vol.41 「廃墟」、vol.42 「そぞろの民」 公演情報 vol.41 「廃墟」、vol.42 「そぞろの民」」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.5
1-13件 / 13件中
  • 映像鑑賞

    満足度★★★★★

    廃墟も観たくなりました

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2025/08/01 (金) 19:00

    『廃墟』 それまで気がついていなかった問題を意識したり、不安になったり、怒りを感じたり、いたたまれない気持ちになるためにこの劇団は存在しているようなもの。今回も3時間近くの苦行(←悪口ではありません)。それでも得るものが多いから見る。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★


    三好十郎『廃墟』。戦後の混沌を描いたはずの芝居なのに、私の心が揺さぶられたのは何故だろう。
    明日食べる物もない中、色恋も絡み、家族が「負け戦」をめぐって互いを罵り合う。誰の言葉にも「そうかも」と思ってしまう私は、まるで正しさを見失っていくようだった。
    パン泥棒が、疲れ果てた家族と客席に向けて静かに頭を下げる。その姿に怒りも反感も感じない自分はいったい何なのだろう。

    三好十郎の芝居は、もっと観念的で、非現実 的な台詞劇だろうと身構えていた。目の前で繰り広げられたのは〈感情のぶつかり合い〉だった。思想を武器に家族とぶつかる姿に、自分がどこかで避けてきた“古い情熱”の膿が引き出されたようで、終演後は付き物が落ちたような気がした。

    俳優陣も鮮烈だった。 長男・誠(長谷川景)は、生真面目すぎて怖い。共産党的な理想論が、なぜか目の前の現実よりも切実に感じられた。
    次男・欣二(倉貫匡弘)は、舞台でもロビーでも昭和のイケメンそのまま。
    せい子(川崎初夏)は、DV男と甲斐性なしの間で揺れる哀しみが胸を打つ。

    「理想なんて捨てて生きろ」と言われても、簡単には捨てられない人がいる。
    そんな人こそ、いま、時代に一番必要なのかもと思った。

    —終演後の私は肺の中のモヤモヤが晴れたようで、「明日からのことを考えよう」と思った。
    観に来てよかったと思う。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    「廃墟」を観劇。Corichページを開き、改めてTRASH観劇歴を振り返ってみると・・題名で内容を思い出せる作品が少ないのでレビューなど眺めて「あーあの作品か」と合点。一作ずつ辿ったがほぼ観ている。初回が「狂おしき怠惰」これは「背水の孤島」が話題になったのでその次作を観たというヤツで。従ってTRASH歴13年になった。
    以後観ていた中で一度、開演時間を一時間取り違えて駅前劇場を訪れ、しょんぼりと帰宅した事があったがそれが「そぞろの民」(レビューを書いていないので)。だがこの作品の記憶があったのは雑誌に戯曲が載ったのを読んだからだった(それを元に脳内で舞台イメージを作っていた訳である)。
    と、今気付いたのでもう観劇には間に合わない。残念・・

    というわけで「廃墟」の感想を。
    新作ばかりを観てきた自分としては異例の公演に欣喜雀躍であったが、あの一晩中侃々諤々やる三好戯曲をTRASHがやると、TRASH的議論劇になるのかも・・?と一抹の不安ありであった(自分としては敗戦直後の物的に逼迫したリアリティをしっかり表現してほしい思いがあった)。だが結果は、中津留氏は基本リアリズムの演劇人であったのだな、という感想。以前文化座・東演の合同公演で観た衝撃の三好十郎世界の発見の体験に、十分拮抗した、また清新な切り口もある「廃墟」であった。
    難点を先に書いておくと・・・リアリズムという点からするとキャラクターと配役の合致は望みたい。長男役の長谷川景は肺病を病んでなお「理想」に己の人生を賭けようとする造形としては、やや病弱イメージが薄い(台詞には「こんなに痩せちゃって」等とある。それでも会話は成立し、大過ありという訳ではない)。叔父役が少々リアリティに欠いた。お調子者の要素を強めに出していたが、南米に渡って一時は鳴らしていた事もある世慣れた人物像、それなりに一家言あるが殊更に(周囲の者のように)大声で主張しないだけ。熱くなりすぎず達観した所から物を言う。ある意味この劇を進める緩和剤的な位置であるが、今回の舞台では「おいおい」とツッコまれちゃう非常識側の色が強く出ていてそぐわなかった。また衣裳もセーターの色が合わず、わざとそうしたのかもだがもう少し別なチョイスがあったと思う。川崎初夏演じる居候(母代わり)「せい」は真心が表に出すぎ(役者として秀でているという事ではあるのだろうが)、女の弱さが不可抗力的に真面目な男(ここでは長男)を翻弄する「無意識の狡さ」があれば満点なのだが、という所。
    浮浪者については、後半出て来て何をするでもない役だが、精神を病んだ「戦争の犠牲者」を想起させる役どころで、その描写は、本人は口がきけないだけに、彼をいじる側の演技次第という面がある。その点では次男を演じた倉貫氏の特攻帰りのアプレゲールの持つ狂気「押し出す」演技としては文句の付けようもない印象なのであるが、「見栄張り」と脆さをもう少し自然な演技の中に偲ばせる人物造形により、彼の「自然さ」を鏡として浮浪者の異常さを観客に認識させるのが、方法ではなかったか、と思う所。
    顔に火傷を負った次女と、父役には満点を付けたい。

    本作は「議論」としての凄みのある一方、物質的豊かさが「政治の季節(熱い季節)」を終焉させ「高度成長期」をもたらした事が象徴するように、劇中の彼らはひもじさをも「糧」として敗北からの未来を見通すための話をしている風景としても、見える。勿論、その前年まで「戦争」という激烈な状況を味わい、悲痛にあえいだ記憶が何より彼らを「その事をどう処するのか」の思考へと突き動かしているのだが、このような議論をした家族は無かっただろう。飢えをどうしのぐか、どう我慢して夜を明かすか・・そんな状態で普通議論はしない。ただしこの作品の彼らは仮にも歴史を教える大学教授の息子・娘らであり、そのような家風であった事は無理筋ではない、が、それでも行きがかり上あのような会話が生まれ、議論に発展し得るという事は奇跡に近いのであり、戦争を直に体験した三好十郎という一人の作家による架空も良い所のフィクションなのである。
    にも関わらず、そこには真実があり、人間の感情があり切実な思いがある事は否めない。「戦争」というものをあの時点で三好は「憎んでもいない人たちの事を殺し」と人物に言わせ、「二千万人もの仲間を殺した」とする。このとき三好十郎は、新たに敷かれた国境(それまでは植民地・満州そして開戦後の占領地はニアリーイコール日本だった)の内と外を切り分けて人間を捉えず、「人間にとって」必要なこと目指すべきことについて考え、台詞に殴り書くように書いたのではないか。今考えるべき全てを洗い出し、ある生き方を全力で貫こうとする人物を通して議論させた。それをやらずに先へは進めなかった、のだろう。裏を返せば、恐らく「過去は忘れるべきもの」とばかり新時代を要領よく生きる人間たちが溢れていた故に、彼らを横目で見ながら、危惧を抱くと同時に彼らの分まで考え抜こうとした。

    そして作者が戯曲に刻んだ言葉・・父の立場、長男の立場、次男そして次女それぞれの立場から吐かれる言葉は、彼らがその存在を賭して提示した思考をなおざりにし、遠い過去である事を良いことに都合の悪い事実を伏せて責任放棄を決め込んだ現在の日本及び日本人を、鋭く突く。意図せざる皮肉である。

    ネタバレBOX

    興味深い対立図式が、次男の虚無的世界観と、長男の理想主義的・進歩主義的世界観。
    そして長男の立場と、父の民族的な反省(責任の自覚)に立った態度との対立だ。
    長男の立場が拠って立つビジョンとして、当時共産主義が存在した。
    彼は戦中投獄され、己の進歩主義的立場が如何に中途半端であったかを痛感させられた、と語る。「やつら」と、長男は言う。やつらは喧伝により、また暴力により「一つの正しさ」を国民に強制した。だが、それはやつら(資本家)が己の利益と野望のために全国民を「利用する」所行であったのであり、もう二度と私たちは彼らに騙され、利用される者であってはならない。敵は明白であり、今市ヶ谷で(極東軍事裁判で)裁かれている戦犯はその代表だ、とする。
    これに対し、父は「私は日本人を信じている」と言い、日本人がこの結果を直視し、そこに至った責任と一人一人が向き合い、改めて行くこと、その先に未来があるのであり、きっと日本人はそれを乗り越え、あるべき未来を手にするに違いないと信じている・・と長男に迫る。
    長男はそうした父の民族主義的な考え方、即ち責任を全体に均し、還元する考え方が本当の悪を甘やかすのだと言う。そのような論理は彼らに都合良く利用されるだけで、何の前進ももたらさない。何が悪で誰が敵かを直視し、悪を駆逐することに国民は手を携え、団結すべきなのである・・と。
    唾棄するように父に言い募る長男や、冷笑で迫る次男に、心臓を病む父を心配する次女は幾度となく「もう止めて!」と厳しく論難する。大事なのはもっと素朴で、単純なことだ。近くにいる人間を思い合うこと。私たちが過ったのはそれが足りなかったからだ・・。
    一方、闇市で喧嘩に明け暮れる次男は、相手も自分も傷つけて怯まない、ある達観を手にしており、怖れられている。そしてこの家族の集まりの場でもその狂気を爆発させる瞬間がある。その瞬間に彼の負った「傷」が僅かに垣間見られるのだが、長男は彼を「可哀想だ」と言い、お前も心のどこかで自分が被った理不尽さへの怒りを持ち、もっと良くならなきゃならないと思っているはずだ、と言う。その語りの間、次男は泣いているが、一瞬のうちに反転し、バカにするな、と咆える。そしてナイフを取り出す。
    前半彼はニヒリズムを体現する者としての構えを崩さず、長男と彼が恋慕するせいの関係を冷やかし、長男は不実な思いはなく真剣に考えているのだからそんな風に笑うな、と怒るも意に介せず「好きならくっつけばいい」と人間=動物説を通す。特攻帰りの典型の行動を辿る次男が、戦争前は学問優秀で正義感に熱い人間だったのに・・と父も妹も彼に生き方を改めるよう説くが、次男は軽くいなし、長男の真心からの語りかけにも頑として拒絶を示す。・・のだが、その頑なさと、正義感の強い人間だったという証言とを考え合わせて浮かび上がる人間像が、切ない。

    今台詞を聞いてドキッとさせられるのは、長男が説く共産主義の理想だ。
    もっとも共産主義、と名は付いても、(マルクスの「資本論」を学んだのでない限り)それは平等主義や「悪は明白」という発想から問題解決を探る素朴な考え方、という程度のものであり、資本家(企業)は都合よく労働者を使おうとするからそれに対抗するため労働者同士団結しよう(労働法が整備されたので労基法の遵守を求め、団体交渉権を活用しよう)という事であったろう。(もちろん変革=実力行使という発想は直前まで戦争があり事態が流動的であった戦後間もなくの時期にはあったのであり、敗戦を認めず蜂起した軍人や勢力地図の変った地域での内紛、混乱が普通にあった時代である。)
    だがそこから、「労働者が統べる平等な社会」という理想が思い描かれる。実はこのビジョンに具体性は乏しく、実際に革命を起こしたソ連や、戦後共産党が勝利した中国も、独自の政体を作る。ソ連では専制と腐敗が横行する仕組みで多くが苦しんだ訳であるし、中国は建国後しばらくは人治体制が理想社会への信奉や指導者への敬意が媒介してうまく機能したように見えるが、周恩来から毛沢東、寛容から規律重視へと傾くと「人治」に限界が訪れ、管理強化へと向ったと思われる。
    長男の言う勤労者が統治する社会、とはプロレタリア独裁という言葉に象徴されるように「あり得ない」夢物語だ。「全人民が独裁」とはこれ如何に、である。一億人が盆の上に乗り、それをごく少数の資本家が支えている図(インドの絵画か何かにありそうな)は、単に一部による独裁により多くの犠牲を生んだ過去に対する「意趣返し」を絵にした餅であって、四民平等をその先へと進め、所有そのものを認めないといった発想も、現実にはあり得ない。(所有されない物が誰によって管理されるかが問題になり、それは所有とほぼ同義となり、政治は代表によって行なわれ、その権限において決定される仕組みを作らざるを得ないのだから。)
    この「あり得無さ」は、過去人類が苦しんだ経緯から発想された一つのモデル、くらいに捉え(憲法の非戦の規定も同じと言える)、その理想に近づけるべく努力をしようという「努力目標」にとどめるのが良識なのだが、長男がそうだというのではなく、最も進歩的な思想(モード)のその先端に自分は位置し、指導的立場になるのだ、という一種の野望の対象として、そうした「主義」というものを使おうという人間は必ず現れる。連合赤軍事件の「指導者」らのいびつなあり方はどこに発したか・・。特に「下からの体制変革はあり得ない」日本では運動は閉塞し、内向し歪んで行く。造反有理と、若者の希望を一部でも聞こうとする政治家がいない、という構図も遠因ではあると思うが、かくして日本の「運動」は厳しい境地に追いやられる。
    その暗い未来を暗示させるワードを希望に満ちた顔で語る長男の姿は、かつて北朝鮮への帰還運動を地上の楽園への憧憬をもって進めた楽観に重なる。切ない。
    彼に対して父は、敵味方の二分法の危うさを直感してなのか、どんな悪政もそれを支える人民がいなければ成り立たなかった、私たちが過去の過ちに再び陥らないためには、民族として高めて行くしかないのだと訴える。善悪二元論を推し進めれば、悪の側に付く者の存在を否定する態度に行き着く、とも父は言うのだが、このような台詞が果してあったか・・私はこんな現代に重なるピッタリの台詞は以前観た時には気付かなかった。(原本を確認したいが、私はここは中津留氏の書き換えではないか、と疑っている。)長男の言う、父のような責任を分散させる論理は「あくどい連中に利用される」だけ、との説は、確かに妥当にも思うが、丁寧な議論をするなら「どう利用されるのか」が明示される必要があるし、「利用されることなく日本人の多くが国民としての責任において過去との決別をしていく」可能性を否定する事はできない。が、この父のビジョン(三島由紀夫を思わせる)も長男のそれと同様、その後の歴史によって否定されてしまうのだが、今の私たちの感覚では鶏が先か卵が先かの議論で言えばやはり父の主張が先にあって然るべきだな、となる。その事をしばしば口にしている一人、社会学者・宮台真司は悲観論を語りつつ加速主義によりいつか(痛い目にあう事で)より良い選択を見分ける民族になる、と父の言に通じる言葉を吐いている。
    しかしこの戯曲で父も、長男も次男も、そして素朴に過ぎる次女も言語の力が拮抗し、最後までたゆむ事がない。三好氏自身の脳内ディベートが再現されたかのよう。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2025/08/01 (金) 19:00

    『廃墟』を観た。これもまた、ひたすら重いが、戦後の混乱期の感触がしっかり伝わる。(3分押し)95分(10分休み)65分。
     中津留の戯曲を上演して来た同劇団が初めて三好十郎の戯曲に取り組む。戦後1年頃に書かれた作品だそうだが、敗戦後の過程を舞台に、歴史学者の大学教授と「共産主義者」として投獄された長男・元特攻隊員の次男を軸に、家族や周辺の人々が激しく口論する。戦後の混乱期に、さまざまな立場の人間が戦争の責任を問う、というのは分かるのだが、浮浪者の役割がぼんやりとしか分からなかった。
     2作に出ている役者は少なくないが、どちらでもほぼ前編に出ている川崎初夏が只者ではないと思った。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2025/08/01 (金) 14:00

    『そぞろの民』を観た。とにかく重い作品だが、しっかり観て良い物を観たと思う。(4分押し)119分。
     2015年初演の戯曲を改訂しての上演で、初演も観ている。初演は傑作だと思ったが、本作もやはりとてもいい。政治学の元大学教授が、安保法制の成立を機に自殺し、その通夜の物語。長男(外交官)・次男(ジャーナリスト)・三男(失業中のAIエンジニア)と周辺の人々が、自殺の原因と責任を激しく語り合う。重いシーンの連続なので、3兄弟の再従兄弟が登場するシーンで少し笑いが起こるが、重さを味わう作品だと思う。初演では気づかなかったタイトルの意味が重い。初演は川崎初夏の代表作と思ったが、本作でも中盤からの川崎の活躍がいい。
     負傷の寺中寿之に変わって作・演出の中津留が舞台に立ったが、同劇団を22年観てる私にして記憶にない出来事。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    思いがけず中津留さんが代役という回を見ることになりました。舞台に上がるのは十何年ぶりと言うことで、それほどTRASHMASTERSを長く見ているわけではない私には初めてのことでした。大変正直な方だと思いました。

    ネタバレBOX

    衝撃的なラストでした。あれほど家庭で政治の話をするのは珍しいのではないでしょうか。
    そう言う話をするかしないかはまた別として、家族の間のすれ違いというのはなんとも悲しいものです。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    一週間ぶりで、『そぞろの民』を観劇。
    こちらも強烈な芝居で、時代が近いってこともあって、より抉られた感じがあります。
    配役表を見ないで観ていたので、最後に焦点が当たる人物に愕然としました。
    最後の心中は察するに余りあって、それは自分への問い掛けにもなっていきました。
    ほんと凄い芝居。
    どちらも凄い芝居。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    この劇団としては珍しく、中津留章仁の作品ではなく、随分前に亡くなった昭和の劇作家・三好十郎の、しかも、あまり知られていない戯曲を再演した。この企画が、意外に時代との響き合いがよく面白い。芝居はやってみないと分らないものである。
    この公演の成功は、この作品をやってみようとした演出者の時局を見る眼に尽きる。
    中身は、終戦直後の時局性の強い世相劇である。敗戦直後、心ならずも時の風潮に迎合した歴史学者の一家は戦災で家を焼かれ知人の一家の一隅に一部屋を借りて明日の食糧の配給を待ちながら細々と暮らしている.今劇場を埋める観客の全ての人(年齢を考えるとそうなる)は、ドラマ的設定と思うだろうが、私は十才たらずながらこの現実を実体験しているただ一人の観客(市民)だったのかも知れない。
    舞台で繰り広げられる戸主である老碩学の実直に見えて、無責任、そこで育てられた子供たちの時局便乗、長男は共産主義新聞のお先棒を担ぎ、よくできた次男は市内のヤ指南や指南役になる。女たちは、それぞれの特技では暮らせず、そうなれば、当然の道しか残っていない。隣近所の市民生活の契約した金は必ず払わなければならぬというごく普通のルールも今夜の食の前にたちまち破壊する。家族の連帯も叔父、叔母程度にも遠くなれば、何ほどの役に立たない。
    その時代を生きた者もしばらくは忘れていたが、こういう現実は昭和20年の敗戦後一二年にはどこにもあった.誰も経験があるし、責められないファクトである。
    三好十郎はこの時代を生きて、そのままに書いた.それがこの戯曲である。少し後に書いた「夜の道連れ」は今年、新国立が贅沢に金をかけて新人の演出で上演した.この演出家は二三本見ているが、篤実な演出家とは思うが知らない世界を演出して全く違う人種になった今の日本人に提示できるほどには本の読み込みは出来ない.終戦ファッションの新国立的歴史修正のドラマになってしまっていた。経営はともかくそこは本人の責任ではないと言いたいだろう。その欺瞞を中津留は許さない。三好の筆力もある。
    そこを、中津留のトラッシュマスターズは、PITの3分の1の高さもない天井のビルの仮設といってもいいような劇場で三好の戯曲をそのまま上演した。それが、図らずも、新国立の欺瞞を暴くことになった.演劇はそういうところがいいのである

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    「そぞろの民」

    2015年初演作品を30分削っている。2015年9月19日、新安保法案が成立。「平和安全法制整備法」と「国際平和支援法」。外部からの武力攻撃に対し日本を米国が防衛する義務、日本の領域内で米軍が武力攻撃を受けた場合、日本が防衛を負う義務。解釈次第では日本は戦争に巻き込まれ加担する可能性の法制化。自衛隊を正規な日本軍と認めさせたい流れ。リチャード・アーミテージ元米国務副長官はかねてから日本に有事法制の整備を迫っていた。

    介護施設に入居している元大学教授の父(中嶋ベン氏)、勝手に抜け出して深夜実家でTVを凝視する。新安保法案が参議院本会議にて可決、成立。武力放棄、外交による平和維持を日本国の柱として訴え続けてきた人生の敗北。父は庭先で首を吊る。

    通夜が営まれる。
    次男、星野卓誠(たかのぶ)氏は新聞記者。その妻の週刊誌編集者、川﨑初夏さん。三男、倉貫匡弘氏は元AIエンジニア。その恋人、フリーライターの杉本有美さん。父の教え子だった週刊誌記者、寺中寿之氏。従兄弟のTV局勤務のみやざこ夏穂氏。沖縄からやって来る再従兄弟(はとこ)の長谷川景氏。介護施設の副施設長、小崎実希子さん。フィリピン滞在の外交官である長男、千賀功嗣氏はまだ到着しない。

    寺中寿之氏はスリムになった中西学っぽいゴツさ。
    千賀功嗣氏は舛添要一と中畑清を足した感じ。
    みやざこ夏穂氏は政治家顔、海部俊樹の若い頃みたい。※松本龍か?
    杉本有美さんは綺麗。

    同時に二作品公演するのだから配役を上手く分担するのだと思っていたらほぼ全員ガッチリどちらをも演らせていた···。狂ってる。何かの実験か?
    台詞が飛ぶ危ういシーンもあったがすかさず共演者が口を挟み成立させていく緊迫感。観てる方もビクビクする。

    父は何故自殺したのか?通夜の席で息子達兄弟を中心に責任の追求が始まる。敗戦の焼跡、瓦礫の山から国を再建し築き上げた戦後日本社会。何処で間違えたのか?何を間違えたのか?三好十郎の『廃墟』への70年後の返歌。
    是非観に行って頂きたい。

    ※寺中寿之氏の負傷の為、7月30日14時の『そぞろの民』は中止。19時の『廃墟』から千賀功嗣氏が代役に入る。8月1日14時の『そぞろの民』から中津留章仁氏!が代役に。マジか!?観れる方は是非!

    ネタバレBOX

    自分は信者じゃないので与えられたものを何でも拝む訳じゃない。何かよく分からない演劇。でも妙な魅力はある。中津留章仁氏の考えていることは掴みようがない。そのズレが笑いとして機能もするのだが。(国際問題と兄弟それぞれの人生の処し方とを無理矢理関連付けて戦わせるのは笑うところだろ)。

    細かな飲み食いが実は重要。冷蔵庫から缶ビールを取り出しコップと共にお盆に載せ配膳する。ちょっとしたつまみ。お新香を切り分ける。飲めない人には麦茶を。そういう見慣れた光景を基調として観客に世界を馴染ませている。

    父親はこう考えたのか?自我のない協調性だけの戦後日本人を生み出したのは自分達である。思想哲学価値観もなく他人の顔色を伺いその場の空気に合わせていく。その行き着く先が時局に合わせての新安保法案容認。自分が敗戦から学び目指した新しい価値観教育の成れの果て。この法案の成立は自分の人生の全否定であると独り首を吊る。その父の絶望を知って息子も首を吊る。自分には信念などない。周りに合わせていく協調性しかない。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2025/07/28 (月) 13:30

    座席1階

    「そぞろの民」との2本立て。自分は「廃墟」を鑑賞した。
    原作者・三好十郎を演じてきた劇団では文化座が思い浮かぶ。「廃墟」は数年前に上演されたはずだが、今回はトラッシュの中津留章仁演出で、しかも下北沢・駅前劇場という濃厚なスペース。あの激しいバトルがどのように眼前に現れるのか、わくわく感いっぱいで猛暑日のシモキタヘでかけた。

    終戦直後、配給はストップし闇市で食料を得るしかない毎日で、焼け野原のバラックに大学教員の一家が身を寄せている。主人公の歴史学者は、日本がなぜ破滅的な道を選んだのか、明治維新以降の歴史を再勉強するとして大学を休んでいる。そこに、彼の教え子の学生が「ぜひ、講義を再開してほしい」と貴重品の芋を抱えて訪ねてくるところから物語は始まる。会話の中で、この先生は闇市で食料などを調達することを良しとせず、やせ細っている。この来訪を皮切りに、彼の息子や娘たちが次々に登場する。
    場面は夕食のだんらんとなるはずだが、食卓に出るのは菜っ葉が少々、塩で味付けしたおつゆだけだ。学生が持ってきた芋は先生の家を建てた建築屋のおかみにかっさらわれ、畑に植えていた野菜も実をつける前に盗まれる有様。左翼の編集者の長男、元特攻隊員の次男などが登場し、そこから先は簡単に言うと「こんな国民生活に誰がした」という会話、バトルとなる。
    10分の休憩をはさんで後段は、この圧巻のバトルで客席はくぎ付けになる。やはり小劇場。その迫力はものすごい。特に栄養失調気味の先生を演じた北直樹の鬼気迫る演技に客席は静まり返った。文化座の舞台よりも激しかったように思う。

    日本人にとっての戦争責任(戦争に巻き込まれた責任とも言ってよい)を強烈に描いたものは、三好十郎の「廃墟」が最もインパクトが強いのではないか。軍部が独走して国民はただ巻き込まれただけという歴史感覚が多数だと思うが、三好はこれに強烈な異議申し立てをしている。オリジナル作品で通してきたトラッシュマスターズがなぜ、この作品を取り上げたか。客席に座った一員として十分に反芻し、考えてみたい。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    両方観る予定ですが、まず”廃墟”のほうを観ましたので、そちらの感想。

    80年近く前の三好十郎の戯曲。
    3時間近い大作で、途中で10分間の休憩あります。
    駅前劇場に、作りこまれた美術。
    派手さは無いけど、音響が凄い立体的に聞こえてた。
    序盤は、きちんとした芝居だけど、やっぱり古臭いかな……だったんですが。
    家族の討論?、喧嘩?、議論劇がついに火蓋を切ってしまってからは、凄まじかった。
    時代やそれぞれの立ち位置を丁寧に積んで、一気に。
    観終わった後、観てるだけなのにヘロヘロでした。
    これは、今、観るべき一作です。
    これと、もう一作(きっと負けず劣らずだろう)を共通するキャスト陣で同日にやるって、狂気の沙汰だと思う。

    無事に走り抜けられますように。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    「廃墟」

    完全にイカれてる。昔、スタークラブが「RADICAL RADICAL RADICAL REAL ROCK!」と歌ったがまさにそんな舞台。
    敗戦の玉音放送、家族を疎開させ自宅で独り聴いた三好十郎。訳も分からず声を上げて泣いた。しかしその理由がどうにも言語化できない。自分の根源で瞑想するが如く問い掛けては1946年11月に書き上げた戯曲が今作。日本人のことが好きで好きで堪らない自分に気付いて驚いたと言う。

    家の主、北直樹氏。休職願を出している歴史学者の大学教授。自らの戦争責任に対して思い悩み近代日本の成り立ちをもう一度検証しようと考える。

    長男、長谷川景氏。新聞社勤務の共産党員。戦中、特高に検挙されて終戦まで刑務所に入れられていた。

    長女、登場せず。有望な女医だったが敗戦を知って自害。

    次男、倉貫匡弘氏。真面目で一本気、優秀な学生だったが召集のち特攻隊に取られ、敗戦を迎える。信じるに足るものを全て失ったアプレゲール(戦後派)。命知らずの愚連隊として全ての価値観に唾を吐いて回る。1936年発売、「HERMES DRY GIN(ヘルメス・ドライ・ジン)」をガブ飲み。度数は37度。飲み過ぎだろ。

    次女、小崎実希子さん。顔の右半分を覆うケロイド。イスラム教を信仰しようとしているのか?

    亡き妻の弟、吉田祐健氏。ブラジルなどの海外移民ゴロであろう。

    焼け出され家事を賄う住み込みの女性、川﨑初夏さん。今作のキーパーソン。実に色っぽい。水を汲んでお茶を淹れ、茶碗を洗い布巾で拭く。

    大工の棟梁の娘、小谷佳加さん。自宅建築費用の未払い金の催促に訪れる。この役は演りたかったろう。実に生き生きとしていた。

    自殺した長女の学友、今はパンパンの下池沙知さん。

    北直樹氏は演劇歴36年、「こんなに難しい台本とは初めて出会いました!」と書かれていた。北大路欣也風メイクでこの戯曲を我が物とする。無論MVP。
    隻腕の学生、星野卓誠(たかのぶ)氏は中村勘九郎っぽい。
    倉貫匡弘氏は中山一也や北村一輝のイケメン犯罪者の系譜。
    小崎実希子さんは役の幅が膨れ上がった。

    中津留章仁氏のもと、狂気の討論劇(ディスカッション・アクト)に身を投ず劇団員と客演達。これこそアングラだと思う。映画として公開された『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』なんかに興奮した連中は絶対観るべき。『日本の夜と霧』のような緊迫感。今作の凄さは三好十郎の戯曲ではなく、それを全身全霊込めて肉体化し憑依させた役者達にこそある。令和に誇るべきアングラ芝居。

    ネタバレBOX

    この世には二つの立場の人間しかいない。資本家(ブルジョワジー)と労働者(プロレタリアート)だ。資本家を打倒した後に労働者による平等な世界が訪れる。共産主義=平等主義。人間に貴賤貧富の差のない平等な社会の実現。だが果たして人間はそんな生物だろうか?

    政治的に右派=維持、左派=解体と考えれば解り易い。左派の方向性は何もかも解体して意味を無くしてしまおうという考え方。その結果として国がメチャメチャになるパターンが多発する。家父長制、歴史、伝統、家族、性別、国籍、ゆくゆくは国家すら解体しようと企む。国がなくなってしまえば世界はいずれ一つになるという妄想か?性善説を盲信する余り、全く人間の本質を掴めていない。本能的に左派に忌避感を抱く人間は仕方なく右派を支持することとなる。

    吉田祐健氏の登場から何か自分的には話が停滞した。どうもうまくない流れ。理由は判然としない。キャラの設定に違和感を覚えたのか。台詞のリズムが合わなかったのか。妙に引っ掛かった。

    何となく黒澤明の『どん底』っぽさを感じ、「折角の踊りをぶち壊しやがって」と浮浪者が吐き捨てて締めるのかと思いきや、観客にペコペコと御辞儀。実は配役表を見るまで星野卓誠氏の二役だと思っていた。浮浪者は寺中寿之氏だったとは。

    ※観劇中に思い出したのは昔読んだ、とある宗教小説。ヤクザの若者が指を詰めて改心を示すラスト。今回の舞台の登場人物達もまるで信仰者のように見える。信仰によって世界は間違いなく変えられると信じている熱気。今の時代にないものはそれかも知れない。信じるに足る希望。世界をきっと正せると、全ての人間を導けると。

このページのQRコードです。

拡大