ガマ 公演情報 ガマ」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.6
1-11件 / 11件中
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    鑑賞日2025/06/03 (火) 14:00

    太平洋戦争末期、沖縄の鍾乳洞(ガマ)で遭遇した6人による物語、照明の暗さが状況を際立たせて閉塞感が半端ない。
    初演も観ていたが、今回は「臣民」「聖戦」「日本人として死ぬ」などを女学生に刷り込んだ(と言うより洗脳した?)当時の愛国教育の恐ろしさが際立っているように感じた。
    なお、最終場面で連想したことは確認したら初演時にも思っていた。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2025/06/05 (木) 19:00

    沖縄戦の話。チケットは早々にsold out

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2025/06/03 (火) 19:00

    それぞれの立場、思い、それぞれの夢…。
    あの暗いガマの中で出会ったものたちの物語が観るものの心を震わせる。
    教育の恐ろしさや、地元民の想いとか…
    戦争はよくないし、良いことが無い!!って思うよね。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2025/06/08 (日) 14:00

    沖縄戦と言っても教科書とニュースでしか知らない私たちをがつんと打ちのめす。
    ノーテンキな令和の日常を根底から揺るがす緊張感MAXの台詞を浴びて、
    初めて私たちは戦争を「情報」ではなく「疑似体験」する。
    こんなことが出来るのはやっぱり芝居、それもチョコレートケーキの圧倒的な力だ。

    ネタバレBOX

    全編ガマの薄暗い空間で展開する。
    敵の攻撃を逃れてこのガマに逃げ込んだ6人の、ここまでの経緯が少しずつ語られる。

    戦時下における教育の賜物のようなひめゆりの少女、
    少女に助けられた、部下を全員死なせてしまった少佐、
    助からないとはいえ負傷した教え子を置いて逃げた教師、
    そして二人の脱走兵と、
    彼らの道案内をして来た住民の老人。

    全員が死んだ人間を思い、生きている自分に負い目をもって息を殺している。
    そして死ぬチャンスを待っているように見える。
    それでいて心のどこかに生きることへの渇望が蠢いている。

    印象的だったのは、人間に価値観を植え付ける教育の力だ。
    ひめゆりの少女が、傷つき死んでいく兵隊を山ほど見ても尚、天皇陛下のために死ぬと言い、
    そうすれば沖縄県民は立派な日本人として認められるのだと言う、
    その頑なまでの訴えに”死ぬことを怖れぬ国民は使い易い”という怖ろしい目的を見る思いがした。
    純粋なだけにお国の教育を疑うことが出来ずにもがくひめゆりの少女を演じた
    清水緑さんの迫真の台詞が素晴らしかった。

    「白旗を挙げた者を攻撃はしない、捕虜を傷つけることもしない」と皆を説得するのは
    病気で妻を、3人の息子を戦争で亡くした孤独な老人知念さんだ。
    脱走兵と知りつつ騙されてやる優しさ、頑な少女の心を解きほぐす素朴で力強い言葉、
    自責の念に駆られる者には「それでも生きるのさ、命は宝だから」と諭す温かさ。
    キャストを知っているからそれと判るが、久々に拝見した大和田獏さんは
    イメージを覆す見事な老人ぶりで、柔らかさと信念の強さがあって素晴らしく魅力的。
    台詞はどれも朴訥で、声高に相手を変心させようとはしないのに、
    やさしい言葉で「それでも生きて欲しいのだ」と心を尽くす姿にボロ泣きした。

    字面で読んだり映像を見ただけの情報から、一気にあの時代のあの空間へ引きずり込まれた。
    全編ガマの中の限られた空間が舞台で薄暗く、その分集中して時空を遡ることが出来る。
    ラストで白旗を掲げた6人がガマから外へ出るシーン、その時初めて
    強いライトが全員の顔をはっきりと正面から照らす。
    恐れと、不安と、だが知念老人のことばを信じて明るい方へ向いた表情が力強かった。

    外へ出た時、どこか「戦時下体験テーマパーク」から出て来たような錯覚を覚えた。
    戦う体験ではなく、戦いたくない側の壮絶な体験だった。


  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    ネタバレ

    ネタバレBOX

    劇団チョコレートケーキ『ガマ』を観劇。

    再演である。

     沖縄戦でガマに追い詰めらた人たち。
     戦場は地獄化して、勝てる見込みのないと訴える脱走兵たち、沖縄戦の真の意図を知り尽くしている少尉、天皇陛下の為に戦い続けると言い続ける女子学徒隊、沖縄戦について疑問を呈する先生、地元民など、
    食料すらない中でどうにか生きながらえている。
    ガマの入り口まで米兵が迫る中、降伏をするか否か?
    各々の立場で議論をし始めていくが、気がつくと六人の集団劇に見えなくもない。沖縄県の歴史観、沖縄県の存在意味、洗脳教育などが浮き彫りにされていき、「戦争とは?」を知らず知らずと観客自身が問いただしてしまう。あまりにも息苦しく、涙してしまうが、戦争経験のない我々は時々、この状況を俯瞰して見てしまう。感情に溺れさせずに見せる事に今作の意図はあるようだ。
     この劇団は歴史物を描くことが多く、「何故、そのような事が起きたのか?」を常に考えさせる戯曲作りをしているので、後を引くのはいうまでもない。
     過去作『帰還不能点』で、閣僚たちが止められなかった戦争に、自ら戦争責任者達を演じて、問題点を洗い出すということもしており、歴史物を別な視点で描く面白さを秘めている。
     初演でかなりの評判を得た再演だが、演劇史に残る傑作が今、上演されているのを知っておいた方が良い。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    実演の劇団チョコレートケーキ、久々に拝んだ気がする(二つ前の「白き山」が久々であったが「戻って来た」感はやはり今作のような骨太社会派劇である)。戦争六篇の内「ガマ」は沖縄を扱った新作という事で、これだけでも観たかったが叶わなかったのでこの度の再演は朗報。一も二も無く観に行った。
    脚本、演出とも優れた舞台であった事は(幸なことに)言うまでもなかった。沖縄の戦争や戦後史を扱った舞台は数あれど、実際の「ガマ」(洞窟)を舞台にした芝居は寡聞にして知らず、新鮮であった。

    沖縄本島中部辺にあると思しい洞窟に、熾烈な戦場となった南部から逃げ延びた者たちが入って来る。ひめゆり女子挺身隊の生き残り(清水緑)、負傷した大尉クラスの軍人(岡本篤)、後に脱走兵と判る二人(浅井伸治・青木柳葉魚)、沖縄人の教員(西尾友樹)、その土地に明るい老人(大和田獏)。時系列的には覚えていないが、時折爆撃音が聞えるが基本皆はずっと洞窟の中で、会話を繋いで行く。それぞれがこの場所を係留地と考え、それぞれの目的とする所へ向おうとしているが、閉塞した場所での対話はその切迫した状況の中で一つに収斂していく。彼らの中で「投降」という選択肢が浮上し、幾つものやり取りを経てどうやら白旗を揚げても米兵は恐らく自分らをなぶり殺しにしたりも陵辱したりもしない、という説が現実味を帯びる。そして彼らの中の最も若い女子挺身隊員の「死」への執着を取り払い、「生きてもらう事」が他の男らの言動の目的となる。「沖縄人が立派な日本人である事を証明した」挺身隊員たちの死に自分も倣いたいと言い、「でなければ何のために彼女らは死んで行ったのか」と、泣き崩れる女性に現地の老人が、「その答えを見つけるために生きるのだ」と繰り返す。
    その前段、部隊を破滅へ追いやった責任を一人自決という形で取ろうと考えている(事が明白である)負傷大尉に対し、誰かが釘を刺す。お前一人死んだ所で何もならない、責任をとるとはそういう事ではない・・。
    またその前段、教員もまた己が軍国教育を施し、生徒らを戦争に送った事の責任をひめゆりの子を見るたびに感じ、せめて彼女を生かそうと考えている。大尉が治癒し、絶望的な南部戦線の部隊へ戻るのに対し、彼女はそれに同行しようとしていた。
    あるいは脱走兵の片割れは、爆撃音が轟いて来た今、部隊とは逆の北部へと一日も早く逃れようとしており、もう一人はそこまでの度胸はなく、相方を止めようとしている。
    それが終盤では一つの選択肢のみが彼らの希望となる。
    大尉の杖に、ボロ布を広げて結わえ付ける。ひめゆるの子が「自分が先頭に立つのが最も安全だ」と、旗持ちを買って出る。肩を寄せ合う一群が、ガマの入口へと向かい、カットアウト。終幕である。

    日本兵によって「死」に追いやられた沖縄人が居る、という史実は疑いを挟む余地はない、と思っていたが、未だ沖縄は矛盾の極みを体現している。
    関東大震災での朝鮮人虐殺は豊富な資料の存在から否定し得ない史実(公式にも認定)であるにも関わらず、それを否定したい市民を「支持者」と認ずる現都知事はその存在を認めない、という選択をしている。
    「認めたら不都合」な事実を認めず、やがては事実を別の事実へと改変して行くのが「国のため」「市民のため」と公言しているのに等しい。そういう公人を戴く私ら現代日本人にとって、こういう芝居の需要は当面無くならないだろう。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    昨日に沖縄を訪れた方々にも観て頂きたい暗いガマの中を体験する舞台でした

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    幕開けから度肝抜かれる演出です。悲惨なシーンは真っ暗な中で声だけが聞こえるのですが、これがいいですね。ミニマルな演出ですが、最大限の効果を発揮してますね。ガマで起きたことがかなりリアルに伝わる舞台です。舞台の最後では私の周りではすすり泣く声がいっぱいでした。すばらしい時間をありがとうございました。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2025/06/03 (火) 19:00

    読売演劇大賞 最優秀作品賞の作品ということで、納得です。

    役者さんが役に見えず、当時の方々がその場にいるようでした。
    憑依している感じが迫力がありあっという間の時間でした。

    ネタバレBOX

    登場人物の女学生のような考えの方々は沢山いらっしゃったと思います。
    お国のため、捕虜になるくらいなら自決。
    でも最後はほっとしました。

    男性たちは、真の勇気のある者たちと思いました。
    私達は時がたち、非国民なんて誰が言うんだ逃げて良かったのに、投降すれば。と思うけれど。当時はそのようなことは許されない空気。
    規模は違えど数年前のコロナとリンクしました。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    始まってすぐに沖縄戦の世界に引きずり込まれていくような感覚に陥った。
    戦争の為に失ってしまうものの大きさに改めて気づかされ、二度と起きてはいけないことなのだと痛感。
    演者さん皆熱演でかなり重いシーンが多かったが、大和田獏さん演じる知念さんの優しさに救われました。
    初日に観劇したのだが、時間があれば再度見に行きたい。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    初演は2回観ている。
    池脇千鶴系の美人、清水緑さん。ガリガリに痩せて役作りに徹している。神々しい。
    大和田獏氏が流石。
    今回は初演台本の第一稿の設定を作品に戻し再構成。
    役者がボロボロ泣きながら必死に訴える。戦争は嘘の塊、命以上に価値のあるものはこの世にないんだと。

    ネタバレBOX

    やはり違和感は拭えなかった。未来からやって来た者達がガマで死のうとする少女を必死に説得する話に見える。「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」とは「命こそ宝」の意味。全ては生きてその答を見付けないといけないと。悔恨も罪悪感も自責の念も死んで無にせずに生きて苦しむべきだと。少女は白旗を掲げて米軍に投降するラスト。
    多分設定の説明に時間が掛かったのだと思う。80年前の沖縄戦を観客に理解して貰わないといけない。その為に語るべきことが多過ぎた。
    「こんなもん皆嘘だ」と軍人から教師から清水緑さんを説得する。俺達が命を懸けて殺し合いをしているのは“嘘”の為だ。

    「方便」による支配が日本の精神史なのではないか、と昔から考えていた。その最たるものが戦時下の「皇国史観」。大日本帝国が推進した「神国思想」。天皇は地上に降りて来た神の末裔、「現人神」として神格化される。呪術的宗教国家として国民に「国家神道」、「皇国史観」を強要した。神が造り給うたこの国に住まわせて貰っている臣民。その命さえ天皇陛下から預かったものだと。巨大な虚構が国民の思考を支配し、催眠にかけられたように死に向かって猪突猛進していく。皆嘘をつき自分を騙し死んでいく。死にさえすればこの支配から自由になれる。死のみが唯一の救い。

    ※(ここから余談)。
    BC15世紀、現在のイランからアーリア人が現在のインド(とパキスタン)を侵略。ヴェーダ(知識)という世界観、死生観を導入した。それを基にバラモン教が誕生。この世に生きるものは全て、自らが行なった行為、カルマ(業)を因として次の世に生まれ変わる。無限に続く輪廻転生。現世が不幸なのは全て前世の報いである。この思想は不平等な世の中の仕組みを無理矢理納得させる為のものでもあった。厳しいカースト制度が敷かれ、差別が横行した。これは前世の報い、今生では我慢して徳を積み来世で幸せになろうと。支配者にとって都合のいい思想。

    バラモン教ではこの世の真理を悟り解脱することで輪廻の輪から解放されるとされていた。BC6世紀、それを目指したのがゴータマ・シッダッタ。
    ゴータマ・シッダッタはシャーキヤ族の王子。故に後、釈迦と呼ばれることとなる。
    出家し二人の高名な思想家のもとで瞑想を体得したがそれでは悟りに至らないことを知って去り、苦行に身を投じる。修行僧達は快楽はこの世のまやかしで苦しみこそが真実だとしていた。苦痛を耐え抜いて怖れず死ぬことこそ、死への恐怖を乗り越えることだと。6年間、死とギリギリの苦痛と向かい合い苦しみ抜き、この先にも何もないことを知る。快楽に意味がないのと同様にその裏面である苦しみにも意味がない。目指すべき方角は快楽でも苦痛でもなく、また別のベクトル、中道だ。大いなるパラダイムシフト、菩提樹の下で瞑想を続けたゴータマ・シッダッタは到頭悟った。それは簡単に言うと「生きながら死ぬこと、死にながら生きること」だった。欲望の正体が苦しみであるならば欲望を遠ざけることこそ苦しみから離れる方法。世捨て人として生きること。
    ブッダ(仏陀)は目覚めた人の意味。仏陀の教え=仏教。ちなみに密教=秘密仏教。
    当時のインドの大国、マガダ国王、コーサラ国王に支援されたゴータマ・シッダッタの教団。彼の死後100年経ちインドを統一したマウリヤ朝のアショーカ王も国を挙げて帰依した。

    しかしBC1世紀頃には衰退、形を変えたバラモン教であるヒンドゥー教が大衆の支持を集めていく。(最終的にはヒンドゥー教が残りインドで仏教はほぼ絶えた)。その理由は明白で仏教は苦しみから逃れる方法論を説いたもの。「幸せになる」とか「夢が叶う」とか「願いが叶う」等の御利益宗教ではないからだ。
    〈19世紀、西洋で仏教が紹介された際、その思想哲学は虚無主義(ニヒリズム)、悲観主義(ペシミズム)と怖れられた。生きることにもっと前向きになるべきだと。賛美称賛したドイツの哲学者、ショーペンハウアーは「神を否定する無神論者」と糾弾される〉。

    このままではゴータマ・シッダッタの見つけたこの世の真理が闇に葬られてしまう。そこで当時の僧侶達が作った足掻きが偽教、「法華経」を代表とする大乗仏教となっていく。「如是我聞(にょぜがもん)」とは「このようにゴータマ・シッダッタから私は聞いた」との意味。全ての経典に保証書のようにそれは書かれている。だが勝手に作った経典に「如是我聞」を記すのは許されない行為。「法華経」はAD50年から150年頃に作られたとされる。大まかに前期中期後期と、3グループがそれぞれ作成したのだろう。
    「法華経」は自己正当化の為に「方便」という概念を編み出した。まずゴータマ・シッダッタが「法華経」を説くので弟子達を集める。弟子達は最も高位な教え、「法華経」を聞くことに興奮している。(「法華経」の中で既に「法華経」は皆が聞きたがっていたものとしてメタ的に登場)。そこからゴータマ・シッダッタが語り出したのが「方便」について。

    ①三車火宅
    屋敷が火事になり、ごうごうと燃えているのに子供達は遊びに夢中で気が付かない。何を言っても聞く耳を持たない。仕方なく父親は「家の外におもちゃの山を積んできた」と嘘をついておびき出す。「そんなものないじゃないか!」と怒る子供達に背後を指差し燃え落ちる屋敷を見せる。
    ②長者窮子
    若い頃、家出をした息子を探し続ける父親。父親は事業に成功して大金持ちになっていた。数十年後、到頭浮浪者になった息子を見つけるも父親の顔すら忘れてしまっている。話をしようにも恐怖で怯え逃げ出す余り。そこで父親は部下に命じて屋敷の使用人として雇わせる。長い年月を掛けて仕事を教え自信を付けさせる。そして父親は死ぬ直前に実の親子であることを明かし、財産を相続させる。
    ③化城宝処
    莫大な財宝の眠る地を目指す旅団、過酷な砂漠を越える旅。途中で皆が音を上げ引き返そうとへたり込む。案内人は幻の城を作り一同を休ませる。皆の気力体力が回復した頃、案内人は再出発を促す。この城に留まろうと言う声も出るが、案内人は幻の城を消してしまう。
    ④良医治子喩
    医者の子供達が間違えて毒を飲んで苦しんでいる。医者は解毒剤を与えるが、子供達は頭も毒にやられ疑って飲もうとしない。医者は一計を案じ家を出、使いの者に「事故に遭って死んだ」と伝えさせる。子供達はそこで初めて親の有難みに気付いて泣き、形見として解毒剤を飲む。治ったことを知った医者は帰宅する。

    大体こんな話を説くのだが、その意味は「例え嘘だとしてもそれが良い結果をもたらすのであれば正しいことではないのか?」という詭弁。嘘の御利益で人を騙して信仰させても、それが最終的にゴータマ・シッダッタの教えを知る切っ掛けになるのならば正しい行為ではないのか?と。これの拡大解釈の繰り返しで仏教は狂った。密教などバラモン教と変わらないオカルト化。(ゴータマ・シッダッタはマールキヤプッタの形而上的な問いに毒矢のたとえで答えた。「オカルト的な問い掛けに答える必要はない。私が説くのは毒矢に打たれて苦しんでいる者の手当の方法だ。」〈「十無記」〉)。

    最終的に良い結果を生むならば何をやってもいい、騙してもいい、殺してもいい。そんなもの自己正当化の道具にしか見えない。最終的に素晴らしい未来を実現するのだから、その過程である今現在は目的遂行の為に何をやっても構わないという屁理屈。理想さえ高ければ何をやってもいいのか?
    そんなものばかり信じて待っていてもいつまで経ってもゴータマ・シッダッタの思想には辿り着かない。俺達はいつまで経っても「方便」ばっかり聞かされる。そのへんで与太ってる巷の選挙演説なんかも皆「方便」でしかない。いつになったら本当のことを教えてくれるのか?そんな日は永遠に来ないだろう。

    本当に苦しみから逃れたいのならば、ゴータマ・シッダッタの言葉を探せ。

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