僕たちは他人の祈りについてどれだけ誠実でいられるか(仮) 公演情報 僕たちは他人の祈りについてどれだけ誠実でいられるか(仮)」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.2
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  • 満足度★★★★

    鑑賞日2016/11/26 (土)

    前口上いわく「我々の隣人となりつつある」イスラム教をテーマに据えた、短編2本の舞台。26日の晩、Space早稲田で観て来ました。Ammoさんの『僕たちは他人の祈りについてどれだけ誠実でいられるか(仮)』【女たちの祈り】編(95分)。

    ネタバレBOX

    『六月の長い夜』
    1967年6月の或る日の夜。エジプトの首都カイロに住む一組の夫婦。互いに敬虔なイスラム教徒でありながらも、西欧的な価値観で行動する妻に耐え切れなくなった夫は、ついに離縁を決意した。イスラムの教義に従い、自宅に招いた長老の許しさえ得れば、妻と正式に別れることが出来る…しかし長老は一向に姿を見せない。おりしも、聖地・エルサレムでは、敵国イスラエル軍による侵攻が最終段階を迎えつつあることを二人はまだ知らない。

    『兄はイスラム原理主義者になった』
    長年、引きこもりだった兄ジェームスがロンドンで過激なイスラム原理主義者になったと知った、ジャーナリストのエマ。彼女はジェームス本人に、自分の母や妹に、ジェームスと同じ宗派に最近入信した信者に、ビデオカメラを向けながらインタビューを試みる。どうして兄はイスラム原理主義に身を投じたのか? 兄と互いに理解し合えることはできないのか? インタビューを・対話を重ねるにつれ、エマの疑問と願いは…。

    9月28日に拝見した『桜の森の満開のあとで』と同じく、南慎介さんのホンですが、まるで外国の作品のような乾いたタッチで描かれた舞台です。2作とも西欧社会・キリスト教社会の価値観とイスラム教義における価値観とのパラダイム(支配的規範)の対峙を通して、人間の「個」と「個」の間の断絶、その断絶を乗り越えての相互理解・宥和の可能性を問うた作品だと、自分は解釈しました。
    でぇ~、かなり重いテーマです。転び伴天連で讃美歌も唄えるけど、浄土真宗の檀家でお経も読める支離滅裂なオイラ、観ているうちに考え込んでしまい、終演後も普段使わぬ脳みその回路、フル稼働したおかげで、その日の夜10時、頭がパンクしちまいました(笑)

    100%の理解はできないまでも、自分と異なる価値観の存在を認め・尊重する…結局、この程度の凡庸な結論しか導き出せなかったのですが、宗教に限らず、政治・社会問題・レイシズム等々、今の世の中に点在する様々な衝突のインパクトを少しでも和らげていくには、それしかないのかな?
  • 満足度★★★★

    鑑賞日2016/11/27 (日)

    結構ハードな内容かと身構えていたが、ムスリムを扱っているものの、非常に丁寧に描かれた家族の物語。前園あかりと山崎丸光の遣り取りが、心の距離が詰まるにつれて逆に哀しくなっていくところが特に良かった。

  • 満足度★★★★

    挑戦・試みに拍手
    まず、当日パンフの脚本・演出の南慎介 氏の挨拶文...「イスラームの演劇を創ろうと決めたとき、誰もが『やめたほうがいい』と言いました(中略)あまりにも僕たちの文化は違い過ぎており、彼らの大事にしているものを傷つけてしまう可能性があるから、と」...その逡巡する気持は解るような気がする。

    【女たちの祈り】編(上演順)
    「六月の長い夜」「私の兄はイスラム原理主義者になった」とも日本以外の国の出来事。日本における”宗教観”を見据えつつ、それでも解りやすい様に「個人」と「宗教/世界観」の仲立ちをするのが家庭であり家族という普遍的な視座を意識している。この2作品の間に直接的な繋がりはないが、テーマはもちろん宗教ということ。一概に宗教といっても、その違いが紛争の火種になるほど重要なものである。
    (上演時間1時間30分)

    ネタバレBOX

    「六月の長い夜」
    舞台セットは、中央にテーブルと椅子、リビングルームといった感じである。奥には映写幕が張られている。テーブルの上にはコーランが...。
    梗概...場所・時はエジプト・カイロ、夫婦だけの濃密な会話劇。1967年6月から始まった第三次中東戦争(アラブ側では6月戦争)の某夜。物語は夫婦の離婚話、そこには第三者である長老の承諾が必要らしい。その長老が現れるまでの数時間、夫婦という男・女における信仰における本質(相違)を巡る議論が興味深い。同じ宗教であっても、男と女という性別によって異なる、そこには宗教をも超える生(性)が見える。

    「私の兄はイスラム原理主義者になった」
    舞台セットは、基本的に先の物語と同じ。ただし、テーブルは上手側奥へ移動し、下手側には新たにテーブル・椅子が置かれる。この二つのテーブル(位置関係)が宗教の違いを表している。こちらはドキュメンタリー風に観せるため、カメラワークが入っている。
    梗概...場所・時はイングランド・ポーツマス、ほぼ現在における実話。引きこもりだった兄がロンドンに出掛けるようになった。そしていつの間にかイスラム原理主義者になっており、家族は彼をキリスト教に戻そうと話し合いをする。その教義の話し合いの過程で宗教を中心に色々な問題が浮き彫りになってくる。

    舞台セットは、基本的に変わらないが、その薄暗い中のランプの灯りは神秘的な雰囲気を醸し出す。その暈けた感覚が(個人的には)宗教という概観を暗示していると思う。この感覚は宗教への信心の度合いによって異なるだろう。それを一定の距離感を保ち客観的に観(魅)せることで押し付けではなく観客へ問いかけるような...。その意味で懐が広く深い感じのする公演であった。
    なお、「私の兄はイスラム原理主義者になった」は心象形成というよりは、映像で視覚的に観せる、ドキュメンタリーというインタビューという介在という直観・客観的という異なる手法を用いているのも巧い。

    役者の演技力は緊密であり、距離感・臨場感の体現も見事であった。そのバランスも良く物語に引き込まれた。特にエマ役(前園あかりサン)のインタビュアーとしての冷静さ、家族の一員(長女)としての苛立ち、その熱演は観応えがあった。

    次回公演を楽しみにしております。

  • 満足度★★★★★

    「男たちの戦い(編)」
     二作品を上演。何れも極めて興味深い作品である。

    ネタバレBOX


     サイイド・クトゥブは、様々な宗教の特徴のうち一神教の中でも欧米の中心的宗教であるキリスト教と自らの奉ずるイスラム教を比較し、宗教的にはイスラムこそが生活全般(生活形(様)式、シャリーア、統治システムから経済まで)を律する具体的倫理を具えた完全なシステムと捉えた。
     というのも元々教育省の官僚兼作家でもあった彼は渡米した経験を持っていた。最初に訪れたNYでは、拝金主義で物質主義的で極めて豊かだが空疎なアメリカ人を見た。その後、コロラド州立大学に留学したのだが、この大学キャンパスが位置する町、グリーリーの表と裏をつぶさに観た結果、人種差別や歓楽と禁欲の使い分けの欺瞞に反吐をもよおす。
     ところで彼の渡米の原因は、エジプト王ファルークが彼を逮捕する書状にサインしたからである。イギリスの傀儡に過ぎなかったファルークは性とギャンブルに溺れ、政治は腐敗の極みにあった。それに異を唱えた敬虔なムスリムの一人であったのが、ヴィクトル・ユゴーを愛し、バイロン、シェリー、ダーウィン、アインシュタインを繙き、クラシックを好む男としての彼であった。
     帰国後、彼はムスリム同胞団に属し、初期イスラームの姿を求めた。ナセルが、クーデタを起こしてファルークを倒したが、ナセルの目指す社会は、クトゥブの目指すものとは異なり、ナセルの軍を用いた力による政治とモスクを中心に広がったイスラム教徒との対立が深まった。ムスリム同胞団による暗殺未遂事件に動じず演説を貫徹したナセルの人気は一挙に高まり、同胞団に対する弾圧を遠慮する理由の無くなったナセルは、実行犯の即刻処刑と同胞団幹部の一斉検挙に踏み切る。クトゥブも収監され、拷問で体を壊して以降は獄中の病院で過ごすことになったが“みちしるべ”というタイトルの本を著すこととなった。この本こそ、ジハードをイスラム教徒が実行すべき最優先課題としてクローズアップした、手紙形式による書物であった。
     然し、彼がジハードを最優先課題とすべきだという結論に達した時、彼の存在は、孤立していた点に注目すべきであろう。通常、ジハードを行うべきか否かに関しては、イスラムの権威や高位聖職者の間で徹底的な討論が行われる。その際、シャリーアによって禁じられている行為は禁止事項として尊重されるのは無論のことなので、よほどのことが無い限り、これが実行されることはない。だが、キリスト教による迫害やキリスト教徒による植民地支配、差別、イスラムフォビア等々の条件が重なった結果、自らのアイデンティティーと誇りを守る為ラディアカルな思想が芽生えるのは必然と言わねばなるまい。
     世界が不公平で不公正である場合、生存の平等を求める声が上がることは当然のことだからである。問題は、告発された側が態度を改めなかったからという側面が強い。一部、ラディカルな思想に傾倒する者があっても、それに呼応する多くの人々が存在しなければ、思想が、時代、地域を超えて生き残ることはないからだ。現にパレスチナ問題を始め、イラク、シリア、アフガニスタン、パキスタン等々の問題を惹起したのは当にキリスト教国なのである。直近ではキリスト教原理主義者が人口の4割を占めるとも言われるアメリカである。イスラム教原理主義云々を言う前に、この事実を先ずは重く受け止めるべきであろう。

    「ウサマ・ビンラディン・フットボールクラブ」
     ビンラディンは、サッカーチームを所有していた。サッカーファンには常識だが、サッカーは、極めて知的なスポーツである。瞬時の鋭敏で適確な判断力がなければ優れたプレーヤーになることはできない。また、戦略・戦術を練ることができなければ、試合を優位に組み立てることができない。更に効果的フォーメイションを組む為には、彼我の特徴と差異を冷静に見つめる目を持ち、情報を集めて分析し、効果的に再統合できる知恵と決断力を持たねばならない。当然のことながら、以上のこと総てを自分の頭で考え、決断し実行できなければならない。
     これら、総てのことが、リーダーになる為の資質と重なる。ビンラディンが、サッカーに目をつけたのは、彼自身サッカーが好きだったことと、サッカーという競技が持つこれらの特性にあるように思われる。今作では選手11人のうち、4名のみが描かれるが、この4名こそ、9.11実行部隊の各リーダーであることが示唆されている。
     一方、ビンラディンのここに至る過程とムジャヒディンとして彼自身がアフガニスタンで戦った結果、何も変わらなかったという深い絶望が彼をより過激な方へ誘ったことも示唆されていて興味深い。無論、各リーダーたちが、迷いながらもファナティックになってゆく痛さも描かれている点がグー。






  • 満足度★★★★

    “宗教”
    【女たちの祈り】編を観劇。

    国々の文化・国民性や時代・時勢等により、“宗教”に対する捉え方は違って然るべきでありましょう。

    冠婚葬祭等で、改めて“宗教”を意識する人が多いと思われる日本人にとって、“宗教”が信者の人生にとって、どれだけの意味や価値を持つのかは解り得ないかも知れません。

    日常生活や人間関係に於ける“宗教”というものの一端、
    そして、人として忘れてはならないことを感じられた本作、興味深く観させていただきました。

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