ルネ・ポルシュ『無防備映画都市―ルール地方三部作・第二部』 公演情報 フェスティバル/トーキョー実行委員会「ルネ・ポルシュ『無防備映画都市―ルール地方三部作・第二部』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★

    過去、現在、そして…未来は?
    前もってロッセリーニ「戦争三部作」から材を取った、と断られていますが
    むしろ内容的にはドイツ演劇特有の「過去との対立」「資本主義」「見えない
    未来」が、過去になされた議論を下敷きに展開されている印象を持ちました。

    したがってドイツ史(特にナチス時代~東西分断~現在まで)について
    知らないと、何を言っているのか、何が、誰が風刺されているのか、
    よく分からないところがありますね。

    ネタバレBOX

    まず、座席の設置が悪いように思えました。
    段差を設けない為、前の席の人の頭が邪魔になって舞台前方が
    見えにくい。加えて、舞台の中心となる広場と翻訳・車内の様子を
    映し出すスクリーンとが少し離れている為、視界に全部入らず、
    交互に見ないといけなかった為、結構苦痛でしたね。

    作中気になったのは、「若くないから嫌われる」という台詞。
    ナチス時代、ドイツ国民は「若々しく剛健で、金髪のアーリア人」であらねば
    ならない、というテーゼが唱えられていたのを思い出しました。

    そして、1947年から区切られた、「零年」になった、という言葉はそのまま
    そのナチス時代の記憶をいつしか忘れ、資本主義の波に飲み込まれ、
    そのまま自分を見失っていくドイツのありようを控えめに、しかし痛烈に、
    批評したものといえるのではないでしょうか。

    最も、劇中、私の意識を揺さぶったのは「俺は自分の解釈で作品に
    当たるが、それはもう既に作品そのものじゃない」「役者Sの役をRが
    やったところで、それはもうSではない」という、まくしたてられた台詞。

    激越さを極める資本主義の荒波の中、その勢いは圧倒的で、
    それに対抗しようと、マルクス、フーコーを持ち出して現代的意味を
    こねくり回して付け加えようとしても、それはもう既にそれ自身の持つ
    本来の意義を失わせていくだけだ、と宣告されているような、そんな
    気分に陥りそうでした。

    では、そうした「過去の思想」によりかからず、強大な資本の力に
    立ち向かうにはどうすべきか。明確に答えを見いだせないだけに、
    ルネを含む今日の作家達の苦悩と試行錯誤は大きいと感じさせられます。

    …と、注意深く観ていて何とか掬いあげられた解釈がこれです。
    もしかしたら、中央の広場が殆ど草も生えていないような荒涼とした
    荒地なのは、何もない荒れ果てた地点から何か「新しいモノ」が出発する、
    といった、隠された暗示なのかもしれない。

    そんな風に深読みさせてしまう一種訳の分からない力が、この『無防備
    映画都市』にあったことは事実です。

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    2011/09/25 21:53

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