ジンジャーに乗って 公演情報 ジンジャーに乗って」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.4
1-20件 / 31件中
  • みた。
    おもしろかった。
    もっともっと観たいと思った。
    楽しめた。

  • 20080524
    (○´ω`○)ノ

  • 満足度★★★★

    2回目。
    初日→4日目。くだらなさは倍に、構造はシンプルに。
    1時間半を生きられない彼らが生きる一瞬一瞬が素敵。

  • 満足度★★

    初小指値改め快快
    どういう舞台をするのか全く知らないまま観た。

    うーん。

    ラフに見えて中身はすごくソリッドだと思う。主張はきちんとあるはずだし。ただ、その伝え方というのが、あるいは主張そのものが、とても偏っているというか、ぼやけそうになる。つかまえるのが、難しい。
    観た直後は本当に混乱した。今はちょっと、その時より評価は上です。

    あとは、空気感なのかな。
    「敷居が低いですよー」と構えられても、初見にとっては逆に「何て敷居の高い芝居ダ!!!」となってしまう気がした。
    慣れが大事ですね。
    ダンスはかっこよかったけど、全体的にうまく入りこめなかったので、この評価。

    ネタバレBOX

    僕らは日々更新される。新陳代謝し、新しい細胞で上書きを繰り返す。また僕らは日々老いてゆく。新しくなることと、古くなることを同時にしている。
    更新は進化ではないし、ただの連続する「日常」という惰性である。
    突如癌化した日常は異常な新陳代謝を繰り返し、僕らは異常な日常に食い潰されてしまう。食い潰されてゆく中で見たはずのゲロの輝きは、目が覚めるともう消えてしまう。更新された視界は、もう老化した後の視界だ。僕らに進化はない。
    イヌネコネズミの下等生物は僕らニンゲンの未来を奪い、ダイナミックな進化を遂げる。代わりに持ってきた新しいセグウェイはカッコイイけれど、それはただの更新だ。
    僕らは進化をしない。いつか、いつかは定かではないけれども、本当にセグウェイを降りるときが来て、仙人にスライドしてゆくのだろう。僕らの未来は老化しかない。

    伝えたいことと違うかもだけど漠然と思った。
  • 満足度★★★★

    試乗しました
    観劇から数日たってみると、セグウェイの試乗会が一番面白かったように思う。やはり体感したものって強く残るのでせうね。

    第2幕は、セグウェイが出てこなくて、ちょっと寂しかった(笑)

    本編だけでなく、客入れ中の会話や仕込み打ち合わせも、アフターイベントも全てコミコミでひとつの形態なんだろうなあ。
    演劇というよりアトラクションみたい。

  • 満足度★★★★★

    演劇に仕上げていく姿勢
    一観客が、どこまで書いていのかわからないけれど、確かに反応が色々あるのが面白いなあ、と。

    あとはネタバレボックスへ。

    ネタバレBOX

    僕としては、すんなり見れてしまったし、楽しかった。
    演劇ではない場所から、演劇に向かっていく姿勢。演劇がそもそも土壌としてありえない場所から、演劇を構築していく姿勢。

    それは、既存の演劇がさも存在しているかのように感じている人たちにとっては意味不明だったのかもしれないが、そういうのを抜きにして、「肩の荷を降ろして」見たときに、「あ、演劇になった」という瞬間があったりして。

    「普通」に面白かったので、この「普通」ってところに、なにやら得たいの知れない背景が詰まっていると思う。

    だから、快快を面白くないと感じた人がいたことに、僕は驚きがあった。

    それを切り取ったのが、快快だ、という見方ができなくもない。
    これは普通に面白い。
  • 満足度★★★


    始まる前までは面白そうだったんだけど、
    実際始まってみると、段取り芝居に収まってしまって、
    ”本気”というものが見えなかった。

    それぞれがどういうキャラを持っているのかも、知りたかったな。

    これだけ期待のある劇団だから、
    私が見た回はたまたまイマイチだったんだなと思う。

    個人的に第二幕の方が好きでした。

    また次回に期待します。

  • 満足度

    つまんない
    演劇ってこんなにめんどくさいものなのか
    ①劇場がわかりづらい
     王子小劇場は看板と入口が小さいので見落としやすい
     劇団の責任ではないのでしょうが…
    ②セリフが入ってこない
     役者の身体からセリフが発せられてない
     主張している内容が耳を傾けるほどのものではない
     ファミレスでおしゃべりする若者の会話が聞こえてきた感じ
    ③ダンスは気持ちいいが脈絡がないのでまるで一体感が得られない
     個人的には踊ってるヒトのつらそうな顔は見たくない
     苦しくとも笑顔で楽しく踊ってほしい
    ④美男美女ぞろいなわけでもなくぼんやり見てると淋しくなる

    ぼくの隣には妙齢のおばはんがいて「小指値ってどう読むんですか?」と
    きいてくるから こゆびちですよ と教えてあげた 
    今回から快快となったんですかあ と言っていた
    もしかしてこの人は出演者の誰かのお母さんかもしれない
    そうするとこの人は娘(息子)のやっている劇団名を今の今まで読めなかったということになる それはまあ 切ないことだ
    と思った  そういう感じ

  • 満足度

    空っぽだった
    あまりの内容の無さに呆然。
    只々「僕たち楽しいですよぉ~!みんなももっと楽しもうぜぇ~!」みたいな空気が充満していた。
    人数合わせで連れてこられたコンパで周りがすっごい盛り上がってるのに、自分は今ひとつ引いてしまって顔は笑ってるのに心の距離が開く一方、みたいな。
    自分は何か期待するものを間違っていたらしい。

    サイトの方に「岸田戯曲賞最年少でとります」とか書いてあったけど、この人達はそんなもの必要としてないし、とる必要もないし、とれないでしょう?なんでこれでとろうとか思うのか皆目分からない。

    あと、別にこれはこの劇団に限ったことじゃないけど、何で踊る(というか只の振り付けでしかないんだけど)必要があるのか分からん。「何でも節をつけて歌えばミュージカル」みたいでどうも好きになれない。
    あの中で、ちゃんと身体があって踊りとして観られるのはパパ・タラフマラの(で良いのかしら?クレジット無かったけど)池野さんだけだった。

    総じて空虚な60分だった。
    唯一の収穫は、「あー、東京でしか生きられない人達っていうのがいるんだなぁ」ということに気が付いたこと。

    まあ、でもこれもまた「舞台」なんだよなぁ。

  • 満足度★★★★

    やっぱり魅力的な集団
    団体名は変わっても、遊びたっぷりの舞台は相変わらず。
    入場したら既に役者さんが舞台上に揃っていて挨拶されたのでビックリ。
    今日は夜の講演後に研究発表会があって、論点がわかりづらい発表会だったけど、言いたいことは「デザインの面でも見にくる人たちとの距離感をなくしたい」ということでした。確かに快快になってからは距離感を縮めようというという意味で、参加型イベントも用意されてて楽しいですね。

    あと脚本がよければ★5つなのだけど。。。

  • 満足度★★★★★

    セグウェイ乗るべし、乗るべし!
    一回観たら乗りたくなりませんか?そのためにしゃかりきになって早く行ってみました。楽しい楽しい。一人で行っても夢中で楽しめます。行くべし。

    ネタバレBOX

    一回観た後でも、確実に二回目も楽しいです。ネタ増えてます。セグウェイももっと広い場所で乗りたくなります。意外に空いているので、劇団の方ともお話ができます。そしてセグウェイを乗りこなす天野くんがよりかっこよく見えてきます。

    すみません、演劇的な感想じゃないですね。。。
  • 満足度★★★

    一歩間違えれば
    仲良しメンバーが楽しんでるだけのように感じてしまうかもしれない。
    自分も最初はそう感じて一歩引いてしまいそうになったものの、
    ある瞬間に「あ、もっと気楽に観ればいいんだ」と思えて楽しめた。

  • 満足度★★★★

    残るなあ。
    エピソードや繰り返される言葉が今を生きているので、観劇後そのまま自分の日常にまるごとシフトして行く感じがしました。いいもの観ました。

  • 4度目の小指値改め快快
    かなり久々に観て来ました。以前より面白くなっているというか、作品としてきっちりパッケージングされてきているような感覚。洗練、でしょうか。格好良いことを格好付けずにやっているので清々しい。
    演者、美術、選曲、セグウェイ、宣伝美術◎

    ネタバレBOX

    普通クリエイターは、面白いものや新しいものを創ったと思っているときは、それを格好付けてしまいがち。ところが彼らは、面白いものを面白いでしょ?とは言わないし、新しいものを新しいでしょ?とも言わない。そこが、格好良いし清々しい。斬新!と言えるほどの新しさはセグウェイには敵わなかったけれど。山崎君は逐一面白いなあ。天野史朗のぶっ飛びっぷりがもっと観たい。
    空間照明に期待していたのだが、あまり生かされておらず残念。
    ※公演後の別団体(作家は同じ)リーディングプレビュー公演は、色々な意味で勿体無い感じ。
  • 満足度★★★★

    2回目観劇。
    初日よりもくだらなさ倍増で破壊力アップ!

    ネタバレBOX

    1幕目は、
    初日の2倍増しのノリで、
    隙あらば突っ込んで来る
    体を張ったネタが、メチャメチャ楽しい!

    2幕目は、
    台詞をしゃべりながらバタバタ人が死んで、
    また直ぐに生き返って台詞をしゃべる。
    を繰り返す演出が新しくなっていて、
    コレが初日は単調に感じた部分に、
    変なリズムが加わっていてミョ~に可笑しい。

    ようやく期待した快快らしさが感じられたかなと。

    さて、ここから楽日に向けて、
    どう予想外に変化していくのか?
    が、最大の見所かなと。
  • 満足度★★★★★

    リピートすることにしました
    すがすがしい。気持ちいい。軽く作っていながら、しっかり考えてきっちり作りこまれている。

    ネタバレBOX

    前半、しかけもりだくさんのせいで会話のテンポがやや停滞する部分はあったけど、これくらいは待てるな。
    入場時からのサービス精神がすばらしい。
  • わたしが見た後、
    また変わったそうで。
    も一回行きたいですけどねー(汗)

  • 200805191500
    200805191500@王子小劇場/PPT有。

    ネタバレBOX

    *かきかけです。

    見よう見まねで手出ししたらやけどするやり方。似たようなことをやろうとして、まったくつまらない公演も多々ある。ではそれら十把一絡げな作品群と快快の違いは何かと問われたら、それは「趣味の善し悪し」という漠然とした答えしか用意できない。

    物語の拒絶、変化の否定が「ジンジャーに乗って」の骨子である。最初に俳優たちから「今回のテーマは無駄です」と言われ、ポストパフォーマンストークでも「ゴドーをまちながら」から着想を得たと言うとおり、舞台上の登場人物は無駄な時間を過ごす、それだけの60分がこの作品である。

    脱物語、脱構造したいと考える演劇人は多いが、かつ多くの人が面白いと思える作品、つまり独りよがりで理屈っぽくない作品に仕上げるのは難儀なことだ。

    「瞬間のキラキラ」。篠田千明が何回か口にしたこの言葉は、たしかに快快の魅力の本質を表している。取捨選択の秀逸のみが、「ジンジャーに乗って」を鑑賞に堪えうるものにしている、と言っても過言ではない。


    脱構造の奇跡が趣味の良さに支えられるすっとこどっこいな現象が起きている。そんなの快快以外では観たことがないし、またこれからも観られないと思う。

    短期決戦専用の代償として、60分以上の作品を、お客さまを退屈させずに提供できるとは思えない。「瞬間のキラキラ」とはあくまで瞬間であり、ひとを2時間3時間引きつけるためには物語の力を借りねばならない、逆に言えば物語の放棄して2時間3時間を鑑賞に堪えうるものにしたとしたら、それは演劇の歴史を変える事件になるかもしれない。

    もてそうセックスしてそう、それって大事。

    新しいことに価値があるのではなく、現代を射抜いていることに価値がある

    方法論のための表現ではなく表現のための方法の模索
  • 満足度★★★★

    「わかんない」と「ひさしぶり」
     面白かった。何より肩肘張らず気楽に観ることができたし、僕にとっては非常に興味深い作品だった。前作の『霊感少女ヒドミ』もだけれど、それ以前の作品でも同様に描かれ続けている「東京」という都市の肖像が、雑然として生々しく目の前に開けていく。それが本作では「これでもか」というほど一層にあざやかだった。(彼(女)らの「東京」を舞台にパッケージングするセンスはとても鋭い)
     劇中に繰り返される「わかんない」と「ひさしぶり」に、僕は雑踏での邂逅を見た気がする。これは日常生活にある他者とのちょっとした擦れ違いのなかにも生じる触れ合いの質感とでも言えるだろうか、例えば肩を寄せてひしめき合う存在の喧噪への耐えられなさや、ふと他人同士の手と手がぶつかり合ってぱちんと乾いた音を鳴らすときに感じるスリル——都市が内包する刹那の緊張感——が、ダンス中の不安定な身体性に集約されていく。瞬間瞬間が、ふつふつと忘我の彼方へと消え去ってはまた新たに次々と現れてくる。浮遊ではなく"滑走"という感じ。キェルケゴールが「ほんとうの反復は前方に向って追憶される」と言ったように、延々と続くかのような「日常」の経験は、決死の跳躍、そして束の間の浮遊感の後に現れてくる欲動の滑空であり、重力との均衡を保ち続けるような滑走の疾走感なのだ。
     終演後の舞台に残存する気分は確かに切ない。が、これはノスタルジーなどではなく圧倒的なリアリティなんだと思う。

    ネタバレBOX

     あ、随分とたいそうな書き方をしてしまった。けれども"贅語的だ"なんて笑わないで下さいよね。:-)

     「セグウェイに乗って、何もしない」——約めて言えばそういう印象の作品だろうか。この「何もしない」ということが、演劇における物語ることの過剰さ(「無駄」)を通じて描かれていく。それは、一幕においてはベケットを通じて、二幕ではその再現と展開を通じて、そして最後には、まるで折り紙を開け広げ解体したかのような幾筋もの折り目だけが残される。が、この折り目に物語の痕跡を認めてノスタルジーを感じても仕方がないのは上に述べた通り。
     本作では、日常にぽっかりと空いたエアポケットのような瞬間に感じられる爽快感が「晴れた日の散歩」として登場する。この感覚がもし、本作の演出シノダがアフター・トークで語っていたような「瞬間が死んでいく」こと(ハイデガーなら「先駆的了解」とでも言いそうなもの。本作では、演者が立ち上がって台詞を口にしては倒れる、という動作に還元されている)へも通じていくのだとすれば、それは「再極限の未了」(死の直前)でのスリリングな戯れともみえてくる。こうやってハイデガーを引き合いに出して語ると嫌が応なく壮語的な匂いがしてしまうものだけれど、この種の想像力が案外バカにならない作品だなと思った。
     近頃では他人の死が当然のごとく記述されていく時代になったが、それが戦時下のような肉体的な死の感覚とは違うとしても、やはりそれとは別種の仕方でありありと平明に認識されるようになっている。そして現に、インターネットを通じて今までは考えられなかったようなより多くの死亡者数を目の当たりにしている。だから焼け野原の六本木と普段の会話で口にするようないわゆる今の六本木とが結び合わされることには、もはや何の不思議もない。「死」を口にすると相変わらずドラマチックな感じのする世の中ではあるけれど、それでも自らの死は相変わらず自分自身のリアリティの核としてあり続ける(本作では「期限」とか「終わり」とか言われている)し、他者にとってもなお歴然とした事実としてはあり続けている。例えば死に関する記憶と事実とに向かい合った場合、そのような記憶は単に追憶されるものだとしても、事実はやはり事実として反復される(キェルケゴール的な「反復」は、初めて現れる出来事が既に在ったもののように繰り返される予言的な振る舞いをする)。だから2度目のデモのシーンのダンスから受ける爽快感は、こういう"強度の反復"——言うなれば「日常」の絶対的な肯定——によって現れるマイナー・トーンの清々しさなんだろうと思う。僕はこれを「生かされていることの自由さ」とでも言いたい。

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