卒業制作 公演情報 しあわせ学級崩壊「卒業制作」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    しあわせ学級崩壊  「卒業制作」
     於  花まる学習会 王子小劇場  2019年2月6日~10日
     演劇の衝撃は、生身の身体と声を持った俳優から 時間と空間を共有する観客に波動のように伝わる。その衝撃が、快と感じるか、不快と感じるか。許容されるものか否かは。その作品の性質によっても違うし、観客の生理によっても異なる。
    しあわせ学級崩壊の公演を体験したのは初めてだが、確実に私に衝撃を与えた。

    ネタバレBOX

    今回の舞台空間は、舞台空間と客席に一定の物理的な距離を設けることで、安定をもたらす雰囲気の空間ではない。俳優と観客の間は、檻のような金属製のゲージによって強制的(と感じるほど)に区切られている。小さなスタジオの中央の檻を、見下ろす感じで囲む。ただし、この空間の隔離は、俳優のいる「そこ」と観客のいる「ここ」を分けるためではない。登場人物たちが閉じ込められているかのように「見る」「見られる」関係を強いられていることを体感させるための空間演出である。やがて劇の深まりの中、観客は自らを檻の中の人物と同化し、自らもまた「見る」「見られる」関係の中に閉じ込められていることに気付かされる。檻は、私たち自身の周りにあるのだ。俳優たちは、整然とその檻のような空間に入り、劇の進行に合わせて、マイクをとり、台詞と歌とラップが混然とした言葉を話し出す。マイクを使うのは、劇中ほとんど、かなりの音量の音楽(テクノ系のダンスミュージック、舞台の傍らにブースがあり、音楽をコントロールしている)が流れるが。BGMと言う以上に、人物の心情や劇の深まりと音楽がシンクロしていて、一般的な演劇とは一線を画したスタイルの中でも、俳優たちはモノローグ、ダイヤローグを使い分け、心情を表現しつつ、しかも音韻的な音楽の心地よさを保つという、おそらくはかなり高度で緊張の高い表現をこなしている。空間中央に舞台上のステージのような場所があり、そこにはありふれた教室にある4つの机と椅子が置いてある。登場人物は、4人で一組になるように巧妙に重層的に配置されており、3つのグループが錯綜的に関わり合う。3つのグループは、「学校」「家庭」「職場」を象徴的に表現している。いずれも「日常という停滞に倦んでいるが、そこから脱出することができない」「腐っていくことに危機感を持ちつつも麻痺していく」ような日常を過ごしている。メンバーの4という数は、円環、季節の経過、を表現するのだろうか。時間の進行は無限のループを繰り返しているかとも思われる。春夏秋冬の循環。生きること死ぬこと、また生きること。この終わりない環を示すのも4という数だろう。そして、劇には、一人だけその関係性には加われない人物がいる。つまり人物は13人ということになる。ただし、この人物は、現実の関係の中では存在しないが、すべての人物たちと「見る」「見られる」という関係で、強い影響を与えていることがわかってくる。そして、その現実の不在こそが、人物たちの心の傷となり、無限のループと停滞を強いているのだということも。 
    3つのグループの中で、「学校」にいる女子校生たちが、劇の中心になりこの無限のループから「卒業」をするための、苦しみを表現する。この4人を演じた女優たちがぞれぞれの立場で対話をする静かなシーンはそれまでの大音量に満ちた場面とは対比的に描かれて鮮やかだ。彼女たちが、「終わりを引き受ける決意」をすることで、何かが変わる予兆が示される。ただし、それはハッピーエンドではない。終わりという限界を受け入れることは、自分たちが檻に閉じ込められているという不自由さを強く意識することにもつながるからだ。3つのグループはそれぞれの収束を表現するが。観客全員が、何かを引き受ける苦痛とは無縁ではないことを味わう終わり方だと感じられる。
    感銘をうけたのは、マイクを使ったMCのようなセリフも静かな独白も対話も、一貫したスタイルで、人物の心情と関係を表現していることだ。この一貫性があるからこそ、一見音の洪水のような空間の中でも確固とした演劇表現が成立したのだと思う。それは、この演劇空間を作り上げた僻みひなたの演劇表現への信頼がなせる、内なる秩序の力なのではないだろうか。

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    2019/07/31 21:55

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