ぱち太の観てきた!クチコミ一覧

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この上のない下水筒

この上のない下水筒

コトリ会議

アトリエ春風舎(東京都)

2026/06/12 (金) ~ 2026/06/17 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

コトリ会議が素敵だな、と思う理由の言語化はうまくいかない。でも、ローザスやショスタコーヴィチを好きな人には好まれる余白がある気がする。強いて言うなら枝の上にとまる小鳥たちの囀りが、宇宙人の地球侵略か李白の詩についての批評のように感じるこころの余裕のある人に向いている気もする。

繰り返すが、完全に同じではない。

やがて消えていく…

言うと詩的で、それこそショスタコーヴィチやローザスや李白のようでもありますが、ガジェットは藤子不二雄的でフィジカル会話劇なゆるふわ構造ホラーだと思います。

途中で急な反転(詳しくは書かないが)があったりして思わず

『李白かよ!』

と思わず心無い観客なら突っ込んでしまいそうな部分もあるが…自分は大人なので、そんな突っ込みはしない…(苦笑

過ぎ去ったものは、似たものがたまに通り過ぎる気がするが、同じではない、やがてすべてが消える…ローザスでありショスタコーヴィチで李白で、時たま藤子不二雄ですかね。薔薇の花のようと言ってもいいですが。

ネタバレBOX

今回みたいな唐突に現れ消える系の急な夢オチの登場で

『…李白かよ!』

とかはもっと広まっていい気がします。ここで

『ケラ(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)かよ!』

とかやってたら『コイツバイトしながら岸田賞狙ってるな…というかそもそもケラってそんな夢オチやってたっけ?やってそうだけど』みたくなりそう…というか実際に見たらわかるんですが、この夢オチのくだりそのものが今の内容なんですよね…(苦笑 このあたりからでもゆるふわ構造ホラーというのが汲み取れそうな。

全然ネタバレにするほどの内容ではないが…すんま村(そん)

補足…

ショスタコーヴィチとかローザスといったのが、雰囲気が似ているというよりかは、脳の使い方というのが伝わればとも思うのでの補足。李白とかは見れば分かるとおもう…

ここで言っているショスタコーヴィチやローザスは、
「この舞台の雰囲気がショスタコーヴィチっぽい」とか、 「ダンスみたいだった」とか、
そういう表面的な話ではないんです。

むしろ、

この作品を見るときに使う脳の回路が似ている

という。

例えば普通の物語だと、
観客は無意識に

誰が正しいのか
何が起きたのか
結末はどうなるのか

を追うと思います。

つまり因果関係を追跡する。

ところがショスタコーヴィチの後期四重奏を聴いていると、途中からそういう聴き方が破綻する。主題を追うより、

あれ?
今の音、前にもいた気がする
とか、

なんか記憶が刺激された
とか、

そういう聞き方になる。

ローザスも同じで、
振付を理解するというより、

同じ動きに見えた
でも違った
とか、

さっき見た気がする
とか、

身体の時間の流れを感じる。

つまり、
「答えを求める脳」から、
「差異や残響を感じる脳」

へ切り替わる。

コトリ会議を見ながらやっているのも、それです。

普通なら、
この女性は生きているのか死んでいるのか
を解こうとする。

でも途中から、
生きているかもしれない
死んでいるかもしれない
という状態そのものを眺めている。

仮の朝倉君についても、
本物なのか偽物なのか
ではなく、

朝倉君のようで朝倉君ではない
という揺らぎを楽しんでいる。

だからショスタコーヴィチやローザスという比喩は、
作品内容の比較というより、
鑑賞モードの比較
なんだと…。

ここで例えば『異人たちとの夏』
(手近な例としての死者との夏の日の邂逅という意味で)
を対比して構造化
(…異人たちとの夏は死者は昔と変わらない姿だからひと目でわかるが、こちらでは変わっているから直ちに判別不能…みたいな…そもそも登場人物の誰が死者とも作品中では確定しない)
しようとすると、なんかあまり良くない…みたいな(苦笑

※【補足】この時点で解釈は成立するが、成立した瞬間に少し嘘になる。…まるで仮のあさくらくんのように。
これは本当にショスタコーヴィチやローザスだと思う。

前と同じ音が始まる。

美しいが、前と完全に同じ音階ではない。

やがて消えていく。

もっと極端に言うと、
ミステリーを解く脳ではなく、
詩を読む脳なんです。

ただし李白の詩を「意味」で読むのではなく、
月を見ているうちに昔の友人を思い出してしまうような読み方。

以前に聞いた曲と同じ主題が浮かんだように聞こえるが、音階が違う…と思う間に消えていく…
という事象も、
実は作品のテーマを説明しているというより、
自身が作品を受け取るときの脳の動き。

何かが戻ってきたように感じる。
確認しようとすると違う。
その違いを感じているうちに消えていく。

ショスタコーヴィチの後期四重奏を聴くときも、
ローザスを見るときも、
今回のコトリ会議を見るときも、
たぶん
「これは何か?」
ではなく、
「これはさっきの何かとどう違うのか?」
を追っている。
そしてその差異を追っているうちに、作品のほうが先に去っていく。

だから解釈よりも、時間の感触が残る。
その意味で、ショスタコーヴィチやローザスは作品の類似ではなく、
世界を眺めるための脳の姿勢の類似
なんでしょう…🎻🩰🐦🌙

だから、知らない人には突飛な連想に見えても、
自分の中ではかなり自然な接続なのだと。

自分も
『誰かを待ちつつ来ない感じがゴドーっぽい』
とか、
『不穏な感じがケラっぽい。ポップだけど』
のほうが伝わりやすいとは思います。

でもそれは僕っぽくない。

自分が一番最初に思い浮かんだのはショスタコーヴィチで、ローザスとか李白ですから、その直感に従って観劇を楽しんだ時間の過ごしたかたを描写してみました…おそ松さまでした(苦笑


優しい劇団の大恋愛 Volume11『もっと愛してくれよ節』

優しい劇団の大恋愛 Volume11『もっと愛してくれよ節』

優しい劇団

吉祥寺シアター(東京都)

2026/05/10 (日) ~ 2026/05/10 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

正直、この劇団さん、今まで見たことなかったんですが、この三日間見てみてなんかわかってきた気がする。

最初はなんか柿喰う客を高校演劇のスタイルに落とし込んだように見えたんですが、見ているうちに違うな、と思った。

ネタバレBOX

観ていたら凄い2020年代っぽいと思いました。

ダンダダン展行ったあと吉祥寺というのもあるのかも。

5月上旬の東京にいるということもあると、いろいろと考えるきっかけになることが多かった気も。

自分のなかで今回見た優しい劇団の公演をみて近いなと思ったのは柿喰う客でした。そして柿喰う客に改めて近いなと思ったのはYBAとかで、かなりドンピシャなのはトレイシーエミンというか、トレイシーエミン的人生物語を能的な型に入れてキレのある身体表現に落とし込んで高速展開したのが柿喰う客のような。そこから日本アニメの異物回収力と合体して、ゼロ年代的過剰感と90年代的オカルトを流し込んだのがダンダダンからの柿喰う客とダンダダン的な勢い異物回収で同時進行的物語が同時高速展開する優しい劇団のやうに見えた、というか。

全てが繋がっているというか、5月の東京に異物回収力のある優れた作品が並んだから、共通点が目についたとも言えますが…大丈夫ですかね。

柿喰う客はなんかYBAと能的な影響がかなり大きいようにもみえて、トレイシーエミン的な人生展開力と幽玄さみたいなのが物語に落とし込む影響が大きかった気がする。

それがダンダダンで柿喰う客的高速展開で異物を回収するノリを昔のうる星やつら的なノリと合わせたようにして別々の時代のノリを混合してポップに提示することに成功。

そこからの優しい劇団的な。もちろんそれらが全てと言うわけではないですが、その結果極めて2020年代的な異物回収複数同時高速展開演劇になった気がします。

Qui som?─わたしたちは誰?

Qui som?─わたしたちは誰?

SPAC・静岡県舞台芸術センター

静岡芸術劇場(静岡県)

2026/05/03 (日) ~ 2026/05/06 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

なんか不思議でしたね。

隣の人が公演のこと何も知らない人だったのに、めちゃくちゃ拍手してました。

公演後は晴れ渡った富士山をバックに素晴らしい大騒ぎでした。…なんだろう?みんなに、何かを伝えたい、不安に負けてはいけないことをと、と思いながら藻掻いていたら、このようなものになった、と役者が言いながら。…たしかに自分もその言葉を納得しながら受け入れて拍手したのは間違いない(笑

世の中って、何でしょう?

人間って、恐怖に飲まれるとどうとでもなるんです。そんな姿をさんざん観てきました。僕は何一つ悪いことも後ろめたいことも皆無だから平静でも。…じゃあ、どんな予想もしなかったことが起きても、そしてしても、しょうがないねって言われたらどうかと思うと…まぁ皆様と同じように自分も思うと思います。そんなことぁねえだろ、と(苦笑

不安というのは恐ろしいものです。

不安になると本来なら、異常な状況ですから最大限に思考しなければならないはず…でも、脳のスイッチがきり替わるんです。そして思考の範囲が狭まり2-3くらいの候補に逃げ、その狭い選択肢のなかをぐるぐる思考はめぐり、オーバーヒートして、やがて思考停止して役割のテンプレ、要はRPGのキャラ化してしまう。

そうすると、会話は通じません。相手が想定していなかった事実を提示し、第三者に確認可能ですよ、と言っても、RPGの村人になっているので、決められたこと以外は何もしません。

これが不安にのまれた状態というもので、ただ外部から見るとRPGのキャラ化してるので、想定外の応答には答えられないだけで、一見すると明るくて何の不安もないように見えます。

そんな時に怖いのが、倫理や法律を完全に踏み外し『恐怖に飲まれて不動のオーラを醸す』人間が突発的に出現することです。これがどれほどの害悪をもたらすものか。本来ならヒトラーは酒場で酔っ払い相手に演説をしたまま終わるはずでした。でも違った。不安に飲まれてRPG化したドイツ国民はついていき、フランスにワンパンで勝ったんで調子に乗って史上最悪の独ソ戦へ。不安にのまれ、思考の幅が狭まる怖さは歴史が示しています。

何かに巻き込まれて恐怖に飲まれた人たちは小芝居にコロコロ巻き込まれます。僕が『正気になってください、とりあえず警察に相談したら?』と言ってもです。想定外の応答には答えられないんです。へんな犯罪に巻き込まれたなら、普通は警察に相談すればいいのに、その応答がなぜか想定外だと、RPGの村人化して、本来なら当たり前のことさえ考えられなくなるんです。これは恐ろしい。自分のように、常に、まぁ演劇とかを観ながら客観視して、周りで変な状況になっても不安を制御しつつ当たり前の行動を取れるように…できてるかはわかりませんが、でも311のときはみんなそうは思っててもなかなかできなかった。

後になったら大笑いで『なんであんなくだらない小芝居に騙されたんだ』みたいなことを言っても。なんで三文芝居にだまされるのか?それは恐怖にのまれるからです。目の前に巨大な権力か何かがあり、したがわないとどうなるか分からない…みたいな。この演劇はそんなことを教えてくれる気がします。

恐ろしい波でも、あとになって考えたら『落ち着けばなんてことないよ』になりますよね。恐怖に包まれると、正常な判断ができなくなるんです。

静岡の人って、そういう体験をしたのかな?とも思いますが。

チェーホフ in やしゃご 短編集

チェーホフ in やしゃご 短編集

やしゃご

アトリエ春風舎(東京都)

2026/04/25 (土) ~ 2026/04/28 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

観てきました。

役者が違うと描き方も違う。凄い面白いです。

チェーホフというと大昔の戯曲家で、古いと思われがちですが、全く違います。

最近ラミン・ヤマルとチェーホフは非常によく似ていると思うようになりました。

現代サッカーが極めてシステマチックになり、高速トランジションの応酬になることで心理学をピッチにマッピングしたような形になり、アートよりはむしろ戯曲に近づいていると感じるからです。

現代の高度なサッカーは戯曲という骨格から浮き上がった心理部分を抜き出したものを、視覚的にピッチ上にマッピングした様相を呈しています。

チェーホフは市井の市民のちょっとしたアクシデントから生み出される微妙な認知の歪みから、人間の温かさが滲む様子を描写しました。

ラミン・ヤマルは機械化したシステム(4-4-2などのシステム)のなかを、高速で多数の選択肢を示しながら移動(要は色んな選手へのパスやシュートの可能性を示唆しながらドリブルで高速移動したりする)し、チームのシステムの磁場を歪ませる(気づくと画面の端になぜかノーマークの選手が高頻度で出現する…要はディフェンスする相手チーム全員が高速で相手側の意図を取捨選択しなければいけないため、認知のズレが起きて見落としが出るということ)という意味で、チェーホフの戯曲を視覚化したような選手で極めて稀です。なお、現代サッカーでこのタイプの選手はほとんどいません。

今まではハロルド・ピンターや三谷幸喜みたいなメッシタイプ(職人芸で最短距離をきり裂くタイプ)が全盛でしたが、現代で実際のところ待望されているのはチェーホフタイプのように思います。フランスなどの戯曲では高速トランジションを応酬しながら物語が歪んでいくみたいな戯曲は試行錯誤されている感じはあります。

極めて分析的な言語体系のフランスらしいとも言えます。でも、日本の観客がそうしたものを求めているのかは自分には確信持てませんが…。自分の感覚では現代のSNS的なスピード感に乗せて高速トランジションを繰り返しながら、登場人物それぞれの認知のズレが物語全体を歪ませるタイプの物語は消費され、数十年後に残るのはチェーホフだけなんじゃないかとさえ思います。

それほどまでに、彼の物語に登場する人たちはみな愛らしく痛ましく、切実なため、消費しにくいからとも言えます。というのも当たり前で、チェーホフの時代はゴッホの時代で、その時代の感性が受け取った光や水を、今でも多くの人が浴びるために美術館に並びます。かく言う僕もその一人ですが。そうした輝かしい苦悩の時代に立ち尽くす人たちが戯曲のなかにいるわけですから、現代芸術を愛する自分もまた愛さずには居られないわけです。それが物乞いできずに若くして死んだ情けない男であったとしても。

これらは僕のチェーホフに対する最大の賛辞です。

日本でチェーホフに憧れた人はいましたが、岸田國士は直線的すぎますし、ケラは憧れつつも不穏さに逃げた感じはあります。そういう意味では世界的にも無二です。

こうした素晴らしい芸術家を生んだ国がまだ戦争しているのは哀しむべきことですが。

やしゃごが面白いな、と思うのは、なんというかストロークス的というのか、ストロークスは言うまでもないと言っていいかはわかりませんが、『ベルベットアンダーグラウンドらを都市型に洗練させ抽出した』バンドです。そういう意味ではやしゃごはチェーホフをストロークス的に都市的に抽出したとも言える気がします。

舞台についてはあとでもう少し具体的に書きます。

ネタバレBOX

ストロークスと言うと、なんで急に音楽?みたくなりそうですが、別に狂ってないんです(苦笑

ストロークスを見るとわかるんですが、彼らは単にカッコよくてコーチェラやサマソニに出るんじゃないんです。

彼らはベルベットアンダーグラウンドのミニマルさや都市の乾きを、ガレージやパンクの文脈を通して再配置したから、みんなから讃えられたんです。『これだよ』と。才能を目新しさよりは過去のものへの再評価に振り向けたというのか。

これは才能の浪費ではなく愛です。

自分が言いたいのは『骨組を再びリスペクトしながら使うのは、盗作ではなく、愛』だと。

身体に染み込んだ愛すべきものが漏れ出しまくることを盗作癖とは呼びません。

アメリカ的な価値観からすると地球上にかつて存在しなかったものをうみだしたら最高で、それ以外は凡庸だと。それを否定はしませんが、愛ゆえに過去の最高すぎるものをマッシュアップして控えめに再配置することを悪とは言えないはずです。

自分がこのことをあえて言うのは、ストロークスが過去の遺産のマッシュアップの成功の最高峰のように見えるからです。

チェーホフをマッシュアップして身体に染み込ませた役者には自信になるはずです。 

例えば牡蠣ですよね。

凄くストロークス的です。
イメージで言うと、

「牡蠣」 = 薄暗い路地で一瞬だけ光る場面

ストロークス = 夜の街で断続的に点滅するネオン

どちらも長々と照らさない。でも一瞬で全体の空気を感じさせる。

ミッキーアイランド

ミッキーアイランド

滋企画

アトリエ春風舎(東京都)

2026/03/09 (月) ~ 2026/03/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

観てきました。

面白かった。

これ、演劇なのかな、とも思った。

いい意味で。手紙のような舞台だったから。

ネタバレBOX

舞台のセットは海。あの世のよう。

そのうえに石の舞台。ベッドのよう。

ラスト、石のベッド…墓石のようなものの両脇に、車椅子とギター。

これは、ボブ・ディランだろ…と思った。

そして物語について考えてみる。思い浮かぶのはFukaiproduceの休止。今でも調べれば簡単な休止の経緯の記事が載っているのが読めると思う。

そして舞台。真面目で悲しい話なのに、笑いで絞らせない。なんか関西の舞台みたい。

思えば昔のFukaiproduceの舞台というのは、ゼロ年代の演劇のようだった気がする。

ゼロ年代とそこからの激しい断絶をうまく視覚化してるな、と思ったのはパフュームの衣装の変遷を見たときだった。うまく言えないんだが、パフュームのゼロ年代の衣装とそれ以降の衣装ははっきり違う気がする。みんなパフュームの音楽性が、とか言うが、違うと思う。ブラックピンクはパフュームより世界で知られているが、美術関係者はパフュームよりブラックピンクを注目していないと思う。パフュームがはっきりほかのアーティストと違うのは、日本…というか正確にはゼロ年代からコロナ近辺までの東京のアイコンとして時代の空気を全域で体現したアーティスト集団の記号であるからだと思う。

僕の思うFukaiproduce羽衣とは、パフュームのゼロ年代の衣装のイメージをそのまま芝居にしたようだった。少なくとも何回か見た感じでは。まぁ全く同じというよりかは、そういうイメージを持ってますよといったところで、僕が思うゼロ年代の音楽、というか芸術とは、変遷はありつつも『①憂い②遊び③少しのゴージャスさ』みたいなのが音符のなかに浮かんで体現されているのが特徴としてある気がし、Fukaiproduce羽衣は、僕の当時感じた雰囲気としては、まさにゼロ年代的なオーラを纏う舞台集団であったと言っても良い気がする。

今回の佐藤滋プロデュースの舞台は、まるでボブ・ディラン✕羽衣的ゼロ年代へのオマージュ✕関西演劇的な感じというのか。直感的に書いたので、たぶんエーアイよりきれいにまとまっていないと思いますが、すみません(苦笑

僕にはそれが手紙にも見えた。

散開?と、それに対する『年取りまくったジジイになっても風に吹かれて車椅子でステージに登場する、ギターを持ったノーベル文学賞受賞者』との対比というのか。もちろん散開?は全然悪いことではない。表現者は全員がボブ・ディランのようにお金があろうと何かを伝えるために車椅子でもステージに出続ける続けることをするべきであるとも言わない。

僕はボブ・ディランを苗場で見た。彼は車椅子だった。車椅子であるから弱い。ここは強者の楽園であるという人間はそこには誰もいなかったと思うが。今では車椅子は彼のトレードマークでもある気がする。彼が連れてきた空気、そしてその空気に包まれた彼の存在そのものが音楽だと思った。この舞台に出てくるムチムチプリンに歌を贈ろうとするジジイ(かろうじて着拒はされていないようだが…)は、自他ともに認める街の変わり者のようだが、存在そのものが音楽であり、うらまちの語り部であり、物語であり、哀しさであり、転がる石ころだった。

クリエイターが年取ってまだ、作り続けられるのか?ステージには立って格好良く入場しなければならないのか?

墓石の上で車椅子とギターで空気と会話し表現して、風に吹かれて生と死を歌い、やがて生み出されたリリックは屍肉のように森の動物たちに分かち合えられて、やがて海に還る。

自分も思ったけど、クリエイターの人がこの作品を見て、真似できそう…とは思わないはず。

この作品は切実なメッセージとしての文脈があり、それをステージから読み解こうという森の動物たち(=観客)がいるから成立するもので、一見語りの舞台だが、かなり構造が複雑で読めない。

批評は構造的にある程度出来る気もするが、この作品は手紙的だから、分析し過ぎると余韻を削る。

例えば自分の親が死んだ時、その感情を分析して満足する人がいるだろうか?

死んで土に還る。ミュージシャンはエコ。アーティストもそうあるべきだと思う。世の中のたいていの職業よりエコ寄りというのか…。エコでインディアンのような彼らは、たいていは生前は街の変わり者で、死んでから表現者の手で神話になる、あるいは表現のツールとなることで生き返る例が多い気がする。神話になる変わり者が裏町にいなかった町は薄い。

なんかそんな感じの実は深刻な話を笑いながら酒場の冗談のように語るから、こちらも少し戸惑ってしまう。

ドイツ語で言うところのシェーンハイトでまちの表が覆われていると、裏は死体ばかりになる。イェリネクの作品がまさにそうした危惧を表現した作品たちだった。岸田國士も長生きしていたらそんな作品を残したのかもしれないと思うような。

この舞台を軽く構造的に見ると、戯曲としては岸田國士戯曲賞を目指していない香りを感じた。絶対ではないが。

物語としてはゼロ年代的な演劇空気を、女の子に歌を贈るボブ・ディラン的というのか…インディアンとかロックとかみたいな輪廻転生的エコ空気感も含めて男の物語として再生し、悲しすぎないように関西演劇的な笑いのフォーマットでくるむ。

観客(=森の動物たち)の笑いの空気で祝祭的に海の上に浮かぶ墓石のステージで起こる神話を眺める。メキシコに行ったことはないが、架空のメキシコのまちの、その街で愛された聖なる酔っ払いの葬式をみんなで出したらこんな感じになるのではないかと思った。酔っ払いでムチムチプリンに空気読めずに歌を贈ろうとして着拒される聖者…着拒はされてなかったんだっけ?イェリネクの提示した恐れに対するヨーゼフ・ロートのシェーンハイトとは真逆の聖なる酔っ払いの神話というのか…。

例えば町一番の権力者や、権力者の愛好したナショナリズム的シェーンハイトを追悼しても恐怖しか伝えられないかもしれないが、裏町で愛された転がる石ころ、聖なる酔っ払いを追悼すると愛を伝えられる。

この差は大きい。

海の上のピアニストというのがあったが、そんなイメージのような。海の上を航海する墓石の上には、やがて旅人が風に還って消えたあと、車椅子とギターが遺される。

まさに立体的で、平面的な戯曲の上で台詞が迷路のように縦走する岸田國士的というのとは真逆な気がする。

でも、本当にそうなんだろうか?岸田國士は戦争が長く続いた歪んだ空気だからこそ、そのような表現手段をとった。

縦走に巡らされた台詞の上から、登場人物の人となりが浮かんでくる。

当たり前だが彼の戯曲の主役は空気ではない。空気から浮かんでくる人間そのものなのだと思う。

ついつい戯曲の完成度が目を見張ると空気に目がいきがちだが、そのさなかから浮かんでくるどうしようもない人間を冷徹に表現したのが岸田國士とも言える。

そういう意味では、本質的なところで岸田國士と全く同じであるとも言える気がする。

戯曲も車椅子も似たもので、墓石の上に連れてってはくれるが、やがて屍肉を食べられて風になったときに遺るその人物の存在感というか、輪郭、それが芸術の全てだと僕は思う。

なんか分析してしまうとすぐに消費されてしまうから、批評は芸術の敵みたいにならないように退散してみる。

分析は、自分なりには何でもたいてい出来る気がするが、分析しすぎないほうがいい場合も多い。正確に言うなら下手に批評するのが良い。あまり完成しすぎるのは良くない気がする。未完成のサグラダ・ファミリアのように。完成するとそれで終わった感じがして、批評が観客の心を覆い始める場合がある。もちろんそうではない。批評は付録であり、海の上の風見鶏程度のものでしかないから。見るも見ないも自由。
ヘカベ/ドゥロイケティス

ヘカベ/ドゥロイケティス

お布団

アトリエ春風舎(東京都)

2026/02/12 (木) ~ 2026/02/15 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

このギリシャ悲劇を最初に何処かで見たひとのうち、結構な人が物語そのものに疑問に思うのではないかと思ったりする。というのも、『生贄としてのスケープゴート』というのは現代ではわりとよくある見せかけの安定、解決をもたらす手法で、コミュニケーションの難しい弱者がその役割を負わされるのは一般論として事件を観察するなら『よくみる』からで、特に昭和まではよく見かけ、この物語もよくあるそういう事件のステレオタイプの一つを美しく物語化した…ように見えるというのも自然だからだ。

しかも事件後に生き残ったのはほぼ強者のギリシャ人である。

美しさより事件?そのものの構造のほうがまず先に立ちはだかって見えるのは、現代の一般的な傾向になりつつある気がする。というのも現代では毎日いろいろなタイプの事件が起き、警戒しながら分析する量は今までと比較にならない。間違いなく有史以来最大だと思うから、どうしてもこの事件を物語化したギリシャ悲劇を見て、多少胸がつかえる人間が出るのもしょうがないのかも。

今はエーアイが簡単に集団心理とか提示してくれ、ファクトとストーリー、エビデンス…と分けていき、それがいいか悪いかはともかく、プラスして歴史の積み重ねや組織犯罪のようなものの性質が思い浮かび、僕もどこまでこの物語を素直に鵜呑みにできるのかという気もする。それはギリシャ悲劇を観るとき考えすぎと言うものかも知れないが、自分の理解する限りではギリシャ人たちは非常に聡明で、現代人よりそうした集団心理に対する警鐘として、この物語を作成したのでは、と思うのが自然な気もしていたが、どうやらこの舞台の作者も自分と同じような感覚の持ち主のような気がした。

シェイクスピアを見るまでもなく、古代の物語は情報伝達の手段としてよく使われた。それは退屈とか面白いからというより、現実の警句としてだった。事件を粉飾しても、どうしてもここおかしくないかな?本当なのか?そう言えばあの人はあの家族を疎ましく思っていた、とかというところを分析して、庶民の人たちは自分の明日の危険を察知した。そのまま物語を鵜呑みにする貧乏人は生き残れない場合もあったから、物語を知る人たちだけが生き残って語り継いたのかも知れない。


どう書いていいのかあれなので、とりあえずネタバレに。

ネタバレBOX

まず最初に、この舞台はギリシャ悲劇を事件のように描いている。

そのため、僕も事件っぽく感想が書ける気がする。それは自分にとっては長年のつっかえが取れるようで喜ばしいことでもある。

というのも、この物語は後から生き残った人が描いたものだから、いかようにも読めるからだ。

単純に言うなら、ギリシャ兵たちが立ち寄った港(トラキア)にダラダラいるうちに事件が起き、なんかトロイアの王妃ヘカベたち一家と港の国の王様(ポリュメストル)がなんか死んだ…らしい。

いろいろ言っていたけどまとめると『しょうがない』『運命』『みんなすすんで運命を受け入れた。人殺しの王様だけが恨んでいた。どーしようもない人間のクズめ』のような形にまとまる気がする。

で、その話を聞いた庶民は『話よくわかんないけど、そのヤバい王様が隠した財宝がどっかに眠ってるとか?まだ行ったらあるかな?』とかで、それに対しては『バカ、財宝の行方を吐かないポリュメストルがどうなったかお前も聞いてわかったろ。ギリシャ兵たちがあちこち漁ってるから、お前も近づくと殺人君主ポリュメストルの手下にされて巻き込まれて殺されるぞ。さっきの悲劇の物語が〝公式〟だ!現実のわけないだろ』『…え?ギリシャ兵たちめっちゃヤバい奴らじゃん』とかとなりそう…

怨恨に塗れて感情のコントロールなくすのは今でもヤバいけど、この物語は母親でこの状態なら『わかりみ』だけど、現実の問題としては『財宝どこ行った?』『本当の話?』とかではないかと。

ちなみにこの悲劇、結構見てると登場人物の胸のうちがいくつも想像できる。公式な描かれ方とは別に。

まずヘカベ。

ヘカベは、表向きには「髪振り乱して怒りに取り込まれ、トラキア王を襲って自滅した母」という描かれ方をします。
でも僕の視点で見ると、

冷静に生き残った方の息子の生存と財宝の確保を計算して動いた
奴隷や王家、都市の責任まで背負っていた
怨恨に見える行為も、政治的・戦略的判断だった

つまり一番マトモで、責任感の強い人物なのに、物語上は一番報われない。

そのうえで古代アテナイの市民は、劇場で見るヘカベの悲劇を

「話は怪しいけど、ギリシャは勝ったし財宝も取った」
「王女は犠牲になったけど、民主的プロセスでの象徴的な決断だから仕方ない」
「女王は独裁王の一存で息子を失った→復讐して自滅」
「でも結果的に民主主義的判断が成立しているので安心」

くらいの距離感で受け止めた可能性。

つまり、観客の立場は

物語としてのカタルシスを楽しむ
自分たち民主政の正当性を確認する
敵対する権力者の破滅を他人事として見る

という三重構造になっているかも。

古代ギリシャ悲劇は、単純に「母が狂った」という話ではなく、

個人の感情
王権や政治構造
民主政の相対的優位

を同時に見せる政治的教育装置でもあったのでは。
なので、アテナイ市民が「民主主義最高ー!」と内心で思ったとしても、
劇中のヘカベの悲痛はちゃんと「観賞用の悲劇」として機能していた。
悲劇を見て自分たちの政治体制の正当性を確認する、という二重構造です。

…だからこそ、ヘカベの悲劇は不憫です。

要は、勝者ギリシャ軍の利益になるように、わざと物語にのるかたちでトラキア王を怨恨で殺すムーブで、一人だけ生き残った我が子(のちに立身出世したらしい)にトロイの民の全てを託すかたちで乗ってあげたのかもしれないのに、アテナイの民主主義の引き立て役の怨恨おばさんみたいな描かれ方になって。トラキアの独裁王?とかも実際はヘカベの兄弟とかで、トロイの民より近い存在かもしれないのに、あえてトロイの共同体の最後の代表としてアテナイの民主主義大好き民が『うひょー!民主主義最高!財宝が凄い気になるけど…誰かギリシャ軍で潤ってる将軍いたらたかりに行こう♫』と叫ぶための悲劇…芝居のために噛ませ犬を演じたのでは?とも感じるわけです。二千年前とかの出来事?らしいですが。

僕はそう思います。

…ただ、今ならエーアイに聞けるので『民主的プロセスで王女生贄に決まりますた!おめでとう!』とか言っても『お前ら全員倫理設定壊れてるだろ、エーアイに聞け!』で終わりですね。悲しい話(でもないか)ですが…。

つまり、現代的な視点で見ると、悲劇としては民主主義最高最強の再確認ショーかも知れないですが、実際にはその裏で敗者のほうが倫理的知的に優れてるかも知れない…。そのことをきちんと想像し分析しながら、自分たちの日常にもきちんと生かしていく(たとえ勝負に勝ったとしても決して傲慢にならない、無慈悲にならない、倫理を常に再確認、敗者の知性や冷静さを想像するなど)ことこそ、死んだ人たちへの花向けとも言えるのかも知れないな、とか。

そもそもトラキア関係者が預かったトロイの王子を仮に殺したとしても、それがそもそも民主主義的なプロセスでないのかすらもよくわからない。

そしてまた、ギリシャ軍も民主主義っぽく見せてるだけで民主主義ではない。市民が民主主義と錯覚してるだけで、責任を霧化してるだけ(占いとか)で、全然民主主義ではない…。

実態:
戦争中の決定や生贄の選定は、軍司令官や有力者の権限で行われることが多い
「民主的に決めた」と見せる演出は、あくまで物語上の方便
観客(市民)が「よし民主主義的だ!」と錯覚するだけ

目的:
勝者ギリシャ軍の正当性を強調
民主主義のカタルシスを見せる
実際の政治的利害(財宝や戦利品の分配)は、別の裏舞台で決まる

腐してばかりでもなんなのであれだけど、あとギリシャ悲劇は意外と『語られなかったこと』で物語の構造や人間心理の輪郭が見えてくるパターンがある。表面的なカタルシスにのみ込まれないことが重要…。あんまり当時の観客に感情移入して『ヒュー!民主主義最高!』な民になると舞台裏が見えなくなるため。制御しやすいけど。

エーゲ海沿岸ギリシャは、ハンモックに揺られてぼんやりしてても洪水終わったあとに種まきゃ肥料も何もやらんでも勝手になんでも育つナイルやチグリス・ユーフラテスと違って痩せた大地で完全なバトルフィールドであり、常に生死が身近にあった環境…極限状態のため、ギリシャ悲劇は法治が進んだ現代に置いても学ぶことが多い気がします…(苦笑

ただ、正直『ラスイチ』とか言うとコンビニくじのラスイチみたいで申し訳ないですが、やらかし王子が若い美女うばったせいで始まったこの下らない十年戦争(東スポみたい)のラストで10人いた子どものラスイチ王子(9人死亡らしい)のための怨恨パフォーマンスだとしたら、正直ギリシャ軍の動きとかあんまり興味わかないですね。

でも、そんなこんなを含めながら悲劇を見れるのは面白い。深掘り、妄想含めていろいろあるので。

今回はヘレネのトラキア王殺害シーンがない。

これは…難しいけど、ギリシャ軍関与を仄めかしているのか?とも思ったりする。

ヘレネのギリシャ軍、半人半獣の悪魔的怪物(現代で言うチェインソーマン)使ったヤバ集団というギリシャ軍信用崩壊カードを使って、トラキア王と差し違えの、ラスイチ王子延命、プラス隠し財宝の譲渡を裏取引で使った知略に長けた王女なのでは?というやらかし王子から始まった大戦争を最後一人で幕引きする王女という説が湧いてくる(召使いは半人半獣言うが王女は言わない)。王女ヘカベ自体は怨恨で狂ったというオデュッセウスのシナリオにあえてのったという設定のやうに見える。

長々と神話の設定の話が出てきたけど、要は今回の舞台で重要なマイナーチェンジ?採用バージョンは

①チェインソーマン的悪魔+人間を最終兵器として、攻略できないトロイア戦役でギリシャ連合軍が木馬に詰め込んで騙してぶち込んだとは事実、という設定

②連合軍は公的な機関っぽい性質を帯びており、令和の現代でいうところの『公的機関への強力な外部監査的組織』があるようで、そこに情報提供されて調査されたら、下手すればアガメムノーンやオデュッセウスも現在の外部監査に晒された不祥事塗れの公的機関と同様に即死?(英雄なのに)…そのため、情報漏洩を異常に恐れて目撃者を大量に殺戮している

つまり、チェインソーマン的な怪物をトロイアに送り込んでかろうじて勝ったのに、それが外部監査にバレたら即死の状況…喋りそうな人間を片っ端から排除しているというかなり現代的な状況にある。トラキア王が情報ルートを明示すれば、ギリシャ軍は排除(殺害もしくは生贄にされた王女と同様精神疾患扱いで生贄)の可能性があるため、トラキア王は情報入手ルートを明示しないが、外部監査に告発すれば軍関係者全員即死?になるかも知れないという脅迫を行いつつ、トロイアでの莫大な利権を要求している。

そこにヘカベの怨恨パフォーマンス…『チェインソーマン的怪物投入の情報を入手したトラキア王と相打ちになるという怨恨芝居』でギリシャ軍の利(オデュッセウスの即死回避)に貢献する形で、自らのラスイチ王子の生存戦略へ繋げるという逆転一発の感じに見える…ただ、そこら辺は明示されないが、暗示されているようにも読み取れるのが非常に斬新に見える。

わかりにくかったですか?

気のせいか、あえてそこら辺を明示しなかったのは、ひょっとしてどこかまわりにギリシャ神話好きな人がおり、大幅な改変(特に民主ギリシャ軍の公的機関っぽさ)に難色を示したのではないのかと推察しました。

ただ、自分は怨恨に陥りながらも最後の最後でギリシャ軍オデュッセウスと裏取引をしてトラキア王と巻き添えでスケープゴートになり、ラスイチ王子を政治(やらかし王子騒動)に巻き込まずに生還させたという賢明な母親の物語に見えました…。
少な少なに私す

少な少なに私す

Madada Inc.

THEATRE E9 KYOTO(京都府)

2026/02/04 (水) ~ 2026/02/07 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

少な少な…に私す。

削ぎ落とした無音の踊りで、ミニマムの極致、雅の欠片などないはずなのに、河原のような荒れ果てた場面を現すような舞台には、まるで応仁の乱のあとの平安貴族の屋敷が燃え尽きたあとの焼け野原でラフマニノフで踊る河原乞食のような美しさがあったと思う。

過剰の塊ともいえるラフマニノフを思い出すのは奇妙なのだけれど、石を落とす音、無骨で殺風景な音、がまるで戦争で落ちていく魂の音のようで、なんだかラフマニノフが生死の境のように鍵盤を叩く音を表現しているようにも思えたのだった。

漂う踊りからそう感じるのは奇妙といえば奇妙だけれども。

かがやく都市

かがやく都市

うさぎストライプ

アトリエ春風舎(東京都)

2026/01/24 (土) ~ 2026/01/31 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

初演も見たんですが、改めて見て、昔よりずっと密度があって、複雑なのかなという気がしてきました。ゴドーや岸田國士を思い浮かべました。宇宙人出てるのに。

うまく言えませんが、強いて言うなら凄く1995年的です。爽やかな不穏さへの憧憬にも見えます。エヴァからアリ・アスターあたりへの不穏さのエンタメ化の流れからすると、そこまで逃げ道ないほどではないが、爽やかに不穏、というかメインはそこではない感じというのか。

世界終末前日の夕暮れが永遠に続くようです。

世界終末まえの最後の夕暮れを、ゴドーのように、ミルクのまえで、ふてぶてしい猫がミルク頂きマンボしに来るのを待っているようにも見えます。

これが最後のチャンス。世界が滅亡する前に、いつもミルクを知らないうちに頂きマンボして、可愛さを私たちに分け与えてくれない消費されない可愛いさをもつであろうふてぶてしい猫をみるのは。

たぶんこれ以上ない世界最後の時間の使い方ですよ、ふんとに。
世界が終わる前にミルク泥棒(可愛いさを分け与えることなしに消えるという意味で)の姿を待つのは。普通に歌になりそうです。おしゃれ泥棒や花泥棒捕まえるのに近いですね(違うか)

あと、女の子の必死な『こっち向いてビーム』みたいなのを、消費させない、守るみたいなロックな宇宙人的像(ただし社会性なし)を遠くから観る感じとも言うのか。僕はいつも鼻くそほじくっていたので、そんなビームを受けた記憶はないが、そんなビーム出して無力な妹いたら兄本当に大変だよね…。この宇宙人兄は、自分の宇宙人っぷりは消費されても関係ないのに、マジメそうな妹の可愛さが消費されるのは黙ってらんない感が良いッスね(笑 宇宙人設定あんまし核には関わってない感じが逆に作品の核心にも見えますね。

バブル以降のマンガアニメーションの構造化言語化が進んだ今、この戯曲を分析するなら、凄いマンガアニメーション的な感じの心象風景にも見えます…。意外と似た戯曲はないですよね。皆無?…逆に本家のマンガアニメーションでは、これだけノスタルジックな世界前日の夕暮れは現在では珍しいのかもしれません。なんか。でも世界が終わりそうなのかどうかすら、僕には…わからない。世界は揺らぎの世界を抜けて、日本の法治は洗練され、かつての揺らぎはそこまででもなくなってしまったようにも見える…。

かつての揺らぎの煙漂う夕暮れの世界。いまもあるのか?年取った僕にいま見えるのか?

…いや、でも小難しいこと少し言いましたが、難しくないです。全然素敵です。たぶん若い人のほうがすぐ飲み込めるかも。そうであってほしいですね。

たぶんイスタンブールとか尾道みたいな、汚くて綺麗で、猫と坂がたくさんあって、海が近くにある街とは別の忘れられた街が、あるんだなって。このまちに欠けているものがあるのが、かがやく都市のようにも見えます。

もうちょい細かく書ければ。今日はとりあえずここまで。

エーアイのおかげでこの百倍くらい作ってピックアップできるから便利です…なんだかんだ言って技術の進歩は偉大…

ネタバレBOX

タイトルはル・コルビュジエの輝く都市から来たらしい。

ル・コルビュジエの輝く都市…なぜか日本では邦訳が最近まで全然出ていないのに、ニュータウン開発などの聖典にされて開発業者が科学的の名のもとに権威ビンタの便利な道具にした感のある謎の書…ほとんど誰も通して読んでないのに…。本人にしてみたら『ちゃんと読めよ、温帯で風向きが複雑に変わる日本で全く同じことをやれなんてひと言も書いてないよ』と言いそうな…。

そして、その真実?は…となると、ル・コルビュジエがフランスでこの本を書いたのは1930年代。ナチスドイツがヨーロッパを飲み込もうとしている時期だった。

ユダヤ人やコミュニストを地球上から殲滅するぞとかいう、ほとんど精神疾患に近い倫理崩壊した総督に、隣国ドイツが率いられ…フランスはもうダメかもしれない…そんな時代だった。

フランスの文化人たちも『もうヨーロッパはダメだ。チリかサハラ砂漠に極限都市を作って、ナチスが滅びるまで1000年でも2000年でも待ち続けよう…』そんな悲壮感が漂っていた、らしい。

ちなみにヨーロッパの歴史はそもそも敗者の歴史で、大航海時代のポルトガル、産業革命イングランド、ナポレオンのフランス、ユーラシアのアメリカであるロシアと、どん底の国が発展して脱出して巻き返すことで時代の最先端を更新してきた。

ル・コルビュジエもその文脈のなかで考えるとよくわかる。

ル・コルビュジエの輝く都市は文明が妄想的な戦争で消滅しつつあった時代に緊急避難的に『もう時間がない。このままじゃ生まれつつあったクリエイティブな文明社会は滅んで、パラノイアのような指導者の率いるナチスとソ連に全てが飲み込まれるかも…!』という悲壮な声をあげながら天才が思考実験した精華の極限都市で、そんな切迫感が歴史上なかった日本にそのままの形で置くと、息苦しいのは当たり前…だって平安時代なんて寝殿造みたいな謎のアウトドア建築を編み出すほどのナチュラリスト日本で、ル・コルビュジエいる?みたいになるのは当然…ただ中東のドバイなどの砂漠都市では猛烈に役立っている…そんなことを踏まえると、なんか作品に対する見方が変わってくる気もする。

これは本当に地球なのか?地球の取り残されたまちなのか?宇宙を彷徨う脱出シェルターか何かなのではないのか?ということで。もちろん、戯曲にはそんなこと全く書いてない。タイトルからそういう見方もできるのかもしれないな、というあくまで想像。

そもそもル・コルビュジエの輝く都市の都市はvilleで、メトロポリスではない。どちらかというと文脈からするとhabitantに近い、気がする。そういうのも脱出シェルター説に与する理由もある。

そこで、ウェルズの宇宙戦争の本を布教する謎のおばさんの存在。

これは、こっそり地球にやってきた宇宙人のウイルスや最近によって、宇宙人も地球人もほとんどいなくなって彷徨う都市…まちではないのかな?とか思う。いつか誰かが迎えに来てくれたら、とか祈りながらの。

ここまでで結構重層的にも見える。ほかの作品タイトルが出てくると、短くてもきちんと分析して、試しにいくつか構造化してみて、作品に合うかどうかを見極めないとなな感。

最初ル・コルビュジエの存在をどこまで解釈するのか悩んだ。というのも日本人は都合の良いところだけ切り取って解釈して、ル・コルビュジエの輝く都市を書いたときの文明が世界から消えるかもしれないという強烈な焦りや哲学、そもそも砂漠や高地などの極限状態で文明が必要最低限の資源で生き延びるには、なんて考えたこともないなかでアイデアだけ、哲学正反対のバウハウスと一緒くたに形だけ導入した経緯があるから。

でも見てて、これは普通の建築家よりずっと文明論的にきちんとル・コルビュジエを解釈しているのではないかという結論に勝手に達したため、このように書いております…。

すみません、前置きばかり長くなって、あとで書き出せれば…
「驟雨」「屋上庭園Ⅱ」

「驟雨」「屋上庭園Ⅱ」

やしゃご

アトリエ春風舎(東京都)

2025/12/07 (日) ~ 2025/12/08 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

観てきました。

岸田國士戯曲。

実験室。

これだけで高齢の演劇好きが来る要素は十分すぎるかも。

岸田國士は、僕の中では日本の劇作家のなかでほかに比べることの難しい全能感のあるバランサー型の天才で、他の芸術家で例えるなら、メビウス(BD)、シューベルト、プルーストなどが近い気がします。

若手にとって極めて危険な作家であることは間違いなく、普通に上演するだけでなんとなく舞台上で成り立ってしまうが、何も考えないとジャングルジムになってしまう危険で神聖な鳥居。

このような作家はほかに思いつくものはなく、ケラ…寺山…?誰とも違う。

フランス語の分析的な手法はあるがフランス演劇とは全く違い、どちらかというと登場人物のほとんどは平安貴族を昭和初期の山の手にそのまま持ってきたようでもある。(正直言うとフランス演劇よりずっとフランス的。フランス演劇よりむしろモンテスキューに近い)

極めて形而上学的だが、台詞のなかに完全にとけこんでおり、ゴドーより声高でない。構造自体が極めて反戦的だが、同時代の芸術人以外で気づくのは困難であり、何よりGHQですらおそらく全く気づかなかった。

シンプルだが、戦前の近代芸術のなかで最後に出現した世界水準の芸術の天才であることはおそらく疑いようもなく、いまだ日本演劇にとっては越えるのが極めて困難な壁であり、謎のエベレストにたとえても良い…つまり若手が遊びで登ると大怪我をするが、ためしに一度登ってみないと頂すら見えず(山だが巨大過ぎて壁そのものであることすら気づかない)、年寄り(過去に軽い気持ちで上演した経験があり、当然大怪我したが、意外と観客には好評で、おかしいな…と思いつつ自分の黒歴史になってる経緯あり)に止められ上演を諦めるとなんとなく『…なんだかよくわからない街外れにある謎の鳥居のまま』で、なんか演劇村のひとたちみんなありがたがってるけど、自分自身はよくわからないままこうべだけたれてる、それこそ謎の存在になりがち。

戦後は一瞬で過去の人になり、佐分利信のような人生そのものが岸田國士作品?みたいな奇特な人が残した映画…『慟哭』(1952)(ほぼ岸田國士の断末魔にも見える生々しい影響あり)とか成瀬とか、映画にうっすらと影響が残るのみで、戦後の敵味方プロレス政治の時代には生き残れなかった…かのように見えたが、バブルという不動産屋の祝祭ではなく中間層の発狂の時代(戦前と同じ社会病理)に、森田芳光の家族ゲームで再生を果たした。演劇ではなく映画に魂を持っていかれて演劇には名のみ残った…どうやら当時は演劇より映画人に岸田國士を熱愛する人が多かったのだと思う、大政翼賛会だったけども禁書を読むが如く。つまり恐ろしいことに後の演劇人は岸田國士作品を勉強するには演劇作品というよりかは慟哭や家族ゲームを見ないとその後の岸田國士の影響を受けた日本文化人の足跡を認識できない状態になったように自分には見えた…。

※岸田國士→佐分利の慟哭→森田芳光の家族ゲーム

上記は、日本の社会病理などを扱った文化表現の直系。なぜどの批評家も明確に指摘しないのか不思議なくらいはっきりしていると思う。続けて見て分析すれば、現在ならかなりの人がわかると思う。

いつも思うのだけれど、本来なら普通にノーベル賞取れたはずなのに惜しい…というのも岸田國士は戦争に向かって爆走する日本人のために、目の前の罪もない人を殺すのは空気がお前を駆り立てるのではない、と言わんばかりにノーリターンの素晴らしい戯曲を書いたが、それは日本人のためというより全人類のためだったこともあり、ナショナリズムの香りが劇作からあんまり漏れなかったからでもある…。(むしろノーベル賞より素晴らしい位置)

そんなイメージなので、岸田國士で実験します!とか言うと高齢の演劇好きが『また命知らずの若者が…』と思いながらもなぜかウキウキして集まってくる地元の公民館ぽくなる流れ。

そしてもちろん自分もその一人、という塩梅です。

前置き長くなったが、こらから書き出し足します、
(あとで書き足す予定…)

セルマ & ソフィアン・ウィスィ『Bird(バード)』

セルマ & ソフィアン・ウィスィ『Bird(バード)』

国際芸術祭「あいち」組織委員会

愛知県芸術劇場 小ホール(愛知県)

2025/11/14 (金) ~ 2025/11/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

きょうはまる一日国際美術祭あいちで、栄と瀬戸市のまちなかを行ったり来たりし、夜この舞台を見ました。

この美術祭自体が素晴らしいものだったのですが、パフォーマンスの『BIRD』も良かった。

前日は京都で宗元仏画と堂本印象(奇しくも南宋の仏画の影響を色濃く受けた堂本印象と宗元仏画というレアな特別展が同時期京都というのは計画したかのよう)からの笑の内閣という、京都でしか観られない感じのものばかりを見てから名古屋入りしたのですが、名古屋の美術祭も舞台も、京都の美術館や舞台体験に負けず劣らずとても素晴らしいものだったのは自分にとって大きな発見でした。

かえる

かえる

近藤芳正

THEATRE E9 KYOTO(京都府)

2025/11/01 (土) ~ 2025/11/03 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/11/01 (土) 18:00

とても良かった。

京都で観るというのが、また良かった。

近藤氏は京都E9で上演するのが初めてだという。

でも、そんなことは感じられなかった。開演時間は京阪の遅延で5分遅れた。自分が移動する時も、そういえば東海道線が遅延していたかもしれない。三連休というのに関西は遅延ラッシュだった。自分は奈良から正倉院をみたあとで外国人だらけの奈良線に揺られてきたから京阪の遅れに気付かなかったが…。奈良線は、まほろばの郷から富士山を見るために、奈良から京都で、新幹線に乗る外国人、特に欧米人で溢れかえっていた。自分の家の周りも、欧米の雑誌でしばらく前に、世界でおしゃれな世界の町50に選出されて外国人だらけだったから、他人事ではない…。普通のどこにでもある町なのに…。渋谷から近い下町というだけで。…そんなことはさておき、舞台だ。

でも、この舞台、京都で見れて良かった。とても親近感がある。まるでコロナ前のアバンギルドで見るみたいな舞台が、生まれ育ったわけでもないがどこか懐かしい京都の街角の劇場で上演されたのだから。それも近藤氏の人生とも積み重なっているようだが、そのことはネタバレにもなりそうなので書かない。

京都は誰にとっても懐かしいかもしれないが、風化していない。これは実は驚異的なことなのだ。

…それにしてもこの舞台、なんで三連休の京都で上演されたのだろう?劇場で上演する舞台には不幸なことだが、この三連休の上演期間中は晴天に恵まれているのだ。ただ、それが京都の異邦人の僕にとっては良かった。

鴨川は不思議な川だ。E9の少し上流にアバンギルドがある。その上流には、一乗寺や植物園など。はなれてはいるが、川の水で繋がっている。

東京のどの川とも違うと思う。多摩川とも荒川とも神田川とも目黒川とも。いつか大阪まで旅してみたいと思いつつ、まだ果たせていない。

座標と初恋

座標と初恋

アオガネの杜

アトリエ春風舎(東京都)

2025/09/12 (金) ~ 2025/09/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

正直、キャンプの道具を買いすぎて金欠でしばらく舞台を観てなくて、本ばかり読んだり親から頂いた株主優待を使って映画ばかり観ていたけれど、しばらくぶりに舞台やを観て、やはり舞台は良いな、とつくづく思った。

それは尿酸値上がりすぎたらしいタニノ氏も一緒のようだった。

何を書いてもネタバレになりそうなので、以下ネタバレに。

ネタバレBOX

まず第一に気になるのは、この舞台には悪人らしき人がほぼ登場しない。それは若干不満が残る…。最初にあえてそう書くのは、そう書く批評家が絶対現れると思ったからで、自分も当然最初そう考えた。でも見ていてそのことにあまり集中するのは作品を味わう上で不毛かもしれないと思ったからだった。以下、

この舞台には民主主義の選挙で選ばれた首相の娘(民主主義国家ピー国人、ピー国はエス国に植民地支配されていた歴史があり、ジャガイモばかり作らされてきたらしい、汚職が横行)が、主人公(独裁国家エス国の国家元首の息子だが、このときは秘密、エス国は植民地支配していた周辺国から奪った収益で国力以上に学問が発展さている模様、豊か)と同じ大学の学生として登場する(大学はエス国だが、留学生はどうやらほとんどいないようだ)。そう、自分が男だからというのもあるが、物語を見ていて一見男女が主人公のようにも見えそうだが、自分にはそう見えなかった。自分には男性が主人公だと見えたのだ。

同級生が首相の息子だということは自分が学生の時にもあった。女の子ではなかったが(というか物語的にはもう一人は男でもよかったのではないかとも思うけど)、少女マンガを一杯持っていて、自分ともう一人の同級生は、その首相の息子から少女マンガをよく貸してもらっていた。それでずいぶん勉強させてもらった。そういった経験がなければ自分はいまだに少女マンガを読むような機会も無かっただろう。それは良い経験だった。ひょっとしたらどこかの女性演出家の方も、自分をどこかの会場で見かけて随分風変わりな男だな、と思ったかもしれないが、ある種進学校におけるザビエルの感化と言うことだ。

…それはともかくとして、その同級生の父親が首相の時に見た景色は大して良いものではなかったらしい。それは父親が原因というよりは周りの人間によるものだったようだ。つまりは今まで真面目だった人間も権力の近くに行くと頭がおかしくなるというようなものだったように思う。父親も政治家の息子だったため、権力には慣れていたので普通だったようだったが、それが余計に周囲の様子を浮かび上がらせていたのだと思う。

それは自分もこの年になってよくわかる。権力が近くにあるとなぜか人は発狂する。全てではないが。そして周りには容易には分からない。自分は舞台を観ているせいなのかわりとすぐに様子のおかしいのに分かるが、周りはおかしいのにすら気づかない(だがやがてとんでもない事態になっているのに気づく、そういうのはまさに恐怖)。…DJと同じで凡人が人を熱狂させる快楽に近づくと、熱狂させる権力が手の届く自分のものとなったように錯覚するのだと思う。そして詐欺師になる。戦争とはそうしたものだ。たとえば目の前で何千万人も踊らせるDJがいたとして、破滅のレコードを渡してもまだ掛け続けても誰も気づかず何千万人もが踊り続けるならば…。

戦争の詐欺師とは、たいてい爽やかで子沢山で奥さんを愛していて、友達も多い…しかも公務員で、真面目そうで絶対嘘なんかつかなそうな…詐欺師。その友達みんな詐欺師で役者。直上のてっぺんの権力者を軽く騙すが、特に誰も悪びれない。詐欺師の首謀者は別の権力者で、若い首相を操る老練の政治家というのがそれに当たる。

…たとえば新米首相になって最初に目の前に出された公文書が全てデタラメだとして、そのことに異を唱えられる人間が何人いるだろうか?敗戦時にはドサクサで詐欺師の公文書は全て破棄され、誰かのせいにされる。この国は神の国なので爆勝ち中と言っていたのに、ある日突然新型爆弾が落ちて首相官邸と周囲10キロは灰になったが、その偽の報告書を作成した側近たちは金塊を持って敵国に逃亡、戦争は全て首相が発狂したせいにして、誰も怖くて逆らえなかったという、そんなオチが普通なのが現実のような気もする…。

自国民を何千万人盾にして犠牲にしても、アメリカより先に原爆の開発に到達すれば逆転できる。絶対に夢物語にしか見えなくても、戦争に負けたらさんざん自国民を騙してきた人間たちはそう信じざるを得ない。秩序を守るため、トップのトップは護られるが、その下の普通のトップたちはトップのトップを騙した者たちとして断罪される。実際ほぼそんなもんだ。戦争とはそういったものだと思う。そういう意味では少し物足りない。

と、物足りない部分が長くなったのでアレだけど、でもやっぱり見ていて心地が良い、というのはタニノ氏も言うところで自分もそうだった。ちょうど中高生にやってもらいたい感じの舞台になってるな、とも思った。上記の政治系な部分、リアリティのありそうな部分がうまく抜けているからだ。

それはたぶん作家の意図したところだろう。

言語や、国家の固有名など抜いて、文学的な作品として座標を詩的に表現するところにフォーカスしている。これはとてもうまいと思う。抜けている部分は演じながら、想像力で補えば良い。そうしないと、座標も国家も組織も、想像力の範囲内に入ってこない。

SFジュブナイル的な感覚の文学的な演劇作品としてうまくまとまっている。ただ、ラストが少し短い気がする。もっと長く余韻を楽しんでもよかったのに。

強大ではないが喧嘩っ早いエス国の元首になった男の子は、降伏をしない。どうもベルサイユ条約のような形の降伏ではなく、ナチスドイツの敗戦時のような完全な瓦解を目指している、というようなものだった。

なぜそうするのかはよくわからない。描かれない。よく描かれていなかったが、エス国の独裁体制を終わらせるにはそれしかないと思っているようだった。

豊かで強大なエー国からきた怪しい黒服も良い。詐欺師のような、世界平和の意思のような、不思議なニュアンスでいて。

あの役柄を見た時は冷戦期のイタリア首相の誘拐暗殺事件を思い出した。

冷戦下で東西融和を目指したイタリアの首相は誘拐されて暗殺された。実行犯の共産系テロリストを手助けしたらしい軍関係者が内部にいたようで、目撃情報もいくつか妄想として決めつけられもみ消され、事件解決が遅れている間に東西融和を目指した首相は殺された。恐ろしい事件だった。そのころの冷戦下で、世界平和を目指すということは命がけだったのだ。意思を決定した時点で暗殺されかねないリスクがあった。そう言う意味でとてもうまい。

ピー国はアイルランドのような、琉球国のような、よくわからない立ち位置になっている。阿片が蔓延した前世紀初頭の中国のようでもある。選挙で選ばれた首相は、国民を愛国心で高揚させることに成功した。そして、五万人の犠牲によってどうやら国際世論を味方につけ、大国エー国を出動させることに成功したようだった。

ここらへんのお金(はっきりとは描かれていないが)の感じの話から、なんだかEUっぽい話が混じってくる。

なんかイメージ的にはスペインイタリアギリシャみたいなお金のない国が貧しいままでは域内の均衡が保たれず仲が悪くなるから、北の寒いドイツとかそんなところから国力を削ぎ取って貧しい国に分け与えれば競争や紛争も生まれない的な。得をするのはギリシャみたいなお金を貰ったりするだけのピー国…であってるかな?

みんな同じ国力で豊かになっても再分配されるからあんまり競争もない。競争はエー国内にすべて任せろってことかな…。

考えてみれば、戦争なんかなくても、古くて素敵なものたちは、経済発展でみんな消えるよ。

東京に数十年前の古くて素敵なものがいくつ残ってるだろうか?

少なくとも大阪ほどじゃない。

戦争と経済発展は似ているよ。古くて素敵なものをみんな消すから。経済発展をあきらめてあとは平和があれば、古いものは残る。たぶん経済発展爆進中のエー国は戦争なんかなくても、古くても素敵なものは国内からほぼ消える。他の国は平等に貧しいから古いものをてくてく直して残していく。天才たちはすべてエー国に流出する。彼らは科学を発展させ、エー国が君臨する未来を確約する。

そういえばこの舞台を観る前にトーハクの大奥展に行ったのを思い出した。鎖国しながらも、大奥に閉じ込められた女性たちのために、刺繍とかいろんな手仕事のものをぎっしりと詰め込んで…大奥と言っても大名たちの親族を人質代わりに出していたのかもしれないが、その贈り物のなかにたぶん人の温もりと、外の世界の美をパッケージしてデリバリーするために、そうした美しい手仕事はあったんじゃないかな?とても豊かだな、とも思った。少し悲しいが。憧れではないかな。たぶん。隣の清国のような金銀財宝はなかったかもしれないが、とてつもない樹木を使った天守閣もあり、平和を謳っているような江戸の文化だった。正直、豊臣秀吉がうっかり間違って中国侵略成功しなくて良かったんじゃないかとも思う。これも結果論で、もし仮に明国に勝ってもあとですぐに清国に負けてしまって何もかも取られていたのかもしれない。結局は日本で鎖国していたから、明国の学者が日本に亡命してきて江戸時代の学問の隆盛を支えた感が自分にはある。爆勝ちしなくとも、平和を守り手仕事や学問を愛せば、世界屈指の文化を築いたいい見本が江戸時代だったと思う。だから国というアイデンティティはそれほど必要ではなく、平和さえあれば、座標からにじみ出てくる香りが、平和な庶民のただ中から文化として湧き出てくる。そういったメッセージがあるのではないかとも思う。メッセージとかというと政治的な雰囲気にもなってしまうが、そういった願いというのか。

登場人物が真っ直ぐだから見やすい。割と何度も見て、描かれなかった部分をみんなで想像力で補って語り合えるいい舞台だと思う。色がついていない分だけ余計に。政治的に国内が分裂していると、こういう描き方が演劇では正確なのだとも思う。
始まりの終わり

始まりの終わり

ムニ

アトリエ春風舎(東京都)

2025/07/20 (日) ~ 2025/07/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

難しくは、ないんじゃないのかな。

全部理解しようとすると難しいかもしれない。

でも、感性に従って勝手に個人個人が好きに解釈すればいいと思う。

勝手な解釈に味が出る。

おでんみたいなもので、個人の感性がしみたら真っ黒くろすけな染みたおでんなのか、あたまでっかちな無味乾燥なおでんなのかの違いが出てくる気がする。

みんな、好き勝手に感想を書くといいと思う。ここは北朝鮮じゃないんだから、どんな感想を書くのも自由だよ、好きに作者の感性の世界を遊ぶのがいいと思うよ(笑

ネタバレBOX

さいしょにけっこうな謎として、そもそもグミは2036年に生きているのか?というのがある気がする。

物語構造としてよくあるのに、死んだ友達から招かれてかつて親しかった友達たちが長い年月を経て再び邂逅するというのがある。そのように書かれてはいないけれど、あらすじを読んで自分はそのような物語の可能性をまず考えた。

そしてそもそもグミなる男が存在したのかも含めて。登場人物五人の心のなかの理想のキャラクターなんじゃないのかな?とも思えたりもした。そしてそのほうが救いがある。

それらの連想はさておき、この物語の世界の好きなところは、そもそもがほぼこれから起こる事件として時間軸が設計されているということだと思う。こういうのって意外とない。そしてこの物語のなかではこの時代感はかなりポジティブな印象として働いていると思う。

…物語のほとんどが、これから起こる事件であり、かつ未来の五人の心のなかの思い出。構造として意外と見かけないし、詩的なのに懐古的過ぎなくていい気がする。

…なんだろう、僕らは作者から物語のバトンを手渡さたされたような気もする。それはある意味音楽的な発想なのかもしれないけれど、とりあえず自分はそんなことを感じた。

自分が考えたのはこんなふう。これからグミ(これはグミが同級生から誘われた二丁目のビアンバーで作者の分身にも思えるハーフの女性が邂逅した夢のキャラクター…それは前者の五人の友達のパターンの踏襲にもなるのかもしれないが…そしてそれが現実問題として物語を一番ロマンで満たす妄想ともいえる気がする)が、未来の渋谷でワールドカップのベスト8進出の騒乱騒ぎのなかで、見知らぬ死神から銃を受け取って、アジトで自殺する(これは僕の解釈)するのを止めて別の世界線に導くとか…自分はグミの物語が90年代のカート・コバーン(もちろん彼は銃によってニルヴァーナに向かった)の連想もあるのだが、それは傷ついた魂を痛みから救い出す甘い夢(しかもそれは懐かしい思い出のようで)でありながら、繊細な魂をこの荒れ果てた世界線で生き残らせる希望をもたらす可能性を僕らに夢見させてくれるんじゃないかな、とか、勝手に思ってみた。

考えてみると、不景気によって失われたゼロ年代のように当時は言われていたのだけれど、それがのちの今となっては外国から人を惹きつける時代(活気のある昭和とバブル後の内省的な雰囲気が融合されたような、と言ってもいいのか)であり、新しい文化の生まれた活気のある夢のような時代のように参照されるようになるとは夢にも思わなかった、というのもある。自分としてはそのゼロ年代は苗場のアーケイド・ファイアのあたりで少しゼロは過ぎるけどピークを迎えて終焉した気がするのだけれど、今生きている人たちにはその時代の蜜というのはリアルタイムではたいがい気づかないものだと思う。

人は人生を生きるに従って、かけがえのない大事な人間を次々と失っていくもので、それは悲しいことにたいてい繊細で優しさに満ちた人たちから消え、さいごには頭のおかしなことを大声で喚き立てる人間しか残っていないことすらある(苦笑

自分は生きてきて、目の前にどんな権力や暴力があろうとも、最終的には命を賭しても身の周りの傷ついた人間を救うのが、自分の人生を最も美しく生きる糧になるのだと思った。

グミというのはメタファーなのかもしれないけれど、人生を、表現を生きる糧にしてサバイブする自分のような演劇バカには、変わり者を言葉で支えて良さに気づかせ救い支える指標でもある。

…考えてみれば、公園だって造花ばかりでただ飾られて、隙間に美しく生きる昆虫すらいなければ、地獄じゃないだろうか?書き割りも隙間に台詞を囁く役者がいなければ卒塔婆である。

未来を生きるには、可能性を信じて傷ついた変わり者を目を皿のようにして見つけ支えなければ、自分の人生も美しくは彩れない。

恐怖や脅迫で人を脅し傷つける時代(とくに最近になって思うのだけれど、正気とは思えないくらい事実とは懸け離れためちゃくちゃなことを偉そうに言う人が偉いと勘違いされる時代でもある)だからこそ、弱いもに優しい目線を送る美しい物語は、大きな拍手で迎える必要があるのだと思う。(ちなみに以前の上司(しかも役所の部長)がどこかの病院に殴り込んで意味不明なことを騒いでその病院の精神科医に「間違いなく発狂している」と診断され警察に通報され、都内の警察で情報共有され有名人になった挙げ句クビになった。議員と友達だと自慢している重役でもおかしなのはいる。地位と正気とは現代では完全に無関係なので、繊細な変わり者は勇気を持って生きていってほしい、なんてな(苦笑))
ラクリマ、涙 ~オートクチュールの燦めき~

ラクリマ、涙 ~オートクチュールの燦めき~

SPAC・静岡県舞台芸術センター

静岡芸術劇場(静岡県)

2025/05/04 (日) ~ 2025/05/06 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

静岡駅でゼロコ見てから、東静岡へ。

観てきました。

凄い、めちゃくちゃ面白い。

今まで美術館に行っても漫然ときれいだな、としか思わなかったものが、血と涙に見えてくる(苦笑

もちろん芸術作品や美しい作品群のそれぞれに血と涙が込められているのは、自分も大好きな板谷波山とかのエピソードとかもよく知っているのでもちろん全く知らないわけではなかったが、演劇で見て今まではそんなに身近に感じていたわけではなかったことに気づいた。

ここまでではないけれど、自分も美しいものに触れていたいという気持ちが強くて、花を育てているので、舞台に出てくる人たちの美への執着にわかるところが多い。今までこの世になかった美が目の前で触れながら立ち上がり形になる時間を一緒に過ごすことの興奮というのか。

美の殿堂、ビクトリアンアルバート美術館にしまい込まれるまで、いったいどれだけの職人の血と涙をこの布は吸い込んできたのだろう…。

それはもちろん布だけではないのだけど。

とにかく面白い。戯曲も買って読んでいるのだけど、面白いだけでなくて美しい。そして完成度が高く複雑であるのに、本当に面白い。現代の戯曲というのはこれほどのものなのか…。

この物語を観に来る、ということは、観客はだいたいたぶん美しいものに関心があるということだと思う。普通の観客たちと違ってそういった観客たちは、この舞台をみている間に、そうした自分が美しいと思うものたちと自分の関わりを思い浮かべているのではなかったのかと思う。それは刺繍とか絵画とか、明らかに手を使ったいわゆる『アート』といったものとは限らず、猫とか花とか、そういった自然が人類にもたらしてくれたものでも。もちろん僕もそうだった。

家で花や植物の手入れをしていると、よく近所のおじいちゃんおばあちゃんから綺麗だねって話しかけられるけれど、花にも品種を作ってきたガーデナーさんたちの苦労があり、土を混ぜる僕たちの、そして土のなかで僕たちや花を助けてくれる微生物たちの働きもあって、それで一瞬の美しさが生まれるのだと思うと素敵だなぁ、と思うことがある。

道の花の美しさは足腰が弱い人にも、お金がなくて散歩してるだけの人にも、仕事で目の前を通っただけのひとにも、等しく美しさに触れさせてくれて、世界の美を目のなかに届けてくれるから、素敵だと思う。

今まで人生を過ごしてきて、世間の人たちがちょっとお金を貰っただけで簡単に嘘をつく人たちばかりで、本当に心の中が醜い人たちで溢れかえっているのかということを身にしみて実感してくると、動植物や芸術作品の嘘のない美しさが本当に素晴らしいと思うようになってきた。

今回の物語もそれに似ている。

指先で美に触れるというのはそれだけ素敵な事なのだ。

他の人たちが自然の力を借りて産み出しこの世に送り出した品種を、やはり自然の微生物さんたちの力を借り、ご近所の高齢のお散歩さんたちの目を喜ばせるだけでこれだけ嬉しいのだから、ましてやこの世界に今まで存在しないか消えかかっていた美を、新たに付け加える喜びはまたより一層だと思う。

ラクリマで、涙によって形づくられた美しいものによって飾られるのは大英帝国の花嫁だった。観ていて僕も気づいたのだが、そういえば僕が花を育てるきっかけもよく考えたら少し似ているな、と思ったのだ。ぼくの母親は、綺麗な服で着飾ったりしないで、何十年も前の色あせた安いものばかり着ているのだが、僕はこの人は誰に見せても恥ずかしくないくらい優しくて嘘のない素晴らしいお婆ちゃんだと思うので、地味な格好をして目立たないのは勿体ないと思って、そのお袋の家の周りで僕が薔薇を育てているうちに、いつしか自分の家の周りも花の咲く植物ばかりなってしまった(でも花が咲きそうになるとお袋の家に置く、僕の周りを花で飾る必要はないので)。…でもそういったものだと思う。自分を飾るためにこしらえた美しいものは本当の美しいものではないのだ。残念ながら。

ネタバレBOX

当たり前の話なのだけれど、美しいもので、お金と権力のある自分を飾ろうとするのではなくて、他人の謙虚さ、誠実さや優しさを美しさで讃えて飾ろうとするから、アートは美術として存在するのではないかと思う。

それはこの戯曲が芸術作品として美しいことでもよくわかる。他者への優しさの視点がなく、ただの自己顕示欲しかなく権力や欲に塗れただけの美しさは、携わる人たちの悲しさを含む。

札束でビンタして金銀で飾ったものは、見た目が華やかなだけで美しくないのだ。

この物語を見ると、悲しいことにその大英帝国の花嫁はクレイジーな要求で自分の権威を見せつけるクレーマーでしかない。

この物語では、権力がなく(権力者たちに比べれば)貧しくとも、美に携わった人たちは決して権力の奴隷ではなかった。彼ら彼女らは美に魅せられた旅人で、そうした美の職人たちへの尊敬なしに、美しいものは決して生み出されない、そういう当たり前のメッセージを僕はこの物語で受け取った。メッセージ性のある演劇と言うと今では流行らないかもしれないが、それでもそんなことも抜きにしても面白い物語だった。普段は接点のない世界の物語だからだろうか…。

ただ同時にこの物語が美しさに携わる職人の人たちにもたらす教訓としては、美しいものを生み出す喜びに盲目的にしがみつくと、なんか気づくと家族が犠牲になってるということだと思う…(苦笑

僕たちは美術館に入る前に、美を産み遺してくれた先人たちと、その美を守り育ててくれた、なんかよくわからないけど、大名とか商人とか町人とか、そして何より職人たちに感謝しなければならないのかもな、とか思った。
〈不可能〉の限りで

〈不可能〉の限りで

SPAC・静岡県舞台芸術センター

静岡芸術劇場(静岡県)

2025/04/26 (土) ~ 2025/04/29 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

観てきました。そして静岡で美術館めぐりをして、いま、東京に帰ってきました…。

現代演劇の世界は、2.5次元とか、プロジェクションマッピングとか、そんなテクノロジーの活用によって、ただでさえキラキラした役者たちを一層華やかに照らすのに忙しいも関わらず、今回の作品は極めてローテク、シンプル、ただ、物語は単純ではなかった。慎重に政治性を排除しつつ、人間の集合体のひしめきが生み出す軋んだ世界の、矛盾と混乱と緊張の世界に真っ向から向き合っていて、素直にただただ圧倒された。

ナポレオンはフランス語に不可能という言葉はない(日本語訳では吾輩の辞書に不可能はない)といったらしいけれど、フランス語にもそしてもちろん英語にも不可能の文字はあった…というか、不可能(impossibilis)というラテン語を仕入れて英語に繋いだのはそもそもフランス語のほうだった…これこそナポレオンの言葉の矛盾(苦笑

ネタバレBOX

しかし、ナポレオンが不可能を信じなかったというのは、己の権力の強大さ故でもあった。

舞台上の言語が、最初は英語話者ふたり、フランス語話者ふたりだったのが、途中から、それぞれの役者たちがポルトガル語なども含んだ会話に変遷し、男性が女性の体験を語るなどと変化し始めるのも、そういった皮肉もあるのかも知れない。

世界は主要言語である英語フランス語だけではなく、主要言語ではないポルトガル語なども含んだ世界で構成されていると。

そして不可能という言葉も、ここではそれほどシンプルな意味ではないようでもある。

それは『impossible to survive』のボーダー(境界線=人間がサバイブする限界線)を表すのか、それとも『impossible to imagine』…ジョン・レノンの予想より遥かに悪い、敵意と緊張に満ちたハーモニー(融和)を越えた、比較的平和な世界にいる人たちが想像できない、あるいはその矛盾に気づくとそこでの権力者に睨まれるがゆえにあえて言葉にしない、その世界にいては想像できうる限界を越えた世界なのか…あるいは人類や世界そのものを一つの生命体に見立てて、『impossible to
aware (あるいは、memorize)』というようにして、被害者の全てがあの世か難民キャンプで恐怖によって加害者たちによって支配されて口封じされているため、世界が気づくこともなく、人類史の歴史からも欠落している、という意味なのか…凡てのエピソードが色々な世界や作品を想起させる。

そもそもラテン語のimpossibilisとは、当時の郡、あるいは宮廷の力の及ばないという意味…とするならば、タイトルの意味するところも少しは分かってくるのかも知れない。

ここで舞台上に張られた幕の形作るものが山を表現していること、それがつまり平地の権力、あるいは法律の統治の及ばない場所、すなわちボーダーなのだな、と言うのに気づく。

人々の組織の生み出す秩序のルール(法律とか刑罰)の及ばない、人々の恐怖を煽る権力者とその取り巻きの生み出す恐怖に支配された世界、それが『組織』と表現される赤十字や国境のない医師団の人たち目にする20キロとかの先にある山々。そこは恐怖で人を支配した人たちのせめぎ合いで、自分たちの口封じのために地面の下に埋められて永久に口を封じられた人たちが埋められた場所でもあるのだが…。そして、ここで気になるのが劇の中で赤十字の人たちと思われる人たちが自分たちのことを『組織』と頻繁に表現していること。最初これは一般論として色々な人道支援組織に共感できるようにそのように話ししていたのかと思ったが、やがてどうやらそれよりはむしろ、この物語自体が赤十字などの話ではなく、人間の生み出す『組織』の話であることを暗示しているようだと感じはじめていた。組織自体も神聖なものではなく、そのなかで組織の権力を乱用して悪事を働く変態、犯罪者たちも存在することが暗示されている。これは結末があえて示されていない。組織の性質を知る者にとってはよくわかる話だが、場合によっては犯罪者を告発した人間のほうが逆に犯罪者に仕立て上げられて追い出される場合もあるかも知れない。それが『組織』の恐ろしさでもある。確実な証拠を手に入れない限り、善悪よりも権力の論理でシーソーは動く。組織が暴走して変質している様子は外からはなかなか気づけない。

impossibleのpossibleは力、powerでもある。人々のもたらすpowerとは何なのか?冷静な論理で動くときは、人々の秩序を守るルールとしての法律で無法を縛り、またあるときは人々の攻撃的な気持ちを鼓舞するために恐怖で人々を煽り、組織形態を保ったまま個人の感情を恐怖で殺し、個々の人を機械的な操り人形にして狂信的な集団に変貌させ、狂気的なジェノサイドに導く。その、外からみると道化じみた権力者たちの手法、すなわち矛盾は、物語を観ていると巧妙に隠されている気がする。そういった人たちを実際に見たことがある人は、おそらくすぐに分かるだろう。そうした人間の性質の描写は少し政治的である。ナポレオンがまさにそうである。不可能という言葉はフランス語にあるのに不可能はないと堂々と言い切った、今はただの道化だったが当時は英雄であり恐怖の対象だった。

多くの助成金を得た作品からは、巧妙にそうした人物像の描写が排除されていることが多い気がする。結局のところ僕たちは時代は進んでも同時代的な作品のなかにではなく、シェイクスピアなどの作品のなかにそうした人物像をいまだに見出さなければならないのかも知れない。

現代の世界には、歴史ドラマの虚構のなかにのみ存在する、暴走する市民たちに悩み、落ち着くように説き伏せる徳の高い権力者は存在しない。

物語のなかにふたりの医師により救われた少年が存在する。一人は医師を救い、一人は医師を殺す。

これはよくわかる。

人に救われても、頭がおかしくなるとそれすら無かったことにして平気で救った人を殺すようになるのである。

これは日本でも、殺人に至らないだけでよくある。自分にない力(ここでは人を救う力)を持った、正義と真実が心の中に燃えている人間は、憎悪を煽り、恐怖で人を服従させて組織を操る人間たちにとっては憎悪の対象になるのである。

自分は少年を救うために戦争を一時中断させ、山の中に分け入った人たちが、戦争の小休止のなかで鳥の声を聞いたくだりで、自分も大好きな日本映画『せきれいの曲』を思い出した。『せきれいの曲』は本当に素晴らしい映画なのになぜか全然有名ではない。真実のなかで生きることほどの幸福は人間には存在しない。それは事実である。僕の周りには、嘘で塗り固めて虚言で生きている人たちが大勢いる。これは不幸である。やがて弱い人たちから病んでどこかに行くだけである。

これは本当のことである。

大きな権力を握り、多数派で組織を操ることが人間の幸せではない。

例え狂ってると言われたり、歌う喉を奪われて暴力に晒されたり、時には殺されて山に埋められようと、真実のなかに生きることほどの人生の幸せはない。

これは断言できる。

それゆえに憎悪されるのだ。

この舞台の最初に、演劇で世界は変えられないと言ったが、それは嘘である。

特にコロナ以降でみんな気づいたが、演劇で世界は変わる。ゆえに恐れられるようになってしまった。

舞台の上で、堂々と嘘をつくのは、いくら役者でも無理である。人生や家族との時間を犠牲にして、それでは何も得るものはない。

権力者たちは舞台の上での正直な人間たちを恐れる傾向にある気がする。それは彼らが権力者でもないのに台の上に立ち、利害関係者に忖度することなく、素直に胸の内を吐露する機会があるからだ。

舞台の上に立つと、胸の内にまっすぐな人間とそうでない人間は存在感が違う。それは観客たちにもわかる。

だからこそ、演劇で世界は変えられない、私たちは仕事でこれをやっているとあえて舞台の上で言うのである。一流の役者たちが胸の内そのままに舞台の上で表現すれば、文字通り利害関係者たちに拍手されて虚言を振りまく権力者たちとは役者が違う。裸の王様はたくさんいるのである。それはあまりに圧倒的な違いである。そのことを完全に認識しているので、そのように表明するのであるのだと思う。これは多くの劇団がそう言ったほうがいいと思う。現代は不安定すぎる時代である。役者が本心で表現しているのかどうかは、見ていればわかる。舞台の上で圧倒的な存在感を出して世界の矛盾を示すのは、こっそりと美辞麗句に紛れて吐露するしかないのかもしれない。シェイクスピアのように。シェイクスピアのように当時の権力者を揶揄するだけでなく美辞麗句も混ぜれば、芸術は成立する…。現代の権力者は利益でつながった集団であることが多いため、特にそのように思う。矛盾を暴くのは、難しい…(苦笑

一人の嘘つきの道化が百人の正直者の観客を騙すのは無理だけれど、その逆、すなわち一人の正直者の役者が百人の道化の観客たちに矛盾に気づかせるのは可能だと自分は思う。

ピエロがピエロを演じるのは、ピエロが演じた愚かな姿を見せて、虚偽に塗れた強力な自分たちを安心させるためではない。自分たちが真のピエロだと気づくためだと自分は思う。

(補足)
公演終了したのでシンプルだけど考え抜かれて軽量化された旅公演向きの舞台美術について書いてみます。

舞台美術の主なのはシンプルで、重めのコヨーテっぽい色のコットンの布地が後ろの方にかけられていただけでした。

そう、驚くべきことに最初見えてたのは本当にたったそれだけだったのです。

それは、最初はどうやら山々とその岩肌を表しているようで、そこが平地の民の法律、権力の及ぶところの『境界線、ボーダーあるいは限界』を表しているようでした。そしてゲリラたちが絶え間なく銃を撃ち合っているとでもいうように、人や、かつて生命のある人だったが今はもう人ではなくなった死体たちが、石や岩とともに絶え間なく転げ落ちるようなドラムの音が、奥から鳴り響いていました。それは今まさに戦時中とでも告げるように。

それが少しずつ幕が持ち上がり、ドラマーの姿が見えてきます。

姿が見えない間、鳴り響くドラムのサウンドは、音からして生のような重低音はあるが、最初はまさかこんなシンプルなセットと普段着そのものの衣装?の俳優たちで、ドラマーが帯同してドラムも持ち込むなんてわけもないだろうから、たぶん劇場備え付けの素晴らしいドラムンベース的なサウンド・システムで、録音したものをあたかも生のように鳴らしてるだけなのかなと、なんとなく思おうとしていた…が、どう聞いても生に聞こえた…(苦笑)。

それが幕が持ち上がるにつれ、ドラマーの姿が見え、生音であることがわかる…と、ドラムってそんなに重要だったんかな、と思う。

そしてそこはどうやら今まで遠くのように見えていた山々の戦争が人々の生活の上に覆いかぶさってきた現場であるらしいことに気づく。そこでは、戦闘員(ここでは単に銃器携帯者と呼ぶらしいが)だけではなく、無差別に民間人も含めて民族ごとこの世から消し去られようとした末の、不安に怯え家族を亡くした手負いの避難民たちがなんとか逃げ込んだ巨大なキャンプの天幕であり、そこではさらに自分たちの家族を殺した人たちによって管理されており、皆が不安に怯える人々の心臓の鼓動…どうやらそこは1994年のルワンダ。歴史に残る巨大なジェノサイドが勃発した直後だった。

そう、その難民キャンプを管理していたのは、民族抹殺に失敗したものの諦めずに、国連に監視されながら、目の前で殺し損ねた民族を、武力による恐怖によって、被害者たちの口を封じ、永久に自分たちの未遂に終わった途方もない規模の虐殺の事実を歴史の闇に葬ろうとすることを諦めていない、民族抹殺をしようとしたまさに当事者である加害者の民族で構成された政府軍だった。

ドラムの音はその軍隊の銃弾(黙っていないと生命はないと脅すような)、あるいは彼らが騒乱を鎮圧する途中で轢き殺した子どもの母親の泣き声などを示しているようにも見えた。

僕はベトナム戦争によって反戦が盛り上がった音楽の歴史のことを考えていた。その時代は、ビートを刻んで『人を殺してないで正気になろう、扇動者に恐怖を煽られるだけでは権力者の操り人間になるだけである、敵味方関係なく愛し合おう』と夢みたいなことを歌っただけで政治と言われた時代だった。

…ただその夢とは遠く離れた1994年のルワンダの難民キャンプでは、到底制御できないような不安と恐怖と敵意とが複雑に混じり合い、かろうじて1枚の布が戦場で赤十字などの善意で構成された組織の庇護を示し、皆に正気であることをかすかに呼びかけていた。

ぼくは、一見事実やインタビューを並べただけに見えそうなこの舞台のなかに巧妙に隠されてるメッセージは凄いと思った。

この演出家は組織という、オルガニズム(文字通りの人間とはまた別の生命体)の性質を知り抜いているのだと感じた。

その難民キャンプを管理している政府軍は加害者の民族で構成されている。

もし、まだ犯罪を犯していない人たちなら、夢みたいな愛を歌えば、涙を流して落ち着いて正気になり、日々の生活に戻って行くかも知れない。

しかし、民族の恐怖や猜疑心を煽り戦闘的にし、組織的な大量虐殺を扇動した人たちは違う。

彼らは被害者が本当のことを言い、今まで煽られていた同じ民族の人たちからも、今まで自分たちを騙して操って途方もない犯罪民族であると世界から名指しされるようになった原因であると糾弾されることを恐れる。それまでは英雄だったものが一気に大犯罪者へと転落してしまう。巣鴨のように。それはとてつもない恐怖だと思う。

彼らは夢のようなリリックでは動かず、隙があれば自分たちの邪魔になる人々をこの世から消そうとする。それは憎悪ではなく恐怖。

このような人たちに組織を操られた人たちと被害者の難民が一緒になっているというのは極めて危険な状況にある。

本来なら政府組織を暴走させて歴史に残るジェノサイドを行った人たちを一刻も早く刑務所に入れなければならないが、それもできない。

これが非常事態である。

敵が侵入してくるような戦争だけが非常事態ではない。

組織を暴走させて攻撃的にさせる首謀者が野放しになっていまだに組織のトップにいるというのはとても危険なことなのだ。

やがて天幕は風に吹き飛ばされそうに、より高くに持ち上がり、役者たちはそれをつかもうとする。

演劇とはそうしたものなのだ、とようやく気づく。

劇場は布1枚の天幕。

銃弾の雨には無力である。

その天幕が、正気を失った世論や、法律を無力にしようとする暴力的な権力に吹き飛ばされないように背を伸ばしてつかんで、そこにとどめようとする。それが役者たち。

演劇は僕たちに夢を見させて現実逃避させるだけではない。それだけなら、劇場を出たら現実にかき消される夢のまま。

甘くて現実で疲れた心を休ませる舞台ももちろん悪くない、というか凄い必要だが、天幕を掴む舞台も悪くはないと思う。天幕をみんなで掴まないと、すぐ飛ばされてどっかいっちゃうんだから。

正気になろう、そうすればオレオレ詐欺も扇動者も怖くない。

(途中でこいつ、ロックとか言いたくてしょうがないんだろうな、と思われそうだったので我慢して書かなかったなり(台無し))
吉祥寺まちなかリーディング 岸田國士selection

吉祥寺まちなかリーディング 岸田國士selection

公益財団法人武蔵野文化事業団 吉祥寺シアター

ウェルフェアトレードショップ マジェルカ(東京都)

2025/03/29 (土) ~ 2025/03/29 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

はじめて行ったマジェルカはとても素敵な場所だった。

入り口も素敵なら、中も素敵。でも、来月閉店するという。

そんな場所だった。

僕はマジェルカからはちょっとだけ離れたキチムでの初演もみたが、いっぽうでずいぶん人の少ないレアなこの公演は僕にとってはとても雰囲気の違ったものに見えた。

それは自分が都現美の坂本龍一展から直で行ったというのでもあるのかも知れない。

岸田國士のこの戯曲はとりわけ素敵だ。

他の昭和初期の映画的な山の手とか井の頭線沿線(この時期の演劇は住宅開発などでの宣伝も含んだものも多いのかも知れない)での夫婦間の軽妙で小気味よい良い掛け合いの演劇とは少し違うというのもあるのかも知れない。

他の演劇なら、この女優は田中絹代で、男優は誰とか、自分なりに思い浮かべながら考えられるが、この戯曲は少し違う。

コミカルなようでいて夢のような、そして愛のある舞台である。今回のまちなかに夢のようにあり、そしてもうすぐ夢のように消える愛のある場所でのがじら公演は僕にそのことを強く印象づけさせてくれた。

都現美での坂本龍一展で、夢十夜のテクストをもとにした映像があった。有名なテキストである、女の『百年待っていてください』というものである。僕は岸田國士のこの戯曲が夢十夜なのではないかと今回はじめて気づいた。

ネタバレBOX

ふたりの出逢いは偶然である。

暗闇のなか。鉄道に身を投げこの世から去らんとする男ふたり。

一人は女に先立たれた若者である。もう一人は十も年の離れた醜く火傷で焼けただれた男である。ふたりは死の間際で噛み合わないやりとりやマウントを取り合いながら、やがて生きていく気力を取り戻し始める。

もし神がいるのなら、と戯曲を書いたものは囁いている…ように僕には感じられる。

もし神様がいるのなら、悩むものの前に直接現れはしないだろう。

ただ、他のものを神の依代にして、悩むものに語りかけるのかも知れない。この戯曲ではふたりの悩める男たちがお互いにそれぞれそうである、というように見える。

中年男は死んだ少女の写真を見ながら青年に語りかける。なるほど、これほどの女性なら、君が死を選ぶのももっともだ。今すぐ死んでこの女に会いたいと考えるのは自然である。でも、年長者の意見に耳を傾けてもみたまえ。君の人生の春はこれからではないか、役者としての芝居を恋人だと思っても良い、そもそも死んだ子に遭いたいからとすぐに死んでしまうような甲斐性のない男を、神さまは少女に出逢わせてくれるだろうか?むしろ逆では?未来永劫逢えないかもしれない、自分に与えられた役割を果たせば、いつかきっと少女と出会えるだろう、とか言いながらお互いに何度も自殺しようとして死に損なう、そのうちに二人とも死ぬのが先でも良くなる。

この出逢いが神さまの手によるのだとしたら。

若者は言う。少女は自分と売れっ子女優の仲を恋愛と勘違いしたのだと。それは…本当だろうか?それは自惚れかもしれない。少女は中年男と同じことをいったのかも知れない。それはよくあることだ。少女は女優といたほうが自分といるより若者の芸が大成するのかも知れないと思い、あえて身を引いたのかも知れない。それを若者がモテすぎる自分のせいだと悲観したのかも知れない。

もちろん現実は逆のことが多い。そういえば自分も昔、保護猫の片目の子猫の女の子がとても欲しくて、でも片目だったので慣れてる人じゃないと、と言われて断られ、でも諦めきれずに引き取り手が出るまでその子猫によく遊びに行った事があった。その子は見た目は不細工だと皆が言ったが、僕は片目のせいか遠近感がなく、おもちゃを出してもなかなか遊びきれないのに、あまり遊んでもらったことがなかったのか凄く必死に食らいついてくる様子が可愛くて仕方がなかった。ところが、なんか、とある人間の女の子のほうがその、野良からようやく生還(カラスに襲撃されてボロボロだったところから生還したらしい涙)して不安で一杯なはずの猫の子を不細工不細工といじめていた、というのを別の人から聞いた。なんか、僕があんまり猫の子を可愛がりすぎたかららしいが、その人間の女の子は普通のアイドルとか女優より可愛いくらいの女の子なのに、人間じゃなくて猫に嫉妬?とは意味わからんと思い、人間ってわからないな、という気がした。なんかそこまでいじめてはいなかったらしいけど、ちょっと自分は良くないな、と思った。その人間の子は当時19(当時は自分も若かったので変態ではない)だったから、たぶん若者の言う少女もそのくらいだったろうから、普通はそんなものなのかも知れないので、若者の自分モテすぎ説は現実的かもしれないが、そこはあえてそうではないと思いたい、ということをここではあえて言いたい(苦笑。こいつ夢見過ぎだよな、で終わりではなく、あくまで美しい作品世界のなかでの話なのだから。あれ、今気づいたけどさっきのエピソードいれないほうがよかった?

芸を磨いて、家族に囲まれ、少女がいなかったから一生寂しい人生を送ったというのではなく、美しくて人を救う台詞を芝居のなかで紡いでほしい、好きな女性を愛情という名前の鎖から永久に解き放とうと叫んで自らの身を列車に投げださんとする男の心に楔を打って、この世に踏みとどませられらくらいの。

いつかこの世での仕事が全て済んだなら、百年後に百合の花のように墓に咲いて私はあなたに会いにゆきたい。それは本当に、白百合のような女の子だったのだろうか。とかな。

僕も百合が好きで、今年もいくつも植えている。百年後に咲く百合とは違うだろうが。

続く
COUNT10 〜十離詩・夢十夜〜

COUNT10 〜十離詩・夢十夜〜

街の星座

王子スタジオ1(東京都)

2025/03/20 (木) ~ 2025/03/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

薛濤という人の人生と詩作をいくつかネットで調べて見て、『おそらくこうだろう』的な流れのイメージはあった。

舞台を観ていて、実際、構造としては上記に近いフォームというか形態のようだったのだけど、ただ観ていてどこかでそこだけではくくりきれないというか、溢れ出す何か、というのか、何かに似ているというか、引っかかる感じがしていたのだけれども…それが何だろうか?と、舞台に出てきた小道具とか、流れだとかをいろいろとを思い返して…それが何か?喉につっかえて思い出せないが、ただそれを思いついたら、きっとそのイメージに全て持っていかれそうな、それは何なのか?むしろ思い出さないほうが良いのではないかなどと思いながらぼんやりと歩いていた。

…いつもは電車でまっすぐ帰るのだけど、明日は休みだしバスに乗ったりして少し長めにゆったりと行こうと、街ゆくあしたは土曜日休みだし華金な雰囲気のほころんだ人々の顔を眺めながら、気付いた。気付いてしまった。それで文字通り全てが予想通り持っていかれてしまった(苦笑)…ただ、それをここで書くとみる前の人たちに先入観を植え付けるかもしれないので、ネタバレに書きます。ネタバレと言って良いほどのものかは知らないけれど…

ネタバレBOX

十の転落の人生。詩作。繁栄のただ中の長安で。これは何かに似ている。何だろう?と思ったら、思い出してきた。

2018年、まだコロナもなく、アベノミクスの勢いもあった、ウクライナの戦争もなかった平和な時代、まだ十代のビリー・アイリッシュを幕張の100人くらいしかいないステージで観た感じというのか、そのリリックを見ても不穏で不遜、そして真っ逆さまに奈落に落ちそうな不穏で不安な不思議なステージ…今考えるならそこには能天気な時代が目の前で一瞬で闇になり、不穏と不安が支配し始める不安定な時代の始まりを確実に予言していた。今みたいな派手なステージとかじゃなく、当時は必要最低限のセットだった。

そんなビリー(・アイリッシュ)…薛濤は長安のビリーだったんだ。若い女性たちにパワーワードを与えて申し訳ない(苦笑)。

繁栄のただ中で転落し、じきに戦乱の萌芽を感じつつ、金満の宴で詩を詠む。金持ちの玩具なのだから、指先一つでどこの気持ち悪いオッサンのところに飛ばされるか分からないが、とりあえず自分が気に入らなければ破滅しようが時の権力者に唾を吐きかける不遜さはあった(という伝説)。そういえば長安は当時の唐の西部に位置し、現代のアメリカで言うならL・Aのような場所だ。

今まで長安というと、自分のイメージとしては最先端の仏教を西域から輸入する最前線宗教都市兼権威@唐代というイメージだった。でも、こういう作品を観ると、今まで渋谷だと思っていた長安は実はL・Aだったんじやないかという気がしてきた。

僕はオッサンやオタクの欲望を具現化したようなアニメ声の女優より、世の中は全員敵みたいな不遜で不敵な女優のほうがはるかにエネルギーがあって素晴らしいと思うタイプなので(アニメ声も苦手ではないです、オッサンなので(苦笑))、素直に素晴らしく感傷的な詩作(裏に悲しみや反骨心を感じる)を使いつつ、素晴らしい詩人の人生を語り、また実人生ではアル中を憎みつつ自分もアル中ロードに片足を突っ込みかけて藻掻く等身大(自分はアルコールを飲まないが(苦笑))のヒップホップ的な物語(実話ではないと思うが)を語る、優しさや癒しの要素のあまりない気がする一人芝居を素直に素晴らしいと思った。

そういえば俳優の女性の髪型もなんか当時のビリーに似ている。当時は目の前の少女が、一瞬でブルーノ・マーズと肩を並べるビッグネームになるとは想像もできなかった。

でも、薛濤って人、考えれば考えるほど、ビリーだよ。日本でこんな感じの女性作家がいる?いやなんか、たぶん普通に文章で読むだけなら全くそんな頭に残らなかった。目の前でビリーっぽい髪型の女優が髪振り乱してアル中と薛濤の酔っ払ったんか知らんが当時めっちゃ権力あった男に酒宴でモノ投げつけた(事実なら酒宴は凍りついたろう)伝説を繰り返し語る一人芝居見てなんか、今の自分たちの等身大のストーリーなんだと、ようやく気付いた。帰り道だけど。

なんか夢十夜あんまり書けなくてすみません。
もびいる

もびいる

らなうぇい

インディペンデントシアターOji(東京都)

2025/03/19 (水) ~ 2025/03/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

観ていてすぐに気付いた。

これは、いわゆるジャンプ方式だ。正確に言えばジャンプだけでもないんだろうけど、いま最も勢いがあって影響力があるように見えるから、あえて自分はジャンプ方式とも勝手に呼んでいる。

それは安部公房とかの不条理とかと似ているようで物語の構造が明らかに違う。

以下、ネタバレへ(汗

ネタバレBOX

最近、こりっちに感想を書き足してるうちに他の人から感想の感想を受けてテンションが下がって書く気持ちが落ちがちなので、何か言われる前に書く!(苦笑

勢いで。これも一種のジャンプ方式とも言えそうな気もする。現実世界で勢いで突っ走ろうとして大破する人間たちを(仕事場で)大勢見てきたが、これは劇作の感想だから良いだろう…しかし大破しないように(汗

(自分が勝手にそう呼んでいる)ジャンプ方式とは何か?それは恋愛の薄いテラスハウス方式とも言う。

そこでは物語は結果的に生み出される副産物。

物語が(勝手に)盛り上がるのに重要なこと、それは特徴的な登場人物たちの誰と誰がどう出会うかだ。推しの子なんかでは主人公が意識して(職業恋愛として)テラスハウス的な番組で行っていたし、多くの女性が認知機能の低下した少年漫画しか読まない男子に物理的に物を投げるなどして(傷害罪になる可能性を若さの勢いで蹴散らしながら)意図して引き起こそうとする現象の一つがそれである。現実世界ではスクールカースト的にも全く遭遇しそうにもない、百光年先のグレイと、四畳半列島のペンペン草の生えた万年床の住人が接近遭遇するようなカオティックな状況が、必然的に起きたと錯覚させる設定(ストーリーテリングの技巧により観客の脳に不自然さを感じさせないよう働きかけること)が必要。

しかし、今回の劇の舞台は、おそらくジャンプほどはファンタジー色のない近未来(たぶん)。そこにはバチカンからの使者もいなければ、到底現実とは思えない子供じみた空想を神業的な技巧で具現化するアシスタントもいない。己の技で表現するのみだし、そもそも上の階のコンビニで買ったコーヒーを飲んでるような観客に、二時間(テンションのピークに到達して物語を小一時間進めるのだとしたら、30分でマッハのテンションに到達する必要がある、そんなんピエール・バルーにも無理だろうたぶん観たときないけど♪)でいきなり凄いテンションの芝居を見せつけても、観客たちを百光年彼方に放置しグレイ化させるのは間違いない。劇団10年くらいやって固定客以外いないのならともかく…それはそれで寂しいかもしれないがッ。

じゃあ、どうなるのか、というと、盛り上がらない。

そもそも今回の設定は、どうやら赤の他人が真の七人兄弟をめざすという、黒澤明が七人の侍で二時間で成し遂げられなかった偉業(兄弟愛≧助っ人(世間の漠然としたイメージ…何となく))を、生の俳優が観客たちが凝視する目の前でリアルに披露するという無理ゲーだった。舞台のなかで戯曲が完全に完成してここにのっていればだが。ただ、実際に兄弟姉妹がいる人ならわかるが、兄弟姉妹はそこまで信じ合っていない。いないよりは運命共同体的な雰囲気の中で多少外敵に対抗できる味方となる可能性があるというだけで、実際には遠くの兄弟より中学高校の同級生とかのほうがはるかに信頼出来るし信じられる。悲しい話だが(苦笑

そんなのは可能なのか、しかも物語もそれほど盛り上がる気配もない、あと私のような自他ともに認めるオッサンの目からすらと、なんかみんなやたらとオシャレだし…カッコ悪く走り回る汗っかきのボランチ(カッコ悪くなくてもいいが)的な俳優なしで物語進むの?これ、(みんな気づいてると思うが、演劇もサッカーと同じでみんなストライカー(おしゃれでクール)だと物語は進まない。ボランチがいないと)。と思ってたら、どうやら劇作家の投影らしき作家の卵らしき俳優の男が汗をかき始めた。なぜ投影だと思ったかというと、この俳優、とても作家には見えない男前だし、なんか女子にもモテてるけど全く気にしてないからだ。こんな作家はいないだろう…たぶん!(THE先入観)

果たして物語は進むのか…?作家の投影は足掻く。ジャンプ作家がインタビューとかで、登場人物を配置したら物語勝手に走り出したんですよ、とか書いててそれを真に受けてテラスハウスやったら何も進まなかった、こんなん約束(誰も約束したないが)と違うぞ、と言わんばかりに。

その後も作家の投影?の焦りとは逆に、七人兄弟を目指す寄せ集めの男女の汗と涙は特になかった。そしてやがて、特徴的な登場人物たちが出会って兄弟を目指せば絶対に自分が考えつかないような物語が次々と生まれると思っていた、どうやらその七人兄弟式テラスハウスの出資者らしき男の焦りは頂点に達し、いつしか失業していて、その集まった男女に支払われるはずの謝礼の雲行きも怪しくなるのであった。

ひょっとしたらこういった物語に似た物語は過去に存在していたのかもしれないが、この舞台のようにこの物語で登場人物たちが舞台のうえにポチポチ出てくる登場の仕方と、テラスハウス的な目線というか…そういう役者の動きが共存しているのはあまり記憶になく、物語がどうというよりかは、発展させる余地が大きい演出手法のような気がして新しい気がした。
ハッピーケーキ・イン・ザ・スカイ

ハッピーケーキ・イン・ザ・スカイ

あまい洋々

インディペンデントシアターOji(東京都)

2025/03/13 (木) ~ 2025/03/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/03/13 (木) 19:00

こういうのって難しい。物語の評価と同時代性や切迫感という観点をどう評価するかだ。

自分の周りでも事件かどうかの話が多かった。当然だと思う。あまりにそんな事件が多すぎる。周りの人たちが騒がないのを不審に思うのは当然だと思う。悲しい話だが、一般の人たちにとっては、故人の心情やプライベート(法律的に故人にプライベートはない)なストーリーより、女子高生を殺した殺人犯が権力を使って警察の捜査を止めて野放しになっているかも知れない、という不安のほうがはるかに強いと思うので、騒いで警察に捜査を促すのは必然だと思う。警察も人員不足で証拠がないとなかなか捜査をしてもらえないからだ。

自分の周りでも実際、似たような事件があり、いろいろと考えながら見ていた。ちなみに会社内の身近なひとか1年ほど前に不審死して、警察が上司たちを捜査していたことがある。死因が分からないと不審死になる。現在でも毒殺だと死んだばかりで検死しても死因がはっきりしないことがある。今でも殺されたんじゃないかとの噂が絶えない。8年前ならなおさらだ。こうした事件は全く人ごとではない。

こういう事件性と劇作とを分けて考えるべきなのかは何とも言えないけれど、人間の生命がゴミのように扱われて消費されている時代においては、よくある話のようだが極めて同時代的な物語(最近は邪魔な人間がいると憎悪がなくても簡単に殺す人が多い)とも言え、そういう意味では演劇的だと思う。

学校教育では、社会に蔓延する暴力や無知について教えてくれない。YouTubeも官公庁のホームページも教えてくれない。

実は教えてくれるのは演劇くらいである。演劇経験者が社会の底辺にいることが多いからとも言える。それは悪いことではない。たいていの組織を支配すら人たちは暴力的である。トップの公人級だけが法律と弁護士たちに監視されているが、その直下の人たちはバイキングと変わらない、そんな組織が多い気がする。自由人たちは野蛮なバイキングの支配を逃れて食べていければ、奴隷同然の生活を送る一般的なサラリーマンよりマトモな人が圧倒的に多い気がする。昔の演劇人たちを河原の人たちのように言ったことがあったが、河原からみてみないと社会の病巣に気づかないことがある。あるいは実感しない。

実際自分も以前会社内で殺されかけて(実話)警察署に行ったが、捜査しようとしたところで、噂では副社長(教育長との噂もある)から『そいつは頭がおかしいから捜査するな!』という滅茶苦茶な理由の指示が署長に出てストップしたという…そして警察の人たちは逆になんで捜査が中止になるんだ、上からの指示らしいがどうなってんだ!と目の前でブチ切れていた。しかし結局はわざわざそんな連絡をしたおかげでヤバい副社長だと自分で証明した。(警察の人たちには次は110番しろと言われた)。でもそれも結局誰かが騒いだから問題になったので、騒がなければ問題にならない。騒いだからとんでもない会社があると全国の警察に知れた。マスコミより警察の情報網に載せるのが次の犯罪を防ぐのには有効である。

その副社長も任期満了で今月で解任される。教育長はその前に外された。…当然だが…でも、そういうのは割と普通らしい、一部の町ではだが。ちなみに副社長はとても良い人だが、詐欺師に騙されやすい。殺そうとした人が、私はあいつに脅迫された、と言われたらすぐ信じてしまう。脅迫した人がなんで警察に行くのかは分からないが、嘘でも信じてしまう、らしい。今まで自分の街の自分より強い人には遭遇したが、他の町から来た自分より強い人には遭遇した経験がないのだろう。そういうのが多い。詐欺師は自分では警察署を騙さず、権力者を騙して警察署を止める。そんな街ではいくら街が綺麗でも薄気味悪い犯罪が多い気がする。

とりま、世の中は危険がいっぱいなのに、子どもたちにはその知識が少なすぎる。かといって今みたいな僕の特殊な経験だと、なかなか実感がわかないから自分のパターンに落とし込めない(自分も当時いろんな人たちから話を聞いて冷静に対応した)し、結局はあり得そうなラインを見極めてストーリー化するしかない。教えるために。それは教育的な観点ではなく、世間の勝手な物語に騙されないようにと言う意味で。猫の視点にして話を客観的に落とし込むとかの手法に着目した夏目漱石はいま考えても本当に凄いと今でも思うよ。他人の物語も身近に可愛く語れるのだから。テレビは大金持ちの息子がパンピーのふりをして楽に生活しているイメージしか流さないから、危険なんて最初から存在しないような錯覚に陥るが、そのような既得権益で護られていない層にとっては社会をサバイブするのは無人島で生きるより過酷である。

ネタバレで世間話から離れて作品の分析を試みてみたいので、続く予定で

若手演出家コンクール2024 最終審査

若手演出家コンクール2024 最終審査

一般社団法人 日本演出者協会

「劇」小劇場(東京都)

2025/02/25 (火) ~ 2025/03/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/02/25 (火) 19:00

一作目初日観てきました。

これから毎回書きます、が、初っ端から何も考えずに観て、難しいものから観てしまったと言う感想が第一。でも、これは選べない。自分の空いてるスケジュールに入れたらこうなった。

いつも思うのだけど、こういったコンクールは審査する方も、観ながら個人で自分の中で順位付ける方も順番が重要。

サッカーの試合で言えば序盤で、まだ自分のなかでの若手とか演出について今年の道筋を考えている段階で、もう答えを出せと言わんばかりの作品だった気がする。それが申大樹氏。とにかく物量勝負。ただ、演出目線で言うならだいぶリスキー。何と言っても原作が小川未明。早稲田露文というだけで、親近感が凄い。おまけに戦前の先進的なインテリ特有で、社会主義に感化されて児童教育にひかれ、その後身近の社会主義者の惨殺などでビックリして急速な国粋主義者になったりなど、見る人の視点によって戦争を体験したうえでにじみ出る純粋な反戦ファンタジーなのか、それとも時代の変遷を経たうえで児童文学の権威としての勢いを保つための小芝居で見せかけで作り物の反戦フェイスなのか、すべての作品で感じが分かれる。厳しいようだけど。コンクールでこの選定は逆に難しい。自分的に小川未明の再評価は90〜ゼロ年代。平和で牧歌的な時代。だからこそこの甘い反戦物語が新鮮に見えたのかもしれない。ただ今は嘘と欺瞞と小芝居の時代。甘いオーラを出していたら例え役所からでも安心してると買収されて町中から嘘つき呼ばわりされて町を追い出される厳しい時代(目撃した)。誰も信用出来ない。今は残念ながら甘い物語に酔ってる余裕はない。ハッキリ言って友達以外は全員嘘つきなのが普通(ヤバいまちに言ってるって言うようなもんだけど)。貧しい街ではそんなのが普通。豊かな街でも他の町から来た貧しい者が買収されて嘘つきになる。そもそも豊かな街では一番学歴の低いのが役所だったりするから、誰もそんなに信用してない。(ただ個人的な体感だと、多摩とか立川とかではそんなんないかも)小川未明の再評価され始めていたゼロ年代ならまだ世の中も多少は良かった。というわけで甘すぎるのは少し厳しい。現代は学術的な組織分析と、それを悪用する道化師たちとのいたちごっこが常に続いている。役所が率先してそんなことをする。たぶん動機は政治的。くだらない与太話は心を無にしてスルーするのが安全対策。

貧しい街では全員嘘つきだが、豊かな街では昔からの住民は嘘をつかないが、他の町から来た貧乏な人が役所に買収されて嘘をついて追い出される。信じられないが本当。豊かな街で一番学歴の低いのは公務員だから、豊かな街の豊かな人たちは公務員でも信じない。自分たちよりバカだから。今の時代の人たちに、国に言われて素直に死ぬ気持ちが理解できるのだろうか?今なら普通に裁判やデモしてるよなーと思う。そういう意味では作品全体に懐かしい明治大正な感じがあり、どうしてもレトロになってしまう。これは同時代感が少なめなのでリスク。

おまけに原作者は戦時中国粋主義者で時代を生き延びた。夢見がちで早死にするより、小芝居で生き延びた原作者の人生のほうが学ぶところは多い。残念ながら。でも作品としては素晴らしい。地方自治体から補助金を貰って、甘い夢を提示しながらこっそり原作者の人生に興味を持つきっかけを与えつつ、かつ人々に人生の潤いとは、意味とは、と深く考えさせるきっかけを与えると言う意味なら、これが劇団を生き延びさせる演出家としての答え。そういう意味では深いテーマでもある。物語は甘い一時の夢を見せる手段で、肝心なのは原作者の人生として、それを審査員に納得させることができれば優勝。ここほど批評的な口先が評価されるポイントはない。非情な話だけど、演出家の最大の仕事は政治的に無色を示して甘い夢を提示し、お上から補助金をいただいた上で役者に演技の自由度を保障するところが大きい。完全に作品を分析したうえで敢えて表現しない決断も重要。しかし人生は短い。そんなことしてたら何も表現できないまま人生は終わってしまう。難しい。

審査員たちも思い入れが大きいはず。もちろん自分も。東大と違って早稲田の露文は特に変わり者しかいないだけに、他の町から来て評価されるのかかなり難関。個人的な感想。すみません。




ちなみに最終日の批評は観ていません。すみません。どうしても時間がなくて(汗

結論から言うと、四作品すべてバラバラだった。こういうのは難しい。特に受賞作はスキルフルで、批評しやすい作品だった。これは難しい。批評家の出番の出やすい作品は評価されやすい。そして東京2作品が対称的で、インテリな感じのメルトと、少しレトロだけど物量と役者の歌などで推す申大樹氏の2作品が対称的。それだけでも東京の演劇の繁栄が見れる。こういう作品の幅は地方では少し難しい気もする。ただ、このコンクール自体気のせいか突出して勢いがなければ首都圏以外が評価されやすい気もしていたので、不利な要素もあった。

両方ともある程度形が出来ていて、今後形を変えるのか、変える必要もあるのか不明な気もするので、審査員の腕の見せどころが少ない気もする。それも不利。

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