私たち死んだものが目覚めたら 公演情報 私たち死んだものが目覚めたら」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.6
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  • ワビサビモエ
    死への欲望?消え去ってしまったふたり。

    自分たちにこびり付いたモノを洗い流してしまいたい、浄化されたい、という願望にも見え、たり。
    でもやっぱり消滅そのものを求めたのかな?消滅していくものの美に対する憧憬だったのかしらん。
    ワビサビみたいな。
    でも?だからこそ?『萌え』も欲しかったです。

  • 満足度★★★★

    静の中の熱
    噂には聞いていた団体。今回初見でした。

    すごく楽しかったと言えば嘘になる。
    しかし、自分たちの演劇観、演劇の在り方というようなことを模索し続けてるように思えたのでとても共感を持った。

    演劇の可能性はまだまだ広げられるのだろうか、これからもまだまだ見てみたい。

    物語はイプセンの最後の作品であんまり上演されたことがないらしい。
    一応原作は読んでいたのだが…

    ネタバレBOX

    まさかト書きまで全部やってくるとは思ってもみなかった。
    動きは抑え、言葉で立体感をだすようなスタイル。
    劇空間では日常的な動きを排除すると言っていた、鈴木忠志氏の芝居に近いものを感じた。

    ゆっくり動いたり、客席を向いたまま目も合わせず会話をする。

    まるで肉体が戯曲から逃げたいのだろうかと思わせられた。
    なにせ、いちいち舞台背景や、人物の動きをト書きで説明してくれるのだが、一切その背景も、動きも実現されていないのだから。

    このギャップが今回一番面白いところだった。

    視覚よりも聴覚を意識した芝居とでも言うべきなのだろうか。
    語りはとても劇的で、抑揚がありテンポも心地よい。感情も爆発する。
    しかし体は座ったまま、ほとんど動かない。

    舞台は戯曲をそのままのせるものではないと腹をくくりつつ、、しかし戯曲の言葉は劇を成り立たせる上で一番大切なものであると投げかけられた感じがした。

  • 満足度★★★★

    耳に心地よい
    台詞のテンポが良く、独特の言い回しが良いリズムを生んでいた。
    目を閉じていても情景が浮かんできそうな【語り】だった。

    物語自体は動きがない、始まりからすでに終わっているような印象を受けた。

  • 満足度★★

    ふーむ
    なんだか難しいような


    でもすごく伝えたいことがストレートに
    伝わってきたというか


    うーん

    でも私にはまだ早かったのかも

    次も見に行こう

  • 誘眠演劇
    ぴーんと緊張感はりつめる舞台空間。
    ときおりの大声台詞ではっと目がさめるものの、暗い空間のなかでの動きの少ない芝居から放出する催眠ガスは強烈なものでした。
    僕にはあわなかった。

  • 満足度★★★★

    シンプルな装置が生きる
    シンプルな装置なのに
    登場人物たちが
    風景のなかにとてもくっきりと見えるお芝居でした。

    その風景を作るト書き的な部分の
    鮮やかさに耳を奪われました。

    ネタバレBOX

    役者たちがれぞれに醸し出すものは
    それほど大きくない劇場を満たすのには十分すぎるほど。

    しっかりと作られた装置では
    きっと役者の作りだしたものが
    広がる場を失い
    逆に減じられてしまうのでしょうね・・・。

    凛と語り伝えられるノルウェーの海辺の風景が
    役者たちのお芝居と抜群のバランスで
    観る側の心に展開していきます。

    主人公の心情は
    人生をそのまま載せたように重くも感じるのですが
    それが風景のイメージと重なると
    観る側がきちんと受け取れてしまう。

    個々の想いが
    風景の中で
    輪郭を明らかにして広がっていくような感じ。

    芸術家の悔恨や希望、
    女性たちの想いは深く複雑なのにピュア。
    それぞれにたっぷりと味わうことができました。



  • 満足度★★

    鍵の掛かった小箱
    彫刻家の人生の後悔、贖罪、生への渇望。翻弄される女。生きるための鍵は何処に。

    ネタバレBOX

    観客が原作本を手にして、開演と共に1ページ、1ページ読み進めて行くような感じで観ていました。
    ラスト、尼僧看護人の一言が解らず気になります。

    チケプレで観ました。ありがとうございました。
  • 役者たちのときに「彫刻的」ともいえる佇まいが、
    物語と重なりあって美しい。

    ただ、
    戯曲的には彫刻家ルーベックは「山岡士朗の目に映る非道な海原雄山」みたいな存在だと思うのだけど、
    演出家と役者によって立ち上げられたものは、真摯で孤高の芸術家。
    その図式、ちょっと女子は憤っていいかも(笑)。
    あと、初日だったからか、わりとドンシャリの効いた演出に感じたのは残念。

  • 満足度★★★★★

    張りつめた中の美しさ
    絵になる「美しさ」もあるが、隅々まで神経を張り巡らし、研ぎすまされたような美しさが舞台で繰り広げられていた。

    それとは対照的に芯に「力強さ」もある舞台でもあった。

    美しさと力強さの前にあって、ただ集中して観ている私があった。

    ネタバレBOX

    最初に全登場人物が舞台に現れる。その姿、フォーメーションとも言える位置関係、構図にため息が出た。
    たぶんどの席から観ても美しいものだったのだろう。
    そして、その位置が彼らのいる位置(付け)・場所を示しているように感じた。

    物語が進行するに従って、登場人物の位置が微妙に動く様は、その時々の彼らの位置づけであり、意味であるように見える。

    当然、主人公の彫刻家ルーベックは終始ほぼ中央に位置し、彼を巡る女性たち、彼の夫人は前から、昔モデルをしていたイレーネは後方より、現れて去る。

    その動きも美しい。

    黒子役になった保養所監督の、舞台上の空気を壊さない移動や、顔のまったく見えない尼僧看護人の手の動き、角度まできちんと計算され、見事に決まっている。たぶん呼吸の1つひとつまでコントロールしないと、この表現はできないのではないかと思った。

    もちろん、ルーベック夫人とイレーネの動きや向き、位置などの決め方も美しい。
    また、ルーベック夫人は疲れた美しさ、イレーネは強く強靭な美しさを見せていた(まるで生者と死者が逆になったよう)。死者と生者を見事に示す2人の衣装の配色(血の色と死の色)もとても良い。
    そして、ルーベックの目はラスト近くまで虚ろに見えた。

    イレーネの強く強靭な姿は、療養中であるのだが、彼女の中には、まだ強靭な想いが秘められているのと同時に、ルーベックの、彼女に対する感情の反映だったのではないだろうか。

    モデル時代のイレーネの、ルーベックに対する想いは薄々感じていたものの、当時の彼にとっては、創造こそがすべてであり、イレーネの気持ちは踏みにじっていた、という「後ろめたさ」があり、それが、突然現れたイレーネに対して「怖さ」とも言える感情が呼び起こされ、彼女の強さとなって感じてしまったのではないかと思うのだ。
    つまり、ルーベックが見ているイレーネ姿を、我々も見ているという感覚だ。

    イレーネは、ルーベックが彫刻にかける想いは、自分への愛だと思って献身的に尽くしたのに。そこに、彼女の勘違いがあったのだろう。

    クリエイターが創造にかける情熱の凄さは、周囲を巻き込まざるを得ないほどのものであろうことは想像に難くない。イレーネは、ルーベックのそれに巻き込まれてしまったのだろう。
    そして、彫刻が完成し、後に残ったのは、報われないイレーネの抜け殻。そして、彼のもとを去ることになる。しかし、「私たちの子ども」とルーベックの作品を呼ぶように、まだ未練だけは抜け切っていない。

    ルーベックも、当時は、創造に対する自分の想いと、モデルに対するの想い(美への想い)と、それへの愛情が区別できる状態ではなかった。
    しかし、創造への熱意が失われたときに、最高潮にあった当時の自分を思い出し、それがすべてイレーネから発せられたものだと思い込むのだ。というより、そう信じたいのだろう。

    自分の創造の源が枯れてしまったのではなく、それは小箱の中にまだあり、また開けることができると信じることで自分の存在が正当化されていく。

    その小箱のキーは、まさにイレーネである。
    そして彼女は、再び自分の前に現れた。

    かつてルーベックとイレーネは、互いに互いを必要としていた。ルーベックはイレーネを素晴らしいモデルとして、イレーネはルーベックを愛の対象として(ルーベックの情熱を取り違えてしまって)。しかし、互いの「愛」のベクトルは一致していなかった。
    そして、今回の出会いも、互いを必要として強く結びつきたいと思っているのだが、やはりそれぞれの「想い(愛)」の対象は一致していない。ただ、一点、「あの頃に戻れるのではないか」ということだけは一致していて。

    「芸術家」という言葉に縛られてしまった男、「愛」という幻に縛られてしまった女、ともに過去にとらわれてしまっていて、今を生きていない=死んでいるのも同然であった。
    再び出会ったことで、死から目覚めることができると信じていた。

    しかし、そんな昔に戻れるはずもなく、2人の想いは永遠に同じ方向に交わることはない。
    したがって、2人を待つのは悲劇のみだった。

    イレーネの影は、黒い衣装の尼僧看護人だが、実は彼女の良心・常識であり、ルーベックとのつながりを拒むものであった。
    生きる者の猥雑さと強さは猟師が発散していた。もはや生きていないルーベックとイレーネにはない要素であることが浮かび上がる。

    ときおり、聞こえる音楽もとてもよかったし、やはり、役者の佇まいも最高だったと思う。

    台詞も美しく、古典的な太い幹を感じる戯曲だと思った。
    そして、わずか80分なのに、たっぷり感があり、とても幸福な気持ちで小竹向原を後にした。
  • 生と死の曖昧な境界線で
    言葉を記号として認識させるミニマルな情景描写と張りつめた沈黙によって紡がれていく信頼は言葉を追い越して感情をやわらかに愛撫する。

    ネタバレBOX

    ルーベックは彫刻家で確固たる名声は彼を苦しめたが、名声は彼を生かしもした。
    中身がカラッポの他人によく似せた彫刻(フェイク)を作る、自分はニセモノなんだとあざ笑い、絶望しながら自分の存在をなくすことでやり過ごす空虚な日々を送る彼にとって、若い妻マイアは不要な存在で突然現れた、彼に名声を与える彫刻のモデルとなった女、イレーネこそが本当の人生を生きるためのたったひとつの希望だった。だが、出会って間もなく彼女は残酷な言葉をルーべックに叩きつける。

    魂をあなたに差し出したから私はもう生きられなくなったのよ。
    あなたは私のすべてを世界の人々に曝した・・・。

    ルーべックは自分のなかに横たわる大きな虚無感を、イレーネはすべてを捧げた見返りを期待しているそれは奪い合い、与えあうものがなくなった瞬間に消滅する関係性でしかなく、劇的な再会という運命のいたずらに翻弄され、死神に導かれ、霧がかる深い森の頂きへと足を進めていき・・・。

    そして彼は気が付く。
    自分の命を放り投げればイレーネは救われ、報われるのではないか?
    ルーべックにとって死は、破滅や憧れではなくてイレーネの願いを叶えるための手段であった。もしかしたらそれをひとは、愛と呼ぶのかもしれないが、最後のあのすべてから解き放たれた、けれど不安そうなルーべックの顔はほんとうにこれでよかったのだろうか。と彼自身、永遠に問い続ける命題からは逃れられないように思えた。



    イプセンの死から100年以上経っても尚、何のために生きるのか?
    という問題の、明確な答えは出ていない。
    欲望に正直に生きることもいいだろう。
    人間に対する、根源的な憎悪を抱き、疑い深く生きるのも、いいだろう。
    ・・・ひょっとすると自己犠牲のみでしか人は、生きることへの不安を拭うことはできないのかもしれない。なんて、漠然とした想いを胸に抱えながら今晩は眠りにつこう。

  • 満足度★★★★

    語りの戯曲
    前作であるイプセン作「Little Eyolf―ちいさなエイヨルフ―」は昨年、名古屋市民芸術祭の審査員特別賞を受賞し、主演の川渕優子は利賀演劇人コンクールで最優秀演劇人賞を射止めた経緯を知り、今回の舞台はワタクシにとって、ひじょうに興味深いものとなった。


    以下はネタばれBOXにて。。

    ネタバレBOX

    今回の芝居はきっと劇評が割れる!そんな予感を残した舞台だった。

    この戯曲を芝居にするということ・・、それはひじょうに難しいことであり、チャレンジだったはずだ。舞台の殆どが「語り」のみ。解説と語りから舞台全体のエネルギーを発散させるような演技手法だった。この手の手法が苦手という観客には受け入れられないだろうし、ストレートプレイの醍醐味と受け取れた観客には魅了されたはずだ。

    ルーベックは自分よりもずっと年下の女マイアと結婚しても尚、今でもイレーヌを愛していた。彼にとってイレーヌは高貴な清純な存在であり特別だった。
    イレーヌを想像の源として崇拝していたからこそ彼は俗世界のように彼女を現実の女としてみられなかったのかもしれない。自分の魂が汚れてしまう、という理由で。
    一方でイレーヌは裸の体をさらし続けているのにも関わらず自分の体に触れようともしないルーべックに希望を失い落胆してしまう。そして彼の元を去ってしまうが、ある日、偶然にも彼らと会ってしまう。

    マイアのルーべックに対する心の襞。忘れようとしても尚、忘れられないルーべックのイレーヌに対する想い。ルーべックに仕える為に全てを捨ててしまったイレーヌのルーべックに対する感情。これらを見事に表現した舞台だったと思う。役者の技量もさることながら、マイアの赤とイレーヌの白という対照的なドレスのカラー演出も良かった。
    一見して、清純そうな白・イレーヌには内に秘めた凛とした強さがあり、何者にもぶれない一貫した強さがあった。対照的に赤には、情熱的でエネルギッシュな感覚があったが、ここでのマイアは情熱的だけれどモロくもありそれなりの弱さもあって女性として魅力的だった。そんな情景を織り交ぜながらも、舞台はウルフハイム(山田宏平)とマイアの語りの部分でも魅せる。山田宏平がいい。ひじょうにいい!

    イプセンがこの作品に「エピローグ(終幕)」という副題を書いたのは、『人形の家』から始まった一連の戯曲が、『私たち死んだものが目覚めたら』で終幕としての役割を果たしているから物語は一貫しているらしいが、この一貫という部分が解らない。

    イレーヌのセリフ、「そういえば、私たち一度も生きた事がなかったのに気が付いたわ。」が印象的!


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