迷迷Q 公演情報 迷迷Q」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.5
1-15件 / 15件中
  • 満足度★★★

    わかるようなわからないような
    話わかるようなわからないようなだったかな。100分の上演時間も、長く感じたような、あっという間だったようなでもあった。しかし、役者への動作負荷のかけようはなかなかハンパなく、その負荷に負けることなく演じた役者陣なかなかよかった。映像の使い方は面白かった。

  • 満足度★★★

    ポップ、グロテスク、キッチュ……その先にあるのは?
     動物や生命、性に対するフラットな視点と禁忌に踏み込む大胆さで異彩を放つQ。そのグロテスクかつキッチュな魅力が、今回はやや自家中毒的に見えてしまいました。母子の語りの中に織り込まれた、あられもなく、多面的なセックスや生殖のアレコレ、そこに横たわる違和感が、それ自体の面白さ、珍しさから抜け出し、外の世界(社会/他人)に開かれていく回路をもっと明確に掴みたかったと思います。たとえば、混血の女の子「バッファローガール」にはその可能性を感じたりもしたのですが……。とはいえ、これだけ悪趣味とも言えるアイテムを、時にはグルービーに、ポップに料理してしまう手腕には、眩しいものを感じています。

  • 満足度★★★

    「楽しみ方」も発明してほしい。
    正直に言えば、最初から「どう楽しんでいいか」がわからなかった。なんとなくやりたい事が理解できなくもないが、もしもっと動員を増やし、多くの人に提供していくのであれば、自分と観客の接点を広げていくしかないのではないか。「趣味」と割りきって、自分の表現に固執するのもいいとは思えない。あれだけの「ワールド」を展開できるのであれば、本当の意味での「ポップ」に挑戦して欲しい。

  • 満足度★★

    「荒削り」の「幼さ」
    文字通り、迷宮から出てこられなくなっていると感じた。いつもの言語感覚のキレもなく、これではただの性的な露悪になってしまうという危惧だけが残った。脚本のモチーフに関しては前作までの手癖の域を出ない。

    女がセックスを描くには、作家自身のフィロソフィ(哲学)が必要だ。ともすれば「(女のわりに)大胆である」という評価で済まされないために、戦う芯がいる。もちろんそんな評価軸はないほうが望ましいのだ。だが、黙って男に挿入されておとなしくしているほど(それじゃマグロだけど……)私は安くないのよ! と示すことは大変重要である。

    Qのこれまでの良さは、主人公とおぼしき女性の独白台詞で示される凛とした生き方、何もかもどうでもいいと突き放す潔い哲学にあった。今回の園子役の坂口真由美の声と身体にはその魅力が足りず、モノローグによって強烈に残される印象が全くと言っていいほどなかった。

    セックスの描き方についてもう少し考えたい。今作では「食べること = 一体化」「セックス = 違和感」の表明として描かれている。冒頭、公園でセックスする園子の両親たちは異物を挿入しあう存在で、そのいびつな結果として子どもをぼこぼこ産みまくる。それが、異なる他者同士が「わかりあえない」ことだけにスポットを当てているように思え、そこから先が見えなかった。

    他者に対して違和感を持ち、食べられないというベクトルに関しては、園子が母にくわえさせられたハワイちゃん(犬)の唐揚げを吐き出すシーンがあるが、わかりあえない他者が「一体化するためのセックス」の存在がないのだ。そして、「ないこと」に対する憤りや鬱屈はもちろん、「そんなのどうでもいいわ」といういつものポーズさえも感じられない。それが大きな欠落感を生んでいる。

    Qの描く「ニンゲンからはみ出すもの」というのは、つまるところ「自分からはみ出し」ているものでしかないのではないか。アフリカンと日本人の間に生まれた「バッファローガール」についても、恐らくはサバンナというモチーフが野生の象徴なのだろう。しかし自分が向かうべきユートピア、あるいはディストピア(オトナの世界)に対峙するためのユートピア(の入り口)としてのサバンナには思えず、黒人の住む異界として安易に設置したようにしか見えない。

    Facebookに友人との交流の投稿をしまくっている女子を揶揄したようなシーンについても、端的に言うと感じが悪い。これまでのQのアイロニーならそれも可能かもしれないが、単に排他的なように見えてしまい、素直に笑うことが出来ない。何なのだろう、周りの女の子を見下したいのかなあ。でも、こういう友達とごはんを食べて旅行に行って楽しむ暮らしをしている人がQを観に来たら、このシーンの意味がわからないんじゃないだろうか。邪推だが、市原佐都子には、そういう人みたいに暮らせたら(創作について悩まずにいられたら?)楽だろうなあ、という気持ちがあったのかもしれない。でも実際にああいうきらきらの生活をしている人はいるわけで、安易にパロディ化してしまうことは、ただの悪趣味だ。

    生活は物干竿にはためく服のような、舞台美術として風景に映えるものだけではない。人は汚水を流し、ゴミを捨てて暮らす。Qでは、犬が人糞を食べ、ゴミになるはずの犬の死体を唐揚げにして人間が食べ、母の胎盤を娘が食べることで永遠の循環をつくり、生活の「雑味」、作品の「深み」を眩ましてしまう。交尾して子どもをどんどん殖やしていっても、レイプを繰り返す人犬に教育を施して矯正しようとしても(そしてその犬が最後死んでも)、洗濯機の振動に身体を押し当ててマスターベーションしても、生活を蹴散らす境地に、迫力が到達していなかった。

     「荒削りだが勢いがあって魅力的」という言葉は、逆説の褒め言葉としてよく使われる。Qに関しても恐らくはそうで、緻密な空間構成というよりは、言語感覚のインパクトと、テーマやモチーフの壮大さがこれまでの団体評価の大きなポイントだったのではないか。ただし今作に関して、その荒削りの熱さと幼さによる熱っぽさが混在している。むしろ同じものだったとさえ思う。タイトル通り迷っているのはわかるが、その所作は幼い。当日パンフレットの中にも「私の頭の中こんなにも狭い場所でしか考えられないものかとかがっかりして」と書いてあったが、正にその通りとしか言えない。

    これまで彼女たちが一定の評価を得て来たことは間違いないが、その文体や言語感覚も含め、作風をただの「芸風」に陥らせてほしくない。独特の言語感覚、俳優のはっきりとした発話は高い筆圧と濃い輪郭を持つ。しかしそれでは幼い線しか描けないし、革命も起きない。いかにシャープに、深い穴を掘るか。スカトロジー、獣姦、人肉食という、既に扱われているモチーフの「濃さ」から中身の「深さ」への転換が必要なのだ。あえて言うが、手癖に収まるには彼女はまだ若すぎる。公演サイクルの早さに飲まれず、大いにがっかりして奮起してほしい。

  • 満足度★★★★

    タブーの陳列から命の理を導き出す戯曲
     こまばアゴラ劇場を通常の状態で使うプロセニアムの舞台で、床はコンクリートが露出した灰色、壁は黒色、ロフトの手すり等のパイプ部分は白色に塗られています。舞台下手には洗濯機、中央には閉ざされた箱型の部屋があって、部屋の中も屋根の上も演技スペースになります。

     ガーリーと言って差し支えない風貌の若い女優さんが4人登場し、可愛らしい仕草でギョっとするようなことを言い続けます。独白が多くてあまり会話劇にならないのは、人と人との交流が観たいと思うタイプの私には物足りなかったですが、演出意図だろうと思うので不満はありません。むしろ潔さが痛快なぐらいです。

     2013年2月に横浜で上演された『いのちのちQ』も、扱われる題材とその提示方法が衝撃的でした。観劇後しばらく経って冷静になってから整理してみるまで、私は重要なテーマに気づかなかったんです。『迷迷Q』もまた、観終わった時は「ヤバいものを観た!」という興奮でいっぱいいっぱいでした。こうやって文章にする段階でやっと、戯曲にあらわされていた意味をじっくり考えることができます。獣姦や異種交配は今までにも取り上げられていましたが、今回は人間について、命について、さらに踏み込んだ内容になっていると思いました。

     母を演じた吉田聡子さんは身体と声の力強さも生かしきって、いつもながらのド迫力でした。ただ、自分から発するものは大きくても、相手役や観客からはあまり受け取っていないように見えました。また、Qの公演でもマームとジプシーの公演でもあまり変化がないのはもったいない気がします。吉田さんであることに気づかないぐらいの演技も観てみたいです。
     犬のフランシーちゃんを演じた吉岡紗良さんは、大きな目を開きながら、相手役と観客に対して心も開いてコミュニケーションをされているように見えて、他の共演者とは少し違う存在感があり、私は好感を持ちました。

    ネタバレBOX

     夫と犬のような性交をして子供をわんさか産んできた母は、11人分のごはんを作る毎日。公園では野良犬とともに野グソをして、犬にお尻を舐めさせて「(温かくて)温泉みた~い♪」と喜び、そして犬は母が落とした便を食べる。…強烈なエログロが混濁して、目も耳も覆うべきじゃないかと思うような場面ですが、若い女優さんが躊躇なく元気に語るので見入ってしまいます。飲食、排泄、性交、出産、死といった人間の原始的な営みを、動物、昆虫、魚等の生き物全般のそれと同列に陳列していくような、斬新奇抜な戯曲でした。

     娘の園子は上半身が人間で下半身が馬のケンタウルスに山で犯されましたが、ピルを常飲しているので妊娠することはありません。園子はケンタウルスを連れて帰って自分の部屋で飼い、他人を襲わないように自慰を教えたところ、ケンタウルスは自慰にふけって弱っていき、やがて死んでしまいました。ケンタウルスの精子で汚れた無数のティッシュは部屋中に転がり、薬のせいで妊娠しない園子の存在と相まって、人工的な不妊という不毛のイメージを形成します。それは気の向くままに性交して出産し続ける母とは対照的です。

     園子とケンタウルスは白米とタラコを食べていました。タラコを“孵化できなかった卵の集合体”だと考えると、それはティッシュに包まれて受精できなかった精子と同じですから、やはり不毛の象徴になります。そういえば、一度に10匹以上生まれる犬の赤ちゃんのことが話題にのぼりました。出産時に薄い粘膜に包まれている点ではタラコと似ていますが、子犬は育ってまた子犬を産む可能性がありますから、これもまた対照的です。タラコと精子を園子の世界、犬を母の世界だととらえると、ここにも知性重視の園子と、本能的に生きる母との違いがあらわれているように思いました。

     舞台中央に設置された箱の中は園子とケンタウルスが暮らす部屋で、「飼育小屋」と呼ばれていました。「飼育小屋」の中での演技は外から直接は見えません。ビデオカメラを通して部屋の外壁に大きく映写する方法で生中継されます。また、園子がほぼ初対面の若い女性たちとエスニック料理店で食事をする場面も映写されました。ナチュラル志向を気取る若い女性たちはやたら「素晴らしいわっ」と連呼し、上っ面ばかりで中身のない女子トークで盛り上がります(園子以外)。そして彼女らの中の1人のfacebookのタイムラインも壁いっぱいに写し出されました。グルメ写真や友人との幸せそうな集合写真で埋め尽くされたタイムラインからは、日常の空虚さがにじみ出ており、そこにもまた不毛な空気がありました。差しさわりのない関係しかつくらず、インターネットのSNSで見栄を張る若者の生活は味気ないです。他の場面と違って映像のみで表現されるのは、今どきの若者が埋没するネット世界の閉塞感を象徴しているように感じました。

     母は園子のお友達ののんちゃんが飼ってる犬のフランシーちゃんを誘拐してきて、自分専用のバター犬にしますが、やがて犬は夫に肛門を犯されて死んでしまいます。犬の遺体は母の手で料理され、から揚げになって一家の食卓へ。フランシーちゃんは居なくなったけど、園子たちの血肉になりました。そんなワイルドすぎる母が亡くなると、彼女のお葬式には子供や孫たちが大勢集まり、みんなが悲しんで泣きました。母は居なくなったけど、たくさんの子孫の心の中にくっきりと残っていたんですね。また母は、後産で出てくる自分の胎盤をお刺身にして子供たちと食べていたとも言っていました。つまり母は子供たちの心だけでなく、肉体にも残っていたのです。他人に迷惑をかけずひっそり生息する園子よりも、動物的な母の方が人間という種として幸せなのではないか…そんな思いがよぎりました。

     そういえば、フランシーちゃんの元飼い主ののんちゃんが引っ越す時に言っていました。「私はいなくなるけど、園子ちゃんの中にいる私のことをよろしくね」と。人間は生殖して自分のDNAを後世に残すだけでなく、出会った誰か・何かとかかわりを持つことで、自分の部分を相手の心身の中に残していきます。そう考えると、「話す/聞く」「作品を作る/鑑賞する」「食べる/食べられる」といった行為も、性交であり生殖であると解釈できるのではないか…。この舞台に散らばっていた無数の要素が一気につながったように感じました。

     ケンタウルスの死後、園子は大河ドラマを見ます。どうやら武将が登場するエピソードのようで、馬のいななきが聞こえました。ケンタウルスが数百年前の日本で駆け回る姿を想像し、現在と過去がつながりました。また、順序は違いますが、死んだ母と園子が語る場面もあったのです。想像は未来にもどんどん広がって、地球上の生態系や仏教的な生命のめぐりなど、壮大なイメージがつながって、ぐるりと円を描くような感覚が得られました

     開幕してすぐに床にポップコーンがまき散らされ、女優さんが拾って食べることがありました。犬のフランシーちゃん(誘拐後はハワイちゃんに改名)の肉で作ったから揚げも、舞台中央に1切れ転がっていました。それらは果たしてゴミなのか食べ物なのか、線引きができません。フランシーちゃんの体で繁殖するノミやダニの話もありました。寄生虫にとってはフランシーちゃんの体が世界の全てで、彼らはそこで生まれて死んでいきます。舞台の床の上と犬の体表で起こる食物連鎖を想像しました。

     人間と動物(の差異)をテーマにしている現代劇作家というと、すぐに思い浮かぶのは飴屋法水さんと平田オリザさんです(平田さんは人間とアンドロイドへと移っていますが)。また、人肉食は野田秀樹さんが長年取り扱われているテーマです。作・演出の市原さんは若くして、その両方をさらりと俎上に載せているのです。将来どういう方向に進まれるのか私には見当が付きませんが、見逃せない劇作家であることは間違いないと思います。

     前述しましたが、このお芝居はほぼ独白ばかりで構成されていました。ほんの少しの会話があったとしても、俳優同士の生々しい意見の対立やドキドキするような心の交流は、全くと言っていいほどありませんでした。市原さんがそんなものは求めていないからだと思います。でも私はそこが観たいと思う観客なので、いつかそういう方向性も選択肢の1つに加えていただけたらなぁと、小さな野心を表明しておきます。

     ※引用したセリフは正確ではありません。
  • 満足度★★★★

    動物みたい
    欲望に正直で動物的な女性達の姿は演出や物語の力でファンタジックで、セキララな内容なのに生々しさが無くて不思議。言葉といい、動きといい、独特で掴み所がなくて、でも楽しかった。

  • 満足度★★★★★

    二回目にして・・
    何とか慣れてきた感。

    一度目は途中で泡吹いて倒れるかと思ったけど・・(苦笑

    最初は結構キツイかもしれないけど、
    これは凄い作品だと思いまふ。

    男性の作家の作品が全体的に、繊細すぎて社会性を失っているのに比べると、
    こういうフェリーニの8 1/2をグロテスクに女性的に?アレンジしたようなこんな作品は、正直むしろ男性作家から先に生まれて欲しかったかも・・(苦笑

    高校演劇とかでこういう作品を観てみたい気も。

    個人的には、今年の岸田賞の最右翼なのではないかと・・。

    ネタバレBOX

    どこを切っても、完全な悲劇でしかないようなのに、
    それを喜劇にしてしまうところが凄い。

    登場してくる人全てが悲惨、に見える、少なくとも自分には。

    虐待されて死ぬ犬。

    死んだのか、それとも夫?を寝取られた母親に嫉妬されて殺されたんではないのか?

    娘は、本当に生まれてきたのか?

    11人いるという妹、弟は本当に生まれてきたの?

    母親が言うところの「飼育小屋」は、水子の国のシェアハウス?

    アメリカのオハイオ州の女性監禁事件とかが元になっているのかな?という気もしたり。

    俳優としては登場しない父親は本当に人間なのか、犬なのか?
    犬のような男(達)なのか、男のような犬なのか?

    答えはすべて物語のなかにある・・ように見える。

    母親の中に生きる生んであげられなかった娘の幻想・・だとしよう、自分としては。

    公衆便所のように犬、あるいは犬のような男(達)に貪られながら生み出される日本的な少女の幻影。
    落書きの中の暗黒から抜け出した、サバンナの美しさとは真逆の室内的な女性は、
    野蛮で暴力的な現実から逃げだすように、
    少年と馬の融合したケンタウロスと、猫の額ほどの小部屋に住む。

    娘の、かつての飼い犬(♀)は人間の女優によって演じられる。

    その犬は、母親にとっては完全な人間。・・もしくは最初から人間。
    他の家庭から盗み取って来るがやがて、彼女の眼を盗んでその夫・・人間か犬かは分からないが、を盗み取る。

    幻想の娘の飼い犬もまた幻想なのか?
    そうとも限らない。
    幻想の幻想は、現実かも知れない。

    そう思いつつ観ていると、母親の飼い犬を誘惑?した茶色い迷い犬が浮上する。

    幻想の娘の飼い犬は、かつて母親の飼い犬を誘惑した犬の生まれ変わりかも知れない。

    なぜ、その犬が幻想の世界に姿を変えて登場するのか?

    母親は、自分の夫(≒飼い犬?)を誘惑した犬を殺すか飼い殺しにした後調理する。
    調理した肉を、娘に食べさせようとするが、娘は食べず、
    母親は食べて、鳥の方が美味しいと言う。

    ・・それがどういう意味なのか?

    娘が母親の中に生きているのだとすれば、
    娘が食べなくとも、母親が食べれば、肉をとり込んだことになる。

    犬のような男を奪う、犬のような女は食べられて当然、
    鳥より不味い。

    女性とは皆、このように考えるものなのだろうか?(まぁ、そうではないと思うけれど

    嫉妬?の肉を食べた母娘は、やがて犬に呪われてか死ぬ。

    あるいはこれが原罪という奴なのかもしれない。

    飼い犬を誘惑した迷い犬は禁じられた林檎。

    食べたことから全てが始まる。

    母娘のなかで生まれ変わって、新たな飼い犬として登場する。

    やがて原罪に立ち戻る。

    ケンタロスの幻想は、
    娘がフェイスブックの上の二次元の幻想におぼれている間に、
    雑誌の上の幻想の欲望に埋もれて餓死している。

    母親は死んで鳥になって、
    娘の元にケンタウロスの下手な字の愛を伝える手紙を届ける。

    母親は、多くの生まれなかった子供たちの夢と花に囲まれて見送られる。

    娘が母親の中の幻想ではないかということは、
    母親の死後、唐突に訪れる娘の死によって暗示されているようにも見える。

    グロテスクでブラックすぎるユーモアに覆い尽くされているけれど、
    その中に垣間見える、
    不衛生で幼稚な男性たちの姿、
    一方的な暴力・虐待の嵐の中で死ぬ動物たち。

    今までの作品は百合臭が強かったけど、
    今回もそういうのはある感じではあるけれど、
    より普遍性の高い作品になりつつあるように・・
  • 満足度★★★

    人間と動物
    人間の動物的本能である食欲・排泄欲・性欲を女性ならではの視点で生々しく描いた、アクの強い作品でした。

    人間と動物の肉体的な交わりが特別なものとせずに描かれた物語で、犬の役でも特に犬らしい格好をせず、人間と動物を同じ様に表現していたのが印象的でした。
    会話はほとんどなく、長めのモノローグが入れ替わり続き、終盤は映像が多用される構成で、映像の中で繰り広げられるスピリチュアル系女子達のホームパーティーの場面だけが賑やかで空々しい会話が行われるのが際立っていました。

    性と排泄にまつわる単語が連発される内容でしたが、漫画的にデフォルメされて可愛らしい雰囲気を感じさせる台詞回しと身体表現によって、表現が過度に生々しくなり過ぎず、露悪的な下品さが無かったのが良かったです。
    3つのミラーボールやハンドマイクや何度も流れる同じ曲に必然性が感じられず、あまり効果的に使われていない様に感じました。

    4人の役者がチャーミングで、際どい内容とは対比的なとぼけた雰囲気があり、独特の味わいを生み出していました。

  • 満足度★★★★

    不思議な世界、不思議な魅力
    一歩間違えばグロくなったりしそうな倒錯の世界を、ときにかわいく、ときにおかしく、しかしどこまでも自然体でひょうひょうと描く作家の手腕に感心した。

    始まった瞬間から空間がゆがんでいくような不思議な感覚がある。何か酔って不思議な世界に連れ込まれたような感じ。それも麻薬でもなければ、強い酒でもない。ちょっと梅酒を飲み過ぎたというような感じか。

    私の趣味かどうかは別にして、また見てみたいと思わせる魅力は確かにあった。


  • 満足度★★★★

    女性女性して
    女性の性欲や女性の性に対する関心を垣間見たようでした。

    ネタバレBOX

    性や身体を構成する食についての女性の立場からの話、かな。

    昔は月経の血液を骨盤辺りで固めてトイレでひり出していたのだとか。ズロースが無く、腰巻きだけだった時代にはそうだったのかのかもしれないと、女体の神秘に妙に納得しました。

    犬のフランシーちゃん改めハワイちゃんが可愛く、お母さんが公園で妊娠したために名付けられたという園子も楚々として美しく、紡ぎ出される言葉とのギャップに少しドキドキしました。

    部屋に入ると映像に切り替わり、部屋を出ると実演に切り替わるパフォーマンスもスムーズで楽しかったです。
  • 満足度★★★★★

    無題1087(14-125)
    19:30の回(晴)。18:30受付、19:00開場(会員優先)。白いなぁと思ったら、手すりが白く、正面の「小屋(部屋?)」も白く、そこには「Q」が映っていて上に二人、下手に洗濯機と女性がひとり。天井にミラーボールが3つ。床はコンクリートむき出し。

    3作目です。「油脂越し(2011/7@プロット)」は全然わからず、なので「プール(2012/1)」には行かず、「地下鉄(2012/5)」はダンサーの木村さんが出るので観に行って..本作に至る。

    19:28前説(100分)、19:30開演~21:08終演。物語というよりはパフォーマンスを観ているようでとても面白く感じました。スタッフ「映像」に鳥公演の森さんのお名前があったのでどのようなものかなと思っていましたがこれもよかったです。

    検索してみると、坂口さん、吉田さんは「Kと真夜中のほとりで(2011/10@アゴラ)」で観ていましたが、もちろんその時には気づいていませんでした。

    当パンをみると舞台監督鈴木さん、7月にセッションハウスでダンス公演、日程があえば行ってることと思います。

  • 満足度★★

    二度観はキツい劇団
    「人間≒動物」というテーマを上手く展開できておらず、かなり退屈な100分弱だった。とりわけツラかったのは後半。乱脈でとりとめのないお話がどこまでも続いて、何度寝落ちしそうになったことか。。。

    本作に飽きただけではない。Qを観るのは前作『こq』に続き2度目なのに、私はQという劇団自体にもう飽き始めている。
    あっけらかんとして明け透けな性表現、妙なイントネーションで発されるセリフ、喋りながら役者が繰り出す妙な動き、「とかとかぁ~!」というつなぎの文句、等々、全てが前作そのままで、前作鑑賞時には刺激的に感じられたそれら全てが、今回早くも食傷の対象となってしまったのだ。

    個性の強い劇団を維持するのは大変だなあ、とつくづく思う。独特の作風は初めのうちこそ新鮮だが、独特であればあるだけ、それはすぐに飽きられてしまう。

    いや、飽きたばかりでなく、前作『こq』、本作と2作続けて鑑賞し、私の中にはQという劇団への苦手意識さえ芽生え始めている。
    2作観て見えてきた作・演出家の人間観が厭わしくなってきたのだ。
    この劇団の作・演出家には、人間を、食べ、排泄し、子孫を残して死んでゆく、ただそれだけの存在と捉えたがる傾向、別言するなら、その動物性を重くみて人間を卑小視したがる傾向があり、だからこそ上述のようなテーマのもとに本作は作られているわけだが、その冷めた人間観を反映した厭世的(/厭“生”的)なムードが彼女の作り出す劇にはおのずから色濃く漂う。その、生を蔑むような感じ、生を嘲るような感じに鼻白んでしまうのである。
    劇中で某慈善団体が冷笑の的にされるのも、そのような人間観が根底にあるがゆえだろう。

    このペシミスティックな人間観は、これから作劇を続ける上で、きっと障壁になるに違いない。
    なんとなれば、生きようと足掻く人間の在りようは千差万別で、そこからは多くの物語が切り出せるが、生を蔑む人の心の在りようはどれも似たり寄ったりで一様であり、厭世的な劇は互いに似てくる傾向にあるからだ。そうなれば「マンネリ」と斬り捨てられて飽きられるのがオチ。

    Qが演劇界に長くとどまろうとするならば、作風の大幅な変更、そして作風を支える人間観の抜本的な更新が必要だろう。

    人間の生を過剰に讃美する演劇も不自然で気持ち悪いが、過剰に貶める演劇もそれはそれで不自然であり、どこか無理が感じられる。

  • 満足度★★★★

    回帰?
    前作では声楽的な魅力があり新境地を開いたと思ったが、職と排泄・生殖といった動物的な面が前面に出てきている。観れば観るほど癖になるが、かなり観る人を選ぶ作風だ。

  • 満足度★★★

    迷迷Q
    迷ってしまった。

  • 満足度★★★★

    ネタばれ
    決して誰にも勧めないけど、魅力的

    ネタバレBOX

    劇団Qの【迷迷Q】を観劇。

    女性が作・演出している劇団だ。
    この劇団は人間と動物との交わりを描いている。
    当たり前のように人間と動物とが共存している世界を描いていて、セサミストリートの世界が現存しているかのようだ。
    そしてそこで描かれるのは人間と動物のマル秘の部分であり、人間と動物の交尾、交配などを描き、そして生まれてくる生き物の顔は動物、身体は人間、心は動物、いや感情は人間・・・・、
    とまぁ、人間と動物は分け隔てなく存在する生き物だという感じだ。
    だが決して宇宙規模的な発想ではないのは間違いない。
    そしてかなりエログロナンセンスで攻めてくるのだが、やはり女性発想だからか、嫌悪感を感じない辺りが今作の魅力だ。
    ポツドールの描くエログロナンセンスより更に濃いいのは確かだ。
    決して誰にも勧めないが、かなり魅力的な作品である事は確実だ。

    但し、今作には物語は存在しない。

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