに対抗するため労働者同士団結しよう(労働法が整備されたので労基法の遵守を求め、団体交渉権を活用しよう)という事であったろう。(もちろん変革=実力行使という発想は直前まで戦争があり事態が流動的であった戦後間もなくの時期にはあったのであり、敗戦を認めず蜂起した軍人や勢力地図の変った地域での内紛、混乱が普通にあった時代である。)
だがそこから、「労働者が統べる平等な社会」という理想が思い描かれる。実はこのビジョンに具体性は乏しく、実際に革命を起こしたソ連や、戦後共産党が勝利した中国も、独自の政体を作る。ソ連では専制と腐敗が横行する仕組みで多くが苦しんだ訳であるし、中国は建国後しばらくは人治体制が理想社会への信奉や指導者への敬意が媒介してうまく機能したように見えるが、周恩来から毛沢東、寛容から規律重視へと傾くと「人治」に限界が訪れ、管理強化へと向ったと思われる。
長男の言う勤労者が統治する社会、とはプロレタリア独裁という言葉に象徴されるように「あり得ない」夢物語だ。「全人民が独裁」とはこれ如何に、である。一億人が盆の上に乗り、それをごく少数の資本家が支えている図(インドの絵画か何かにありそうな)は、単に一部による独裁により多くの犠牲を生んだ過去に対する「意趣返し」を絵にした餅であって、四民平等をその先へと進め、所有そのものを認めないといった発想も、現実にはあり得ない。(所有されない物が誰によって管理されるかが問題になり、それは所有とほぼ同義となり、政治は代表によって行なわれ、その権限において決定される仕組みを作らざるを得ないのだから。)
この「あり得無さ」は、過去人類が苦しんだ経緯から発想された一つのモデル、くらいに捉え(憲法の非戦の規定も同じと言える)、その理想に近づけるべく努力をしようという「努力目標」にとどめるのが良識なのだが、長男がそうだというのではなく、最も進歩的な思想(モード)のその先端に自分は位置し、指導的立場になるのだ、という一種の野望の対象として、そうした「主義」というものを使おうという人間は必ず現れる。連合赤軍事件の「指導者」らのいびつなあり方はどこに発したか・・。特に「下からの体制変革はあり得ない」日本では運動は閉塞し、内向し歪んで行く。造反有理と、若者の希望を一部でも聞こうとする政治家がいない、という構図も遠因ではあると思うが、かくして日本の「運動」は厳しい境地に追いやられる。
その暗い未来を暗示させるワードを希望に満ちた顔で語る長男の姿は、かつて北朝鮮への帰還運動を地上の楽園への憧憬をもって進めた楽観に重なる。切ない。
彼に対して父は、敵味方の二分法の危うさを直感してなのか、どんな悪政もそれを支える人民がいなければ成り立たなかった、私たちが過去の過ちに再び陥らないためには、民族として高めて行くしかないのだと訴える。善悪二元論を推し進めれば、悪の側に付く者の存在を否定する態度に行き着く、とも父は言うのだが、このような台詞が果してあったか・・私はこんな現代に重なるピッタリの台詞は以前観た時には気付かなかった。(原本を確認したいが、私はここは中津留氏の書き換えではないか、と疑っている。)長男の言う、父のような責任を分散させる論理は「あくどい連中に利用される」だけ、との説は、確かに妥当にも思うが、丁寧な議論をするなら「どう利用されるのか」が明示される必要があるし、「利用されることなく日本人の多くが国民としての責任において過去との決別をしていく」可能性を否定する事はできない。が、この父のビジョン(三島由紀夫を思わせる)も長男のそれと同様、その後の歴史によって否定されてしまうのだが、今の私たちの感覚では鶏が先か卵が先かの議論で言えばやはり父の主張が先にあって然るべきだな、となる。その事をしばしば口にしている一人、社会学者・宮台真司は悲観論を語りつつ加速主義によりいつか(痛い目にあう事で)より良い選択を見分ける民族になる、と父の言に通じる言葉を吐いている。
しかしこの戯曲で父も、長男も次男も、そして素朴に過ぎる次女も言語の力が拮抗し、最後までたゆむ事がない。三好氏自身の脳内ディベートが再現されたかのよう。
寺山修司生誕90年記念認定事業「盲人書簡◉上海篇」

寺山修司生誕90年記念認定事業「盲人書簡◉上海篇」

PSYCHOSIS

ザムザ阿佐谷(東京都)

2025/07/24 (木) ~ 2025/07/30 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

PSYCHOSISの前に観た舞台は高取氏の作品で独自の文体を演出を駆使して飲み込み易く舞台化してくれた印象があった。アングラ劇世界の現代的上演という特色で集客を得、精力的に活動を展開(頻度も高い)と思しいが、さて今作。寺山作「盲人書簡」は初めてであったが、数組ある「登場人物/場面」が、順繰りに暗転を挟んで現れるが、組が多くて相互の関連がいまいち分からなかった。関連自体があるのかも・・
その意味では、各場面の人物(ら)によって具現される存在(人物)群と、その象徴となる言葉と、それらの素材を通して寺山氏が透徹する人間というものの本質・姿を想起する劇・・・とはなっていた。少年愛の嗜癖に溺れる明智小五郎と、彼に利用されまた捨てられる盲目の小林少年、暗躍する黒集団、不在の母へのマザコン魂がある娼婦と出会いで妙な発展を遂げる少年、部屋にこもる少女・・特徴的な人物/場面が衣裳、歌、踊り、ギミックと飽きさせない趣向で繋いでいたものの、物語叙述の面では(恐らく題材によるのだろう)追えなさがあり、やはり観客は物語を追いたくなる。原作を知る人には、どう見えたか分からないが。
今回も深海洋燈が美術を担当、音楽もレベルが高く、PSYCHOSIS初期(つっても何年か前)に比して全体に力量が上がったと感じさせる(人が入れ替ったのか人が変ったのかは不明だが)。ただ作品世界の精神を伝える目的に技術が先行する勿れ。
次作を楽しみに待とう。

六道追分(ろくどうおいわけ)~第七期~

六道追分(ろくどうおいわけ)~第七期~

片肌☆倶利伽羅紋紋一座「ざ☆くりもん」

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2025/07/09 (水) ~ 2025/07/20 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

第三期だったかを観劇し、いたく満たされた時間であったのでもう一度観ようか、と思い立って観た。
結論的には、前回観たのが大変良かった分、今回点数が落ちてしまう。席も前回は前から二列目、今回は後ろから二列目。見え方も違ったが、俳優が違うとノリも深みも変わる。
とは言え、物語の骨格がしっかりしており、要所を締めて最終盤、本作の(自分としては)売りである現代に通じる世評を問いかける場面、人物それぞれ意を通じさせる場面で観客をぐっと引き込み、最終場面に持って行くのは流石。自分の周囲の女性たちは一様に落涙の様子。
と書きつつも、やはり前回は人の人間味や、細やかな機微が体現されており、序盤から個々の俳優に愛着が湧いていた。台詞のテンポの良さは今回が上であり、拍手や掛け声が湧く場面も前回以上であったが、自分が芝居そのものに引き込まれたのは終盤漸くであった。
私の好みはテンポ、粋なノリより「中身が沢山詰まっている」事なのやも。
第八期、最後のチャンスだが、さて。

みんな鳥になって

みんな鳥になって

世田谷パブリックシアター

世田谷パブリックシアター(東京都)

2025/06/28 (土) ~ 2025/07/21 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ワジディ・ムワワド作品は覚悟を持って観ざるを得ないのだが、本作のえらくファンタジックな題名共々「一体どんな?」と未知数ゾーンへ入る気分で観劇。
終わってみれば休憩挟んだ3時間20分。地の果ての国のとある人々の人生、家族の歩みを胸一杯に飲み込み、心の友となった。
後日追記。

みんな鳥になって

みんな鳥になって

世田谷パブリックシアター

世田谷パブリックシアター(東京都)

2025/06/28 (土) ~ 2025/07/21 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ワジディ・ムワワド作品の観劇は腰を据えて相応の覚悟で・・・というのも氏の戯曲は情報量が多く、長く、家族の物語だけに濃厚。情報的にも情緒的にも付いて行くのが大変なのでコンディションを整え、大きく息を吸って幕開きを待たねばである。
にも関わらず(午後は休みを取ったのだが)体調低下のタイミングに当ってしまい、前半何箇所か寝落ちした。が、それでも十分過ぎる情報と情緒とが終演時には自分を満たしていた。
過去目にしたムワワド作品「炎」「岸」「森」と若干趣きが異なったのは、(「家族」「民族」「他者」「人類の歴史と己の歴史(人生)」といった概念群についての壮大な問いかけである共通点はあるが)恋愛と性が「歴史」という大きな枠組みの中に組み込まれて叙述されていた過去(観た)作品に比べると、「恋愛と性の側から」歴史を規定しようとした事、である。即ちこれは男女の恋・愛の物語。作者はなぜそうしたのか・・
そんな事は判りはしないが、イスラエルを舞台にパレスチナ問題に触れる作品である事と当然無縁ではない。本作は2017年初演の作、とは後で知ったが、劇中時折伝えられる「自爆テロ」の報など、2023.10.7ハマスによるイスラエル攻撃以降すなわち現在をベースに語った物語かとも思いながら観た。(テルアビブからの脱出を話している家族の終盤の会話から少し時代が違うかな、とは思ったが、パレスチナ=イスラエルという「戦後」最も長く、最大にして最悪の紛争当事国をテーマに据え、作者が描こうとしているのは何か、凝視せざるを得なかった。)
作者ムワワドは「にも関わらず神は与えたもう」というのと同じ次元で、「にも関わらず二つの民族が壁を乗り越える時が来るだろう」と投げかけている。「今は離れざるを得なかった」二人を、いずれは再会せしめる事、又はその時の到来を約束すること(約束を真実たらしめるのは神であり人はそれを「信じる」しかないが、確信とは既にそれが(時を超えて)実現しているのと同義である)、執筆当時さえあまりに現実と乖離した「夢」だったろうその切望を終幕間際に作者は台詞に書き連ね、その筆致が生々しく痛々しい印象さえ残した。
恐らくそれは現在、地球上に存在する概念の内最も「悪」である名「悪魔」とでも呼ぶしかない某国の所行と、これを看過するしかない世界の絶望を前にすると、夢はあまりに儚く、それを語る意義も霞んでしまいそうで、痛々しいのだろう。
ただ私ら日本人の常識とかの国々の人々との違いも考える。悠久の時の中に己の(家族の)生を認知する宗教的な世界観と時間感覚は、引き裂かれた二人がなお結ばれようとする思いをリアルに受け止め得るのかも知れない。
ラストで見せたのは(過去作がそうであったような)世界という不動で深淵な摂理の中の二人、ではなく、この先の世界を見ようとする二人、であり、未来である限りにおいて希望が無いとは誰にも言わせない二人、である。

宮沢賢治『フランドン農学校の豚』

宮沢賢治『フランドン農学校の豚』

シアターX(カイ)

シアターX(東京都)

2025/07/09 (水) ~ 2025/07/13 (日)公演終了

実演鑑賞

ルティ・カネルという女性演出家とシアターXとの仕事は10年スパンに及ぶらしく、今回私はこの演目だった事で注目し、発見に至った訳である。座高円寺の上演はかの佃典彦脚色という事もあり宮沢賢治の世界観を美味しく味わった気になったのだが、原作は読んでおらず、今回例のアフターミーティングで観客の感想等を聞けば、例えば「この作品は宮沢作品でも異色である」事や、その原作の色合いを「忠実に再現した舞台であった」事など、自分が想定しない意見が述べられていた。
まず芝居としては「役作り」的な面は詰められていない。演出意図や趣向を具現する要員として立ち働いていた印象。その演出だが主人公である豚を訓育するためにムチを使い、そこだけ暴力的な音が出る。舞台装置や小道具が象徴的なのに対し、このムチはその象徴的であるはずの物(台)を力任せに叩いてパチーン!という音を出し、音量が突出している事もあって生々しい。が、叩いているものは偽物だからエセである。エセなのに本域で(リアルな動作として)叩くので、はっきり言って引いてしまう。
正直言えば例によって睡魔とも格闘していたので細部をかなり見逃している。そこで先の他の観客の感想と考え合わせると、宮沢賢治風のどけさは封印した、動物を食らう屠りの現実を無慈悲に描いたシリアス路線として見えたものだろうと推察。豚の叫びを賢治は皮肉を込めて描いたのか、寄り添うべきものとして描いたのか。仏教的な背景を考えると「殺生」とはこういうものだ、という賢治なりの、やはりシリアスな(子ども向けではあっても)ドキュメントであったのかも?
まずは原作を読んでみよう。

料理昇降機

料理昇降機

劇団夢現舎

新高円寺アトラクターズ・スタヂオ(東京都)

2025/06/20 (金) ~ 2025/07/13 (日)公演終了

実演鑑賞

「ダム・ウェイター」とも呼ばれるピンターの本作は二度目なのだが、以前はどこかの商店街の一角にある店を借りた上演で、不条理劇の「判らなさ」と建物の構造を利用した演出が作品にどう噛んだのかの「判らなさ」に放逐された。今回の観劇においてはほぼ参考にならず、真っさらな気持で観始めたのだが、「判らない」不条理劇である事には変わりなく、逆に戯曲への関心がもたげて来た。
実は風邪に見舞われた体で薬を飲んで観劇。軽微に思っていたが薬が効いたのか寝落ちも幾度かに亙ればこの劇では追うのはつらいものがある、ただ以前観た「温室」や「管理人」に通じる「ピンターの不条理劇」の片鱗はあった。別役実と違い、ピンターの説明されない事態は背後に何か明確な対象が想定されている感じがある。それを探り当てるのは難儀だが、それを前提に観るのが正しく、眼前の現象のその向こうにあるものを凝視して行く事で見えて来るものがある・・その予感からすると、寝落ちしながらの観劇では到底辿り着けようもない、という結論である。
喧騒の合間に、全く動かない静寂の時間がある。これを耐えさせる緊迫感は中々であった。二人芝居。

音楽劇 金鶏 二番花

音楽劇 金鶏 二番花

あやめ十八番

座・高円寺1(東京都)

2025/07/07 (月) ~ 2025/07/13 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

前作「雑種・・」を観た同じ座・高円寺の広いステージで、前回は対面客席だったが今回は通常の一方向観劇。TV画面を覗く構図に似つかわしい。横に十一間、奥も六間はある。舞台ツラから二列目かのステージ台を両脇を残して外し、中央の一つは一列目も外し、上手下手両側に一間四方の台が可動式の台として場面ごとに動される(人一人が引っ張ったり押したりで動く。高さ1M程度だろうか)。その向こう一、二間あたりには巨大な白いレースが吊され、その手前全体がTVスタジオ、周辺の照明機材(本物)も舞台装置に馴染んで溶け込んでいる(照明係りの役が一度それを使う場面がある)。レースカーテンが切れた上部、客席からは遥か上を見上げる格好だが、キャットウォークにも人物が動く。実験放送に着手したNHK(日本放送機構)を管轄するGHQの下部機関CIE(?)の日系人トップが君臨するように歩く姿、またスタッフが糸操り人形を手板で操ったり・・。
上手のシーリング近い高さには太陽のようにデカいパラボラのような円の物体が吊るされ、ぼんやりと白く光る(これは照明を当ててそう見せている)。楽器隊は下手奥。Key、Dr、accord、ファゴット?、tpが入って五重奏と贅沢。
「音楽劇」と謳うだけあり、普段のあやめ十八番も生演奏の劇伴は劇全体に及ぶが、その比でなく、拍手ものの華麗な(レビュー曲のような)楽曲から、涙ものの胸熱の歌、他バリエーションはミュージカル並み(音楽劇との名称は控えめに感じる)。
C/Dの分数コード(の短三度上げ)のノリ(これは言葉で説明できん)が冒頭でポロリンと流れた時は「ほーらTVだよ」と無理に盛り上げ話に付き合わされる訳じゃあるまい、と一瞬警戒したがすぐに解消。戦中の回想をまじえた終戦直後が舞台のTV黎明期の話が、ありきたりにならず、戦争を都合よくドラマに利用しておらず(これには観客それぞれの感覚があるだろう)、史実を踏まえつつも遊び、と言って飛躍し過ぎず、芝居が紡がれていた。
自分はドラマの「甘さ」に敏感(否定的な意味で)なたちであるが、音楽的表現はそれを凌駕する事がある。これを勘案したらお釣りが出るほど高評価に値する舞台。

トレマーズとバック・トゥ・ザ・フューチャーの同時上映を観に行った僕のその後の話

トレマーズとバック・トゥ・ザ・フューチャーの同時上映を観に行った僕のその後の話

カワモとメイメイ企画

阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)

2025/07/02 (水) ~ 2025/07/06 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

中々のものだ。バイバイの「ワレワレノモロモロ」等で川面女史の創作的側面をチラ見はしていたが、田中氏原案(自らの半生を記した)、脚本・演出川面の舞台は出来として予想をかなり上回った。
トークにて、川面氏は個人のリアルなエピソードを劇化したいらしく、その感性はもしやバイバイで岩井作品のリアルを元にした創作と舞台製作で育まれたものか、と想像した。
役者のチョイスも秀逸である。アルシェという狭小空間にも合っていた。
手脚の長い菊池明明を、武器として用いていた。二人のコンビは以前春風舎でケラ作品をやったのに遡るが、あの気合の入った本域芝居をやっただけで演劇的ポテンシャルが知れるという代物で。
今後もこのユニットで(不定期でも良いので)活躍を期待する。

平田俊子作品連続上演『夜の左側』『ガム兄さん』

平田俊子作品連続上演『夜の左側』『ガム兄さん』

流山児★事務所

Space早稲田(東京都)

2025/06/23 (月) ~ 2025/07/21 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

まずは「夜の左側」、平田俊子という作家を再発見の時間であった。台詞が面白い。秀逸。
「ガム兄さん」がかつて書かれた脚本で、今作は当時のアパート住いの男が今もそこにいた、という設定と読めるようだ。が特にその事に言及するわけではなく踏まえる必要もない。人生とはかくの如し、の一言で足りる。が、劇中に執拗に言及される「あいつ」が、過去作に実際に登場するというなら興味がある。ゴドーのように観客が目にする事のない存在としてあっても良いのだが、一点、あいつは男なのか女なのか、混乱しそうではあった。仮想のあいつはその時々で違うのか、自分の生涯に決定的な影響を与えた存在が、一人ではないとの含意か、人生の末期にあって混濁した記憶の中の「誰か」を通して自分の人生を捉え返すという事なのか、またはそのどれもか。。
何より塩野谷氏の存在感である。流山児氏は「必ず噛む」が予測内だし立ち方と発声の構えが決まってるので予測内、にしてはどうにか芝居に貢献できていた。龍昇氏も常に変わらないが笑わせる。伊藤女史も役目が判っておる。玄人ばかり揃い踏みの初々しい芝居。

KYOTO

KYOTO

燐光群

ザ・スズナリ(東京都)

2025/06/27 (金) ~ 2025/07/13 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

坂手氏オリジナルと思い込んでいたが翻訳物であった。燐光群の場合翻訳劇はほぼ「本邦初」であるが、本作も非常に興味深く観た。
CO2排出制限目標を出した京都議定書はそれなりに有名だが、今はSDG'sを経てさらに進んだ段階にあるとは言え、意識の面では「慣れ」に拠るものか、相対的に低くなった気がする。ネットの深化によって陰謀論やフェイク、オカルティズムも、様々な「あり得る事実」の一つ程度に光を浴び、等しく無視できるものとなる。現実を捉える感覚が変質し、玉石混淆に存在する有象無象の言説に埋もれて、平準化されると、CO2問題も一旦カッコに括り、「夏は暑い!」けれど「それはそれ」で終ってしまう。
異常気象(以前はこの語句だった気がするが今は「気候変動」?)の問題、実は産業と結びついている眉ツバな分野と自分などは疑う一人だったが、京都議定書を扱うなら脱酸素を「善」とする前提だろうと推測しつつ、温暖化とCO2の因果関係に関する研究がどう絡んで来るのか、芝居の行方を眺めた。

科学の領域の話である「温暖化とCO2の関係」については、劇中ある研究成果に言及されるが、脚光を浴びたその主張は反対勢力の巻き返しにあい、学者は地位を失墜させられる事になる。
本作で「科学的裏付け」について触れられたのはここのみであった。
が、この作品のテーマは別の所にある事が見えて来る。物語としての面白さを語りたいが(今書き始めると長大になる事間違いなし)、日を置いて書いてみる。

骨と肉

骨と肉

JACROW

シアタートラム(東京都)

2025/06/19 (木) ~ 2025/06/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

座高円寺公演に続いての観劇。前作は政治(家)物、今作は企業物で再演とは言え8年を経て随分中身も変わったとの事。
舞台上にリングが出現している。舞台奥行の半ばあたりにロープ2本を渡したリングの2辺から、こちら側が格闘(論争や権力闘争)の場、あちら側には椅子が並べられ、登場しない俳優の控えとなっている(照明は低く落している)。
日替りゲスト出演者による選手入場のアナウンス(「あーーーおーーーコーナー、××××」と矢鱈盛り上げるやつネ)で登場人物の入場。紹介されるのは同社内役職の者たち。それでバトルと来れば、企業の内紛が題材と知れる。で、どこかで聞いたような・・と、ふと大塚家具という単語が頭をよぎる。ほぼ関心は無かったがそれでも聞こえて来てた程であるから世間的に随分話題になったのだろう。

結論的に言えば、ドキュメントではないフィクションとして見るにしても、長年社長を務め大企業に発展させた既に老境の二代目(現会長)と、彼の長女である新社長の果してどちらに理があるかは、実際には具体的な話に立ち入らねば判別できない。そこを伏せて進んで行く話であるので、評価がしづらい、という事がある。
勿論ストーリー展開の面白さはあるのだが、人の行動への評価はどんな状況に対しどう対応したか、であり、具体的言及を回避した物語の進行では、「これは女社長が良い側で会長が悪役?」いや実は「女社長に決定的な欠陥があったりするのでは?」とどっちを軸に観て良いのか迷ってしまう。(それが意図ならその通りになった訳だ。)
割切って見れば面白い、かも知れないが(実際面白いには面白いが)・・といったあたりを書こうとしたが言葉が探せないので後日また加筆することにする。

ネタバレBOX

続きを書いてみようとしているが、だいぶ日にちも経った(何しろ記憶力も悪い)。
芝居のオチはこう。長女が会長体制を転覆して再度社長に返り咲くのだが、元コンサルとして力量を持つ企業改革の側面や、時流に乗った販売戦略といった所では有能だが、売上は今ひとつ伸びない。物を生み出し、売り出す企業の本分の側面では、閃きや創造的営為が重要となる。その才能が突出していた会長との歩み寄りが「会社のために」必要なのでは・・との予感を認めざるを得なく感じている女社長の表情で幕が下りる。
脚本の狙いとしては、両者一歩も譲らず!のバトルから、会社のために何が必要か、という一点で人は協同し得るはず・・というメッセージのように思われる。作劇は権謀術策が火花を散らす「リング上の試合」を主眼に置きつつ、最後は現実に目を向け、収まる所に収まるだろう、と落とす。トップの座を勝ち取っても船を沈没させては何もならない。物事の道理に「戻った」と見えた。
しかし「物事の道理はどこにある?」という問い自体は、劇中から存在している。その問いには(具体的な事に触れない事により)答えず、伏せたまま最後に謎解きとなるのだが、「伏せた」状態でバトルの行方に注目させておく事に、成功した人は居るかも知れないが、自分の感じでは「肝心な事に触れずに権力争奪戦やってるな~」という印象で、そこに若干の(作劇上の)無理を感じた訳であった。
とは言え、長女側も「会社のために」、会長側も「会社のために」行動しているという構図は組織の一つの縮図かも知れない。
しかし手腕のある会長もとあるスキャンダルから一線を退くと言いながら、娘に任せておいたのでは埒があかないと社長復帰を画策。長女とまともに話し合うという事をやらなかった。だから権力の味が忘れられない会長に非があると見えるのだが、実はそうではなく、物作りの会社であるべきだ、なぜなら「それが売上に繋がるから」という考えは真っ当だ。一方長女の側は「悪弊があるから改善しなければ」という改良路線。物を作るという事が「上から降りて来た仕事」のようにこなすものとは違う、という根本を理解していないように見える(結構中盤から)。その危うさと、会長の性格もあっての暴挙で紛れてしまうが、本来なら第三者的目線からでも「会長への評価」「女社長への評価」が語られ(実際は社員の間でその程度のやり取りは交わされてるはず)、そこにある本質的問題は早々に観客の前に提示されていて良く、そこからどう問題解決に至る事ができるか、という所でハラハラドキドキ・・と行きたかった。などと身勝手な希望を書いても仕方ないが、物語的に薄さを感じた理由はその辺りだろう。

そんなこんなの感想ではあるが、中村氏の企業物、政治物はやはり面白い。今後も愉しませて欲しい。
ザ・ヒューマンズ ─人間たち

ザ・ヒューマンズ ─人間たち

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2025/06/12 (木) ~ 2025/06/29 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「母」に続いて観劇。今季はこの調子で三作とも観劇できそうである(三作観られる期は中々ない(一昨年は「レオポルト・シュタット」を見逃し残念な思いをした)。
と言っても今回は急遽時間枠が出来たお陰で観られたのだが..。つまり空席有り。公演はまだ序盤とは言え、集客に手こずる陣容だったか?と訝く思いながら後方席に座った。芝居は十分鑑賞に堪えた。毎度ながらキャストスタッフの事前チェックを忘れ、キャスト紹介のペラ1枚を一瞥して目に入った山崎静代(南海キャンディーズ)。変わり種の登場でどんな空気感が生まれるかも楽しみに開演を待った。

ネタバレBOX

しずちゃんの何度かの台詞発射で違和感は引っ込み、そのキャラが台本上求められた事も納得しつつ、サスペンスフルな舞台を観進めて行った。増子倭文江は何にでも化けられる人だと感心。認識に至らなかったキャストの一人、どこかで聞いた声の主は・・平田満。芝居は増子・平田の夫婦が田舎から出て来た日の、夜までの話である。感謝祭を祝う名目だが、次女(青山美鄕)とその彼氏(細川岳)が居を構えたので物見遊山に都会へ認知症の進んだ祖母(稲川実代子)も車椅子に乗せてやって来た。すでに近隣に住む長女(山崎静代)も顔を出している。
一家が揃い、料理の得意な次女の彼氏がホストの格好であるが、時折上階からのオッたまげる音量の震動音が鳴り、不穏なサインのように物語の行く末を暗示する。そして一つずつ(まずは観客に知らせながら)家族それぞれの不安の種が明らかになり、彼らの自認する家族の現在地は一段また一段と下がって行く。
客観的には特段変わった特徴があるわけでもない家族の直面する悲劇は、登場人物らそれぞれの主観において感受され、その生態を眺める位置に観客は置かれる。信仰とは距離を置いてきた家風らしい所へ、彼らにすれば如何わしい信仰の対象でしかないものが母の支えであるらしい事、それへの腫れ物感。弁護士事務所に勤めながら長年付合った同性愛の交際相手との破局が心を蝕んでいたり、生活レベルを規定する社会的地位へのこだわりや、父が言語化し具現化しそれに二人の子ども(姉妹)が呼応してきた「家族の紐帯(の素晴らしさ)」が、時に詩的に、時にあざとく語られながら、浮き彫りになるのは「尊いと思っていたもの」の危うさ。
本作が物足りない部分があるとすれば、「それ」に直面した家族たちが「それ」をどう乗り越えるかが描かれていない事。投げかけるのみで終る。個々の苦悩のエピソードは身につまされるが、家族が互いにそれを乗り越える力となり得ているのか、という問いがあり、「それは疑わしい」という現実が無造作に提示されている。堕ちる所まで堕ちたら、浮かんだ月でさえ希望の灯火のメタファーとなり得るが、不安、予兆のレベルで最後に見る煌々と照る月明かりは、それを増幅するかのようにも見える。
私は面白く見た。
そして観劇後に演出が桑原裕子女史であった事を認識。会話劇の緻密な構築はさすがと感服した。
蝉追い

蝉追い

劇団桟敷童子

すみだパークシアター倉(東京都)

2025/05/27 (火) ~ 2025/06/08 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

似通った設定や劇世界との指摘は承知の助、「大体3つ位のパターンを順繰りにやってる感じ」と東憲司氏本人が言うように、今回は炭鉱の話だが、毎回の作劇の着想や強調点の微妙な(そして決定的な)違いは今作にもあった。「形やテンポで見せるノリの芝居」と「リアリズム演技」の浸食のし合いという視点が自分にはあって、リアリズムとの劇的な邂逅の舞台として音無美紀子との二度の共演が記憶に刻まれている。
今回は作劇上の特徴にハッとしたのだったが、時間が経ってしまって今思い出せない(よーく細部を反芻しないと)。
役者としては前々作が増田薫であった実力を問われる脇の役どころの位置に、今作では三村晃弘氏。
炭鉱と言えば、落盤事故の際、被害が広がらないよう水を流し込むというのがある。救出は絶望的と判断され、救出の可能性を断つ無慈悲な措置。先日観た「三たびの海峡」にもこのモチーフがあった。桟敷童子の今作では「そろそろ呆けの始まった一人暮らしの男」(山本宣)の奇行の源を探って行く過程でその事実に行き当る。
冒頭、男が暮らす実家に三人の女がやって来る。男と疎遠になった三姉妹だが、近頃見知らぬ女が出入りしているとの噂を聞いて真偽を確かめに来た。この三姉妹が長女板垣、次女もり、三女大手このコンビが何とも良い(美味しい)。
群像劇としては一人一人の役の担う重量が今回やや軽く、その分人物同士の繋がりの線が薄く、もう一掘り描写が欲しい実感はあったが、こういう回もあるのかと逆に新鮮であった。

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