舞台芸術まつり!2026春

キルハトッテ

キルハトッテ(東京都)

作品タイトル「ガラパゴス

平均合計点:23.2
丘田ミイ子
河野桃子
曽根千智
深沢祐一
松岡大貴

丘田ミイ子

満足度★★★★

「中絶手術を終えた主人公・サチコの下半身がイグアナに変身しているところから始まる」というあらすじからも「女性の身体における意思決定がどう紐解かれていくのか」に期待を寄せて観劇に向かいました。

ネタバレBOX

「変身」というものは、カフカの同名小説しかり、様々なカンパニーや作家によって創作の題材とされているものですが、本作における「変身」は、そこに「意思」を伴うか否かということが常にセットで描かれているように感じました。もう少し踏み込んで言うと、セックスに始まり、妊娠、出産、そして中絶といった極めて私的で守られるべきはずの女性の意思決定が、公的な規範を揺るがすような論調で軽んじられることについて明確に「怒り」と「抵抗」を示していると感じました。そして、私はそのことに強い共感と好感を寄せました。

サチコだけでなく、サチコの姉で家族のケアを余儀なくされているアキコや、男性社会の中でその医師(であり意思)に従わねばならない看護師のナスノ、シングルマザーのウオズミと社会で消費される様々な女性の姿に対し、私は等しく共感を寄せながら物語を追っていたように思います。 前作ではあらゆる物語の中で希求され、消費される少女性に対する抵抗を感じましたが、本作ではその先に待ち受ける抑圧や消費にスポットが当てられていて、カンパニーや劇作家の「これを描かずして」という一貫した覚悟を感じる観劇でした。

女性たちが車に相乗りをしてドライブする束の間の解放。そのシーンでJUDY AND MARY『Over Drive』が流れ、「夜に堕ちたら夢においで 宝物を見つけられるよ 信じてるの」の歌詞が重なった瞬間は思わず涙が溢れてしまいました。一方で、冷静になって振り返ると、パートナーであるユキオがサチコの車に轢かれてあっけなく死んでしまう展開や男性医師であるイシダのやや記号的な配置などを含めてどうしても男女の二項対立の構図になってしまう節もあり、もう少し希望を見出したいという思いもありました。

しかしながら身体の構造的にも侵入される側であり、妊娠、出産、そして中絶を経験し得る身体を持ちながら生きていく中で、私個人はどうしても女性たちの怒りに肩入れしてしまう部分もあり、男性の死や記号化を軽んじている自分にも気付かされました。20代の若手劇団にとって本作が果敢な挑戦であることは言うまでもありません。それを全力で讃えつつ、今後の発展に期待を寄せたいと思います。

河野桃子

満足度★★★★

「イグアナ」はこれまで女性のさまざまな象徴として創作物に登場してきましたが、今回は、中絶手術をおこなったサチコ(吉沢菜央)の身体がイグアナになるところから始まります。ほかの生物に変身する設定や、どこかしらが過剰な登場人物たちにより、女性の仕事や出産や生活についての壁や葛藤が語られます。

ネタバレBOX

この社会で、女性はどう生きるか。どう働くのか、子どもを産むのか、そのタイミング、そもそも自分で選び取っていくのかさえ、人それぞれの人生と背景があります。それらは生まれ育った環境と経験によっても価値観が異なるものです。おそらく客席にいる人たちの考え方はバラバラで、だからこそサチコを中心にあれよあれよと進んでいく展開は抽象度が高く、人によって作品の解釈に大きな相違はなくとも、感想や意見などの受け取り方が異なるシーンが多いだろうと想像しました。

題材やその描き方は深く鋭い一方で、もっと力強い方向づけがあってもいいかもしれないなと感じました。けれどもひとつの作品ではなく劇団公演だとして考えると、観客がともに悩める上演だと肯定的に感じ受け取りました。「作り手の疑問」からはじまり、戯曲を書くことで悩み、演劇を創ることで考えるなら、観客はただ作品の受け手ではなく、同じ時代をともに歩む、演劇を媒介にした同志たりえます。
ただその場合は、身近な体感だけでなくもっと現代の社会的なことがらを組み込むと作品としての強度は増すかなと思いました(たとえば中絶薬の話題を出すなど)。

また4名の女性たちがそれぞれ抱える苦しさが描かれる一方、男性はどこか現実離れしており、1役ずつに多くのものを背負わされています。女性が女性というだけでさらされる苦難はデフォルメされつつも切実でしたが、そこに該当しない存在として、奥山樹生さんと村田天翔さんが作品におけるバランスをよく背負ったなと思いました。

それでも、軽やかに覚悟を感じる演劇でした。
奇抜な展開を受け入れさせる筆力・俳優の佇まいはともに、安定した場をつくれる劇団としてのさらなるポテンシャルを感じました。全体を通してコミカルなまま、疾走感を持ってラストシーンへと向かっていきます。最後の台詞は、夏の日に人々が騒ぎ去ったあとの荒涼としたグラウンドに水が落とされたような、渇きに染み込む心地よさでした。たとえその水がすぐに乾いたとしても、一瞬でも潤った安堵は生きる力になります。この次、さらにその先を、期待をもって追いたくなる劇団です。

曽根千智

満足度★★★★★

「私のからだは私のもの」という自己決定の矜持と脆さ

ネタバレBOX

中絶手術をめぐる罪の意識の行く末について描いた本作。「私のからだは私のもの」である。が、同時に「私のからだをあなたのからだであるように考えてほしい」もまた境界線の引き方のスペクトラムのひとつとして厳然としてある。自己の身体に対する自己決定の話と、信頼する他者は自分と同化してほしいという共依存への欲望の区分線は極めて複雑な様相を呈しており、なのに多くの人間はその複雑さを実際よりも簡単に考えているように思う。
本作は山本さんと吉沢さんが参考文献のレジュメを稽古場で共有し、そこから稽古を立ち上げたとのことだが、重厚なテーマをここまで軽やかに笑いを排除せずに上演に結びつけた柔軟性は、チーム全体での丁寧なストレッチの時間あってこそだと感じられた。一方で、劇中の男性の扱いが唐突に車に轢かれて死ぬなどあまりにカジュアルで、それが笑いに落とし込まれていたことも踏まえて、男女の二項対立構造から逃れられていないと感じる場面も多く、フェミニズムを扱う手つきとして、活動としてはよかったと評価できる一方、作品の奥行きという点では焦点のバラつきを抑え込もうとした結果、構造上容易な方に圧力を逃さざるを得なかった感が否めない。アートでフェミニズムをやろうとしたとき、どうやって表現しても構造上避けられない穴ができ、そこを突かれるのが難儀である(からこそ上演後の対話の設計も気になる)。それでも「絶対に視点を書き切る」という気骨溢れた上演台本であり、これからさらに先鋭化した作品を生み出さんとする頼もしさを感じた。

深沢祐一

満足度★★★★

 「ヒリヒリする笑いで身体の尊さを問う」

ネタバレBOX

 婦人科のリカバリールームで目覚めたサチコ(吉沢菜央)は、看護師のナスノ(冨岡英香)に体調を気遣われるものの、これからバイト先の社員採用面接で着用するスーツを買いにいくのだと言って聞かない。戸惑うナスノに菓子の箱詰めを渡そうとベッドを出たサチコは、足が緑に変わり尻尾が生えていることに驚愕する。担当医のイシダ(村田天翔)は、サチコの下半身はイグアナになってしまったため、当面の間入院し精密検査を受けろと諭すのだった。

 まもなくサチコのパートナーのユキオ(奥山樹生)が見舞いにやってくる。旅行代理店勤務のユキオは、出張のためサチコの入院に立ち合えなかったことを詫びるのだが、二人の会話から、どうやらサチコは堕胎手術を受けたことがじょじょに詳らかになってくる。やがて静岡からやってきたサチコの姉アキコ(尾鷲翔子)が甲斐甲斐しく世話を焼くなか、イシダはサチコを島の病院に移すと決めたと告げる。怯えるサチコに考える暇は与えられず、あっという間に転院を迎えた日にアキコの運転で港へ向かうサチコ一行だったが、アキコはナスノの制止を振り切り一路逃亡を企ててしまい……

 奇抜なアイデアと周到なセリフによって女性の身辺に起きた重大事をコミカルに描く本作は、男性優位社会における女性の生きづらさを鋭く突くヒリヒリした観応えである。サチコは言わずもがなだが、男性医師の言われるがまま他者に合わせることで生きてきたナスノや、妹が実家を飛び出て以来母との関係に悩んできたアキコの爆発、シングルマザーとして生きているサチコのバイト先の同僚ウオズミ(中嶋千歩)の苦悩など、さまざまな背景の女性たちの声を、サラッと重層的に描き出している。管理社会の象徴のようなイシダの自主性のなさや、パートナーの見舞い先でナスノのプライベートを詮索し、幽霊になってもなおサチコを脅かすユキオを観ていて身につまされる思いにもなった。

 通りを行き交う人々がなかを見る一面ガラス張りの水性の空間をうまく使い、サチコや女性たちの心情を可視化していた点も評価が高い。ナスノやアキコが強引にピルやみかんをサチコの口に含ませ、眠りにつくところで簡易な照明変化やBGMを流すあたりの抑揚の付け方もうまい。狭い空間を病室や車内、焼肉店などに見立ててスムースに展開することにも成功していた。ジュディ・アンド・マリーや浜崎あゆみなどのヒット曲を巧みに使い、特に後半の女性だけの道中を描いたくだりに作者の眼目があったように思う。ただし病院内の場面が続く前半と逃亡劇の後半のつなげ方がやや牽強付会に感じた。

松岡大貴

満足度★★★

自らを変容したのは、誰か

ネタバレBOX

術後の病室で目覚め、下半身がイグアナへと変貌する奇妙な現象に見舞われたサチコ。その荒唐無稽な事態を起点に、中絶という現実の痛みや、追い詰められていく女性たちの連帯と逃亡の軌跡が描かれます。突飛な設定でありながら、女性が抑圧された社会構造が孕む不穏さや、個人(女性)の尊厳をめぐる切実さを想起させる作品。

多数の登場人物、多数の場面が出てくるが群像劇ではないだろう。詰まるところ「なぜサチコの下半身はイグアナになったのか」ということが問いなのだと思う。それは超常現象なのか、あるいはサチコの内面の表象か。内面とは、罪悪感か、達成感か、嫌悪感か、爽快感か、あるいはそのどれもか。そもそもサチコの内面は、彼女自身のものなのか。それは社会規範か、倫理か、道徳か。ルールではないだろう。ルールに反するのなら、罰せられるはずだ。何かに反して、罰せられない時に、人は自ら変容するのだろうか。たとえそれが、罰せられる必要のないことであったとしても。

人は、自ら何を内面化するかも、選ばなければならないのかもしれない。それを自覚した時に。
人が自らの身体について自らの意思を持って決める権利を、疑うことなどない。けれど、その内面にはもっと複雑な、自己が自己に問う葛藤が存在するのだろう。

自らの下半身がイグアナとなる者がいるとすれば、きっとそれは自らでなくてはならないのだ。

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