鏡花×劇 草迷宮 公演情報 鏡花×劇 草迷宮」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.2
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  • 満足度★★★★

    質実でもって剛健じゃった。
    「仮名手本忠臣蔵」通し読みを浅草木馬館で拝見して以来の遊戯空間「草迷宮」は、岸田理生脚本のそれでなく泉鏡花の原作(原文?)に即した忠実な舞台化(動的なーディング)で、都心の幹線道路から一歩だけ入った梅若能楽学院という古びた外装の内側に磨かれて光る能舞台を「借景」に、堂々と展開されていた。
     原作に当たっていないが、小説の「読み」か、もしくはそれを下敷きにした作りになっていて、「地の文」も登場人物が台詞として発している。(コロスも居て、冒頭には導入の儀を行ない、以後は場の内外で場面を象徴する動きをする。)
     話はなるほど能に近かった。ある土地を訪れた旅の僧が、まだ日の浅い殺人事件とその現場となった邸の事を知らされ、赴き、あれこれあってどうしたという話である(細かくは把握できなかったのでご勘弁)。
     小説の文のテンポで展開するため、朗読の雰囲気は堅固に残り、中々つらい(眠気との闘いの)時間も正直あった。 しかし原典のリーディングという土台を据えた上で、台本を手から離して全力の演技でそれを行なうという路線は、ありそうで無かったかも知れぬ。エンタメ効用の低い割には難儀な作業を、力のある役者がこなしており、正に「質実剛健」と呼びたくなる舞台だった。
     演技の面だけをとれば、質素(簡素)から醸される幽玄とはかけ離れた、温度の高い、声を張り上げる演技で(特に女性の役)、能舞台を生かせたかどうかに若干の疑問。
     あとは俳優の位置取りなど構図にこだわっていたようで、正面客席から観たかった。

  • 満足度★★★★

    能…
    随分前になるが、「能を観に行こう」と誘われたのに「飲みに行こう」と勘違いし、飲食街とはほど遠い国立能楽堂に連れて行かれた、笑うに笑えない恥ずかしい思い出がある。

    さて今回も失敗した。開場時間前に到着したが、既に多くの方々が並んで待っていた。自分としては、中正面見所で目付柱が邪魔にならない席に座りたかったが、やはりその位置(列)は先客がいた。やむを得ず正面見所で橋掛りからの登場が立体的に観える席へ。正面だと役者の表情や横の動きはよくわかるが、前後の動きや足運びが観難い。

    物語は、明治の文豪・泉鏡花の「草迷宮」であり、その妖(怪)しげな雰囲気は、能における現実と夢、この世とあの世が交錯する「幽玄」な世界観にぴったりであった。その演出は照明の「幽冥」のようなトーンが、まさしく「幽明」を感じさせる。
    さらに、正面・鏡板の老松の絵が、この物語の舞台場所である三浦半島の大崩(おおくずれ)であることから、磯馴れ松のように見えるところが不思議である。

    ネタバレBOX

    能の様式化された舞...本公演「草迷宮」では、始めのコロスの中で堪能した。そして現代能として、夢幻能とは違う、いやその逆のような物語は面白かった。つまり現実と夢の二つが交差し、主人公の亡霊が回想して聞かせる人間の内面劇。今回は諸国行脚の法師が霊との交信をするような、こちらも人間心理の側面である恋慕を描く。

    この梗概は「諸国行脚の小次郎法師は、茶屋の老婆から秋谷(あきや)の旧邸、通称「秋谷邸(やしき)」では昨夏に5人の死者を出し祟りを恐れられ、無人となっていたという。そこで回向に赴く。秋谷邸には、幼いころに聞いた手鞠歌の手がかりを探して小倉からはるばるたどり着いた、葉越明が住み着いていた。葉越は小次郎に、秋谷邸で起こる数々の怪異について語り聞かせた。
    その晩、葉越が眠っている間、小次郎の前に、秋谷悪左衛門と名乗る悪魔と、葉越の幼馴染で神隠しに遭って邸に住んでいた菖蒲(あやめ)が現れた。ある理由で菖蒲は葉越には会えないので、葉越を追い出すために悪左衛門が怪異を起こしていたが、葉越が逃げないので、菖蒲が秋谷邸を出て行くことにしたというのだ。
    菖蒲が手鞠歌を歌うと、葉越は目を覚まし菖蒲にすがろうとするが、菖蒲は去っていった。」というものである。

    茶屋の姥が秋谷の邸で連続して死人が出た、と語る場面は少し冗長に感じた。能のゆったりした語り口は、その動作が伴わないと”演劇”を観ている観客(自分)にとっては集中力を保つのが大変であった。

    しかし全体的には、この世に浮かび出た霊が、法師と対話する。現実と夢の描きは泉鏡花の「高野聖」等の小説に見られる妖艶・亡霊の世界そのもの。
    実に観応えのある現代能であった。

    次回公演を楽しみにしております。
  • 満足度★★★★

    得心
     良く夢幻能という言葉を聞くのだが、それが実際何を意味するのか? どうしても得心がいかなかったのだが、今作を拝見して漸く合点がいった。要は“無”なのだ。(中間追記2015.7.29)

    ネタバレBOX

    橋掛りが何を意味するかなどという幼稚園レベルの話は割愛する。夢幻能という形式が一般となって現在に残っている必然について、自分は“無”という概念を提示したのだから。異界のもの(者或いは物乃至はqc)シテが揚げ幕の向こう、即ち観客からは隠されている場から登場するのも、またこの場所が、鏡ノ間と呼ばれるのも意味深である。ワキもここから登場するのであるが、既に、劇中の現実も異界である、という約束事から始まっているのである。但し、ワキは、片足を現世に置いているのであり、もう一方を異界に向けているか踏み込んでいるのである。能は、この程度の抽象性に出会った瞬間入って行けることを前提にしている点で、非大衆演劇であったし現在もそうである。このことが、能の本質を理解できないインテリに世迷い言を言わせる原因にもなっている。
     

  • 満足度★★★★★

    貴重な経験でした
    鏡花を能楽堂でみると、芝居小屋よりも様式美の皮を被って、また新たな姿が観れて貴重な経験でした。能楽堂の照明があれほど演出できるのか驚きでした。チェロや太鼓、尺八も特徴的でした。役者さんも見応えありました。新たな『草迷宮』になってました。

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