厳冬 ―父殺し篇―、厳冬 ―子殺し篇― 公演情報 鬼の居ぬ間に「厳冬 ―父殺し篇―、厳冬 ―子殺し篇―」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    厳冬「子殺し篇」
     ハンセン氏病に対する差別と官僚共の民衆蔑視による幾重もの鵺社会に於ける差別を被差別者の生活を通して描いた作品。

    ネタバレBOX

     この劇団のカラーは日本社会の弱者をどちらかというと受け身で捉える点で特色を発揮するのだが、受け身でありながら追い詰められると、極端で爆発的・盲目的攻撃性を発揮するのが、鵺社会で受け身の立場に置かれた主体であろう。だが、勘違いしてはいけない。それは、矢張り鵺的手法によって、一つ一つ着実に潰されてゆくのが現実であることは、今作でも電気会社が、滞納を理由に電気を止める訳だし、社会保障を受ける為には、娘が施設へ戻ることが前提となる。そして戻された施設では懲罰坊に入れられ1年でもそれ以上でも、糞尿垂れ流しの生活を余儀なくされるばかりではなく、医学研究のモルモットとして生かされるのが落ちである。今作でも、次女で施設から逃げ出した癩患者の繭子を演じた吉田 多希の科白には、撃たれる物が多いのは、こういう状況があってのことである。同時に、父役の大塚 尚吾や隣人の妙の科白も、当時の差別の何たるかを反映して痛い! 繭子が既に嫁いでいる姉、蝶子に発症後持つコンプレックス(複合意識)の表現も良い。罹患者の名が繭に関連し姉が蝶であるのは無論意味がある。
    ところでこれは、燐光群が「お召列車」でやってしまったので使わなかったのかもしれないが、癩が、どの部分に一番最初にその病の特徴を表すかについての科白もできれば入れて欲しかった。この病を患った者は、山間の道も一般の者の通る道を歩かなかった。癩患者専用の道があったことは、宮本 常一の「忘れられた日本人」にも出てくる。聖書のヨブ記は癩の話だし洋の東西を問わず業病として恐れられた病であるだけに、問題化されたケースも多い。豊田監督による「小島の春」という大傑作も癩に対する差別を批判的に描いた映画である。
     このように芸術家が、反差別という描き方をしているのに対し、日本の糞官僚共は相変わらず下司としての発想しかできない。この故に彼らは下司なのであるが。彼らがどれほどの下司であるのかちょっと具体例を挙げておこう。1943年ファジェイ博士は「プロミン」の有効性を確認した。1950年代以降、プロミン後継薬ダプソンが世界中で使用されるようになった。 だが’60年~’70年代にかけて、ダプソンに対する耐性菌が発生、研究者は複数の薬剤(リファピシン、ジアフェニルスルホン、クロファジミン)の併用によって耐性菌を防ごうと試み、 1981年WHOの研究班がようやく「多剤併用療法(MDT)」を確立した。
    MDT の構成要素であるリファンピシンは、1回の投与で癩菌の99.9%を死滅させる。従って、この薬を用いて治療を始めた患者からはほかの人に感染することはなく、後遺症が残るかつての患者からも感染することはない。現在でもこの治療法は効果的で、癩菌感染力を短期間で失わせるため、ハンセン病は完全に治癒する病気である。更にWHO統計によれば、MDTの開発により、’80年代に500万人を超えていたハンセン病の登録患者数は、 2011年には約18万人にまで減少している。
     にも拘らず、日本では1996年迄癩予防法は廃止されなかったのである。1943年の件は措くとしても日本国民の税金で養われている公僕たる厚生省の官僚が、MDT以降も漫然と事態(極めて深刻な被差別)を放置していた怠慢は厳しく追及されるべきである。時効が成立するか否かとか、法的に追及できる法が無いとか在るとかの問題ではない。人間としてどうなのか? という問いである。こんな問いを発するのはF1人災に於いても関係省庁たる
    経産省(旧通産省)、文科省(旧文部省)が日本国民に対して犯している罪について看過できるような目明きが居ようか? 当然皆無でなければならないからである。



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    2016/01/31 18:34

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  • こちらこそ、両篇ともにご観劇頂き、別々に丁寧に感想を頂けたこと、本当に嬉しく思います。
    演じ手それぞれへのコメントも頂きまして、これからの励みとなります。
    本当にありがとうございました。

    2016/02/02 15:22

    遅くなってごめんなさい。

    2016/01/31 18:36

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