満足度★★★★
演出家の仕掛けた罠
19世紀までの,シェークスピア上演史の特徴はというと,そこでは,演出家というのは,実質的には存在していなかったのである。19世紀末に,近代劇が生れ,シェークスピアは,時代によってちがう理解がされ,上演の仕方もバラエティに富むようになる。シェークスピアだから,何をやってもシェークスピア,それはそうなのだが,おもしろいものもあれば,さほどでないこともあったと思われる。
シェークスピア劇を,シェークスピアの生きたエリザベス朝時代に戻そうという動きもあった。そこでは,ごく一般的な「額縁舞台」でなく,エリザベス朝時代の「突き出し舞台」を再現することもあった。
演出家の時代に突入する。まず,ゴードン・クレイグは,照明装置でみなを驚かせた。次に,グランヴィル=バーカーは,劇全体の速度をあげて,演劇をだらだらとやらないようにする。1938年には,タイロン・ガスリーが,その時代の洋服で初めてハムレットを上演した。
何もない空間で有名な,ピーター・ブルックは傑出した演出家にちがいない。彼は,原則的に,シェークスピア劇の台詞をなるべくそのまま残して,それでもなお,まったく違う演劇を提示する。ピーター・ブルックのシェークスピア演出をもってして,シェークスピア体験が,現代人にとって,リニューアルされ,より身近な解釈ができるようになっていく。
日本では,最初,戦前であるが,千田是也のイアーゴ(オセロ)が有名である。戦後になると,芥川比呂志が,福田恆存の演出で,ハムレットをやるようになる。また,浅利慶太が,民藝で,S43ヴェニスの商人を手がけた。文学座では,出口典雄が十二夜に挑んだ。
ピーター・ブルックという人は,舞台と映画を峻別した。根本的にちがうメディアであると力説する。彼の,何もない空間は,とても魅力のある著書のひとつだろう。ピーター・ブルックは,あくまで,演劇に,シアトリカリティ,すなわち,演劇性を忘れない演出をする。そこでは,見るものを圧倒するような演劇が多い。
この点,モスクワ芸術座で,スタニスラフスキーが,チェーホフの桜の園みたいに,静かで,気分の演劇,泡だつような作品で実践したシステムと対極をなすと思われる。スタニスラフスキーの友人は,むしろ,演劇性は残るべきと争う。ただ,演劇は,ハイレベルになると,演じているのでなく,化身というか,憑依というか,なりきりだから同じ事かも。
興味深いのは,スタンダールが,シェークスピアをどう評価していたかだ。少年時代にひととおり体験したシェークスピア劇が,後年自分の作品に少なからず,インスピレーションを与えたことを述懐している。
役者が,演出家に飼いならされ,一糸みだれず特定の方向に動くのは困ったものだ。そうでなく,役者と演出家が対等に取っ組んで,初めて痛みわけになる。
だから,演出が決まったあとで,演出の型にはめて,役者を決めて良いものだろうか。白紙の状態で,ある技術を持つ役者を募集し,そこに賭けてみるのは,シェークスピア劇では大事なのかもしれない。
やったことない役作りで,抵抗はあるだろう。しかし,そこに,緊張感が生れれる。その緊張感が功を奏して,演出家の仕掛けた罠にはまり,舞台上で劇的な効果が生まれるのだ。
For example, in my opinion Othello is the gree-eyed monster.Desdemona has eaten the leek.But it’s foregone conclusion.Having no love, she has made a virtue of necessity by working hard.It’s cold comfort.
私にとっては,シェークスピアは,良くわからない。たとえば,オセロって,嫉妬の話かもしれない。デズデモーナってさ,ハンケチひとつで,あんな屈辱を受けた。でも,オセロは,そろそろ無用の時期だったから,最初から自滅していくって,わかっていたような物語。デズデモーナは,本当の愛が得られないから,余計にもがいただけで,それだけ空しいってこと。まったく,どこにも慰めなんかないんだ。
参考文献:現代演劇シンポジウム英米文学三(学生社)
満足度★★
『オセロ』は,少しおもしろかった。
『オセロ』を観て,遠いヴェネチア共和国での,瑣末な事件をいまさら鑑賞して,なんかおもしろいですか?ということになると,まあ,シェークスピアは偉大だし,いろいろな発見もある,と答えたい。しかし,いくつか見て退屈で,人物関係が複雑過ぎて,終わって良かった。と思うことがないわけでもない。しかし,『オセロ』は,おもしろいところもあった。それは,一般に言われるような嫉妬=ジャラシーの問題としておもしろかったわけではない。恋愛経験が貧困な人生を送って来たと私には,嫉妬って,さほどピンと来ない。要するにヤキモチだと思われるのだが,三角関係の恋愛なんかに全く陥ったことないので,理解できない世界だ。でも,『オセロ』は,少しおもしろかった。雇われ軍人が,出世してみたが,用がすんだらよそものだからと,居場所を失ったといった話にも見えるので,そちらの方がおもしろいのだ。これなら,自分の人生でも何度も体験している。いくらがんばってやっても,地元の人でないとかで,疎外されちゃうのは共感できるのだ。
また,『オセロ』に出て来る「イアーゴ」のような悪臭をはなつ人物にも私は何度もあっている。社会は,そういうツワモノに結構引っかき回される。一時的には,彼は,まちがいなく多数派の代表なのだ。でも,どこかゆがんでいるので,やがて自滅していく。彼が舞台から退場するまでが長過ぎて窒息しそうになるのは,現実でも同じだ。『ビョードロ~月色の森で抱きよせて~』を,ほかのみんながどう観ていたか,私は最初まったく理解できなかった。美しいものを,オペラでも鑑賞するようにただ見ている人も多かったらしい。また,作品理解も,何とおりもあり,ずばり何かを批判する社会派的な演劇とはちがい,ずいぶん人それぞれなんだな,と感じたものだ。
そこにいくと,葵と楓は,わかり易くていいな。一応,歌劇団なので,劇団なのだが,高踏な作劇法も取っていなくていい。そもそも,私の頭は,からっぽなので,あまりむつかしい5000円以上の高いチケットを予約して観ても,ムダかもしれない。ということで,そろそろひととおり観た気もするので,この分野も撤退しようかな。『マクベス』どうでしたか?よくわかんなかったけど,おもしろかったよ。でも今度は,ライオン・キングでも誘ってね。ストレスで円形脱毛症にならないものがいいね。あのね。オペラ『マクベス』観てから,美人ママが三人いると,あ!魔女だ,気をつけよう・・ってなちゃうんだよ。
満足度★★★
かっこいいものだった!
シェークスピア『オセロ』を観た。これは,オセロというムーア人が,ベニスに雇われ気にいられて,登り詰めていくところから始まる。しかし,すぐに台風で,彼らの敵は撤退した。オセロはほどなく居場所を失っていく。そのために,彼自身少しばかりいらだっていたのだろう。部下の策略に落ちて,転落していくのだ。
どうして,オセロは,かくも憎まれたのか。よそものは,よそものであった。ほどなく去るべきであった。誰も彼がそのままベニスでトップに留まるのを望んでいなかった。そのために,彼をみなでわなにはめ,転落させることは容易であった。今回の,演劇では,一人の大悪党がすべての諸悪の根源だったが,そうともいえるが,オセロはベニスに不用だった。
テレビで良く見る顔が遠くから眺められた。人気がある俳優だから,若い女性がたくさん来ていた。比較的早く座席を取ったはずだが,行ってみると,三階になってしまった。でも,さらに後ろで立って観ているひとたちもいた。こういう演出もあるのか,と思うような,かっこいいものだったので,一度こういうのも観ておくのは良いと思う。
満足度★★★★★
客席を含む舞台装置と演出が面白く、深く響くコントラバスの生演奏が素晴らしい。
劇場建物の内壁をそのまま隠さないシンプルな舞台、
客席中央にゲネプロなどでみる演出家+スタッフの席を設置し、
役者もその席や、空けてある客席に座ったり、
灯油缶をたたきながら通路を通ったり、
途中でヴェニス公は入場する際には観客全員が起立したり…、
観客・客席と舞台・役者の一体化を図った演出、
と事前に席に置かれたチラシに書かれていました。
起立・着席程度だけでは観客も参加しているとは言い難いですが、
客席をも取り込む舞台とそのような演出は面白い。
けれどそれよりも、深く響くコントラバスの生演奏が素晴らしかったです。
超有名な物語ですが、なぜにオセロは、こうも簡単にだまされてしまうのか。
純粋で朴訥なイメージに、仲村トオルがぴったり。
父親をうまくだませた娘なら、夫も同様にだますかもしれない、ということは言えますが。
唐突にすら感じられる、クライマックスの劇中劇的な二重構造もまた面白い。