tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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日本演劇総理大臣賞・余話

日本演劇総理大臣賞・余話

ロデオ★座★ヘヴン

新宿眼科画廊(東京都)

2023/10/17 (火) ~ 2023/10/24 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

先日同じく新宿眼科画廊で観たリーディング「ファミリアー」では出演していた澤口渉氏は裏方進行に回り、ロデオ★座★ヘヴン・音野氏ともう一名との男二人組、女性二人組による二編の「余話」を観せてもらった。
戦前を舞台にした作品で、最初の女性編は、女優引退宣言をした、中小劇団の“五番手”女優に呼ばれた学生時代の級友である女性記者とのやり取り。必ずしも仲良しでなかった間柄だがズケズケと言い合う仲ではあった事が徐々に知れる。今も一つも変わらない女優“やちよ”の「女優を辞める本当の理由」に迫る。
二つ目は先輩作家(主に劇作?)の元を訪れた元弟子?の編集者との、戦時下という状況でのやり取り。かつてアグレッシブな作家活動をしていて芸術のためにはお上を恐れないと豪語していた作家が、著名作家となり、このところ日和見な作品ばかり出している事に失望を覚え、後輩はその事を伝えに来たと分かる。最後にこの先輩作家が考えを変え、危険な道を選択をするのがミソで、逆にその事で「今がどういう時代なのか」が目の前に立ち現れたのか、後輩の方がおののく。短い戯曲の中によくこの要素を織り込むものであるな・・と素朴に感心。
本編である「日本演劇総理大臣賞」とは一体何であるか、皆目不知であるが、どことなく楽しみ。

逃げろ!芥川

逃げろ!芥川

文学座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2023/10/27 (金) ~ 2023/11/04 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

文学座のサザン公演(アトリエでない大劇場公演)はいまいち、という前例が既に二度あるので今回も多くを期待せず、だが畑澤戯曲だけに「作品」への期待は高めて劇場へ赴いた。
大劇場では大仰、喜劇調に作られるのが文学座の伝統なのかも(「寒花」という震撼とさせる鐘下戯曲で新派のような見栄芝居が突然入ってきた時は唖然とした)。

本作はスペイン風邪の流行った100年前を舞台に、菊池寛と芥川龍之介の長崎行きの車中で終始展開する舞台である。両名による時に冗談を交えた、時に辛辣なやり取りは車中だけに基本「深刻にならない」軽快さで進む。途中予期しない登場人物とのやり取りや大立ち回りが始まったり、芥川作品世界の検証のような時間になるのも面白い。
ドラマタークに工藤千夏とある。夏の渡辺源四郎商店二本立て公演の内、工藤作品がやはり戦前を舞台にした着想に優れた芝居だったが、今作も間違いなく工藤女史の知恵がまぶされていると推察。芥川作品への「批評」を一つ一つ菊池が紹介したり、芥川氏の女性遍歴(人物像が作品にも投影されている)がその作中人物によって明かされたり。
その時点では芥川が知らない事実や作品にも遠慮なしに言及され、喜劇性は否応なく高まる。
汽車の旅をベースに、時空を超えた目線で芥川龍之介の人生を眺める趣向、と言ってしまえばそれで収まりそうだが、芥川という人間が歴史上の芥川龍之介を離れて、一人間と見えてくることがある。この文学者への洞察は人間性のレベルに踏み込み、彼が様々な影響の中にあって生まれた歴史上の一存在であり、その人生の意味とは何であったのか、という問いを程よい距離感で投げている。史実上のビッグネームに依存した作品からは離脱している。

フートボールの時間

フートボールの時間

(公財)可児市文化芸術振興財団

吉祥寺シアター(東京都)

2023/10/26 (木) ~ 2023/11/01 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

殆ど完璧と言えるほどに女子たちの心情、立場、目の前に立ちはだかった時代の通念への思い、素直な発見への喜び、相手への依頼心を含めた友情、胸に秘めた切望が、丸ごと伝わって来る。
彼女達の一挙手一投足が胸を打って来るが、これは弱者に対する優越性のなせる「感動」の類だろうか。。(と自問する程に琴線に触れまくりだったのだが、、彼女らの無念さへの共感と、理不尽さへの怒りとやるせなさ、そして人は変われるものでもある微かな希望という言葉にすればお芝居の定番メニューのような感想が口から出てくる。素直に吐露して良いものか逡巡してしまう。)

ala collectionは10年程前に発見してより頑張って2、3回に一度ほど観てきたが、やはり良質な作品を作る。

ネタバレBOX

満点を付けておいてナンだが(つっても☆5は主観以外の何者でもないが)、一つこれは書いておかずば正直でないというのは、終盤のクライマックスのこと。

この物語には、女子らの成長、学び、前途にとっての障害として立ちはだかる(当時の社会通念を象徴する)三人の人物がいる。三名の内二人は、最後にある種の変化を起こす。
一人目は写真館の主人で、娘の強い意志を前に受動的になし崩し的に、もう一人は最後に見せ場を飾る事になる堅物の女性教師が、ある事を機に思考過程の中で導き出した結論を実践する形で・・。
残る一人はダブル配役のため登場せず、正にこいつをギャフンと言わせたいのだがそこに居ないという事になる。
問題は女性教師である。

台詞の端々に見られる、この女性教師がある理解に至り、良心が発露するまでの過程が美しく描かれるが、最後の長台詞の中にやや時系列の飛躍があり、それがこの人物のリアリティに決定的な躓きとなっている、と感じたわけである。
高校演劇においては、ざっくりとした人物造形をノリでカバーし、大きな物語を伝えるミッションを遂げていたのかも知れぬ(原典を読んではいないが)。
が、この舞台の作りでは、リアリティの緻密な構築が必要になる。

良妻賢母を育成するという女学校の存在目的があり、それは結婚を前提としているため、女性が手に職を付けたり自立の方法を手にすること、即ち、学校生活においては様々な発見と成長を実感できること、が否定される構造がある。
この根本的な問題は、彼女らがその時点に至る十五年間、校長のこだわりから実現していた「女子フートボール部」(今のサッカー部)に、熱中できる対象を見出した三年生二人(北原日菜乃/谷川清夏)、一年生二人(桜木雅/庄司ゆらの)がその道を断たれる事になる後半に浮上してくる。それまでは女子たちの生き生きと羽ばたく姿が描写される。米国の女性シンガーソングライターの曲が折々に流れ、自由へと開かれて行く予感が彩られる。この音楽の力も大きい(ジョニ・ミッチェル「コヨーテ」は珠玉)。
このフートボール部を率いるのが若い女性教師(堺小春)である。他の教師に、小春に期待をかけている校長(おかやまはじめ)、教育委員会の出先機関のような副校長(近江谷太郎)、裁縫を教える堅い中年女性教師(林田麻里)がいる。
そして冒頭から登場してサイドストーリーの主役として併走する、父の写真館を手伝う娘(井上向日葵)が、小春と対をなす。その父役は、副校長の近江谷氏が兼任する。
芝居の冒頭、写真館の娘は、父の事故・入院により、学校行事の写真を自分が代わりに撮る事を申し出る。父は他の業者に頼むことをじつは娘に言い置いていたのだが、それに背き、「父から是非にと頼まれた」と学校に言いにやって来たのだ。その時、彼女の採用を後押しするのが小春。今度の山登りも含めて一ヶ月お試しをやり、ダメなら考え直せばいい、と校長他の教員を説得する。
井上の写真を、小春は褒める。これが「同じ女性として応援する」だけでなく本心から良い写真だと思っていた、と後半に分かる。井上は自分の中に「撮りたい」欲求が沸々とあって、欲求のままに被写体を焼き付ける行為に没頭していく、という事がある。

一方フートボール部は、正式な試合が出来るように部員を増やそうと盛り上がる。今度の運動会で、フートボールは試合ではなくプレゼン的にデモンストレーションをやるので、それに参加する人を集める事が目先の目標だ。女子ともあろうものが股を広げて球を追いかける「はしたない」競技、と眉をひそめる父兄もいるが、四人の生徒が部活動の時間を愛している事実の前には、何者もこれを取り上げる事はできない、と観客にも思わせる輝きをもって描写される。
だがこのフートボールが取り上げられる時がやってくる。
あるとき小春が他に二つの部活動の顧問も受け持つよう申し渡され、これに対し「では給料を上げて下さい」と要求したのが事の始まりであった。

芝居の時系列としては、小春が呼び出されると、校長が突如辞職し、副校長が校長に昇格すると言う。副校長は校長の方針である「女性も心身の成長のために運動に親しむべし」を引き継ぐが、フートボールは廃止すると告げる。今ある8個のボールは痛みも激しく交換時であるが、そんな予算はない、しかも反対の声もあるとし、ボールを廃棄するよう林田に指示する。
「承知しました」と退席する林田を追いかけ、小春は談判を持ちかけ、「せめて自分の手で廃棄したい」と言う。ところが林田は今回に至った事情を知らない小春に呆れ、以下を説明する。
昇給を当然の権利だと主張する小春に対し、副校長は反対し、林田も「私はそのような要求はしない、雑用は自分の本分だと心得ている」と己の考えを述べる。
だが校長はこの要求を取り上げ、上の管轄機関に伝えた。だが小春がフートボール部をやっている情報も上がり、解雇が検討される。校長はそれに抗い、彼女を辞めさせない代わりに自分が辞職すると申し出た、校長は貴方を守ったのだ、と言う。
一言も返せず呆然と立ち尽くす小春。
このお膳立てがあっての、終盤である。

林田の中に起きる変化の第一は、生徒たちと遭遇した際のやり取り。生徒は「折角好きなもの、打ち込めるものを見つけたのに・・」とぶー垂れていた後、林田が現れたので思わず、「先生は自分が好きなことってあるんですか」と聞く。「あるわよ。裁縫がそれ」と言い、自分がこれと出会ってから、いかに心を注いでいるか、を思わず顔をほころばせて語る。生徒たちが去った後、彼女はハッと何かに思い当たった顔をする。
その後のシーンでは、己の無力に打ちひしがれる小春が無言で涙を流し、中庭を歩く姿を月明かりの下に見る。いずれも無言のシーンでの林田の「変化」の兆しが胸を打つ。
一方、写真館の主人は思ったより早く退院して来て、娘・井上が他の業者に頼まず自分で写真を撮っていた事をなじり、叱る。やはり不許可での無謀な行動だったと知れるが、父の態度に彼女は大きな壁(父だけでない社会という)を感じ、絶望する。彼女の写真を期待していた小春に、もう自分は写真は撮れない、と告げに来る。
そして場面は運動会の日となる。井上も父に付き添って荷物を持って現れている。その前に林田は小春に、「私は貴方のようにはならない。けど、私は私なりのやり方で、物を言う。」と告げる。驚く小春。何らかの相談があった後、辞職した校長も「これだけは見ないと」と会場を訪れている。この後である。

その前に、他のエピソードも紹介すれば、三年生の二人、北原と谷川はでこぼこコンビで、谷川は甘えん坊で北原を追いかけてる格好だが、芯が強く無駄な言葉を吐かない北原が師範学校へ行って(小春の後を追いかけて)女性教員になる夢を持ち、谷川はその北原と同じ目標を本気で追い、いつか北原が勤める学校と自分の学校のフートボール部が試合をする夢を温めている。女子同士のキャピキャピとした会話の中でではあるが、フートボールを介して彼女らが「本当に向かいたい方向へ歩いていく」尊さを実地で学び、夢を描くことの純粋さと強さが印象づけられる。
だが、北原は結婚のために学校を退学する。実は一年前に決まっていた事だった。せめて学校生活の中では思い切り夢を描いていたい、そういう時間にしたいと願っていた。谷川は自分に一言もなく去った北原を恨み、腐るが、挨拶に行く。疑似恋人のような二人の会話も切ないが清々しさがある。
一年生の二人の内、背の低い庄司は感情を直線的に放出するタイプだが、おませで「青鞜」を読み、平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」を諳んじる。それを聞きながら女性が輝く未来を遠く見つめる四人の姿。もう一人の桜木は庄司に言われてイヤイヤ部に入ったが実は最も才能があり、ドリブル、パスの場面を主導的に疾駆する(と行きたいのだろうがまあ頑張ってボールを蹴る)。

どんな巻き返しがあるのかと期待が高まる最後、運動会の執行と挨拶を任された林田は、フートボールの廃部そしてボールの廃棄について語る。
私の願望を言えば、ここは黙って残ったボールを一つ取り出し、「最初の種目は、例年通り、フートボール」と紹介する、で良かったと思う。ここでの長台詞は原版を尊重したと見たが、今回の流れでは、うまく嵌まらない。
林田が「気づき」を得る過程は、ボールの廃棄がとうに済んだ後である。だが台詞では自分がボールに穴を開けている内に、自分の心臓を針で刺すような苦痛を覚えはじめた、と吐露する。これは演技にも拠るかも知れないが、自分がそのような苦痛を覚えていた事を「今になって気づいている」、という吐露が時系列的にも適切ではなかったかな・・。
そういう風なニュアンスに変換して自分の中で整合性を付けたようにも思うが、やはり浮いてしまった後味は否めなかった。

クライマックスだっただけに惜しいのであるが、しかし各場面の作り、張り合う必要のない境地に立った女子たちの純粋そのものの群像が、信じられる形で描かれた事は今も嘆息が出る。
運動場にて、井上演じる写真館の娘は一つも笑わなくなったらしく、父は弱気になり「笑ってくれよ」と頼んでいる。「撮った事を責めたんじゃない。嘘をついた事だ」と言うが「じゃ私が頼んだら許可してくれたか(そうでないだろう)」と無表情に答える。
と、フートボールが始まる。位置取りを確認する父。と、パスを始めた彼女たちを遠景として撮っている父を差し置いて三脚を抱えて井上が走り出す。中央でパスに興じる彼女らの真ん前に陣取り、シャッターを切る・・。
暗転後、現代とおぼしい風景の中に、小春は青いユニフォームを着て選手として、井上は望遠レンズが装着されたカメラを手に恐らくスポーツカメラマンとして、立つ。

それにしても何気に進歩的な校長の「貴重さ」は飾らない風情に溶けていい感じであった。闘いとは息の長い営みなんだと、ある種の諦観へ促されている気がする。
幻想振動

幻想振動

イデビアン・クルー

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2023/10/27 (金) ~ 2023/10/29 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

抽象性の高いパフォーマンスが「ハマる」というのはどういう現象なのか自分でもよく分からないが感覚している自分がいるのは事実で実に不思議。
井手氏本人の踊りは初めて。イデビアン・クルーは三度目。身体の動きは心情、感情を伴っており、そこが井手氏の特徴だろうか。ビニルシートを取っ払うと六畳一間の畳部屋の台。周囲は砂利を敷く代わりに白い無機物が敷かれた畔のような筋が、その左右に奥へ向かって伸び、奥では上奥袖から下奥袖まで一本伸びる(上から見ると鳥居のような)。最初、舞台の舞踊エリアの対角線に男女が立ち、目線が合うと、男女の関係だと分かる。カップル同士の営みが時に面白おかしく、時に虚しく、切なく、冷淡だったりノリノリだったりが演じられて行く。
動きのバリエーションは(井手氏っぽい動きというのはあるようだが)多彩と言え、先述した如くそれらは心情・感情のバリエーションを意味する。そして心地よい。
舞踊には楽曲も不可欠だがスタイリッシュ。一曲目のヴィヴァルディの曲が微妙な強弱が少し入ったと思うとエコーが微妙にかかったり、鳴り方が変わったり(ステレオ全開が局所でAMラジオの音、になったり)、空振りパンチ攻撃に合わせて効果音の「空を切る音」を入れ込んだりと忙しく、嬉しい。一曲目は唐突に終わり、突如ベース音がリズムを刻みスローなドラムに、二人の揺らぐ身体が揃う。理屈抜きに相性抜群な瞬間だ。
音楽は5,6曲程だったか。ボレロも流れる。人生のあらゆる場面だったり、想像の世界を遊ぶ時間だったり、どちらかの見る夢だったり・・。
延々と続く二人の風情への既視感は、最後に種明かしがある(その作品を知らなきゃ分からないが)。
1時間と少しと舞踊作品としては平均的だったが、もっと長く、めくるめく時間を過ごした感覚である。

同盟通信

同盟通信

劇団青年座

新宿シアタートップス(東京都)

2023/10/13 (金) ~ 2023/10/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

久々の古川健戯曲の舞台鑑賞。やはり歴史物(とりわけ戦争責任にまつわる)をやらせると右に出る者無しではないか。戦時中実在した通信社のの「戦争」と共に歩んだ軌跡を、ジャーナリズム精神の視点から批評的に描いた力作。
登場人物中、海外からの情報を参照する語学力と現状分析力に長けた加藤という人物が、彼の提供した情報にも関わらずこれを無視したとしか思えない戦争続行の決断または停戦交渉を怠った不作為への批判を可能にする。「知りえた情報」を前に、それをどう受け止め、これ以上の犠牲を出さないための判断ができるか・・厳しくこれを問わなかった陸海軍を悪しき先例とするなら、科学的精神の発露を尊重し、知に対する畏敬を育むことがこれに応える一つと言えそうだが、学術会議や大学改革などを見る限り現状はそれに逆行する。
損得利害を離れた領域が、今や聖域と化しつつあるようで・・知に謙虚に問うてみる科学的態度の大きな後退が
見られた例が、東電による「処理水」海洋放水を巡る反応であった。
大手メディアさえ政府・東電の説明に疑問も挟まず看過した。日本は十分に戦前化しており、その事にあまりに無自覚である。

写真

写真

劇団普通

カフェムリウイ「屋上劇場」(東京都)

2023/10/19 (木) ~ 2023/10/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

カフェムリウイは二度目。表からは建物の判別にまた手間取ってしまったが大方の距離感を頼りに辿り着いた。大風の吹く中、三人の会話劇が始まる。畑のある田舎、のどかな風景が窓外に広がってるだろう部屋のテーブルに弟を挟むように姉夫婦の姉が弟の向かい、夫が隣に居る。
劇団の常連かつ茨城弁芝居に不可欠?の用松亮は毎度の親父キャラと思いきや今回は少し違い、登場時点からいつにない目付きを見せ、小柄だが強い姉(後藤飛鳥)に逆らえない弟役。その姉の「でっぱり」分を「ひっこめ」る塩梅が夫婦の秘訣、といったような姉の夫(近藤強)。
短めの芝居という事で以前映像で観た感じの「切り取った」写真のような劇だろうかと想像していたが、その通りの作品だった(思わず「写真」と書いたがたまたま。「写真」は芝居でちょっとだけ出てくるアイテム)。
キャラといい会話の間のリアルさといい、噛んで味がするこの幸せな時間は何だろう。この路線、掘って行ってほしいとは個人的願望。

失われた歴史を探して

失われた歴史を探して

新宿梁山泊

ザ・スズナリ(東京都)

2023/10/12 (木) ~ 2023/10/15 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

同作者による「旅立つ家族」(文化座)を今年はじめに観たばかり。植民地時代と戦後、韓国と日本と二つの時と国をまたぐ話を、今回と同じ金守珍が冴えわたる演出で壮大なドラマに仕上げていた。苦悶の内に他界した朝鮮人画家イ・スンヨプの魂の彷徨であったが、今回のは同じく日韓現代史の断面を切り取った劇でも題材はあの関東大震災時の朝鮮人虐殺だ。これを劇化した日本人作家は不勉強ゆえ知らないが、題材が題材だけに、実際存在しないかもしれない。
作者は、渡日朝鮮人の従業員たちと、彼らに理解ある社長、及びその家族というコミュニティを真ん中に据え、大震災というエポックが彼らに何をもたらしたか、という視点で歴史を叙述した。芝居は劇中劇の形を取り、冒頭とラストには現代シーンがある。件の社長の手記が百年後の現代、古本屋に並んでいたのを「高かったが背に腹は」と入手したライター志望?の女性(水嶋カンナ)が、友人(杉本茜)と聖地巡礼=社長の実家を探しに田舎町を訪れているのだが、このシーンで映画「福田村事件」のパンフを持って熱っぽく語ったりする。重いテーマの芝居への軽やかな導入を趙氏又は金氏が追加したのか、原作にもあったのかは不明。
本編の劇では、社長(ジャン・裕一)の息子(二條正士)と、朝鮮人職長(趙博)の娘(望月麻里)との男女関係、それを見守る娘の弟がいる。社長の家族は二人の関係を正統なものとして受け入れようとしている。他には朝鮮で叶えたい夢のため切り詰めてお金を貯めている従業員(ムンス)、博打に目がない従業員(青山郁彦)、彼を追ってやって来るヤクザ者(藤田佳昭ら)、通報があったと刑事(大久保鷹)も登場する。彼は震災での混乱の中で良い働きをする。だが夢追い人は無惨に殺され、朝鮮人を留置所に匿ったと非難された刑事は彼らを追い払うも、火をつけられる。息子の許婚は実は子を宿していたが、一度逃げ出すも絶望に襲われなぜか炎の中へ飛び込んで行く。
工場に匿われていたのでは迷惑がかかると飛び出て行った朝鮮人従業員の内、職長と博打好きは最後には生きて戻り、娘の死を知らされる。危機が迫る中、相手の息子との結婚を社長夫妻に申し出られても一旦持ち帰ると答えてしまった己の不覚を悔いて泣く。
この歴史事実で看過してならないのは「流言」が意図的に、公権力から発された事だが、金守珍演じる何とか大臣と管轄下の警察のトップの太々しいやり取りが書きこまれている。

全体には梁山泊らしい演出であったが、唐十郎のような詩であり幻想である「フィクションでしかない」作品世界には悲壮な色を帯びた(大貫誉の音楽に象徴される)演出は適しているが、史実を扱い、史実である事が重要である作品においては果たしてどうか・・というのは残った。

ネタバレBOX

出来事の連続としての物語の中で、人物に(ストーリーに直接関わらない)批評性を帯びる言葉を語らせる事がある。この作品の場合、植民地化、侵略の歴史に触れる部分。もっとも虐殺は日本の拡張主義と連動している。
社長の息子は兵役帰り。派遣先は三一運動の燃え盛る朝鮮。父親も同じく朝鮮の地へ日露戦争で赴いた。この過去が、父をして朝鮮出身の従業員への分け隔てない待遇をさせしめ、また息子をして婚約者に対する処理できない屈折した感情に埋没せしめている。
朝鮮からの帰還以来何かが変わった様子の息子を父は持て余し気味であったが、ある時(母(佐藤水香)のうまい計らいもあり)二人は酒を酌み交わし、息子は記憶から消せない出来事を語る。
映画「福田村事件」は朝鮮帰りの夫婦を登場させ、夫婦生活の危機の遠因となった出来事を夫が妻に語る相似形なシーンがあるが、震災後事件が起ころうとしたその時、妻は「あなたは今度もまた、何もしないの?」と夫を責める。彼は朝鮮でのその事件(堤岩里事件)で「何もしなかった」その前に余計な事をした。教会に閉じ込め火を放とうとした日本の官憲に、ある女性が抗議したので彼はその言葉を日本人憲兵に通訳した。自分が必死に覚えた朝鮮語を役立てようとその時初めて通訳を買って出たのだが、その事のために憲兵は女性を睨みつけ、その場で首を切った。
芝居に戻れば、親子が語るのは彼の地で犯した殺しの数である。父から思い切って息子に切り込んだ。話せない事を話す呼び水とするべく、「お前、何人殺した?」と訊くのだ。・・最初は抵抗があった。だが段々と慣れてきて、いかに多く殺すか、いかに残虐に殺すかを競うようなる・・。己自身が見せた姿におののき、平穏な日常生活の「裏」を覗こうとする。許婚から子どもができた事を知らされた息子(二條)は驚き混乱する。
「ゆきゆきて神軍」は今となるととてつもなく貴重な映像満載であるが、ここには人間のグロさを戦地にとどまらず現在にも引っ提げて異臭が放たれる様が映されている。
人間が負の側面を見なければならないのは何故か。果たして見なければならないものなのか?という問いにどう答えられるのか。
無関係のジョバンニ

無関係のジョバンニ

妖精大図鑑

吉祥寺シアター(東京都)

2023/10/13 (金) ~ 2023/10/15 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

同じ吉祥寺シアターで複数のダンスユニットによる短編企画で観たのが初(このユニットが目当てで観に行った)。次が桜木町で今回やっと三度目とまだ少ないが注目しているグループだ。多摩美時代から活動し、脚本の飯塚うなぎと振付の永野百合子が台詞シーンとダンスとその中間と、勇剛しづらい両者が渾然一体となった一つの世界観を作り上げ、どくじである。両名とも舞台に立つ。
10周年記念という本作、初見の時と同じく吉祥寺シアターの劇場機構を活用して水を得た魚のようであった。
実は昼間にも関わらず電車でまさかの寝過ごし(さっき「恵比寿〜」とアナウンスが耳に入ったから今着いてる駅は恵比寿かせいぜい渋谷だと発車を待っていたら、ドアが閉まって「次は池袋〜」新宿であった)。
15分遅れで入場する際、案内の方に「恐らく抽象的な舞台だろうから途中から見ると解らないのでは?」と冒頭からのシーンについて聞くと、(逆に)「一つ一つのネタがバラバラですからどこから観てもきっと楽しんで頂けます」と笑顔。
「そんなものかな?」と思いつつ観始めると成程、クスッと笑かす場面が数珠つなぎに続き、時折舞踊が入る。踊りもセンスを感じさせつつコミカルな、世を超越した目で描かれる芝居もどきに呼応した動きが繰り出される。直裁なメッセージがダンスに込められ、芝居に属する表現はひたすら婉曲に何かを言わないために作られてるかのよう。笑える場面や言葉で間を埋めながら、どこかに向かってる感は描写されている。
何しろ20分近く見逃したので何とも言えないが、ここでない別の世界(ステージ奥のシャッターを境界に広がるパラレルワールド)を探検気分で探してる雰囲気だが、別の世界を「切望する」文脈に読めるワードが一瞬チラッと織り込まれていたような、いなかったような。
狐につままれた気分で劇場を後にしたが、注目の度合いは変わらず。ユニットもこの路線を益々確信をもって邁進する模様である。

同郷同年2023

同郷同年2023

MyrtleArts

ザムザ阿佐谷(東京都)

2023/10/04 (水) ~ 2023/10/09 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

以前何処かで戯曲を読んだ気がしていて「三人の同郷人が時を少しずつズラして会話して行くお芝居」程度の記憶で、しかも原発が題材という認識も無かった。
ので、観劇の日は「まあ勘違いだったか」と先入観無しに観たが、見終えた後になって記憶と付合して来るものがあった。

当日は20分程遅れて入場、一場目の終わり暗転中に時間経過を知らせる字幕が映され、二人が鬱々とした話をしている所へスーツ姿が颯爽と登場したなりクスリ笑いが出ていたので、ああ一場とは随分風情が変わったのだな、とこの芝居の趣向が判ったのは助かった。(実際にどう変化したのかは後で台本で知った。)
二場目から観ても十分見応えある原発(正確には核廃棄物の最終処分場)誘致を巡っての悲喜交々。関西人らしく?やんわり笑いに落としながら痛烈な皮肉が撃ち込まれる。その快感は、三人の半生が辿った笑えない軌跡と悲哀とない混ぜに、酒のように沁みて来る。

リーディング劇『ファミリアー』

リーディング劇『ファミリアー』

wag.

新宿眼科画廊(東京都)

2023/10/13 (金) ~ 2023/10/15 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

以前惜しくも見逃した、という記憶があり(確か世田谷パブリック)、久々のリーディング、久々の新宿眼科画廊空間を堪能した。
瀬戸山女史はテーマから戯曲を書ける人である(と思っている)。世田パブでもそのテーマありきの企画という風だったが内容は知らずこの日も白紙で劇場に入った。ナレーションから始まる。リーディング作品の入りやすさ、そして「ワン!」と犬の声。話が進につれ、犬猫の殺処分がテーマだと判る。判った時には物語に入り込んでいるというよく出来た短編戯曲で、三人の男優(この日のゲスト枠は古山憲太郎)の演技も申し分なしである。
公演情報の澤口渉氏の名に思わず目が行ったのだったが、実はこのユニット自体澤口氏によるもので、以前のユニットの片割れである音野氏の名もゲスト出演者に見つけたと思ったら、折込にもロデオ☆ザ☆ヘヴン次回公演のチラシが入っていた。(何何。完全復帰じゃあないの俳優止めるって言ってたがやっぱそう簡単に足抜けできないのが芝居、との前例が又一つ増えた?)

さて芝居だが、俳優の配置がいい。柔らかい低音を響かせる高野絹也氏が基本ナレーションと補助的な役に、日々殺処分の業務に勤しむセンター職員及び「先にセンターに入った先輩犬」役を古山氏が、新人職員と新人犬モナカを澤口がやる。
無垢そのものの犬が、飼い主の登場を信じ切っている初日から、殺処分のある5日目までに憔悴して行く変化(モナカと先輩の会話がいい)、動物を救いたくて獣医師資格を取った最初の赴任先であるこのセンターで、新人職員が現実を知るに愕然とする様子、初めて応対した犬の持ち込み者に思わず一言、いや二言が五言十言まで投げつける場面等は秀逸である。理想を持つ若い新人澤口は、ベテラン古山が見ている前で見事に(恐らく古山が何度も見て来た新人のようにか、あるいは自分がそうであったようにか)折れて行く。
ただこの新人は普通ならダメ元で言わない要望を口にする。「あの4日目の犬、洗ってあげませんか」モナカより一日早く入った先輩(年齢も上なので分かりやすい)はパパとママと海に来て迷子になったので、体毛が海水でゴワゴワだった。センターでは犬は一日目、二日目と、処分装置のある側へと檻を移されて行く。だからモナカと先輩は最後まで隣同士で会話をする。はじめ迎えに来る事を待っていた先輩が次第に元気を無くして行く(のをモナカが見てとる)事をナレーションが告げる。その伏線があった翌日、朝早く出勤した新人は四日目の犬を洗ってあげていた。「洗ったのか」と先輩に訊かれ「はい」と答えたが先輩はそれ以上何も聞かなかった。 
モナカは昨日と打って変わりはしゃぐ先輩の姿を見る。「やっぱ迎えに来るんだ」モナカの祝福に見送られ、檻から廊下に出、奥のガス死用の箱に入れられた先輩犬の吠え声、壁に爪を立てる音、やがて訪れる静けさ。
新人職員はその犬を譲渡会(飼い犬を探す人と犬とのお見合い会的な会)に出す事を口にするもセンター内のルーティンを変えるに至らず手をこまねいている内にその時を迎えてしまった。そもそも譲渡会に出せる犬は生後三ヶ月までとされ、別室に入れられるが、三歳のモナカも三つ上の先輩も処分コースに乗せられた。「やってみないと分からない」と彼は主張するが、先輩職員は答える。犬を飼うにも費用が掛かる、連れてこられた犬を全て断らず死ぬまで面倒を見るなんて事は出来ない、だから線引きをするしかない、と。焼肉屋で肉をつつきながら話は食用肉のための屠殺にも及ぶ。新人は目的がある死は違う、肉を感謝して頂けば良い、と反論するも、先輩は同じ事だと言う。人間の生きやすさのために彼らは殺されるのだ、と。

酷薄な現実の中で、小さく灯る光のような瞬間も書き込まれる。
澤口が犬の側に立った思いの丈を犬持ち込みの女性にぶつけた時、自分の身勝手は分かってる、三十人に相談したがダメだったと切々と語った女性が最後に、あと三十人に当たってみます、と帰って行く。半ば己の不甲斐なさを八ツ当たりのように叩きつけた言葉が、離婚による転居から万策尽きて訪れたその女性の胸に少なからず届いた。
その様子をベテラン職員は、一度彼の名を呼んで諫めた他は黙って見ていた。台詞を滔々と喋るのを途中で切れない脚本の事情とは言え、黙る先輩の風情に、含蓄がある。我らが古山憲太郎は、新人の言葉に少なからず揺さぶられた、その微妙な心の変化を見せる。封じていた自分の思いを目の前の新人が代弁している、、。彼は最後の日を迎えるモナカの檻掃除の時、ホースの水撒きの水が跳ねて吠えるモナカを抱え、別室に運び、それから掃除を終えた。

ラストは思いもしなかった結末が訪れる。センターのリアルな現実にどっぷり浸かり、この現実と、自分の方が折り合いを付けるほかない、と観客も思わされていたから、外からの予期しない申し出に本当に驚かされるのである。
モナカはたまたまもらわれて行ったに過ぎない、それが現実だが、三歳を超えた犬を求めている人もいる、たったそれだけの認識の変化が、如何に大きな変化であるか。
私たちが生きる現実も出口のない檻のようだが、良き変化が全く無いとは言えない。予期しなかった風景を求めるからこそ芝居を観るのであるが。。

ヒトラーを画家にする話

ヒトラーを画家にする話

タカハ劇団

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2023/09/28 (木) ~ 2023/10/01 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

タカハ劇団初観劇。
題材は重そうだが、願望の滲んだ捻ったタイトルから結語が既に見えている。これに作家がどんな中身を与えたのかを楽しみに芸劇に赴いた。(もっともタカハ劇団を観るぞ、とは前作あたりから決めていた。)

記憶では異儀田女史が年長組に属してる座組は初めて。期待に違わずぶっ飛んだ役柄で、芸術大学の研究者として、アートの新境地を開くべく探求の結果、タイムマシンを創作してしまう。その実験で三人の学生が過去に飛び、画学生だった若き日のヒトラーに早速出会う。
タイムリープ物の要はその「設定」にあるが、今作では時間旅行者が過去において歴史を大きく変えるまでの影響を与えてしまった場合、「空間」がズレてしまい、元の世界には戻れなくなる、としており、その影響が出ない内は同じ「空間」に居るためスマホも通じる。もっとも充電器が無いから大事に使う必要がある。現代とのやり取りで、タイムマシンが修復される25日後が「帰還日」と設定され、三人には猶予が生じる。先の「歴史への影響」については後半で明らかにされ、彼らが試みようとしていた「ヒトラーを画家にする」計画に障害が持ち上がる。そこまで歴史を変えてしまった場合、空間がズレ、現代に戻れない。その空間のズレはスマホの電波の本数がバロメータになる寸法だ。
過去に送られた学生3人とは、まず主役に当たる一人は父が画廊を運営する著名な美術評論家で、画家に対する厳しい目を持ち、息子に対しても「画家になる」甘い夢を諦め、後継者にしたいと希望している。そこに葛藤がある。もう一人は美術の教員として就職先が決まっており、もう一人は一般企業のデザイン部門といった具合。美大に進んでもその中でアーティストになれるのはほんの僅か、という現実の中、彼らは主人公にその夢を託している所もある。
皆に等しく課せられているのが卒製。そのテーマが未だに決まっていなかったのが主役の彼だったが、タイムトラベル先で「ヒトラーを画家にする事による何たらカンたら」といったテーマを思いつき、これに拘泥する。またスマホで知ったおぞましい史実から、使命感にも駆られる。
後半、「空間のズレ」の事を知らされた彼らは、ヒトラー画家計画を一旦諦めるが、スマホの電波の棒を見ながら彼らは「戻れなくなるほどの変化は起こさないが、何らかの変化(幾らかマシな歴史にする)を及ぼす微妙なライン、即ち電波の棒1本状態で現代に戻るためにやれる事をやろうとする。ここが後半ドラマの走る部分。
20世紀初頭のヒトラーの下宿先の母と娘、その叔父、同居人、美大の教授といった登場人物とのあれこれは実にトラベルで楽しいが、その時間の殆どが、風景画には強いが人物画が苦手な彼を何とか芸術院への試験に合格させるための画策となる。同じ下宿で画才のあるユダヤ人を試験に受からせない(諦めさせる)事でそれを遂げようとしたり、姑息な手段に走って頓挫するが、絵の上達の唯一の方法は「描いて描いて描くのみ」。最後に試みた方法はヒトラーの故郷の片思いの女性から肖像画を依頼された事にして、彼に人物画の苦手意識を克服して「絵が上手くなってもらう」事。そして迎えた彼女の訪問の日、背景としての歴史の喧騒が彼らを取り巻き、反ユダヤ主義の風が既に吹き荒れる。学生三人が唯一、彼らの秘密と「ホロコーストの歴史」を漏らした下宿の娘が、ユダヤ人画学生への思慕からヒトラー殺害を計画(故郷の思い人からの返事の手紙は彼女が偽造し、本当の手紙には「既に描いて頂く人が決まっている、意に沿えない」と書かれていた)、故郷からその女性が出て来るとされた日にナイフをしのばせて出かけるくだりもあったりと、盛沢山である。
水晶の夜だろうと思われる日は、ヒトラーが既に結党して政界に進出して以降の事であるのに芝居ではまだ絵を描いていたり、やや無理筋な部分もあったが、基調が荒唐無稽であるのでさほど気にならない。

全体に面白く観られた芝居ではあったが、テーマは荷が勝ち過ぎの感があった。最終的には異儀田研究員に諫められるように、歴史を変える事の傲慢さ、に行き着くが、これまでの全てが徒労である、だけでない何かが残る、というのがトラベル物である所、彼らがさほど貴重な体験をしたとは思えない後味が残ってしまう。ナチスを生み、ホロコーストを現実に起こさせたものは何か、について私達は知る事ができていない。今なお問われ続けている出来事であり、という事は私たちはこのあり方と隣り合わせである可能性があるという事だ。ゲルマン民族の優位性というフィクション(捏造)は、遠い過去のあだ花ではなく、これに類似したフィクションは日本のネット空間でも「日本の自画像」として杜撰な輪郭であれ描かれている。この距離感が、この芝居では取れていないというのが恐らく、私の中の不足感だった。
ヒトラー役が登場し、まだ独裁者・抑圧者として君臨する前の素朴な人間像を見る楽しさはあったが、これは「あのヒトラーが」という元ネタあっての効果。その効果を用いるならそれに見合う「もっと鋭い斬り込み」は必要だったのではないか。

ローズのジレンマ

ローズのジレンマ

劇団民藝

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2023/09/22 (金) ~ 2023/10/01 (日)公演終了

実演鑑賞

結構な時間を中盤眠ってしまった。とっかかりを何とか見ようとしたが・・原作も梗概も(ニールサイモン作品だった事も)念頭になく劇場に駆け込んで「真っさら」で見たせいか、舞台上の事態が入って来ない。篠田三郎演じるのが死者であったとは寝落ちの後、後半で漸く悟った次第。照明が変るでもなく普通に登場し、大仰な臭い演技をやって去って行く(この大仰さが「この世のものでない」演技だったのだな、と後から回顧したような事で)。サザンシアターの、プロセミアムアーチの中でお姫様が王子様を慕って、的なお芝居を見た、という記憶の残滓なのだが、もう少し記憶をかき分けてみると、「イイ話」だったんだろう、と想像はされた。

ニール・サイモン作品は恐らく初観劇。著名な戯曲は読んで「面白い!」と今度の「ビロクシー・ブルース」を楽しみにしている(でも高いな~諦めるかも)。
公演に戻れば、後半の観劇で幾分回収したのは、四人の出演者の内古手の二人が、次の世代のために尽くす、という所で琴線を震わすコメディの構図。既に名のある女性作家ローズ(樫山文枝)が長年信頼してきたパートナー、ウォルシュ(篠田・・作家業の上でのそれなのか男女の関係なのか、また彼がローズの見る幻影なのか幽霊かは不明)の死後、物が書けなくなったという問題が、今家計をも逼迫させていて、秘書の(ローズの娘でもあるが親子の関係は封印している模様)アイリーン(桜井明美)が冒頭から頭を悩ませている。
恐らく中盤、幽霊からある若手作家の力を借りてはどうかと提案され、新たな人物の登場と相成る。アイリーンと若手作家ギャビン(神敏将)との関係に焦点がシフトする。色々あって二人は結ばれ、何はともあれ目出度いラストとなる。邸を空けて二人が門出するラスト、古手の二人が見送るが、若い二人は見向きもしない。ローズも既にあちらの人となっていた。想像力を駆使して穴を埋め、どうにか拍手が出来た。
周囲を見ると、勿論高齢層が主だが、満足気であった。

演出の名も後で確認したが、どうも足りなさを覚えてしまうのが毎度正直な感想。

柔らかく搖れる

柔らかく搖れる

ぱぷりか

こまばアゴラ劇場(東京都)

2023/09/20 (水) ~ 2023/10/04 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

なるほど。青年団から生まれた現代口語演劇、という補助線を引いて観ると(実際そのアンテナをビンビンに立てて観てしまってたが)、家族(及び親族)の群像が平田オリザ舞台ほど淡白でなくリアリズムに寄って描かれ、しかし全体的には抑制が効いていて(「現在」の場面で特にそれが効いている)、人物への感情移入は強くは起きない。
もっとも俯瞰を促す過剰な配慮(平田舞台のような?)はなく、従って淡白さの中では必須な(砂漠で水を求むる如く)笑いを欲する事なく、十分に感情の通う湿度の中で呼吸ができた。
回想場面への唐突な移行、にも関わらずガッツリ長いエピソード叙述により、現在の空白(淡白に表出せる荒んだ生活風景の背景)が埋められるあたりに作家の個性を見た気がしており、他の作品も観たく思った次第。
母が体現する地方の家族の息苦しさも、否応無く浸潤する現代の重苦しさの前ではほろ苦さとなり、群像が人生のほろ苦さへと集約される。

おかえり

おかえり

さんらん

市田邸(東京都)

2023/10/06 (金) ~ 2023/10/09 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

かわいらしい小品。
休憩を挟んで観る大作を物するかと思えば、こういう小さな作品も一つならず書く(中編も書く)。作者の創作の泉のありかを覗いてみたい、そんな風に思う事は他の劇作家にはあまりない(大概の劇作家は傾向、作風が固まっているものだし)。
勿論尾崎氏の作風というのもなくはない(今作にてそれを認識)が、振り幅は中々である。

ネタバレBOX

幽霊が出てくる芝居は前作もそうであった。以前ある戯曲賞の選考の講評にて審査員が「半数以上が幽霊物だっだ」と辟易していたが(映画「ゴースト」なる名品は幽霊物のモデルと言える)、幽霊やエスパーや超常に通じた存在はドラマを面白くする。その審査員はこのアイテムに頼った駄作が多かったから酸っぱい事を言ったのだろう。尾崎氏のは幽霊である事の必然性を納得させ、面白く見せる。
今作は50分という古民家で観るに程よい長さ。夫婦のやり取りを間近に見る芝居だが、片方は死者である。部屋のあちこちに茄子と胡瓜の精霊馬が置かれ、お盆だと分かる。男が焦って家中を動き回っている。と、女性が庭に現れ、スタスタという感じで入って来る。「いつもより遅い!」が男の開口一番である。最初の年は早朝だった、年々登場が遅くなってる・・でも自分で選べないから、と妻。
幽霊だが「実体」があるという設定である。一年に四日間だけの夫婦の営み。これを男が如何に待ち詫びていた事か。
ところがそこへ他者(妻の弟)が訪ねて来て、夫婦水入らずの時間を邪魔する(弟には姉は見えない)。弟が持ち込んできた話=立ち退きの件に、妻も「なになに」と関心を持つ。一人やきもきする夫。
徐々に家を取り巻く状況が見えてくる。この場所がさいたま市の誕生する前の与野市であり、再開発の話の中で立ち退きの対象となっており、彼一人が拒んでいる事など・・。

さて、終わりの日がやって来る事は既に知れた所で、そこにどのような意味が込められるか。言わずもがななメッセージに一石投じる捻りはあるか。
物語自体には、夫が望んでいる「繰り返される」時間を生きるあり方に、「変化」を促す必然性を私は感じないのだが、戯曲は「変化」を必然として書かれていると見えた。
現実の「時と場所」を作者が設定した意図も、そこにあったのだろう。
私が持つその前提(時間の捉え方、前進していく時間=近代の時間は絶対ではない)から見ると、テキストの中の台詞に説明足らずを覚える(芝居は自然に流れて行くのですっきり見終えるが、解消し切れてないものが残り、その理由を突き止めるとそのあたりであった)。
芝居は観客の想像による補完によって成立する所が大であるが(難易度は様々だが)、とくに短編はその領域が広い。今作で、「タケちゃんたちとも仲良くして」と一度ならず妻が言うその背景を、想像に委ね、詳細は省略されている。「今の状態が不自然だ」、と妻が夫にやんわりと知らせているのである。ところが私ときたら「いいじゃんこのままで」と思っていて、一人立ち退き拒否を続けるという男の選択を否定される必然性がない。だから「もう少し喋って頂戴」・・と内心欲していたのであった。

いずれにせいても、何か驚かせてくれそうな質感があり、あるいはこれが「さんらん」らしさ、かも? 次作は本格作品のようで愉しみ。
日本対俺

日本対俺

株式会社コムレイド

ザ・スズナリ(東京都)

2023/09/25 (月) ~ 2023/10/01 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

楽しかった。面白かった。赤堀ワールドだった。
The Shampoohatを初めて観たのが「砂町の王」だったせいか、汗に光る上半身を晒してけだるそうに工場の喫煙所で口数少なに煙草を吸う児玉貴志、日々大介、野本光隆らのその場所を指すのだろう砂町(といっても実在の地名と知ったのも後の事)が、いつしか記憶の中で劇場のロケーションになり、下町界隈で観た、という記憶に変質していた。
劇団の常小屋がスズナリ。符合しないまま帰宅し、今更に「そうだったな」と気づいている案配。
終盤、私が観た回のゲスト黒田大輔が登場するが、その「砂町の王」で慎ましく座卓を挟んだ夫婦役で登場した記憶を最後に、その後劇団公演を3本観たが出演せず、「同じ劇団員同士」だったと気づいたのは、ゲスト演目の最後の方だった。

赤堀氏の演劇観、作品世界は一貫しており、今回の一人芝居も例に漏れずで、渋みを醸す。笑いで閉じる生芝居5本とその合間、及び冒頭に映像(続き物=水澤紳吾氏ともう一人の三名出演)が挟まる。二つの取り合わせが絶妙。パンフを見れば赤堀氏本人は「罰ゲーム以外の何物でもない」と書いてあり、確かにその通りであったが、観る方は楽しみ、最近なかった笑いが劇場に噴いていた。
黒田氏と並んだ終演の短い挨拶では、劇団The Shampoohatに触れ、「長い間応援有難うございました」「これをもって解散という事で。」と言ってまた笑いを取っていたが(正式に解散宣言はしていなかった)、何故かほろ苦さが。
(帰宅して久々に劇団HPを探すも、とうに消えており、最後の公演は2014年であった。)

夜への長い旅路

夜への長い旅路

CEDAR

すみだパークシアター倉(東京都)

2023/09/16 (土) ~ 2023/09/24 (日)公演終了

実演鑑賞

古典作品を鋭く豪奢に舞台化、という勝手なイメージが、初見の「悪霊」では狭い劇場(同じ風姿花伝だったか)に詰め込んだような泥臭い作りながら作品が秘めたメッセージを誠実に伝えていた印象(自分には思い入れのある作品でもあり)。些か気になったのがキャスティングにスターシステムの影が。
その懸念が当たったかに思える今回の「夜への・・」。少々残念な結果であった。以前観た熊林宏高演出の優れた舞台が念頭にあったためだろうか。
幾らか差引しつつ、こういう作りもあり?等と角度を変えて観ようとはしたが眠気もあり「脳」がうまく稼働せず。
最後まで違和感を拭えずに終えた理由は、自分の中では一つ、やはり配役の問題だった。果して、作品優位で決めた配役なのだろうか・・?という疑念はこのユニットの製作態度に対する根本的な部分に向いている。

ネタバレBOX

改めてこのドラマの軸と気づかされた、母役を担った女優は元宝塚のベテランで退団後もコンスタントに活動をして来られたようなのだが、主としてミュージカル、朗読。最初母が語り出した時、若い女優が老け造りをして演じているのか、と思った。この役を演じるには経験も少なく若い女優を当てちゃって何かバーターで決まったものに違いない、とその時思ってしまった。
蓋を開ければ[若い女優」では無かったが、神経病みが気まぐれに襲い(その遠因は確か父にあったか)、家族を翻弄し続ける役どころを担うには、凡そこの女優には引出しが無かったか、あるいは演出の誘導ミスか。いたいけな女性という一つの像だけを観客に提供する(その事でしか観劇が報われない)のでは、舞台は物語紹介だけの機能の終わってしまう。多面性を孕む人間存在への想像の旅を、提供する舞台でありたいのが私の願望。
そのためには人間心理の内奥に触れる洞察力が、この役には必要であるが、確かにミュージカルに登場するキャラを演じるには適合しそうな演技のタイプであった。
息子役たちも決して役を深掘りできていたとは思われない。母と息子が言葉をやり取りしても一体そこで何が起きているのか、その言葉の裏の心情、感情はどういったものか、見えてこない。(特に眠気のある体調ではテキメンなのである。)
唯一魅せる場面は父役・長谷川初範が積年の思いを胸に、だろうか、珍しく長々と語る場面。「何が起こっているか」が霧が晴れるように現われ、初めて舞台上の事象に目の焦点が合った。
どうも酷評になってしまったが、昨年は「わが友ヒットラー」が優秀な舞台として注目されたよう。今後も探求を続けて欲しい。
三人姉妹

三人姉妹

アイオーン

自由劇場(東京都)

2023/09/23 (土) ~ 2023/09/30 (土)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

映像にて拝見。
演劇の世界では三人姉妹は著名な作品、古典に属するが、清水邦夫の「楽屋」の幽霊たちが演じるラストを何度となく観ていると知った気になっており、また東京デスロックの「亡国の三人姉妹」なんかを観た事から(これは無言のシーンの続くハイアートな舞台でどこをどう翻案したのか理解してない時点で「原作を知らない」事が明白だった事が今は分かる)、「観たと思うんだがなぁ」という感覚でいた。
実際にはその多田淳之介が演出してKAATで上演された韓国作家による翻案「外地の三人姉妹」が、ほぼ原作の輪郭を留めたものでこれを観ている。その前に桜美林学生の鐘下演出版を観ており、大胆な構成な構成ながら物語の輪郭は見せていた。その後はアゴラ劇場で三人だけで演じる三人姉妹を観(梗概を掴むに有効)、その後アトリエセンターフォワードによるシアターXでの上演(ストレートプレイとして正面から取り組んだ優れ物)を観た。
ということで振り返ってみるとそれなりに観ていた演目だが、どの舞台も同じ戯曲から立ち上げたとは思えない独自の空気感を持っている。
そして今回のunrato版。そこそこ大きな劇場で蜷川幸雄の薫陶を受けた演出家らしい王道な、古典作品の大々的な上演という出立ち。最も古典的な古典上演を観たという気がした。
詳細いつか。

ホテル・イミグレーション

ホテル・イミグレーション

名取事務所

新宿シアタートップス(東京都)

2023/09/15 (金) ~ 2023/09/24 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

名取事務所としては珍しい系列として昨年、「カタブイ1972」(内藤裕子作)を観たが、この「書き下ろし」上演の路線を今年も、詩森ろば作品で試みた。
文句無しに満点を付ける。「期待しなかった分、予想を上回った」、といったような事ではない、と思う。
移民問題、入管問題。作者が当日パンフで、題材は主催者側から提示され、そこから事実を知って行った、全てが初めて耳にした事だった、と述べている。自分の足下で、こんなに近くで、、その衝撃と思いは理解できる。知らなかった事の負い目がよぎる。そこから出発し、作品がそれに見合うものになる事をひたすら目指し、問題の単純化には流れず、あらゆる問題群を一つのドラマと人物に落とし込み、特別な事としてでなく私たちの生と地続きにあるものと見えて来るよう、真摯に取り組んだ痕跡だけが見えた。(降って来た作品?と見える事がままあるが、今作もそう見えつつ、作家の不断の探求の上にしか訪れない部類である。)
感動のポイントは幾つもあるが、詳述は控える。
名取事務所公演はキャスティングにも一目置くところがある。ユニークな取り合わせでもあり、堅実でもあり。この俳優だからこそ、と見える場面に出会える事も、演劇の贅沢な瞬間であり、深い人間理解にもいざなう。

アナトミー・オブ・ア・スーサイド【9月11日~20日公演中止】

アナトミー・オブ・ア・スーサイド【9月11日~20日公演中止】

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2023/09/11 (月) ~ 2023/09/29 (金)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

ほぼ全編、三つの場面が舞台上に展開し時に台詞も被りまくる(三つ全部が被るのは避けられ観客の注意力の限界をそれなりに考慮している)。三世代に跨がる女性の話でその関係者を周囲が演じる。その事が分かるのは芝居の中盤であったが(それがためにジグソーパズルを埋めるような面白さもあった)、自分は冒頭の一場面を逃しており最初に全体図の提示があった可能性はある(この日は都心北部の電車が停まった影響で上下線とも遅れがあり、駅から猛ダッシュするもアトリエに入る路地を見失い2分遅れ。あとから客が次々と到着していた)。
だが観初めてすぐ舞台を目で追わされ、入り込んだ。自分が産んだ子を普通には愛せず砂を噛むような人生の砂漠を手探りで彷徨う母、十代からヤクにハマって地獄をくぐったその娘、さらにその娘は同性パートナーとの関係を持ちながらも自分の奥に燻る何かを持て余している。時間経過の多くの箇所は抜けており想像で補うしかないがかの想像の余地が演劇的である。彼女達が住むのは同じ庭付きの家屋であるのがミソで、そこに人の生の連鎖、反復、過去から未来を臨む視線が宿る。無色だった時間の中に希望の色が微かに灯るのを俯瞰の風景として見るラストが胸に迫る。1970年代に母となる一世代目に栗田桃子、2000年代の三世代目に熱を上げ心の扉を叩き続ける女性に渋谷はるか、が名を知る役者であったが、期待通りの演技ながら全体を構成する一つとしてはまっていた(独特な作りの劇に貢献していた)という印象の方が大きい。

アメリカの時計

アメリカの時計

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2023/09/15 (金) ~ 2023/10/01 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

この作品は1929年に起きた金融崩壊、即ち世界大恐慌を題材にし、その期間の人々の人生、生活を描き出したものだ。浅学な自分に芝居が突きつけて来たものは、混乱の時代の時間的な長さだった。大恐慌というとリーマンショックのような一時的な混乱と、一部の人間が破産に追い込まれた、といった程度の認識だったが、右肩上がりの経済のなか進歩を疑わなかった多くの中流そして農民たちが家や田畑を奪われ、都会に流れ、炊き出しに並び、取り立て屋のベルに怯え、精神を病んで行くといった風景が、「一時的」とは言い難い苦難の時間の中で進んで行く。

建国以来、米国人が経験した苦難は南北戦争と大恐慌この二つだ、と冒頭に語られるが、江戸の農民たちが二百数十年の間に何度と知れない飢饉に見舞われ重い年貢に耐え忍んだのに比べれば、僅かな期間である。しかし彼らは民主と独立の精神を国是とし豊かさとそれらへの信条が結びついていたため、信じていたものが奪われる経験は精神の危機でもあった訳であった。
この戯曲を今季のKAAT主催公演に選んだ長塚氏にまず敬服。この戯曲には米国の地名、大学名とローカルな単語が頻出するが、私には今の日本社会を隠喩的に描いている舞台と見えて仕方なかった。そしてその同じ状況に対する、心の叫びが様々な行動や言葉の表出となる光景は、それ自体悲劇的だが私たちの心の声の代弁でもある。わが日本を顧みると、この心の声を覆い隠し、何事もないかのように誤魔化し、やり過ごす先には何も起きそうにない。

ネタバレBOX

アフタートークでの興味深いエピソードは、稽古開始の際、各自テーマを与えられ皆の前で発表する、という事をやったそうである。戯曲のドラマの社会背景への理解が不可欠と長塚演出が判断したとの事だが、登壇した俳優の一人は、台本を自分で読んだ段階ではぶっちゃけチンプンカンプンだったが、これを機に知ろうと思った、経済のこと、歴史のこと、今の日本の状況にも繋がる米国との関係の歴史経緯には目を開かされた、との正直な発言もあった。
だがこれを優れた舞台にしているのは「状況」に翻弄され、反応し、行動する人物らの根底に流れる感情表出の的確さ。これに尽きる。
使用楽曲がエルトンジョン(作曲家を目指す青年が鍵盤を鳴らし「大ヒット曲」を作ろうとしてる..一瞬オヤ?と思った)の他、toto、シンディローパー等80年代洋楽が流れるのも風通しが良く効果的。
天井に大きなパネルがあって映像が映し出される。映像作家と思っていた上田大樹氏が美術も兼ね、こちらは時代を思わせる調度が奥(ホリゾントの際まで)に並び開幕前から目を喜ばせる(衣裳も年代に忠実であった模様)。

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