セルマ & ソフィアン・ウィスィ『Bird(バード)』
国際芸術祭「あいち」組織委員会
愛知県芸術劇場 小ホール(愛知県)
2025/11/14 (金) ~ 2025/11/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
きょうはまる一日国際美術祭あいちで、栄と瀬戸市のまちなかを行ったり来たりし、夜この舞台を見ました。
この美術祭自体が素晴らしいものだったのですが、パフォーマンスの『BIRD』も良かった。
前日は京都で宗元仏画と堂本印象(奇しくも南宋の仏画の影響を色濃く受けた堂本印象と宗元仏画というレアな特別展が同時期京都というのは計画したかのよう)からの笑の内閣という、京都でしか観られない感じのものばかりを見てから名古屋入りしたのですが、名古屋の美術祭も舞台も、京都の美術館や舞台体験に負けず劣らずとても素晴らしいものだったのは自分にとって大きな発見でした。
かえる
近藤芳正
THEATRE E9 KYOTO(京都府)
2025/11/01 (土) ~ 2025/11/03 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
とても良かった。
京都で観るというのが、また良かった。
近藤氏は京都E9で上演するのが初めてだという。
でも、そんなことは感じられなかった。開演時間は京阪の遅延で5分遅れた。自分が移動する時も、そういえば東海道線が遅延していたかもしれない。三連休というのに関西は遅延ラッシュだった。自分は奈良から正倉院をみたあとで外国人だらけの奈良線に揺られてきたから京阪の遅れに気付かなかったが…。奈良線は、まほろばの郷から富士山を見るために、奈良から京都で、新幹線に乗る外国人、特に欧米人で溢れかえっていた。自分の家の周りも、欧米の雑誌でしばらく前に、世界でおしゃれな世界の町50に選出されて外国人だらけだったから、他人事ではない…。普通のどこにでもある町なのに…。渋谷から近い下町というだけで。…そんなことはさておき、舞台だ。
でも、この舞台、京都で見れて良かった。とても親近感がある。まるでコロナ前のアバンギルドで見るみたいな舞台が、生まれ育ったわけでもないがどこか懐かしい京都の街角の劇場で上演されたのだから。それも近藤氏の人生とも積み重なっているようだが、そのことはネタバレにもなりそうなので書かない。
京都は誰にとっても懐かしいかもしれないが、風化していない。これは実は驚異的なことなのだ。
…それにしてもこの舞台、なんで三連休の京都で上演されたのだろう?劇場で上演する舞台には不幸なことだが、この三連休の上演期間中は晴天に恵まれているのだ。ただ、それが京都の異邦人の僕にとっては良かった。
鴨川は不思議な川だ。E9の少し上流にアバンギルドがある。その上流には、一乗寺や植物園など。はなれてはいるが、川の水で繋がっている。
東京のどの川とも違うと思う。多摩川とも荒川とも神田川とも目黒川とも。いつか大阪まで旅してみたいと思いつつ、まだ果たせていない。
座標と初恋
アオガネの杜
アトリエ春風舎(東京都)
2025/09/12 (金) ~ 2025/09/14 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
正直、キャンプの道具を買いすぎて金欠でしばらく舞台を観てなくて、本ばかり読んだり親から頂いた株主優待を使って映画ばかり観ていたけれど、しばらくぶりに舞台やを観て、やはり舞台は良いな、とつくづく思った。
それは尿酸値上がりすぎたらしいタニノ氏も一緒のようだった。
何を書いてもネタバレになりそうなので、以下ネタバレに。
ネタバレBOX
まず第一に気になるのは、この舞台には悪人らしき人がほぼ登場しない。それは若干不満が残る…。最初にあえてそう書くのは、そう書く批評家が絶対現れると思ったからで、自分も当然最初そう考えた。でも見ていてそのことにあまり集中するのは作品を味わう上で不毛かもしれないと思ったからだった。以下、
この舞台には民主主義の選挙で選ばれた首相の娘(民主主義国家ピー国人、ピー国はエス国に植民地支配されていた歴史があり、ジャガイモばかり作らされてきたらしい、汚職が横行)が、主人公(独裁国家エス国の国家元首の息子だが、このときは秘密、エス国は植民地支配していた周辺国から奪った収益で国力以上に学問が発展さている模様、豊か)と同じ大学の学生として登場する(大学はエス国だが、留学生はどうやらほとんどいないようだ)。そう、自分が男だからというのもあるが、物語を見ていて一見男女が主人公のようにも見えそうだが、自分にはそう見えなかった。自分には男性が主人公だと見えたのだ。
同級生が首相の息子だということは自分が学生の時にもあった。女の子ではなかったが(というか物語的にはもう一人は男でもよかったのではないかとも思うけど)、少女マンガを一杯持っていて、自分ともう一人の同級生は、その首相の息子から少女マンガをよく貸してもらっていた。それでずいぶん勉強させてもらった。そういった経験がなければ自分はいまだに少女マンガを読むような機会も無かっただろう。それは良い経験だった。ひょっとしたらどこかの女性演出家の方も、自分をどこかの会場で見かけて随分風変わりな男だな、と思ったかもしれないが、ある種進学校におけるザビエルの感化と言うことだ。
…それはともかくとして、その同級生の父親が首相の時に見た景色は大して良いものではなかったらしい。それは父親が原因というよりは周りの人間によるものだったようだ。つまりは今まで真面目だった人間も権力の近くに行くと頭がおかしくなるというようなものだったように思う。父親も政治家の息子だったため、権力には慣れていたので普通だったようだったが、それが余計に周囲の様子を浮かび上がらせていたのだと思う。
それは自分もこの年になってよくわかる。権力が近くにあるとなぜか人は発狂する。全てではないが。そして周りには容易には分からない。自分は舞台を観ているせいなのかわりとすぐに様子のおかしいのに分かるが、周りはおかしいのにすら気づかない(だがやがてとんでもない事態になっているのに気づく、そういうのはまさに恐怖)。…DJと同じで凡人が人を熱狂させる快楽に近づくと、熱狂させる権力が手の届く自分のものとなったように錯覚するのだと思う。そして詐欺師になる。戦争とはそうしたものだ。たとえば目の前で何千万人も踊らせるDJがいたとして、破滅のレコードを渡してもまだ掛け続けても誰も気づかず何千万人もが踊り続けるならば…。
戦争の詐欺師とは、たいてい爽やかで子沢山で奥さんを愛していて、友達も多い…しかも公務員で、真面目そうで絶対嘘なんかつかなそうな…詐欺師。その友達みんな詐欺師で役者。直上のてっぺんの権力者を軽く騙すが、特に誰も悪びれない。詐欺師の首謀者は別の権力者で、若い首相を操る老練の政治家というのがそれに当たる。
…たとえば新米首相になって最初に目の前に出された公文書が全てデタラメだとして、そのことに異を唱えられる人間が何人いるだろうか?敗戦時にはドサクサで詐欺師の公文書は全て破棄され、誰かのせいにされる。この国は神の国なので爆勝ち中と言っていたのに、ある日突然新型爆弾が落ちて首相官邸と周囲10キロは灰になったが、その偽の報告書を作成した側近たちは金塊を持って敵国に逃亡、戦争は全て首相が発狂したせいにして、誰も怖くて逆らえなかったという、そんなオチが普通なのが現実のような気もする…。
自国民を何千万人盾にして犠牲にしても、アメリカより先に原爆の開発に到達すれば逆転できる。絶対に夢物語にしか見えなくても、戦争に負けたらさんざん自国民を騙してきた人間たちはそう信じざるを得ない。秩序を守るため、トップのトップは護られるが、その下の普通のトップたちはトップのトップを騙した者たちとして断罪される。実際ほぼそんなもんだ。戦争とはそういったものだと思う。そういう意味では少し物足りない。
と、物足りない部分が長くなったのでアレだけど、でもやっぱり見ていて心地が良い、というのはタニノ氏も言うところで自分もそうだった。ちょうど中高生にやってもらいたい感じの舞台になってるな、とも思った。上記の政治系な部分、リアリティのありそうな部分がうまく抜けているからだ。
それはたぶん作家の意図したところだろう。
言語や、国家の固有名など抜いて、文学的な作品として座標を詩的に表現するところにフォーカスしている。これはとてもうまいと思う。抜けている部分は演じながら、想像力で補えば良い。そうしないと、座標も国家も組織も、想像力の範囲内に入ってこない。
SFジュブナイル的な感覚の文学的な演劇作品としてうまくまとまっている。ただ、ラストが少し短い気がする。もっと長く余韻を楽しんでもよかったのに。
強大ではないが喧嘩っ早いエス国の元首になった男の子は、降伏をしない。どうもベルサイユ条約のような形の降伏ではなく、ナチスドイツの敗戦時のような完全な瓦解を目指している、というようなものだった。
なぜそうするのかはよくわからない。描かれない。よく描かれていなかったが、エス国の独裁体制を終わらせるにはそれしかないと思っているようだった。
豊かで強大なエー国からきた怪しい黒服も良い。詐欺師のような、世界平和の意思のような、不思議なニュアンスでいて。
あの役柄を見た時は冷戦期のイタリア首相の誘拐暗殺事件を思い出した。
冷戦下で東西融和を目指したイタリアの首相は誘拐されて暗殺された。実行犯の共産系テロリストを手助けしたらしい軍関係者が内部にいたようで、目撃情報もいくつか妄想として決めつけられもみ消され、事件解決が遅れている間に東西融和を目指した首相は殺された。恐ろしい事件だった。そのころの冷戦下で、世界平和を目指すということは命がけだったのだ。意思を決定した時点で暗殺されかねないリスクがあった。そう言う意味でとてもうまい。
ピー国はアイルランドのような、琉球国のような、よくわからない立ち位置になっている。阿片が蔓延した前世紀初頭の中国のようでもある。選挙で選ばれた首相は、国民を愛国心で高揚させることに成功した。そして、五万人の犠牲によってどうやら国際世論を味方につけ、大国エー国を出動させることに成功したようだった。
ここらへんのお金(はっきりとは描かれていないが)の感じの話から、なんだかEUっぽい話が混じってくる。
なんかイメージ的にはスペインイタリアギリシャみたいなお金のない国が貧しいままでは域内の均衡が保たれず仲が悪くなるから、北の寒いドイツとかそんなところから国力を削ぎ取って貧しい国に分け与えれば競争や紛争も生まれない的な。得をするのはギリシャみたいなお金を貰ったりするだけのピー国…であってるかな?
みんな同じ国力で豊かになっても再分配されるからあんまり競争もない。競争はエー国内にすべて任せろってことかな…。
考えてみれば、戦争なんかなくても、古くて素敵なものたちは、経済発展でみんな消えるよ。
東京に数十年前の古くて素敵なものがいくつ残ってるだろうか?
少なくとも大阪ほどじゃない。
戦争と経済発展は似ているよ。古くて素敵なものをみんな消すから。経済発展をあきらめてあとは平和があれば、古いものは残る。たぶん経済発展爆進中のエー国は戦争なんかなくても、古くても素敵なものは国内からほぼ消える。他の国は平等に貧しいから古いものをてくてく直して残していく。天才たちはすべてエー国に流出する。彼らは科学を発展させ、エー国が君臨する未来を確約する。
そういえばこの舞台を観る前にトーハクの大奥展に行ったのを思い出した。鎖国しながらも、大奥に閉じ込められた女性たちのために、刺繍とかいろんな手仕事のものをぎっしりと詰め込んで…大奥と言っても大名たちの親族を人質代わりに出していたのかもしれないが、その贈り物のなかにたぶん人の温もりと、外の世界の美をパッケージしてデリバリーするために、そうした美しい手仕事はあったんじゃないかな?とても豊かだな、とも思った。少し悲しいが。憧れではないかな。たぶん。隣の清国のような金銀財宝はなかったかもしれないが、とてつもない樹木を使った天守閣もあり、平和を謳っているような江戸の文化だった。正直、豊臣秀吉がうっかり間違って中国侵略成功しなくて良かったんじゃないかとも思う。これも結果論で、もし仮に明国に勝ってもあとですぐに清国に負けてしまって何もかも取られていたのかもしれない。結局は日本で鎖国していたから、明国の学者が日本に亡命してきて江戸時代の学問の隆盛を支えた感が自分にはある。爆勝ちしなくとも、平和を守り手仕事や学問を愛せば、世界屈指の文化を築いたいい見本が江戸時代だったと思う。だから国というアイデンティティはそれほど必要ではなく、平和さえあれば、座標からにじみ出てくる香りが、平和な庶民のただ中から文化として湧き出てくる。そういったメッセージがあるのではないかとも思う。メッセージとかというと政治的な雰囲気にもなってしまうが、そういった願いというのか。
登場人物が真っ直ぐだから見やすい。割と何度も見て、描かれなかった部分をみんなで想像力で補って語り合えるいい舞台だと思う。色がついていない分だけ余計に。政治的に国内が分裂していると、こういう描き方が演劇では正確なのだとも思う。
始まりの終わり
ムニ
アトリエ春風舎(東京都)
2025/07/20 (日) ~ 2025/07/27 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
難しくは、ないんじゃないのかな。
全部理解しようとすると難しいかもしれない。
でも、感性に従って勝手に個人個人が好きに解釈すればいいと思う。
勝手な解釈に味が出る。
おでんみたいなもので、個人の感性がしみたら真っ黒くろすけな染みたおでんなのか、あたまでっかちな無味乾燥なおでんなのかの違いが出てくる気がする。
みんな、好き勝手に感想を書くといいと思う。ここは北朝鮮じゃないんだから、どんな感想を書くのも自由だよ、好きに作者の感性の世界を遊ぶのがいいと思うよ(笑
ネタバレBOX
さいしょにけっこうな謎として、そもそもグミは2036年に生きているのか?というのがある気がする。
物語構造としてよくあるのに、死んだ友達から招かれてかつて親しかった友達たちが長い年月を経て再び邂逅するというのがある。そのように書かれてはいないけれど、あらすじを読んで自分はそのような物語の可能性をまず考えた。
そしてそもそもグミなる男が存在したのかも含めて。登場人物五人の心のなかの理想のキャラクターなんじゃないのかな?とも思えたりもした。そしてそのほうが救いがある。
それらの連想はさておき、この物語の世界の好きなところは、そもそもがほぼこれから起こる事件として時間軸が設計されているということだと思う。こういうのって意外とない。そしてこの物語のなかではこの時代感はかなりポジティブな印象として働いていると思う。
…物語のほとんどが、これから起こる事件であり、かつ未来の五人の心のなかの思い出。構造として意外と見かけないし、詩的なのに懐古的過ぎなくていい気がする。
…なんだろう、僕らは作者から物語のバトンを手渡さたされたような気もする。それはある意味音楽的な発想なのかもしれないけれど、とりあえず自分はそんなことを感じた。
自分が考えたのはこんなふう。これからグミ(これはグミが同級生から誘われた二丁目のビアンバーで作者の分身にも思えるハーフの女性が邂逅した夢のキャラクター…それは前者の五人の友達のパターンの踏襲にもなるのかもしれないが…そしてそれが現実問題として物語を一番ロマンで満たす妄想ともいえる気がする)が、未来の渋谷でワールドカップのベスト8進出の騒乱騒ぎのなかで、見知らぬ死神から銃を受け取って、アジトで自殺する(これは僕の解釈)するのを止めて別の世界線に導くとか…自分はグミの物語が90年代のカート・コバーン(もちろん彼は銃によってニルヴァーナに向かった)の連想もあるのだが、それは傷ついた魂を痛みから救い出す甘い夢(しかもそれは懐かしい思い出のようで)でありながら、繊細な魂をこの荒れ果てた世界線で生き残らせる希望をもたらす可能性を僕らに夢見させてくれるんじゃないかな、とか、勝手に思ってみた。
考えてみると、不景気によって失われたゼロ年代のように当時は言われていたのだけれど、それがのちの今となっては外国から人を惹きつける時代(活気のある昭和とバブル後の内省的な雰囲気が融合されたような、と言ってもいいのか)であり、新しい文化の生まれた活気のある夢のような時代のように参照されるようになるとは夢にも思わなかった、というのもある。自分としてはそのゼロ年代は苗場のアーケイド・ファイアのあたりで少しゼロは過ぎるけどピークを迎えて終焉した気がするのだけれど、今生きている人たちにはその時代の蜜というのはリアルタイムではたいがい気づかないものだと思う。
人は人生を生きるに従って、かけがえのない大事な人間を次々と失っていくもので、それは悲しいことにたいてい繊細で優しさに満ちた人たちから消え、さいごには頭のおかしなことを大声で喚き立てる人間しか残っていないことすらある(苦笑
自分は生きてきて、目の前にどんな権力や暴力があろうとも、最終的には命を賭しても身の周りの傷ついた人間を救うのが、自分の人生を最も美しく生きる糧になるのだと思った。
グミというのはメタファーなのかもしれないけれど、人生を、表現を生きる糧にしてサバイブする自分のような演劇バカには、変わり者を言葉で支えて良さに気づかせ救い支える指標でもある。
…考えてみれば、公園だって造花ばかりでただ飾られて、隙間に美しく生きる昆虫すらいなければ、地獄じゃないだろうか?書き割りも隙間に台詞を囁く役者がいなければ卒塔婆である。
未来を生きるには、可能性を信じて傷ついた変わり者を目を皿のようにして見つけ支えなければ、自分の人生も美しくは彩れない。
恐怖や脅迫で人を脅し傷つける時代(とくに最近になって思うのだけれど、正気とは思えないくらい事実とは懸け離れためちゃくちゃなことを偉そうに言う人が偉いと勘違いされる時代でもある)だからこそ、弱いもに優しい目線を送る美しい物語は、大きな拍手で迎える必要があるのだと思う。(ちなみに以前の上司(しかも役所の部長)がどこかの病院に殴り込んで意味不明なことを騒いでその病院の精神科医に「間違いなく発狂している」と診断され警察に通報され、都内の警察で情報共有され有名人になった挙げ句クビになった。議員と友達だと自慢している重役でもおかしなのはいる。地位と正気とは現代では完全に無関係なので、繊細な変わり者は勇気を持って生きていってほしい、なんてな(苦笑))
ラクリマ、涙 ~オートクチュールの燦めき~
SPAC・静岡県舞台芸術センター
静岡芸術劇場(静岡県)
2025/05/04 (日) ~ 2025/05/06 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
静岡駅でゼロコ見てから、東静岡へ。
観てきました。
凄い、めちゃくちゃ面白い。
今まで美術館に行っても漫然ときれいだな、としか思わなかったものが、血と涙に見えてくる(苦笑
もちろん芸術作品や美しい作品群のそれぞれに血と涙が込められているのは、自分も大好きな板谷波山とかのエピソードとかもよく知っているのでもちろん全く知らないわけではなかったが、演劇で見て今まではそんなに身近に感じていたわけではなかったことに気づいた。
ここまでではないけれど、自分も美しいものに触れていたいという気持ちが強くて、花を育てているので、舞台に出てくる人たちの美への執着にわかるところが多い。今までこの世になかった美が目の前で触れながら立ち上がり形になる時間を一緒に過ごすことの興奮というのか。
美の殿堂、ビクトリアンアルバート美術館にしまい込まれるまで、いったいどれだけの職人の血と涙をこの布は吸い込んできたのだろう…。
それはもちろん布だけではないのだけど。
とにかく面白い。戯曲も買って読んでいるのだけど、面白いだけでなくて美しい。そして完成度が高く複雑であるのに、本当に面白い。現代の戯曲というのはこれほどのものなのか…。
この物語を観に来る、ということは、観客はだいたいたぶん美しいものに関心があるということだと思う。普通の観客たちと違ってそういった観客たちは、この舞台をみている間に、そうした自分が美しいと思うものたちと自分の関わりを思い浮かべているのではなかったのかと思う。それは刺繍とか絵画とか、明らかに手を使ったいわゆる『アート』といったものとは限らず、猫とか花とか、そういった自然が人類にもたらしてくれたものでも。もちろん僕もそうだった。
家で花や植物の手入れをしていると、よく近所のおじいちゃんおばあちゃんから綺麗だねって話しかけられるけれど、花にも品種を作ってきたガーデナーさんたちの苦労があり、土を混ぜる僕たちの、そして土のなかで僕たちや花を助けてくれる微生物たちの働きもあって、それで一瞬の美しさが生まれるのだと思うと素敵だなぁ、と思うことがある。
道の花の美しさは足腰が弱い人にも、お金がなくて散歩してるだけの人にも、仕事で目の前を通っただけのひとにも、等しく美しさに触れさせてくれて、世界の美を目のなかに届けてくれるから、素敵だと思う。
今まで人生を過ごしてきて、世間の人たちがちょっとお金を貰っただけで簡単に嘘をつく人たちばかりで、本当に心の中が醜い人たちで溢れかえっているのかということを身にしみて実感してくると、動植物や芸術作品の嘘のない美しさが本当に素晴らしいと思うようになってきた。
今回の物語もそれに似ている。
指先で美に触れるというのはそれだけ素敵な事なのだ。
他の人たちが自然の力を借りて産み出しこの世に送り出した品種を、やはり自然の微生物さんたちの力を借り、ご近所の高齢のお散歩さんたちの目を喜ばせるだけでこれだけ嬉しいのだから、ましてやこの世界に今まで存在しないか消えかかっていた美を、新たに付け加える喜びはまたより一層だと思う。
ラクリマで、涙によって形づくられた美しいものによって飾られるのは大英帝国の花嫁だった。観ていて僕も気づいたのだが、そういえば僕が花を育てるきっかけもよく考えたら少し似ているな、と思ったのだ。ぼくの母親は、綺麗な服で着飾ったりしないで、何十年も前の色あせた安いものばかり着ているのだが、僕はこの人は誰に見せても恥ずかしくないくらい優しくて嘘のない素晴らしいお婆ちゃんだと思うので、地味な格好をして目立たないのは勿体ないと思って、そのお袋の家の周りで僕が薔薇を育てているうちに、いつしか自分の家の周りも花の咲く植物ばかりなってしまった(でも花が咲きそうになるとお袋の家に置く、僕の周りを花で飾る必要はないので)。…でもそういったものだと思う。自分を飾るためにこしらえた美しいものは本当の美しいものではないのだ。残念ながら。
ネタバレBOX
当たり前の話なのだけれど、美しいもので、お金と権力のある自分を飾ろうとするのではなくて、他人の謙虚さ、誠実さや優しさを美しさで讃えて飾ろうとするから、アートは美術として存在するのではないかと思う。
それはこの戯曲が芸術作品として美しいことでもよくわかる。他者への優しさの視点がなく、ただの自己顕示欲しかなく権力や欲に塗れただけの美しさは、携わる人たちの悲しさを含む。
札束でビンタして金銀で飾ったものは、見た目が華やかなだけで美しくないのだ。
この物語を見ると、悲しいことにその大英帝国の花嫁はクレイジーな要求で自分の権威を見せつけるクレーマーでしかない。
この物語では、権力がなく(権力者たちに比べれば)貧しくとも、美に携わった人たちは決して権力の奴隷ではなかった。彼ら彼女らは美に魅せられた旅人で、そうした美の職人たちへの尊敬なしに、美しいものは決して生み出されない、そういう当たり前のメッセージを僕はこの物語で受け取った。メッセージ性のある演劇と言うと今では流行らないかもしれないが、それでもそんなことも抜きにしても面白い物語だった。普段は接点のない世界の物語だからだろうか…。
ただ同時にこの物語が美しさに携わる職人の人たちにもたらす教訓としては、美しいものを生み出す喜びに盲目的にしがみつくと、なんか気づくと家族が犠牲になってるということだと思う…(苦笑
僕たちは美術館に入る前に、美を産み遺してくれた先人たちと、その美を守り育ててくれた、なんかよくわからないけど、大名とか商人とか町人とか、そして何より職人たちに感謝しなければならないのかもな、とか思った。
〈不可能〉の限りで
SPAC・静岡県舞台芸術センター
静岡芸術劇場(静岡県)
2025/04/26 (土) ~ 2025/04/29 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
観てきました。そして静岡で美術館めぐりをして、いま、東京に帰ってきました…。
現代演劇の世界は、2.5次元とか、プロジェクションマッピングとか、そんなテクノロジーの活用によって、ただでさえキラキラした役者たちを一層華やかに照らすのに忙しいも関わらず、今回の作品は極めてローテク、シンプル、ただ、物語は単純ではなかった。慎重に政治性を排除しつつ、人間の集合体のひしめきが生み出す軋んだ世界の、矛盾と混乱と緊張の世界に真っ向から向き合っていて、素直にただただ圧倒された。
ナポレオンはフランス語に不可能という言葉はない(日本語訳では吾輩の辞書に不可能はない)といったらしいけれど、フランス語にもそしてもちろん英語にも不可能の文字はあった…というか、不可能(impossibilis)というラテン語を仕入れて英語に繋いだのはそもそもフランス語のほうだった…これこそナポレオンの言葉の矛盾(苦笑
ネタバレBOX
しかし、ナポレオンが不可能を信じなかったというのは、己の権力の強大さ故でもあった。
舞台上の言語が、最初は英語話者ふたり、フランス語話者ふたりだったのが、途中から、それぞれの役者たちがポルトガル語なども含んだ会話に変遷し、男性が女性の体験を語るなどと変化し始めるのも、そういった皮肉もあるのかも知れない。
世界は主要言語である英語フランス語だけではなく、主要言語ではないポルトガル語なども含んだ世界で構成されていると。
そして不可能という言葉も、ここではそれほどシンプルな意味ではないようでもある。
それは『impossible to survive』のボーダー(境界線=人間がサバイブする限界線)を表すのか、それとも『impossible to imagine』…ジョン・レノンの予想より遥かに悪い、敵意と緊張に満ちたハーモニー(融和)を越えた、比較的平和な世界にいる人たちが想像できない、あるいはその矛盾に気づくとそこでの権力者に睨まれるがゆえにあえて言葉にしない、その世界にいては想像できうる限界を越えた世界なのか…あるいは人類や世界そのものを一つの生命体に見立てて、『impossible to
aware (あるいは、memorize)』というようにして、被害者の全てがあの世か難民キャンプで恐怖によって加害者たちによって支配されて口封じされているため、世界が気づくこともなく、人類史の歴史からも欠落している、という意味なのか…凡てのエピソードが色々な世界や作品を想起させる。
そもそもラテン語のimpossibilisとは、当時の郡、あるいは宮廷の力の及ばないという意味…とするならば、タイトルの意味するところも少しは分かってくるのかも知れない。
ここで舞台上に張られた幕の形作るものが山を表現していること、それがつまり平地の権力、あるいは法律の統治の及ばない場所、すなわちボーダーなのだな、と言うのに気づく。
人々の組織の生み出す秩序のルール(法律とか刑罰)の及ばない、人々の恐怖を煽る権力者とその取り巻きの生み出す恐怖に支配された世界、それが『組織』と表現される赤十字や国境のない医師団の人たち目にする20キロとかの先にある山々。そこは恐怖で人を支配した人たちのせめぎ合いで、自分たちの口封じのために地面の下に埋められて永久に口を封じられた人たちが埋められた場所でもあるのだが…。そして、ここで気になるのが劇の中で赤十字の人たちと思われる人たちが自分たちのことを『組織』と頻繁に表現していること。最初これは一般論として色々な人道支援組織に共感できるようにそのように話ししていたのかと思ったが、やがてどうやらそれよりはむしろ、この物語自体が赤十字などの話ではなく、人間の生み出す『組織』の話であることを暗示しているようだと感じはじめていた。組織自体も神聖なものではなく、そのなかで組織の権力を乱用して悪事を働く変態、犯罪者たちも存在することが暗示されている。これは結末があえて示されていない。組織の性質を知る者にとってはよくわかる話だが、場合によっては犯罪者を告発した人間のほうが逆に犯罪者に仕立て上げられて追い出される場合もあるかも知れない。それが『組織』の恐ろしさでもある。確実な証拠を手に入れない限り、善悪よりも権力の論理でシーソーは動く。組織が暴走して変質している様子は外からはなかなか気づけない。
impossibleのpossibleは力、powerでもある。人々のもたらすpowerとは何なのか?冷静な論理で動くときは、人々の秩序を守るルールとしての法律で無法を縛り、またあるときは人々の攻撃的な気持ちを鼓舞するために恐怖で人々を煽り、組織形態を保ったまま個人の感情を恐怖で殺し、個々の人を機械的な操り人形にして狂信的な集団に変貌させ、狂気的なジェノサイドに導く。その、外からみると道化じみた権力者たちの手法、すなわち矛盾は、物語を観ていると巧妙に隠されている気がする。そういった人たちを実際に見たことがある人は、おそらくすぐに分かるだろう。そうした人間の性質の描写は少し政治的である。ナポレオンがまさにそうである。不可能という言葉はフランス語にあるのに不可能はないと堂々と言い切った、今はただの道化だったが当時は英雄であり恐怖の対象だった。
多くの助成金を得た作品からは、巧妙にそうした人物像の描写が排除されていることが多い気がする。結局のところ僕たちは時代は進んでも同時代的な作品のなかにではなく、シェイクスピアなどの作品のなかにそうした人物像をいまだに見出さなければならないのかも知れない。
現代の世界には、歴史ドラマの虚構のなかにのみ存在する、暴走する市民たちに悩み、落ち着くように説き伏せる徳の高い権力者は存在しない。
物語のなかにふたりの医師により救われた少年が存在する。一人は医師を救い、一人は医師を殺す。
これはよくわかる。
人に救われても、頭がおかしくなるとそれすら無かったことにして平気で救った人を殺すようになるのである。
これは日本でも、殺人に至らないだけでよくある。自分にない力(ここでは人を救う力)を持った、正義と真実が心の中に燃えている人間は、憎悪を煽り、恐怖で人を服従させて組織を操る人間たちにとっては憎悪の対象になるのである。
自分は少年を救うために戦争を一時中断させ、山の中に分け入った人たちが、戦争の小休止のなかで鳥の声を聞いたくだりで、自分も大好きな日本映画『せきれいの曲』を思い出した。『せきれいの曲』は本当に素晴らしい映画なのになぜか全然有名ではない。真実のなかで生きることほどの幸福は人間には存在しない。それは事実である。僕の周りには、嘘で塗り固めて虚言で生きている人たちが大勢いる。これは不幸である。やがて弱い人たちから病んでどこかに行くだけである。
これは本当のことである。
大きな権力を握り、多数派で組織を操ることが人間の幸せではない。
例え狂ってると言われたり、歌う喉を奪われて暴力に晒されたり、時には殺されて山に埋められようと、真実のなかに生きることほどの人生の幸せはない。
これは断言できる。
それゆえに憎悪されるのだ。
この舞台の最初に、演劇で世界は変えられないと言ったが、それは嘘である。
特にコロナ以降でみんな気づいたが、演劇で世界は変わる。ゆえに恐れられるようになってしまった。
舞台の上で、堂々と嘘をつくのは、いくら役者でも無理である。人生や家族との時間を犠牲にして、それでは何も得るものはない。
権力者たちは舞台の上での正直な人間たちを恐れる傾向にある気がする。それは彼らが権力者でもないのに台の上に立ち、利害関係者に忖度することなく、素直に胸の内を吐露する機会があるからだ。
舞台の上に立つと、胸の内にまっすぐな人間とそうでない人間は存在感が違う。それは観客たちにもわかる。
だからこそ、演劇で世界は変えられない、私たちは仕事でこれをやっているとあえて舞台の上で言うのである。一流の役者たちが胸の内そのままに舞台の上で表現すれば、文字通り利害関係者たちに拍手されて虚言を振りまく権力者たちとは役者が違う。裸の王様はたくさんいるのである。それはあまりに圧倒的な違いである。そのことを完全に認識しているので、そのように表明するのであるのだと思う。これは多くの劇団がそう言ったほうがいいと思う。現代は不安定すぎる時代である。役者が本心で表現しているのかどうかは、見ていればわかる。舞台の上で圧倒的な存在感を出して世界の矛盾を示すのは、こっそりと美辞麗句に紛れて吐露するしかないのかもしれない。シェイクスピアのように。シェイクスピアのように当時の権力者を揶揄するだけでなく美辞麗句も混ぜれば、芸術は成立する…。現代の権力者は利益でつながった集団であることが多いため、特にそのように思う。矛盾を暴くのは、難しい…(苦笑
一人の嘘つきの道化が百人の正直者の観客を騙すのは無理だけれど、その逆、すなわち一人の正直者の役者が百人の道化の観客たちに矛盾に気づかせるのは可能だと自分は思う。
ピエロがピエロを演じるのは、ピエロが演じた愚かな姿を見せて、虚偽に塗れた強力な自分たちを安心させるためではない。自分たちが真のピエロだと気づくためだと自分は思う。
(補足)
公演終了したのでシンプルだけど考え抜かれて軽量化された旅公演向きの舞台美術について書いてみます。
舞台美術の主なのはシンプルで、重めのコヨーテっぽい色のコットンの布地が後ろの方にかけられていただけでした。
そう、驚くべきことに最初見えてたのは本当にたったそれだけだったのです。
それは、最初はどうやら山々とその岩肌を表しているようで、そこが平地の民の法律、権力の及ぶところの『境界線、ボーダーあるいは限界』を表しているようでした。そしてゲリラたちが絶え間なく銃を撃ち合っているとでもいうように、人や、かつて生命のある人だったが今はもう人ではなくなった死体たちが、石や岩とともに絶え間なく転げ落ちるようなドラムの音が、奥から鳴り響いていました。それは今まさに戦時中とでも告げるように。
それが少しずつ幕が持ち上がり、ドラマーの姿が見えてきます。
姿が見えない間、鳴り響くドラムのサウンドは、音からして生のような重低音はあるが、最初はまさかこんなシンプルなセットと普段着そのものの衣装?の俳優たちで、ドラマーが帯同してドラムも持ち込むなんてわけもないだろうから、たぶん劇場備え付けの素晴らしいドラムンベース的なサウンド・システムで、録音したものをあたかも生のように鳴らしてるだけなのかなと、なんとなく思おうとしていた…が、どう聞いても生に聞こえた…(苦笑)。
それが幕が持ち上がるにつれ、ドラマーの姿が見え、生音であることがわかる…と、ドラムってそんなに重要だったんかな、と思う。
そしてそこはどうやら今まで遠くのように見えていた山々の戦争が人々の生活の上に覆いかぶさってきた現場であるらしいことに気づく。そこでは、戦闘員(ここでは単に銃器携帯者と呼ぶらしいが)だけではなく、無差別に民間人も含めて民族ごとこの世から消し去られようとした末の、不安に怯え家族を亡くした手負いの避難民たちがなんとか逃げ込んだ巨大なキャンプの天幕であり、そこではさらに自分たちの家族を殺した人たちによって管理されており、皆が不安に怯える人々の心臓の鼓動…どうやらそこは1994年のルワンダ。歴史に残る巨大なジェノサイドが勃発した直後だった。
そう、その難民キャンプを管理していたのは、民族抹殺に失敗したものの諦めずに、国連に監視されながら、目の前で殺し損ねた民族を、武力による恐怖によって、被害者たちの口を封じ、永久に自分たちの未遂に終わった途方もない規模の虐殺の事実を歴史の闇に葬ろうとすることを諦めていない、民族抹殺をしようとしたまさに当事者である加害者の民族で構成された政府軍だった。
ドラムの音はその軍隊の銃弾(黙っていないと生命はないと脅すような)、あるいは彼らが騒乱を鎮圧する途中で轢き殺した子どもの母親の泣き声などを示しているようにも見えた。
僕はベトナム戦争によって反戦が盛り上がった音楽の歴史のことを考えていた。その時代は、ビートを刻んで『人を殺してないで正気になろう、扇動者に恐怖を煽られるだけでは権力者の操り人間になるだけである、敵味方関係なく愛し合おう』と夢みたいなことを歌っただけで政治と言われた時代だった。
…ただその夢とは遠く離れた1994年のルワンダの難民キャンプでは、到底制御できないような不安と恐怖と敵意とが複雑に混じり合い、かろうじて1枚の布が戦場で赤十字などの善意で構成された組織の庇護を示し、皆に正気であることをかすかに呼びかけていた。
ぼくは、一見事実やインタビューを並べただけに見えそうなこの舞台のなかに巧妙に隠されてるメッセージは凄いと思った。
この演出家は組織という、オルガニズム(文字通りの人間とはまた別の生命体)の性質を知り抜いているのだと感じた。
その難民キャンプを管理している政府軍は加害者の民族で構成されている。
もし、まだ犯罪を犯していない人たちなら、夢みたいな愛を歌えば、涙を流して落ち着いて正気になり、日々の生活に戻って行くかも知れない。
しかし、民族の恐怖や猜疑心を煽り戦闘的にし、組織的な大量虐殺を扇動した人たちは違う。
彼らは被害者が本当のことを言い、今まで煽られていた同じ民族の人たちからも、今まで自分たちを騙して操って途方もない犯罪民族であると世界から名指しされるようになった原因であると糾弾されることを恐れる。それまでは英雄だったものが一気に大犯罪者へと転落してしまう。巣鴨のように。それはとてつもない恐怖だと思う。
彼らは夢のようなリリックでは動かず、隙があれば自分たちの邪魔になる人々をこの世から消そうとする。それは憎悪ではなく恐怖。
このような人たちに組織を操られた人たちと被害者の難民が一緒になっているというのは極めて危険な状況にある。
本来なら政府組織を暴走させて歴史に残るジェノサイドを行った人たちを一刻も早く刑務所に入れなければならないが、それもできない。
これが非常事態である。
敵が侵入してくるような戦争だけが非常事態ではない。
組織を暴走させて攻撃的にさせる首謀者が野放しになっていまだに組織のトップにいるというのはとても危険なことなのだ。
やがて天幕は風に吹き飛ばされそうに、より高くに持ち上がり、役者たちはそれをつかもうとする。
演劇とはそうしたものなのだ、とようやく気づく。
劇場は布1枚の天幕。
銃弾の雨には無力である。
その天幕が、正気を失った世論や、法律を無力にしようとする暴力的な権力に吹き飛ばされないように背を伸ばしてつかんで、そこにとどめようとする。それが役者たち。
演劇は僕たちに夢を見させて現実逃避させるだけではない。それだけなら、劇場を出たら現実にかき消される夢のまま。
甘くて現実で疲れた心を休ませる舞台ももちろん悪くない、というか凄い必要だが、天幕を掴む舞台も悪くはないと思う。天幕をみんなで掴まないと、すぐ飛ばされてどっかいっちゃうんだから。
正気になろう、そうすればオレオレ詐欺も扇動者も怖くない。
(途中でこいつ、ロックとか言いたくてしょうがないんだろうな、と思われそうだったので我慢して書かなかったなり(台無し))
吉祥寺まちなかリーディング 岸田國士selection
公益財団法人武蔵野文化事業団 吉祥寺シアター
ウェルフェアトレードショップ マジェルカ(東京都)
2025/03/29 (土) ~ 2025/03/29 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
はじめて行ったマジェルカはとても素敵な場所だった。
入り口も素敵なら、中も素敵。でも、来月閉店するという。
そんな場所だった。
僕はマジェルカからはちょっとだけ離れたキチムでの初演もみたが、いっぽうでずいぶん人の少ないレアなこの公演は僕にとってはとても雰囲気の違ったものに見えた。
それは自分が都現美の坂本龍一展から直で行ったというのでもあるのかも知れない。
岸田國士のこの戯曲はとりわけ素敵だ。
他の昭和初期の映画的な山の手とか井の頭線沿線(この時期の演劇は住宅開発などでの宣伝も含んだものも多いのかも知れない)での夫婦間の軽妙で小気味よい良い掛け合いの演劇とは少し違うというのもあるのかも知れない。
他の演劇なら、この女優は田中絹代で、男優は誰とか、自分なりに思い浮かべながら考えられるが、この戯曲は少し違う。
コミカルなようでいて夢のような、そして愛のある舞台である。今回のまちなかに夢のようにあり、そしてもうすぐ夢のように消える愛のある場所でのがじら公演は僕にそのことを強く印象づけさせてくれた。
都現美での坂本龍一展で、夢十夜のテクストをもとにした映像があった。有名なテキストである、女の『百年待っていてください』というものである。僕は岸田國士のこの戯曲が夢十夜なのではないかと今回はじめて気づいた。
ネタバレBOX
ふたりの出逢いは偶然である。
暗闇のなか。鉄道に身を投げこの世から去らんとする男ふたり。
一人は女に先立たれた若者である。もう一人は十も年の離れた醜く火傷で焼けただれた男である。ふたりは死の間際で噛み合わないやりとりやマウントを取り合いながら、やがて生きていく気力を取り戻し始める。
もし神がいるのなら、と戯曲を書いたものは囁いている…ように僕には感じられる。
もし神様がいるのなら、悩むものの前に直接現れはしないだろう。
ただ、他のものを神の依代にして、悩むものに語りかけるのかも知れない。この戯曲ではふたりの悩める男たちがお互いにそれぞれそうである、というように見える。
中年男は死んだ少女の写真を見ながら青年に語りかける。なるほど、これほどの女性なら、君が死を選ぶのももっともだ。今すぐ死んでこの女に会いたいと考えるのは自然である。でも、年長者の意見に耳を傾けてもみたまえ。君の人生の春はこれからではないか、役者としての芝居を恋人だと思っても良い、そもそも死んだ子に遭いたいからとすぐに死んでしまうような甲斐性のない男を、神さまは少女に出逢わせてくれるだろうか?むしろ逆では?未来永劫逢えないかもしれない、自分に与えられた役割を果たせば、いつかきっと少女と出会えるだろう、とか言いながらお互いに何度も自殺しようとして死に損なう、そのうちに二人とも死ぬのが先でも良くなる。
この出逢いが神さまの手によるのだとしたら。
若者は言う。少女は自分と売れっ子女優の仲を恋愛と勘違いしたのだと。それは…本当だろうか?それは自惚れかもしれない。少女は中年男と同じことをいったのかも知れない。それはよくあることだ。少女は女優といたほうが自分といるより若者の芸が大成するのかも知れないと思い、あえて身を引いたのかも知れない。それを若者がモテすぎる自分のせいだと悲観したのかも知れない。
もちろん現実は逆のことが多い。そういえば自分も昔、保護猫の片目の子猫の女の子がとても欲しくて、でも片目だったので慣れてる人じゃないと、と言われて断られ、でも諦めきれずに引き取り手が出るまでその子猫によく遊びに行った事があった。その子は見た目は不細工だと皆が言ったが、僕は片目のせいか遠近感がなく、おもちゃを出してもなかなか遊びきれないのに、あまり遊んでもらったことがなかったのか凄く必死に食らいついてくる様子が可愛くて仕方がなかった。ところが、なんか、とある人間の女の子のほうがその、野良からようやく生還(カラスに襲撃されてボロボロだったところから生還したらしい涙)して不安で一杯なはずの猫の子を不細工不細工といじめていた、というのを別の人から聞いた。なんか、僕があんまり猫の子を可愛がりすぎたかららしいが、その人間の女の子は普通のアイドルとか女優より可愛いくらいの女の子なのに、人間じゃなくて猫に嫉妬?とは意味わからんと思い、人間ってわからないな、という気がした。なんかそこまでいじめてはいなかったらしいけど、ちょっと自分は良くないな、と思った。その人間の子は当時19(当時は自分も若かったので変態ではない)だったから、たぶん若者の言う少女もそのくらいだったろうから、普通はそんなものなのかも知れないので、若者の自分モテすぎ説は現実的かもしれないが、そこはあえてそうではないと思いたい、ということをここではあえて言いたい(苦笑。こいつ夢見過ぎだよな、で終わりではなく、あくまで美しい作品世界のなかでの話なのだから。あれ、今気づいたけどさっきのエピソードいれないほうがよかった?
芸を磨いて、家族に囲まれ、少女がいなかったから一生寂しい人生を送ったというのではなく、美しくて人を救う台詞を芝居のなかで紡いでほしい、好きな女性を愛情という名前の鎖から永久に解き放とうと叫んで自らの身を列車に投げださんとする男の心に楔を打って、この世に踏みとどませられらくらいの。
いつかこの世での仕事が全て済んだなら、百年後に百合の花のように墓に咲いて私はあなたに会いにゆきたい。それは本当に、白百合のような女の子だったのだろうか。とかな。
僕も百合が好きで、今年もいくつも植えている。百年後に咲く百合とは違うだろうが。
続く
COUNT10 〜十離詩・夢十夜〜
街の星座
王子スタジオ1(東京都)
2025/03/20 (木) ~ 2025/03/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
薛濤という人の人生と詩作をいくつかネットで調べて見て、『おそらくこうだろう』的な流れのイメージはあった。
舞台を観ていて、実際、構造としては上記に近いフォームというか形態のようだったのだけど、ただ観ていてどこかでそこだけではくくりきれないというか、溢れ出す何か、というのか、何かに似ているというか、引っかかる感じがしていたのだけれども…それが何だろうか?と、舞台に出てきた小道具とか、流れだとかをいろいろとを思い返して…それが何か?喉につっかえて思い出せないが、ただそれを思いついたら、きっとそのイメージに全て持っていかれそうな、それは何なのか?むしろ思い出さないほうが良いのではないかなどと思いながらぼんやりと歩いていた。
…いつもは電車でまっすぐ帰るのだけど、明日は休みだしバスに乗ったりして少し長めにゆったりと行こうと、街ゆくあしたは土曜日休みだし華金な雰囲気のほころんだ人々の顔を眺めながら、気付いた。気付いてしまった。それで文字通り全てが予想通り持っていかれてしまった(苦笑)…ただ、それをここで書くとみる前の人たちに先入観を植え付けるかもしれないので、ネタバレに書きます。ネタバレと言って良いほどのものかは知らないけれど…
ネタバレBOX
十の転落の人生。詩作。繁栄のただ中の長安で。これは何かに似ている。何だろう?と思ったら、思い出してきた。
2018年、まだコロナもなく、アベノミクスの勢いもあった、ウクライナの戦争もなかった平和な時代、まだ十代のビリー・アイリッシュを幕張の100人くらいしかいないステージで観た感じというのか、そのリリックを見ても不穏で不遜、そして真っ逆さまに奈落に落ちそうな不穏で不安な不思議なステージ…今考えるならそこには能天気な時代が目の前で一瞬で闇になり、不穏と不安が支配し始める不安定な時代の始まりを確実に予言していた。今みたいな派手なステージとかじゃなく、当時は必要最低限のセットだった。
そんなビリー(・アイリッシュ)…薛濤は長安のビリーだったんだ。若い女性たちにパワーワードを与えて申し訳ない(苦笑)。
繁栄のただ中で転落し、じきに戦乱の萌芽を感じつつ、金満の宴で詩を詠む。金持ちの玩具なのだから、指先一つでどこの気持ち悪いオッサンのところに飛ばされるか分からないが、とりあえず自分が気に入らなければ破滅しようが時の権力者に唾を吐きかける不遜さはあった(という伝説)。そういえば長安は当時の唐の西部に位置し、現代のアメリカで言うならL・Aのような場所だ。
今まで長安というと、自分のイメージとしては最先端の仏教を西域から輸入する最前線宗教都市兼権威@唐代というイメージだった。でも、こういう作品を観ると、今まで渋谷だと思っていた長安は実はL・Aだったんじやないかという気がしてきた。
僕はオッサンやオタクの欲望を具現化したようなアニメ声の女優より、世の中は全員敵みたいな不遜で不敵な女優のほうがはるかにエネルギーがあって素晴らしいと思うタイプなので(アニメ声も苦手ではないです、オッサンなので(苦笑))、素直に素晴らしく感傷的な詩作(裏に悲しみや反骨心を感じる)を使いつつ、素晴らしい詩人の人生を語り、また実人生ではアル中を憎みつつ自分もアル中ロードに片足を突っ込みかけて藻掻く等身大(自分はアルコールを飲まないが(苦笑))のヒップホップ的な物語(実話ではないと思うが)を語る、優しさや癒しの要素のあまりない気がする一人芝居を素直に素晴らしいと思った。
そういえば俳優の女性の髪型もなんか当時のビリーに似ている。当時は目の前の少女が、一瞬でブルーノ・マーズと肩を並べるビッグネームになるとは想像もできなかった。
でも、薛濤って人、考えれば考えるほど、ビリーだよ。日本でこんな感じの女性作家がいる?いやなんか、たぶん普通に文章で読むだけなら全くそんな頭に残らなかった。目の前でビリーっぽい髪型の女優が髪振り乱してアル中と薛濤の酔っ払ったんか知らんが当時めっちゃ権力あった男に酒宴でモノ投げつけた(事実なら酒宴は凍りついたろう)伝説を繰り返し語る一人芝居見てなんか、今の自分たちの等身大のストーリーなんだと、ようやく気付いた。帰り道だけど。
なんか夢十夜あんまり書けなくてすみません。
もびいる
らなうぇい
インディペンデントシアターOji(東京都)
2025/03/19 (水) ~ 2025/03/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
観ていてすぐに気付いた。
これは、いわゆるジャンプ方式だ。正確に言えばジャンプだけでもないんだろうけど、いま最も勢いがあって影響力があるように見えるから、あえて自分はジャンプ方式とも勝手に呼んでいる。
それは安部公房とかの不条理とかと似ているようで物語の構造が明らかに違う。
以下、ネタバレへ(汗
ネタバレBOX
最近、こりっちに感想を書き足してるうちに他の人から感想の感想を受けてテンションが下がって書く気持ちが落ちがちなので、何か言われる前に書く!(苦笑
勢いで。これも一種のジャンプ方式とも言えそうな気もする。現実世界で勢いで突っ走ろうとして大破する人間たちを(仕事場で)大勢見てきたが、これは劇作の感想だから良いだろう…しかし大破しないように(汗
(自分が勝手にそう呼んでいる)ジャンプ方式とは何か?それは恋愛の薄いテラスハウス方式とも言う。
そこでは物語は結果的に生み出される副産物。
物語が(勝手に)盛り上がるのに重要なこと、それは特徴的な登場人物たちの誰と誰がどう出会うかだ。推しの子なんかでは主人公が意識して(職業恋愛として)テラスハウス的な番組で行っていたし、多くの女性が認知機能の低下した少年漫画しか読まない男子に物理的に物を投げるなどして(傷害罪になる可能性を若さの勢いで蹴散らしながら)意図して引き起こそうとする現象の一つがそれである。現実世界ではスクールカースト的にも全く遭遇しそうにもない、百光年先のグレイと、四畳半列島のペンペン草の生えた万年床の住人が接近遭遇するようなカオティックな状況が、必然的に起きたと錯覚させる設定(ストーリーテリングの技巧により観客の脳に不自然さを感じさせないよう働きかけること)が必要。
しかし、今回の劇の舞台は、おそらくジャンプほどはファンタジー色のない近未来(たぶん)。そこにはバチカンからの使者もいなければ、到底現実とは思えない子供じみた空想を神業的な技巧で具現化するアシスタントもいない。己の技で表現するのみだし、そもそも上の階のコンビニで買ったコーヒーを飲んでるような観客に、二時間(テンションのピークに到達して物語を小一時間進めるのだとしたら、30分でマッハのテンションに到達する必要がある、そんなんピエール・バルーにも無理だろうたぶん観たときないけど♪)でいきなり凄いテンションの芝居を見せつけても、観客たちを百光年彼方に放置しグレイ化させるのは間違いない。劇団10年くらいやって固定客以外いないのならともかく…それはそれで寂しいかもしれないがッ。
じゃあ、どうなるのか、というと、盛り上がらない。
そもそも今回の設定は、どうやら赤の他人が真の七人兄弟をめざすという、黒澤明が七人の侍で二時間で成し遂げられなかった偉業(兄弟愛≧助っ人(世間の漠然としたイメージ…何となく))を、生の俳優が観客たちが凝視する目の前でリアルに披露するという無理ゲーだった。舞台のなかで戯曲が完全に完成してここにのっていればだが。ただ、実際に兄弟姉妹がいる人ならわかるが、兄弟姉妹はそこまで信じ合っていない。いないよりは運命共同体的な雰囲気の中で多少外敵に対抗できる味方となる可能性があるというだけで、実際には遠くの兄弟より中学高校の同級生とかのほうがはるかに信頼出来るし信じられる。悲しい話だが(苦笑
そんなのは可能なのか、しかも物語もそれほど盛り上がる気配もない、あと私のような自他ともに認めるオッサンの目からすらと、なんかみんなやたらとオシャレだし…カッコ悪く走り回る汗っかきのボランチ(カッコ悪くなくてもいいが)的な俳優なしで物語進むの?これ、(みんな気づいてると思うが、演劇もサッカーと同じでみんなストライカー(おしゃれでクール)だと物語は進まない。ボランチがいないと)。と思ってたら、どうやら劇作家の投影らしき作家の卵らしき俳優の男が汗をかき始めた。なぜ投影だと思ったかというと、この俳優、とても作家には見えない男前だし、なんか女子にもモテてるけど全く気にしてないからだ。こんな作家はいないだろう…たぶん!(THE先入観)
果たして物語は進むのか…?作家の投影は足掻く。ジャンプ作家がインタビューとかで、登場人物を配置したら物語勝手に走り出したんですよ、とか書いててそれを真に受けてテラスハウスやったら何も進まなかった、こんなん約束(誰も約束したないが)と違うぞ、と言わんばかりに。
その後も作家の投影?の焦りとは逆に、七人兄弟を目指す寄せ集めの男女の汗と涙は特になかった。そしてやがて、特徴的な登場人物たちが出会って兄弟を目指せば絶対に自分が考えつかないような物語が次々と生まれると思っていた、どうやらその七人兄弟式テラスハウスの出資者らしき男の焦りは頂点に達し、いつしか失業していて、その集まった男女に支払われるはずの謝礼の雲行きも怪しくなるのであった。
ひょっとしたらこういった物語に似た物語は過去に存在していたのかもしれないが、この舞台のようにこの物語で登場人物たちが舞台のうえにポチポチ出てくる登場の仕方と、テラスハウス的な目線というか…そういう役者の動きが共存しているのはあまり記憶になく、物語がどうというよりかは、発展させる余地が大きい演出手法のような気がして新しい気がした。
ハッピーケーキ・イン・ザ・スカイ
あまい洋々
インディペンデントシアターOji(東京都)
2025/03/13 (木) ~ 2025/03/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
こういうのって難しい。物語の評価と同時代性や切迫感という観点をどう評価するかだ。
自分の周りでも事件かどうかの話が多かった。当然だと思う。あまりにそんな事件が多すぎる。周りの人たちが騒がないのを不審に思うのは当然だと思う。悲しい話だが、一般の人たちにとっては、故人の心情やプライベート(法律的に故人にプライベートはない)なストーリーより、女子高生を殺した殺人犯が権力を使って警察の捜査を止めて野放しになっているかも知れない、という不安のほうがはるかに強いと思うので、騒いで警察に捜査を促すのは必然だと思う。警察も人員不足で証拠がないとなかなか捜査をしてもらえないからだ。
自分の周りでも実際、似たような事件があり、いろいろと考えながら見ていた。ちなみに会社内の身近なひとか1年ほど前に不審死して、警察が上司たちを捜査していたことがある。死因が分からないと不審死になる。現在でも毒殺だと死んだばかりで検死しても死因がはっきりしないことがある。今でも殺されたんじゃないかとの噂が絶えない。8年前ならなおさらだ。こうした事件は全く人ごとではない。
こういう事件性と劇作とを分けて考えるべきなのかは何とも言えないけれど、人間の生命がゴミのように扱われて消費されている時代においては、よくある話のようだが極めて同時代的な物語(最近は邪魔な人間がいると憎悪がなくても簡単に殺す人が多い)とも言え、そういう意味では演劇的だと思う。
学校教育では、社会に蔓延する暴力や無知について教えてくれない。YouTubeも官公庁のホームページも教えてくれない。
実は教えてくれるのは演劇くらいである。演劇経験者が社会の底辺にいることが多いからとも言える。それは悪いことではない。たいていの組織を支配すら人たちは暴力的である。トップの公人級だけが法律と弁護士たちに監視されているが、その直下の人たちはバイキングと変わらない、そんな組織が多い気がする。自由人たちは野蛮なバイキングの支配を逃れて食べていければ、奴隷同然の生活を送る一般的なサラリーマンよりマトモな人が圧倒的に多い気がする。昔の演劇人たちを河原の人たちのように言ったことがあったが、河原からみてみないと社会の病巣に気づかないことがある。あるいは実感しない。
実際自分も以前会社内で殺されかけて(実話)警察署に行ったが、捜査しようとしたところで、噂では副社長(教育長との噂もある)から『そいつは頭がおかしいから捜査するな!』という滅茶苦茶な理由の指示が署長に出てストップしたという…そして警察の人たちは逆になんで捜査が中止になるんだ、上からの指示らしいがどうなってんだ!と目の前でブチ切れていた。しかし結局はわざわざそんな連絡をしたおかげでヤバい副社長だと自分で証明した。(警察の人たちには次は110番しろと言われた)。でもそれも結局誰かが騒いだから問題になったので、騒がなければ問題にならない。騒いだからとんでもない会社があると全国の警察に知れた。マスコミより警察の情報網に載せるのが次の犯罪を防ぐのには有効である。
その副社長も任期満了で今月で解任される。教育長はその前に外された。…当然だが…でも、そういうのは割と普通らしい、一部の町ではだが。ちなみに副社長はとても良い人だが、詐欺師に騙されやすい。殺そうとした人が、私はあいつに脅迫された、と言われたらすぐ信じてしまう。脅迫した人がなんで警察に行くのかは分からないが、嘘でも信じてしまう、らしい。今まで自分の街の自分より強い人には遭遇したが、他の町から来た自分より強い人には遭遇した経験がないのだろう。そういうのが多い。詐欺師は自分では警察署を騙さず、権力者を騙して警察署を止める。そんな街ではいくら街が綺麗でも薄気味悪い犯罪が多い気がする。
とりま、世の中は危険がいっぱいなのに、子どもたちにはその知識が少なすぎる。かといって今みたいな僕の特殊な経験だと、なかなか実感がわかないから自分のパターンに落とし込めない(自分も当時いろんな人たちから話を聞いて冷静に対応した)し、結局はあり得そうなラインを見極めてストーリー化するしかない。教えるために。それは教育的な観点ではなく、世間の勝手な物語に騙されないようにと言う意味で。猫の視点にして話を客観的に落とし込むとかの手法に着目した夏目漱石はいま考えても本当に凄いと今でも思うよ。他人の物語も身近に可愛く語れるのだから。テレビは大金持ちの息子がパンピーのふりをして楽に生活しているイメージしか流さないから、危険なんて最初から存在しないような錯覚に陥るが、そのような既得権益で護られていない層にとっては社会をサバイブするのは無人島で生きるより過酷である。
ネタバレで世間話から離れて作品の分析を試みてみたいので、続く予定で
若手演出家コンクール2024 最終審査
一般社団法人 日本演出者協会
「劇」小劇場(東京都)
2025/02/25 (火) ~ 2025/03/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
一作目初日観てきました。
これから毎回書きます、が、初っ端から何も考えずに観て、難しいものから観てしまったと言う感想が第一。でも、これは選べない。自分の空いてるスケジュールに入れたらこうなった。
いつも思うのだけど、こういったコンクールは審査する方も、観ながら個人で自分の中で順位付ける方も順番が重要。
サッカーの試合で言えば序盤で、まだ自分のなかでの若手とか演出について今年の道筋を考えている段階で、もう答えを出せと言わんばかりの作品だった気がする。それが申大樹氏。とにかく物量勝負。ただ、演出目線で言うならだいぶリスキー。何と言っても原作が小川未明。早稲田露文というだけで、親近感が凄い。おまけに戦前の先進的なインテリ特有で、社会主義に感化されて児童教育にひかれ、その後身近の社会主義者の惨殺などでビックリして急速な国粋主義者になったりなど、見る人の視点によって戦争を体験したうえでにじみ出る純粋な反戦ファンタジーなのか、それとも時代の変遷を経たうえで児童文学の権威としての勢いを保つための小芝居で見せかけで作り物の反戦フェイスなのか、すべての作品で感じが分かれる。厳しいようだけど。コンクールでこの選定は逆に難しい。自分的に小川未明の再評価は90〜ゼロ年代。平和で牧歌的な時代。だからこそこの甘い反戦物語が新鮮に見えたのかもしれない。ただ今は嘘と欺瞞と小芝居の時代。甘いオーラを出していたら例え役所からでも安心してると買収されて町中から嘘つき呼ばわりされて町を追い出される厳しい時代(目撃した)。誰も信用出来ない。今は残念ながら甘い物語に酔ってる余裕はない。ハッキリ言って友達以外は全員嘘つきなのが普通(ヤバいまちに言ってるって言うようなもんだけど)。貧しい街ではそんなのが普通。豊かな街でも他の町から来た貧しい者が買収されて嘘つきになる。そもそも豊かな街では一番学歴の低いのが役所だったりするから、誰もそんなに信用してない。(ただ個人的な体感だと、多摩とか立川とかではそんなんないかも)小川未明の再評価され始めていたゼロ年代ならまだ世の中も多少は良かった。というわけで甘すぎるのは少し厳しい。現代は学術的な組織分析と、それを悪用する道化師たちとのいたちごっこが常に続いている。役所が率先してそんなことをする。たぶん動機は政治的。くだらない与太話は心を無にしてスルーするのが安全対策。
貧しい街では全員嘘つきだが、豊かな街では昔からの住民は嘘をつかないが、他の町から来た貧乏な人が役所に買収されて嘘をついて追い出される。信じられないが本当。豊かな街で一番学歴の低いのは公務員だから、豊かな街の豊かな人たちは公務員でも信じない。自分たちよりバカだから。今の時代の人たちに、国に言われて素直に死ぬ気持ちが理解できるのだろうか?今なら普通に裁判やデモしてるよなーと思う。そういう意味では作品全体に懐かしい明治大正な感じがあり、どうしてもレトロになってしまう。これは同時代感が少なめなのでリスク。
おまけに原作者は戦時中国粋主義者で時代を生き延びた。夢見がちで早死にするより、小芝居で生き延びた原作者の人生のほうが学ぶところは多い。残念ながら。でも作品としては素晴らしい。地方自治体から補助金を貰って、甘い夢を提示しながらこっそり原作者の人生に興味を持つきっかけを与えつつ、かつ人々に人生の潤いとは、意味とは、と深く考えさせるきっかけを与えると言う意味なら、これが劇団を生き延びさせる演出家としての答え。そういう意味では深いテーマでもある。物語は甘い一時の夢を見せる手段で、肝心なのは原作者の人生として、それを審査員に納得させることができれば優勝。ここほど批評的な口先が評価されるポイントはない。非情な話だけど、演出家の最大の仕事は政治的に無色を示して甘い夢を提示し、お上から補助金をいただいた上で役者に演技の自由度を保障するところが大きい。完全に作品を分析したうえで敢えて表現しない決断も重要。しかし人生は短い。そんなことしてたら何も表現できないまま人生は終わってしまう。難しい。
審査員たちも思い入れが大きいはず。もちろん自分も。東大と違って早稲田の露文は特に変わり者しかいないだけに、他の町から来て評価されるのかかなり難関。個人的な感想。すみません。
ちなみに最終日の批評は観ていません。すみません。どうしても時間がなくて(汗
結論から言うと、四作品すべてバラバラだった。こういうのは難しい。特に受賞作はスキルフルで、批評しやすい作品だった。これは難しい。批評家の出番の出やすい作品は評価されやすい。そして東京2作品が対称的で、インテリな感じのメルトと、少しレトロだけど物量と役者の歌などで推す申大樹氏の2作品が対称的。それだけでも東京の演劇の繁栄が見れる。こういう作品の幅は地方では少し難しい気もする。ただ、このコンクール自体気のせいか突出して勢いがなければ首都圏以外が評価されやすい気もしていたので、不利な要素もあった。
両方ともある程度形が出来ていて、今後形を変えるのか、変える必要もあるのか不明な気もするので、審査員の腕の見せどころが少ない気もする。それも不利。
第10回東京学生演劇祭
東京学生演劇祭実行委員会
インディペンデントシアターOji(東京都)
2025/02/20 (木) ~ 2025/02/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
Aブロック観ました。
毎年どれかは見てます。
はねるつみき、あらすじとは裏腹に割と深刻な話だった。ただ、舞台上では笑いの要素が強すぎて、台本を読んでみないと分からないかも。
明日まで台本公開中だった。
いそいで読んでみてほしいです。あらすじだけだと世の中の深刻な病を表現したっぽいのが、全く分からないかも。
以降ネタバレで。
ネタバレBOX
感受性の強い人が障碍者で搾取され騙され、健常者のほうが変態で頭おかしいっぽい、と言うメインらしき登場人物ふたりの設定は、実感として非常によくわかる。
例えば知り合いのおばさんがどこかの役所に、障碍者を職員皆でいじめて隠ぺいしている、あなた方は区民の恥だ、と投書したが、調査もしないで破いて捨てて皆で笑っていた(←知り合いの地元の議員の人から聞いた)
市民の人たちは調査もしないで投書を捨てて隠ぺいだろと言って騒いでいたが、役所のほうは、私たちはなにも隠さないと言っていたらしい…。
公務員ですらこんなに欠損して頭おかしいのだから、世の中の荒みようたるや、計り知れない。
健常者のほうが欠損している、と言うのは、リアルにそうだと毎日実感する。嘘ついてナンボというか…役所が捜査されてんのに障碍者が捜査されてるとか言ったりして、わけ分からないのもあったよ…。障碍者なら何しても良いと思ってるみたいだよ。
障碍者が活躍できるようにとか言うとひいきみたく言われるけど、実際障碍者だったら弱いからなんでもやりたい放題とか考えるのは公務員ですらたくさんいるから、この物語を見てると本当に怖くなる。
障碍者にとっては基本役所の公務員ですら全く信用できない、と言うか本当に地元の議員くらいしか頼る人が居ないというのが非情な現実なので、この物語のように結果良い人だっただけで変態に障碍者であることを言うのは、かなり危険、なのだけど、この物語の凄いところは、そのあたりの少し眠気を誘いまくる(実際意識を失いかけた)あとで急になんかぶっ飛んだ幽霊が出現するところにある。
もしここで幽霊が出なかったらなんか…なんとか党とかなんとか党とかかな、とか思いそう。自分は記憶力だけはめちゃくちゃ良いので、北朝鮮に拉致されたらこの物語のチャイナさんならたぶん無傷だろうけど、自分は薬漬けにされて馬鹿にされて帰ってきそう…(苦笑
続く
楽屋 ~流れ去るものはやがてなつかしき〜
ルサンチカ
アトリエ春風舎(東京都)
2025/02/15 (土) ~ 2025/02/24 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
最初、なぜ『楽屋』をやるのかよくわからなかった。
だけど実際に舞台を観てみたら非常によくわかった。わりとメジャーな脚本と言う印象だけど、個性と歴史観と女優の魅力が非常によく出る舞台だった。
ちなみに、いつも思うのだけど、近代演劇とは果たしてモダニズムなのだろうか?とれともプリミティブなのか?
…それは日本では、戦前と戦後と言ってもいいのかもしれない。戦前と言っても、昭和14年ころを境に全く違う。それまではジャズなどアメリカ文化が盛んだった華やかな時代、それ以降は戦中。戦後はナショナリズムのモダニズムの夢敗れた自由な時代。つまりプリミティブ。
日本は戦争の前後で割と自由な時代を二回経験した。その自由な数十年間は、なんだか個人的には日本の文化のなかでは宝のような期間で、その豊穣の時代があったから日本の文化的豊かさがあったんじゃないかな、とも思う、今はないけど。
その合わせ鏡のような自由を映しながら二人の女優が舞う。髪型も似ていてお互いをディスりあうが、観客として見るなら正直、そこまで違うのかな、とも思う。それが原作者の意図なのかは知らないが、舞台の上で観測するなら極めて近似した二人の女優である。違うのは二人の年だけ。ただ戦前は豊かだったためか少しアメリカ的、戦後は同じく戦争でめちゃくちゃになって貧しかったフランス的のようにも映る。それは感情移入なのかは知らないが。映画という分野で言うなら逆かもしれないが、演劇という分野では少なくともそうだっと自分には見える。貧しくて自由な時代は、人目を憚らずに内省的になれるから、貴重である。それはあるいは政治家が内省的になるからかもしれない。…そんなことを、まさに不景気で内省的だっ90年〜00代に父親が総理大臣をしていた高校の同級生のことを考えながら思う。なんだかそんな感じだ、と。ただ、そうした雰囲気も舞台上では女優の色によって自由に演出され、そういう意味では歴史的でありながら余白に演出家や俳優の色がにじみ出る非常によくできた脚本と言っても良いのかもしれない。
モダニズムとプリミティブを感じるのは女優の元々の印象ゆえか。
ここにアニメの影響の強かった原作の時代以降の80年代〜の影響が見れなかったのは少し淋しいかもしれない。あるいはここが演出家の腕の見せどころだったのかもしれないと舞台を観ながらふと思う。
(ネタバレに続く)
ネタバレBOX
精神病院か墓場から抜け出たような女優が出現するが、これは1900年代近辺の芸術作品によく出る類型と言っても良い。その時代は多くの作品で精神病者をネタ元にした。ただし当時の芸術作品は精神分析のいまの進歩に及んでいない気がする。そもそも表現形態からして相性が悪いように自分には見える。多少は道化の要素を含み、当時だから許された類型の一つとして現在では慎重に扱ったほうが良い型のような気もする。そもそも現代には文学の歴史を知らない人も多いから、注意が必要かも。
ちなみに舞台上の鏡はその精神病のメタファーである、と言い切れるように思う。
ここでようやく、ここに出る役者たちはひょっとしたら一人の女優のプリズムのような内面の多面性を表してるのかもな、とも思う。
語弊があるとあれだけど、精神病によって女性性を表現しようとしていると言っても良いように思う。この女性の多面性は、内面の多様性であるとともに観客に向ける女優の多面性でもある。気のせいかこの多面性が豊かなほど女優として優れていると見なされることが多い気がする。これは男優と違うところだと思う。
ここで舞台上の女優たちの視線が気になってくる。そういえば始まったときから、ずっと客席をみていた。鏡越しでも、直接でも。
男性と女性の多面性は違うと思う。
男性は垂直的というか、権力に対しては嘘を振り撒き、横では密談し、下には隠して蹴り飛ばす。そういう多面性。僕は今までそういう虚言癖の人間の屑を役所で嫌と言うほどよく見てきた。女性も多少はあるかもしれないが、どちらかと言うと360度に対して合わせ鏡のように相手の夢を映し出せることを至高の喜びと思ってるのではないかと思ったりもする、僕はだけど。
女優たちは観客を夢見ている。
それが病なのかは知らないが、渇望しているのが観客からはわかる。鏡は女優の観客の視線を増殖させる良い装置でもある。観客の渇望を病的と言うならば悲しすぎるから、喜劇であると同時に悲劇。
最後にラフマニノフとかではなくバッハにしたのが一種の答えなのかもしれない。
ラフマニノフは分析的で重層的で無比。多くの作曲家に影響を与えたが近づくものはいない。バッハは川の流れのようで神聖。オルガンといえばバッハ。
楽屋を読むにはラフマニノフかな、と思ったらバッハ。今まで夢見て乾いたまま死んだ魂へのレクイエムだからバッハなのか。
途中から狂おしいくらいの悲しみが、戯曲を蘇らせてくれて良いなと思う。
もうちょっと書き足します
きみはともだち
果てとチーク
アトリエ春風舎(東京都)
2025/01/16 (木) ~ 2025/01/19 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
自分は二回観て、ようやくわかりました。たぶん歳のせいなのと、最近は二回観てようやくわかることに慣れてしまったのかもしれないな。
もちろん一度観て『分かった!』と思ったけど、試しにもう一度観て、この前のは全然分かってなかったな、もう一度観て良かった、ということが多い。これは脚本買って読むのとはまた違う経験だ。
まず他の人も書いているけど、このタイトルのともだちって、誰なんかな、というのを思う。これは登場人物全部当てはまるし、場合によっては物語の舞台の上にはでてこないもう一人の人というのも思い浮かぶ(そっちのほうが素敵なのかもしれない)。舞台の上にでてこない人の傷を思って想像できる心の優しさを持てるのかどうか。それがともだちの概念なのかもしれない。会ったことはないけど、『きみ』が傷ついたのをみて傷ついた人を見、きみの心の傷が想像できたから、きみはもう『ともだち』だよ、と思えたなら、舞台の上の人たちすべてがその人の『ともだち』なのだ、とも思う。それは家族でも恋人でも、きょうはじめて会ったばかりの人でも、みんなが『きょうはあの人のこと会ったことはないけれど想像できたから、みんなともだちだったね』となるのだ、とも思う。
こんなこと書くと、何甘いこと言ってるんだよ、とか言われそうだけど、まさにそうなんだ。自分がこんな甘いことを平気でスラっと書けるのも、『ともだち』がいるからなのだ。
世の中には超攻撃で、恐怖に駆り立てられて暴走し続ける人たちもいる。そのような人たちには、会社のお金を使って、利用できる価値のある人間かどうかを見極めて酒の席などに人を頼って割って侵入して仲間を増やすことしか考えられない人たちというのも存在する。そして横領して虚偽の報告書を作って自爆してクビになる、そんな人たちを大勢みてきた。登場人物の男性は、ひょっとしたらそんな人たちに今も囲まれてるのかもしれない。だとしたら可哀想だな、とか思う。
このような人たちには『ともだち』はいない。タダ酒でいい気にさせて利用することしか考えていない人たち。そんなのを僕は山ほどみてきた。そういう気持ちの悪さに意識できるかどうか、拒否反応を示して、なんかこいつ違うっぽい、と思えるかどうか、が正念場だとも思う。
割と社会的信用のある人たちはそんな人たち山ほどみてるからすぐわかるけど、社会に出てすぐの若者たちは見慣れてないから、戸惑ってしまう。
そこらあたりで『ともだち』かどうかが分かれてくる。会社のお金に取り込まれてしまう人、優しさを失わずに嘘を見抜ける感じの人たち。…そんなに気にする必要はないよ、とも思うけど、繊細だと気持ちの悪くなる。そうしたことにも気づかえるのか、社会に出てもひょっとしてマイナスになることしかなさそうだけど、たぶん、そんな能力。モヘー氏かっこいい♪
でもみんな小芝居を続けて演じてるんだ。悪いことをしていなくても、しなければならない小芝居の連続が、人生、なのかもな。
権力も人生にも限りがある、から小芝居もときには必要。悪いことしてなくても。繊細じゃない人に使える優しさはも有限だしな。
(もう少し書きたす)
音楽朗読劇『ピクシス・ノーティカ』
たよりこと
インディペンデントシアターOji(東京都)
2025/02/07 (金) ~ 2025/02/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
自分もteamバタフライ金曜日ソワレです。
チェロの生演奏があるのは良いですね。
あと、今回みたいに海が舞台だと、朗読劇のほうが良いかも。
開放感のある場所が舞台の設定だと、現地より朗読劇のほうがあっているのはわかる。それで生チェロがあるのは贅沢。
登場人物も、役者が限られた女優しかいなくても、女優は男性も異生物もいろいろと演じ分けられる人が多いから一体感があって、チェロとキーボードの生演奏と合わさってチーム全体のリズムが生まれて心地良い。
当日パンフにもあったけれど、なるほどこういうことなのか、と思った。
ネタバレBOX
物語は意外な展開があった気がするけど、ひょっとしたら若い人たちには意外でもなく、納得できる展開だったのかも知らぬ、と思ったりもする。
重い話も波の音とリズムに包まれて心地よい。
一時間半で区切りの良い時間で、映画よりお洒落で素敵。最近映画観てると急に思いもしない展開になってドキドキすることもあるけど、そういうのもなさそうで安心。
いつか南の海に行ったら、登場人物のことを波のリズムに包まれて思い出せたら成功なのだろうかな。
九州戦風カミカゼバイト
劇団ジグザグバイト
インディペンデントシアターOji(東京都)
2024/09/20 (金) ~ 2024/09/22 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
観てきました。
土曜日ソワレ、玉置さんのアフタートーク回なり。
それもあってか、目の前の生の会話からいろいろ紡げて聞けて、よっしゃよくようわかったな、と膝打つことがいっぱいありました。それが演劇と言うもんダス。世間の人たちはよくわからんだろうけどなけどな…汗。
よくよく聞けばいまの若い人たちにはよう分からんかもだけど、まぁそれはともかくそんなんいやいや、歴史の教科書のなかに出てきそうな大昔、神武より昔のいまから2〜30年前とは違い、いまは配信で東京の演劇もふつうに全国、ファミレスとかどこでもリアタイでみんな観られる時代、ひょっとしたら福岡からすると東京よりマイアミのほうが近いかもしれない。とか思う今日このごろ。…そうだな、10年前と比べると情報格差はうんと小さい。地方の演劇人は、大きな声じゃ言えね!!が、東京で情報収集をサボったオッサンたち(自分含む汗)より情報の鮮度はもっと高いっ。それもあってか、東京以外の劇団も東京に来るにもそこまで不安はないのかもなのな。そうすると、東京での本番勝負は技巧ではないッ。熱量勝負の感情演技に力が入る。それも時代か。東京で野田秀樹(実は出身高校の遠い先輩であったりするから高校演劇の伝説を父兄からよく聞いたりもした)の時代から小劇場を知っていると言うような…斜め斜めな上から上からの目線での批評をしようとしたい気持ちを抑えきれない諸先輩がたの昔の演劇心を思い出させる燃える瞳に魂が宿る(前置き長くてすみません)。聞けば一年前から決められたキャスト、みんな熱くて誰も落とせないからお金はないが、クラファンの力で全員連れてくるのに成功。一年溜めた熱量だから、目にも役にも力が入る。
続くすまん…
サンタクロース(仮名)の死
くによし組
インディペンデントシアターOji(東京都)
2018/12/21 (金) ~ 2018/12/25 (火)公演終了
満足度★★★★★
最近ちょこちょこ見るけど、何気なく良い台詞が投げかけられるところが良い😉
ネタバレBOX
会話のなかで、あれ、これ噛み合ってるのかな?
って台詞ってあると思う。
なんでここでこう言ったんだろうみたいな。
ほぼほぼコメディなんだけど、そんななかでポイとハッとさせられる台詞がなんか、ヒゲ人として差別されてるサンタ顔の男が同じ施設で育った嘘つきのウソ田のことを言う『だってアイツ優しいから』だったり、人面トナカイ主宰の言う『アタイだって女子より男にモテたいんだ』(だったっけ?)だったりする。
端から見てるとなんで、このキャラここでそう言ったんだろ、みたいな気もするけど、そこがいい。
だってウソ田ぜんぜん優しそうに見えないし、トナカイは男性目線を気にしてるようにも見えないし。
でも、世の中にそういうのってあるよね。
たいていは表に出ないまま一生を終えるそんなフェーズが、ふいに目の前で生きてる人間の口からポイと出てくるの、演劇だなぁと思う。
アユカの世界
アユカプロジェクト
インディペンデントシアターOji(東京都)
2018/10/24 (水) ~ 2018/10/28 (日)公演終了
満足度★★★★★
初日水曜日見てきました。
開演前からライブあって(知らなくて外にコーヒー買いにいって途中からだけど😅)最後まで声もつのかなと思ったけど、ちゃんともった。それだけで偉いなーと思ってしまった。
周りの俳優たちも目立たずそれでいてキャラも出ていて、カッコいい所もあって、良くできてると思った。
物語の書き手の優しさが伝わってくるところが良いですね😉
蒼いラフレシアの鼓動〜The beat of blue Rafflesia〜
東京ジャンクZ
インディペンデントシアターOji(東京都)
2018/08/15 (水) ~ 2018/08/26 (日)公演終了
満足度★★★★★
見ただけで疲れが半端ないし、万人に勧められる演劇ではないけど、人に正論を言って満足して薄い人生を送る人を見るのに疲れたなら、確かに行った方が良いかもしれない。
苦しむ救われない雑魚の人生以外、日本の芸術に価値が無いとパルムドールが教えてくれたのは正しかったのかも😓
人を殺して 生きている
オザワミツグ演劇
インディペンデントシアターOji(東京都)
2018/06/27 (水) ~ 2018/07/03 (火)公演終了
満足度★★★★★
思ったより凄く良かった😆
ギラついていて。
確かにこういう舞台は東京でしか出来ないかも知れない。
酷評してる人は照明と音響の転換も見てほしい。
腐った人生を美しく見せるのが演劇なのだから😉