イノセント・ピープル 公演情報 イノセント・ピープル」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.3
1-20件 / 35件中
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    20代から90代まで、その年代だとしかみえない演技力に感嘆した 
    考えさせられるストーリーに心がえぐられてすぐには観れなかったが今になってもう一回観ておけばよかったと後悔している
    配信、もう一回観れるようにならないかな

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    山口馬木也さんが20代から90代までの役を器用にこなされていた。テーマは戦争ではあるが、どこか身近に迫ってきているような生々しいお芝居で、色んな事をグルグルと考えさせられた。ただの青年がただ研究のために作ったものが、核兵器として戦争に使われ、たくさんの命を奪ってしまった。決して答えの出る問題ではないが、その苦悩する部分を山口さんが痛々しい程に演じられていた。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    確かな力作でしたが、良くも悪くも気負いが乗っていた印象もありました。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    「原爆開発に翻弄された65年」

     畑澤聖悟が劇団昴のザ・サード・ステージ公演に書き下ろした2010年の作品を日澤雄介が演出した。Corich舞台芸術!プロデュース「名作リメイク」の第一作である。

    ネタバレBOX

     物語は1963年4月、アメリカのニューメキシコ州、ロスアラモス研究所の20周年記念式典の場面から始まる。この研究所で働いているブライアン・ウッド(山口馬木也)一家もとに、かつての同僚とその家族や友人たちが18年ぶりに集い思い出話や近況報告に花を咲かせている。その最中、名門UCLAに合格したブライアンの長男のウィリアム(池岡亮介)は、ケネディ大統領のテレビ演説に感銘を受けヴェトナム戦争に参加すべく海兵隊入りを志願し周囲を驚かせる。ブライアンの元同僚で海兵隊将校のグレッグ・シウバ(内田健介)はウィリアムを擁護するが、ブライアンの妻ジェシカ(川田希)は「絶対に嫌」と頑なだ。

     ときは1945年6月、トリニティ原爆実験を1ヶ月後に控えた研究所内に遡る。ブライアンやグレッグら若い所員たちは寮のシャワーを借りにきた看護師のジェシカらの来訪に色めき立っている。新型爆弾の開発の開発に従事していることをジェシカに問われたブライアンは思わず言葉を濁す。

     ここでまた時が進み1976年7月4日、建国200年の日に再びロスアラモスの元同僚たちらがブライアン一家のもとに集う。そこにブライアンの長女シェリル(川島海荷)が大学のピースクラブで知り合った広島の被爆二世タカハシ・ヨーイチ(小日向春平)を連れて現れ、皆の前で彼と結婚したいと突然述べる。戸惑う両親にシェリルは原爆開発に携わった過去を糾弾し、ブライアンに家から追い出されてしまう。

     こうして時間が進んだり戻ったりしながら、ブライアンが90歳になる2010年までウッド家と彼らを取り巻く人々の遍歴が、第二次対戦後にアメリカが関わったいくつかの戦争とともに描かれていく。彼らの人生には原爆開発に携わった過去が否応なしに暗い影を落としている。優秀な数学者のジョン・マッケラン(森下亮)は、開発に携わり続けることが心苦しくなり、研究所を去り高校教師になった。GMに就職したキース・ジョンソン(三原一太)は、臨界実験の失敗に立ち合ったために定期検診が欠かせない。そのキースに医師になったカール・コワルスキー(阿岐之将一)は、自身が犯した重大な罪を晩年になってようやく打ち明ける。65年に渡るこの物語には、反戦や反核への意思はもとより、ナショナリズムへの懐疑や科学者の倫理立場などさまざまなテーマが織り込まれている。

     本作は原発開発とアメリカの安全保障の歴史に取材した労作である。同時期に公開されたクリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』ではあまり描かれなかった下級の技術者たちの青春模様と後年の葛藤を観られことは収穫であった。奇しくも本作もまた『オッペンハイマー』と同様に物語の時間軸が単線的ではないが、テーマが一貫しているためすんなりと観届けることができた。

     しかしもともと劇団公演のために書き下ろされた作品ゆえか、登場人物が多岐にわたり役どころが分散されているため、細部まで把握するには困難がつきまとったことも事実である。くわえて作品に込められた主張が強いため図式的に感じるきらいもあった。終盤でシェリルの葬式のため来日したブライアンが被爆者たちに糾弾される場面は一方的であり、彼にもまた科学者として戦争責任を負い一家庭人としての苦悩していたであろうことは語られず、観ていて歯がゆい思いがした。

     このブライアンを演じた山口馬木也は20代から90代までをその都度ごとに柔軟に違和感なく演じ分ける達者ぶりで舌を巻いた。有能な科学者であり頼れる家庭人ではあるものの、重要な決定は他者に委ね口を噤み本心を語らない、この態度が後年に響くという悲哀を全身にまとっていた。他の俳優もそれぞれに見せ場があり、皆イキイキと作品の人物を生きていた。これは劇団公演のために書き下ろされた作品の是の側面と言えるだろう。

     やや込み入った作劇に対し演出は状況を丁寧に捉えていて大助かりだったが、ときに説明的すぎる感じた。戦争のPTSDゆえウィリアムが花火の音に怯える描写は照明と音響でわかりやすかったが、池岡亮介の芝居にのみ託すという選択があったのではないか。ジェシカがテレビ番組のインタビューでロスアラモス研究所の職員たちのその後を語る場面で背後に登場人物を出す演出もまた丁寧ではあるが、やや過剰ではないかとも感じた。くわえてヨーイチをはじめ日本人役の俳優に仮面をまとわせたのには、もともと戯曲の指定ではありアメリカ人の側からの視点を観客に共有させるための意図があったことはわかるが、食傷気味で居心地の悪さを感じたこともまた述べておきたい
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    原爆を賞賛したり、いろいろ心が波立たせられる芝居だった。原爆実験で、もしかしたら空気に連鎖反応を起こして世界が破滅するかもしれない、という議論が出てきた。映画「オッペンハイマー」でも、カギとなる疑いとして出てくる。それを相談しにオッペンハイマーはアインシュタインに会いに行き、その後の二人の関係の伏線になる。

    1944年から2009年までを、60年代、70年代、90年代と時を追いつつ、ロスアラモスで出会ったカップル、子供たち、友人たちの60年以上の人生を描く。

    ネタバレBOX

    ベトナム戦争に志願した息子は、車いす生活になって戻り、娘は日本人の被爆男性と結婚する。海兵隊将校の息子はイラク戦争で劣化ウラン弾をあびる。かなり欲張った芝居である。

    200×年に米国の核開発関係者が、広島で被爆者と会って絶対に謝らなかったことがあった。その話を知った作者が、原爆開発の戯曲化を思いついた。そうとは知らなかった。ただ、現実の謝らなかった科学者は「リメンバー・パール・ハーバー」とまで言ったそうだから、この芝居でいえば、海兵隊の将校になった男のような人物ではなかったのか。この芝居の主人公ならば謝ったのではないかと思った。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    とても良かった。
    時代がいったり来たりするのだが、演出が良いのはもちろんだが、役者の力量であろう、全く混乱することなく観ることができた。
    誰が悪いとか悪くないとかではなく、その時代で精一杯「良いこと」だと信念を持って生きて来た人たちの物語。
    素晴らしかった。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    納得の舞台。
    スマホで書いては消え、が続いたので嫌気がさして打っちゃっていたが、気を取り直して何がしか書いてみる。

    キャスティングに感心しつつ観た。名を知るのは川田希、森下亮、山口馬木也、阿岐之将一、水野小論、保坂エマ(顔がちゃんと判るのは最初の二三名だけ)という案配で、後方席だった事もあって役者の照合を断念(上の二三名以外)したら、役の人物による物語だけを浴びる感覚になった。

    畑澤聖悟による脚本は、原爆開発を行なった米国南端のロスアラモスの研究所が舞台。
    冒頭はある記念式典のため久々にかつての研究仲間たちが当地に集まり、旧交を温める場面。
    主人公となるホストファミリーの夫婦は共に当時の研究者であり、進路を探る年齢の子ども二人(兄妹)もいる。家族まじえた交流の時間、戦争当時を回顧し、現在の情勢への思いを語り合う中、息子が合格通知をもらった優秀な大学を蹴って、海兵隊に志願したいと宣言した事がドラマの起点となる。ベトナム戦争が始まり、大統領の呼びかけに答え、若者は応召して行った。

    時は移り、今度は娘が自分の交際相手を両親に紹介しに戻って来る。相手は日本人、しかも幼少時に被爆した広島の若者。反核キャンペーンの米国派遣団に選ばれ、渡米していた。娘は親が研究者であった事から核兵器に対する問題関心が芽生えていたのであり、必然的な出会いであったが、親は顔を曇らせる。娘はなぜ祝福できないのかと問い、その理不尽な思いから親の研究を難じる言葉を投げつけるに至り、絶縁状態となる。
    この時既に、息子はベトナム戦争で負傷兵として帰還し、車椅子姿である。
    他の元研究仲間には、罪意識を抱えて研究所を去り、一介の高校教師となって教え子と結ばれた者、郷土愛と愛国心に溢れ軍人の道を歩んだ者、二人を両極として、主役に当たるホストファミリーの家長と、あと二人がある(二人の人物的特徴は忘れた。一人は結婚し、一人は独身)。
    軍人のグレッグは冒頭のパーティに連れていた恋人と結ばれ、一粒種が育っていたが、息子も親の思いを受け止め、海兵隊になると言う。グレッグは誇らしげだ。

    戦争当時の回想も挟まれる。轟音と火柱を遠くに眺めた彼らが「これで(対日)戦争に勝てる!」と沸き立つ中、後に高校教師になるマッケランは「あれを町の上に、落とすのか」と愕然とする。
    ブライアンとジェシカが良い仲となり、会話を交わしている所へ、実験成功についての感想を聞きたく意気揚々と仲間がやって来る・・。回想場面はあくまでも明るい。

    時が経ち、老境にある彼らは既にイラク戦争後の世界にいる。マッケランは既に自殺によって亡くなっている。元教え子は夫人となっていたが、死ぬ前まで苦しんでいた夫の事を述懐する。
    グレッグの息子は出征したが、戦闘によってでなく、肺癌で死んだ。米軍が用いた劣化ウラン弾により被曝した兵士の多くが肺の病で亡くなったが、グレッグは味方がいるのにこんな兵器を使うとは軍人として信じがたいと憤り嘆く。だが核兵器使用を正義と主張し続けた男の言葉は、弱った男の周囲を虚しく巡る。

    最終場面、日本からブライアンの娘の夫が訪ねて来る。既に妻のジェシカは亡くなっている。だが、息子は彼のヘルパーをするベロニカへの前場面での反発を乗り越え、彼女の愛を(即ち、己の運命を宿命として)受け入れている。
    前の場面ではネイティブ・アメリカン出身であるベロニカが、居住地にあったウラン鉱の採掘に親族らが駆り出され、病に亡くなった体験を語り、右翼的発言を止めないグレッグを黙らせるシーンがある。
    ブライアンは婿であるタカハシから、シェリルが亡くなった報告を受け、最後の機会だと家族「三人」で広島を訪れる。
    シェリルが彼を親に紹介した時は白い仮面を彼はつけており、言葉は発しなかったが、この場面では仮面を取る。英語で台詞を発している表象でもあろうが、父と対面し目を合せて会話をしている風景として映じる。父は娘のことについて彼の言葉を通して聞くしかないのである。
    広島でブライアンは娘を弔った後、タカハシから紹介された娘の友人たちと対面する。彼らの言葉をタカハシが「●●はこう言っています」と取り次ぎ、父は娘の生きた足跡をこれを聴きながら噛み締めている。
    (タカハシ以外の日本人は皆やはり白い仮面を被っているが、以前観た青年座研究所での公演でも確かそうであったから戯曲の指定かと思う。と書いたその後、この戯曲が収録された畑澤聖悟戯曲集がこの4月に出版されていたのでご関心の向きは確認されたし。)
    そのやり取りの最後、ブライアンが携わった原爆開発の成果により、「何万人もの無辜の日本人」が亡くなった事についてどう思うかを問われる。そして「謝罪の言葉はありませんか」と、彼らが考え続け願い続けた事の一つの証しを、ブライアンから引き出そうとする。直截で痛い言葉が、会場に響きわたる。
    元よりこの質問は無辜の立場から、悪を為した側への一方的なそれとしては成立しない憾みがある。
    日本は民主主義ではなかったとは言えこぞってこの戦争にもろ手で賛同し熱狂した。遅れて来た植民地主義時代の文明国としての戦争の勝利に酔った。「無辜」ではなく罪多き戦争を遂行した側でもある。
    従って「戦争を止めるため」が正論として成立してしまう。ただし謀略を巡らし覇権を堅持するため手段を択ばぬ弱肉強食の帝国主義的あり方を脱し、別のステージを選んだのなら、その立場からアメリカに問いを発する事ができる。
    一方ブライアンは一研究者として、科学的真理を追究する営為に、善悪はない・・一貫してこの立場を譲らず、是非を語る事がなかった。しかし娘の生き方はあたかも親の罪を償うために捧げられたかのようで、ついに彼はその前に伏して詫びる。果して何が解決したのか、一抹の疑問が過ぎるような空気(ここはかなり主観的な受け止め方だろう)。その流れで、現われた孫娘と対面し、その頬へ手を伸ばそうとする手前、プツッとテープが切れる音と共に照明のカットアウト。終演であった。
    このラストの解釈と感想は様々あるだろう。
    日澤氏と畑澤氏との対談に「脚本に喧嘩を売る」的なくだりがあったとどこかで読んだが、この処理について言ったものだろうか。

    山口氏演じるブライアンは、前半は快活だ。研究者として成功し、愛する妻との間に子を設け、長男が有名大学に合格した、という一場。それが時を経るごとに寡黙になる。大学進学をやめて海兵隊を志願した息子が、負傷して帰還し車椅子に。親の原爆開発を指弾した娘を勘当同然にし、やがてジェシカを失い、息子が一人の女性と結ばれるのを見ながら、隠居後の生活を送る・・。最後に彼が何を思うのか、日本の地で謝罪を乞われて何を言うのか。作者はドラマの終着地にこれを持って来る。ここまでで既に脚本の勝利と言える。ブライアンがどうふるまうにしても、成立する。

    平均的な「父親」であった彼は最終的には、国家が行なった非人道的行為の責任について考える事より、家族へ心を傾ける事を最も大事にした、そのようにして己の人生を整理するという、平凡な市民の姿を見せた。
    栄えある研究を共にしたジェシカとの青春時代の「実」として子どもたちがある以上、研究を否定する事は許されなかった。
    だがジェシカを失い、彼女との人生の証でもある娘シェリルを認めない態度に固執する事もやはり彼にはできなかった、そのようにも見える。
    私は彼が「謝罪した」と記憶していた。が、実際には彼が答える前に、同行したロゼッタが自分の村で発見されたウラン採掘のため親族は死んだが、そのお陰で日本人が亡くなった事を申し訳なく思う、と彼女はそう言ったのだった。
    以下は「謝罪した」前提で書いた箇所なので、そこを削除し、また書き改める事とする(律儀である)。

    日本の歴史認識を巡る現状を踏まえて、これに触れるドラマを作る時、とりわけ原爆投下を扱う場合、何を強調するかは難しい問題。「未だ解消していない」問題は、「問題提起」を結末にできる。原爆投下の「罪」、そこに至る道を自ら開いた日本の大陸進出の「罪」、当時世界を席巻していた帝国主義・植民地主義の「罪」、その原動力として経済構造を塗り替えた資本主義、その淵源としての産業革命、果てはルネサンスに至るまで、罪の告発は議論の霧散を準備する。
    だから演劇は人を描く。生きる姿を刻印する。

    ネタバレBOX

    自分のやった加害は棚に上げて米国のやった事の被害だけを語る、いわば相互理解不可能性という現実を、この舞台は助長する意図はないだろうが、日本が絶対的被害者で相手が悪人と処理してしまう歴史観を多くが持っている時代でもある(全国的な歴史修正の活動が奏功した結果。これが日本の偽らざる現状である事は認めざるを得ない)。
    一方で親米感情がきわめて浸透している日本でもある。

    フィクションの中で一介の父親が謝罪を口にした所で、核兵器(の効力)を肯定し、その使用に対する反省もない現状。これを告発した終幕だろうと私は解釈したが、しかしアメリカに対する真の怒りが「無為な殺戮」に対するものであるなら、それは自国の過去のそれにも、イスラエルのそれにも向かわねばならない。
    原子爆弾という兵器の特殊性が加害性を高めるのではなく、古い兵器だろうと同等の人の数を殺せば意味的には同じだ。あまりの威力と無差別殺戮が必定の兵器に、マッケランが「唖然」とした感覚は、人間の正常な感性だと言えるが、「戦争」は殺戮を正当化する。
    日本兵が中国大陸で狂気のように人が殺せたのもそのような訓練が為されたから。広島で14万、長崎で約7万が亡くなった。外地での戦死(餓死者含め)と内地での攻撃全て含めて日本の死者130万。そして中国大陸での殺戮数は1000万規模と言われる(2000万近い数字が以前は出ていた)。ベトナムでは日本軍の食糧「現地調達主義」により100万規模の餓死が出たという調査もある。
    ガザやウクライナでは核兵器無しに数万規模の死者が生じ、積み上があればヒロシマ・ナガサキ規模にもなりかねない。もっと言えば、富の偏在を構造的にキープしている世界で病死者・餓死者を生み出し続けているのも、自然というより人間の罪だろう。
    「無差別に人を殺すこと」に怒りを覚える根底は、理由もなく身内が殺される事への想像力だ。そうであれば、その怒りは地球上のどの殺戮に対しても向けられるはずのもの。尊い命とそうでない命がある、という認識を自分に許している者は、自国(ゲルマン民族)優位の思想を突き詰めたナチスを批判する事はできない。社会科教師の演説になった。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    迫力のある舞台でした。観ることができて良かったと思います。

    ネタバレBOX

    演技が良かった:全体的に演技が良かったと思うが、山口馬木也さんの演技や発声が特に目を引いた。個人的には水野小論さんの既婚女性の年齢の演じ分けが印象的だった。
    小道具が印象的だった:焦げたテーブルクロスや倒れた椅子などの小道具を使用して、原爆投下前後のアメリカ市民の生活を再現する、ちぐはぐさにインパクトがあった。アメリカ人が主役の舞台で、途中から登場する日本人キャラクターが能面のような仮面を被って現れる演出も驚いた。
    脚本・キャラクターに感じたこと:観劇前に読んだパンフレットのコメントで、劇中の台詞をポジティブに発することに当初慣れなかったと言及していた役者さんが複数いた。実際に観て、“アメリカ人”以外の人々を、敵国人または文化的でない人種として、憎悪し侮蔑する台詞が露悪的に描写される場面がいくつかあり、聞いた瞬間に反発心を覚えた(ので、演技として成功していたと思う)。
    劇中の彼らを嫌な奴らだなと単純に思う気持ちと、私自身が似た発言や態度をすることがあると身につまされる気持ちを抱いた。
    ブライアンの振る舞いや身の処し方に一番共感してしまった気がする。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    外国人が登場する芝居は翻訳劇だという思い込みがあった。だがこの作品は日本人の脚本でアメリカ人を描き、それを日本人の役者が演じるという極めて珍しいパターンだ。さらに、作品に登場するのは原爆製造に関わった科学者たちとその家族。私などは原爆と聞けば広島、長崎の惨状がすぐ思い浮かぶだけで被害者の視点でしか見てこなかった。それを加害者であるアメリカ側の(それも原爆製造の当事者) 視点から描こうというのが画期的だ。これらは特筆すべき点だろう。日本人を悪し様に言うシーンなどはインパクトがあってすごく嫌な気分になった。

    役者陣には各々の役柄を深く掘り下げ、それを忠実に体現しようという姿勢が強く感じられ、重いテーマとも相まって舞台に独特の緊張感が漂っていた。観ているこちらも自然と居住まいを正し舞台に集中でき、ある意味とても心地よい緊張感だった。

    ネタバレBOX

    印象に残ったのは何といっても最終章である加害者側のブライアンと被害者側のタカハシが対峙するシーン。被爆地の惨状が語られた後の「謝罪はないのか」のタカハシの問いかけに口ごもり何も答えられなかったブライアン。その時彼の胸に去来していたものは何だったのか。そして孫娘のハルカとの初対面。彼女は身籠っている。なんとブライアンはゆっくりと彼女に近づきながらその腕を真っ直ぐにそのお腹に伸ばしている。
    何ということだろう。生まれ来る命には慈しみを持って迎えようとしているのに原爆の犠牲になったあまたの命については一顧だにしない。彼は先祖から繋いだ命を3代先まで繋ごうとしている。片や自らの命も全うできなかった人々のことを想わずににいられない。これが戦争という魔物が生み出した歪んだ「イノセンス」なのか。人間の持つ二面性を鮮やかに描き出している。

    最後、ブライアンがハルカのお腹に触れる寸前で暗転となり、銃声(?)のような音がしての幕切れ。彼に鉄槌が下されたのだろうか?。いずれにしても心に残るラストだった。

    この機会がなければ出会えなかったであろう作品。感謝です。今後のCoRich舞台芸術!プロデュースに期待します。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    2回目。
    観方を全く変えて観ると作家の意図が判り、かなり違って見えた。演出演技、細かい部分もかなりアレンジされていてラストの音も違う。話を知っているので人物の細かい目配せや表情の変化の意味が理解出来たことも大きい。
    これは原爆ではなく、夫婦の物語なのだろう。

    海軍の准将まで出世した内田健介氏の役が効いている。彼の叫びがあってこそ、こういう話は成立する。
    山口馬木也氏は老いの演技が素晴らしい。家族への涙が美しい。
    全員メイクをせずにそのままで老け演技をするのが効果的。

    ネタバレBOX

    主人公ブライアン(山口馬木也氏)は一目惚れのように初対面からジェシカ(川田希さん)に夢中だ。彼女以外目に入らない。どうせ死ぬなら独り寂しく消えるより、君といたいと願う。孤独で不条理な死と毎日向き合って作業している男にとって、一筋の光のような女。トリニティ実験は成功し、窒素原子核同士の核融合反応の熱核暴走は起きなかった。地球は無事だった。そして広島に投下が成功。これで戦争は終わる。皆の苦労は報われた。戦争が終わったら結婚しよう。

    この夫婦の物語として観ると、時間軸のシャッフルにも納得いった。男にとっては妻が全てだった。彼女こそ生きる意味。妻の死後、彼女が出た番組のビデオを一人観る。このシーンが堪らなく良い。照明が秀逸。

    ラスト、被爆者に謝罪を求められても何も言えない。何も言う言葉がない。だが娘の遺した孫娘が身籠っていることを知るとよろよろと立ち上がる。自分と妻の物語がまだ続いていることを知る。

    仮面を外した小日向春平氏により、原民喜の詩が朗読される。

    コレガ人間ナノデス
    原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
    肉体ガ恐ロシク膨脹シ
    男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル
    オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
    爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
    「助ケテ下サイ」
    ト カ細イ 静カナ言葉
    コレガ コレガ人間ナノデス
    人間ノ顔ナノデス
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    フォロイーさんの感想をみてやはりどうしても観劇せねば!と当日券チャレンジしました。見て良かった。
    重たいテーマを目を逸らさずに突きつけてくるテンポの良い構成、迫真の演技…言外に意味を渡してくる小道具…巧でございました…
    主なキャスト陣の年齢変化の表現がすごかったです!

    ネタバレBOX

    『立ち位置が変われば正義が牙を剥く』、さらに時代が変われば、同志からも牙を剥かれる…PTSDなど【戦争】が人間性を破壊することの表現、
    相手国の透明化の表現、見事でした

    日本人キャスト・制作で安易に謝らせなかったところも唸ったな…

    思考をやめてはいけないなあ…という学びがありました
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    拝見しました。本当に楽しい舞台で、終盤に涙しました!!いろいろと考えさせれました。すごくよかったです。是非たくさんの方に観てほしいです。

  • 実演鑑賞

    CoRich舞台芸術まつり!とCoRich舞台芸術アワードの覇者の中から、いずれもドラマ演劇を得意とする作家、演出家を選び出し、出会わせたCoRich舞台芸術プロデュースによる意欲作。
     
    科学者ブライアン・ウッドとその家族を軸に、ロスアラモスで原子爆弾の開発に関わった5人の青年たちのその後が、老年期まで、およそ65年にわたって描かれる。大プロジェクトにかかわることへの興奮や喜び、畏れを抱いた青春期から、ベトナム戦争、湾岸戦争を挟みながら変化していく時代、結婚や子供の独立などの出来事を経て、彼らの内心はどう揺さぶられたのか。やがて日本との関わりを持つようになったブライアンは——。
     
    5人の中には過去を明確に悔い、苦しむ者もいれば、愛国心、敵外心をさらに募らせる者も。若さが放つ奢りと輝き、年齢を重ねた上での迷いや弱さ、頑固さを体現する5人の俳優たちと、時代と家族の変遷をストレートに描くストーリー展開で集中力を途切れさせない充実した上演だったと思う。
     
    日本人が日本語で、原爆を投下した側であるアメリカ人たちの群像を描く「フェイク翻訳劇」としての狙いは、おそらく、その「イノセント」なあり方から、日本人の現在、来し方行く末をも振り返らせるところにあるだろう。廃墟のような装置、黒く煤けた小道具を用いて進行する劇の中で、当たり前のように口にされる日本人や敵国に対する差別、想像力の欠如した発言の数々は、なるほど刺激的だが、当時のアメリカ人、それもロス・アラモスにいた人間ならば当たり前の感覚であり、そのこと自体がさまざまな対立、紛争、戦争を時には見過ごしやり過ごしている多くの人間たちの存在を思い起こさせる。「謝れない」ブライアンの内心の葛藤もまた、時代の変化を知りながら過去をうまく消化できない人の姿だと思えば思い当たることも多い。





    ネタバレBOX

    途中、英語が通じない日本人(たち)に仮面を着け、無視される存在として見せたり、焼け野原にたびたび未来の子孫を思わせる少女を登場させたりと、わかりやすくビジュアライズされた演出も印象的な本作だが、率直にいえば、その強さ、わかりやすさが危ういと感じた面もある(ただし、戯曲は未読なので、どこまでが演出の範疇か明確にはわからない)。

    時代や与えられた環境の中で、その人なりに生きる中で身につけてしまった偏見、差別、無関心こそがイノセンスの表れならば、こうした仕掛けは、むしろ分断や敵愾心を刺激するようにも思えるし、被爆者の血を受け継いでいる胎児に手を伸ばす幕切れの処理の仕方も解釈を任せるというにはシニカルに寄ったもののように見えた。

    この「イノセント」は(もちろん反語だとして)誰にかかる言葉か。
    観客にインパクトを残す工夫の一方で、この問いにしつこく止まり、紐解く地道な取り組みも観てみたかった。


  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    NHK 映像の世紀 バタフライエフェクト「マンハッタン計画 オッペンハイマーの栄光と罪」のTV放送、映画「オッペンハイマー」が日本公開される今年に、熱演の重厚な作品を、観劇できて良かったです。

    ネタバレBOX

    原子爆弾開発に従事した人たちの、65年の物語。世代を超えて重大な影響を及ぼす、様々な出来事。日本人とアメリカ人の双方の立場を考えながら、最後まで緊張感を持って、観劇できました。
    21世紀になっても戦争は無くならず、未だに続いているのだと、辛い現実とともに色々考えさせられました。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    ただ気持ち良く見るというのは難しかったですが、その分考えさせられました。誰かにとっての正しさが誰かにとっての悪になったり、同じ結末を目指しているはずなのにそこへの向かい方の違いから傷ついたり傷つけたり、どうしようもなくて、見ていて苦しいところも多かったです。自分にとっての正しさや絶対的だと思っていた指針が少しずつ揺らいで不安定になっていき、信じていいのか分からなくなる、というのはどれだけ怖いだろうと思いました。
    役者さんの目や声から、たくさんのことを感じました。劇場で観られて本当に良かったです。
    個人的には美術がとても素敵で印象に残りました。劇場に入った瞬間から、どんな世界をみられるんだろうとワクワクしました。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    アメリカ・ニューメキシコ州ロスアラモスで原爆の開発や研究に従事した5人の男とその家族たち。
    かつて20代だった彼らが90代に突入するまでの65年の物語。若き日の男たちが作り上げた原爆はやがて広島・長崎に投下される。アメリカの視点から原爆と第二次世界大戦、さらにはベトナム戦争、イラン・イラク戦争による戦禍を描いた意欲作。

    8月と12月、私は年に2回平和記念公園に行く。私は広島出身ではないが、二人の子どもは被爆4世に当たる。子どもたちの中に流れる血を通じて私は亡き義父や義母に思いを馳せる。会うことの一度も叶わなかったそのまた先の父や母にも。例えば、彼や彼女たちが生きていたとして、この東京に暮らしていたとして、私はこの作品を薦めることができただろうか。(続く)

    ネタバレBOX

    それはとても難しいと思った。中立でいられるはずもない傷を負った、いや負っている人にはあまりに辛いセリフや描写が多かった。目を背けたい、耳を塞ぎたいとも思ったし、蔑称や暴言に怒りが湧く瞬間もあった。
    しかし、それはきっと日本人に限ったことではない。アメリカの視点から描かれるリアルが、紐解かれていく葛藤がそのことを伝えていた。私が日本人である限り、また、被爆4世の親である限り、本作を中立の立場で受け取ることは難しい。それでも、観られたことをよかったと思った。たとえ、感情移入することが、共感を抱くことが到底難しかったとしても、私が知っておくべき人生や感情がそこにはあった。
    CoRich舞台芸術!プロデュース【名作リメイク】の第一弾としてこんなにも感情移入しにくい作品が選ばれたこと、その意義について考えている。「同じであること」に手を取り合う喜びや、それがもたらす安心は確かに人を救うかもしれない。だがその一方で、その中の声しか聞こえなくなった時、すでに分断や差別は始まっているのだろうと思う。違いや差によって生じる、今もこの世界の其処彼処で起きている争いや戦いを考えるとき、同じ気持ちを寄せ合うだけでは到底解決できないことを痛感する。対岸の声を聞くこと、国籍や人種などの属性で個人を一括りにしないこと。それは、今の時代にとても必要なことであり、その小さな積み重ねがどこかの分断や差別の芽を摘むことに繋がると信じたい、という思いに駆られた。
    広島・長崎に投下した原爆を作った男と私の間に横たわる大きな溝を埋めることはできなかった。
    しかし、戦争の犠牲となった息子と平和活動に勤しむ娘を持つ親として彼を見つめた時、その輪郭が初めて縁取られていくような心持ちになった。
    戦争を今すぐに止める力を持たない人間一人ができること。それは、目の前の相手を一人の個人として見つめるということなのではないだろうかと思う。国家として憎み合うその前に。
    座って観ているだけでも心が削がれるような負荷のかかる言葉たち。最後にそれらを一身に背負い、2時間15分、アメリカの眼差しを生きた俳優陣に改めて拍手を送りたい。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    原爆が題材になってはいるものの、そこには様々な時代に地球のどこかで起きている戦争が重なる。ベトナムで、イラクで、911後のNYで、会った実際の方々の顔がよぎった。力強い脚本でした。日本人がアメリカ人を演じること、物語として成立させるものにすること……これはフィクションなのだということの、バランスをギリギリで責めているような力強さがありました。

    なにより企画として、再演の機会のなさへの課題は長年言われているので、それを思うプロデュースでした(今回【名作リメイク】と題)。企画したのはコロナ禍で、上演困難な小劇場を応援したいという思いや、昴や青年座研修所で上演されてきた戯曲を新劇ルーツではない方々が創作する面でも、CoRichプロデュースの意味があると思います。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    原爆投下したアメリカの開発者たちの開発成功から現在に至る軌跡を描いたユニークなドラマである。作者は青森の高校演劇リーダーの畑澤誠吾。演出はチョコレートケーキの日澤雄介である。ともにこういう素材はよく知っていてまとまりは良い。2時間15分。
    戯曲はほぼ十年前に劇団昴で公演したものを演出者、キャストも変えての再演である。今週見た「キラージョー」(よくできている脚本だ)も五年ほど前に俳小で上演したものを、演出者シライケイタが引き取って温泉ドラゴンで再演した。共にまずは成功だ。
    小劇場で惜しまれながら上演のママ放っておかれている戯曲は少なくない(それほど多くもないが)。今度の上演の主催はネットチケット販売のCorichである。面白いところに着眼した興行だが、ただただその後の成功を祈る。過去にも同じ企画に手を出した団体や劇団は少なくないがほとんどが失敗している。大きく見て企画は良いのだが作品選択が続かない、今回の満席の入りでで甘く見ないように、と釘をさした上で。
    こういう社会問題劇の戯曲を扱うのは難しい。ドラマであるから、彩りとしては「教訓劇」や「扇動劇」になりやすい。ともに昭和の新劇がこだわって失敗し、今も少なからずその尾を引きずっている分野である。観客の多くは見ていて閉口してきた。
    昭和が終わって、チョコレートケーキは幾つかの作品で同じ危うさを内包している素材を現代の観客が見る現代劇として観客に提供し新劇の轍を踏まず、成功させてきた。その演出家日澤雄介の演出。この作でも、チョコレートケーキの公演なら、見逃しておかない日本側の責任を棚上げしている(まぁ自虐趣味に落ちていないところはよしとしなければならないが)ところはもう一つ工夫の欲しいところだ。この素材は「教訓」にはなるが、この國ではこの話で「扇動」されやすい時代になっていることも忘れてはなるまい。扇動劇の側にいた木下順二が終始、作品からは扇動を排除し続けたところも、昭和の一面としてで忘れてはなるまい。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    アメリカ人の目線で語られていく原爆。私は向こうの学校に通ったことはないが、原爆投下について社会科で論述問題が出たら、グレッグの主張のように書けば正解とされると聞いたことがあるので、概ね世情を反映しているのだろうと思う。

    ネタバレBOX

    美術(小道具)が黒くて不気味だった。
    戦勝パレードも独立記念日も、愛国的な祝い席のご馳走は黒色。ラム酒だ、とグラスに注がれるのは黒い砂(注∶黒い米だったらしい)。果物皿から「美味しそう」と手に取ったのは黒いグレネード(手榴弾)で、ゾワッとした。
    アメリカ目線のストーリーとは裏腹に、この辺からは、暗に原爆投下に関与した彼らを責めている気がした。
    黒い砂を飲んでしまうくらいイノセントな人々?
    いや、本当に「罪の無い人たち」は、広島のキノコ雲の下にいた人たちのはず。
    戦争は双方の正義のぶつかり合いだが、誰も幸せにならない虚しさが残った。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2024/03/20 (水) 14:00

    タイトでチャレンジングな作品だが、役者陣の好演もあり、いい芝居に。観るべし!観るべし!!観るべし!!!138分。
     畑澤聖悟が2010年に劇団昴に書き下ろした戯曲を、日澤雄介が演出。サブタイトルにあるように、原爆開発に携わった男たちのその後の65年を描く。元々は、畑澤が観たドキュメンタリーのシーンを見せたいということで書いたそうだが、アメリカから見た原爆、ということで、時代的背景もあり日本人の役者にはツライだろうセリフが多く、役者陣の頑張りも目立つ。そもそも、このCorich舞台芸術のプロデュース公演ということで実現した舞台というのは、何だかいいなと思う。ビッグネームだけでなく、小劇場系で活躍する役者陣やオーディションで選ばれた役者など、演劇の底力みたいなのを観た気がする。畑澤の作品は完全に気に入ることはあまりないのだが、本作は(演出も含めて)感心した。観て欲しい。

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