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十一ぴきのネコ

十一ぴきのネコ

こまつ座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2012/01/10 (火) ~ 2012/01/31 (火)公演終了

満足度★★★★

絵本の思い出と、今回得た感傷と。
十一ぴきのネコは、馬場のぼるさんの「11ぴきのねこ」を下敷にした井上さん戯曲ですが、絵本の骨格を残しつつ、格段の面白さと昭和の薫りと、健全な毒を盛り込んだもの。
私は、現在大学生の息子が保育園児だったときの思い出あり。保育園の運動会で11ぴきのねこをテーマに演じみんなネコのお面を付けて「みんなで力を合わせれば、おおきなさかなも取れるんだ」っ引いてました・当然、そんなほのぼのとしたお芝居ではなく結末もダークで、もし子どもをつれてきたらなんて答えればよいんだろう、と悩みながらの帰途でした。

ネタバレBOX

♪じゅういっぴきのネコ、じゅういっぴきのネコがたびにでた
おなかぺこぺこ 鼻はひこひこ 丘をとことこ みずうみどこどこ・・・♪
(メロディがこびりついて頭を離れません)

語呂合わせ語呂合わせ。
擬態語、擬音語使いまくり。井上さんの言葉の遣いって面白いなあ。

擬音語は、歌でなくてもたくさん出てくるのですが、せっかく音楽演奏者に荻野清子さんが舞台下手にいらっしゃるのに、ひゅー、さやさや(風)、どっかーん(ぶつかる音)、ぱたん(倒れる音)。役者さんのボイスパーカッション?、も使いまくり。子どもたちこういうところで結構笑っています。
おじさん役者12人がときにハモりながら歌って歌って、踊って踊って(お決まりのラインダンスも)、マイムでせっせと示しながら「鯉の姿煮」の作り方を演技して、と。たくさん動いて、たくさんネコ問答。これなら小学生でも飽きないで見ていられますね。
主役のにゃん太郎(北村有起哉)は「天晴れ指導者のにゃん太郎」と紹介されており、実際物語の進行はにゃん太郎のリーダーシップの元に進んでいくのですが、取っ掛かりからいえばにゃん太郎はよそ者なんですよね。十匹の仲間集団の方が先にいる。
十匹集団の取りまとめ役は中村まことさん演じる「穏健温和仏のにゃん次」です。そこらへんがラストのビターさにつながるかも。え、日本人のムラ社会とか?
山内圭哉さん演じるにゃん十一はもう一人の主役ともいえそう。
十匹集団の中になんとなくいたはずなんだけど、実際は徹底的なアウトロー。にゃん十一は「ねこばばのにゃん十一」と紹介されていて、もともと泥棒に買われていた猫だったんです。ねこばば」って、絵本作家の馬場さんへの敬意をひそかに込めていませんかね。
野良ネコ共和国を作ったあと、政府の要職はにゃん次たち9匹に牛耳られ、リーダーだったにゃん太郎は暗殺。にゃん太郎が死んだあと、にゃん十一はにゃん太郎に布をかけ、あの♪十一匹のネコが旅に出た♪を一人で歌います。幕。

もし私が子ども連れてきて、子どもから「何でにゃん太郎くんは殺されちゃったの?にゃん太郎くんは悪くないよね」って聞かれたら、なんて答えたらよいのでしょう。
昭和の時代背景とか、日本人の偏狭さとかそういうことは大人の領域であって、
○貧困はとっても苦しい
 成長のために努力するのは幸せだ、でも成長後の繁栄社会に陰があることがある
○国家というのは自分たちの自由を守るために作られているもののはずが、時には個人に対して暴力的になるんだ

こどもに、君にはにゃん太郎の生き方でも、にゃん十一の生き方でもいい。
そういう生き方は厳しいんだ。
でもあまり世間(にゃん次からにゃん十)に流されてほしくはないな。
って感じで伝えようかな、と考えつつ、本当は子どもたちにまずは感想を聞きたいなと思いました。
こういうことは、確かに未就学児童には無理ですが、小学生くらいの子どもであれば、このお芝居を観てすぐ完全に理解できなくても、確かに触れさせてあげてもいいはずの毒だなあ
パール食堂のマリア

パール食堂のマリア

青☆組

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2011/07/29 (金) ~ 2011/08/07 (日)公演終了

満足度★★★★

白い二人、「聖俗」「祈り」「命」そしてマリア
すごく気に入ったのですが、何がどう気に入ったのか、なかなか感想を書きづらく思っていました。私はどうやら「温かく重い」ものを受け取ったようなんだけど、それが何なのか、不完全ですが、書いてみます。

たくさんのドアと街灯の舞台美術をみて最初の印象は「絵本のよう」と思いました。そして、街灯は「なんか人魂(たましい)みたい」と感じました。
(この最初の印象は間違っていないことにあとで気づきます)

このお芝居で白い服を着た登場人物は二人。街娼Mと猫ナナシです。
街娼と捨て猫、一番汚い、一番穢れた存在が白い服を着ている。

彼らが白い服を着ている意味は二つあるように思います。
(以下ネタバレBOXにて)


ネタバレBOX


ひとつは最も穢れた存在が最も神聖なものにつながる、ということのように思います。聖と俗は対比されながら、つながる。
聖書のなかで、イエスが最初に弟子にしたのは徴税人や罪人でした。
あるいは、心の貧しい人々は幸いである、悲しむ人々は幸いである、そのような世界観に通じるように思います。

もう一つは、彼らは固有の存在ではなく、抽象的な存在だということ。望まれずに生まれてきた混血の子とその母、そういう類型を描いていることを視覚的に現しているのではないでしょうか。

ナナシを演じる大西玲子と、Mを演じる木下祐子は、下記の複数の親子を演じます。

①水島鞠子の子ども時代(ナナシ=大西)とその母(M=木下)、母が米軍兵に強姦されることが示唆、その後混血の男の子が産まれ、父が間引きをした可能性も示唆
②ミッキーこと本田幹子の子ども時代(ナナシ=大西)とその母(M=木下)、ミッキーが孤児院に連れて行かれる道中を描写
③ナナシの赤ん坊(大西)を捨てた母(M=木下)、母がMの墓前にひざまずき、懺悔と告別の場面

直接的にはナナシとMは③のみの関係なのでしょうが、①も②も演じることで、この時代に普遍的だったことを示しているのではないでしょうか。

私はこの③の場面で泣けて仕方ありませんでした
ナナシ「来てくれたんだね。ずっと待っていた。ここで。何度も、死にながら。何度も生まれながら。」
M「あなたを捨てたあの日、『私を離さないで』あなた、はっきりそう言った。声が出るはずもないのに・・・・」

この白い二人が邂逅する場面で、全ての登場人物がユリの花を捧げて祈ります。
「祈り」はこの劇のテーマのひとつと思われます。

もう一箇所全ての人物が出てきて祈る場面があります。

舞台上手上方で史子(高橋智子)と松田(荒井志郎)が丘の上の墓所とそこで眠る「望まれずに生まれてきた命」について語り、舞台中央クレモンティーヌ(足立誠)が「これまで看取ってきた猫の名前を挙げる」シーンが並走する場面。
(ナナシが「何度も死にながら何度も生まれながら」というように、この舞台では猫は魂の現われとして描かれています)

ここで、他の人物が全員ろうそくを持って登場します。
跪いて祈る姿ではないですが、これも鎮魂の祈り。
戯曲を見ると「無数の魂が灯火となり、丘から降りてきて、食卓や階段の周りに集まってくる」と書いてありました。ああ、やはりこれは魂なんだ、と得心しました。美しい場面でした。

実は、舞台美術の私の第一印象は「たくさんのドアとたくさんの街灯、街灯はまるで魂みたい・・」と感じた、そのイメージが強調されて出てきて揺さぶられたのだと思います。
魂と呼ばれているものは実は「命」そのものです。たくさんの命の存在を感じることが出来るから、格別に美しく、揺さぶられるのだと思います。

このお芝居では、混血の子=望まれずに生まれた命、だけでなく、ユリ(小瀧万梨子)は乳がんで乳房を失いますし、松田は無精子症と、「欠けた命」をも描いた群像劇になっています。命、生きていることの奇跡を強く感じさせられます。

このお芝居の何が気に入ったのか、気になったのか・・・
私にとってのキーワードは「聖と俗」、「祈り」と「命」という感じでしょうか。
大きなテーマにつながる世界を水島家の長女鞠子(福寿奈央)中心にしっかりと束ねているので、優れた舞台になっているのだと思いました。

この3つのキーワードをひとつにすると多分「マリア」になるのだと思います。

マリアは特定人物を指すものではないと思います。
街娼M=メリーさんとも、長女鞠子とも、またナナシも自分のことを「マリア」と呼んでいますし、ユリも・・・百合の花はマリア様の象徴ですよね。そういえば終盤、善次郎(林竜三)にも「マリア様みたい」といわれていましたね。
マリア様=女性性一般でも、いいのでは。

久しぶりに、女性性が強く肯定された世界に触れて、こういうのも気持ちよいな、と思いました。
パール食堂のマリア

パール食堂のマリア

青☆組

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2011/07/29 (金) ~ 2011/08/07 (日)公演終了

満足度★★★★★

「命への想い」。これは肉体化した詩!
青☆組、吉田小夏さん、初めて伺いましたが・・・とても良かった!
素晴らしい戯曲、素晴らしい舞台です。感動・・・というと安っぽいのですが、生と死をすごく近しく感じて、心が揺さぶられ、作家の「命への想い」を受け取った気がします。
この舞台は、必ずもう一回観にいきます!
舞台空間は、時代と場の「臭い」を再現。昭和47年横浜。
使用される言葉は温かく重く美しい。
肉体化された詩、そのもの。
登場人物のうち、二人は抽象的な存在と思えます。が、その他の名前のある人たちも含めて意外と全ての人物は「何かの現われ」なのかも知れません。
複数のプロットが併走するように見えますが、大きくひとつのものに収斂していくようです。
お芝居で揺さぶられたのは久しぶりです。気持ちを伝えたく始めてCorichに投稿しました。是非観て欲しい舞台!

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