tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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母【5月11日~14日公演中止】

母【5月11日~14日公演中止】

劇団文化座

俳優座劇場(東京都)

2023/05/05 (金) ~ 2023/05/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

千秋楽までの数公演が中止に。ほぼ初日あたりに観ていてラッキー、とは自己中心な発言だが芝居好きの本音。(昨年「中止」を悔やんだのはマキノノゾミ「モンローによろしく」・・これは一日こっきりで中止に・・、流山児「夢・桃中軒牛右衛門の」を未練がましく覚えている。)

「母」とは小林多喜二の母であった。演じた劇団座長で、最も歴史ある新劇団の創立者二世でもある佐々木愛をフィーチャーした企画で、企画性が見えすぎる演目であったりもするが、肉親の目が見た多喜二の人物と人生を描きつつも、劇の焦点はこの母と、多喜二が温情を掛けて苦界から引き出したある女性との交流(いくつかの接点でしかないが)である。その点で多喜二はある意味若気の情熱の副産物とも言えるこの女性を、母に残したとも言え、母はこの女性を通して息子を「想う」にとどまらず、多喜二が見据えた社会を、その「具体」に他ならない女性を通して触れ、知ったとも言える。母の世界観が間接的に多喜二を語り、社会とそこに生きる人を語る舞台である、とも言える。

コンマ0.2秒の間は芝居のリアリティに影響する。ひやっとさせる母の長台詞の綱渡りをクリアさせるのが、長い俳優業で培っただろう「乗り切る」技術、「合わせに行く」直感と瞬発力。正直その様子が見えるようであったのだが(僅かな間ではあるのだが)、むしろ子を思う母イメージが、ありきたりに堕ちそうな所を踏み留まったのが大きい。多喜二とは今で言う所のどういう存在か(他の人物たちも)、その想像の余地を残す素朴さが、本舞台及びテキストの密かな魅力であった。

空に菜の花、地に鉞

空に菜の花、地に鉞

渡辺源四郎商店

ザ・スズナリ(東京都)

2023/05/02 (火) ~ 2023/05/05 (金)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

工藤良平を久々に拝めた。彼の「身体」をフル活用。畑澤氏が重いテーマを軽々と扱う「遊び」の勝った舞台で、音喜多咲子、山上由美子ら常連に新顔の頑張ってる俳優も多数(人材には苦労しない?)。
「北のあの方」の命を受け、青森の核再処理施設に潜入した青年の前に、このお方が現われる。「わが国の科学の粋を結集した」脳内図像伝送技術?によって工藤良平演じる北の方は頻出する。核処理施設の安全をPRする展示館のマスコットガールに恋をした青年。そこにも現われ「惚れたな」と突っ込むお方。
核物質が集められ、頭上をミサイルが飛び、三沢基地も抱える当地からの舞台は恋と使命に引き裂かれる青年の物語を縦軸に、どこまでも軽妙に進む。「翔べ、原子力ロボむつ」を思い出す。

エンジェルス・イン・アメリカ【兵庫公演中止】

エンジェルス・イン・アメリカ【兵庫公演中止】

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2023/04/18 (火) ~ 2023/05/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

前半に第一部、第二部を観た。コンディションに恵まれなかった第一部はもう一度観たいな。
以前読んだ戯曲に関する本に、「叙事詩劇」の優れた作品と紹介されていた。題名は覚えておらず、作者名を見てハッと思い出し、レビューにも背中を押され観劇。上記の本を後で読み返して見ると、さほど字数は割かれず、書いてある事は作品を観た後ではピンと来なかった(戯曲がどう優れているかの説明が晦渋)。
しかし一部、二部それぞれ3時間を超えるこの大作が、20世紀後半に書かれた代表的な作品と紹介されていても何ら異議はない。
「死に至る病」であるエイズを扱った作品と言えば「RENT」がよぎったが、この戯曲で扱われる出来事や事実、状況は全て俯瞰され、対象化され、人生や世界を構成する一要素に過ぎないように見えて来る。登場する天使や天界の博士たち、自分たちの先祖に当る人物らが織りなす不可思議の絵は、苦悩する登場人物の内的世界を象徴するかに見え、同時に世界そのものの視野に導く。詩的な台詞がこの構図にずっしりとした中身を与える。(あんこたっぷりな鯛焼き、でも甘さ控えめサッパリで重くない。)
休憩二回で殆ど疲れさせない面白さ。作品の魅力などうまく説明できない。トニー賞とピューリッツァ賞を獲った作品なだけはある、と書いて済ませるが早いかも知れぬ。

「キムンウタリOKINAWA1945」「OKINAWA1972」【4月6日(木)19時の回の公演中止】

「キムンウタリOKINAWA1945」「OKINAWA1972」【4月6日(木)19時の回の公演中止】

流山児★事務所

ザ・スズナリ(東京都)

2023/04/06 (木) ~ 2023/04/23 (日)公演終了

実演鑑賞

流山児×詩森ろば舞台は、第一弾「OKINAWA1972」、数年後の「コタン虐殺」を観た。今回はその続編的・総集編的公演のようで観たいが二つは厳しい。「OKINAWA1972」の方は概略分っており、アメリカ世(ゆ)から「本土返還」までを時代設定とし沖縄ヤクザという題材のユニークさ。「知らなかった」知識に触れた「面白さ」が評価の大半だったので(書き直したとは言え)骨格は変わらないと踏んで「キムンウタリ」に絞った。

結論から言えば、やはり自分の肌に合わない作品を作る人だな、という感想。何がそう思わせるのか・・。宮台真司によれば「芸術は痛みを伴うもの」。演劇はどうか。現実に傷ついた人の心を慰撫する演劇も立派な芸術だが、本当に感動した舞台は現実の(真の)「痛み」に届いている。ただし宮台氏は「痛み」を「刺す」「不快」とも言い換えていて、フィットするのは「不快」である。快感という甘味にまぶして薬を飲む喩えで言えば、快感より不快が上回る。詩森ろば氏の舞台のこの「不快」から、私は色々と考察を余儀なくされても来た。今回も、不快の源を考える。

詩森氏は劇作家である前に「演出家」と自認する、とは何度か(トーク等で)耳にしたが、この「演出」が肌に合わない、と感じる事が過去幾度か。感覚的なものだが、自分にとってのそれは例えば、客席に向かって俳優が喋る(ナレーション)台詞・演技が多い。そしてダイアローグでない台詞の時間を舞台上で「持たせる」ためにリズミカルに、時に歌に乗せて、何らかのアクションとセットで言わせる。「埋めてる」感が嫌である。それは自分が言葉を理解したいと考えるからか・・。演出意図は恐らく「説明言葉が理解できない」観客層に配慮しての事だろうと思うものの、ノリノリで言わなくとも、普通に説明すりゃいいじゃん、と思ってしまう。
劇中人物としての発語に感情移入させないために持ち込む異化効果は例えばどんでん返しとして、またはディープな芝居の息抜きとして、現代演劇でも用いられる一般的な手法だが、これは、「芝居を観て解決しても(カタルシスを覚えても)現実の解決にはならない」という社会変革を志向したブレヒトの「思想」を超えて、汎用性を持ったという事。しかし詩森氏はこの「異化」の元来の趣旨を感覚的に導入しているのかも知れぬ。
・・仮説はともかく、今回「不快」であった理由は、その構造にある(いや構造そのものは優れているのだが)。

ネタバレBOX

オープニングは楽しい。まだ客電も点いた中で、平場でのやり取り(役者が互いを俳優名で呼び合える空間)。ここでまずこの芝居の複雑な構成を整理する。芝居(詩森が書いた)は、知念正真氏の戯曲「人類館」に「インスパイア」されて書かれたもの、と繰り返す。この繰り返し具合から、戯曲「人類館」にあやかった、または引用された箇所も多いのかな、と推察される(知ってる方はパクリと言う勿れ、また意に沿わなかったらそれは「人類館」が私に書かせたもの、という弁明で詩森氏の舌出し顔が浮かぶ)。そして戯曲「人類館」は1903年大阪博覧会でアイヌや植民地化した台湾高山族等を「展示」した人類館を題材にしたものである。これらを解説している(タキシード姿の)自分は「調教師」(山下直哉)だと言い、相方の黒服女性(伊藤弘子)は「女」、同じく黒の塩野谷正幸が「男」、彼らは「現在」に生きている。
一方他の役者たち・・舞台奥、脇に足場が組まれ、中段にズラッと軍服やモンペ姿の男女が並ぶ。冒頭場面では中央の話し手と肩の力の抜けたやり取りをして小気味よい。そして彼らは1945年地上戦に突入した年の沖縄を舞台に、劇中劇を演じる役者たちだ。

「構造」というのは、「本体」と言える劇中劇と、これを見世物として紹介し時に割って入るなど君臨する「調教師」という構図。劇の開始と終了を仕切りながら、劇の内容をせせら笑う。だが、終盤に至って彼は敗勢に回り、引きずり降ろされる(が、それで解決した訳ではない、という含みを残す)。
戯曲「人類館」を見て(読んで)いないので何とも言えないが恐らくこの調教師の存在は採用したのではないか。何しろ皮肉が効いている。

しかし(そろそろ批判に入る)・・まず当初はこの調教師が、皮肉な存在であるとは判らない。単なる進行役と見ていたら、最初「ご覧あれ」と劇中劇の開幕を宣した後、「この猿芝居を!」と言う。「え?今何つった?」と耳を疑うが、早口ながら「サルシバイ」としか語を形成しない音が残っている。始まった芝居が、なるほど気持ちの入らない「なんちゃって」芝居になっている(演じる役者はそうしなくたって良いだろうに、である)。この時点で「おちょくってんの?」となる。
俳優自らがアイヌ、沖縄すなわちマイノリティを名乗る者でない場合、その存在を貶める行為を「演じる」事の慎重さを考えねばならない。これはマジョリティの弁えの大原則だと考えている。後々それら(侮蔑的な扱い)は、「調教師」がニヒリズムやウヨ言説を象徴する存在として見えて来る事で、初めて飲み込めて来るのだが、これはよくよく最初に明示しておかなければ、「手放しにマイノリティを揶揄する時間」を許した事になる。(調教師という存在がヒールである事を示しておかなければ・・という意味だ。)
戦地を逃げ惑う沖縄人、ひめゆり隊、日本兵となったアイヌ人らの運命を描く各シーンは次第に本域になって行く(感情移入を誘う)が、これを茶化す調教師が終盤になって漸く敗勢になる。そしてウヨ言説の薄っぺらさ共々暴露され、「真っ当」な認識が勝利する事にはなる。逆転劇は見事である。
だが、良きヤマトンチュを杉木に担わせ、美しく描く割に、現代のネトウヨ世論に通じる差別的言語をアイヌや沖縄人に浴びせる場面を、よく舞台上に再現できるな、というのが正直な感想だ(彼らに浴びせた同じ分の罵倒、侮蔑をヤマトンチュに対しても舞台上で同じ時間又は強さをもって浴びせるのでなければ、釣り合いがよろしくない)。作家自身が「差別する側である自分自身を偽らず・・」という事なのだろうか(まさか)。
しかも・・ほぼ最後に近い台詞に、沖縄がアイヌと一緒に慰霊碑に祀られるのを好まない、と沖縄人が抗議した事を紹介し(これは史実だろう)、「虐げられた者の中にも存在する差別感情!」といった言葉で総括させるのである(一体何様だ)。

「人類館」が書かれたのは沖縄人の目線から、つまり沖縄からの告発であり暴露の戯曲であったと想像される。被虐の立場から、身内の弱さを吐露することは許される。調教師は言わば沖縄自身であり、己の中にあるそれを自虐的に吐露し、戦争悲話や美談、心温まる物語が如何に都合よく「消費されてきたか」を皮肉り、最後に言わなくていいエピソードまで添えて、「身内」を告発しつつ、その先にある大きな存在を告発したのではないか。
だが詩森氏のこの作品では、役者らのアイデンティティを沖縄・アイヌに設定しきれていない。そう名乗ることも相当な覚悟だが、そうした上でこれから私たちは演じるのだ、という宣言が足りず、なし崩しに「勝手に」沖縄やアイヌに成り代わっている。この不遜さが終幕の段階でも私の中で払拭できなかったわけである。
作品はある種の「挑戦」なのかも知れないが、どことなく「自分に甘い」感じを受ける。せめてパンフにその事のフォローに十分な文字を割く位の配慮をもって、それはやるべき事である。それが私の判定だ。

(比較して恐縮だが、畑澤聖悟がコザ騒動を背景に沖縄を描いた自作「HANA」に寄せて、己が「沖縄」に犠牲を負わせ差別してきた側に属する事を忘れず、同時に、東北の縁辺で差別された歴史と先人の思いを受け継ぐ者として、かの地と関係を育んでいきたい、これからも仲良くして下さい、といった言葉を紡いでいた。詩森氏の中にどの程度「自分はどこに立つのか」の問いの突き詰めがあったのか判らないが、私にはそれが感じられなかった事が非常に残念であった。)
SEXY女優事変

SEXY女優事変

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2023/04/25 (火) ~ 2023/04/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

おっとこれは・・現代を描くとこうなるか。という新鮮なドガドガプラスの新作。「現代日本」を盛り込み切れず、皿からこぼれている。一方、性風俗と親密な距離にある望月氏がAV新法という悪法をトリガーにまっすぐな愛情を見せるのが、業界で真摯に葛藤の中で働く者たちの描写。音楽・歌と踊りは相変わらず中々である。平均年齢が低そうな女優陣の健気に演じる姿が題材と重なってくる。受付にCDが置かれ「追悼野島健太郎」と紙があった。音楽担当のこの人は映画にも携わり、望月氏との接点はそこだったか。残した楽曲を構成しての今回の舞台だったか、遺作となったのかは不明。

ハートランド

ハートランド

ゆうめい

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2023/04/20 (木) ~ 2023/04/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

久々のゆうめい観劇。最初に観たのが数年前下北演劇祭の若手をピックアップする下北ウェーブに登場した1時間作品「弟兄」。自伝的要素があり一発屋な感じも持ったのだがその後尽きる事なく作品を出し、「イタイ」世界を構築する。見逃し多くそれでも今回4作目、芸劇での公演、出演陣もちょっと気合の入った面々という事で気になっていたが、当日たまたま時間が出来たので運よく観劇したら、秀逸。中央にドカンと高い岩場のような装置があってこれが一軒の建物で、下手側の階段を上って玄関、待合室、カウンターバー、奥が居間と段々低くなる感じで、具象が多い割に戸をエアでやってたり、プチ変則な約束事をちりばめた奇妙演出が、独特な端折りで話が進む(後に勿論つながる)進み具合も、場面単独のディテイルのリアリティで見せてしまう。
終盤「音楽」でクライマックスは以前の作と重なり、持ち味。そこはズルいが、見事に嵌まっていた。(作者の熱い部分は台詞でなく歌とか、そういうのに代弁させたいタイプ?) 殺伐とした現代の風景を基調に、その底流に通う人間の血の温度を、その可能性を見せる。「ハートランド」の字体がよく見るとホラー系。ディストピアでの人間の棲息風景、にも見える。

ブロッケン

ブロッケン

ゴツプロ!

新宿シアタートップス(東京都)

2023/04/21 (金) ~ 2023/04/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

面白い。
なぜか関西弁、の人物がゴツプロ!の主宰?(そのあたり詳細知らず) 兄役の彼と弟を主役に、人生半ばにして迷走する男の「今」を描く。深井邦彦氏作品を少し前のツケヤキバに続いて吟味する回、でもあったが着実な仕事を重ねていると実感。
特徴的な人物(ちょっと居ないがどこかには居そう)と彼らを取り巻く人々が、最後に群像の画を結ぶまでの軌跡を描くわけであるが、構成される場面を面白エピソードに仕立てる技師であるのか、むしろ散文(小説)を書くテンポから生み出されて来るものなのか・・。
俳優がうまい。早々に死んだ叔父さん(有薗)がちょいちょい出て来て何か言うのが美味しい。母(岩瀬)の娘との距離感と、最後に今自分が言える言葉を探しつつ語るのがいい。わけわからん!と周囲に言わせながら貫き通す兄(大塚)のキャラが強靭。割り切った娘(泉)が最後の最後に湧き出る不条理の思いに身を任せるのがいい。

毛皮のマリー【2023年上演/B機関】

毛皮のマリー【2023年上演/B機関】

B機関

座・高円寺1(東京都)

2023/04/14 (金) ~ 2023/04/17 (月)公演終了

実演鑑賞

「星の王子さま」以来二度目(同じ座高円寺)の観劇。(正確にはd倉庫の現代劇作家シリーズに出品した短編を観ていて、抽象舞台だった事だけ覚えている。)
「毛皮のマリー」は以前戯曲を読もうとした事があり(読んだかも知れぬ)、冒頭の脛毛そりの場面、マリーに幽閉されている「息子」欣也に外へ出ようと少女が誘う場面に覚えがあった他はラストも含めほぼ初めての感覚で観た。
舞踏家の点滅氏がパンフに書いた如く、B機関のコンセプトである「演劇と舞踏」の融合が、文字通りの形で具現されていた。で、その分だけ長くなっていた。「演劇と音楽(ライブ)との融合」についても思う所が、両方を立てようとするとまあ大変である。今作はラストへ向かう手前、少年欣也の屈折が表面化したある衝動的行為の、内面の軌跡をなぞるような舞踏が長く展開し、あれこれと考えさせられる。ただ、解釈可能性の広い舞踏表現だけに(ストーリーを追う)演劇の一角を占めるには「何が表現されているか」が絞り込まれたい所、そこだけ舞踊表現によって完結する世界になっている(悲劇調の音楽が「演劇の時間の一部」に繋ぎとめていた)。
2016年始動したB機関の第一回公演が「毛皮のマリー」であった由。そして再びの今作で活動を閉じるという。出自である所の舞踏が如何に「演劇の附属物」とならず対等な表現たり得るか・・その挑戦・足掻きの痕跡を残して幕が下ろされたという訳である。
余談だが葛たか喜代は(前回観た「星の・・」にも出ていたが覚えておらず)「女優」という認識であった。美輪明宏のマリー役を想像し、成る程と感心しながら女装男の立ち居振る舞いを目で追ったが、最初は嗄れ声の「女優」だと思っていた!ので、素肌の上半身を開陳した折は「珍しい程のまな板胸だからこそやれる芸当を持つ希少な女優?」等と、けったいな想像をしていた。・・まああの眩惑的な佇まいに当てられてしまったという事にしておく。

ネタバレBOX

死を待つ人間の性だろうか、「最後」と聞くとそこに物語性を汲み取る感性が発動する。
全然関係ないが、長く続いて「そこでしか味わえない」味が幾つも消えて行った。あの中華屋さんの天津飯、あの定食屋さんのカレーライス、あの狭いカウンター席4つのラーメン屋、先日愛顧していた自転車屋(おじいさんがやっていた)が90年間有難うございましたと貼り紙をしてシャッターが下りていた。
劇団も有象無象、いつしか見なくなり、ふと思い出すという事がある。「もっと見たい」と芝居を、劇団を観てきたが、好奇心を否定しようと思わないが今のままではいかんという感覚もある。正解が何かは全く分からないが。。
橋の上で

橋の上で

タテヨコ企画

小劇場B1(東京都)

2023/03/08 (水) ~ 2023/03/12 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

タテヨコ企画の最初は、三軒茶屋の住宅街の一角の「やや広い」というだけの部屋を借景として上演された芝居(椅子も置けないので少ない観客だった記憶)。ちょっと変わった試み、であったから観に行ったのだがそれ以降タテヨコ企画は劇場で「普通に」公演を打っている。横田氏作演出のを二回、柳井祥緒作を青木氏が演出を一回、だったか。青木柳葉魚氏作品は初めてとなる。
秋田の連続児童殺傷事件が題材である。そのもの、のようでもあるし、別の設定、のようでもある。後半は正に件の母による「その瞬間」が描かれる。橋の欄干での、娘とのやり取り。その後に起きた娘の幼友達である近所の男の子との接触場面。「殺意」を否定した想定で作られた場面が、作者が事実を紐解いて蓋然性を得た結論なのか、ワンオブゼム=可能性のストーリーなのか、実際には起きなかった「もう一つの物語」なのかは、この事件の事を詳しく知らないので判らない。
こういう場合、舞台と事実との関連が明確でないことが通常ストレスになりもするが、不思議とそれが無く、芝居として面白く、引き込まれて観た。
とは言っても、「没入」が起き難い映像鑑賞(舞台の)の際のパターンで、一度ざっと見て、後で細部にも目を届かせながら見るという手順を考えていたが、二度目を見ない内に期限を過ぎてしまった。芝居に引き込む要因が何か、あるいはちゃんと見れていたかは確認できず終いである。
以前この同じ事件を題材にした舞台をどこかで観た。その舞台は母の「男関係」の時間を中心に描いていた記憶であるが、今作は事件を振り返る「場」として地元雑誌の編集室を設定し、敬遠されるこの題材を取り上げようと熱く訴える女性記者と、周囲とのやり取りと事件に関わる再現場面が地続きに相互に入れ替わる。この方法が効を奏して観客にも事件との一定の距離感を保たせ、かつ芝居に緊張感を与えていた。

ブレイキング・ザ・コード

ブレイキング・ザ・コード

ゴーチ・ブラザーズ

シアタートラム(東京都)

2023/04/01 (土) ~ 2023/04/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

チューリングを扱った映画を何年か前に観たが、舞台だと「コペンハーゲン」のような高尚な科学・哲学論議が展開されるか・・と予想して見始めたのだが、予断を持ったせいか、焦点がぼやけて構図が今一つ見えて来なかった(例によって眠い体だったせいもあるか、「ダウト」で見せた凄絶な亀田佳明を期待し過ぎたか、あるいは公演序盤でまだ舞台が熟していなかったから?・・どちらにせよ疲労は頭を固く鈍くするのでそのせいだろうと言えてしまいそうでもある)。

ドイツのエニグマ暗号の解読で第二次大戦での勝利に貢献した栄光の過去(欧州では終局までドイツと対峙したのは英国)と、同性愛者である事による不遇と死という後半生。この両者を、恐らくこの作品は華美な修飾を施さず、チューリングの主観に沿った等身大のそれとして描こうとした、のではないか。
だがそうする事により、「別にチューリングでなくてもいい」物語と見えなくもない、というのが正直な感想だ。日本ではさほど知られていない人物であるだけに、「今なぜチューリングか」の問いが最後まで残った。
断片的には役者の存在感により生き生きと場面は立ち上がっていたのだが。(存外、見返してみれば見落とした細部が埋まって印象は真反対、という事もあり得るが。。)

ネタバレBOX

二幕の冒頭、チューリングが大学でだろうか、聴衆に対してコンピューター技術ひいては科学の発展について語る場面がある。現代にあやかって「AI」の語が入っていた。台詞は、科学の進歩があらゆる事を可能にする、「コンピューターは何でもできる」、とチューリングは言う。(当時の聴衆はきっと目を輝かせていた事だろう・・。)
「あれもできる、これもできる、あんな事も、こんな事も・・」とカウントし、「できない事はない」と言いきる言辞は、勿論「現在の事実」ではなく、実際にはコンピューターに「できない事」は無限にある訳で、この言葉が成立するのは、科学・技術が新たな地平を切り開き、人類に新たな風景を見せて行く「進歩の先の未来」への信頼であった。
作品上の問題は、この演説を科学への無垢な信頼の生きていた過去のものと描くか、現在を重ねられるものとして描くか、だ。「過去の人」チューリングを突き放して描く方法も演劇にはあるが、客席に語り掛けるこの台詞の中に「AI」を含めたという事は、後者を選んだ訳である。「今ならチューリングはこう言うかも?」と今に寄せた。そこに噛み合わせの悪さを感じたのである。科学への全幅の信頼を抱く人など現代では希少だろう。チューリングの言葉が浮いて聞こえる。(実はチューリングは講演反語的に「何でもできる」と言っていたのかも?何せ疲れて感性鈍磨であったので..)

それはともかく、科学への疑義があっても、AIや遺伝子技術に人類は手を染める。探求への最大の原動力は、推進力はかつては戦争であったろうが(今もある面でそうなのだろうが)、今は商売へのモチベーションだろう。(大学「改革」なるものは国防をモチベーション発動の装置としようとするものなのかも..とすれば安直にすぎる。)
技術は人を助けるが、ネガティブな面は無視できない。例えば・・農業が大資本の手に渡り、種ができない作物の種が開発され、これを毎年買わされる農家との従属関係により、定額収入を生むシステムを資本は手にする。
特定の除草剤に強い(雑草だけが死ぬ)穀物とか、ブロイラー、やがては昆虫食もビッグビジネスの対象となるのかも知れぬ(その種蒔きが日本でも盛んだ)。

中小の企業体や個人店舗を淘汰し、刈り上げて更地にし、あるいは束ねて売りに出す。取引相手は外資か、大企業か、どちらにしても政治家が「恩を売れる」パッケージ作りは、大きなモチベーションを伴いそうである。孤独な彼らを企業は笑顔で迎えてくれるのだ。
今や古いと言われ、トリクルダウンなど起きない事はほぼ周知で、米国と日本以外に見向きもしない「新自由主義」。その亜種が経済特区、都構想(という名のスーパーシティ構想)、元を手繰れば規制緩和、公務員削減、民営化。途上国政権(開発独裁)の最後の頼みが、海外資本を入れるカンフル剤だが代わりに様々な犠牲を差し出す。これに加えて日本では指導者の関心が政治体制の維持、また己の政治生命維持にしかない事が、「外」からの視線には明白なのだが・・
吉村氏の「大阪の改革を全国に」など時代錯誤も甚だしい。
真っ当かそうでないかを判別する一つには例えば、水道民営化を「あり」と発想できてしまうかどうか。民営化の代償に「何」を得ようとしているか、言語化できるならしてみるがいい。
「モモ」

「モモ」

人形劇団ひとみ座

シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)

2023/03/23 (木) ~ 2023/03/29 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

70周年での「どろろ」に圧倒されて以来、ひとみ座の主要公演を追いかけている。今回で5作目になるか。「モモ」と来れば観ない選択肢はない。早くに完売が出る中、どうにか観られた。佃氏の脚色。シンプルさの中に光る感動の瞬間がある。期待通りである。音楽はラテン調の不思議なアレンジや、プログレ楽曲を借用した音楽など幅広く現代性にも富んでいた。

誤餐

誤餐

赤信号劇団

ザ・スズナリ(東京都)

2023/03/25 (土) ~ 2023/04/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

こちらも楽しみにしていた公演。赤信号はかつてのお笑いブーム(たけし・さんまの頃?)での朧げな記憶しかないが、自分には演劇の方で認知した小宮氏、ラサール氏に、桑原女史の作演出に垂涎。フタを開けると、まずリーダー(渡辺)の「へたくそか」とヤジ(好意的)を飛ばしたくなる佇まいから、これは赤信号の自分祭り企画であったなと認識。(二日目であったので小慣れなさも考慮すべきか?)
客席から見ても数個のミスがあり、それも含めて楽しい舞台ではあった。この日の一番は、芝居の後半、大学教授役の渡辺氏がかつての「恋人」室井氏と二人になる場面。少し背景を言えば、大学に入学して来て自分のゼミに入った青年が室井の息子であると知り、そして今日彼女が二十数年ぶりに会いに来ると聞いてかねて疑っていた「彼は渡辺の実の子かも知れない」件を告げに来たのでは、とあたふたしている。その伏線あっての、二人の場面。二人を精神的に結びつけていたアイテムというのが、若き日に彼が書いた論文を収めた書籍で、預かっといてと言われて後ろポケットにねじ込んだそれを、室井が見つけて「これ・・」とそちらの話題に自然に入っていく「はず」であった所、どうやらポケットから出して楽屋に置いていたらしく、室井が次の台詞の前に笑いながら渡辺のズボンの後ろポケットをつんつん、とやっていた。それを見て渡辺「ちょっと、本を取って来る」と、あたかもそう決まっていたかのように奥へ引っ込み、本を見せ、会話再開となった。ドラマとしては大失態なのであるが、こんなシーンも笑って見られるだけのお祭り感は「赤信号」ならではである。
この論文は渡辺唯一の出世作で、室井の息子も「ヤバい」と心酔しているのだが、芝居のアイテムとして「論文」というのは珍しい。というか、そこに何が書かれているか内容が問われるものは(例えばかつて天才音楽家と呼ばれた男のその楽曲を披露しにくいのと同じく)扱いが難しい。それはともかく・・この論文は大学の食堂のお姉さんだった若い日の室井との会話から着想された「二人で作った論文」であったが、アカデミーの世界を人生のコースとした彼はそれを自分の著作として世に問い、その疚しさから彼女の元を離れた、というひどい男である。だがよく判る顛末でもある。本作は人情喜劇だがシリアスに描いても行けそうな設定。ただ、教授が自分の「罪」を皆の前で告白するクライマックスの後、判りやすい仲直りの場面はやや微妙であった。

ネタバレBOX

嘘を封印し、生き続ける人生と、彼は決別する勇気を持てた、というのは「お話」のレベルでは珍しい事ではない。
だが、嘘を告白しても人として「許される」、という信頼が無ければ、その選択は困難ではなかろうか。
思い浮かぶのは安倍昭恵関与の文書改竄を指示した佐川氏。彼には、改竄の指示があったと告白する事で人生を新たに始めるビジョンは持てなかった。本当の責任者に責任をとらせる事のできない権力に甘々な「システム」の問題でもあるが、個的には彼自身また彼の家族が何を望むか、という問題でも勿論あるが。
今は「国のため」と言いつつ米国のご機嫌取りに成り下がったリーダーの「国民に対する嘘」で卑屈に歪み、真実味の無い姿が浮かぶ。
安倍政権の最大の功績は「バレなきゃズルしても良い」意識を蔓延させたこと。他者への嘘、誇張、ごまかしへのハードルは低くなった。逆に「国」に対してそれをやってはならない、という垂直序列の意識の持ち主が劇的に増えた感触がある。
「嘘」「ズル」を巡る話の背後に、実世界の巨悪の存在を見る。
K2

K2

滋企画

こまばアゴラ劇場(東京都)

2023/03/24 (金) ~ 2023/04/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

一年以上前からチラシを手にして期待の佐藤滋企画であったが、「K2」というタイトルも深く追求せず、ついに観劇当日蓋を開けてみたら、既存の海外戯曲しかも山を舞台の二人芝居だった。山の中の二人芝居、で思い出すのは大竹野正典『山の声』だが、こちらは実在した登山家の「最後」を題材にしており、戯曲の魅力は「危機」が訪れない道程、日常と地続きの感覚と非日常の絶妙なバランス、台詞の含蓄(文学性とでも)。今作「K2」は遭難から一夜明け奇跡的に命を取り留めたとは言え既に「危機」のさ中にある二人、から始まる。こちらも日常と非日常の感覚の往還はあるが、登山用語が飛び交う「非日常」の緊張感に比重がある。

ネタバレBOX

太田宏演じる男が、足を負傷し動けない。佐藤滋演じる男はその事が意味する絶望的な事実の認識を回避し、希望的観測からアプローチする。その「日常性」(佐藤滋本人が醸すものでもある)がこの状況においてはある種の飛躍であるという逆転がある。ザイル、カラビナ、ハーネスといった登山具の僅かな残数で、二人が下山できる可能性と不可能性の会話も、どこかよそ事のような響きで、認知的不協和がもたらす精神的危機に相手を晒さない配慮に満ちている。そうした中、頭を「現実」に切り替え、上の岩壁に残る登山具を「回収」するべく佐藤が出発する。ザイル(ロープ)の一方を太田が持ち、佐藤が進むに従いその分のロープを送って行く。いざという時の命綱を太田が握る格好だ。アゴラ劇場の壁に渡した単管パイプの足場を岩に見立て、佐藤がフックにロープを掛けながら進んで行く。最終的には天井のパイプへと達し、そこで落下する。佐藤は腰紐一本で吊るされ、舞台装置ギリギリで止まる。暫くの静止。体躯を揺らし、太田の居るポケットへ引っ張りこむ。幾つかの道具は回収したが状況は変化ない。太田は佐藤に単独下山を告げる。激しく抵抗する佐藤。君に対する友情、愛が今の自分の全て。その君を置き去りにした自分が生き長らえる事など俺には耐えられない、と言う。太田に自分の家族にある言葉を伝えてほしいと佐藤に頼む。それだけが希望なのだと。佐藤は承諾する。
演出はやしゃごの主宰(作演出)の伊藤毅。「逃げられなかった」とパンフに述懐しているが、劇作家としての認識しかなかった伊藤氏の演出は(先のロープの場面の工夫と言い)中々見せるものがあった。
播磨谷ムーンショット

播磨谷ムーンショット

ホチキス

あうるすぽっと(東京都)

2023/04/07 (金) ~ 2023/04/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

過去一度(7年位前)観たホチキスの印象は、薄れているものの、とにかく体力全開、ロックな印象。歌、音楽、アトラクションがメインのような舞台であったが、当時自分の関心であったドラマの構造(俳優への関心薄し)が些か脆弱で、残念感を覚えた記憶である。その後、舞台の印象と共に刻まれた主役・小玉氏を外部で目にするにつき、拒否感は薄れ、先入観を払拭して久々の観劇と相成った。
荒唐無稽なストーリー(この劇団の特色と言ってよさそう)で、観客に「乗りツッコミ」の忍耐を強いるだろうドラマを、程良い笑いや小ネタ、テンポで超えさせて、最後にはちょっとしたクライマックスをもたらす。アトラクション主体、という点は以前のに通じてもいるが、今作は「ありそうでまず無い」ドラマが大きな瑕疵なく着地していた故、笑いを伴う役者のパフォーマンスもドラマの流れに即した順当な(というのも妙だが)「演技」として屈託なく成立していた。

ネタバレBOX

笑えた分だけ気持ち良く帰路についたが、コールでの挨拶は長かった。

話の方は、探偵ないし殺し屋という裏世界の組織が舞台。冒頭におどろ恐ろし気な音楽と共に「悪魔」的いでたちの(それが似合う)小玉氏が、舞台奥上段で威嚇のポーズをとり、イメージ図を示す。暗転後、黒ずくめの殺し屋の先輩と後輩、彼らに指令をもたらす者三名が組織のルーティンを小気味よく演じる場面。以上でこの芝居のB級感満載な舞台設定が完了。「とある指令」で二枚目の先輩隊員が訪れたのが、播磨谷何とかというサービスエリア。一挙に日常社会な空気となる。
小玉氏が今度は(商才逞しいという設定だが)庶民臭芬々たるおばさんに扮して登場。SAに出店する3店舗の他の二つの店長共々、このおばさんに付いて豆腐屋(このSAで人気のサクサク油揚げを作って売る)の修行をするという仮面生活が始まる。これがちょうど、貴族と庶民の対比のような構図になる。即ち二枚目の優秀な「殺し屋」稼業に勤しむ男は、一般社会とは離れた世界に棲んでいたがため、知識の上でも感覚的にも「庶民」に物を教わる立場となる。そしてその免疫が無かった男は「別の世界」を知って行く・・変化の契機となる。
当初の使命は生きており、男のどこまでが演技でどこまでが本当かは伏せられ、実はそのどちらかは重要なのだが、観客はこのSA界隈での出来事に関心が移り、一旦保留された「使命」が換骨奪胎されていた事を後で知るが、支障なく橋を渡るのである。
その後は種明かしとなり、組織を作った張本人の計画自殺が表沙汰になりそれを止められるなど少々無理気な展開もあるが、SA界隈に生まれた「群像」がキャラ・風貌の立った俳優面々による絵となり、爽快に幕を下ろす(よくある大団円)。
生きるか死ぬかの価値観(いわば戦争)から、日々を積み重ねる暮らしの価値観へ・・そんなメッセージを汲み取る程の真剣味を感じたかと言えば中々厳しいものがある(というのも「戦争」は人々の感情の延長にではなく世を動かす力によって人為的に仕組まれる側面が大であるので)のであるが、あるいは感覚的なレベルではこのテーマ性を感じ取っていなくもない、かも知れない。
彼女も丸くなった

彼女も丸くなった

箱庭円舞曲

新宿シアタートップス(東京都)

2023/04/12 (水) ~ 2023/04/18 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

箱庭円舞曲は多分10年近く前、711だったかアゴラだったかで観た。震災が尾を引いていた時期の、災害にまつわる話だったが書き手の古川氏には発展途上な劇作家のイメージ。"やり手"(作為か天然か悟らせぬ)という印象の白勢未生が入団しその点でも注目していたが機会を逃してこの度久々「二度目」の観劇となった。
構成に難解さがあるのは恐らくこの劇団の特徴、書き手の指向。役者の技量が細かな演出(指定)に応えて、繋がりの判らない前半を乗り越えさせ、禁欲的な叙述の雫が後半になってようやくグラスの表面張力を破ってじわっと流れ落ちる感触で、ドラマの要素が浮上し、全体図が霧の向こうに見える感じで見えて来る。
物語自体も自分は面白く観たが、それ以上に芝居を通じて溢れ出て来る、時代を生きる感覚のようなものに共鳴させるものがある。

相依為命(そういいめい)

相依為命(そういいめい)

ミュージカル座

シアター・アルファ東京(東京都)

2023/04/05 (水) ~ 2023/04/09 (日)公演終了

実演鑑賞

随分前の事だがある若手俳優に所属を聞いて思わず聞き返した劇団名。以来、名を見る度にチェックはするものの文字通り「遠い」存在であったが、今回シアターアルファまで接近。作品への入魂具合を見定めて劇場へ足を運んだ。
馴染みが「ある」とは言えないミュージカルというジャンルについてここ最近吟味する機会が多かったが、日本語オペラのこんにゃく座が独自の世界(本家オペラとは一線を画した)を構築したように、比較的小空間でがっつりストーリーのある舞台に音楽を拮抗させた「ミュージカル」という分野が、中々完成度高く実現している事は新鮮な発見であった(この劇団はその嚆矢なのかも・・等と関心がもたげる)。
観始めは「今なぜ愛新覚羅?」の疑問が脳裏をめぐっていたが、観終わった時は作者の企図が飲み込めていた。歴史上の愛新覚羅溥傑(溥儀の弟)と日本人の妻の足跡を描く筆致は独特(というより若い世代の歴史理解を反映)。そこに危うさがなくもないが(年寄が若者を見る眼差し?)、この歴史の叙述に抜かせない要素を作者なりに掬い上げ、メッセージに結実させていた。音楽は前半メローに寄りすぎか(聴いてて心地好くはあるが)、という印象であったがトータルで多様な風景を作り、レベルは高い。長尺の音楽(多場面を持つ)がミュージカルや音楽劇における「音楽」の面目躍如である。
自分にとっての「意外」は、全体に歌唱力が高い(子役も)。実際の所プロデュース公演の本格ミュージカル以外ではあまりお目にかかった事がない。

ネタバレBOX

本作では前半のクライマックスを終戦後の満州からの日本人の逃避行に当て、6のリズム(2×3と3×2の転換でボルテージを上げる)の折り重なり畳みかけるような楽曲。後半では落ちぶれた皇后の純粋な愛を歌い上げる歌や、国交の無かった中国に溥傑の娘が送った父の安否を気遣う手紙を手に、周恩来がその人なりを彷彿させる理想を語る歌、などなど。

このかん観た「シブヤデマタアイマショウ」「おとこたち」、桐朋学園卒公ミュージカル、配信で観たイッツフォーリーズの「洪水の前」、地域の市民ミュージカル等ではそれぞれ音楽が何を担ってるか、を考えさせられ感じさせられたのだが、ミュージカルという分野は言うまでもなく米国産の国柄に根差した文化的産物で、ジャズやシャンソン等には音楽の快楽の背後にそのスピリッツがあるのと同様、ミュージカルにはなべて「自由」を歌い上げるという特徴があるのではないか(変則形はあるにしても)。圧政に抗い、束縛や支配から脱する、そしてそのために「諦めない」「前向きに生きる」精神も派生。それはマクロな叙事詩からミクロな家庭ドラマまで通底し得る性質。
日本産のミュージカルはどうか。今時点での私の理解は、音楽(歌)は物語の補完物ではなく音楽自体がストーリー、ドラマを担う(音楽部分を除いて台詞場面だけを繋げても理解できない)。かつ、音楽でなければ伝わらない内容が込められている。そして音楽とテキストの比重が拮抗している事、も条件になるだろうか。井上ひさし作品は優れた音楽劇であるがミュージカルではない(ミュージカル要素を取り入れたエンタメ作品ではあっても)、と理解している。まあジャンルの定義などどうでも良いと言えば良いのだが、由来を知るのは大事かも・・という訳で、少しばかり探究をゆるゆるとしてみようと思う。
ミュージカル「おとこたち」

ミュージカル「おとこたち」

パルコ・プロデュース

PARCO劇場(東京都)

2023/03/12 (日) ~ 2023/04/02 (日)公演終了

実演鑑賞

ハイバイ観劇何作目だったかで出くわした「おとこたち」は少々異色作、少し配役を変えての再演でも弾けた感はなく岩井氏の探ってる感が残る。・・とは後付けの印象かも知れぬが、新装PRCO劇場に寄せる(初)ミュージカル作にこの演目を?とまず訝ったのは正直な所。最後まで訝り続けたのだが、岩井氏の信頼する前野健太氏そして出演陣に期待し、「んーー」と迷った挙句観に行った。
結論的には、この作品のドラマツルギーが最もしっくりと、飲み込めた気がした。
構成はおそらく随分改められ、初演、再演で平原テツらが作るキャラと空気感(言わばハイバイ的空気感)と大きく風合いが異なり、過去の「おとこたち」の記憶と合致する場面は前半訪れず、「そうだこれだった」と思い出したのがほぼクライマックス、葬式の場面であった(表の顔しか知らなかった旧友の葬儀に参列し、死者を冒涜するかのふてぶてしい息子に諫めた男二人が、生前の家庭内の様子を伝える衝撃の録音を聞かされる)。
冒頭の「歌」はカラオケでガナるような塩梅で(ここは記憶と朧に合致)、ミュージカルってこれ?と不安が過ぎったが、少しずつ風景が細密化し、歌も地に足の付いた、そぐわしい物になって行く。人生を俯瞰して無常観(死そして意味の揺らぎ)とノスタルジーを呼び起こすドラマであるが、語り手(ユウスケ)を含めた四人それぞれの凡庸だったり数奇だったりする人生が、同じ時の流れに翻弄され、一つの結末に行き着く存在として並列され、想念の中の記念写真に納まるラストの図と、歌に図らずも涙腺が緩んだ。

シブヤデマタアイマショウ

シブヤデマタアイマショウ

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2023/03/30 (木) ~ 2023/04/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

シブヤデアイマショウ(2021)が好評であったので今回は(勤務的にどの時間も厳しいが一か八かで)予約。観られた。

ネタバレBOX

「ショー」に対する「お茶を濁した出し物」等という無知ゆえの先入観は気持ちよく覆される。松尾スズキは何から着想したのだろう。会場に近づくと暗がりの中で東急本体も暗く、何と工事中。シアターコクーンも本公演を最後に休館、とは、舞台の冒頭松尾氏が披露する歌の歌詞で知る。「最後」に相応しい出し物(物語性にも貢献)。
近藤公園、猫背椿を司会に歌、小芝居、踊りとショーは続くが、秋山奈津子、多部未華子を主役とした物語との相互入れ込状態。笑いのセンスは自分的に「炸裂」で血が湧いたが既視感を覚えるこのテイストは松尾作ミュージカル「キレイ」以来。前半この「キレイ」の劇中ナンバー「本当の私はここにはいない」を本役の秋山と村杉蝉之介が舞踊アンサンブル付きで歌うと一気にボルテージが上がる(松尾氏のセンスは人間に対するアイロニー、身も蓋もない存在だがそれを愛でる、という地点へ誘う)。個人的にもコクーンで上演された本作初演、再演(以上映像で)、再々演、四演(以上劇場で)を振り返って胸にこみ上げて来る物がある。第二部の冒頭はゲスト(ミュージカル俳優)による歌の披露(三曲)。本域で名曲が歌われ、ドラマ性における音楽の底力に普通に圧倒される。自分的にはこの「ショウ」と、ミュージカル「キレイ」の意外な近似性が目から鱗の発見であった。
アウトカム~僕らがつかみ取ったもの~

アウトカム~僕らがつかみ取ったもの~

劇団銅鑼

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2023/03/17 (金) ~ 2023/03/22 (水)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

銅鑼の安定感ある舞台を3、4作品観たが今回初めて映像で鑑賞。おなじみのシアターウエストで。独特なテイストがあった。理由は掴みとれないのだが、一頃もてはやされた町づくりワークショップの理想的展開の事例という感じで、参加者一人一人にもスポットが当たり、群像になっている。アウトカム(活動がもたらす結果。アウトプットよりは長期的・本質的な効果といった意味合いが強い)を評価する(事業評価)会社を作った男が「最後の営業日」でその銭湯を訪れる日から芝居は始まる。彼がそこで再会した旧友を誘いこみ、その旧友(主人公)の目を通して、事業評価を発注したプロジェクト(廃業を決めた銭湯を建屋ごと再活用する)の顛末を描写して行く、という構図になっている。このプロジェクトは町づくりワークショップの方式を用い、参加者間の関係性や、参加者個々の人生にも触れて行く。物語自体は、このプロジェクトというセミパブリック状況でのウェルメイドなハッピーエンド・リアリズム劇だが、浮世離れした感が、今の世のアンチテーゼにも思え、逆にプロジェクトを進める代行企業や出資者として参与する企業、その内情もチラッと出てきてリアル社会の縮図でもあり、そのバランスが独特。

あでな//いある

あでな//いある

ほろびて/horobite

こまばアゴラ劇場(東京都)

2023/01/21 (土) ~ 2023/01/29 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

注目のほろびてだが、漸く二度目になる今作は映像で鑑賞した。現代社会の矛盾が無言の内に噴き出す様を情景化した舞台。コンクリの床と正面奥の瓦解したコンクリ壁の残骸は物理的な破壊を表し、人物によって描かれる諸相はその背後の、荒涼たる人間の心の風景。両者の関係への考察が本作の原点である事が想像される。演劇が、芸術が掬い取る使命の核心を扱っている、というのが私の感想。

ネタバレBOX

随分日が経ったが追記を。

二度ほど観てフィットしなかったスペースノットブランクの演出(男の方)が出演していたが必要十分にキャラを演じていた。またモダンスイマーズの紅一点(若一点とも)も力演(どこかで見てる顔と声と思いつつ見ていたが、年末スズナリで間近で観てたじゃん。と自分に呆れ)。
芝居の中でこの二人は外国由来の人。日本社会で何とか生きて行くため疑似家族をもう一人(中年男)と作っている。中年男は過去に傷を持つ男で、二人から誕生日を祝われた時の異常に戸惑った反応を伏線として、彼が傷つけたかつての妻(婚姻関係ではなかったかも知れぬ)との場面が回想される。彼女も日本由来の人でないらしく、彼とは彼の凝り固まった体をほぐすマッサージ役を入口に、ピュアな交際関係にある様子である。仕事がない彼は、もう別の若者と二人で報酬も良い「人に奉仕する仕事」にありつく。ところが宣伝文句はまやかしで、裏世界の仕事。いきなり現場で指示され、人に手を出す(殴る蹴るの暴行を加える)初仕事を遂げてしまう。いやいやながらも仕事を続けるが、コンビの若者は音を上げ始める。ここで作者の洞察は、彼を「人を殴る体になった」人間と見る(軍隊が人を殺せる体を作る、というのに似ている)。
身体や精神に重圧をかける仕事は、その代償としての多少の傍若無人が許される、という感覚をその人に与える。また「汚い」現実を知った者はそのストレスが未消化な内は「綺麗ごと」が許せなくなる。
彼は自分自身も限界を感じる中、その若者に勇気を出して逃げろ、後の事は俺に任せて・・と言う。だが、変貌した彼は帰宅後ついに、それまでと同じように彼との小さな共感を育もうと彼に話しかけながらマッサージをしようと近づいた彼女を、殴り倒す。
再び誕生会の場面。彼は自分が祝福に値する人間ではないことを、祝福された事により痛感し、二人にうまく対処できず、ケーキは二人に食べてと渡して<這う這うの体>で自室に消える。
この三人は時々「話」をし合う時間を持つ、というのが疑似家族のルールらしい。ただし芝居では男女二人が話す場面。持ちネタを言い合う時間が二度展開する。男は今の仕事が長く続いており、順調である事を他の二人も喜んでいる。その時の女の話のネタも、同じく「良い話」だ。少し歳は離れているが恋人が出来た、という。結婚の話も出て、色んな物を買い与えてくれる(がそれは断っている)。仕事関係で知り合った。「やるじゃん。」「よかった。」 常に慎重に、相手を慮りながら話をする男は、言葉を選びつつも、祝福の言葉を伝える。
次の時、男は会社でいじめを受け始め、痣を作っている。ネガティブな事でもこれを話そうと意を決したが、別の事で遮断される。そして二度目の話の時、男は体じゅうに痣が出来ており、女が彼の腕か胸に触れた時、激痛を訴える。そして控え目な表現ながら、殴って来る職場の連中のことを話し、もう仕事は続けられそうにない、ここの生活も困ることにはなるけど、でも・・うん・・と(俯き加減だが相手を見て)言う。
今度は女が話をする番。実は妊娠をしたという。男は少し考えてから、心底「すごい。」と告げる。女は、実は男が忽然と消え、住わせられていたマンションががらんどうだった事を話す。男は、女の代わりに目の前にいない「そいつ」をエアで罵倒するが、力萎えてかがみ込む。無力感をかみしめる。

もう一つの場面は、伊東沙保が演じる理容師の所に来た若い男が、中々髪を切ってもらえず、話を聞かされてばかりいる、という場面。上記の疑似家族の場面とは、人で繋がっている事が後で判るが、それぞれ別個のエピソードである。
青年はずっと店にいる。女が話題を色々と変えたりして中々突っ込めない、という事もあるが、青年の方もある程度「話を聞いてしまう」人(強がっていても心根は弱い)である設定らしい様子もある。
彼は実は元引き籠りで(そして今何らかの取っ掛かりを得て・・それはどうやら右翼的な思想であるらしいのだが・・社会に出ようとして)長く伸びた髪を切りに来た、というタイミングである。
話がひと段落して、理容師はマッサージが巧いという部下を紹介する。だがここで、青年には彼女が見えない、という事が起きる。この「不思議」の要素は、何らかの暗喩であるらしいがよくは判らない。青年には理容師が自分をおちょくっている、と解釈する理由となる。後半、理容師が町で出会ったという彼女(上記エピソードでの若い女)が、訪ねてくるが、その彼女の姿も彼には見えない。

彼女が「喋る」話の内容はつぶさに紹介できないが、青年の「髪切り」を先延ばしにしようとしているかに見える。「あなたは今の髪型が似合っている」。青年は自分は兵役に志願するため、髪を切りに来たと言う。作者は、青年の「見ている先」が何であるか、という事と、ある対象が「見えていない」事とを関連づけているらしいが、もう一つ別の「見えない」現象がラスト近くに起きる。
理容師の助手(洗髪と特にマッサージ担当)の女性を以前殴った、例の中年男が理容室を訪れる。先日訪れた女が紹介したのだ。髪を切ることにした。ここで、青年には見えなかった助手の存在が、中年男には(まじまじと見た訳でないので彼女が誰かは分かっていないが)認知できている。ところが、助手には男が見えない。
二つの「見えない」が何を暗喩しているかは観客の判断に委ねられている。
だが「見えない」状態とは不全であり、「見える」ことが目指される。第一エピソードでは青年が業を煮やして理容師にキレるが、理容師の言葉に従って髪を切る要求を中断し、「今そこにいる二人と一緒にメロンパンを食べる」ことを行なう。そしてパンを口にした瞬間、そこに人がいた事に気づく。
また男の事が見えなかった助手の女性は、「どう、やめとく?」と心配する理容師に「否」を告げ、不安ながらも「よおし」と男の肩を揉もうと手を伸ばす。

社会が作った分断を人がつなごうとする作業と、自ら分断を作った者が再びつながれる運命の計らい。力技ではあるが、今の状況に対する疑問視とそれを変えたいと願う心を、懸命に是認しようとする、私の勝手な解釈だがそういう願いに満ちた芝居である。
伊東演じる理容師の「怒り」は、その盾となっていた。

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