満足度★★★★★
ダンスを見ることの喜びの一つは、踊る身体から見る身体への振動を共有できるようになることだ。ジャンプ、回転 そのほかいろいろな動き。観客はダンサーのように踊ることができなくても、ダンサーという身体を現身として、自身の身体イメージをはばたかせて楽しむ。この身体間の共振は、もちろん舞台の上での複数のダンサー同士も体験していることだろう。ときに、火花を散らすように、ときに空気をかき回すように。ダンサーたちが舞台の上を縦横無尽に踊る姿、その空気を味わうことは、ダンスの好きな観客にとってこの上もない喜びだろう。そしてそのダンサーが優れて個性的な踊り手であって、なおかつ長年ステージをいっしょに経験している同志であれば、その共振の魅力は輝くことだろう。 イデビアン・クルー2年ぶりの新作、「幻想振動」はそういう輝きと興奮を体験できるステージだった。
ネタバレBOX
イデビアン・クルーの特色は、集団内でのコミュニケーションのありようを、ダンスで表現するところにあって。複数のダンサーたちの踊りが交錯して、集団群像劇のように場面が展開する面白さがある。そこで表現される身体的メッセージは、ダンスよりも演劇に近い印象がある。振り付け兼ダンサーである井手は唯一無二というべき、日本人的身体のもつ脱力的な魅力を振りまいているが、群像ダンスというイデビアンの特色から言っても、井手自身が目いっぱい踊るというのは、ソロダンスの公演や映像作品などが中心で、イデビアンでは、むしろそれぞれのダンサーの伸ばせる個性を生かすことに尽力していて、自分はトリックスターのような位置でアクセントとなっていたような印象だった。
思えば井手のデュオというのは、たしか2008年に埼玉芸術文化劇場での康本雅子との「日本昔話のダンス」くらいしか記憶にない。このときは、シャープな康本と井手のダンスの対比とふれあいがとても楽しくて、井手の身体もかなり充実していたからダイナミックな躍動感が体験できた。
今回は、長年イデビアンでともに活動してきた斎藤との初のデュオ。インタビューで当人たちが話していたが、意外と真正面からいっしょに踊る経験が少なかったという。たしかにそうだと思う。多分、井手は斎藤のダンサーとしての技量や演出意図の理解を信頼しているから、自分と違った意味での踊れる身体を持っている斎藤に大事なパートを任せているんじゃないだろうか。ミュージシャンのPVやステージでも、斎藤は井手にとってなくてはならないダンサーだろう。
それだけ信頼しあっている二人がどのように互いの身体を共振させたのだろう。
突き出したステージをコの字型に客席が囲む。ステージには工事現場のブルーシートが無造作に敷いてある。そこに落ち着いたブルーのドレス(ひびのこずえのデザインが美しい!)を着た斎藤が静かに現れる。そこへひょこっと、なんというか、派手というか毒々しいキノコのような柄のタイツに包まれた井手が現れる。ニアミスのように遭遇した二人がステージに上がり、ブルーシートがひかれる。ステージ中央には6畳の座敷。これは、井手と斎藤がイデビアンで長年取り組んできた、私たち日本にいる人々の身体的な関係性を象徴している。畳の上で、座る、靴をぬぐ、寝転がるなどの動作をベースに、二人が少しずつシンクロしていくダンスのエスカレーションに引き込まれる。 心理学では、人の心の中には、心の異性ともいうべき「もう一人の自分」みたいな存在がいて、女性の内的な男性像をアニムス。男性のそれをアニマと言う。このような内なる異性の存在は普段は見えないが、ふとしたときに普段の自分が変化する機会を作ってくれる。私は、井手と斎藤は互いの心と身体の内側にある異性像を表現しているのだと思った。正統派と言えるバレーの身体的鍛錬を積んだ斎藤の身体と、日本の伝統的身体的な安定感と緩さをコミカルに表現する井手の身体は、一見対照的だが、ふれあい、互いを挑発しつつ、絶妙な間合いとユーモアで関係を作っていく。それは、普段のイデビアンで見るような、ストーリー性を感じるコミュニケーションよりも、純度の高い身体によるコミュニケーションや関係性の表現になっていると思われた。こうした相互の変容と女性・男性の身体の共振は幻想によって成り立つものかもしれないが、コミュニケーションとは互いの幻想によって成り立つものであるとすれば、そこにせつなさ、美しさを感じることもできるだろう。
ただ、こうした内なる異性との共振は、それまでその人が作り上げてきた生き方やスタイルを崩す働きもある。変容は危機でもある。ステージでも、斎藤が身体的な危機を体験する場面があり、井手は取り残される。真っ暗に転じたステージの、そこからの斎藤のソロダンスは、今回のクライマックスになった。畳の上でばたばたとはい回り、必死に身体を動かそうとする動きは、のたうちまわる女性の抱える身体の病理や苦しみを感じさせる。気が付けば、斎藤のドレスは深紅に染まっている。血が流れているような痛みと生命力。そこから斎藤は立ち上がり、なんと!ボレロを踊る。もちろん、その振り付け、素人のバックダンサーの扱い、井手のトリックスター的なサポートも含めて、ベジャールダンスの傑作なカリカチュアなのだが。それはただのおふざけではない。畳の上で生きていく私たちの身体が、どうやって生命の躍動を再び手に入れるかの、井手ならではの問いかけになっていたと感じた。
そして、最後のデュオにおいて両者は、すごみと貫禄を見せつけるような圧倒的な踊りを見せてくれる。互いの身体への深い理解とリスペクト。長年の同志でなくては表現できない共振と成熟に深い感動を覚えた。
満足度★★★★
しあわせ学級崩壊 「卒業制作」
於 花まる学習会 王子小劇場 2019年2月6日~10日
演劇の衝撃は、生身の身体と声を持った俳優から 時間と空間を共有する観客に波動のように伝わる。その衝撃が、快と感じるか、不快と感じるか。許容されるものか否かは。その作品の性質によっても違うし、観客の生理によっても異なる。
しあわせ学級崩壊の公演を体験したのは初めてだが、確実に私に衝撃を与えた。
ネタバレBOX
今回の舞台空間は、舞台空間と客席に一定の物理的な距離を設けることで、安定をもたらす雰囲気の空間ではない。俳優と観客の間は、檻のような金属製のゲージによって強制的(と感じるほど)に区切られている。小さなスタジオの中央の檻を、見下ろす感じで囲む。ただし、この空間の隔離は、俳優のいる「そこ」と観客のいる「ここ」を分けるためではない。登場人物たちが閉じ込められているかのように「見る」「見られる」関係を強いられていることを体感させるための空間演出である。やがて劇の深まりの中、観客は自らを檻の中の人物と同化し、自らもまた「見る」「見られる」関係の中に閉じ込められていることに気付かされる。檻は、私たち自身の周りにあるのだ。俳優たちは、整然とその檻のような空間に入り、劇の進行に合わせて、マイクをとり、台詞と歌とラップが混然とした言葉を話し出す。マイクを使うのは、劇中ほとんど、かなりの音量の音楽(テクノ系のダンスミュージック、舞台の傍らにブースがあり、音楽をコントロールしている)が流れるが。BGMと言う以上に、人物の心情や劇の深まりと音楽がシンクロしていて、一般的な演劇とは一線を画したスタイルの中でも、俳優たちはモノローグ、ダイヤローグを使い分け、心情を表現しつつ、しかも音韻的な音楽の心地よさを保つという、おそらくはかなり高度で緊張の高い表現をこなしている。空間中央に舞台上のステージのような場所があり、そこにはありふれた教室にある4つの机と椅子が置いてある。登場人物は、4人で一組になるように巧妙に重層的に配置されており、3つのグループが錯綜的に関わり合う。3つのグループは、「学校」「家庭」「職場」を象徴的に表現している。いずれも「日常という停滞に倦んでいるが、そこから脱出することができない」「腐っていくことに危機感を持ちつつも麻痺していく」ような日常を過ごしている。メンバーの4という数は、円環、季節の経過、を表現するのだろうか。時間の進行は無限のループを繰り返しているかとも思われる。春夏秋冬の循環。生きること死ぬこと、また生きること。この終わりない環を示すのも4という数だろう。そして、劇には、一人だけその関係性には加われない人物がいる。つまり人物は13人ということになる。ただし、この人物は、現実の関係の中では存在しないが、すべての人物たちと「見る」「見られる」という関係で、強い影響を与えていることがわかってくる。そして、その現実の不在こそが、人物たちの心の傷となり、無限のループと停滞を強いているのだということも。
3つのグループの中で、「学校」にいる女子校生たちが、劇の中心になりこの無限のループから「卒業」をするための、苦しみを表現する。この4人を演じた女優たちがぞれぞれの立場で対話をする静かなシーンはそれまでの大音量に満ちた場面とは対比的に描かれて鮮やかだ。彼女たちが、「終わりを引き受ける決意」をすることで、何かが変わる予兆が示される。ただし、それはハッピーエンドではない。終わりという限界を受け入れることは、自分たちが檻に閉じ込められているという不自由さを強く意識することにもつながるからだ。3つのグループはそれぞれの収束を表現するが。観客全員が、何かを引き受ける苦痛とは無縁ではないことを味わう終わり方だと感じられる。
感銘をうけたのは、マイクを使ったMCのようなセリフも静かな独白も対話も、一貫したスタイルで、人物の心情と関係を表現していることだ。この一貫性があるからこそ、一見音の洪水のような空間の中でも確固とした演劇表現が成立したのだと思う。それは、この演劇空間を作り上げた僻みひなたの演劇表現への信頼がなせる、内なる秩序の力なのではないだろうか。
満足度★★★★
現代演劇で、良い芝居ってなんだろうって思うんだけど。それは、観た人のリアルにゆらぎを与えることができる芝居、ということかもしれない。劇が終わって余韻にひたる、という心地よいものじゃなくて、お芝居の影響で自分がこうだ、と感じているものの見方が揺らいでしまうような体験が、たまにある。
はねるつみきを観たのは初だけど、まさにそういう感じの体験だった。
このお芝居のタイトル「ばよんばよんと聞こえぬ」。不思議なタイトルだけど、芝居のテーマをうまくあらわしていると思う。この芝居は、数人の若い男女(おそらく大学生)が暮らすシェアハウス内で起きる出来事と人間関係を丁寧にえがいていて、芝居はこのハウス内の談話室から一歩も出ない。「ばよんばよん」というのは、この物語で、一人の女性が耳にする音のことである。彼女一人が、ある空間にいる時、ある空気の中にさらされるとき、その音が聞こえてくる、と言う。音は、他の登場人物の耳には届いていない。なので、彼女も周りも、それは幻聴、本人の病なのだという扱いをしている。つまり「聞こえぬ」という言葉には、本人にとって「聞こえていた」ということと、他の人たちには「聞こえてない」という二つの意味が掛け合わされているように思う。正反対の意味の「ぬ」。この「ぬ」のギャップから生じる居心地の悪い何か。それが人間関係や気持ちにどういう影響を与えるのか。
ネタバレBOX
談話室での男女のやりとりは、会話とモノローグが巧みに組み合わされ、そうした微妙な居心地の悪さが少しずつ観客に浸透していく展開になる。会話の部分はリアルに適度な脱力感を伴うし、モノローグは個人の欲望やら葛藤やらをダイレクトに表現していて、気持ちと人間関係が徐々に煮詰まる感じが、よく理解できる。さらに言葉のチョイスにひんやりとしたユーモアと毒があって、息苦しさを沸点にあげないようにテンポよく周到にデザインされている。
とはいえ、人物たちが味わう居心地の悪さは、さながら私たちの世界のミニチュアのごとくリアルだ。たとえばその「幻聴」の女性、近い過去の出来事をすぐ忘れる男性、など。彼らは、他の人たちと空間を「シェア」しているものの、それには相当な痛みがともなっている。その痛みを、まわりはある種の「病」として扱っている。そういう関係の中で生じる出来事は、いじめであったり、何か欲望のはけ口の対象であったりと様々だが。この作者のセンシティブな視点は、単に「少数派と多数派の対立の図式」に落とし込むことはしない。いじめている女の子が劇の中で言うように、いわゆるフツーの人たちのすることは、ただ「バランスをとっているだけ」で、場の秩序をキープするための介入なのだ。そこには悪意がないかのように仕組まれている。
(※いわゆる学校のいじめ対策のナンセンスなのは「いじめは悪いことなのでしてはいけません。」というスローガンがいじめっ子には通用しないからだ。いじめる人間は、悪意をもっていじめている自覚などなく、ただ場の秩序を取り戻そうとしているだけなのだから。)
居心地の悪さをもつ人は、その「ばよんばよん」という音が、『何かがおかしいってわかっているのに、僕が何もできないとき』自分を責めるように大きくなることに気付いている。その苦しみは、罪悪感と共に、個人の「病」として引き受けるしかない。対立関係というドラマが生まれず、個人が自責感を高めて孤立するあり様は、マイノリティの主張というムーブメントがいまいち定着しない、私たちの生きる世界のもつリアルさだろう。
この芝居はこうしたリアルさにさらにツイストをあたえている。実はいわゆるフツーの人たちの持つ秩序やルールもまた歪みがあるということを、絶妙な笑いで表現しているのだ。たとえば、ある女性は、劇中でひたすら自分の胎盤が盗まれたと言って探し続けている。この胎盤探しのエピソードの顛末が、芝居のクライマックスにつながるのだが、ここに至る不条理な笑いは、秩序あるリアルへの苦い攻撃とも言える。
もう一つ、この芝居の実質的な中心となっている男性は、相当な物忘れに悩まされていて、物の名前やエピソードの記憶もひたすら忘れてしまう。そのため嘲笑やいじめの恰好なターゲットになるのだが。彼のもの忘れの特性は、人の悪意も、リセットしてしまうかのようだ。本人は最後まである種の無垢さを保ち続けるので、ついにはマジョリティのほうが、悪意に蝕まれて自壊していく。これもまたある種のリアルへの揺さぶりだろう。
※この男性のあり方は、ドストエフスキーの「白痴」のムイシュキン公爵のような古典的人物像の美しささえ感じさせる。
こうしたリアルさへの苦いゆらぎを味わいつつ、それでもこの芝居を観たあとの感触には、かすかな光が見える。エピローグのシーンで、ある女の子が語るように、「夢なんか見ても覚めちゃうの わたしたちが生きているのはさ、永遠の現実なのよ やっぱ急には変わんないから ちょっとずつよくしていくしかないのよ。」
そう。現実は急には変わらない。そしてお芝居が暗転になっても、リアルは続くよ。そういうメッセージと共に、芝居は夢のような終わり方をする。私はここでシェイクスピア喜劇のラストのような、せつない悦びさえ感じた。芝居の古典的とも言える着地は、ファンタジーへの逃げではなく、劇が終わった後、観客自身が、自分のリアルを立ち上げることへの温かいメッセージだと感じられた。
その感触をもたらしたのは、作者の紡ぐ言葉に込められた切実な力強さ。そして役者たちの調和のとれた演技。双方が心地よい熱を放った結果だということは強調しておきたい。