砂漠のノーマ・ジーン 公演情報 砂漠のノーマ・ジーン」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.3
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  • 実演鑑賞

    オーストラリアが舞台の一風変った二人芝居は、森尾舞と西尾友樹という頼もしいタッグにより、また個人的に全幅の信頼を置く演出により約束されたような物、とは言いじょう、作者だけは(日本人なのに)ネットで幾ら探しても素性を知るに至らず、さて何が飛び出すか不安と期待に胸躍らせて劇場の席に収まった。
    エッジの効いた脚本の書き手は「滅び行く言語」への大きな関心をパンフで述べている。世界には数千もの言語があり、という事はその大部分が極少数の人間が使用する言語であり、その大部分が絶滅の危機にあると言う。初耳であった。合衆国には数百の、中国にも二百近くの、台湾やチベットにも数十の言語があると言う。国土や人口には比例しない。歴史上国境が幾度も塗り変わったり支配国が幾度も変った(台湾もその一つ)国には、領土の周辺へ追われた「先住民族」が居た訳である。日本における少数言語はアイヌと沖縄地方の数言語であり、それ以外はない。
    本作では、二十数年前に「最後の話者が居なくなった」はずの言語を喋る者が警察に保護され、言語の研究者である男が捜査協力を請われてやって来た、という形で言語が取り扱われる。鍵の掛けられた一室にいる女に、マイクを通じて男が喋り掛ける。英語で話す男の声(録音か?)が聞こえるのは冒頭だけかと思いきや、どこかで聞いた声。西尾氏の声である。流暢な英語を話す男の声色は、捜査を担う男のそれではなく、絶望視されていた現存の研究対象を見出した歓喜と興奮のそれである。実にうまい。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2025/10/01 (水) 14:00

    オーストラリアで、消滅したと思われていた言語を話す女性が発見され、言語学者が採集を試みる。
    そんな言語をどう表現するのか、興味津々で劇場へ向かったが「その手があったか!」
    という驚きの手法。
    侵略者に奪われたのは言葉だけではない、民族の存在そのものであった。
    その罪を一体誰に問うべきか?
    出演者の努力と、この戯曲・演出の素晴らしさを忘れることはないと思う。

    ネタバレBOX

    頑なに言葉を発することを拒んでいたミラが、言語学者の問いにぽつぽつと答え始める。
    ミラは片言ながら英語を解し、言語学者との会話はすべて英語、その日本語訳はスクリーンに
    映し出される。
    そして消滅していたと思われていたユーリア語は日本語で話される。
    この言語表現の設定に慣れるまで少し時間を要した。

    言語学者の大声の英語が、”よくあるアメリカ映画のテンション高く隙間を埋めるあまり重要でない台詞”のように聞こえたのが要因のひとつ。(努力の賜物と理解している)
    だがネイティブに近づけるための彼の発音、リズム、感嘆詞などに少し慣れてくると、
    ”ネイティブが発する生身の言語”と”あとから獲得した言語”、そして”話さなくなって久しい言語”の
    違いが際立ってくる。

    圧巻はやはり森尾舞さんの「ミラ+3役」だろう。
    亡くなった祖母、母、叔母と交信するかのように過去を語り、ともに旅をするミラ。
    祖母とミラ、母とミラ、叔母とミラ…。二人による会話を(まるで落語のように)自然に切り替えながら紡いでいく。
    この交信の際のユーリア語は流れるように語られる。
    大切なことはすべてユーリア語で学んだのだと解る。
    そして侵略者たちが何をしたか、なぜミラの歯ぐきから出血が止まらないのか、私たちはそれを知ることになる。

    重いテーマのラストがほの明るいものであったことに救われる。
    ミラはユーリア語の最後の話者ではなかった、そしてこの作品は語り継がれていくのだという確信の故である。
    西尾友樹さん、森尾舞さん、作・演出、そして素朴で美しい美術等すべてに感謝します。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    小劇場B1だと思っていて、「劇」小劇場だったことに驚いた。ステージ上は2枚の大きな鏡が斜めに置かれ、中央奥で合わさる。その前にはレースカーテンが引かれている。
    プレトークとして名取事務所代表・名取敏行氏がトーク。この脚本は甲斐義隆氏の持ち込み、初対面。一日で読み終え翌日には上演を決めた。だが上演予定が詰まっていたので3年掛かった。役者も演出家もその時すぐに口約束で決めた。代表をここまで駆り立てた脚本とは如何に?

    2000年9月、オーストラリア北部ダーウィン。人口の約4分の1がアボリジナル。シドニーオリンピック開幕を控え厳戒態勢の国際空港滑走路に不審な女性(森尾舞さん)が侵入。大声で喚き散らし逮捕拘束。その後黙秘を続ける。彼女の叫んだ言語が25年前に最後の話者が亡くなった幻のユーリア語だと気付いた言語学者(西尾友樹氏)は興奮する。アボリジナルの滅んだ部族の言葉を話せる人間が今もまだ生きている!早速無理を言ってコンタクトを取る。何とか彼女からユーリア語について聞き出さねばならない。マジックミラーの部屋にいる彼女に隣室からスピーカー越しで話し掛ける言語学者。

    言語学者の台詞は全て英語。舞台上部に日本語字幕が入る。小劇場B1のようなニ面の客席だと観客全員に見える位置に字幕を投影し辛い。だから「劇」小劇場だったのだろう。そして謎の女性は片言の英語しか話せない。彼女の母語、ユーリア語として日本語を使う。言語学者は知っている数少ない単語以外、何を話しているかさっぱり理解出来ない。

    言語学者スピロ・イリアディス役西尾友樹氏は今回の役柄を「想像を絶する挑戦だった」と語る。発音までオーズィー英語だそうだ、これ全部覚えたのか?かつて三船敏郎がメキシコ映画『価値ある男』の主演に招かれ、スペイン語の全台詞を丸暗記して到着し現地のスタッフを驚嘆させたエピソードを思い出した。(発音に問題があった為、公開は吹替に)。

    謎の女、ミラ・ナパチャリ役森尾舞さんの演技が神懸かっている。
    叔母、祖母、母親、娘となり語らい続ける。当初それは幻聴の聴こえる統合失調症患者、多重人格者のようにも見える。だが彼女の唯一無二の凄い所は物語と共にどんどん若返って美しくなる様。精神を解放して自由に魂を広げる内に苦悩は癒やされ心が澄んでいく。彼女の語る、とあるアボリジナル一族の歴史に観客は夢中だ。グレートビクトリア砂漠にあるエミューフィールドに彼等の聖地がある。聖地を目指し何度でも旅に出る。これがアボリジナルの「ドリーミング」なのか?ずっと感覚的に掴めなかった「ドリーミング」に触れたような感触。今月末、燐光群が上演する『高知パルプ生コン事件』も森尾舞さん出演とのことで俄然観たくなった。

    今作の森尾舞さんを見逃すな!鬼気迫ってる。
    是非観に行って頂きたい。

    ネタバレBOX

    5〜6万年前からオーストラリアに居住していた先住民、アボリジナルは文字を持たず、口頭伝承、歌、絵画(ドット画)で歴史や伝統を子孫に伝えた。目で見る伝達手段としての絵、耳で聴く伝達手段としての歌。

    ドリームタイム(アボリジナルの創世記)に歌で創られた大地の地図=ソングライン。ここはアボリジナルのアカシックレコード(世界記憶)。アクセスすると時間も空間も越えて一族の精霊達と語り合える。ここには全ての記憶があって誰もがいる。

    『進撃の巨人』の「道」の設定に近い。というよりも『進撃の巨人』がアボリジナル文化を元にしているのだろう。ユミルの民=エルディア人の精神が繋がる場所とされる「道」。その「道」の源泉となっているのが「座標」=創造主。アボリジナルでいうとドリームタイム=天地創造神話。
    時間という概念を持たないアボリジナル、過去も現在も未来も同じこと。天地創造は遥か昔のお話ではなく今現在である。この感覚は「共同幻想」のことなのだと思う。同じ血族はずっと通じ合って生きている。時代を越えて共に生きる。「共同幻想」を共有して繋がっている。

    25年前、病院で癌で亡くなった老婆の残した録音を聴かされるミラ。「叔母さんだ!」ミラの母親の妹である。その病院にミラも付き添った。だが叔母は病院で叫ぶ。「逃げて!逃げるのよ!」何処までも逃げなくてはならない。捕まったら矯正施設に入れられて何もかもを奪われてしまう。何もかもを壊されてしまう。マリリン・モンローになれなくてもいい。逃げ続けよ、ノーマ・ジーン!皆に愛される必要などはない。逃ゲ続ケロ!

    居眠りが多かったのは字幕のせいでもある。ドラマとしては西尾森尾の関係性が段々と変わっていく様をこそ見せたいところ。言語がテーマなのは判るが、やはり日本語で演るべきだったとも思う。西尾森尾の遣り取りが日本語だった方が話に集中出来る。「ドリーミング」を体験させることこそが主題。

    エピローグは自分的には不要。椅子を振り上げてラストの方が好き。

    BARBEE BOYS 「ノーマジーン」

    何故なんだノーマジーン?
    俺のこと嫌ってるなら
    笑ったり誘ったりしないでいいよ

    無理をして笑う 我慢して遊ぶ
    ちゃちな幸せが目当て
    いつからか鏡 怖くって外す
    いつも夢見ていたのに
  • 実演鑑賞

     内容と作品名の対応がやや不明なところはあるが、作品を拝見すると、
    この作者は少なくともここ数年の名取事務所の上演作品群をよく
    観劇されている模様。
     観るものを次第に前のめりにさせるニコラス・ビヨン張りの
    スリリングな展開力やピンク地底人3号的な時空軸の巧みな操作術
    などを駆使して、緻密な構成力の下、約1時間50分を駆け抜ける。
    劇構造も重層的で、最近観た作品だと文学座の
    『もうひとりのわたしへ』に近いものがある。

     ただ、その分、演じ分けは噺家同様に、
    声色、しぐさ、顔(体)の向き、表情、言葉遣いなどを
    巧みに使い分ける極度の技量が要求されるが、今回は、
    十分観る側の想像力を刺激し、役柄が目まぐるしく
    連続的にスイッチイングしている中にあってたとえ登場人物の声色が?
    ということがあっても、観る側が活性化された想像力を働かせ
    よく料簡しその不具合を乗り切れるだけの勢いやパワーが俳優側に
    備わっていた気がする(今回は一人でのスイッチプレイだが、
    以前トラムで上演された『レディエント・バーミン』では
    確か昂進する目まぐるしさの中での二人のスイッチプレイの応酬だったか)。

     言語学者役の俳優の方もネイティブでないにもかかわらず
    あれだけ英語のセリフが出てくれば立派で(それゆえ、英語が
    あまり得手ではない者にもそこそこ内容が聴き取れるのだが)、
    また、通常は日本語と英語の情報量の違いからどうしても
    早送りになる日本語字幕の追従に気を取られ観劇がおろそかに
    なりがちになるが、今回は俳優の演技を観つつ英語のセリフを
    聴き取りながらなおかつ字幕で内容を再確認できる点で
    オペレーターの方の字幕の送り方のタイミングも絶妙。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    台本が非常に優れており、空想の会話で語られる物語の世界に引き込まれた。家族の複数の人物を演じる森尾舞氏の演技が実に素晴らしい。ほとんど一人芝居。この演技がなければ成り立たない作品だろう。

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