gymnopedia 公演情報 gymnopedia」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.4
1-6件 / 6件中
  • 満足度★★★★

    フラクタルな音
     今回は、演者の演じたことについてより、拝見して感じたことをネタバレに書いた。

    ネタバレBOX

     天才をどう定義するかについては、様々な見解があるだろうが、矢張り、以下のように定義したい。即ち、己の可能性を最大限に引き出す人のこと。他者から見ると、その人は自由奔放、時に奇矯な行動を取る変人に見えるかも知れないが、そうではない。また、他人を大切にしていないわけでもない。唯、他人を大切にする為には、先ず、己を大切に出来なければなるまい。
     更に、ヒトはそれ自体としては、その皮膚1枚を超えることができない存在であれば、己の可能性を最大限生きることによってのみ、皮膚1枚越えられぬ己の現実的他者到達可能性としては、意志を伝播することによってのみということになろう。多くの者が勘違いする、子を為すことによってというのは、己の実現ではない。DNAレベルでは半分であるし、その半分も、己の生きた関係、時空と同じ条件の中で生きない以上、己の再生産であることなどあり得ない。クローンにしても同じことだ。全く同じ時空と関係を持つ訳ではないのだから。
     サティの音楽の持つ晒された白骨のような、不思議な感覚は、そして安らぎは、恐らく宇宙の構造的寂しさから来ている。即ち、フラクタルな音楽なのだ。本来、絶対零度であるはずの宇宙空間が、ビッグバンの名残と考えられている等方背景輻射によって、僅かな暖かさを持つように、サティの音楽にも固有の暖かさと、宇宙構造に通じる独自の規則性があるのではないだろうか? それが、19世紀末から、20世紀初頭の段階では、まだまだ、人々の観念に明確なイマージュを結ぶに至らなかったということではないだろうか? 一方、サティの音楽が、徹底的な個人主義の伝統を持つフランスで花開いたのは、偶然ではあるまい。個人が、己の持つフラクタル構造に気付き、その脈絡に則って作品を創作する時、作品の構成するミクロコスモスは、途轍もなく巨大なマクロコスモスに照応し、以て、絶対零度であったハズの宇宙空間に幽けく寄り添い琴線を顫わせるのだ。卑小な蘆に過ぎないヒトという生き物が、宇宙をそのように捉える時、ヒトは、卑小な己の存在の意味を知り、その責任と為すべきことを知るのである。そして、このことこそが、ヒトの心に安らぎを齎すのだ。サティの音楽は、そのようなものだと、観劇の結果考えた。
  • 満足度★★★★★

    煌めく。
    まず私はサティについての知識が殆ど無く、その音楽ですら舞台が
    始まってから「あぁ、聴いた事がある」というくらいの無知でしたので、
    かえって自分なりのサティのイメージが存在しなかったのは
    この舞台を楽しむ上では良かったのかも知れません。

    良質な舞台に出会えて、ついつい長くなったので続きはネタバレにて。

    ネタバレBOX

    エリック・サティの物語でありながら、脚本・演出・出演をされている今の
    ミヤタさんそのものを表現している舞台なのだと感じました。

    「天才」と呼ばれるエリックの人物像は、どちらかと云えば音楽や芸術に
    対しては風変わりな面があっても「普通」の青年、と云う描き方をしている
    ように思いました。
    そんな彼が今、「天才」「奇才」と呼ばれている、その原因となったお話。

    彼と、「Erik Satie」を創り上げたピアノの調律師の友人・クリスとの物語。
    脚本はシンプルながらも良く練られていて、90分と云う時間が全く
    苦にならずに最後まで集中出来ました。舞台上に一人しかいない筈なのに、
    転換の間、人物の入れ替わりなども帽子一つで工夫されていて感心。
    これは単独公演を続けられてきた素地が、しっかりしている為でしょう。

    照明が美しく、中盤までの夜を想わせる青と緑の光の澄んだ美しさと
    後半の赤と黄色が混じりあったオレンジの光の、温かさや、強い熱を
    感じられる光も印象深かったです。
    黒を白を基調とした、シンプルでモダンな印象の舞台装置と衣装を
    より引き立たせているように感じました。

    音楽は、全編を通してサティのピアノ曲だったようで、心地の良い音と、
    その音を奏でるように踊るミヤタさんのダンスが美しかったです。
    ストリートダンスは「表音ダンス」と云うそうで、音楽を身体の動きで
    表現するダンスだそうですが、作中での「音が舞うよう」と云う台詞を
    体現していたと思います。
    特にピアノの鍵盤を叩くイメージで、指先を流れるように動かす振りを
    多用していたのですが、この指の先まで神経が行き届いたダンスは
    とても印象に残りました。
    最期のクリスとの別れのシーンでのダンスは、ミヤタさんが泣きながら
    踊っていて、その涙の跡が照明に煌めいて、その美しさに胸が詰まりました。

    父親への反抗心から自分の名前の綴りを c から kに変えていた
    友人のクリスと共に、100年後もエリックの音楽は生き続ける。

    Eric だった彼の名前の綴りは、こうして Erik となる。

    終演後、ふと目を落とすと、配られたパンフレットの表紙には、控えめに、
    そして確かにこの作品のすべてがありました。

    舞台には冬の夜のような澄んだ空気が漂っているけれど、その底には
    人間の温かみが感じられる。芝居と、ダンス。良質で素敵な作品でした。

    カーテンコールでのミヤタさんの言葉にも、深く感銘を受けました。
    やはりこの作品はエリック・サティの物語であり、ミヤタユーヤさんの
    物語でもあったのだと思いました。
  • 満足度★★★★★

    一日遅れで・・・
    頭でついていくのではなく、キモチがついて行ってしまう、
    物語のメッセージ性を体現させた素晴らしいものでした。
    それゆえ、当日その場で感想というものが浮かんでこなかったのですが・・・
    ただただその場にいるのが心地よい、
    ずっと見ていたくなる
    エンターテイメントとして完成されたものだったと思います。

    二時間以上の舞台だったでしょうか。
    たった一人の出演者で観客の集中力をこれだけ引っ張ってこれるのだから、
    舞台を支えたスタッフの方やミヤタさんのお芝居のパワーに圧倒されるばかりです。

    (カーテンコール、また講演後のミヤタさんの
    柔かな人柄がうかがえる様子も、個人的には印象的でした)

    応募して良かったです。
    ありがとうございました。

  • 満足度★★★

    カーテンコールの奇跡
    褒めているのかどうかわからない言い方で申し訳ないが(詳細はネタバレBOXにて)、舞台後のカーテンコールが素晴らしかった。

    ネタバレBOX

    そもそも、この作品で描かれているエリック・サティ像は、私が想い描いていたサティ像とは違うものであった。私はサティをより反骨的な人物だと思っている。「家具の音楽」にしても、「私の音楽を聴くな」というのは「BGMとして聞いてください」というようなものではなく、当時のロマン主義全盛の音楽界にケンカを売っている、更には「芸術とは何か」を根底から問い直す批評的・反骨的な行為だったと認識している。ダダイスムに関わっていたことはその証左だと思う。ただ、私はサティについて詳しくないので、私の認識の誤りかもしれない。また、そもそも事実は確かめようもなく、それに作中でも「これは私が想像したエリック・サティの話」と断っているのだし、ミヤタユーヤ氏独自の大胆なフィクションとして仕上げているので、その点はどちらでもいい。

    ただ、事実がどうかはどちらでもいいのだが、ミヤタユーヤ氏がサティ像を自分に引き寄せ過ぎているように感じたのは気になった。「美しい音楽を奏でる際は、美しい動きになる。だから、その動きをすることから始めていった。」というような部分は、ダンサーでもあるミヤタ氏自身の考えを重ねて書かれているものだろう。作品に、サティの顔でも、サティから距離をとった脚本家の顔でもなく、ミヤタ氏自身の顔が透けて見えてしまうのは、少し興ざめだった。(勿論、その点が良いという人もいるかもしれないが。)「美しいものは正しい」というのも、サティの言葉ではなく、ミヤタ氏の信念のように聞こえた。

    そのような部分から、ミヤタ氏が自分にサティを重ねて描いた物語なのだろうと思って観ていたので、「天才」「天才」と連呼される部分に、最初はとても違和感があった。そもそも私は、特殊な表現者を「天才」などと神聖化するのが大嫌いだからだ。そう思っていたら、物語の後半でひっくり返されて、サティの天才像は、盟友のクリス(虚構の人物?)と共に創り出されたものだとわかる。

    そのクリスも、「自分は天才と豪語していたが、実は、ただの凡才だったのだ」と告白して、死んでいく。その死んだクリス(Kris?)の想いを背負い、Eric Satieと Krisとの共同作品として、Erik Satieが生まれたという話。(ただ、イニシャルからkをとったなどとは語られないので、クリスは一般的なCris という表記で、単に本名と芸名の差異というだけの意味なのかもしれない。) 

    いずれにせよ、この大胆な創作物語は面白かった。天才がいる訳ではなく、様々な出逢いや影響の中で天才と呼ばれる人物が作り出されていくということだろう。

    終焉後のカーテンコールで、ミヤタ氏は、「この作品は、自分が書いた言葉だけではなく、様々な友人の言葉を脚本に使わせてもらっている」と述べ、「自分一人でできた舞台ではない」ということを強く語った。そして、照明・音響・製作などのスタッフにも感謝の念を述べた。それが、まさにこのサティの物語で語られている内容と重なっていた。「エリック・サティは一人の力で生まれたのではない、この舞台も私一人の力で創りあげたのではない」とでもいうように。

    その際、想いが溢れたのだろう、ミヤタユーヤ氏は、時に言いよどみ、言葉を詰まらせながら、ゆっくりと言葉を発していた。その姿、呼吸、空間のすべてが、今まで演じられてきた舞台そのものよりも、凄い作品となっていると感じた。これが本当の芝居であり、踊りだとさえ思えた。

    (この点まで踏まえれば、満足度は★4だが、あくまでこれは作品外と判断し★3)
  • 満足度★★★★★

    素晴らしかった!
    期待して観に行ったのに、期待を越える舞台でした☆
    ぜひ多くの方に観て頂きたいです。
    とても巧みで、ミヤタユーヤという人、すごい!と思いました。
    ミヤタユーヤという人も、サティについても知りたいと思っていて、とても満足です!さらに二人に興味を持ちました!本当によく出来た舞台で、観ると得だと思いますっ。ありがとうございました。

  • もっともっと沢山の人に観てもらいたい!
    チケットプレゼントで観劇。5分遅れで開演。
    初日平日だからなのか、空席が目立つ。
    しかし、この公演を見ないのは大変もったいないと思う。

    この舞台を一言で表すとしたら、「調和している」。
    脚本、舞台装置、音楽(音響)、照明、衣装、演出、全てが素晴らしい。
    そして全てが計算され、この舞台はこれらのどれが欠けても成立しない。

    脚本。起承転結がはっきりしていて分かり易い。
    舞台装置。白と黒のコントラスト。シンプルかつ機能的。
    音楽(音響)。公演中の音楽もだが、客入れのBGMも好み。
    照明。色(特に青緑紫)や影の使い方が素晴らしい。
    衣装。シンプルかつ機能的。照明&舞台装置との相乗効果大。
    美術系は、本当に、互いの存在をアピールしつつ、それぞれをしっかり引き立てている。
    演出。相棒が亡くなるシーン、二人の切り替えは見事。
    役者。冒頭の長い説明で「“できる人”だな」と感じる。そしてミヤタユーヤが素晴らしいのは、登場人物に対してのリスペクトが伝わってくるところ。

    唯一残念なのはスモーク。
    もっと効果的に使わないともったいない。スモークで役者が見えなくなる時がある。非常にもったいない。
    少しずつ出すとか、直接舞台上に出さないで、逆方向に射出して拡散させてから舞台に届くようにするとか…
    そして客入れの前にスモークは充満させておくべきである。開演直前に、前からもくもくと煙が迫ってくるのは気持ちのよいものではない。

    一人芝居で、使う音楽もピアノ曲だから、ぐわぁーーっと盛り上がるということはない。
    だが、勢いだけの芝居なんかよりよっぽど観る価値がある。

    ネタバレBOX

    エリック・サティが「Eric」ではなく「Erik」と名乗り、山高帽に喪服(のような真っ黒の服)を身につけステッキ代わりの傘を持つようになった経緯の物語。
    彼と、彼を見いだしその音楽活動を支えた相棒の物語。

    エリック・サティを題材としているこの作品で印象に残るのは
    「美しければ正しい」「楽しいのが正しい」

    途中相棒は亡くなるが、百年後も彼に“生きて”欲しいとの願いから「楽譜を書け」と諭すシーン(それに反発するエリックの気持ちも分かる)や、エリックが相棒と出会った時にかけられた言葉を、相棒の最期に語りかけるシーンは感動的。
    そしてその言葉はエリックという天才を象徴する言葉でもある。

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