ぼくらが非情の大河をくだる時 公演情報 オフィスリコプロダクション株式会社「ぼくらが非情の大河をくだる時」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

     今作を舞台として拝見するのは初めてだが、脚本は数十年前に読んでおり、その時受けた印象と隔世の感がある。(追記2021.9.13)

    ネタバレBOX

    これが第1印象だ。清水作品を良く読んでいたのは学生運動が盛んな時代であり、今作のトーンにもその雰囲気が分からなければ何故、そこにそのような台詞が出て来るのか? その繋がりが見え難いことがあろう、自分が隔世の感を抱くのも当にこの事情からである。何れにせよ、近代国家の前提となるのは、国家による暴力装置の基本的占有であり、その合法的使用である。そのような強固な支配機構に対し、毛沢東の「革命は銃口から生まれる」発言を真に受け実際の戦闘が如何なるものかについては殆どド素人の学生が立ち上がって‟革命“を叫ぶこと自体、余りにも幼稚で無理がある。少なくとも様々な重火器に精通し、最低限安価で効果的而も使い勝手の良い爆弾製造を自ら為し得るだけの技術を持ち、敵情の把握にスパイを送り込み、敵組織中枢を攪乱できるだけのインテリジェンスを組織運営でき、情報操作や実働部隊管理、民衆対策をキチンと行使出来る所迄行かないと革命等遠い夢に終わるは必定。今作はこのような前提を一切欠き而も革命為すべしとの思い込みのみ強い必敗必至の状況を居直りとデュアリズムによって乗り越えようとした愚かな試みの記録と見ることができよう。そもそも20世紀の独立運動や革命は弁証法的思考によって裏打ちされてきた。今作で詩人(理論家)の主張は基本的にデュアリズムの域を出て居ない。一見、ラディカルなその物言いは、決意一般を語るのみの空しい表象に過ぎない。それでも彼が真の狂気に陥るのは、終盤に差し掛かる辺りからである。M.フーコーによれば”狂気とは純粋な錯誤である”が弟は、何とか衆愚に紛れ込もうと努力してきた。然し彼の偏狭でエキセントリックな論理は衆愚に認められることは無い。衆愚の衆愚たる所以は、異質性を嫌い同化することによって総ての擬態に自らの精神を合わせることにある。一方、弟は自らを特別な存在と自己規定することに逸り真にアイデンティファイすることも甘えを自ら排除することもなく、デュアリズムを用いて世界に対抗しようとする。ところで論理というものの唯一の展開は、オーダーを決めてしまえば先鋭化することでしか無い。上記の複合的状況が彼を苛み追い詰めてしまった。後は孤立の深い陥穽に只管落ち行くのみである。この時点で薔薇の花びらが撒かれるのは無論葬送の意味を持つ。即ち詩人を語る弟の真の姿・愚か者の深層も暴かれたのである。この状況をもっと分かり易い言葉で記せば、日本の鵺社会に剥き身の貝のような裸形でどっぷり浸かりつつ、正鵠を得る方法もなしに彼の目に映じた世界を解明しようと蟷螂之斧を振りかざしたものの、その未熟で現実分析に乏しい論理もまた鵺の海に漂う泡沫の憂き目を見たということである。その狂おしい苦悩のうちに、憧れであり唯一の盾であったボクサーの兄を殴り倒してしまったことを契機として大衆の悍ましい裸形を一瞬見てしまったことは、第三者性の容赦ない楔を彼の精神に打ち込み、その結果が発狂であろう。
     蛇足ながら、薔薇のテーゼが出て来るので、少し薔薇についても論じておこう。薔薇は数多くの花言葉を持ち、品種によっても本数によっても花言葉の内容が異なる。一般的に棘は罪を表し、赤い薔薇は愛を表すが時には葬送にも用いられる。何れにせよ換骨奪胎が激しいので破瓜やBLでのネコの初体験等を意味してもおかしくない。物語が展開するのはデザインされた壁の隙間から、雑草の蔓が便所内に迄延びた壊れかけた公衆便所のある一角である。どこの盛り場でもこのような公衆便所には同性愛者が屯していた。
     さて、弟を死に至らしめた後、兄は遺体を担いで新たな旅立ちをしようとするのであるが、このシーンでは、詩の好きな清水が思い浮かべていたであろう、有名なRimbaudの“Lettre du voyant”及び“Bateau ivre”を想起すべきであろう。興味のある方は当たってみると良い。前者は“見者の手紙”後者は“酔いどれ船”という日本語に訳されている。
     最後に息子たちから虚仮にされる父の姿、台詞に最もリアルな現実が描かれている点にも注意を喚起しておきたい。

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    2021/09/11 15:23

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  • 皆さま
    ハンダラです。遅くなりましたが追記しておきました。
    ご笑覧下さい。

    2021/09/13 21:19

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