永遠の一瞬 -Time Stands Still- 公演情報 永遠の一瞬 -Time Stands Still-」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.9
1-7件 / 7件中
  • 満足度★★★

    観る人の属性で
    観る人の属性(男女やライフステージ)で感想が色々と多角的に異なってくるお芝居だと思います。

  • 満足度★★★

    泥臭さに欠ける
    核となる恋人の人物設定がありがちであったためかやはり物足りない。
    サラ(中越さん)の主張も、胸に届くような光る台詞も乏しく魅力も徐々に低下してしまった。

  • 満足度★★★★

    今もどこかで起こっている戦争、そして人生の選択
    「永遠の一瞬」を止めておけるのは写真だ。
    人の気持ちは一瞬ごとに変わってしまう。
    「永遠」というものは存在しない。

    ネタバレBOX

    女性の戦争カメラマン・サラと、男性の戦場ジャーナリスト・ジェームズのカップルがいる。
    サラは、戦場取材中に一時意識不明になったほどの大怪我を負ってしまう。
    彼女が負傷したときにその場にいなかったジェームズは、彼女を迎えに行き、2人が生活しているアパートに戻って来た。
    実はジェームズは、やはり戦場取材中に心に深手を負っていたのだ。

    帰国した2人の前に共通の友人であるリチャードが訪れる。
    マンディーという、若く新しい恋人を連れて。

    身体と心に深手を負ってしまったということによる、サラとジェームズの関係、さらにマンディーという恋人を手にした、リチャードとの関係など、久しぶり会う彼らの状況の変化が、さまざまな気持ちの動きになってくる。

    そんなストーリー。

    この物語には2つのテーマがある。

    ひとつは、戦場ジャーナリスト(カメラマン)についてで、もうひとつは女性の生き方(と男性との関係)についてだ。

    戦場ジャーナリストはなぜ戦場を取材するのか、戦場カメラマンはなぜ戦場の悲惨な姿にレンズを向けるのか、ということだ。
    それは「強い使命感」にあるからだ。

    マンディーがサラに問う。「レンズを向けている怪我をして死にそうな子どもにシャッターを切るのではなく、なぜ助けてあげないのか」と。
    サラはそれ答える。「自分たちが伝えなければ、その悲惨さは誰も知ることがない。自分が助けようとしてもその子どもは助からなかった」。

    伝えることで世界が知り、レンズの向こうにある悲惨な出来事が少しでもなくなるのではないかと思っているのだ。

    しかし、マンディーにはそれが理解できない。目の前にいる子どもを助けることが先であると。
    2人の間は、絶対に埋まることはない。

    サラの側に立っていたパートナーのジェームズは、戦場で受けた心の傷は完全に癒えていないのだろう。さらに自分の記事が雑誌に絶対に掲載されないことを知り、心が折れてしまう。
    「自分たちが何をしても戦争はなくならない」と言う。
    つまり、使命感が折れてしまったのだ。
    それが彼らの仕事の根幹であるのだが。

    ジェームズの心動き、葛藤はよくわかる。それはた私が男だからかもしれない。
    自分の精神が傷つき、最愛の人が死線を彷徨ったのだから、「普通」になりたい、と思うのは当然だろう。
    しかし、サラは違った。
    死線を彷徨ったのが自分だから、最愛の人が生きるの死ぬのかという不安にあったわけではないし、体験からさらに自分の意思を固めてしまったのだろう。

    それは女性と男性の違いなのかもしれない。
    女性にはそういう強さがある。
    子どもを産み、育てるマンディーにも同じ強さがある。
    ただし、それは「やりがいのある仕事を捨てても、自分の子どもを育てる」という強さだ。

    サラの設定は女性戦場カメラマンなのだが、それを単に「仕事」と置き換えてもいい。
    女性は「仕事」と「家庭」の選択を迫られる。
    戦場カメラマンという設定にしたのは、その両立が非常に難しいからだろう。

    安全な場所で幸福な妻になり、母になるのか、使命感とやりがいで、文字どおり命をかけた仕事を続けるのか、ということなのだ。

    マンディーが現れたときに、サラはジェームズに聞く。「ああいうのが好みなのか」と。
    サラの嗅覚が、ジェームズの変化を嗅ぎ取った一瞬だ。

    彼らの友人リチャードは、言い訳のように、マンディーについて語る。
    使命感を持ち、鋭さを失っていないサラを前にして、申し訳なさのようなものを感じてしまったのだろう。
    しかし、リチャードはマンディーを選び、普通の幸せを選んだ。
    ジェームズも、彼らを見て、心が揺らいだのではないだろうか。

    サラの立場から言えば、「結局この男も、あの男もみんな同じだ」ということなのかもしれない。
    男が女性に求めるのは、そういう生活なのだから。

    リチャードからのプロポーズを受け、いったんは結婚する2人だったが、やはりすでに価値観が違っている2人は別れしか方法はなかったのだ。

    別れた後、リチャードは新しい恋人をつくっていた。
    サラは1人、また戦場に向かう。

    男の視線から見てしまうと、サラの頑なさは、マンディーへの当てつけのように見えてしまう。
    「私はあなた(たち)とは違う」「使命があるのだ」ということで、仕事に向かうことに頑なになってしまったのではないだろうか。

    女性が仕事を続けるということは、戦場のような場所をかいくぐらなくてはならない。
    決死の覚悟が必要であり、その姿は悲壮感さえある、というラストではなかったのではないだろうか。

    「仕事か家庭か」という選択を迫られている女性たちは、この作品どう見たのだろう。
    とても辛いラストであったのではないだろうか。

    「永遠の一瞬」を止めておけるのは写真だ。
    しかし、人の気持ちは一瞬ごとに変わってしまう。
    「永遠」というものは存在しない。

    サラを演じたのは、中越典子さん。キリリとしていて、対峙する者は正論でねじ伏せられてしまうような強さを感じた。
    男性はそれを感じ取り、申し訳なさげに対応する。例えば、サラの目を正面から見ることができないような。
    マンディーを演じたのは、森田彩華さん。屈託がなく、何でも思ったことは言ってしまう。しかし、悪気はなさそう。ただし、ひょっとすると強く使命感と仕事に燃えるサラに対して、誰もが言い辛いことを、わざと言ってるのではないか(言わば挑発している)と思ってしまうような、雰囲気がいい。

    サラのパートナー・ジェームズを演じたのは瀬川亮さん。線の細さ、簡単に折れてしまいそうな雰囲気がよく出ていた。自分の記事が掲載されないことへの怒りや、気持ちの変化など。
    友人のリチャードを演じたのは大河内浩さん。俗物のように見えるが、それはサラがいるせいであり、あれが普通のおじさんなのだ。

    舞台の上手後方に舞台サイズと比べて小さなモニターがあり、戦場らしき写真が時折、映し出される。何が写っているのかは、ぼんやりとしかわからない。
    つまり、世界のどこかでは、こうしている今も、悲惨な出来事が起きているということであり、サラの頭の中と、ジェームズの頭の中には、消し去れないそういう記憶が残っているということなのだろう。
    残っていることは同じであっても、その影響は180度変わってしまったのだが。
  • 満足度★★★

    それぞれの生き方
    登場人物が4人、場所も1つの部屋のみのストレートな会話劇で、様々な考えさせられるトピックが扱われていました。

    結婚しないまま長年同棲しているカメラマンの女とジャーナリストの男、編集者とその恋人の2組のカップルの正義や仕事、人生についての価値観の相違が浮かび上がり、最後まで共通の結論には辿り着かないものの、それぞれの考え方を尊重する結幕に希望が感じられました。
    斜めに振ったリアルな室内のセットの中、わずかな効果音と写真の映像だけしか用いず、演技に集中させる演出で、台詞の裏に込められた感情に引き込まれました。

    戦争ものにありがちなお涙頂戴に対しての自省を込めたやりとりが途中である通り、声高にメッセージを押し付けず、またシリアスな内容の中にも程良くユーモアが感じられる充実した内容の作品でしたが、オーソドックスにまとまり過ぎていて、この脚本・演出ならではと思える要素があまり感じられず、少々物足りなさを感じました。

    転換の際に上手奥に戦争の写真が映し出されていたのですが、写真の切り替わりにエフェクトを掛けていたのが芝居がかって見えて違和感を覚えました

  • 満足度★★★★

    切ないラブストーリーとして観るべき芝居
    主人公が、戦場のフォトジャーナリストということで、かなり身構えて観てしまいましたが、観終えてみれば、これは男女の切ない恋愛模様を描いた芝居なのだと気づきました。

    主人公の職業はあくまでも芝居のお膳立てで、これが他のどんな職業であれ、作者の描きたかったテーマは、同じだったような気がします。

    宮田さんの演出は、いつも丁寧なのですが、そのせいで、いつもどこか、作為的な感が否めません。どうしても、登場人物を俯瞰して観てしまって、結局これは芝居なのだと、常に意識させられます。だから、観ていて、究極的に登場人物の意識にのめり込むことができません。良く練られたお芝居だとは思いますが、満足度がマックスにならないのはそのせいだと思いました。

    中越さんは、たぶん、初舞台からかなり拝見している女優さんですが、観る度、舞台女優としての劇的な進化を感じて、嬉しくなります。
    一方、相手役の瀬川さんは、良くも悪くも、いつも一定の役者力を発揮される男優さんだと認識します。台詞回しが、ある意味自然なのですが、台詞の一部が観客に伝わらないのは、舞台俳優としては、致命的な気がしてしまいます。特に、こういう、一字一句の台詞が重要な芝居においては。

    ネタバレBOX

    戦場のフォトジャーナリストの女性と、彼女に常に同行していた、恋人のノンフィクションライターの恋愛模様。

    一幕では、サラは、取材先で負傷して、命からがら、帰国して来るところから、始まります。恋人のジェィムスは、サラほどには神経が図太くなくて、戦場の悲惨さに耐えられず、先に帰国して、オカルト映画の脚本作りに勤しんでいるようです。そんな彼を観るサラの目は時に批判的ですが、長い間、コンビを組んで来た彼に対して、サラは複雑な女心を覗かせたりもします。

    一幕ラストでは、怪我をしたサラを慈しむように、二人が再び、心も体も結ばれるシーン。ここで、私は、この芝居は、恋愛ものなのだと、ようやく気づかされました。

    二幕冒頭は、ジェイムスが、戦場ものの芝居を観劇しての感想を述べる場面から始まります。この彼の痛烈な感想が一々耳に痛かったのは私だけでしょうか?戦場ものの芝居を観て、疑似体験をした気になって悦に入って帰宅する観客の一人が、まさに、今の自分に重なって、心が重くなりました。

    連日、終わることのない戦闘が、どこかで繰り返されて、幼気な子供達や、非力な人間の命が露と消えて行くのに、何もできない自分。ジェィムスの無力感は、私にとっても他人事ではなく、だから、登場人物の中で、彼の意識に一番共感してしまう自分を疎ましく感じてしまいそうでした。

    戦場で、悲惨な民衆にカメラを向けることに、時として、迷いや、逡巡を感じることもあるサラは、でも、自分の持ち場は、戦場のジャーナリストのみという自負に支えられて生きています。

    二人は、お互いに、相手への愛情を自覚しながらも、一緒に生きられないと悟る時を迎えます。二人の間の隙間風の理由として、サラの通訳だった現地男性との情事も、色濃く反映していました。
    その男性タリクは、既に亡くなっているのですが、ジェイムスにとっては、未だに彼は心の中で存在していて、だからこそ、取材ルポに、タリクの存在を消し去ってしまいます。サラには、逆にこのことが、ジェイムスとの別離を決意させるきっかけになるようです。

    別れを決意した二人は、今後、親友として、関係を続けて行くのでしょう。
    一度は存在を消したタリクを、出版に漕ぎつけた写真集で、再び復活させるのは、ジェイムスのサラへの精いっぱいのはなむけだったのだと思います。

    相手を嫌いになったわけではないのに、止む無く別れを選択したことがある経験から、二人が最後に固く抱擁するシーンは、胸に応えました。
    個人的好みから言えば、ここで幕にしてほしかったと思います。

    せっかく、積み上げて来た芝居が、最後の最後のわざとらしいサラの所作を見せることで台無しにしてしまった気がしました。中越さんが、戦場のフォトジャーナリストがカメラを構える演技を体現できるまでには残念ながら、まだ無理がありましたから。
  • 満足度★★★★★

    洗練された良質な舞台!
    新国立劇場の演劇は常に観ています。CoRichには書いたり、書かなかったりですが、芸術監督宮田さんの演出素晴らしく、今回は是非観てほしい舞台なので書きました。
    現在、社会がかかえる身近な問題と距離を置いた問題とをまさしく劇的に表現しています。
    主人公サラのストレートで”ここまで言うの?”という台詞も新鮮!
    ふつうの女性マンディの言葉は、まさにマスの声で真理をつきます。

    ネタバレBOX

    紆余曲折を経てサラはジェイムズとの結婚にピリオドをうち、再び戦場カメラマンとしての人生を歩む決意をしたラストシーンは印象的で、中越さんの目力にその迫力を感じました。
    片目を瞑ってカメラのファインダーを除くこのラストシーンは、劇中でマンディが投げかけた死にそうなものを助けないで写真をとることが人間として正しいのか、それでいいのかという問いかけに対する答えをも含んだものと考えます。つまり、その場で助けることに目を瞑り、写真によって世界に投げかけ、人を助ける決心をしたことをも意味していると思いました。

  • 満足度★★★★★

    距離感と、
    距離感の変化が良く表現されていました。

    ネタバレBOX

    イラク戦争の取材中に死にかけの負傷をしたフォトジャーナリストのサラが、現地の病院で付き添ってくれたジェイムズとともにニューヨークに戻り、リハビリを経て、リハビリ中に人間関係を再構築して、再び取材のために戦地に赴こうとする話。

    登場人物はフォトジャーナリストとして使命感に燃えたサラ、編集部員としてジャーナリストと営業マンの両面を持つリチャード、サラとともにイラクに行っていたものの、取材中に目の前で爆発が起こり、肉片等を浴びて精神的に参り帰国していたジェイムズ、リチャードの恋人でイベントプランナーをしている若いマンディの四人。

    そこにもう一人、ジェイムズが帰国した後でサラが愛するようになったフィクサーのタリクが重要人物として存在していました。タリクはサラが負傷した際に死亡しましたが、ジェイムズからすると今もなお嫉妬の対象でした。

    当初の戦争報道に対する熱意は、サラ、ジェイムズ、リチャード、マンディの順でしたが、最終的にはサラ、リチャード、ジェイムズ、マンディの順となりました。

    マンディは私に近い存在でした。サラに、どうして死にかけの子どもがいるのに助けないのと聞きます。サラは、悲惨な状況を世界に伝える使命感を話し崇高振っていましたが、別のシーンで現地の人から写真を撮るなと叱責され倫理的に苦しんだことも告白していました。また、悲惨な方にばかり興味を示すサラやジェイムズに対し、明るい現実を見ることも大切だと力説していました。さらに、マンディは、リチャードが話した例え話の内容を聞いてくれました。薬物中毒で死んだロック歌手とその恋人の名前のことでしたが、そんなん知らんがなでした。

    サラとジェイムズはいったんは結婚したものの別れました。リチャードの出版社から出すサラの写真集の文章を担当したジェイムズは、下書きの段階ではタリクの存在を一切無視した書き方しかできませんでしたが、サラとの生き方の違いを悟り達観した後は、フィクサーとしてのタリクの存在の大きさを感謝する形で表現することができるようになりました。

    そのフィクサーですが、フィクサーとは取材の段取りをつける人のことで、フィクサーなしでは何もできないと言われると、取材そのものの在り方に何がしかの虚しさを覚えます。

    マンディは赤ちゃんを産んでから子育ての重要さに目覚め、仕事に復帰することをやめました。ジェイムズは戦争から離れた感じの作家兼ジャーナリストの方向に舵を切り、穏やかになり、新しいパートナーも見つかりました。そして、サラは戦地に向かうことになりました。

    ところで、サラがファインダーを覗くラストシーンは必要だったのでしょうか。サラは右目を閉じてから望遠レンズを付けたキヤノン製のカメラを構えました。常に周囲の状況を把握しなければならない戦場カメラマンがそもそも片目を閉じて写真を撮るのでしょうか。人それぞれだとしても、そんなに初めから片目を瞑るものでしょうか。余計な所作で馬脚を現してしまったように思えて仕方ありませんでした。

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