京都学生演劇祭2026
京都学生演劇祭
京都市東山青少年活動センター(京都府)
2026/09/24 (木) ~ 2026/09/26 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
Aブロック観てきた。
以下、ネタバレへ。
ネタバレBOX
京都学生演劇祭のAブロック、三本見終わってみると、かなりとんでもないプログラムだった。
最初の作品は、神様として祀られている存在が実は怪物で、村人たちは生贄を捧げながらそれを鎮めている、という伝奇的な世界から始まる。そこに、子どものようにも見える、どこかいたずらっぽい存在が現れて、物語の構造をひっくり返していく。
妖怪や神話を題材にした作品として受け取ることもできるけれど、単純な怪異譚ではなく、「人間が神や怪物をどう名付け、どう扱うのか」というところまで遡っていく感じがあった。
こういう伝奇ものは、やはり京都で見ると少し凄みが増す気がする。
神社や祭祀、妖怪や怨霊といったものが、単なる物語上の設定ではなく、街のあちこちに古い記憶として残っているからだ。
舞台の外側にまで、こういう物語を受け止める背景がある。
二本目になると、さらに不思議になる。
夕日を追うように歩き続ける人々、眠れない少女、孤独な神、怪物のような存在、母と息子、月の欠片、そして「21グラム」。
神話なのか、夢なのか、創作なのか、それとも誰かの記憶なのか、最後まで輪郭が完全には固定されない。
「21グラム」が魂の重さをめぐる有名な逸話を連想させることもあって、息子が太陽や星空のような存在でありながら、どこか大事なものを失って抜け殻になっているようにも見える。母親が何かを「創った」存在だと考えると、創造した側と創造された側の関係にも見えてくる。
個人的には、このあたりの少女幻想的な感触がかなり好きだった。
ユリイカ百貨店のような、現実と幻想の境目が少しずつ溶けていく感じがある。
長野まゆみや鳩山郁子の作品を読んでいるときのように、物語の意味そのものより、言葉や物や人物が持っているイメージの連鎖に引っ張られていく。
ただ、こういう作品だからこそ、もう一つくらい具体的な神話の足場があっても面白かったのではないかと思う。
たとえば「神様」という言葉は、とても広い。
ギリシャ神話のプロメテウスのように、固有名が一つ置かれるだけでも、創造、神と人間、与えられたもの、そしてその代償といった具体的な物語が一気に立ち上がる。
もちろん、この作品が実際にプロメテウスを意識しているという意味ではない。
ただ、「神様」や「月の欠片」や「21グラム」といった言葉を、もう一つ具体的な神話的構造につなぐものがあれば、観客が作品の中へ入っていくための足場になったかもしれない。
そうしないと、言葉を拾っていくほど、
「神」
「母」
「息子」
「月」
「21グラム」
といった巨大で美しい記号だけが残っていく。
それは長野まゆみや鳩山郁子のような少女幻想の方向にも見えるし、逆にそこから、さらに匿名的なゴドーが口を開けているようにも見える。
こういう作品は、筋を説明してしまうとむしろ面白さが抜けてしまう。観客が「これは何なのか」と考えながら、自分の中で神話やイメージをつなぎ合わせていくことそのものが作品になっているように感じた。
だからこそ、これは作品が薄いという話ではなく、むしろ好きだったからこそ、もう一つだけ具体的な神話的固有名があったら、かなり強いところまで行けたのではないかと思った。
ここまでなら、かなり実験的ではあるものの、まだ「学生演劇祭らしい、神話的で少し難解な作品」として受け止められる。
そして三本目になると、神話的世界が突然、地獄第三セクター三途の川ラインの職場になる。
三途の川を渡る亡者を運ぶ、いわば「三途の川線」。
そこには現世で犯罪を犯して服役し、地獄でも刑期を終えた人たちが働いている。つまり、かなり真面目に更生している……らしい。
その中心にいるのが三十又機関士である。
特に「僕、現世で三十又してたクズ男です!」などとは言わない。普通に有能そうな機関士として仕事をしている。
よくわからないのだが、もうすぐハロウィンになると新幹線みたいに三途の川ラインも舎人ライナーみたいに激混みになるらしい。そのうえ停電まで続いていて、現場はピリピリしている。
この人、現世では三十又。
数々の女性と関係を持った末、そのうちの一人に背後から刺され、昭和の色男として堂々たる最期を遂げ、死☠。
そして地獄で服役した後、三途の川線で機関士として働いている。
なんでやねん。
ここまでなら、かなり「罪と罰」である。
ドストエフスキーである。
ところが、その女性も現世で殺人の罪に問われ、服役し、死後は地獄で服役している。そして三途の川線で、何食わぬ顔をして彼と同じ職場にいる。
しかも彼女は、可愛い顔をしてニコニコしながら、心の奥底では彼を全く許していない。
密かに呪いを仕掛けようとする。
その呪いは「誰かに背を向けること」に関係する。自分が後ろから三十又機関士の腹を抉った、そのトラウマを死後も彼に味わわせようとする。
……それ、重すぎるよ展。30%…
ただ幸いなことに、三十又機関士はすでに別の呪いを受けているため、新しい呪いは掛けた方に跳ね返るという、妙にジョジョ的で精密なルールまである。
なんでやねん。
最初の三十又機関士の、「頭に浮かんだことに合わせて電球がぶら下がって光る」という呪いまで、後から考えると単なるギャグではなく、作品全体の呪いのルールに組み込まれている。
ここまで来ると、これは「宴会芸のような作品」に見えて、実はかなり細かくルールを設計した呪いのシステム演劇でもある。
しかも三十又機関士の周囲にいる同僚たちも、現世で詐欺をして服役し、地獄でも服役し、ようやく罪を償って三途の川線で粛々と真面目に働いているだけなのに、彼女の復讐によって、
「……こいつらまとめて呪う!(キャー)」
となる。
それ、重すぎるよ…展50%…(シャンシャン)!
罪を犯した人間が罰を受け、その後に働いている。
そこへ一人の人間の情念が侵入してきて、また全員を地獄へ引き戻そうとする。
こう考えると、たしかにドストエフスキー的な入口がある。
罪とは何か。罰とは何か。復讐とは何か。罪を犯した人間は、その後どう生きるのか。他人の罪によって自分まで巻き込まれることは、果たしてどこまで許されるのか。
……と、こちらはだんだんドストエフスキーの顔になってくる。
しかも太宰的な日本文学の女性像を思い浮かべても、今回の彼女はかなり異質に見える。
太宰的な人物なら、自分自身の弱さや破滅を言葉にしてしまいそうなところを、この女性は、
「憎い」
↓
「殺す」
↓
「服役する」
↓
「死後も地獄で服役する」
↓
「同じ職場に行く」
…え?
↓
「呪う」
????
と、情念が内面描写を通過せず、そのまま行動になる。
いわば、文学の中で悩み続ける女性ではなく、
ハカイダーみたいな実行力を持った情念の女性である。
……と、ここまで考えると、いよいよドストエフスキーっぽい。
ところが、舞台はそれを許してくれない。
三十又機関士の絆創膏を、その女性が剥がす。
「痛っ!」
機関士、50センチくらい飛び上がる。
ここで全部が崩れる。
「……重い。人間とは……」
と考え始めたところに、
鈴木雅之『違う、そうじゃない!』
が脳内から乱入してくる。
しかも困ったことに、見ている側、特に中年のおっさんの中には、見かけ上ラブコメに見えるせいで、
「……いいなぁ……」
と思う人間まで出てきそうである。
ちょうど津波警報のようにメンヘラ警報が場内に鳴り響きまくっているのに、
ビッグ・ウェンズデーを見に海岸へ行きたがるようなキラキラ✨️した目をした飴ちゃん舐めた中年たちがそこにいた…かもしれない。
断言はできないが♨️
いや、待ってくれ。
冷静に考えれば、この男は三十又をやっていたのである。
自分を刺した女性だけでなく、同僚まで自分と同じ泥舟に乗せている。決して無害な主人公ではない。
……おっさんたちの良心の声。あれば。
それなのに、
「死んでも自分を追いかけてくる女性がいる」
「しかも美人である」
「絆創膏を剥がしてくれる」
「痛がる」
という場面だけ切り取ると、突然、死後の世界が地球のGを遥かに越える超重量級ラブコメになる。
まさに、
『それ、重すぎるよ展』✨️
完全体である(シャキーン)…
イオンモールの片隅に、そこだけ重力が地球を越えている一角がある(イメージ)。
不倫カップル、曽根崎心中型のカップル、復讐型の元恋人、死後まで追いかけてくる女、三十又機関士。
土日なのに、ちびっ子はいない。
せいぜい水子の霊どまり。
みんな情念が重すぎる。
その一角だけ、物が床に落ちる速度まで違う。
そして三十又機関士は、その中心で巨大な「恋愛の重力場」を作っている。本人は死後もラブコメの主人公であり続け、その周囲にいる同僚たちは、ただただ巻き込まれていく。
人権もなく。
だから、この作品を太宰からドストエフスキーへと進んできた日本文学のように考えてみると面白い。
太宰的な人物なら、もっと自分自身の弱さや破滅を言葉にしてしまうかもしれない。
ドストエフスキーなら、罪と罰、救済、復讐、愛、自由意志といった巨大な問題にまで掘り下げていく。
ところが、この作品の女は、そんなところで立ち止まらない。
「憎い」
↓
「殺す」
↓
「服役する」
↓
「死後も地獄で服役する」
↓
「同じ職場に行く」
↓
「呪う」
そして三十又機関士は、
「痛っ!」
と50センチ飛ぶ♨️
さらに船医がラブなコメな雰囲気に今さら無駄に気づいて「気まぐれロマンティック」と呟きなぜか全部ぶち壊しなエンドになる(byいきものがかり♫)
…これは文学が邦楽に侵食される、という、意味?というかいきものがかりに…?
なんでやねん。
だから結局、
太宰からドストエフスキーへ向かおうとしたところに、鈴木雅之が現れて「違う、そうじゃない」と言う。
そこからの、いきものがかり…。
強引?
でも、もしかすると「違う」のではなく、それこそがこの作品の面白さなのだと思う。
神話、妖怪、地獄、罪、罰、復讐という大きな物語を作りながら、最後まで人間の身体と恋愛と職場のくだらなさから逃げない。
高尚なテーマを掲げているのに、絆創膏を剥がされた男が飛び上がる。
その瞬間、ドストエフスキーの重力を、鈴木雅之の一撃が吹き飛ばす。
Aブロック全体も、そんなふうに「神話」から「夢」へ、そして「死後の職場」へと降りてきて、最後には神秘的な世界そのものを、人間関係と身体のドタバタにまで引きずり下ろしてしまったように見えた。
最初の二本で「これは何か」と考えさせておいて、最後の一本で「いや、なんでやねん」とこちらを現世に引き戻す。
かなりとんでもない三本だった。いや、こういうの好きです、わりと(ボソッと呟く)♨️
HAVE A GOOD DAY!
ロームシアター京都(公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団)、穂の国とよはし芸術劇場PLAT(公益財団法人豊橋文化振興財団)
穂の国とよはし芸術劇場PLAT・主ホール(愛知県)
2026/10/03 (土) ~ 2026/10/03 (土)開幕前
実演鑑賞
満足度★★★★★
観てきた。面白かった。以下ネタバレへ。
ネタバレBOX
見る前は、イタリアの前衛音楽家ルイジ・ノーノや、ドイツのスーパーで交わされる「Schönen Tag noch!(よい一日を)」のようなものを想像していた。
ところが劇場に「入店」した瞬間、もうピッ、ピッというスキャナーの音がしている。舞台を見ると、10人の女性が並んでいる。
「クラフトワーク始まるんじゃないか祭」である♨️
クラフトワークって今10人だったっけ…?(んなわけない)ドイツのスーパーの掛け声から取ったとか言ってたな…オマージュ?…しかも、さっきまで会場を整理していた警備員だと思っていた人が、いつの間にか舞台上のピアノに座っている。ストリートピアノに人がふっと座るような自然さでピアノを弾き始める♫
そして、さらに驚く。
これはクラフトワークではなく、オペラだった。…まぁ、これもチラシ見てたから当たり前だけど♪
ただし、見た目はかなりクラフトワーク的だ。
10人の女性が同じ空間に並び、同じような労働動作を繰り返し、スキャナーの電子音が反復する。スーパーという具体的な場所を再現するのではなく、レジという労働システムそのものを舞台上に抽象化している💱
資本主義社会の中で、レジ係はある意味では代替可能なパーツとして匿名化される。同じ制服、同じレジ、同じ挨拶、同じ「Have a good day!」。
ところが、この作品はそこから反対方向へ進む。
機械のように並んでいた女性が、突然、自分の心の中を歌い始める。
つまり「女性版クラフトワーク」というのは、案外おかしくない。ただし、クラフトワークのように人間が機械へ近づいていくのではなく、機械のように見える人間の内部から、逆に「私はこう思う」という声が立ち上がってくる。
しかも、その声は必ずしもオペラらしい大事件ではない。
「あのおっさんキモい」とか、疲れたとか、恋愛がどうしたとか、子供がどうしたとか。
現代の女性同士の会話では、こういう日常的な出来事の処理は珍しくない。男から向けられた嫌な視線を「恋」や「誘惑」として壮大な物語にするのではなく、「あのおっさんキモい」で処理してしまう。
ここでAdoのような現代の歌い手文化を思い出すと、少し面白い。
Adoの歌が代表するような現代の女性の一人称には、「私はこう思う」という強さだけでなく、怒り、拒絶、苛立ち、面倒くささまで、そのまま歌にしてしまうところがある。
もちろん『HAVE A GOOD DAY!』はAdoのような歌い手文化から出てきた作品ではない。むしろ出発点は、1960年代イタリアの前衛音楽や、労働者の声、機械音を音楽化する系譜にある。
そこにクラフトワーク的な反復と、現代社会のシステムを抽象化する視覚が重なる。
ところが最終的に出てくるのは、ものすごく人間的な「私」なのである。
だから、古典オペラ(ラ・ボエーム)のミミも思い出す。
ミミのようなオペラヒロインは、普通の女性の人生を一人の主人公に凝縮することで、その人生をオペラにする。
しかし『HAVE A GOOD DAY!』にはミミがいない。
その代わり、ミミにならなくても歌える女性が10人いる。
「ミミの10人の分身」というより、「ミミになる必要のない10人」と言った方が近いのかもしれない。
Ado的な現代の女性の一人称と、ミミのような古典オペラの女性主人公は、一見まったく違う。
けれど、「これまでなら歌にする必要がないと思われていた女性の日常や感情を、歌の中心に置く」というところではつながってくる。
『HAVE A GOOD DAY!』は、それをさらに奇妙な方法でやっている。
個人をスターにするのではなく、10人のレジ係を並べる。
匿名化された労働者を、まずクラフトワークのように見せる。
そして、その一人ひとりから声を取り出す。
ここが1960年代イタリアの前衛音楽ともつながって見えてくる。
ルイジ・ノーノの『La fabbrica illuminata』では、工場の機械音や労働者の声が音楽の素材になった。
そこから遠く離れたリトアニアのスーパーで、今度はレジのピッ、ピッという音と、そこで働く女性たちの声がオペラになる。
クラフトワークなら、工場や機械、反復する労働、現代社会のシステムを音楽そのものにしてしまう。
だから舞台を見た瞬間には「女性版クラフトワーク」に見える。
ところが実際に起きるのは、その逆だ。
クラフトワーク的な反復の中から、アリアが出てくる。
機械の音に人間が飲み込まれるのではなく、機械のように反復する労働の中から、人間の心の声が漏れ出してくる。
しかも、そのアリアを歌うのは特別なヒロインではない。
スーパーのレジ係である。
この構造を考えると、『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』との近さも面白い。
『ヤニすう』では、スーパーの表側では「接客する店員」だった女性が、裏の喫煙所へ行くと別の人間として見えてくる。
『HAVE A GOOD DAY!』では、スーパーの表側にいるレジ係が、そのまま舞台上で心の中を歌ってしまう。
『ヤニすう』がスーパーの「裏」に人間を発見する作品だとすれば、『HAVE A GOOD DAY!』はスーパーの「表」そのものをオペラにしてしまった作品、とも言える。
しかも『ヤニすう』が二人なら、こちらは10人。
スーパーの人間関係を10人に増殖させ、クラフトワークのように並べ、最後にはオペラにしてしまったようにも見える。
そして、この作品が成立する背景には、現代のスーパーそのものの変化もあるのだろう。
昔のスーパーは、今ほど世界中どこへ行っても同じような制服、レジ、照明、POSシステム、接客文句が並ぶ場所ではなかった。
チェーン小売の国際化によって、スーパーはますます標準化された空間になっている。リトアニアにもドイツ系のLidlなど国際チェーンが進出している。
ただし、『HAVE A GOOD DAY!』が特定のドイツ系スーパーをモデルにしたということではない。
むしろ、「どこに行っても似たようなスーパー」という時代になったからこそ、レジ係という匿名的な労働者を10人並べ、それぞれの内面を歌わせるという作品が成立する、と考えると面白い。
そして警備員までピアノを弾き始める。
観客を整理する人、レジで働く人、ピアノを弾く人、歌う人。
本来なら別々の役割に分けられているはずの人間が、舞台上ではその境界を静かに越えていく。
だから、この作品は「スーパーを舞台にしたオペラ」というだけではない。
スーパーという巨大なシステムの中で匿名化されていく人間を、まずクラフトワークのように並べ、反復させ、そしてそこから一人ひとりの声を取り戻していく。
ノーノが工場の音と労働者の声を音楽にしたように、ここではスーパーの音とレジ係の声がオペラになる。
そしてAdoのような現代の歌い手文化が拾い上げてきた、「あのおっさんキモい」まで含めた現代の女性の一人称的な感情が、まったく別の系譜からやってきた作品の中にも現れてくる。
ピッ、ピッ、ピッという機械音の中から、アリアが生まれる。
クラフトワークに見えて、最後にはオペラだった。
そしてそのオペラで歌われるのは、ミミのような特別な女性の悲劇だけではない。
「あのおっさんキモい」まで含めた、現代の女性の、面倒くさくて、些細で、しかし確実に存在する日常そのものなのだと思う。
能法劇団45周年公演— Still Here
能法劇団 Noho Theatre Group
THEATRE E9 KYOTO(京都府)
2026/09/24 (木) ~ 2026/09/28 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
ベケットやグラウンド・ゼロのイメージ、地球の重力と死体との反復、身体の四散と集積、能的・室町的なイメージと、ミサイルやテロによって生じる瓦礫の相似。そんなものを重ね合わせながら、この作品を観てみた。
ネタバレBOX
んなものを重ね合わせながら、この作品を観てみた。
戦争では、人間の一人一人の身体はいったん離散し、その後、地球の重力によって再び集積される。
東京の空襲でも、グラウンド・ゼロでも、身体は一度重力を失い、空中へ四散し、やがて瓦礫や死体として地上に戻ってくる。
さらに身体の一部は、燃焼や破壊によって別の物質となり、空気や雨の中へ入り、再び地上へ降りてくる。
もちろん、ベケットがこうした具体的な戦争のイメージを描いているということではない。
むしろ、身体が離散し、重力によって戻り、また離散するという運動そのものが、ベケットの舞台では何度も別の形で反復される。そこでは死体や戦場が直接示されるわけではない。それでも、人間の身体が「そこにある/消える」「離れる/戻る」という反復の中に置かれる。
戦争の具体的な記憶ではなく、死体と地球の重力のあいだにある運動の形式だけが、別のかたちで舞台に残っている。
そう考えると、能の死者や室町的な舞台空間と、ミサイルやテロの後に残される瓦礫も、遠く離れたものではなく見えてくる。どちらも、いったん世界から離散した身体や物質が、別の配置となって地上に戻ってくる光景だからだ。
京都学生演劇祭2026
京都学生演劇祭
京都市東山青少年活動センター(京都府)
2026/09/24 (木) ~ 2026/09/26 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
京都学生演劇祭のBブロック、三本とも方向性はかなり違うのに、見終わってみると「いない人、死んだ人をどう物語の中に置くか」という妙な共通項があった。
ネタバレBOX
京都学生演劇祭のBプログラムを観る。
3本とも方向性はまったく違うのに、並べてみると「失われたものをどう取り戻すか」という感じがどこかにある。
『墓石』は、湖で遭難した青年が岸にたどり着き、森で骸骨を発見するところから始まる。ほぼ一人芝居で、青年はその骸骨に名前をつけ、友達のように扱う。置き手紙をきっかけに森へ進んでいく展開も含め、晩夏の冒険譚と幽霊譚が混ざったようなジュブナイル感がある。
「友達がいない少年が、死者を友達にしてしまう」という設定が妙に切ない。
『幽霊』は、オカルト研究会のような三人組が廃墟で幽霊を探す話かと思ったら、幽霊と会話するうちに役者や演技の話へ滑っていく。
幽霊の正体も、舞台に立てなくなった役者のような存在として見えてきて、いつの間にかオカルトが演劇の話に反転する。
最終的には「幽霊を見つける話」なのか、「演劇から消えた人間をもう一度舞台へ戻す話」なのか分からなくなるところが面白い。
そして『ぶっちぎり♡愛の一等show』が、とにかく異物感のある伏兵。
金色の玉のお嬢様『たまこさま』をめぐる謎の戦いがあり、勝者にはその玉を割って何でも願いを叶える、ドラゴンボールなゴールデンボーイ(お勉強野郎になるわけではない)的権利が与えられる。
お嬢様にメロメロの執事、ネットで陰口ばかり叩くルサンチマン、そのブラコンだった妹、死んだ妹を蘇らせようとするマッドサイエンティストと、その妹の代わりとして作られたアイドル?ロボットまで登場する。
なぜアイドルなのかは知らん。なぜかルサンチマン妹がそのロボットアイドルを推している。
「何の説明もないけど、何で推すの……?」
と考えているうちに、もう物語についていけない。
でも、ここがこの作品の面白いところでもある。
最初に与えられた設定をきっちり説明して物語を進めるというより、設定を与えられた役者たちが、そこからどんどん勝手に膨らませて暴れだしているように見える。
『執事』『妹』『アイドルロボット』『マッドサイエンティスト』という設定が出るたびに、それぞれがさらに一段おかしな方向へ走り出す。因果関係を説明する暇もなく次の設定が投げ込まれるので、観客も「なぜ?」と考えているうちに次の「なぜ?」が来る。
それでも話を追っていくと、これも結局は「失ったものを取り戻したい」という話になっている。
しかも途中では妹などが突然、観客を置き去りにする謎の妄想芝居を始める。客席、特に中年の男性(女優の餌食)の一団が見事に固まる。
ところが、その「誰もついていけない」状態そのものが妙に面白くなってくる。
そして最後には、なぜか観客全員が盆踊りの手拍子を始める。
物語を理解するというより、観客まで祭りの中に放り込まれてしまう。
この感じは、囲み舞台という形式とも相性がいい。
役者「発進!」
観客「……?」
舞台「ブォォォン!」
観客「……え?」
宇宙船「シュン……」
観客「待って…」
くらいの速度で舞台が先へ行く。しかも亜光速。🚀
さらに囲み舞台の場合、ちょっと悲しいのが、別の客席ではちゃんと宇宙船に乗れている人がいること。
こちら側:
「……何?」
向こう側:
「ハハハハ!」
こちら側:
「何で笑ってるの?」
向こう側:
「シャンシャンシャン!」
こちら側:
「……置いていかれた!」
(( ゚д゚)ハッ!
ということが普通に起きる!!(無駄なびっくりマーク)
……でも、それも含めてライブなのだと思う。
理解できなかったというより、舞台の速度が速すぎて、観客が地上に残される。しかも残された側の「ポカン」や「硬直」まで、囲み舞台では客席から見えてしまう。
私はこれを勝手に『ナマハゲ✨️スキーム』と呼んでいる。
あくまで勝手にだが……♨️
笑っている客席、固まっている客席、手拍子を始める客席が同時に存在する。
その反応まで舞台の一部になって、最後には全員まとめて祭りへ連れていかれる。
その勢いのまんまなのかなんか知らんがたまこさま割って『ハーレムを作りたい』という純粋な欲望を持ったルサンチマン役者がほかの役者たちから袋叩きにあう、それとは関係なくたまこさまうっかり割っちゃったけど、願いで復活して、オーライ、みたいな展開をお約束?として挟みながら…たぶん…。
『墓石』のジュブナイル/怪談、『幽霊』のオカルト研究会から演劇への急旋回、『ぶっちぎり♡愛の一等show』のバトル漫画・ラブコメ・アイドル・推し活の闇鍋。
3本とも全然違う。
なのに、死者や失われたものをもう一度こちら側へ戻そうとする話であり、同時に、舞台そのものが観客を「こちら側」へ引きずり込んでくる。
かなり京都学生演劇祭らしい、サブカル万歳!?なBプログラムだった……気がする。勝手に。
あとなんとなくの補足。
京都学生演劇祭を金曜ちょこっとだけ観て、なんとなく「夏のメタファー」みたいなものを感じている。
作品ごとは全然違うのに、盆地の京都の夏の空気をそのまま持ち込んできたような自由さがある。涼しいところで夏合宿をして、落ち着いてじっくり作ったという感じがまったくしない。暑い京都で、そのままの勢いでここまで来てしまった感じ。
しかも観客席まで含めて、東西南北、秋雨前線自然発生型ムーブというか。
あっちでベジータが爆発している。
「あ、こっちはスーパーサイヤ人になった」
と思っていたら、今度は別の場所から妄想芝居が飛んでくる。
こちらが爆風を受けて硬直していると、
「……あれ? なんか僕、見られてます?」
みたいな瞬間まで発生する。
観客参加型というより、客席のあちこちで勝手に前線が発生して、それが東西南北へ移動してくる感じ。
作品を観ているというより、盆地の京都に発生した夏の気象現象を、観測しながら気づいたら客席で一緒に爆風喰らっている。
そう考えると、これはもう『夏の夜の夢』としか言いようがない♨️
盗まれた幸せ
Theatre in Opposition (TiO)
アトリエ春風舎(東京都)
2026/09/17 (木) ~ 2026/09/23 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
面白かった。以下ネタバレへ。
ネタバレBOX
『盗まれた幸せ』、観終わってからミハイロのことを考えていたら、だんだん『オネアミスの翼』と『カウボーイビバップ』の間に19世紀ガリツィアの農村を挟んだような気分になってきた。
ジャズドラム、ドコドコ。
ミハイロはもう完全にシロツグ。
村を出る。
(王立宇宙)軍へ行く。
都会を知る。
やがてなんかジャンダルムになって帰ってくる。
「俺はもう昔の俺じゃない」
……たぶん本人はそう思っている。
でも村からすると、
「東京行ってちょっとおしゃれになっただけっしょ……」
なのかもしれない。
そこでなぜか阿倍野橋と富田林が浮かぶ。
阿倍野橋と富田林、近鉄一本。
なのに東京にいる人間の頭の中では、
阿倍野橋=都会
富田林=遠い故郷
みたいな壮大な文明論ができている。
ウィーンと東ガリツィアも、ちょっと似ている。
もちろん歴史的には全然違うけど、
ウィーン=洗練された帝都
東ガリツィア=失われたヨーロッパ
みたいに、後世の我々が勝手に霧をかけている。
住んでいる人からすれば、
「いや、阿倍野橋も富田林も普通に村やで〜!」
酒場もある。
地主もいる。
噂も回る。
そして都会帰りのシロツグ、じゃなかったミハイロが、昔の女に会いに来る。
村内5G、通信制限なし。
ここでアンナをリイクニだと思ってみる。
宗教っぽい。
自分の世界がある。
別に男を集めようとしているわけでもない。
本人は本人で、自分のことを考えている。
なのに、なぜか男のほうが勝手に意味を見出して寄ってくる。
しかも本人の思い通りには、あんまりならない。
この感じで考えると、ミハイロも急にわかりやすくなる。
そして、もしリイクニの旦那を『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』のおっさんみたいな空気で置いてみると、
「なんでこの女の周り、こんな男ばっかり寄ってくるんだ」
という妙な現実感まで出てくる。
本人たちはそれぞれ勝手に人生を背負っている。
でも女のほうは、たぶんそこまで壮大なことを考えていない。
そしてミハイロだけが、ものすごい過去を背負って帰ってきたつもりなのに、
村からすると、
「で、アンナ、つかリイクニどうすんの?
さんざん昔から夢語ってたやん。ワイら見てたで……」
「トボけとるんか、あんちゃん。結婚とかマジ関係ないで」
である。
昔の駄菓子屋に戻ってきて、
「まだこの味あったのか!懐かし…」
くらいのつもりだったのかもしれない。
ところが一口いったら、昔の味どころか人生全部、噛んだお菓子から染み出してくる。
最後には、
「俺はいい。リイクニとウィーンに駆け落ちすれば……。あれ、じゃあ、かーちゃんはどうする?」
となる。
ここでミハイロが急に可哀想になる。
外の世界を知った。
権力も手に入れた。
昔の女も取り戻したかった。
でも母親だけは置いていけない。いや、兵役に言ってる間に死んでるのかも知らんけど。
宇宙へ行ったシロツグが地球へ帰ってきたみたいに、故郷へ帰ってきた。
ただ、
帰ってきた場所は、もう自分が覚えている故郷ではない。
夢の中の阿倍野橋。
夢の中の富田林。
夢の中の東ガリツィア。
本人だけが壮大な物語を背負って帰ってきて、
地元からは、
「お前、なんか勘違いしとるんかも知らんけど、ここそんな夢みたいなところちゃうで??」
「ワイら普通にちゃんと生きとるし。モブキャラにせんと」
と言われる。
でも、たぶん本人も薄々わかっている。
だから帰ってきた。
そして最後の「ありがとう」。
これ、恋愛だけで考えるとちょっと不思議なんだけど、
母ひとり子ひとりだったとしたら、ものすごく腑に落ちる。
ミハイロは自分のためなら、アンナを連れてウィーンへ行くことはできる。
でも、それをやったら母親から美しい故郷、ガリツィアまで奪ってしまう。
連れていけば、母親は故郷を失う。
置いていけば、一人になる。
だから自分だけ幸せになることを、最後のところで選べない。
その意味では、母親にとってミハイロは唯一の家族であり、そして最後には「殉国したジャンダルムの息子」として、村で生きていける。
ミハイロに残された最後の親孝行は、
「かーちゃんからガリツィアという美しい故郷まで奪わない」
ことだったのかもしれない。
そう考えると「ありがとう」が急に山本直樹っぽい湿度になってくる。
さんざん勘違いして、昔の女を追いかけて、国家権力まで持って帰ってきた男が、最後の最後だけ、
「俺はいい。かーちゃんはここにいればいい」
になる。
かーちゃん死んでたとしても、いや、なんかこの男、なんだかんだ言って、実は母親の死んだ土地に一緒に埋められたいと思ってないか?
みたいな。
欲深♫
考えてみると、なんだこの、詩的でビバップ的なスノッブな感じ。
ジャズドラムが鳴って、近鉄が走って、東ガリツィアが消えていく。
『オネアミス』のシロツグと『カウボーイビバップ』の連中が、なぜか富田林で合流してしまったような、そんな妙な映画を一本観た気がする。
構造はギリシャ神話みたいでも、なんか最初に思い浮かぶのはいつもアニメのタイトルだったから、気づいたらアテナイとかより富田林とか言ってる自分。
すんません(笑)
【補足】
自分もポーランド語を勉強したり原語でポーランド文学を読んだり昔の人の手紙をみたりしたことがあるので少し。
・東ガリツィアの農村では、ルテニア人(現在のウクライナ人)が多数派だった。
・ルテニア語/ウクライナ語はキリル文字、ポーランド語はラテン文字。文字そのものが違う。
・宗教も、ルテニア人の多くはギリシャ・カトリック、ポーランド人社会ではローマ・カトリックが中心だった。
・行政・教育・政治ではポーランド語、ハプスブルクの中央・軍事組織ではドイツ語が強く、村の日常語との距離が大きかった。
・しかも当時の「多少ポーランド語ができる」は、現代の「ちょっとスペイン語わかります」とはかなり違う。読み書きまでできること自体が、その人の教育・職業・都市との接点を示す場合があった。
・そして手紙を書く。現代のメールのような事務連絡ではなく、当時の書簡にはかなり修辞的・文学的な文章も多い。一枚の手紙から、その人がどんな世界を通ってきたのかまで透けて見える。当時の手紙を見ると、文学者でもないのに恐ろしく美しく尖った文章が多いのもそのため。
・だから村人にとっては、「紙は届いた。でも文字が違う。何が書いてあるのか分からない。でも、この紙で自分たちの人生が決まる」という恐怖があり得る。
・村内の噂は「村内5G、通信制限なし」。ところが国家との通信だけは文字コードが違って圏外。
・その「圏外側」へ出て、ドイツ語・ポーランド語を使う行政や軍事の世界に接続して帰ってきたのがミハイロ(や村長?)、と見ると、彼の存在が急に怖くなる。
・同じ村の人間なのに、国家の文字を読める側に行ってしまった。これがミハイロの「都会帰り」の正体の一つなのかもしれない。
・イメージ的には当時のガリツィアはヨーロッパでもかなり文化的に尖ったウイーンとポーランド(ほぼ農村なのにやけに文学的)の文化・言語圏が上にのしかかり、さらにそのすぐ向こうにはイタリアフランスドイツなどがあるというかなり文化言語的な多重構造にあり、日常的にさらされていた、けど大多数の農民はなにも読めないし、何喋ってるのかもよくわかんない、しかも立場は相手が上という状況におかれていた…。
歌を歌わないように食べる昨日
クロムモリシタン
インディペンデントシアターOji(東京都)
2026/09/09 (水) ~ 2026/09/20 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
一見すると、何の話をしているのか分からない。
…タイムスリップなのか、記憶喪失なのか、戦争なのか、夫婦の話なのか。
けれど、考えてみると、この作品は「ハイスクール!奇面組」みたいなものなのかもしれない。
唯一無二の男たちがいて、世界そのものが妙におかしくて、最後には「実は夢だった」という、あの感じ。
あれがもし恋愛だったとしたら。
誰かを好きになったことそのものが、現実と夢の境目をぐにゃぐにゃにしてしまったら。
そんなところから始まる物語として見ると、少しだけ輪郭が見えてくる。
もう一つの杭になるのが「ゴドーを待ちながら」。
もちろん、この作品がそのままゴドーに似ているわけではない。
ただ、「人の不在」が、残された人の時間を支配してしまう、というところでは確かにつながっている。
待っている相手が来ないからこそ、その不在について人は何度も物語を作るのだろう。
ネタバレBOX
※かなり長くなっちょります。
あらすじだけ並べたら、深夜2時ごろにやっちょる「サラリーマンのおっさんが異世界に飛ばされて英雄になるアニメ」のあとに、なんでか70年前のB級SF映画が始まったごたる話です。
旦那が道路の穴に落ちて行方不明になる。奥さんは、みんなには見えんお友達と話す。未来人が出てくる。記憶喪失の男が現れる。戦争やらドローンやらタイムスリップやらが出てきて、しまいには死んだ旦那と踊る。
これだけ簡単にまとめたら、たぶん「……誰が見るっちゃろ?」となります。
じゃかい、なんでこんげ長い感想になったかというと、この作品はあらすじだけ簡単にまとめると、ものすごくつまらなそうに見えてしまうからです。
実際に面白いのは、それぞれの奇妙な出来事そのものというより、それらがどうつながっちょって、なんで奥さんが何度も物語を作り替えるのか、その物語の中で役者や脚本までどう動き始めるのか、そして最後に「夫を忘れんでも生きられる」というところまでどうたどり着くのか、という部分だと思います。
じゃかい、そこを途中で切ってしまうと「結局、夫を失った妻が妄想を経て立ち直る話でした」で終わってしまう。
……それじゃ、あまりにも「それだけ?」じゃが。
というわけで、仕方なく全部書きました(笑)。
読みやすいように前フリだけ軽く宮崎弁混ぜてみました。
ちなみに宮崎に行ったことは鹿児島から行って霧島山登ったくらいです。
……と書いてから確認したら、霧島山というより高千穂峰でした。
……以上、宮崎経験ほぼゼロによる宮崎弁でした。
(ヲイ
※作品の断片をAIに読ませて再構成する用途にもどうぞ。全部読む必要はありません。AIに読み込ませて、気になったところだけ拾ってもらうくらいがちょうどいいかもしれません。
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妻は、いなくなった男を心の中から消さないために、何度も物語を作りかえているように見える。
男を帰還させたり、別の人間にしたり、ひどい男にしたり、また帰ってこさせたりする。…忙しい。そのたびに物語そのものが変わっていく。
……だから「発狂した妻」の話に見えて、実はかなり違うと思う。
妻は発狂したいのに『発狂できない』。
本当に何も分からなくなってしまえば、たぶん楽なのだろう。でも妻には、自分が何をしているのかを見る目が残っている。物語を作って、そこからまた別の物語を作る。現実を消したいのに、現実を知っている自分まで消すことはできない。
この物語の中で旦那が未来に奥さんを殺すからというので、その前に旦那を死刑にするという未来人が出てくる。話としては支離滅裂だが、旦那のことばかり考えていると奥さんまで倒れてしまうという、奥さんの生きる本能が未来人という象徴となって物語に現れたのかも知れないとも思う。
そして、物語内物語のように出てくる脚本監督と役者の関係も面白い。脚本の結末を知ってしまった役者が、自分で役柄を作って結末を知ったことを暗示する。すると脚本監督が、それに対抗して脚本の結末そのものを完全に変えてしまう。
…このくだりもまた物語全体に対しての暗喩ではないか?
物語を進める妻の頭のなかで「このナラティブは旦那を消す方向に進んでいる、チャンネルを変えろ、カチッ』。
一方で未来人は、奥さんがこのまま旦那のことを考え続ければ倒れてしまう未来を予見して、旦那が未来で奥さんを殺すから、と言って死刑にしようとする。山止たつひこかよ。…つまり未来人は「旦那を生かすため?に物語を書き換える力」の反対側から、「奥さんを生かすために旦那を消そうとする力」として現れているのかもしれない。
脚本監督も、役者も、未来人も、彼らが本当に妻の心の中の登場人物なのか、それとも妻を助けようとする外界からの声なのか、あるいは妻自身の生き残ろうとする力がそれぞれの人物として現れているのかは分からない。
でも、どうやらみんな同じ方向を向いている。
妻を生かそうとしている。
このように、この作品でいう「発狂」は、病気になってしまったということではなく、むしろ現実から逃げ切れない人間が、生きるために物語、「ナラティブ」を作り続けている状態なのではないかと思う。
死んだ人を忘れろとは言えない。
大切な人ほど、記憶から消す必要はない。
ただ、「もう帰ってこない」という現実を自分の中で受け入れるために、一度だけ心の中で殺すような作業が必要になることはあるのかもしれない。
その人を消すのではなく、「待ち続ける自分」を終わらせるために。
そういう作業を、重いトラウマや喪失を抱えた人が一人で無理にやるのではなく、専門家が状態や負荷を見ながら付き添う、という現代のトラウマやグリーフの考え方を少し知っていると、この妻のやっていることがまた違って見えてくる。妻はまさに、それを一人で物語の中でやっているようにも見えるからだ。
わかりやすいたとえで言うなら、ある女の子の好きな男の人が子猫を見つけて拾ってきたとする。
鳥に襲われてズタボロになった女の子猫を「とても可愛いんだ」と言って見せ、しかし周りのみんなは『ペットショップとかのに比べるとずいぶん貧相だなぁ…目も片方潰れてるし』みたいに言われつつ『ひと目でこのコを好きになったよ!』と一生懸命可愛がる男の人を見て、嫉妬に駆られ、自分の衝動を抑えられず、拾われてきたばかりの、やせ細ったかわいそうな子猫につい陰で『おい不細工猫、調子に乗んな…!あたしのほうが美人なんだ、忘れるな…』みたいに当たってしまう女の子がいたとする。
男の人がそれを見て血相を変えて、「君あんなやせ細って不安でいっぱいの女の子猫をよく平気でいじめられるな、一体何があったんだ?ていうか不細工ってあの子はそもそも人間じゃないんだぞ、正気か?」と言う。
でも、それが嫉妬によって自分の感情を抑えられなかったのだと分かれば、その女の子を「正気ではない」とは思わないだろう。ただ、感情のコントロールがうまくできなかっただけで、発狂したわけではないからだ。人間の女性も女の子猫に嫉妬するとは普通の男は想像しないから。
子猫にはすげーー迷惑だけれども。
この作品の妻も、それに少し似ているように思う。
外から見れば、目に見えないイマジナリーフレンドらしきものと会話していたり、なんだか理解しにくい不思議なことをしているようにも見える。
でも、その行動の奥に「いなくなった人を、完全に自分のなかから失いたくない」という、ごく人間的な感情があるように自分には見える。
人間の弱さが生む、美しい癒やしの仕組みが物語にはある。
例えば、男が死んだとしても、子供がいれば、その子のなかに男の欠片が残っている。あるいは、そういう「男の欠片」を別の存在のなかに見つけることで、男の不在を少しだけ耐えられるものにできるのかもしれない。イマジナリーフレンドとしての架空の子どもと話をすることも、そのための物語なのだとしたら…。
実際には、その子も男も、どちらもいないのだとしても。
その意味で、ゆうまくん?(だったと思うけど、人の名前覚えるの苦手で、)の変化も象徴的だと思う。
最初は「ゆうまくん」と呼ばれていて、男の子として登場する。途中から奥さんの学校の生徒ではなく夫の分身、あるいは夫の欠片のような存在に見えてくる。ところが最後の方には、実は女の子だったことが分かる。
見た目そのものが特に変わったわけではないのに、ゆうまくんの意味が変わってしまう。一瞬『何のための設定変更だ…???(汗』と思う(苦笑
これはどうも夫の象徴だった存在が、最初生徒の姿をして現れ、途中から自分の最初から居るはずのない幻想の息子の投影へと遷移することを想像させ、さらにいつの間にか奥さん自身のメタ認知、つまり「自分が作っている物語を外側から見ている自分」のような存在になっている…。あの、あくまで自分の見た主観なんですがね(汗
だからラストシーンでゆうまくんが出てきて端で、夫婦が踊っているところを楽しそうに絵日記に描くのが面白い。
物語の中で奥さんが消さなければいけない夫の片割れだったはずだった存在が、メタ認知の象徴に生まれ変わって(見た目そのままだけど)その物語を記録する側に回っている。
観客がこれらの物語を理解しようとすると、今度は観客自身が危なくなる。
これは夢なのか、現実なのか?夫は生きているのか、死んでいるのか??
妻は狂っているのか、それとも狂いたいのに狂えないのか???
そして観客は、妻を理解しようとして、整理しようとして、ついエーアイに「こんな舞台を見たけど……うまく説明できないんだけど、どゆこと?」と聞く。
するとエーアイが、 「ちょっと支離滅裂ですね。YOU発狂認定……?」 などと言い出したりする(笑
……いや、本当にこんな芝居を見たんだよ、断片的でうまく組み立てられないからアレだけど、信じてよ、狂ってないって…みたいな(苦笑
そう考えると、この滅茶苦茶な芝居は、結局のところ、いなくなった人を何度でも物語の中へ呼び戻してしまう、かなり切実で個性的なラブソングだったのではないかと思う。不在との戦争というのか。まるでガザのように、不在の支配する王国の上に、現実方面から痛みという名前のミサイルが絶え間なくふってくる。無視して恐怖に耐えていても、いずれ消耗して心と共に肉体も死ぬ。そんなことは分かっているのに、現実を受け入れて悲しむフェーズに入る勇気がない。
つまり奥さんの頭のなかで「あなたが私を殺す男でもいい。あなたが私を愛する男でもいい。あなたが死んだ男でもいい。とにかく、あなたでいてくれ」という物語を必死にエンドレスで繰り返す。本当はあなたとあなたに似た変な子どもたちに囲まれてるはずなのに、自分だけが孤独に見知らぬ不在の王国にいるという。そのなかでそれぞれの役柄を演じる森下亮や周りの役者たち。彼らすら夫の一部かも。
そしてナラティブを紡いでいるはずなのに。ある日、気づいたら全てのナラティブはラブソングでしかないことに気づいたらどうしようとも思う。気づいたら、歌う相手の不在が現実となってかえってくる。そんなのは耐えられない。『あんたのことなんかもう忘れた』と戦争から帰ってきた兵士に言うように『再婚した』と投げやりな空想の塩対応をする妄想のナラティブでまた、不在の穴を埋める。実際には自分がクールで切り替えられる人間でなかったとしても、そうしないと現実がのしかかってきてまた悲しくなるから。
それは空虚な妄想をばくのように貪るようで、でも夢やナラティブを食べながら、やがて奥さんも癒されていくというような。
これはでも何かの願いなのかもしれない。そして奥さんの生存本能というのは醜いものでもなく、不在の夫の優しさがもたらした本能であり、男の魂が妻に語りかける千夜一夜の歌(ラブソング的な)なのかもしれないなと。
ラストで唐突に夫は未来の殺人の容疑で死刑になり、奥さん自身が殺す必要はなくなる。
夫は奥さんを見守るようにそこにいる。またどこかへ行きそうで、行かない。奥さんは「そのうちいつか旦那に殺されてもいい」という。死んだ、見守っている旦那は「じゃあ殺しちゃうぞー」みたいに。奥さんは「今じゃねーよ」と言いながら、いつの間にかそんな夫と踊る。そして止まる。
夫を心の中で一度「殺す」ことと、夫を忘れることは違う。夫を手放すことと、夫を消すことも違う。
それをゆうまくんが楽しそうに絵日記に描く。あのストップモーションは、彼女のメタ認知としての絵日記の中に、不在の夫との夫婦喧嘩なのか、踊っているのか、よく分からない記憶が絵日記のように刻まれ、観察されていることを暗示しているのかもしれない。
そう考えると、これは案外ちゃんとハッピーエンドなのかもしれない。
夫を忘れたから救われたのではなく、忘れなくても生きられるようになった。夫は死んだままでも、妻の中から消える必要はない。ゆうまくんも殺されずに残り、その二人の姿を楽しそうに記録している。そしていつかみんな歩き出す。
まぁでも説明は凄く長くなったけど、自分が言いたいのはシンプルで、こんな歪んだ愛の芝居が大好きだということくらいかな、そして感想の構造としての回りくどさはこの物語と大差ない気が(苦笑
12人の生まない日本人
笑の内閣
THEATRE E9 KYOTO(京都府)
2026/08/27 (木) ~ 2026/08/31 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
アフタートークを見て思ったのだけど、こちらが本題だと思った。大丈夫、みんなを死なせたいと思った社会のほうが病んで発狂しているんですよ、みんな普通です、安心してください。
…とはなかなか言いづらかった(苦笑
ちなみに物語全体で見ると、…これはなんか喫茶店で仕事サボって人を煽ることに夢中になって若手に仕事ぶん投げてたら若手が勝手に暴走して住民抽出に失敗、尖った人ばかり集まって…、みたいな感じにも見えたけど…気のせいかな。(ネタバレというほどではない)
そこはもっと掘り下げたいが、以下、ネタバレへ。
【補足】社会や集団の「発狂」について
ここでいう**「発狂」**は、医学的・精神医学的な診断名を指すものではない。
社会や集団が、現実認識・判断・感情の調整・自己修正能力などを大きく損ない、外部から見ると極端に非合理な状態へ集団的に傾いていくことを指す比喩的な表現として用いる。
また、これは「その集団に属する人間が一人ひとり精神的に異常になる」という意味でもない。むしろ、個々人は必ずしも異常ではなくても、集団内の相互作用によって全体として異常な状態が形成されることを問題にしている。
特に重要なのは、集団がその状態に入ると、内部の個人が自分たちの異常に気づきにくくなることである。
何の問題もない人間に対して粘着的に執拗にエビデンスなく妄想的に攻撃する個人、あるいは集団は、このような排他的で攻撃的な集団に属しているため、自分の異常性に気づかないことがある。
また、そうした状況にある人に『あなたがたの言ってることは支離滅裂で異常ですよ、法的にきちんとしたエビデンスの確認をして、妄想的なナラティブ中毒をやめたら?』みたいに言うと火に油を注ぐことになる。
つまり、何の落ち度もない人を過剰に無意味に攻撃する人たちに何かを言っても消耗するだけである。ただ、周囲から見るとその異常性は歴然としている。
社会や集団がそのような異常な状態になることがある、と認識するだけで、個人個人の反応もしやすくなり、無駄な攻撃が減り、ひいては子どもを産みやすい社会になる、みたいな。
ネタバレBOX
今回の舞台は、「反出生主義」という強い言葉を軸にしたことで、親子関係や「子どもを生むことの責任」というかなり嫌なところまで踏み込めていたのは面白かった。一方で、この言葉自体はかなり固定的な西洋思想でもあり、仏教や禅の文化が重層する京都で、そこまで素直に共有されるテーマなのかは少し疑問が残った。
また、舞台上では関西のそれぞれの「マスな意見」を体現するような役者が住民として登場し、そこに突然、主宰者が神様として介入してくる。本人たちはギリシャ神話的な構造と説明していたが、観客としては「いや、これ赤塚不二夫だろ」とツッコミたくなる。作者が突然マンガの中に入ってきて、登場人物をさらに暴れさせるような、あの無茶苦茶な感じである。むしろこの仕掛けによって、役者が「住民」という役柄から逸脱して暴れる余地がどんどん増幅されていたように思う。
むしろ環境問題は、最後のほうに「可能性」として少しだけ出したほうが強かったのではないかと思う。例えば、環境省が過去に「日本海深層の無酸素化に関するメカニズム解明と将来予測」を研究課題として扱っており、日本海では温暖化に伴って深層水の水温上昇と溶存酸素濃度の低下が確認されている。近年の研究でも、底層水形成量の大幅な減少や深層循環の弱化が指摘されている。つまり「将来、日本海が死の海になる」と断定する話ではないが、温暖化が進めば日本海の海洋環境が大きく変わり、無酸素化が進む可能性を考えること自体には科学的な背景がある。
しかも舞台が想定しているのが日本海側に比較的近い都市だとすれば、この話は単なる地球環境問題ではなく、その土地の未来そのものになる。禅でも仏教でもキリスト教でも、保守でもリベラルでも、「思想としてどちらが正しいか」ではなく、「この海が本当に駄目になったらどうする」というところでは、とりあえず一緒に考えざるを得ない。環境問題には宗派や政治思想を超えて、時間制限のある現実的な共同課題にできる強さがある。
だから最後に登場人物が散り散りになるのは少し惜しい。「お前の言ってること頭おかしくない?」と思いながらでも、「でも海のために、一緒にできることから始めよう」となる。全員が分かり合う必要はない。むしろ、思想はバラバラのまま、合意できる一点だけで一緒に動く。そのくらいの雑な連帯のほうが、今回の舞台には似合っていた気がする。
「地球のためにみんなで頑張ろう」という綺麗な結論ではなく、「日本海が本当におかしくなる可能性があるなら、とりあえず海のために一緒にやろう」。その程度の合意で十分だったのではないかと思う。
【ここでも補足】
これは都心に住んでいる人にはなじみが薄いが、過疎地域の統合校建設には「過疎債」という制度が使える。
例えば目黒区では、学校建て替えが1校132億円に達するケースがある。
同じ132億円の学校を過疎地域で建てると、統合校なら国庫負担が55%、残りも過疎債で100%充当でき、元利償還の70%が交付税措置される。
単純計算では自治体の実質負担は約18億円となり、目黒区の約66億円とは約48億円もの差になる。
国庫負担と交付税措置によって、自治体の負担感が大きく圧縮されるのだ。
つまり、同じ学校でも過疎債の有無で「建てられる規模」の感覚は大きく変わる。都心の人とは切実さの感覚が違う場合もある。
なお、現行の過疎地域持続的発展特別措置法は2030年度が一つの大きな区切りとなっており、その後の制度がどうなるかは現時点では確定していない。
【補足そのに】
「集団バイアスがかかって暴走し、発狂状態になった集団に、認知の歪みをセルフチェックしていただくには……」
江戸時代に金髪でタイムスリップして、村人たちに「赤鬼だ!」と勘違いされ、山狩りで追い詰められて火あぶりにされそうになったとする。
「冷静になって!」とか「何かの勘違いです。エビデンスは?」ではなく、
「皆さん、ちょっとメタ認知が足りてないんじゃないですか?」
のほうが正解です。
最初は
「金髪だ! → 赤鬼かもしれない!」
だったはずなのに、
「逃げた! → やっぱり赤鬼だ!」
「抵抗した! → 赤鬼だから人間の話が通じない!」
「みんな赤鬼だと言ってる! → やはり赤鬼に違いない!」
と、「赤鬼かもしれない」という仮説が、いつの間にか「赤鬼である」という事実に昇格している。
そして最後には、
「赤鬼だから逃げる」
「逃げるから赤鬼だ」
「赤鬼を追っているから、俺たちの判断は正しい」
という、赤鬼認定だけで何でも説明できる世界が完成する。
そこで、
「ボクが赤鬼かどうかを議論する前に、皆さん、一回『ボクを赤鬼だと思っている自分たち』を観察してみませんか?」
と問いかける。
〜集団バイアスで赤鬼が生まれる前に、メタ認知でセルフチェック♫〜
(ノークレーム・ノーリターン♨️)
※別ルートもあり
金髪(オタク)
「これ、異世界転生イベントでは?俺の人生拓けてきた!」
→ 村人に赤鬼認定される
→「あ、これ髪切ればいいムーブか!」
→ 一瞬で丸坊主(迷わない)
→ 即、寺に逃げ込む
→ 生存
→ むしろ尖った禅っぽいことをなんとなく言って、現代より女性にモテる
「丸坊主になったら僧侶ルート即開放、南無……」
〜スマートボールより速くほぼ異世界(江戸時代)を全肯定。帰還の必要なし〜
ノーリターン♨️
チュラル
がらんどう
アトリエ春風舎(東京都)
2026/08/21 (金) ~ 2026/08/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
『チュラル』は、3つの作品が並ぶコンテンポラリーダンス公演……と思って見ると、途中で足元をすくわれる。
ネタバレBOX
最初と最後は、身体の動きが洗練されたコンテンポラリーダンスとして、しっかり成立している。ところが真ん中は、二人がラジオを聴きながら、噛み合わない会話を続ける。
グダグダしている。
なかなかダンスにならない。
しかもこのやり取りは、完成した作品の前段階のやり取りを、そのまま舞台に持ってきたようにも見える。
「……そう言えばダンスはできたけど、よく考えたらダンスの元にした3週間前のあのやり取りのほうが面白くない?
そう言えばビデオあったっけ?
あれ、そのままやったら面白くない?
逆につまんなくなっちゃうかな?
でも、まあ、やってみよう!」
……みたいな気がする。
完全に推測ですが(笑)。
本当にそうなのかは分からない。けれど、台詞を抜いて身体の動きだけを追えば、そこには確かにダンスの原型らしきものが見えてくるような……。
いや、これはただ人間が動いているだけなのかもしれない。
…そもそも、ダンスって何なのか?
そんな疑問を抱えたまま、また最後の作品では見事なダンスに戻っていく。
5人の身体は高度に訓練されているのに、ユーモアや妙な間、本人の癖が突然顔を出す。作品を見ていたはずが、いつの間にか人間そのものを見ている。そしてまた作品に戻される。
『チュラル』は、ダンスを見せる公演であると同時に、「ダンスとは何か」を実験している公演なのかもしれない。
なんか本当、めちゃくちゃ面白かったし勉強になりました。
普通の作品制作なら、
ノイズを削る
↓
整える
↓
洗練する
となるところを、急に途中で
ノイズも入れます
癖も入れます
間も入れます
噛み合わなさも入れます
グダグダも入れます
ついでにラジオも入れます
はい、全部盛りつゆだくで
みたいな(笑)。
そしてまた削ぎ落とすみたいな。ちょっと普通のスキルではできないような…
どうもありがとうございます(笑
モーツァルト:歌劇 『魔笛』
朝日新聞社/コンサート・ドアーズ
東京国際フォーラム ホールA(東京都)
2026/06/30 (火) ~ 2026/06/30 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
なぜか武蔵野がないのでこちらにコメント書きます。
ちなみに武蔵野は席数がこちらの1/3以下で、ハンガリーの本拠地の会場にかなり席数同じくらい。
しかしなぜかこちらのほうが安い…発売日に購入したので最前列でした。魔笛大好きッス!
という感じで感想。
この作品は神話と喜劇と哲学が同居する構造を持ちながら、その中心には夜の女王と娘パミーナの対照的な存在がある。圧倒的な声の暴力と静かな意志、その落差が作品全体の輪郭を決定していた。
ドイツ語オペラというと、ワーグナーのような神話性や思想性が前景化されがちだが、《魔笛》はむしろその小型モデルでありながら、より複雑な軽さを持っているように思える。
パミーナの静かな重心、夜の女王の超絶的アリア、そしてパパゲーノの日常性がそれぞれ異なる重力を持ち、それらが拮抗することで作品全体に独特の“無重力的な軽やかさ”が生まれている。その構造自体が驚くほど現代的に感じられた。
今回のハンガリー国立劇場の演出はそのあたりを非常に上手く描写していた。
ちなみに
🎭 《魔笛》ハンガリー国立歌劇場:配役まとめ【武蔵野】
🌙 夜の女王
テチアナ・ジュラベル
・超絶技巧アリア担当
☀️ ザラストロ
イシュトヴァーン・コヴァーチェ
・理性・秩序側の中心人物
・重厚なバス役
🐦 パパゲーノ
Zsolt Haja
・コメディ&日常担当
・体力・声ともに安定して元気との評価
👑 タミーノ
イシュトヴァーン・ホルヴァート
・主役テノール
・物語の軸だが、印象はやや控えめになりがち
🌙 パミーナ
ラウラ・トポランスキィ
・夜の女王の娘
・静かな重心・感情の核
🎬 演出
ミクローシュ・シネタール
・大規模ツアー型プロダクション
・伝統寄りの舞台構成との印象
補足として、この魔笛というドイツ語オペラの奇妙な美しさ…
・構造はある(試練の物語)
・でも要素はバラバラ
・…なのに最後に“なぜか成立している”
🌙 一言でまとめると
《魔笛》は「設計図を持ったまま即興で建てられた建築物」
🪶 もう少し詩的に言うと
骨格は神殿なのに、部屋ごとに別の夢が住んでいる
観客みなが感じている「構造的なのに自由」という違和感は、まさにこの作品の正体そのもの
むしろその“ズレ”があるからこそ、200年以上残っているとも言えます🎭
あと実は《魔笛》は“分析が難しいタイプの作品”…
この作品は普通の分析に向きません。
理由:
・神話構造(イシス・オシリス的)
・フリーメイソン的象徴
・民衆喜劇(パパゲーノ)
・イタリア風アリア(夜の女王)
・ドイツ語会話劇
👉 学問ジャンルをまたぎすぎている
でも実は「一番危険な作品」
《魔笛》は本当は:
・童話に見える
・でも哲学劇
・でも宗教象徴劇
・でも喜劇
なので、
“簡単そうに見えて一番説明しづらい”
もし魔笛を日本人にもわかるように端的に説明するならば…
🎬 ①「ジャンル混線オペラ」である
・神話なのにコメディ
・哲学なのにギャグ
・主役より鳥刺しが目立つ
👉 “カオス構造”を前面に出す
🎭 ② キャラを「役割」として説明
タミーノ=試練を受ける人
夜の女王=感情の暴走
ザラストロ=理性
パパゲーノ=生活欲
👉 ストーリーじゃなく「機能」で見せる
🧨 ③ バラエティ化する
・神話とギャグの同居
・重いのに軽い
・なのに音楽はガチ
👉 これ、現代的にはかなり“ミーム向き”
🌍 ④ 実は海外ではすでに起きていること
欧米だと《魔笛》はもう:
・子ども向け演出
・ポップアート演出
・SF化
・コメディ強化版
👉 「再解釈の素材」として消費されている
🎭 ⑤ 日本でまだ弱いポイント
日本ではまだ:
“名作オペラ”
“格式ある古典”
として扱われがちで、
👉 構造の面白さが前に出ていない
🌙 ⑥ でも実際の強みはそこじゃない
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの《魔笛》は
「意味のジャンル崩壊がそのまま成立している作品」
🧠 ⑦ 一番うまく伝えるなら…(結論)
「神話とギャグと哲学とバディコメディが同時進行する、世界で一番構造が壊れているのに成立しているオペラ」🎭
🌙 ⑧ 一言でまとめると…
魔笛は“高尚な作品”ではなく、
“ジャンルが同居している奇跡そのもの”
モーツァルトの時代の竹下パラダイスかハイスクール奇面組みたいなもの。違うか。
この上のない下水筒
コトリ会議
アトリエ春風舎(東京都)
2026/06/12 (金) ~ 2026/06/17 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
コトリ会議が素敵だな、と思う理由の言語化はうまくいかない。でも、ローザスやショスタコーヴィチを好きな人には好まれる余白がある気がする。強いて言うなら枝の上にとまる小鳥たちの囀りが、宇宙人の地球侵略か李白の詩についての批評のように感じるこころの余裕のある人に向いている気もする。
繰り返すが、完全に同じではない。
やがて消えていく…
言うと詩的で、それこそショスタコーヴィチやローザスや李白のようでもありますが、ガジェットは藤子不二雄的でフィジカル会話劇なゆるふわ構造ホラーだと思います。
途中で急な反転(詳しくは書かないが)があったりして思わず
『李白かよ!』
と思わず心無い観客なら突っ込んでしまいそうな部分もあるが…自分は大人なので、そんな突っ込みはしない…(苦笑
過ぎ去ったものは、似たものがたまに通り過ぎる気がするが、同じではない、やがてすべてが消える…ローザスでありショスタコーヴィチで李白で、時たま藤子不二雄ですかね。薔薇の花のようと言ってもいいですが。
ネタバレBOX
今回みたいな唐突に現れ消える系の急な夢オチの登場で
『…李白かよ!』
とかはもっと広まっていい気がします。ここで
『ケラ(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)かよ!』
とかやってたら『コイツバイトしながら岸田賞狙ってるな…というかそもそもケラってそんな夢オチやってたっけ?やってそうだけど』みたくなりそう…というか実際に見たらわかるんですが、この夢オチのくだりそのものが今の内容なんですよね…(苦笑 このあたりからでもゆるふわ構造ホラーというのが汲み取れそうな。
全然ネタバレにするほどの内容ではないが…すんま村(そん)
補足…
ショスタコーヴィチとかローザスといったのが、雰囲気が似ているというよりかは、脳の使い方というのが伝わればとも思うのでの補足。李白とかは見れば分かるとおもう…
ここで言っているショスタコーヴィチやローザスは、
「この舞台の雰囲気がショスタコーヴィチっぽい」とか、 「ダンスみたいだった」とか、
そういう表面的な話ではないんです。
むしろ、
この作品を見るときに使う脳の回路が似ている
という。
例えば普通の物語だと、
観客は無意識に
誰が正しいのか
何が起きたのか
結末はどうなるのか
を追うと思います。
つまり因果関係を追跡する。
ところがショスタコーヴィチの後期四重奏を聴いていると、途中からそういう聴き方が破綻する。主題を追うより、
あれ?
今の音、前にもいた気がする
とか、
なんか記憶が刺激された
とか、
そういう聞き方になる。
ローザスも同じで、
振付を理解するというより、
同じ動きに見えた
でも違った
とか、
さっき見た気がする
とか、
身体の時間の流れを感じる。
つまり、
「答えを求める脳」から、
「差異や残響を感じる脳」
へ切り替わる。
コトリ会議を見ながらやっているのも、それです。
普通なら、
この女性は生きているのか死んでいるのか
を解こうとする。
でも途中から、
生きているかもしれない
死んでいるかもしれない
という状態そのものを眺めている。
仮の朝倉君についても、
本物なのか偽物なのか
ではなく、
朝倉君のようで朝倉君ではない
という揺らぎを楽しんでいる。
だからショスタコーヴィチやローザスという比喩は、
作品内容の比較というより、
鑑賞モードの比較
なんだと…。
ここで例えば『異人たちとの夏』
(手近な例としての死者との夏の日の邂逅という意味で)
を対比して構造化
(…異人たちとの夏は死者は昔と変わらない姿だからひと目でわかるが、こちらでは変わっているから直ちに判別不能…みたいな…そもそも登場人物の誰が死者とも作品中では確定しない)
しようとすると、なんかあまり良くない…みたいな(苦笑
※【補足】この時点で解釈は成立するが、成立した瞬間に少し嘘になる。…まるで仮のあさくらくんのように。
これは本当にショスタコーヴィチやローザスだと思う。
前と同じ音が始まる。
美しいが、前と完全に同じ音階ではない。
やがて消えていく。
もっと極端に言うと、
ミステリーを解く脳ではなく、
詩を読む脳なんです。
ただし李白の詩を「意味」で読むのではなく、
月を見ているうちに昔の友人を思い出してしまうような読み方。
以前に聞いた曲と同じ主題が浮かんだように聞こえるが、音階が違う…と思う間に消えていく…
という事象も、
実は作品のテーマを説明しているというより、
自身が作品を受け取るときの脳の動き。
何かが戻ってきたように感じる。
確認しようとすると違う。
その違いを感じているうちに消えていく。
ショスタコーヴィチの後期四重奏を聴くときも、
ローザスを見るときも、
今回のコトリ会議を見るときも、
たぶん
「これは何か?」
ではなく、
「これはさっきの何かとどう違うのか?」
を追っている。
そしてその差異を追っているうちに、作品のほうが先に去っていく。
だから解釈よりも、時間の感触が残る。
その意味で、ショスタコーヴィチやローザスは作品の類似ではなく、
世界を眺めるための脳の姿勢の類似
なんでしょう…🎻🩰🐦🌙
だから、知らない人には突飛な連想に見えても、
自分の中ではかなり自然な接続なのだと。
自分も
『誰かを待ちつつ来ない感じがゴドーっぽい』
とか、
『不穏な感じがケラっぽい。ポップだけど』
のほうが伝わりやすいとは思います。
でもそれは僕っぽくない。
自分が一番最初に思い浮かんだのはショスタコーヴィチで、ローザスとか李白ですから、その直感に従って観劇を楽しんだ時間の過ごしたかたを描写してみました…おそ松さまでした(苦笑
優しい劇団の大恋愛 Volume11『もっと愛してくれよ節』
優しい劇団
吉祥寺シアター(東京都)
2026/05/10 (日) ~ 2026/05/10 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
正直、この劇団さん、今まで見たことなかったんですが、この三日間見てみてなんかわかってきた気がする。
最初はなんか柿喰う客を高校演劇のスタイルに落とし込んだように見えたんですが、見ているうちに違うな、と思った。
ネタバレBOX
観ていたら凄い2020年代っぽいと思いました。
ダンダダン展行ったあと吉祥寺というのもあるのかも。
5月上旬の東京にいるということもあると、いろいろと考えるきっかけになることが多かった気も。
自分のなかで今回見た優しい劇団の公演をみて近いなと思ったのは柿喰う客でした。そして柿喰う客に改めて近いなと思ったのはYBAとかで、かなりドンピシャなのはトレイシーエミンというか、トレイシーエミン的人生物語を能的な型に入れてキレのある身体表現に落とし込んで高速展開したのが柿喰う客のような。そこから日本アニメの異物回収力と合体して、ゼロ年代的過剰感と90年代的オカルトを流し込んだのがダンダダンからの柿喰う客とダンダダン的な勢い異物回収で同時進行的物語が同時高速展開する優しい劇団のやうに見えた、というか。
全てが繋がっているというか、5月の東京に異物回収力のある優れた作品が並んだから、共通点が目についたとも言えますが…大丈夫ですかね。
柿喰う客はなんかYBAと能的な影響がかなり大きいようにもみえて、トレイシーエミン的な人生展開力と幽玄さみたいなのが物語に落とし込む影響が大きかった気がする。
それがダンダダンで柿喰う客的高速展開で異物を回収するノリを昔のうる星やつら的なノリと合わせたようにして別々の時代のノリを混合してポップに提示することに成功。
そこからの優しい劇団的な。もちろんそれらが全てと言うわけではないですが、その結果極めて2020年代的な異物回収複数同時高速展開演劇になった気がします。
Qui som?─わたしたちは誰?
SPAC・静岡県舞台芸術センター
静岡芸術劇場(静岡県)
2026/05/03 (日) ~ 2026/05/06 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
なんか不思議でしたね。
隣の人が公演のこと何も知らない人だったのに、めちゃくちゃ拍手してました。
公演後は晴れ渡った富士山をバックに素晴らしい大騒ぎでした。…なんだろう?みんなに、何かを伝えたい、不安に負けてはいけないことをと、と思いながら藻掻いていたら、このようなものになった、と役者が言いながら。…たしかに自分もその言葉を納得しながら受け入れて拍手したのは間違いない(笑
世の中って、何でしょう?
人間って、恐怖に飲まれるとどうとでもなるんです。そんな姿をさんざん観てきました。僕は何一つ悪いことも後ろめたいことも皆無だから平静でも。…じゃあ、どんな予想もしなかったことが起きても、そしてしても、しょうがないねって言われたらどうかと思うと…まぁ皆様と同じように自分も思うと思います。そんなことぁねえだろ、と(苦笑
不安というのは恐ろしいものです。
不安になると本来なら、異常な状況ですから最大限に思考しなければならないはず…でも、脳のスイッチがきり替わるんです。そして思考の範囲が狭まり2-3くらいの候補に逃げ、その狭い選択肢のなかをぐるぐる思考はめぐり、オーバーヒートして、やがて思考停止して役割のテンプレ、要はRPGのキャラ化してしまう。
そうすると、会話は通じません。相手が想定していなかった事実を提示し、第三者に確認可能ですよ、と言っても、RPGの村人になっているので、決められたこと以外は何もしません。
これが不安にのまれた状態というもので、ただ外部から見るとRPGのキャラ化してるので、想定外の応答には答えられないだけで、一見すると明るくて何の不安もないように見えます。
そんな時に怖いのが、倫理や法律を完全に踏み外し『恐怖に飲まれて不動のオーラを醸す』人間が突発的に出現することです。これがどれほどの害悪をもたらすものか。本来ならヒトラーは酒場で酔っ払い相手に演説をしたまま終わるはずでした。でも違った。不安に飲まれてRPG化したドイツ国民はついていき、フランスにワンパンで勝ったんで調子に乗って史上最悪の独ソ戦へ。不安にのまれ、思考の幅が狭まる怖さは歴史が示しています。
何かに巻き込まれて恐怖に飲まれた人たちは小芝居にコロコロ巻き込まれます。僕が『正気になってください、とりあえず警察に相談したら?』と言ってもです。想定外の応答には答えられないんです。へんな犯罪に巻き込まれたなら、普通は警察に相談すればいいのに、その応答がなぜか想定外だと、RPGの村人化して、本来なら当たり前のことさえ考えられなくなるんです。これは恐ろしい。自分のように、常に、まぁ演劇とかを観ながら客観視して、周りで変な状況になっても不安を制御しつつ当たり前の行動を取れるように…できてるかはわかりませんが、でも311のときはみんなそうは思っててもなかなかできなかった。
後になったら大笑いで『なんであんなくだらない小芝居に騙されたんだ』みたいなことを言っても。なんで三文芝居にだまされるのか?それは恐怖にのまれるからです。目の前に巨大な権力か何かがあり、したがわないとどうなるか分からない…みたいな。この演劇はそんなことを教えてくれる気がします。
恐ろしい波でも、あとになって考えたら『落ち着けばなんてことないよ』になりますよね。恐怖に包まれると、正常な判断ができなくなるんです。
静岡の人って、そういう体験をしたのかな?とも思いますが。
チェーホフ in やしゃご 短編集
やしゃご
アトリエ春風舎(東京都)
2026/04/25 (土) ~ 2026/04/28 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
観てきました。
役者が違うと描き方も違う。凄い面白いです。
チェーホフというと大昔の戯曲家で、古いと思われがちですが、全く違います。
最近ラミン・ヤマルとチェーホフは非常によく似ていると思うようになりました。
現代サッカーが極めてシステマチックになり、高速トランジションの応酬になることで心理学をピッチにマッピングしたような形になり、アートよりはむしろ戯曲に近づいていると感じるからです。
現代の高度なサッカーは戯曲という骨格から浮き上がった心理部分を抜き出したものを、視覚的にピッチ上にマッピングした様相を呈しています。
チェーホフは市井の市民のちょっとしたアクシデントから生み出される微妙な認知の歪みから、人間の温かさが滲む様子を描写しました。
ラミン・ヤマルは機械化したシステム(4-4-2などのシステム)のなかを、高速で多数の選択肢を示しながら移動(要は色んな選手へのパスやシュートの可能性を示唆しながらドリブルで高速移動したりする)し、チームのシステムの磁場を歪ませる(気づくと画面の端になぜかノーマークの選手が高頻度で出現する…要はディフェンスする相手チーム全員が高速で相手側の意図を取捨選択しなければいけないため、認知のズレが起きて見落としが出るということ)という意味で、チェーホフの戯曲を視覚化したような選手で極めて稀です。なお、現代サッカーでこのタイプの選手はほとんどいません。
今まではハロルド・ピンターや三谷幸喜みたいなメッシタイプ(職人芸で最短距離をきり裂くタイプ)が全盛でしたが、現代で実際のところ待望されているのはチェーホフタイプのように思います。フランスなどの戯曲では高速トランジションを応酬しながら物語が歪んでいくみたいな戯曲は試行錯誤されている感じはあります。
極めて分析的な言語体系のフランスらしいとも言えます。でも、日本の観客がそうしたものを求めているのかは自分には確信持てませんが…。自分の感覚では現代のSNS的なスピード感に乗せて高速トランジションを繰り返しながら、登場人物それぞれの認知のズレが物語全体を歪ませるタイプの物語は消費され、数十年後に残るのはチェーホフだけなんじゃないかとさえ思います。
それほどまでに、彼の物語に登場する人たちはみな愛らしく痛ましく、切実なため、消費しにくいからとも言えます。というのも当たり前で、チェーホフの時代はゴッホの時代で、その時代の感性が受け取った光や水を、今でも多くの人が浴びるために美術館に並びます。かく言う僕もその一人ですが。そうした輝かしい苦悩の時代に立ち尽くす人たちが戯曲のなかにいるわけですから、現代芸術を愛する自分もまた愛さずには居られないわけです。それが物乞いできずに若くして死んだ情けない男であったとしても。
これらは僕のチェーホフに対する最大の賛辞です。
日本でチェーホフに憧れた人はいましたが、岸田國士は直線的すぎますし、ケラは憧れつつも不穏さに逃げた感じはあります。そういう意味では世界的にも無二です。
こうした素晴らしい芸術家を生んだ国がまだ戦争しているのは哀しむべきことですが。
やしゃごが面白いな、と思うのは、なんというかストロークス的というのか、ストロークスは言うまでもないと言っていいかはわかりませんが、『ベルベットアンダーグラウンドらを都市型に洗練させ抽出した』バンドです。そういう意味ではやしゃごはチェーホフをストロークス的に都市的に抽出したとも言える気がします。
舞台についてはあとでもう少し具体的に書きます。
ネタバレBOX
ストロークスと言うと、なんで急に音楽?みたくなりそうですが、別に狂ってないんです(苦笑
ストロークスを見るとわかるんですが、彼らは単にカッコよくてコーチェラやサマソニに出るんじゃないんです。
彼らはベルベットアンダーグラウンドのミニマルさや都市の乾きを、ガレージやパンクの文脈を通して再配置したから、みんなから讃えられたんです。『これだよ』と。才能を目新しさよりは過去のものへの再評価に振り向けたというのか。
これは才能の浪費ではなく愛です。
自分が言いたいのは『骨組を再びリスペクトしながら使うのは、盗作ではなく、愛』だと。
身体に染み込んだ愛すべきものが漏れ出しまくることを盗作癖とは呼びません。
アメリカ的な価値観からすると地球上にかつて存在しなかったものをうみだしたら最高で、それ以外は凡庸だと。それを否定はしませんが、愛ゆえに過去の最高すぎるものをマッシュアップして控えめに再配置することを悪とは言えないはずです。
自分がこのことをあえて言うのは、ストロークスが過去の遺産のマッシュアップの成功の最高峰のように見えるからです。
チェーホフをマッシュアップして身体に染み込ませた役者には自信になるはずです。
例えば牡蠣ですよね。
凄くストロークス的です。
イメージで言うと、
「牡蠣」 = 薄暗い路地で一瞬だけ光る場面
ストロークス = 夜の街で断続的に点滅するネオン
どちらも長々と照らさない。でも一瞬で全体の空気を感じさせる。
ミッキーアイランド
滋企画
アトリエ春風舎(東京都)
2026/03/09 (月) ~ 2026/03/22 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
観てきました。
面白かった。
これ、演劇なのかな、とも思った。
いい意味で。手紙のような舞台だったから。
ネタバレBOX
舞台のセットは海。あの世のよう。
そのうえに石の舞台。ベッドのよう。
ラスト、石のベッド…墓石のようなものの両脇に、車椅子とギター。
これは、ボブ・ディランだろ…と思った。
そして物語について考えてみる。思い浮かぶのはFukaiproduceの休止。今でも調べれば簡単な休止の経緯の記事が載っているのが読めると思う。
そして舞台。真面目で悲しい話なのに、笑いで絞らせない。なんか関西の舞台みたい。
思えば昔のFukaiproduceの舞台というのは、ゼロ年代の演劇のようだった気がする。
ゼロ年代とそこからの激しい断絶をうまく視覚化してるな、と思ったのはパフュームの衣装の変遷を見たときだった。うまく言えないんだが、パフュームのゼロ年代の衣装とそれ以降の衣装ははっきり違う気がする。みんなパフュームの音楽性が、とか言うが、違うと思う。ブラックピンクはパフュームより世界で知られているが、美術関係者はパフュームよりブラックピンクを注目していないと思う。パフュームがはっきりほかのアーティストと違うのは、日本…というか正確にはゼロ年代からコロナ近辺までの東京のアイコンとして時代の空気を全域で体現したアーティスト集団の記号であるからだと思う。
僕の思うFukaiproduce羽衣とは、パフュームのゼロ年代の衣装のイメージをそのまま芝居にしたようだった。少なくとも何回か見た感じでは。まぁ全く同じというよりかは、そういうイメージを持ってますよといったところで、僕が思うゼロ年代の音楽、というか芸術とは、変遷はありつつも『①憂い②遊び③少しのゴージャスさ』みたいなのが音符のなかに浮かんで体現されているのが特徴としてある気がし、Fukaiproduce羽衣は、僕の当時感じた雰囲気としては、まさにゼロ年代的なオーラを纏う舞台集団であったと言っても良い気がする。
今回の佐藤滋プロデュースの舞台は、まるでボブ・ディラン✕羽衣的ゼロ年代へのオマージュ✕関西演劇的な感じというのか。直感的に書いたので、たぶんエーアイよりきれいにまとまっていないと思いますが、すみません(苦笑
僕にはそれが手紙にも見えた。
散開?と、それに対する『年取りまくったジジイになっても風に吹かれて車椅子でステージに登場する、ギターを持ったノーベル文学賞受賞者』との対比というのか。もちろん散開?は全然悪いことではない。表現者は全員がボブ・ディランのようにお金があろうと何かを伝えるために車椅子でもステージに出続ける続けることをするべきであるとも言わない。
僕はボブ・ディランを苗場で見た。彼は車椅子だった。車椅子であるから弱い。ここは強者の楽園であるという人間はそこには誰もいなかったと思うが。今では車椅子は彼のトレードマークでもある気がする。彼が連れてきた空気、そしてその空気に包まれた彼の存在そのものが音楽だと思った。この舞台に出てくるムチムチプリンに歌を贈ろうとするジジイ(かろうじて着拒はされていないようだが…)は、自他ともに認める街の変わり者のようだが、存在そのものが音楽であり、うらまちの語り部であり、物語であり、哀しさであり、転がる石ころだった。
クリエイターが年取ってまだ、作り続けられるのか?ステージには立って格好良く入場しなければならないのか?
墓石の上で車椅子とギターで空気と会話し表現して、風に吹かれて生と死を歌い、やがて生み出されたリリックは屍肉のように森の動物たちに分かち合えられて、やがて海に還る。
自分も思ったけど、クリエイターの人がこの作品を見て、真似できそう…とは思わないはず。
この作品は切実なメッセージとしての文脈があり、それをステージから読み解こうという森の動物たち(=観客)がいるから成立するもので、一見語りの舞台だが、かなり構造が複雑で読めない。
批評は構造的にある程度出来る気もするが、この作品は手紙的だから、分析し過ぎると余韻を削る。
例えば自分の親が死んだ時、その感情を分析して満足する人がいるだろうか?
死んで土に還る。ミュージシャンはエコ。アーティストもそうあるべきだと思う。世の中のたいていの職業よりエコ寄りというのか…。エコでインディアンのような彼らは、たいていは生前は街の変わり者で、死んでから表現者の手で神話になる、あるいは表現のツールとなることで生き返る例が多い気がする。神話になる変わり者が裏町にいなかった町は薄い。
なんかそんな感じの実は深刻な話を笑いながら酒場の冗談のように語るから、こちらも少し戸惑ってしまう。
ドイツ語で言うところのシェーンハイトでまちの表が覆われていると、裏は死体ばかりになる。イェリネクの作品がまさにそうした危惧を表現した作品たちだった。岸田國士も長生きしていたらそんな作品を残したのかもしれないと思うような。
この舞台を軽く構造的に見ると、戯曲としては岸田國士戯曲賞を目指していない香りを感じた。絶対ではないが。
物語としてはゼロ年代的な演劇空気を、女の子に歌を贈るボブ・ディラン的というのか…インディアンとかロックとかみたいな輪廻転生的エコ空気感も含めて男の物語として再生し、悲しすぎないように関西演劇的な笑いのフォーマットでくるむ。
観客(=森の動物たち)の笑いの空気で祝祭的に海の上に浮かぶ墓石のステージで起こる神話を眺める。メキシコに行ったことはないが、架空のメキシコのまちの、その街で愛された聖なる酔っ払いの葬式をみんなで出したらこんな感じになるのではないかと思った。酔っ払いでムチムチプリンに空気読めずに歌を贈ろうとして着拒される聖者…着拒はされてなかったんだっけ?イェリネクの提示した恐れに対するヨーゼフ・ロートのシェーンハイトとは真逆の聖なる酔っ払いの神話というのか…。
例えば町一番の権力者や、権力者の愛好したナショナリズム的シェーンハイトを追悼しても恐怖しか伝えられないかもしれないが、裏町で愛された転がる石ころ、聖なる酔っ払いを追悼すると愛を伝えられる。
この差は大きい。
海の上のピアニストというのがあったが、そんなイメージのような。海の上を航海する墓石の上には、やがて旅人が風に還って消えたあと、車椅子とギターが遺される。
まさに立体的で、平面的な戯曲の上で台詞が迷路のように縦走する岸田國士的というのとは真逆な気がする。
でも、本当にそうなんだろうか?岸田國士は戦争が長く続いた歪んだ空気だからこそ、そのような表現手段をとった。
縦走に巡らされた台詞の上から、登場人物の人となりが浮かんでくる。
当たり前だが彼の戯曲の主役は空気ではない。空気から浮かんでくる人間そのものなのだと思う。
ついつい戯曲の完成度が目を見張ると空気に目がいきがちだが、そのさなかから浮かんでくるどうしようもない人間を冷徹に表現したのが岸田國士とも言える。
そういう意味では、本質的なところで岸田國士と全く同じであるとも言える気がする。
戯曲も車椅子も似たもので、墓石の上に連れてってはくれるが、やがて屍肉を食べられて風になったときに遺るその人物の存在感というか、輪郭、それが芸術の全てだと僕は思う。
なんか分析してしまうとすぐに消費されてしまうから、批評は芸術の敵みたいにならないように退散してみる。
分析は、自分なりには何でもたいてい出来る気がするが、分析しすぎないほうがいい場合も多い。正確に言うなら下手に批評するのが良い。あまり完成しすぎるのは良くない気がする。未完成のサグラダ・ファミリアのように。完成するとそれで終わった感じがして、批評が観客の心を覆い始める場合がある。もちろんそうではない。批評は付録であり、海の上の風見鶏程度のものでしかないから。見るも見ないも自由。
ヘカベ/ドゥロイケティス
お布団
アトリエ春風舎(東京都)
2026/02/12 (木) ~ 2026/02/15 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
このギリシャ悲劇を最初に何処かで見たひとのうち、結構な人が物語そのものに疑問に思うのではないかと思ったりする。というのも、『生贄としてのスケープゴート』というのは現代ではわりとよくある見せかけの安定、解決をもたらす手法で、コミュニケーションの難しい弱者がその役割を負わされるのは一般論として事件を観察するなら『よくみる』からで、特に昭和まではよく見かけ、この物語もよくあるそういう事件のステレオタイプの一つを美しく物語化した…ように見えるというのも自然だからだ。
しかも事件後に生き残ったのはほぼ強者のギリシャ人である。
美しさより事件?そのものの構造のほうがまず先に立ちはだかって見えるのは、現代の一般的な傾向になりつつある気がする。というのも現代では毎日いろいろなタイプの事件が起き、警戒しながら分析する量は今までと比較にならない。間違いなく有史以来最大だと思うから、どうしてもこの事件を物語化したギリシャ悲劇を見て、多少胸がつかえる人間が出るのもしょうがないのかも。
今はエーアイが簡単に集団心理とか提示してくれ、ファクトとストーリー、エビデンス…と分けていき、それがいいか悪いかはともかく、プラスして歴史の積み重ねや組織犯罪のようなものの性質が思い浮かび、僕もどこまでこの物語を素直に鵜呑みにできるのかという気もする。それはギリシャ悲劇を観るとき考えすぎと言うものかも知れないが、自分の理解する限りではギリシャ人たちは非常に聡明で、現代人よりそうした集団心理に対する警鐘として、この物語を作成したのでは、と思うのが自然な気もしていたが、どうやらこの舞台の作者も自分と同じような感覚の持ち主のような気がした。
シェイクスピアを見るまでもなく、古代の物語は情報伝達の手段としてよく使われた。それは退屈とか面白いからというより、現実の警句としてだった。事件を粉飾しても、どうしてもここおかしくないかな?本当なのか?そう言えばあの人はあの家族を疎ましく思っていた、とかというところを分析して、庶民の人たちは自分の明日の危険を察知した。そのまま物語を鵜呑みにする貧乏人は生き残れない場合もあったから、物語を知る人たちだけが生き残って語り継いたのかも知れない。
どう書いていいのかあれなので、とりあえずネタバレに。
ネタバレBOX
まず最初に、この舞台はギリシャ悲劇を事件のように描いている。
そのため、僕も事件っぽく感想が書ける気がする。それは自分にとっては長年のつっかえが取れるようで喜ばしいことでもある。
というのも、この物語は後から生き残った人が描いたものだから、いかようにも読めるからだ。
単純に言うなら、ギリシャ兵たちが立ち寄った港(トラキア)にダラダラいるうちに事件が起き、なんかトロイアの王妃ヘカベたち一家と港の国の王様(ポリュメストル)がなんか死んだ…らしい。
いろいろ言っていたけどまとめると『しょうがない』『運命』『みんなすすんで運命を受け入れた。人殺しの王様だけが恨んでいた。どーしようもない人間のクズめ』のような形にまとまる気がする。
で、その話を聞いた庶民は『話よくわかんないけど、そのヤバい王様が隠した財宝がどっかに眠ってるとか?まだ行ったらあるかな?』とかで、それに対しては『バカ、財宝の行方を吐かないポリュメストルがどうなったかお前も聞いてわかったろ。ギリシャ兵たちがあちこち漁ってるから、お前も近づくと殺人君主ポリュメストルの手下にされて巻き込まれて殺されるぞ。さっきの悲劇の物語が〝公式〟だ!現実のわけないだろ』『…え?ギリシャ兵たちめっちゃヤバい奴らじゃん』とかとなりそう…
怨恨に塗れて感情のコントロールなくすのは今でもヤバいけど、この物語は母親でこの状態なら『わかりみ』だけど、現実の問題としては『財宝どこ行った?』『本当の話?』とかではないかと。
ちなみにこの悲劇、結構見てると登場人物の胸のうちがいくつも想像できる。公式な描かれ方とは別に。
まずヘカベ。
ヘカベは、表向きには「髪振り乱して怒りに取り込まれ、トラキア王を襲って自滅した母」という描かれ方をします。
でも僕の視点で見ると、
冷静に生き残った方の息子の生存と財宝の確保を計算して動いた
奴隷や王家、都市の責任まで背負っていた
怨恨に見える行為も、政治的・戦略的判断だった
つまり一番マトモで、責任感の強い人物なのに、物語上は一番報われない。
そのうえで古代アテナイの市民は、劇場で見るヘカベの悲劇を
「話は怪しいけど、ギリシャは勝ったし財宝も取った」
「王女は犠牲になったけど、民主的プロセスでの象徴的な決断だから仕方ない」
「女王は独裁王の一存で息子を失った→復讐して自滅」
「でも結果的に民主主義的判断が成立しているので安心」
くらいの距離感で受け止めた可能性。
つまり、観客の立場は
物語としてのカタルシスを楽しむ
自分たち民主政の正当性を確認する
敵対する権力者の破滅を他人事として見る
という三重構造になっているかも。
古代ギリシャ悲劇は、単純に「母が狂った」という話ではなく、
個人の感情
王権や政治構造
民主政の相対的優位
を同時に見せる政治的教育装置でもあったのでは。
なので、アテナイ市民が「民主主義最高ー!」と内心で思ったとしても、
劇中のヘカベの悲痛はちゃんと「観賞用の悲劇」として機能していた。
悲劇を見て自分たちの政治体制の正当性を確認する、という二重構造です。
…だからこそ、ヘカベの悲劇は不憫です。
要は、勝者ギリシャ軍の利益になるように、わざと物語にのるかたちでトラキア王を怨恨で殺すムーブで、一人だけ生き残った我が子(のちに立身出世したらしい)にトロイの民の全てを託すかたちで乗ってあげたのかもしれないのに、アテナイの民主主義の引き立て役の怨恨おばさんみたいな描かれ方になって。トラキアの独裁王?とかも実際はヘカベの兄弟とかで、トロイの民より近い存在かもしれないのに、あえてトロイの共同体の最後の代表としてアテナイの民主主義大好き民が『うひょー!民主主義最高!財宝が凄い気になるけど…誰かギリシャ軍で潤ってる将軍いたらたかりに行こう♫』と叫ぶための悲劇…芝居のために噛ませ犬を演じたのでは?とも感じるわけです。二千年前とかの出来事?らしいですが。
僕はそう思います。
…ただ、今ならエーアイに聞けるので『民主的プロセスで王女生贄に決まりますた!おめでとう!』とか言っても『お前ら全員倫理設定壊れてるだろ、エーアイに聞け!』で終わりですね。悲しい話(でもないか)ですが…。
つまり、現代的な視点で見ると、悲劇としては民主主義最高最強の再確認ショーかも知れないですが、実際にはその裏で敗者のほうが倫理的知的に優れてるかも知れない…。そのことをきちんと想像し分析しながら、自分たちの日常にもきちんと生かしていく(たとえ勝負に勝ったとしても決して傲慢にならない、無慈悲にならない、倫理を常に再確認、敗者の知性や冷静さを想像するなど)ことこそ、死んだ人たちへの花向けとも言えるのかも知れないな、とか。
そもそもトラキア関係者が預かったトロイの王子を仮に殺したとしても、それがそもそも民主主義的なプロセスでないのかすらもよくわからない。
そしてまた、ギリシャ軍も民主主義っぽく見せてるだけで民主主義ではない。市民が民主主義と錯覚してるだけで、責任を霧化してるだけ(占いとか)で、全然民主主義ではない…。
実態:
戦争中の決定や生贄の選定は、軍司令官や有力者の権限で行われることが多い
「民主的に決めた」と見せる演出は、あくまで物語上の方便
観客(市民)が「よし民主主義的だ!」と錯覚するだけ
目的:
勝者ギリシャ軍の正当性を強調
民主主義のカタルシスを見せる
実際の政治的利害(財宝や戦利品の分配)は、別の裏舞台で決まる
腐してばかりでもなんなのであれだけど、あとギリシャ悲劇は意外と『語られなかったこと』で物語の構造や人間心理の輪郭が見えてくるパターンがある。表面的なカタルシスにのみ込まれないことが重要…。あんまり当時の観客に感情移入して『ヒュー!民主主義最高!』な民になると舞台裏が見えなくなるため。制御しやすいけど。
エーゲ海沿岸ギリシャは、ハンモックに揺られてぼんやりしてても洪水終わったあとに種まきゃ肥料も何もやらんでも勝手になんでも育つナイルやチグリス・ユーフラテスと違って痩せた大地で完全なバトルフィールドであり、常に生死が身近にあった環境…極限状態のため、ギリシャ悲劇は法治が進んだ現代に置いても学ぶことが多い気がします…(苦笑
ただ、正直『ラスイチ』とか言うとコンビニくじのラスイチみたいで申し訳ないですが、やらかし王子が若い美女うばったせいで始まったこの下らない十年戦争(東スポみたい)のラストで10人いた子どものラスイチ王子(9人死亡らしい)のための怨恨パフォーマンスだとしたら、正直ギリシャ軍の動きとかあんまり興味わかないですね。
でも、そんなこんなを含めながら悲劇を見れるのは面白い。深掘り、妄想含めていろいろあるので。
今回はヘレネのトラキア王殺害シーンがない。
これは…難しいけど、ギリシャ軍関与を仄めかしているのか?とも思ったりする。
ヘレネのギリシャ軍、半人半獣の悪魔的怪物(現代で言うチェインソーマン)使ったヤバ集団というギリシャ軍信用崩壊カードを使って、トラキア王と差し違えの、ラスイチ王子延命、プラス隠し財宝の譲渡を裏取引で使った知略に長けた王女なのでは?というやらかし王子から始まった大戦争を最後一人で幕引きする王女という説が湧いてくる(召使いは半人半獣言うが王女は言わない)。王女ヘカベ自体は怨恨で狂ったというオデュッセウスのシナリオにあえてのったという設定のやうに見える。
長々と神話の設定の話が出てきたけど、要は今回の舞台で重要なマイナーチェンジ?採用バージョンは
①チェインソーマン的悪魔+人間を最終兵器として、攻略できないトロイア戦役でギリシャ連合軍が木馬に詰め込んで騙してぶち込んだとは事実、という設定
②連合軍は公的な機関っぽい性質を帯びており、令和の現代でいうところの『公的機関への強力な外部監査的組織』があるようで、そこに情報提供されて調査されたら、下手すればアガメムノーンやオデュッセウスも現在の外部監査に晒された不祥事塗れの公的機関と同様に即死?(英雄なのに)…そのため、情報漏洩を異常に恐れて目撃者を大量に殺戮している
つまり、チェインソーマン的な怪物をトロイアに送り込んでかろうじて勝ったのに、それが外部監査にバレたら即死の状況…喋りそうな人間を片っ端から排除しているというかなり現代的な状況にある。トラキア王が情報ルートを明示すれば、ギリシャ軍は排除(殺害もしくは生贄にされた王女と同様精神疾患扱いで生贄)の可能性があるため、トラキア王は情報入手ルートを明示しないが、外部監査に告発すれば軍関係者全員即死?になるかも知れないという脅迫を行いつつ、トロイアでの莫大な利権を要求している。
そこにヘカベの怨恨パフォーマンス…『チェインソーマン的怪物投入の情報を入手したトラキア王と相打ちになるという怨恨芝居』でギリシャ軍の利(オデュッセウスの即死回避)に貢献する形で、自らのラスイチ王子の生存戦略へ繋げるという逆転一発の感じに見える…ただ、そこら辺は明示されないが、暗示されているようにも読み取れるのが非常に斬新に見える。
わかりにくかったですか?
気のせいか、あえてそこら辺を明示しなかったのは、ひょっとしてどこかまわりにギリシャ神話好きな人がおり、大幅な改変(特に民主ギリシャ軍の公的機関っぽさ)に難色を示したのではないのかと推察しました。
ただ、自分は怨恨に陥りながらも最後の最後でギリシャ軍オデュッセウスと裏取引をしてトラキア王と巻き添えでスケープゴートになり、ラスイチ王子を政治(やらかし王子騒動)に巻き込まずに生還させたという賢明な母親の物語に見えました…。
少な少なに私す
Madada Inc.
THEATRE E9 KYOTO(京都府)
2026/02/04 (水) ~ 2026/02/07 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
少な少な…に私す。
削ぎ落とした無音の踊りで、ミニマムの極致、雅の欠片などないはずなのに、河原のような荒れ果てた場面を現すような舞台には、まるで応仁の乱のあとの平安貴族の屋敷が燃え尽きたあとの焼け野原でラフマニノフで踊る河原乞食のような美しさがあったと思う。
過剰の塊ともいえるラフマニノフを思い出すのは奇妙なのだけれど、石を落とす音、無骨で殺風景な音、がまるで戦争で落ちていく魂の音のようで、なんだかラフマニノフが生死の境のように鍵盤を叩く音を表現しているようにも思えたのだった。
漂う踊りからそう感じるのは奇妙といえば奇妙だけれども。
かがやく都市
うさぎストライプ
アトリエ春風舎(東京都)
2026/01/24 (土) ~ 2026/01/31 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
初演も見たんですが、改めて見て、昔よりずっと密度があって、複雑なのかなという気がしてきました。ゴドーや岸田國士を思い浮かべました。宇宙人出てるのに。
うまく言えませんが、強いて言うなら凄く1995年的です。爽やかな不穏さへの憧憬にも見えます。エヴァからアリ・アスターあたりへの不穏さのエンタメ化の流れからすると、そこまで逃げ道ないほどではないが、爽やかに不穏、というかメインはそこではない感じというのか。
世界終末前日の夕暮れが永遠に続くようです。
世界終末まえの最後の夕暮れを、ゴドーのように、ミルクのまえで、ふてぶてしい猫がミルク頂きマンボしに来るのを待っているようにも見えます。
これが最後のチャンス。世界が滅亡する前に、いつもミルクを知らないうちに頂きマンボして、可愛さを私たちに分け与えてくれない消費されない可愛いさをもつであろうふてぶてしい猫をみるのは。
たぶんこれ以上ない世界最後の時間の使い方ですよ、ふんとに。
世界が終わる前にミルク泥棒(可愛いさを分け与えることなしに消えるという意味で)の姿を待つのは。普通に歌になりそうです。おしゃれ泥棒や花泥棒捕まえるのに近いですね(違うか)
あと、女の子の必死な『こっち向いてビーム』みたいなのを、消費させない、守るみたいなロックな宇宙人的像(ただし社会性なし)を遠くから観る感じとも言うのか。僕はいつも鼻くそほじくっていたので、そんなビームを受けた記憶はないが、そんなビーム出して無力な妹いたら兄本当に大変だよね…。この宇宙人兄は、自分の宇宙人っぷりは消費されても関係ないのに、マジメそうな妹の可愛さが消費されるのは黙ってらんない感が良いッスね(笑 宇宙人設定あんまし核には関わってない感じが逆に作品の核心にも見えますね。
バブル以降のマンガアニメーションの構造化言語化が進んだ今、この戯曲を分析するなら、凄いマンガアニメーション的な感じの心象風景にも見えます…。意外と似た戯曲はないですよね。皆無?…逆に本家のマンガアニメーションでは、これだけノスタルジックな世界前日の夕暮れは現在では珍しいのかもしれません。なんか。でも世界が終わりそうなのかどうかすら、僕には…わからない。世界は揺らぎの世界を抜けて、日本の法治は洗練され、かつての揺らぎはそこまででもなくなってしまったようにも見える…。
かつての揺らぎの煙漂う夕暮れの世界。いまもあるのか?年取った僕にいま見えるのか?
…いや、でも小難しいこと少し言いましたが、難しくないです。全然素敵です。たぶん若い人のほうがすぐ飲み込めるかも。そうであってほしいですね。
たぶんイスタンブールとか尾道みたいな、汚くて綺麗で、猫と坂がたくさんあって、海が近くにある街とは別の忘れられた街が、あるんだなって。このまちに欠けているものがあるのが、かがやく都市のようにも見えます。
もうちょい細かく書ければ。今日はとりあえずここまで。
エーアイのおかげでこの百倍くらい作ってピックアップできるから便利です…なんだかんだ言って技術の進歩は偉大…
ネタバレBOX
タイトルはル・コルビュジエの輝く都市から来たらしい。
ル・コルビュジエの輝く都市…なぜか日本では邦訳が最近まで全然出ていないのに、ニュータウン開発などの聖典にされて開発業者が科学的の名のもとに権威ビンタの便利な道具にした感のある謎の書…ほとんど誰も通して読んでないのに…。本人にしてみたら『ちゃんと読めよ、温帯で風向きが複雑に変わる日本で全く同じことをやれなんてひと言も書いてないよ』と言いそうな…。
そして、その真実?は…となると、ル・コルビュジエがフランスでこの本を書いたのは1930年代。ナチスドイツがヨーロッパを飲み込もうとしている時期だった。
ユダヤ人やコミュニストを地球上から殲滅するぞとかいう、ほとんど精神疾患に近い倫理崩壊した総督に、隣国ドイツが率いられ…フランスはもうダメかもしれない…そんな時代だった。
フランスの文化人たちも『もうヨーロッパはダメだ。チリかサハラ砂漠に極限都市を作って、ナチスが滅びるまで1000年でも2000年でも待ち続けよう…』そんな悲壮感が漂っていた、らしい。
ちなみにヨーロッパの歴史はそもそも敗者の歴史で、大航海時代のポルトガル、産業革命イングランド、ナポレオンのフランス、ユーラシアのアメリカであるロシアと、どん底の国が発展して脱出して巻き返すことで時代の最先端を更新してきた。
ル・コルビュジエもその文脈のなかで考えるとよくわかる。
ル・コルビュジエの輝く都市は文明が妄想的な戦争で消滅しつつあった時代に緊急避難的に『もう時間がない。このままじゃ生まれつつあったクリエイティブな文明社会は滅んで、パラノイアのような指導者の率いるナチスとソ連に全てが飲み込まれるかも…!』という悲壮な声をあげながら天才が思考実験した精華の極限都市で、そんな切迫感が歴史上なかった日本にそのままの形で置くと、息苦しいのは当たり前…だって平安時代なんて寝殿造みたいな謎のアウトドア建築を編み出すほどのナチュラリスト日本で、ル・コルビュジエいる?みたいになるのは当然…ただ中東のドバイなどの砂漠都市では猛烈に役立っている…そんなことを踏まえると、なんか作品に対する見方が変わってくる気もする。
これは本当に地球なのか?地球の取り残されたまちなのか?宇宙を彷徨う脱出シェルターか何かなのではないのか?ということで。もちろん、戯曲にはそんなこと全く書いてない。タイトルからそういう見方もできるのかもしれないな、というあくまで想像。
そもそもル・コルビュジエの輝く都市の都市はvilleで、メトロポリスではない。どちらかというと文脈からするとhabitantに近い、気がする。そういうのも脱出シェルター説に与する理由もある。
そこで、ウェルズの宇宙戦争の本を布教する謎のおばさんの存在。
これは、こっそり地球にやってきた宇宙人のウイルスや最近によって、宇宙人も地球人もほとんどいなくなって彷徨う都市…まちではないのかな?とか思う。いつか誰かが迎えに来てくれたら、とか祈りながらの。
ここまでで結構重層的にも見える。ほかの作品タイトルが出てくると、短くてもきちんと分析して、試しにいくつか構造化してみて、作品に合うかどうかを見極めないとなな感。
最初ル・コルビュジエの存在をどこまで解釈するのか悩んだ。というのも日本人は都合の良いところだけ切り取って解釈して、ル・コルビュジエの輝く都市を書いたときの文明が世界から消えるかもしれないという強烈な焦りや哲学、そもそも砂漠や高地などの極限状態で文明が必要最低限の資源で生き延びるには、なんて考えたこともないなかでアイデアだけ、哲学正反対のバウハウスと一緒くたに形だけ導入した経緯があるから。
でも見てて、これは普通の建築家よりずっと文明論的にきちんとル・コルビュジエを解釈しているのではないかという結論に勝手に達したため、このように書いております…。
すみません、前置きばかり長くなって、あとで書き出せれば…
「驟雨」「屋上庭園Ⅱ」
やしゃご
アトリエ春風舎(東京都)
2025/12/07 (日) ~ 2025/12/08 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
観てきました。
岸田國士戯曲。
実験室。
これだけで高齢の演劇好きが来る要素は十分すぎるかも。
岸田國士は、僕の中では日本の劇作家のなかでほかに比べることの難しい全能感のあるバランサー型の天才で、他の芸術家で例えるなら、メビウス(BD)、シューベルト、プルーストなどが近い気がします。
若手にとって極めて危険な作家であることは間違いなく、普通に上演するだけでなんとなく舞台上で成り立ってしまうが、何も考えないとジャングルジムになってしまう危険で神聖な鳥居。
このような作家はほかに思いつくものはなく、ケラ…寺山…?誰とも違う。
フランス語の分析的な手法はあるがフランス演劇とは全く違い、どちらかというと登場人物のほとんどは平安貴族を昭和初期の山の手にそのまま持ってきたようでもある。(正直言うとフランス演劇よりずっとフランス的。フランス演劇よりむしろモンテスキューに近い)
極めて形而上学的だが、台詞のなかに完全にとけこんでおり、ゴドーより声高でない。構造自体が極めて反戦的だが、同時代の芸術人以外で気づくのは困難であり、何よりGHQですらおそらく全く気づかなかった。
シンプルだが、戦前の近代芸術のなかで最後に出現した世界水準の芸術の天才であることはおそらく疑いようもなく、いまだ日本演劇にとっては越えるのが極めて困難な壁であり、謎のエベレストにたとえても良い…つまり若手が遊びで登ると大怪我をするが、ためしに一度登ってみないと頂すら見えず(山だが巨大過ぎて壁そのものであることすら気づかない)、年寄り(過去に軽い気持ちで上演した経験があり、当然大怪我したが、意外と観客には好評で、おかしいな…と思いつつ自分の黒歴史になってる経緯あり)に止められ上演を諦めるとなんとなく『…なんだかよくわからない街外れにある謎の鳥居のまま』で、なんか演劇村のひとたちみんなありがたがってるけど、自分自身はよくわからないままこうべだけたれてる、それこそ謎の存在になりがち。
戦後は一瞬で過去の人になり、佐分利信のような人生そのものが岸田國士作品?みたいな奇特な人が残した映画…『慟哭』(1952)(ほぼ岸田國士の断末魔にも見える生々しい影響あり)とか成瀬とか、映画にうっすらと影響が残るのみで、戦後の敵味方プロレス政治の時代には生き残れなかった…かのように見えたが、バブルという不動産屋の祝祭ではなく中間層の発狂の時代(戦前と同じ社会病理)に、森田芳光の家族ゲームで再生を果たした。演劇ではなく映画に魂を持っていかれて演劇には名のみ残った…どうやら当時は演劇より映画人に岸田國士を熱愛する人が多かったのだと思う、大政翼賛会だったけども禁書を読むが如く。つまり恐ろしいことに後の演劇人は岸田國士作品を勉強するには演劇作品というよりかは慟哭や家族ゲームを見ないとその後の岸田國士の影響を受けた日本文化人の足跡を認識できない状態になったように自分には見えた…。
※岸田國士→佐分利の慟哭→森田芳光の家族ゲーム
上記は、日本の社会病理などを扱った文化表現の直系。なぜどの批評家も明確に指摘しないのか不思議なくらいはっきりしていると思う。続けて見て分析すれば、現在ならかなりの人がわかると思う。
いつも思うのだけれど、本来なら普通にノーベル賞取れたはずなのに惜しい…というのも岸田國士は戦争に向かって爆走する日本人のために、目の前の罪もない人を殺すのは空気がお前を駆り立てるのではない、と言わんばかりにノーリターンの素晴らしい戯曲を書いたが、それは日本人のためというより全人類のためだったこともあり、ナショナリズムの香りが劇作からあんまり漏れなかったからでもある…。(むしろノーベル賞より素晴らしい位置)
そんなイメージなので、岸田國士で実験します!とか言うと高齢の演劇好きが『また命知らずの若者が…』と思いながらもなぜかウキウキして集まってくる地元の公民館ぽくなる流れ。
そしてもちろん自分もその一人、という塩梅です。
前置き長くなったが、こらから書き出し足します、
(あとで書き足す予定…)
セルマ & ソフィアン・ウィスィ『Bird(バード)』
国際芸術祭「あいち」組織委員会
愛知県芸術劇場 小ホール(愛知県)
2025/11/14 (金) ~ 2025/11/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
きょうはまる一日国際美術祭あいちで、栄と瀬戸市のまちなかを行ったり来たりし、夜この舞台を見ました。
この美術祭自体が素晴らしいものだったのですが、パフォーマンスの『BIRD』も良かった。
前日は京都で宗元仏画と堂本印象(奇しくも南宋の仏画の影響を色濃く受けた堂本印象と宗元仏画というレアな特別展が同時期京都というのは計画したかのよう)からの笑の内閣という、京都でしか観られない感じのものばかりを見てから名古屋入りしたのですが、名古屋の美術祭も舞台も、京都の美術館や舞台体験に負けず劣らずとても素晴らしいものだったのは自分にとって大きな発見でした。
かえる
近藤芳正
THEATRE E9 KYOTO(京都府)
2025/11/01 (土) ~ 2025/11/03 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
とても良かった。
京都で観るというのが、また良かった。
近藤氏は京都E9で上演するのが初めてだという。
でも、そんなことは感じられなかった。開演時間は京阪の遅延で5分遅れた。自分が移動する時も、そういえば東海道線が遅延していたかもしれない。三連休というのに関西は遅延ラッシュだった。自分は奈良から正倉院をみたあとで外国人だらけの奈良線に揺られてきたから京阪の遅れに気付かなかったが…。奈良線は、まほろばの郷から富士山を見るために、奈良から京都で、新幹線に乗る外国人、特に欧米人で溢れかえっていた。自分の家の周りも、欧米の雑誌でしばらく前に、世界でおしゃれな世界の町50に選出されて外国人だらけだったから、他人事ではない…。普通のどこにでもある町なのに…。渋谷から近い下町というだけで。…そんなことはさておき、舞台だ。
でも、この舞台、京都で見れて良かった。とても親近感がある。まるでコロナ前のアバンギルドで見るみたいな舞台が、生まれ育ったわけでもないがどこか懐かしい京都の街角の劇場で上演されたのだから。それも近藤氏の人生とも積み重なっているようだが、そのことはネタバレにもなりそうなので書かない。
京都は誰にとっても懐かしいかもしれないが、風化していない。これは実は驚異的なことなのだ。
…それにしてもこの舞台、なんで三連休の京都で上演されたのだろう?劇場で上演する舞台には不幸なことだが、この三連休の上演期間中は晴天に恵まれているのだ。ただ、それが京都の異邦人の僕にとっては良かった。
鴨川は不思議な川だ。E9の少し上流にアバンギルドがある。その上流には、一乗寺や植物園など。はなれてはいるが、川の水で繋がっている。
東京のどの川とも違うと思う。多摩川とも荒川とも神田川とも目黒川とも。いつか大阪まで旅してみたいと思いつつ、まだ果たせていない。