かもめ/桜の園 公演情報 かもめ/桜の園」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.7
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  • 満足度★★★★★

    初めての地点観劇。

    開場と同時に劇場内ではニーナがティーサービスを始め、メドヴェージェンコさんが手伝い、トレープレフは「ニーナ!」と愛するニーナを目で足で執拗に追う。クラシカルな舞台空間に、マーシャが奏でる暗いピアノ曲、天井でくるくると回るファンと、壁に映るその影。磁場に圧倒される。開演前からそこには明らかに異空間が立ち上っていて、観客の入場に伴うざわめきも、その生成上で大役を果たしているかのようで、そこでまず感激。ティーサービスを行いながら、ニーナがロシアで『かもめ』を上演した際の逸話などを紹介してくれ、笑いが起きる。

    そして『かもめ』。ほとんど、トレープレフとニーナの物語のようである。特にトレープレフは饒舌にしゃべる。「地点語」と言われる、アクセントやイントネーションが日常の私たちが使う日本語とは異なる、風変わりな発話で。時にそれはラップのよう。時にその絶妙な言葉のタイミングで、なんてことない言葉で笑いが起きる。なんなんだこれは。

    トレープレフは常にものすごい熱量で動き回り、ニーナはふわふわしていて、アルカージナとトリゴーリンはゆったりと貫禄を持って歩き回り、マーシャとメドヴェージェフさんはほとんど動かない。メドヴェージェフさんは、サモワール(ロシアの壺)を持って終始一言も話さなかった(と思う)。

    なんなんだこれは。とまず圧倒された(翌週の『桜の園』はもっと具体的に観れた)

  • 満足度★★★★★

    『桜の園』

    地点の『桜の園』は、ロパーヒンに意識が集中していく。
    ラネーフスカヤ(とその一家)の周囲をぐるぐる回るだけで中には絶対に入れない。
    彼らは自分たちの「手で支えている額縁」の中にいる。

    ラストに行くに従い、ロパーヒンのラネーフスカヤ(家族)への憧憬と苛立ちが濃厚になっていく。

    そして彼(ロパーヒン)はたぶん悲しいのだろう。

  • 満足度★★★★★

    『かもめ』
    “地点的”で、もの凄く面白い。

    そして、絶対に開場から行ったほうがいい。ここからすでに面白いので。

    ……と書いたけど、すでに終わっていますね。

    ネタバレBOX

    開場とともに役者さんたちが紅茶と(なぜか)京都の干菓子的なものを振る舞ってくれる。

    そして、『かもめ』という戯曲の解説を行う。
    戯曲の書かれた背景や上演したときのこと、さらに地点がロシアで公演を行ったコトの話など。


    ゆるやかに物語に導入し、コースチャの物語になっていく。

    地点の作品は、戯曲をカットアップし、再構築していく印象がある。
    この作品もそうであるが、同じ時期に上演された『桜の園』と同様に、かなり意図的に人物にクローズアップしていく。

    それが、「コースチャ」。
    コースチャは小林洋平さんが演じる。
    どの作品でも安部聡子さんとともにスゲーなと思う役者さんだ。

    発せられる台詞は、一切のためらいがなく、観客にぶつけてくる。
    共演者にぶつけてくる。作者にぶつけてくる。
    強いバネがあるような役者さんだ。

    地点の役者さんたちはとにかく上手い。
    その中にあって、演出は、小林洋平さんと安部聡子さんには理不尽とも思えるような、精神的、肉体的な高みを強いているように見える。
    2人ともそれを軽くこなして自分のものにしているように見せてくれる。

    この2人の存在が地点の屋台骨だ。
    この2人を観ているだけで、観劇の喜び、快楽が味わえる。

    この作品の小林洋平さんは、わかっていても、やっぱり凄いと思う。

    コースチャを物語の軸に据えると「中二」的になりそうだが、ラスト間際のニーナの台詞と重なねていくことで見えてくるものがある。ともに芸術に憧れて破れた者同士ということで、作品を生み出すことの「恐さ」「恐ろしさ」が常に背中合わせということなのではないか。

    地点の作風は、一定の評価をされていると思えるのだが、いつコースチャの舞台のような結末を迎えるかわからない、という「恐さ」が常に背中にあるのではないだろうか。
  • 満足度★★★★

    かもめ観劇

  • 満足度★★★★

    鑑賞日2016/12/24 (土)

    『桜の園』を,吉祥寺シアターまでいって,観劇した。内容は,何度か拝見した演目だから,少しはわかっていた。それを,確認しながら,新しい発見をしたいと思っていた。不幸だらけの家庭教師,シャルロッタは,どこにも出て来ない。だから,きゅうりも食べないし,手品もなかった。

    そもそも,枠にこだわった演出だった。わくの中に,主要な四人が,顔を寄せ合っている。そのきゅーくつな状態が,早く解除されてほしい。次なる場面が展開するのを待っていると,終演になってしまった。だから,よく理解できていないのかもしれない。しかし,印象は残った。

    演劇を楽しく見られたらつづく。しかし,ハイレベルになると,普通の人はついていけない。だから,どこかで妥協して,わかり易くするものが人気である。だとすると,今回の企画は,「チェーホフをどう演出するか」で最先端をいくものにちがいない。たまには,こんなのも観た方がいいだろう。

    企画者の本を一冊買ってみた。なかなか手ごわい。また,興味ある演劇と出会えるかもしれない。初見の段階では,その手法の斬新さに,びっくり。とはいえ,シーンが固定され過ぎて,最後やや眠くなった。おわってみて,あれは,なんだったのか?チェーホフとは,軽い印象を残すだけの,新作か。

    ネタバレBOX

    三浦基『おもしろければOKか?:現代演劇考』は,吉祥寺シアター・観劇後抱いた「チェーホフをどう演出するか」について持っていた疑問に少し回答を与えてくれそうである。

    古典再生の名のもとに,演出家がどれほど演劇そのものを形骸化してきたか。
    もし今日,宗教に取って代わるものとして芸術があるのだとすれば,演劇とは信者を養成しないところに凄みがあるのではないか。
    私の演出したチェーホフ作品のほとんどで,観客が入場して来る前から俳優が舞台上に動かずに居る。
    私がほとんどの演出作品で戯曲をそのまま原作通りにやらず,再構成し,特に古典の場合はその分量を半分近くまで削ぎ落す。

    舞台における言葉とは,すべて外国語のようなものとして扱うべきなのである。
    その作家を消化することで,初めて作家の言葉を生きたものとして舞台にのせることが可能になる。
    言葉を口にする俳優の身体が問題となるとき,衣装は俳優の姿と切っても切り離せない重大な要素。
    演劇はナマモノであると改めて言いたい。・・・このとき,身体=生の時間は取りこぼされる。堕落する。誰かがと言えば,俳優と観客の両者である。なぜならば,「見る-見られる」の関係自体が危うくなっている。

    再演について

    私の舞台を見た人から,「原作の通りのものを見てみたい」「カットしないでやってほしい」と言われる。
    ここにおよそ百年前の近代の作劇術のひとつの形式がある。
    今,演劇で映画と同じことをやっても仕方ない。
    果たして,再演ということがどういうことなのか。
    初演のときほど,追い込みに差しかかると変身する傾向がある。
    何週間後に別の劇場で上演するという場合も,もはや本質的には再演である。
    私が毎回すべての本番を見る演出家である理由。
    フランスの巨匠演出家,クロード・レジは,再演をほとんどしない。
    再演をどうするかということは,「今,ここ」でしか成立し得ない演劇の宿命を考え抜くことであり,過去に対する挑戦を示すことであり,さらに未来を見ようと決意することだ。

    以上,本の中から,気になる部分を抜粋。
  • 満足度★★★★★

    鑑賞日2016/12/13 (火)

    かもめの喜劇性を可能な限り発展させて、爆笑コメディに仕立て上げた地点のメンバーに驚愕。発話のタイミングだけで韻律、というかラップ的なノリを作り出す演出が素晴らしい。戯曲通りに三時間はかかる上演を80分にまとめていたのもよかった。

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