vol.41 「廃墟」、vol.42 「そぞろの民」 公演情報 TRASHMASTERS「vol.41 「廃墟」、vol.42 「そぞろの民」」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    「廃墟」を観劇。Corichページを開き、改めてTRASH観劇歴を振り返ってみると・・題名で内容を思い出せる作品が少ないのでレビューなど眺めて「あーあの作品か」と合点。一作ずつ辿ったがほぼ観ている。初回が「狂おしき怠惰」これは「背水の孤島」が話題になったのでその次作を観たというヤツで。従ってTRASH歴13年になった。
    以後観ていた中で一度、開演時間を一時間取り違えて駅前劇場を訪れ、しょんぼりと帰宅した事があったがそれが「そぞろの民」(レビューを書いていないので)。だがこの作品の記憶があったのは雑誌に戯曲が載ったのを読んだからだった(それを元に脳内で舞台イメージを作っていた訳である)。
    と、今気付いたのでもう観劇には間に合わない。残念・・

    というわけで「廃墟」の感想を。
    新作ばかりを観てきた自分としては異例の公演に欣喜雀躍であったが、あの一晩中侃々諤々やる三好戯曲をTRASHがやると、TRASH的議論劇になるのかも・・?と一抹の不安ありであった(自分としては敗戦直後の物的に逼迫したリアリティをしっかり表現してほしい思いがあった)。だが結果は、中津留氏は基本リアリズムの演劇人であったのだな、という感想。以前文化座・東演の合同公演で観た衝撃の三好十郎世界の発見の体験に、十分拮抗した、また清新な切り口もある「廃墟」であった。
    難点を先に書いておくと・・・リアリズムという点からするとキャラクターと配役の合致は望みたい。長男役の長谷川景は肺病を病んでなお「理想」に己の人生を賭けようとする造形としては、やや病弱イメージが薄い(台詞には「こんなに痩せちゃって」等とある。それでも会話は成立し、大過ありという訳ではない)。叔父役が少々リアリティに欠いた。お調子者の要素を強めに出していたが、南米に渡って一時は鳴らしていた事もある世慣れた人物像、それなりに一家言あるが殊更に(周囲の者のように)大声で主張しないだけ。熱くなりすぎず達観した所から物を言う。ある意味この劇を進める緩和剤的な位置であるが、今回の舞台では「おいおい」とツッコまれちゃう非常識側の色が強く出ていてそぐわなかった。また衣裳もセーターの色が合わず、わざとそうしたのかもだがもう少し別なチョイスがあったと思う。川崎初夏演じる居候(母代わり)「せい」は真心が表に出すぎ(役者として秀でているという事ではあるのだろうが)、女の弱さが不可抗力的に真面目な男(ここでは長男)を翻弄する「無意識の狡さ」があれば満点なのだが、という所。
    浮浪者については、後半出て来て何をするでもない役だが、精神を病んだ「戦争の犠牲者」を想起させる役どころで、その描写は、本人は口がきけないだけに、彼をいじる側の演技次第という面がある。その点では次男を演じた倉貫氏の特攻帰りのアプレゲールの持つ狂気「押し出す」演技としては文句の付けようもない印象なのであるが、「見栄張り」と脆さをもう少し自然な演技の中に偲ばせる人物造形により、彼の「自然さ」を鏡として浮浪者の異常さを観客に認識させるのが、方法ではなかったか、と思う所。
    顔に火傷を負った次女と、父役には満点を付けたい。

    本作は「議論」としての凄みのある一方、物質的豊かさが「政治の季節(熱い季節)」を終焉させ「高度成長期」をもたらした事が象徴するように、劇中の彼らはひもじさをも「糧」として敗北からの未来を見通すための話をしている風景としても、見える。勿論、その前年まで「戦争」という激烈な状況を味わい、悲痛にあえいだ記憶が何より彼らを「その事をどう処するのか」の思考へと突き動かしているのだが、このような議論をした家族は無かっただろう。飢えをどうしのぐか、どう我慢して夜を明かすか・・そんな状態で普通議論はしない。ただしこの作品の彼らは仮にも歴史を教える大学教授の息子・娘らであり、そのような家風であった事は無理筋ではない、が、それでも行きがかり上あのような会話が生まれ、議論に発展し得るという事は奇跡に近いのであり、戦争を直に体験した三好十郎という一人の作家による架空も良い所のフィクションなのである。
    にも関わらず、そこには真実があり、人間の感情があり切実な思いがある事は否めない。「戦争」というものをあの時点で三好は「憎んでもいない人たちの事を殺し」と人物に言わせ、「二千万人もの仲間を殺した」とする。このとき三好十郎は、新たに敷かれた国境(それまでは植民地・満州そして開戦後の占領地はニアリーイコール日本だった)の内と外を切り分けて人間を捉えず、「人間にとって」必要なこと目指すべきことについて考え、台詞に殴り書くように書いたのではないか。今考えるべき全てを洗い出し、ある生き方を全力で貫こうとする人物を通して議論させた。それをやらずに先へは進めなかった、のだろう。裏を返せば、恐らく「過去は忘れるべきもの」とばかり新時代を要領よく生きる人間たちが溢れていた故に、彼らを横目で見ながら、危惧を抱くと同時に彼らの分まで考え抜こうとした。

    そして作者が戯曲に刻んだ言葉・・父の立場、長男の立場、次男そして次女それぞれの立場から吐かれる言葉は、彼らがその存在を賭して提示した思考をなおざりにし、遠い過去である事を良いことに都合の悪い事実を伏せて責任放棄を決め込んだ現在の日本及び日本人を、鋭く突く。意図せざる皮肉である。

    ネタバレBOX

    興味深い対立図式が、次男の虚無的世界観と、長男の理想主義的・進歩主義的世界観。
    そして長男の立場と、父の民族的な反省(責任の自覚)に立った態度との対立だ。
    長男の立場が拠って立つビジョンとして、当時共産主義が存在した。
    彼は戦中投獄され、己の進歩主義的立場が如何に中途半端であったかを痛感させられた、と語る。「やつら」と、長男は言う。やつらは喧伝により、また暴力により「一つの正しさ」を国民に強制した。だが、それはやつら(資本家)が己の利益と野望のために全国民を「利用する」所行であったのであり、もう二度と私たちは彼らに騙され、利用される者であってはならない。敵は明白であり、今市ヶ谷で(極東軍事裁判で)裁かれている戦犯はその代表だ、とする。
    これに対し、父は「私は日本人を信じている」と言い、日本人がこの結果を直視し、そこに至った責任と一人一人が向き合い、改めて行くこと、その先に未来があるのであり、きっと日本人はそれを乗り越え、あるべき未来を手にするに違いないと信じている・・と長男に迫る。
    長男はそうした父の民族主義的な考え方、即ち責任を全体に均し、還元する考え方が本当の悪を甘やかすのだと言う。そのような論理は彼らに都合良く利用されるだけで、何の前進ももたらさない。何が悪で誰が敵かを直視し、悪を駆逐することに国民は手を携え、団結すべきなのである・・と。
    唾棄するように父に言い募る長男や、冷笑で迫る次男に、心臓を病む父を心配する次女は幾度となく「もう止めて!」と厳しく論難する。大事なのはもっと素朴で、単純なことだ。近くにいる人間を思い合うこと。私たちが過ったのはそれが足りなかったからだ・・。
    一方、闇市で喧嘩に明け暮れる次男は、相手も自分も傷つけて怯まない、ある達観を手にしており、怖れられている。そしてこの家族の集まりの場でもその狂気を爆発させる瞬間がある。その瞬間に彼の負った「傷」が僅かに垣間見られるのだが、長男は彼を「可哀想だ」と言い、お前も心のどこかで自分が被った理不尽さへの怒りを持ち、もっと良くならなきゃならないと思っているはずだ、と言う。その語りの間、次男は泣いているが、一瞬のうちに反転し、バカにするな、と咆える。そしてナイフを取り出す。
    前半彼はニヒリズムを体現する者としての構えを崩さず、長男と彼が恋慕するせいの関係を冷やかし、長男は不実な思いはなく真剣に考えているのだからそんな風に笑うな、と怒るも意に介せず「好きならくっつけばいい」と人間=動物説を通す。特攻帰りの典型の行動を辿る次男が、戦争前は学問優秀で正義感に熱い人間だったのに・・と父も妹も彼に生き方を改めるよう説くが、次男は軽くいなし、長男の真心からの語りかけにも頑として拒絶を示す。・・のだが、その頑なさと、正義感の強い人間だったという証言とを考え合わせて浮かび上がる人間像が、切ない。

    今台詞を聞いてドキッとさせられるのは、長男が説く共産主義の理想だ。
    もっとも共産主義、と名は付いても、(マルクスの「資本論」を学んだのでない限り)それは平等主義や「悪は明白」という発想から問題解決を探る素朴な考え方、という程度のものであり、資本家(企業)は都合よく労働者を使おうとするからそれに対抗するため労働者同士団結しよう(労働法が整備されたので労基法の遵守を求め、団体交渉権を活用しよう)という事であったろう。(もちろん変革=実力行使という発想は直前まで戦争があり事態が流動的であった戦後間もなくの時期にはあったのであり、敗戦を認めず蜂起した軍人や勢力地図の変った地域での内紛、混乱が普通にあった時代である。)
    だがそこから、「労働者が統べる平等な社会」という理想が思い描かれる。実はこのビジョンに具体性は乏しく、実際に革命を起こしたソ連や、戦後共産党が勝利した中国も、独自の政体を作る。ソ連では専制と腐敗が横行する仕組みで多くが苦しんだ訳であるし、中国は建国後しばらくは人治体制が理想社会への信奉や指導者への敬意が媒介してうまく機能したように見えるが、周恩来から毛沢東、寛容から規律重視へと傾くと「人治」に限界が訪れ、管理強化へと向ったと思われる。
    長男の言う勤労者が統治する社会、とはプロレタリア独裁という言葉に象徴されるように「あり得ない」夢物語だ。「全人民が独裁」とはこれ如何に、である。一億人が盆の上に乗り、それをごく少数の資本家が支えている図(インドの絵画か何かにありそうな)は、単に一部による独裁により多くの犠牲を生んだ過去に対する「意趣返し」を絵にした餅であって、四民平等をその先へと進め、所有そのものを認めないといった発想も、現実にはあり得ない。(所有されない物が誰によって管理されるかが問題になり、それは所有とほぼ同義となり、政治は代表によって行なわれ、その権限において決定される仕組みを作らざるを得ないのだから。)
    この「あり得無さ」は、過去人類が苦しんだ経緯から発想された一つのモデル、くらいに捉え(憲法の非戦の規定も同じと言える)、その理想に近づけるべく努力をしようという「努力目標」にとどめるのが良識なのだが、長男がそうだというのではなく、最も進歩的な思想(モード)のその先端に自分は位置し、指導的立場になるのだ、という一種の野望の対象として、そうした「主義」というものを使おうという人間は必ず現れる。連合赤軍事件の「指導者」らのいびつなあり方はどこに発したか・・。特に「下からの体制変革はあり得ない」日本では運動は閉塞し、内向し歪んで行く。造反有理と、若者の希望を一部でも聞こうとする政治家がいない、という構図も遠因ではあると思うが、かくして日本の「運動」は厳しい境地に追いやられる。
    その暗い未来を暗示させるワードを希望に満ちた顔で語る長男の姿は、かつて北朝鮮への帰還運動を地上の楽園への憧憬をもって進めた楽観に重なる。切ない。
    彼に対して父は、敵味方の二分法の危うさを直感してなのか、どんな悪政もそれを支える人民がいなければ成り立たなかった、私たちが過去の過ちに再び陥らないためには、民族として高めて行くしかないのだと訴える。善悪二元論を推し進めれば、悪の側に付く者の存在を否定する態度に行き着く、とも父は言うのだが、このような台詞が果してあったか・・私はこんな現代に重なるピッタリの台詞は以前観た時には気付かなかった。(原本を確認したいが、私はここは中津留氏の書き換えではないか、と疑っている。)長男の言う、父のような責任を分散させる論理は「あくどい連中に利用される」だけ、との説は、確かに妥当にも思うが、丁寧な議論をするなら「どう利用されるのか」が明示される必要があるし、「利用されることなく日本人の多くが国民としての責任において過去との決別をしていく」可能性を否定する事はできない。が、この父のビジョン(三島由紀夫を思わせる)も長男のそれと同様、その後の歴史によって否定されてしまうのだが、今の私たちの感覚では鶏が先か卵が先かの議論で言えばやはり父の主張が先にあって然るべきだな、となる。その事をしばしば口にしている一人、社会学者・宮台真司は悲観論を語りつつ加速主義によりいつか(痛い目にあう事で)より良い選択を見分ける民族になる、と父の言に通じる言葉を吐いている。
    しかしこの戯曲で父も、長男も次男も、そして素朴に過ぎる次女も言語の力が拮抗し、最後までたゆむ事がない。三好氏自身の脳内ディベートが再現されたかのよう。

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    2025/08/03 05:46

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