gymnopedia 公演情報 ミヤタユーヤ「gymnopedia」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    フラクタルな音
     今回は、演者の演じたことについてより、拝見して感じたことをネタバレに書いた。

    ネタバレBOX

     天才をどう定義するかについては、様々な見解があるだろうが、矢張り、以下のように定義したい。即ち、己の可能性を最大限に引き出す人のこと。他者から見ると、その人は自由奔放、時に奇矯な行動を取る変人に見えるかも知れないが、そうではない。また、他人を大切にしていないわけでもない。唯、他人を大切にする為には、先ず、己を大切に出来なければなるまい。
     更に、ヒトはそれ自体としては、その皮膚1枚を超えることができない存在であれば、己の可能性を最大限生きることによってのみ、皮膚1枚越えられぬ己の現実的他者到達可能性としては、意志を伝播することによってのみということになろう。多くの者が勘違いする、子を為すことによってというのは、己の実現ではない。DNAレベルでは半分であるし、その半分も、己の生きた関係、時空と同じ条件の中で生きない以上、己の再生産であることなどあり得ない。クローンにしても同じことだ。全く同じ時空と関係を持つ訳ではないのだから。
     サティの音楽の持つ晒された白骨のような、不思議な感覚は、そして安らぎは、恐らく宇宙の構造的寂しさから来ている。即ち、フラクタルな音楽なのだ。本来、絶対零度であるはずの宇宙空間が、ビッグバンの名残と考えられている等方背景輻射によって、僅かな暖かさを持つように、サティの音楽にも固有の暖かさと、宇宙構造に通じる独自の規則性があるのではないだろうか? それが、19世紀末から、20世紀初頭の段階では、まだまだ、人々の観念に明確なイマージュを結ぶに至らなかったということではないだろうか? 一方、サティの音楽が、徹底的な個人主義の伝統を持つフランスで花開いたのは、偶然ではあるまい。個人が、己の持つフラクタル構造に気付き、その脈絡に則って作品を創作する時、作品の構成するミクロコスモスは、途轍もなく巨大なマクロコスモスに照応し、以て、絶対零度であったハズの宇宙空間に幽けく寄り添い琴線を顫わせるのだ。卑小な蘆に過ぎないヒトという生き物が、宇宙をそのように捉える時、ヒトは、卑小な己の存在の意味を知り、その責任と為すべきことを知るのである。そして、このことこそが、ヒトの心に安らぎを齎すのだ。サティの音楽は、そのようなものだと、観劇の結果考えた。

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    2013/12/03 18:03

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  • ご観劇、そして観てきたコメントの投稿、誠に有難う御座います。

    サティの音楽に深い造詣と感応性をお持ちのハンダラ様にご覧いただけましたこと、光栄に存じます。
    聴く者に独特の感慨をもたらすエリック・サティの楽曲と、その作者である彼自身の力を借りて結実した本作品『ジムノペディア』ではありますが、ご覧いただいた方のお心のなかに、何かしらの種を蒔くことが出来れば、と願っておりました。
    作品をご覧いただき、ハンダラ様の思惟の種となれておりましたら、幸いに存じます。

    ハンダラ様のご感想、今後の創作の参考にさせていただきます。
    またどこかで、ミヤタユーヤ作品をご覧いただける日を楽しみにしながら、作品創りに励んで参りますので、今後の活動にもぜひご注目くださいませ。

    この度は、誠に、有難う御座いました。

    制作スタッフ

    2013/12/15 16:28

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