ガマ 公演情報 劇団チョコレートケーキ「ガマ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    初演は2回観ている。
    池脇千鶴系の美人、清水緑さん。ガリガリに痩せて役作りに徹している。神々しい。
    大和田獏氏が流石。
    今回は初演台本の第一稿の設定を作品に戻し再構成。
    役者がボロボロ泣きながら必死に訴える。戦争は嘘の塊、命以上に価値のあるものはこの世にないんだと。

    ネタバレBOX

    やはり違和感は拭えなかった。未来からやって来た者達がガマで死のうとする少女を必死に説得する話に見える。「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」とは「命こそ宝」の意味。全ては生きてその答を見付けないといけないと。悔恨も罪悪感も自責の念も死んで無にせずに生きて苦しむべきだと。少女は白旗を掲げて米軍に投降するラスト。
    多分設定の説明に時間が掛かったのだと思う。80年前の沖縄戦を観客に理解して貰わないといけない。その為に語るべきことが多過ぎた。
    「こんなもん皆嘘だ」と軍人から教師から清水緑さんを説得する。俺達が命を懸けて殺し合いをしているのは“嘘”の為だ。

    「方便」による支配が日本の精神史なのではないか、と昔から考えていた。その最たるものが戦時下の「皇国史観」。大日本帝国が推進した「神国思想」。天皇は地上に降りて来た神の末裔、「現人神」として神格化される。呪術的宗教国家として国民に「国家神道」、「皇国史観」を強要した。神が造り給うたこの国に住まわせて貰っている臣民。その命さえ天皇陛下から預かったものだと。巨大な虚構が国民の思考を支配し、催眠にかけられたように死に向かって猪突猛進していく。皆嘘をつき自分を騙し死んでいく。死にさえすればこの支配から自由になれる。死のみが唯一の救い。

    ※(ここから余談)。
    BC15世紀、現在のイランからアーリア人が現在のインド(とパキスタン)を侵略。ヴェーダ(知識)という世界観、死生観を導入した。それを基にバラモン教が誕生。この世に生きるものは全て、自らが行なった行為、カルマ(業)を因として次の世に生まれ変わる。無限に続く輪廻転生。現世が不幸なのは全て前世の報いである。この思想は不平等な世の中の仕組みを無理矢理納得させる為のものでもあった。厳しいカースト制度が敷かれ、差別が横行した。これは前世の報い、今生では我慢して徳を積み来世で幸せになろうと。支配者にとって都合のいい思想。

    バラモン教ではこの世の真理を悟り解脱することで輪廻の輪から解放されるとされていた。BC6世紀、それを目指したのがゴータマ・シッダッタ。
    ゴータマ・シッダッタはシャーキヤ族の王子。故に後、釈迦と呼ばれることとなる。
    出家し二人の高名な思想家のもとで瞑想を体得したがそれでは悟りに至らないことを知って去り、苦行に身を投じる。修行僧達は快楽はこの世のまやかしで苦しみこそが真実だとしていた。苦痛を耐え抜いて怖れず死ぬことこそ、死への恐怖を乗り越えることだと。6年間、死とギリギリの苦痛と向かい合い苦しみ抜き、この先にも何もないことを知る。快楽に意味がないのと同様にその裏面である苦しみにも意味がない。目指すべき方角は快楽でも苦痛でもなく、また別のベクトル、中道だ。大いなるパラダイムシフト、菩提樹の下で瞑想を続けたゴータマ・シッダッタは到頭悟った。それは簡単に言うと「生きながら死ぬこと、死にながら生きること」だった。欲望の正体が苦しみであるならば欲望を遠ざけることこそ苦しみから離れる方法。世捨て人として生きること。
    ブッダ(仏陀)は目覚めた人の意味。仏陀の教え=仏教。ちなみに密教=秘密仏教。
    当時のインドの大国、マガダ国王、コーサラ国王に支援されたゴータマ・シッダッタの教団。彼の死後100年経ちインドを統一したマウリヤ朝のアショーカ王も国を挙げて帰依した。

    しかしBC1世紀頃には衰退、形を変えたバラモン教であるヒンドゥー教が大衆の支持を集めていく。(最終的にはヒンドゥー教が残りインドで仏教はほぼ絶えた)。その理由は明白で仏教は苦しみから逃れる方法論を説いたもの。「幸せになる」とか「夢が叶う」とか「願いが叶う」等の御利益宗教ではないからだ。
    〈19世紀、西洋で仏教が紹介された際、その思想哲学は虚無主義(ニヒリズム)、悲観主義(ペシミズム)と怖れられた。生きることにもっと前向きになるべきだと。賛美称賛したドイツの哲学者、ショーペンハウアーは「神を否定する無神論者」と糾弾される〉。

    このままではゴータマ・シッダッタの見つけたこの世の真理が闇に葬られてしまう。そこで当時の僧侶達が作った足掻きが偽教、「法華経」を代表とする大乗仏教となっていく。「如是我聞(にょぜがもん)」とは「このようにゴータマ・シッダッタから私は聞いた」との意味。全ての経典に保証書のようにそれは書かれている。だが勝手に作った経典に「如是我聞」を記すのは許されない行為。「法華経」はAD50年から150年頃に作られたとされる。大まかに前期中期後期と、3グループがそれぞれ作成したのだろう。
    「法華経」は自己正当化の為に「方便」という概念を編み出した。まずゴータマ・シッダッタが「法華経」を説くので弟子達を集める。弟子達は最も高位な教え、「法華経」を聞くことに興奮している。(「法華経」の中で既に「法華経」は皆が聞きたがっていたものとしてメタ的に登場)。そこからゴータマ・シッダッタが語り出したのが「方便」について。

    ①三車火宅
    屋敷が火事になり、ごうごうと燃えているのに子供達は遊びに夢中で気が付かない。何を言っても聞く耳を持たない。仕方なく父親は「家の外におもちゃの山を積んできた」と嘘をついておびき出す。「そんなものないじゃないか!」と怒る子供達に背後を指差し燃え落ちる屋敷を見せる。
    ②長者窮子
    若い頃、家出をした息子を探し続ける父親。父親は事業に成功して大金持ちになっていた。数十年後、到頭浮浪者になった息子を見つけるも父親の顔すら忘れてしまっている。話をしようにも恐怖で怯え逃げ出す余り。そこで父親は部下に命じて屋敷の使用人として雇わせる。長い年月を掛けて仕事を教え自信を付けさせる。そして父親は死ぬ直前に実の親子であることを明かし、財産を相続させる。
    ③化城宝処
    莫大な財宝の眠る地を目指す旅団、過酷な砂漠を越える旅。途中で皆が音を上げ引き返そうとへたり込む。案内人は幻の城を作り一同を休ませる。皆の気力体力が回復した頃、案内人は再出発を促す。この城に留まろうと言う声も出るが、案内人は幻の城を消してしまう。
    ④良医治子喩
    医者の子供達が間違えて毒を飲んで苦しんでいる。医者は解毒剤を与えるが、子供達は頭も毒にやられ疑って飲もうとしない。医者は一計を案じ家を出、使いの者に「事故に遭って死んだ」と伝えさせる。子供達はそこで初めて親の有難みに気付いて泣き、形見として解毒剤を飲む。治ったことを知った医者は帰宅する。

    大体こんな話を説くのだが、その意味は「例え嘘だとしてもそれが良い結果をもたらすのであれば正しいことではないのか?」という詭弁。嘘の御利益で人を騙して信仰させても、それが最終的にゴータマ・シッダッタの教えを知る切っ掛けになるのならば正しい行為ではないのか?と。これの拡大解釈の繰り返しで仏教は狂った。密教などバラモン教と変わらないオカルト化。(ゴータマ・シッダッタはマールキヤプッタの形而上的な問いに毒矢のたとえで答えた。「オカルト的な問い掛けに答える必要はない。私が説くのは毒矢に打たれて苦しんでいる者の手当の方法だ。」〈「十無記」〉)。

    最終的に良い結果を生むならば何をやってもいい、騙してもいい、殺してもいい。そんなもの自己正当化の道具にしか見えない。最終的に素晴らしい未来を実現するのだから、その過程である今現在は目的遂行の為に何をやっても構わないという屁理屈。理想さえ高ければ何をやってもいいのか?
    そんなものばかり信じて待っていてもいつまで経ってもゴータマ・シッダッタの思想には辿り着かない。俺達はいつまで経っても「方便」ばっかり聞かされる。そのへんで与太ってる巷の選挙演説なんかも皆「方便」でしかない。いつになったら本当のことを教えてくれるのか?そんな日は永遠に来ないだろう。

    本当に苦しみから逃れたいのならば、ゴータマ・シッダッタの言葉を探せ。

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    2025/06/01 08:00

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