ばよんばよんと聞こえぬ 公演情報 はねるつみき「ばよんばよんと聞こえぬ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    現代演劇で、良い芝居ってなんだろうって思うんだけど。それは、観た人のリアルにゆらぎを与えることができる芝居、ということかもしれない。劇が終わって余韻にひたる、という心地よいものじゃなくて、お芝居の影響で自分がこうだ、と感じているものの見方が揺らいでしまうような体験が、たまにある。
    はねるつみきを観たのは初だけど、まさにそういう感じの体験だった。
     このお芝居のタイトル「ばよんばよんと聞こえぬ」。不思議なタイトルだけど、芝居のテーマをうまくあらわしていると思う。この芝居は、数人の若い男女(おそらく大学生)が暮らすシェアハウス内で起きる出来事と人間関係を丁寧にえがいていて、芝居はこのハウス内の談話室から一歩も出ない。「ばよんばよん」というのは、この物語で、一人の女性が耳にする音のことである。彼女一人が、ある空間にいる時、ある空気の中にさらされるとき、その音が聞こえてくる、と言う。音は、他の登場人物の耳には届いていない。なので、彼女も周りも、それは幻聴、本人の病なのだという扱いをしている。つまり「聞こえぬ」という言葉には、本人にとって「聞こえていた」ということと、他の人たちには「聞こえてない」という二つの意味が掛け合わされているように思う。正反対の意味の「ぬ」。この「ぬ」のギャップから生じる居心地の悪い何か。それが人間関係や気持ちにどういう影響を与えるのか。

    ネタバレBOX

    談話室での男女のやりとりは、会話とモノローグが巧みに組み合わされ、そうした微妙な居心地の悪さが少しずつ観客に浸透していく展開になる。会話の部分はリアルに適度な脱力感を伴うし、モノローグは個人の欲望やら葛藤やらをダイレクトに表現していて、気持ちと人間関係が徐々に煮詰まる感じが、よく理解できる。さらに言葉のチョイスにひんやりとしたユーモアと毒があって、息苦しさを沸点にあげないようにテンポよく周到にデザインされている。
    とはいえ、人物たちが味わう居心地の悪さは、さながら私たちの世界のミニチュアのごとくリアルだ。たとえばその「幻聴」の女性、近い過去の出来事をすぐ忘れる男性、など。彼らは、他の人たちと空間を「シェア」しているものの、それには相当な痛みがともなっている。その痛みを、まわりはある種の「病」として扱っている。そういう関係の中で生じる出来事は、いじめであったり、何か欲望のはけ口の対象であったりと様々だが。この作者のセンシティブな視点は、単に「少数派と多数派の対立の図式」に落とし込むことはしない。いじめている女の子が劇の中で言うように、いわゆるフツーの人たちのすることは、ただ「バランスをとっているだけ」で、場の秩序をキープするための介入なのだ。そこには悪意がないかのように仕組まれている。
    (※いわゆる学校のいじめ対策のナンセンスなのは「いじめは悪いことなのでしてはいけません。」というスローガンがいじめっ子には通用しないからだ。いじめる人間は、悪意をもっていじめている自覚などなく、ただ場の秩序を取り戻そうとしているだけなのだから。)
    居心地の悪さをもつ人は、その「ばよんばよん」という音が、『何かがおかしいってわかっているのに、僕が何もできないとき』自分を責めるように大きくなることに気付いている。その苦しみは、罪悪感と共に、個人の「病」として引き受けるしかない。対立関係というドラマが生まれず、個人が自責感を高めて孤立するあり様は、マイノリティの主張というムーブメントがいまいち定着しない、私たちの生きる世界のもつリアルさだろう。
    この芝居はこうしたリアルさにさらにツイストをあたえている。実はいわゆるフツーの人たちの持つ秩序やルールもまた歪みがあるということを、絶妙な笑いで表現しているのだ。たとえば、ある女性は、劇中でひたすら自分の胎盤が盗まれたと言って探し続けている。この胎盤探しのエピソードの顛末が、芝居のクライマックスにつながるのだが、ここに至る不条理な笑いは、秩序あるリアルへの苦い攻撃とも言える。
    もう一つ、この芝居の実質的な中心となっている男性は、相当な物忘れに悩まされていて、物の名前やエピソードの記憶もひたすら忘れてしまう。そのため嘲笑やいじめの恰好なターゲットになるのだが。彼のもの忘れの特性は、人の悪意も、リセットしてしまうかのようだ。本人は最後まである種の無垢さを保ち続けるので、ついにはマジョリティのほうが、悪意に蝕まれて自壊していく。これもまたある種のリアルへの揺さぶりだろう。
    ※この男性のあり方は、ドストエフスキーの「白痴」のムイシュキン公爵のような古典的人物像の美しささえ感じさせる。
     
    こうしたリアルさへの苦いゆらぎを味わいつつ、それでもこの芝居を観たあとの感触には、かすかな光が見える。エピローグのシーンで、ある女の子が語るように、「夢なんか見ても覚めちゃうの わたしたちが生きているのはさ、永遠の現実なのよ やっぱ急には変わんないから ちょっとずつよくしていくしかないのよ。」
    そう。現実は急には変わらない。そしてお芝居が暗転になっても、リアルは続くよ。そういうメッセージと共に、芝居は夢のような終わり方をする。私はここでシェイクスピア喜劇のラストのような、せつない悦びさえ感じた。芝居の古典的とも言える着地は、ファンタジーへの逃げではなく、劇が終わった後、観客自身が、自分のリアルを立ち上げることへの温かいメッセージだと感じられた。
    その感触をもたらしたのは、作者の紡ぐ言葉に込められた切実な力強さ。そして役者たちの調和のとれた演技。双方が心地よい熱を放った結果だということは強調しておきたい。

    0

    2019/07/30 10:03

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大