ルネ・ポルシュ『無防備映画都市―ルール地方三部作・第二部』 公演情報 ルネ・ポルシュ『無防備映画都市―ルール地方三部作・第二部』」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.4
1-5件 / 5件中
  • 満足度★★★★★

    あまり難しく考えすぎないほうが
    良いように思います。

    自分は、昔から映画が好きなので、
    ケンブリッジから出ている
    「The films of Roberto Rossellini」(Peter Bondanella著)を読んでいて、
    今回も行く前にその本のあちこちに付箋を付けて観に行きました(苦笑

    ロッセリーニはネオリアリズモの作品のイメージとは対照的に、
    金持ちの子息で
    魅力的でハンサムであり、
    映画監督としてよりかはプレイボーイとして運命づけられ
    飛行機とレーシングカーが大好きで、
    たぶん女優目当てで映画界に飛び込んだ、
    というような、今回の舞台そのままの人物であったようです。

    それこそ自分がこの劇を見る前に行った明日館の朗読会で、
    関東大震災から衝撃的な早さで立ち上がった
    築地小劇場のシーンとはすべてが対照的。

    そのこともまた、この作品が
    芸術の揺籃期のひとつのシーンについての
    想像力を膨らませた風刺であり批判でもあったように
    自分に強く感じられた原因のひとつであったかもしれません。

    自分はもう少し先の本やロッセリーニ、あるいはファシズムや戦争、
    あるいは後に続くヌーベル・ヴァーグについて考えてみたいと思います。

    そうするきっかけになるだけの力が、
    あの舞台から湧き出るイメージにはあるように感じます。

    観客一人ひとりのそうした考え始めの一歩を、
    ポレシュは与えたかったのではないかと思います。

  • 満足度★★

    全く分からない作品だった
    しかし、これほどまでに理解不能な作品はそうそうお目にかかれないなと思いました。台詞が分かるには、現代思想やドイツ史についての深い理解が必要。資本主義の矛盾を皮肉っているみたいだけれど、それが全面に出てきているわけではない。また、映画「ドイツ零年」も観たけれど、なぜあえてこの映画なのかも不明でした。他の方のレビューを見る限りでは、色々と想像を膨らませる余地はあるみたいですが・・・。

  • 満足度★★★

    理解出来ないもどかしさ
    政治的、思想的用語を多用してまくし立てられる会話と、複数の車が走り回る屋外ならではのスペクタルシーンが印象的な作品でした。知識不足のため表面的な部分しか理解出来ず、奥が読めたらもっと素晴らしく感じるだろうという雰囲気に満ちていました。

    だだっ広い空き地に客席用のテント小屋、映像と字幕を映し出すスクリーン、移動ステージ車が設置され、その中を役者や車が動き回るダイナミックな空間の使い方が面白かったです。
    役者達をカメラとマイクを携えた撮影クルーが追い掛け、ライブ映像をスクリーンに投影するという多層的な構成になっていて、中盤辺りからは車の向こう側やキャンピングカーの中など、客席から見えない場所のシーンが多くなり、同じ時間・空間にいるのにスクリーンに投影されたライブ映像を通じてしか見ることの出来ない状況がアイロニカルで興味深かったです。
    政治経済や映画には疎いので引用の出典がほとんど理解は出来なかったのですが、おそらく作者も観客に全ての台詞を理解してもらおうとは思っていなくて、過剰に飛び交う情報の中にいる人々のやりようのなさを描いているように感じました。

    話される膨大な台詞の量に対して字幕の文字数が少なく、かなり情報量が削られていて、複数人が話すシーンではどの台詞が誰のものか分からず、また主に演技をするエリアとスクリーンが離れていて役者を見ながら字幕を読むことが出来ず、ドイツ語が解ればなあと、もどかしく感じました。

    映像を左右や上下で分割して映し出し、物がワープしているようなトリッキーなギャグ的要素を入れたり、映画の撮影シーンでは父親役を演じる女優がコントみたいな馬鹿馬鹿しいやりとりを繰り広げたりと、意外に笑いの要素が多い作品でした。
    最初の方で女優がこんな所で生声で台詞を話していたら声帯が潰れるという旨をわめくシーンがあるのですが、丁度その時に上空をヘリコプターが通過して台詞が聞こえないという、狙ったかの様なハプニングがあって、笑えました。

  • 満足度★★

    過去、現在、そして…未来は?
    前もってロッセリーニ「戦争三部作」から材を取った、と断られていますが
    むしろ内容的にはドイツ演劇特有の「過去との対立」「資本主義」「見えない
    未来」が、過去になされた議論を下敷きに展開されている印象を持ちました。

    したがってドイツ史(特にナチス時代~東西分断~現在まで)について
    知らないと、何を言っているのか、何が、誰が風刺されているのか、
    よく分からないところがありますね。

    ネタバレBOX

    まず、座席の設置が悪いように思えました。
    段差を設けない為、前の席の人の頭が邪魔になって舞台前方が
    見えにくい。加えて、舞台の中心となる広場と翻訳・車内の様子を
    映し出すスクリーンとが少し離れている為、視界に全部入らず、
    交互に見ないといけなかった為、結構苦痛でしたね。

    作中気になったのは、「若くないから嫌われる」という台詞。
    ナチス時代、ドイツ国民は「若々しく剛健で、金髪のアーリア人」であらねば
    ならない、というテーゼが唱えられていたのを思い出しました。

    そして、1947年から区切られた、「零年」になった、という言葉はそのまま
    そのナチス時代の記憶をいつしか忘れ、資本主義の波に飲み込まれ、
    そのまま自分を見失っていくドイツのありようを控えめに、しかし痛烈に、
    批評したものといえるのではないでしょうか。

    最も、劇中、私の意識を揺さぶったのは「俺は自分の解釈で作品に
    当たるが、それはもう既に作品そのものじゃない」「役者Sの役をRが
    やったところで、それはもうSではない」という、まくしたてられた台詞。

    激越さを極める資本主義の荒波の中、その勢いは圧倒的で、
    それに対抗しようと、マルクス、フーコーを持ち出して現代的意味を
    こねくり回して付け加えようとしても、それはもう既にそれ自身の持つ
    本来の意義を失わせていくだけだ、と宣告されているような、そんな
    気分に陥りそうでした。

    では、そうした「過去の思想」によりかからず、強大な資本の力に
    立ち向かうにはどうすべきか。明確に答えを見いだせないだけに、
    ルネを含む今日の作家達の苦悩と試行錯誤は大きいと感じさせられます。

    …と、注意深く観ていて何とか掬いあげられた解釈がこれです。
    もしかしたら、中央の広場が殆ど草も生えていないような荒涼とした
    荒地なのは、何もない荒れ果てた地点から何か「新しいモノ」が出発する、
    といった、隠された暗示なのかもしれない。

    そんな風に深読みさせてしまう一種訳の分からない力が、この『無防備
    映画都市』にあったことは事実です。
  • 満足度★★★★★

    ゲルマン魂が炸裂!!
    ダイナミックな舞台装置に、豊洲の夜景を堪能するだけでも一見の価値あり。個人的には、これは理想主義に陶酔してる田舎者たちの遠吠えなんだろうなぁっていう見方をしていたら、だんだん可笑しくなってきちゃって笑いをこらえるのにたいへんだった。日本と同じ敗戦国ってのもあるのかな。めっちゃ親近感沸いたよ、ドイツ。

    ネタバレBOX

    サーカステント、電飾が施された小さなステージ、パトカー、銀色のBMW、数台のロケバス、キャンピングカー。これが『映画撮影所』を舞台にした作品であることは知ってはいたものの、こんなにもダイナミックにあらゆる本物が配置されてるとは思いもよらなかった。

    客席は、これらのセットをまるでディレクターズチェアから作品を精査するような位置に配置されており、舞台の背景には高層マンション群、下手側にはレインボーブリッジが見渡せる格好のロケーション。
    それを、一杯飲みながら夜景を一人占めできるという贅沢なひと時に。私は運よく、高層ビル群の隙間に飲まれる夕陽を脳裏に焼き付けることができ、そんな景色をつまみにドイツビールを飲めたことに幸せを感じていた。開演前まで、アメリカンロックが適度な音量で流れていた。

    作品は『映画撮影所』を舞台にドイツ零年を現在置からリメイクしようと試みるキャスト&スタッフの創作過程が主となる。
    いかにも何かが起きそうなシチュエーションだ。
    そして、案の定(?)あらゆるトラブル、ハプニング、アクシデントが巻き起こる。

    まず、冒頭。銀色のBMWをパトカーが追いかけるという、まさかのカーチェイス。
    映画ならありがちな光景だが、演劇ではまずない。
    これは演劇の常識をくつがえす、とんだハプニングだ!と言っても過言ではない。

    このシーンの後は、人的なトラブルの連鎖が続く。
    それは、役柄に対する不満だったり、人間性に対する不満だったり、芸術への批評的なまなざしだったりもする。怒りと言ってもいいかもしれない。

    『思い通りにいかない』という鬱屈したエネルギーと異なる『思想』を持った者たちの譲り合わない現場が上手くひとつにまとまるはずもなく。

    ある者は名優になりきって映画のワンシーンの台詞を吐き、またある者は役から抜け切ることができずにいて、仕事と割り切って次へ次へとシーンを進めようとする者までいる。

    劇中には車中で誘拐された美女を青年が命掛けで追いかける…なんてアクロバティングなシーンもあったりもするのだが、それもこれも名画のパロディの一部に過ぎないと言ってのける。

    そして、オリジナルなき茶番を演じることも、それを作ることにも疲れ果てた者たちは、いつしか誰もが誰かの意見を聞くことを止め、自己主張を繰り返すことすらおざなりになっていく。
    この会話の相いれなさ、意見の対立が生む不完全な関係性がコミュニケーションとして成立しているような状態は、なんだ日本とあんまり変わらないじゃないの!なんて思ったりもして、ドイツという国にたいして妙な親近感を抱いたりもした。
    やはり、日本と同じ敗戦国だからだろうか。
    そういえば、『戦争』の語り方がとてもユニークで自虐的だったのが印象的だ。
    『ドイツ零年』をパロディ化する勇気にも恐れ入ったが、主人公・エドモンドを成人男性が演じ、監督がネオ・リアリズモの誕生だ!と言い切った場面。
    潔すぎて笑ってしまったけれど、こうやって、皮肉に笑わせる戦争の語り方って、日本じゃまだまだ許されない雰囲気あるよなぁ。その違いはやっぱり国民性なんだろうか…。

    後半は、アクロバティングな動きのあった前半とはうって変わり、それぞれの『理想』の語りが主となる。彼らは『議論』を通じてはじめて何かを語りあうことを獲得したといってもいいのではないかとおもう。相変わらず、喧嘩口調ではあるが。(笑)

    議論は、言葉そのものの意味にではなく、その言葉を語るように仕向ける現実に対して思考するように促したミシェル・フーコーの言説を素地に、言葉の居場所と身体の在り方、それらが巧みに『利用』されてきた歴史的背景、またそれを牽引した『主義』について注意深く、そしてラディカルに探っていく。その台詞のひとつひとつが知の結晶であるかのように哲学的であり、また、くだらなくもある。

    ちなみにこの議論の間、舞台はからっぽ。キャスト&スタッフがキャンピングカーのなかであーでもない、こーでもないと言ってる様子をスクリーン画面を通じてみることになる。身体が死んで、言葉だけに支配される空間。ささくれ立った言葉の群れに耳をそば立てる。なんて言ったら聞こえはいいかもしれないが、なんてシュール!なんて、残酷!!(笑)

    そして、言葉による暴力を振りかざしてみても所詮、卓上の論理にしか過ぎない彼らのやるせなさ、苦し紛れに名画の台詞を引用したり、そんな方法でしか抗うほかないという敗北感は滑稽で。それは、ともすれば見えない大きな力に対する絶対服従でもあるのかもしれないというそんな、情けなくてお粗末なリアル。

    それでも彼ら。
    望むことは違っていても、お互いが『理想主義者』であることにはそんなに違いはなくて。
    経済発展を遂げた後、産業から切り離されて時代から取り残されたような故郷(ルール)に別れを告げて、一発映画当てて地位と名誉と金を手にしてハッピーになろうぜ!ってな感じで夢みてて、たぶん。

    だから。『そこ』(撮影所)は彼らにとっては『ローマ』であったのかもしれないが、わたしにとっての『ここ』(舞台)は荒廃したルールの田舎町としかだんだん思えなくなってきて。
    ローマという名のユートピアを、ローマから遠く離れた、ルールという片田舎のどこか、閉鎖された工場地跡のようなそっけない場所(それも『都会』という金に物を言わせる摩天楼を背景にという妄想含む)で真剣にごっこ遊びをしているような。そんな気がしてきたのだ。

    そうおもうとなんだか無性にむなしさがこみあげてくる。もう笑うしかないじゃん、とすらおもえてくる。

    だのに最後は『感傷的に生きるなよ!』だもんなぁ。
    ゲルマン魂半端ない。格好よすぎるでしょ!!

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