『A Number―数』『What If If Only―もしも もしせめて』
Bunkamura
世田谷パブリックシアター(東京都)
2024/09/10 (火) ~ 2024/09/29 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
SFは最も芝居にしにくい領域ではないだろうか。ファンタジーと違って、サイエンスだからどこかで現実とつながっていないと、只の絵空事になってしまう。イギリスの人気劇作家のSF短編二編。二本合わせて、藝ナカ2時間もないのに、11000円の席はもちろん三階席まで売れて世田谷三、四十代夫人を主に満席。小説の方は特に売れるベストセラー以外のSFは売れ行き不振というのに、こひらはチケット争奪戦である。
最初が、「What if it only(もしも もしせめて)」で25分。時間未来もので、一人の男(大東駿介)が、どうなるか解らぬ未来に出会ってみる、という話。突然予想もしないドアの陰から異形の人物が現われたり、天井から老人が現われたり、理詰めではない(いや、あるのだろうが解らない)世界を幻のように体験する。次の「A Number(数)」は複製人間が可能になった世界で、息子(瀬戸康史)のいのちを再生した父(堤真一)が複数の息子に会うことになるが、その世界は父の意のごとくならず、という教訓めいた話である。
見どころは、マッピングを使った舞台で、この劇場の高い天井に向かって上下する四角い升のエレベーターのような舞台が設定されている。舞台は簡素な一人部屋だったり(もしも)、応接セット(数)だったりするが、劇の前後では舞台ごと、さらにアンコールでは、急速に天井に向かったり、下がったりする。そこは現実にはなにも起きていなくて、マッピングによって観客は映像を見ているだけなのだろうが、この舞台の内容には非常に上手くマッチしている。後で考えれば、だからどうと言うことはない、と言うところも洒落ていると言えば洒落ているのだが、SF作品にありがちの狐につままれたような感じがよくできていた。
役者は人気者揃いで皆神妙に務めてはいるし、客もみなさんご満足のようだけど、これで11000円?良いんですか?
失敗の研究―ノモンハン1939
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2024/09/13 (金) ~ 2024/09/23 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
ノモンハン事件は戦後も長く一般的に知られることが少なかった事件で、そういえば、報道されたのは70年代だったか、と思いだした。その後、史実が明らかになってみると、事件は、中国北西部の砂漠で39年に起きた日ロの衝突で、ここで、日本陸軍は初めて装甲陸軍の威力から大陸戦争の難しさを知り、以後、陸軍は手薄の東南アジアに進出、難しいところは海軍任せでもっぱら内部抗争に明け暮れて、上層部全員が43年には負けると承知してからも二年間、国民はほっておかれ、大きな市民の犠牲を出したあげく敗戦を迎える。という日本現代史は概ね日本人は誰でも経験し、若い人も知ってはいる。しかし、この事件が、テストケースになり、関係軍参謀らは口を拭って終戦まで無事な戦線を廻ったと言うことはあまり知られていない。そのあたりのリアルな歴史事実のスジ売りの復習が第1幕1時間半で、ここは、どうと言うことはない。古川健らしくなってくるのは2幕からである。
物語の枠取りが70年代の発掘記事掲載する雑誌編集部にとられていて、始めての女性記者の登場と、事件の日本的構造は今の時代にも伝わっていることを巧みにつなげている。
この芝居に主演の女性編集者(藤井美恵子)が「男性は戦争の話になると生き生きする」という台詞があって、古川健らしい上手い台詞だと思ったが、ジェンダーをからめて今の時代の戦争にまでふれているところがさすがだ。最後の、日本が戦後80年、先進国やG20も含めて唯一銃を取っていないことも指摘していて、こういうところはするどく的をえている。
このドラマが描いた事態への批評はとてもこの場や、一夜の芝居見物で果たせるものではないが、それでも、こういう無謀な歴史の事実を思い出すことには大きな意義がある。例えば、昭和二十年代に高市早苗が今と同じ意見を言えば殺されかねない国民の怒りの対象になっただろう、そういう民族の底辺の記憶にまで達しているところが古川健らしさである。
この舞台の良いところは一点ここだけで、スタッフ・キャストも手を抜いたわけではなく全力を尽くしたのだろうが、全般には情報を伝えるのに忙しく、チョコレートケーキの終戦シリーズのような現代劇としての成熟に乏しかったのはやむを得ない。この劇団としては
大きめのサザンシアターだがやはり客席は薄い。失敗の研究、というのはなかなか出来ないものではあるが、60年も続いたという劇団ならでは、と言うところもあって欲しい。今回は古川健を、とにもかくにも連れてきて、ノモンハンを話題にしたたことを評価する。
石を洗う
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2024/09/07 (土) ~ 2024/09/19 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
いわゆる「朗読劇」を文学座らしく、演劇的にやってみると、こうなるという企画である。悪態をつけば、手間暇かけず、手軽に稼げて、役者は台本は覚えなくてもいい,朗読会はコロナは以後はかなり流行ったが、世間が落着くと減っていった。しかし、朗読的な演出で、さらに演劇的リアルをもと深めることが出来るのではないか、という考えにも一理ある。ことに文芸の作家は、舞台的な感情表現は安っぽいと思い、地の文に拘泥する作家も少なくはない。舞台化、朗読上演を、映画化、テレビ化と同様に捉えられているが、そこは違う。
朗読をあまり深く考えにずに俳優の簡便な顔見せとして興行した劇団も少ないが、さすが文革座、この公演はかなり考えた上で舞台に乗せている。
主な登場人物はそれぞれ配役する。
俳優は、配役された役をシーンで演じるだけでなく、本人の動きも、客観的記述の地の文も読む。演じると読むという二つの役割を果たす。
シーンを設定する舞台は,それぞれ簡単な大小の道具で抽象的に示される。例えば、満員電車に乗っている登場人物はつり革だけを手に揺れるし、周囲の人物は半透明の白いビニールのレインコートをかぶって、中の一人は地の文を読む、というような趣向である。驚くような仕掛けはなく、物語も人物たちもベタ日常的で平凡である。
戯曲は地方作家の新作による過疎部落人間模様で、前半の1時間半は,その村から都会に出て定年寸前になっている男の都会生活。ほぼ同じ長さの後半は、ムラが主舞台で、ムラ出身になりすました青年が現われたり、人が逝き、過疎が進むムラの日々。どこかで聞いたような話ばかりだが、実際に俳優が役を演じ、地の文の解説も行届き、邪魔ないならないどころが、良い感じで語られると,こういう舞台にはすれっからしのアトリエの客も3分の1くらいはウルウルしている。
都会の路地裏に登場する白い野良犬はスチールの映像でスクリーンに出る。この辺は幻灯劇のような使い方である。舞台は不器用を装って、非常に上手く企まれているのである。まぁ、死せる王女のパヴァーヌが出てきたりするところが唯一、文学座の衒学的なところが鎧の下からのぞいたというところか。
この朗読のスタイル、もう確立している朗読劇業者の声優作品とは別の演劇的可能性も残されているように思う。文学座は言葉の技術が出来ているから、どこの劇団でもやれるわけではないが。
演出。五戸真理恵。
寿歌二曲
理性的な変人たち
北千住BUoY(東京都)
2024/09/12 (木) ~ 2024/09/17 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
核戦争後の荒野を、世界の事情はお構いなしに、ふざけた名前の三人の旅芸人が馬鹿げた会話を交わしながら旅していく。このとりとめもないシチュエーション・ドラマには、不幸にも「不条理劇」と訳されてしまったabusurdな劇と言う言葉が、ぴったりと似合う。
「寿歌」は誰もが認める20世紀後半の日本演劇を代表する不条理劇の傑作である。北村想は、「ゴドーを待ちながら」を社会劇にもして見せた。以来、四十年余「寿歌」はさまざまな演劇人によってそれぞれのスタイルで広く演じられてきた。
現代の「変人たち」はどう演じるだろうか? 次代を担う期待の演出家の一人・生田みゆきの率いる「理性的な変人たち」の上演は「寿歌・二曲」と題して四作ある北村想の「寿歌シリーズ」から二作をカップリング。舞台は北千住から線路沿いのゴミゴミした住宅街を抜けた先にある雑居ビルの地下。今は放置されて廃墟さながらのかつては公衆浴場だった場所での上演である。
「寿唄二曲」は、核戦争前を舞台にした「寿歌Ⅱ」が第1幕(80分)、最初に書かれた核戦争後の「寿歌」が第2幕(65分)。休憩が15分。天井の低い地下に、建築業者が使う現場用のパイプを椅子を五列に並べて約百席。専門家に芝居亡者が帝都の北の外れに集まって満席である。
まぁ、好き嫌い(原作を含め)は別としても、今までに見たことのない「寿唄」であった。
いずれ、いろいろな場で、この上演は論じられると思うので駄弁を重ねるのは止めるが、感心したところを二つ。残念なところを一つ。
「寿歌」は基本的には台詞劇で書かれている。台詞は、理性的だからどうしても事態を限定的に表現してしまう。今回は原作を随分改変しているが、台詞を重要なところは外さず(そこは、ホントに感心した)歌舞演芸化した。今までもこの線を試みた舞台もあったように記憶しているが、これほど徹底的にやったことはないだろう。それで、やや古めかしくなっていた「冷戦構造期」のドラマが現代社会に蘇った。ポルノ劇までやってみせることはないだろう、と言う意見もあるだろうが,あの手、この手、が尽きない。次、このグループの芸大出の人たちが作り、演じると言う基本の座組が生きている。彼らは我々観客にとっては、別に普通の人たちになって貰わなくてもいい人たちである。勝手放題、好き放題にやって、我々を楽しませてくれればいい人たちである。そう言えるのは、個人的な体験で、芸大に学び、出ると言うことは、そんじょそこらの東大とか慶応とは全く次元が違う青春期の経験を送った人たちであることを知っているからである。彼らが破滅するならそれも勝手である。その振り幅の強さがこの舞台にもよく出ていた。舞台は手不足らしく,演出の生田みゆきが演出助手や場内案内までやっていた。芝居は。こうでなければ!!
残念なところ。演出者は作品発想はイスラエル紛争にあると言い、ジェンダー問題が論じられている折、ドラマの軸を担うゲサクの役を女性にした(滝沢花野は熱演で役割は十分果たしているが)というが、そういうことはひとまず置いておいて、これでいいとやってしまえば良い。ヘンな理屈があると(理性ある?)足を取られてヘンな風に曲がっていく。それで失敗して挫折した人の例もすくなくない。しばらくは、文学座の古老たちからは何やってんの!勝手にしやがれ!なんていわれながら、やってみるのが役どころである。
夜の来訪者
俳優座劇場
俳優座劇場(東京都)
2024/09/12 (木) ~ 2024/09/15 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
日本で初演は戦後の初期、それから八十年近く。その間に日本的改変を繰り返しながら、再演が続いた珍しい戯曲の再演である。観客五百前後の会場公演にふさわしい内容で、公民館的劇場の地方周りの公演にはもってこいの内容の普遍性もある。あらすじはよく知られているが、改めてみると、二時間観客を引っ張る力は今もある。しかし、さすがに首をかしげたのは次の三点。
脚本的には原作が時代設定を一つ前の時代に置いていること(1945→1912)を理由に、今回上演版は昭和15年(1940戦争直前)に時代設定している。2024→1940である。また、日本初演時の翻案をなぞって原作のイギリスの地方の工業都市の設定を、日本の地方都市に設定している(県庁所在の町という感じである)。この時代設定と舞台設定が見ているとしっくりこなくなった。1940を実感として感じられる観客はもう非常に少ないだろうし、この戦前の時期を語る人もいない。いかにも空白の時代劇である。舞台の上はそれでも良いかもしれないが現在の観客と距離が出来てしまった。
二点.原作ドラマのテーマは四民平等の責任を問う社会倫理劇である。一つ間違えば学校教育ドラマになってしまうところを、サスペンスドラマ風の謎解きドラマを絡ませてテーマを生きた社会ドラマとして見せてきた。今回は謎解きとともに、社会劇から家庭劇(個人の責任を問う)へ比重が大きく傾いた。雇用の不平等や企業の横暴、女性差別、妊娠の責任などの通俗的道具立てと、経営者家族それぞれの勝手放題に犯罪の焦点が当たってくると、謎解きはわかりやすいがヘンに安っぽい。ヤスっぽくならないようにする工夫もあまりなく、実感のない社会情勢(典型的なのは死んだ女性の転落のスジである)で物語が組まれている。
三点。なんだか舞台の上が古めかしい。スジを運ぶ演出は的確だが、俳優たちが型にはまって分かりやすい演技になってしまっている。いつもは新鮮なところが見える尾身美詞(娘)も、時代に引きずられ、瀬戸口郁(警部)も、具象か抽象かはかりかね、現代に届いていない。
この三点を見ると、思い切って、原戯曲を現代に持ってきた方が良かったのではないかと思えてくる。社会問題そのものは現代にも生きているし、人間模様も合わせやすく芝居もやりやすかったのではないだろうか。それでは、戯曲が通用しないというなら、そこが現代劇の宿命で戯曲の寿命が尽きたと言うことになるのだろう。
ヒルの公演なのに、劇場は中年の観客も多く、まるで活気のない老婆、老爺の民藝の客とも、インテリ老人の多い文学座とも違う俳優座の客層で9割は入っていた。この客が劇場がなくなったとどうなるのか考えると折角の都市文化を潰す怨嗟が残る。
あの瞳に透かされる
Pカンパニー
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2024/09/04 (水) ~ 2024/09/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
実在した表現の自由の事件を素材にした現代劇である。
戦時の従軍慰安婦の写真展を、世間に批判を畏れて大会社が中止した。会社は責任を担当取締役(内田龍磨)一人にかぶせて左遷、地方に住まわせて、ほとぼりが冷めるのを待つ。そのいきさつを嗅ぎつけた運動家グループが、むしろ謝って公開した方が大会社に取っては利益になると、二枚舌平気の弁護士(磯谷誠)を派遣してくる。会社も二重構造なら社会の倫理もダブルスタンダードなのだ。
現在の週刊誌的話題ではよくある構造で、どちら側にも現代ならではの問題構造に対して実にナサケナイとしか言いようのない正義がくっついている。
しかし、今は身近なゴミ問題から世界的なロシアの侵攻問題まで、どこにもありがちの、昔風の正邪では裁ききれない問題を舞台で観客に見せるのは難しい。問題はそれぞれ弱みも持っている。多くのことに表裏の諸条件が複雑に絡み合っている現代をどう生きるかと言うテーマはかなり面白く演劇的でもある。しかし、この舞台では残念ながら設定にぼろが出すぎた。最後に、突然、主人公が田舎のフリマで天使の人形を集める、と言うことへテーマの解決を持っていっても無理がありすぎる。主筋の写真展の中身の従軍慰安婦問題や、会社内の内部抗争、まで、さまざまな立場の人間に役割を拡げすぎて整理されていない。この作者は関西の医師出身の劇作家で、過去にも東京で見たことがあるが、このようなとっ散らかり方はしていなかった。劇団として、はじめての作家との取組み方にも混乱の原因があったように思える上演だった。客席は満席だった。
L.G.が目覚めた夜
演劇集団円
シアターX(東京都)
2024/09/01 (日) ~ 2024/09/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
カナダ初演の現代劇だが、宣伝だけではどんな芝居か解らない。見てみれば、現代風俗劇でもあり、ミステリ劇でもある。登場人物は生者が6名、舞台の上に終始いる死者、と重要な枠割りを果たす登場しない人物が一人。計8名。1幕に2場、休憩なしの二時間弱。典型的な現代小劇場向きの作品である。芝居の物語の枠取りは典型的な通夜の客ものだが、設定はかなり今風でエグい。
タイトルのL.G.というのは登場しない人物の名前の頭文字でロリエ・ゴドロの頭文字である(カナダフランス語圏の話である)。
一人暮らしの老母が亡くなって家族が集まってくる。まず、長年家を出て世界的にエンバーミング(死体処理)の達人として活躍している長女(平栗あつみ)が帰郷してササッと老母に最高の装いをする。老母に身近にいた長男(本田新也)とその妻(一谷真由美)、次男と三男。他に斎場の担当者(徳永夕夏)。
長女が若くして家を出た理由は、少女期に近所の男にレイプされたことから故郷にいられなくなったからで、今もその男はそこで生き続けている(出てこない)。ミステリ的な謎は、なぜ、長女は突然帰郷して母の葬儀に自分の力量を示そうとしたのか。さらに、亡くなった老母が全遺産をその男に残すと遺言したのはなぜか。
作劇的にはエンバーミング(映画「おくりびと」の納棺師である)を舞台の上でやってみせるところを入り口(一場)にして、葬儀後の弔花に埋もれた控え室で一族の秘密が次々に明らかになっていく次第(二場)がミステリ的に巧みに展開している。最後に、なぜ、L。G。と言う頭文字をタイトルにしたのか解る。
手が込んでいて、よくある話ながら、今の観客のものにしようとしている意欲作だが、総体的に言えば、上手いのだが後味はあまりよくない。そこがクリスティ張りのフーダニットのあっけらかんとした犯人さがしとは違う現代版フーダニットの難しいところだ。俳優もつか芝居で名を売った平栗あつみの久し振りの主演だが、みなどこか堅い。人間関係に絡まない部外者の若者の徳永夕夏だけがのびのびと好演である。死体を前に陽気にもやれないだろうが、そこがこの芝居のポイントなのである。
余談で言えば、最近、本作のように翻訳者が演出まで務めることが多いが、翻訳と演出では芝居の役どころが違う。適任の感性も違うと思う。この演出者は今回を含め、初々しく好ましい演出だが、ここから先で失敗し悲惨なことになった先例も目前の例もたくさんある。この演出者はまだ若いだけにその轍を踏まれないように頑張ってほしいものだ。
奇ッ怪 小泉八雲から聞いた話
イキウメ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2024/08/09 (金) ~ 2024/09/01 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
小泉八雲の著作から選んだ奇っ怪な数編をイキウメ風にアレンジした怪談ファンタジーである。選ばれた原作は「骨董」から「茶碗の中」「常識」、「怪談」からは「お貞の話」、他に後に「怪談・牡丹灯籠」の前半の大筋になる浅井了意の「お伽啤子」からとった話などを構成している。大枠は、原作が書かれたとおぼしき頃、警察官(安井順平)と検視官(盛隆二)が捜査の途中で山中の廃寺に宿を借り、その女主人(松岡依都美)や長逗留の小説家(浜田信也)、ややどの仲居などから奇っ怪な話を聞くというメタシアターのオムニバスになっている。有名な原作で既に映画にも名作とされている作品もあるが今回は「怪談」と言えば必ず採用される「耳なし芳一の話」や「雪女」は使用されていない。話者も演じ、聞き手も物語に参加するイキウメらしい構成の夏芝居である。
舞台は古い木造建築を思わせる十本近い柱が立ち、天から常時砂が流れ落ちている中央の庭には、下手に石を積んだ墓(第一話の普賢仏を騙ったった狐の墓である)、上手に紅梅の木)、庭の廻り廊下に、出演者たちが能舞台よろしく摺り足の運びで登場して幕が開く。捜査中の警察官たちが現われるあたりは、泉鏡花の雰囲気である。
小泉八雲原作については、さまざまなアプローチがなされているが、「奇っ怪」が舞台で伝えかったのは、原作にある江戸時代の民衆綺譚でも、ジャポニスク趣味でもなく、この国に受け継がれている奇っ怪な独特の人情の交流のようでもある。西欧に生きた人には、そんな・・と思われるような、例えば、最後に取り上げられた怪談牡丹燈籠のお露と新三郎のどうにも奇っ怪な人情の機微の世界である。庭の墓にある死体の正体とか、茶碗のなかの男も、お貞も、西洋人には、そして現代人には奇っ怪なファンタジーなのである。そこを作者は上手く拾って夏向きのオムニバスにした。
小泉八雲のいぶかしさは結局作品を英語で書いたことでも感じられるが、いまは、そこが現代日本人のいぶかしさと通じるところがあって、面白い。つまりは小泉八雲はいまはイキウメ風に読み解くのが我が国に伝わる「怪談」ファンタジーの読み方としては時流に乗っているのだろう。
イキウメの俳優たちもすっかり上手くなって、この現代化した日本の怪談を現代の観客に上手くつないでいる。新進の若い女優たちも劇団のベテランの中にに新しい風を運んでいて、いい夏芝居になった。満席。
雑種 小夜の月
あやめ十八番
座・高円寺1(東京都)
2024/08/10 (土) ~ 2024/08/18 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
小劇場には珍しい季節狙いの夏芝居かと思ったら、これは日本劇作家協会の推薦・夏芝居で、この劇団のシリーズ公演の第三作でもある。
地域では知られている神社の参道にある名物団子屋一家の三代にわたる人間模様ホームドラマだ。雑種の飼い猫まで噛んでいるのもご愛嬌。
作者(堀越涼)の三十歳代の実体験が下敷きになっている由で、今も地方都市に綿々と残っている日本の伝統的な命のつながりを、神社、その祭礼儀式、伝統信仰を護る家族の生き方、地域との関係の中で、いまに続く生活ドラマとして描いている。
たとえば、加藤拓也の「ドードーが落下する」が地方の演劇青年の人生を辛く切実に描いているのに比べると、こちらに登場する都会からやってきた演劇青年(当日客演・藤原祐規)はいかにもの今時のその場に生きる青年である。どちらがいいということではなく、どちらも今までの日本の地方に生きる人々の類型から逸脱していく時代の子である。青年だけではない、伝統の中に生きている老若の登場人物たちの生き方にも、時代の生き方は反映している。そこが、夏芝居のシリーズドラマを装ってこの夏枯れの時期に上演されたこの芝居の一番の見どころだろう。
使いにくい横に長い座高円寺の舞台を中央に置いて客席を対面に組んだ古典劇のような舞台はノーセット、上手に稲荷神社の鳥居、下手に五本の竹を立て、そこに西洋音楽の四人編成のバンド(木管のファゴットが入るというユニークな編成。V,Gu,Pf)を下座として置くという抽象舞台で、劇中歌もあり、邦楽楽器も活躍する。一見無秩序な構えなのだが、これが神社の門前町という舞台によく似あう。この美術・音楽が第一。物語は女性を軸にした三代のホームドラマなのだが。人情噺の相続劇に落ちそうなところを女性個人の生き方の問題にしているところが第二。三十歳を軸に観客が同感しながら見ているのは、都会に生きる人々も地方に根があるからであろう。客席は幕内も多いがそれだけでは230の席がみるみる埋まるということにはならない。
注文を言えば、キャラを出すことに慣れている花組の俳優(男優)たちに比べ女優陣の性格表現が弱い(面白くない)ところ、広い舞台を持て余し気味で、女優陣のセリフがお互いに届かず会話が単調になってしまったこと、音楽が意欲的なのはいいが過剰なこと(饒舌に通じる)。ほかの方々も指摘されているが脚本が説明過剰なこところ、ことに出だしと最後の部分、説明は演技で埋めなければ、シチュエーションドラマは締まらない。それは17名に猫という登場人物の数がこの芝居の構えとしては多すぎるところからきている。
作・演出も俳優も甘さは目につくが、それらはすべて、物語の日常のやさしさと道具立て、夏芝居の気分で帳尻を合わせてしまった2時間5分である。
せっかくタイトルにも使っている雑種の猫の使い方までは手が回らなかった。
ミセスフィクションズのファッションウィーク
Mrs.fictions
駅前劇場(東京都)
2024/08/08 (木) ~ 2024/08/12 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
若い、と言っても十年くらいのキャリアのある世相コメディ系、あるいはコント系の三劇団の45分前後の短編三作の合同公演である。ミセスフィクションズはその間に「花柄八景」という大当たりがあったので今回も発起人的存在だ。確かに花柄はよかった。(小劇場フリークにとっては突然でなかったのかもしれないが、めったにアゴラまでは足が伸びない)普通の芝居好きには突然現れたこの意味の分からない劇団名の舞台には、いままでのコメディ系に欠けていた空間を突く意外性があった。結構よくある古典的設定や展開を使っているのだが、そこに現代性を下品に陥らず(ここは大きい)織り込んで、百人以下の劇場の熱量を上げていく。初見では驚いたものだった。その後、「伯爵のおるすばん」も見たが、こちらはさしたることもなかった。もう少し見てみたいと思っていたが、コロナもあってこの劇団めったに公演をしない。作者もほかの活動の場に触れることがなかった。
芝居者が引っ込み思案でどうする!と言いたいところだが、発表作品が少なすぎる。
今回の「およそ一兆度の恋人たちへ」も、面白い設定だし、笑いも考えて織り込んでいて三作のなかでは完成度は一番だが、短かすぎる。花柄も後二十分は行けるし、この作品ももっと練りこめば、単独公演が打てたのに、と思う。プラダとウルトラマンの使い方など、これはビッグネームなのだからもっと若い主人公を絡めて膨らまして面白くなったのにと残念。とにかく、作者が濫作できる年齢はそれほど長く残されていない。どんどん思い切って書いてみることだ。清水邦夫は劇作でいいのは40歳まで、と言い、ケラはそのころは年に六作(長編)は書かなければ、という。井上ひさしはテレビの連続ドラマで腕を磨いた。あまり例のない才のある中嶋康太という作者とミセスフィクションズには作品で勝負に出てほしいものである。
BIRTHDAY
本多劇場グループ
新宿シアタートップス(東京都)
2024/07/24 (水) ~ 2024/07/30 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
見どころのある小劇場エンタテイメントである。
まずは本の選択。ちょっとした未来の話である。男性も妊娠できるようになって、妻が出産できない夫婦では、夫が代わりを務めることができるようになった。保険も効く。第一子を生んだ後、二子が生めなくなった妻に代わって出産を引き受けた夫がいよいよ出産の日を病院で迎えようとしている。すでに経験済みの妻(この辺の設定がうまい)は落ち着いたものだが、夫は初めての経験におろおろする。ここで妊娠についての男女認識の差がネタになって結構笑えるが」が、加えて、制度は良く出来ているが実質が伴わないイギリスの病院の対応はわが国にも通じるところもある。新しいシステムや技術が生むいかにもありそうなナンセンスも笑える。良く出来た世相風刺コメディなのだ。
作者は日本では初訳なのかもしれない。結構実績はある作家なので、ロンドンでは(多分NYでも)こういう本がごろごろしているのだろう。この本は2011年ロンドン初演。忘れられかけている本を日本では行けると拾った製作者の眼力。
次は配役。四人の出演者は小劇場ではおなじみでベテランばかりである。夫を演じる阿岐之将一 が一番若い。しっかり舞台が務まる人を輩出している新国立の養成所出身で、難しい作品で目立つ脇役を何作も見ているが、ここでは。阿岐之は主役だから大張り切りで、出産する夫を演じる。対する妻が宮菜穂子。現実年齢では親子でも務まる夫婦だが、さすがのキャリアで、結構勝手なのに夫をなだめすかして出産させてしまう「良妻ぶり」を演じる。過不足なく満点の出来である。病院側で、勤務時間と体制ばかりが仕事の軸になっている南ア出身の看護師が山崎静代、緊急事態になって登場する研修医が石山蓮華、山崎は舞台でもテレビ映画でもこういう現代型職業人役はやりつけている。石山が初々しさまで出していたのはここもさすがのキャリアである。演出(大沢遊)もよかったか、四人ともに実に役に対するセンスがいい。小劇場界の成熟してこういうエンタテイメントも十分できることを実証した。
最後は劇場である。新宿のど真ん中、絶好の場所柄なのだが、上演作品を選ぶのは難しい。しかし、小屋にピッタリ、という出し物はあるもので、これはまだ周囲に空席はあったが、うまくはまっていると思う。楽しめた1時間45分だった。物価高騰の折、なんとか五千円以内でこういう作品を楽しみたいというのが観客の願いでもある。
らんぼうものめ
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2024/07/20 (土) ~ 2024/07/28 (日)公演終了
実演鑑賞
子供のための演劇というのは難しいものだ。まず、劇場という特殊な場所で見せるという非日常世界へ連れ込むことが難しい。子供はすぐ大人のたくらみを見破る。我が家でも、何度か学齢前後の子供たち姉弟を劇場に連れて行ったことがあるが、子供たちのお眼鏡にかなって、成人してからも記憶に残ったのは円が西新宿の倉庫で上演した「お化けリンゴ」だけだった。四十年位前の話だ。今でも時々だが劇場に行くらしいので、親としてはそれで十分成功だったと思うが、今、随所にある公立劇場で連休に子供演劇祭りなどと称して、いかにも安易な取り組みで児童劇をやっているのを見ると、この道、厳しいぞ、といいたくなる。
「らんぼうものめ」は今、旬の加藤拓也の児童劇で、さすがに、日生の劇団四季の子供劇とは違う。若いだけにまだ子供のころの自分の劇場体験をなぞるように作ってあって、劇場の前半分に入っている子供たちもちゃんと芝居を見ていた。つくりも、時代を反映していて新しい。「千と千尋の神隠し」のような作りで、引っ越し(は宮沢賢治以来の王道ネタだ)で母を見失った男の子(鞘師里保)が母を探すうちに様々な神様に会っていく話だが、神様の姿のつくりや父母との関係、教訓のつくり方などには今風の工夫があった。
全力投球とはいかないだろうが、こういう企画で公立劇場で若いクリエイターや劇場運営者が子供と接する機会があることは、演劇の社会的環境を広げる意味のあることだと思う。
親子で八割の入りは成功だろう。
エンドゲーム
ルサンチカ
アトリエ春風舎(東京都)
2024/07/19 (金) ~ 2024/07/27 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
ゴドー(1952)の後、ベケットはこういうものを書いた(1957)のか、ゴドーに何とかケリをつけたいと思ったのか。つまらない義理立てをしたものである。あまりやらない作品だが、それでも別のタイトルではよく上演されている。新劇系で見たことがあるような気もするが数十年も昔だ。
大きな白い安楽椅子から動けない館の盲目の主人(川本三吉?配役表が配られないないから知らない俳優にあてずっぽうだが)と片足が不自由なその従者(伊藤拓?)が最後の日を迎えようとしている。部屋の奥の部屋(見えない部屋で顔だけ出す)には主人の父(瀧腰教寛?)も寝ている。
天井に横に四列、縦に五行の白色蛍光管の照明が並んでいる殺風景な部屋で外に向かって(客席に向かって)二つの窓がある設定。そのカーテンを従者が足を引きずりながら開けるところが幕開きである。原作が書かれた50年代から60年代にかけて終末ものが流行った時期の作品だが、秀作ゴドーは今見ても奥が深いのに、こちらはよくある終末SFみたいで、今見ると話がつまらない。演出も原作に沿って古い本を読んでいるようで味気ない。俳優たちも登場人物の相互関係だけで演技していて設定が生きていない。状況順応の空元気かと思うがそういうわけでもなさそうだ。
まもなく世界がなくなるという時期を背景として、こういう芝居つくりはリアリティを欠く。原作そのものが平板ということもあるが、今はAIの時代である。上演するからには、それでも現代人に伝わるように何とか工夫しなければ。そういう劇場の外を無視して閉鎖的なのが(アゴラ系劇団共通の)退屈の元だろうと思う。1時間50分。
余談では、この演出家、秋にロンドンのチャリングクロス劇場で谷崎の「刺青」をこちらも新進の兼島拓也の本で上演するという(大阪の梅田芸術劇場の仕込みらしい)。9月にこの劇場で日本プレビューのあと10月に二週間公演する。加藤拓也作品と二本立てだというから、ジブリ効果で日本演劇も注目されるところがあるのだろう。チャリングクロスと言えば日本演劇ではおなじみのサドラーウエルとは違うし、バービカンでもない。ホントの本場である。浮足立たないでいい仕事になることを祈っている。
ふくすけ2024-歌舞伎町黙示録-
Bunkamura
THEATER MILANO-Za(東京都)
2024/07/09 (火) ~ 2024/08/04 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
独自の作風で、いつの間にか居場所が決まってきた不思議な作家がもう、30年も手掛けている「ふくすけ」(1991年悪人会議で初演)の2024年版。世にある暗い現実、親殺し、子捨て、階級差別、障碍者差別、地域差別、性犯罪。それが生み出す差別用語や暴力が飛び交う不穏なダークな舞台なのに、大きな商業劇場で堂々と一月公演ができ、しかもそこから人気俳優も生まれる。満席の観客は笑いながら楽しむ。なんだか劇場が丸ごと異常者の収容所になった趣なのに、別の視点から見れば、まぎれもなく今そこにある社会とそこに生きる人間のドラマである。キワの話を取り込むという点では終わって一月もたたない都知事選も登場する。ユニークな現代劇なのである。なんだか「刺さる」芝居なのだ。
主演は阿部サダヲ。今の時代が歩いている俳優である。大人計画のガラと演技の微妙な味でふつうの芝居には登場しないキャラクターが次々と登場する。今回は俳優もそろった。
新宿の新しい東急の小屋はこけら落としからほぼ一年半。あまり型にはまらず、既成の名作再演に頼ることもなく、次々にいろいろな趣向のステージを見せてくれた。
「ふくすけ」もチケットは売れていないと言われてきたが来てみれば上の方の階は見えないが1,2階はほぼ満席ではないか。それに観客層の幅は広く厚い。「ふくすけ」は新宿らしい行儀の悪さと活力があってこの劇場の出し物の中央に来るものかもしれない。
芝居としては多彩な俳優たちもよく生かされているし、御簾内張りに邦楽の生音楽が入っていたり、仕込みがかかっているだけのことはある(12,00円も納得するが)。
細かいことだが、字幕が読む間もなく消えてしまうのは、どうかと思う。
流れんな
iaku
ザ・スズナリ(東京都)
2024/07/11 (木) ~ 2024/07/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
劇壇創設の二年目・十年前に初演した作品を、舞台を広島に変え、小劇場で実績のある俳優たちを迎えた横山拓也・作品の再演である。横山は、昨年、「モモンバのくくり罠」で鶴屋南北賞も受け、今や若手劇作家の一方のリーダーとみなされるるようになった。これからはさまざまな要望にあわせての戯曲提供も、商業演劇や大劇場の要請に応じた売れる作品も書かなくてはならない位置にいる。この際🅼ステップを上げた座組で過去作品を自分の劇団の主宰で再演してみるのはいかにも横山らしい。観客にとっても興味深い。
横山の初期の作品では,現代社会の中で、気が付かれてはいるのだけれど、なかなか表立っては一方的に解決できない問題を、それにまつわる人間たちの実生活の姿から描いた作品が多い。いわく、母子家庭の青春問題、障碍者の性処理問題、少年時の事故の後遺症、自然保護、障碍者保護の矛盾。予想できない職場の事故などなど。すべては解決できないけど、それでも人はそこでそれぞれ生きていく。教条的でも教訓的でもないドラマは、非常に新鮮だった。
現代に生きる人々の出発点はまずそこにある生活を見ることだ、という主張は、当時、衰退、硬直して自己中心的な世界に閉じこもっていた小劇団群を一掃する力があった。
関西から出た劇団だが、東京の小劇場界でもたちまち、脚光を浴びた。
「流れんな」もその時期の作品だが、当時は見ていない。ここでも、「貝毒」の処理の問題が、地方の地域活性化の問題と絡んで扱われている。今なら作者もこうは作らないであろうという点も見えるが、初々しさがあって、面白く見た。今回は俳優がずいぶんグレードアップされていて、この俳優たちの芝居でドラマとして弱いところはずいぶんカバーされている。異儀田、近藤の達者なベテランにくわえて、iakuに踵を接して出てきた小松台東の今村、あはひの松尾も健闘、最近見るようになった宮地綾もなかなか良かった。この点でも再演の意味はあった。
横山は次はPARCOのファンタジーの一月公演を書くという。なれない座組だが、挑戦の成功を祈っている。うまくいっても行かなくても、これを糧にしてすねたり、小理屈に走ったりしない(これが大事)作家精神の太さを買って期待している。
オーランド
パルコ・プロデュース
PARCO劇場(東京都)
2024/07/05 (金) ~ 2024/07/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
今年の屈指の舞台である。。
昨年から今年、作品を見ることが少なかった栗山民也の準備万端、全く隙のない気合の入った演出に宮沢りえが見事にこたえ、それを取り巻くスタッフ、キャストもそれぞれ力量を発揮して、近代から現代へ時空を飛ぶオーランドという一人の人間を通して世界を見ることができた。
終演後、劇場を出て、諸国民の観光で雑踏するスペイン坂を抜けて。渋谷の街に降りていく。雨もよいの十字路に立ってみると、そこが観客にとっては芝居の幕が降りる時であることに気づく。実に稀な「演劇的」一夜になった。
かなかぬち
椿組
新宿花園神社境内特設ステージ(東京都)
2024/07/10 (水) ~ 2024/07/23 (火)公演終了
実演鑑賞
外波山文明が主宰する椿組恒例の夏の花園神社の野外劇も、今年39回で幕を下ろすという。はっきりとは言っていないが、たぶん地域の中でこのような興行に風当たりが強くなったからだろう。一方では、地域イベントが求められているのに、外波山としては残念なことだろうと思う。短躯の脇役俳優のどこにこの興行にこだわった原点があったか、小劇場らしい理由はいろいろ伝えられているが知らないほうがいいような気もする。
最終公演は中上健次の知られていない戯曲を青木豪が演出した2時間。雨が降って、緩めの満席だったが、例年通り、最後にはテントを開け、土の舞台では俳優と観客が飲むイベントも盛り上がったことであろう。当日パンフには過去の上演リストがあって、この本は和田喜夫演出で13年に初演している。39年間の個々の演目では、小劇場のスターたち(例えば、唐、寺山、野田)を外して、独自路線でテントで大衆観客とのつながり(言ってみれば新宿三丁目路線とでもいおうか)を求めようとしてきた。俳優も椿組の俳優だけでなく、飛び入りも歓迎らしく種々雑多な小劇場・新劇のの俳優・演出者が参加してきた。。
今回も、当日パンフに顔写真がある役者だけで四十数名、主演に松本紀保と山本亨を迎えて、南北朝時代の吉野の山中の異郷の住人かなかぬちを軸に権力からこぼれた庶民劇が展開する。歌あり、殺陣あり、メロドラマあり、白毛の巨大な獅子が登場するスぺクタルあり、の賑やかな祝祭劇的なシーンが次々と展開する.青木豪はよくまとめた。
助成金は出ているが、次に立ち上げるのは容易ではない独特の演劇界の夏祭りのフィナーレである。
アウト・オブ・オーダー
劇団NLT
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2024/07/10 (水) ~ 2024/07/14 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
イギリスの笑劇王といわれているレイ・クーニーの取り違え喜劇。とにかく一つのウソが次とんでもない結果を生み、それを正そうと、次の取り違えがまた混乱を大きく広げていく。
、日本の笑劇だと人情がらみのウエットな局面もあるが、レイクーニーの場合は取り違えの混乱の笑いだけで持っていくドライな芝居一直線。次から次と変わるシチュエーションにも、機関銃のように飛び交うセリフにもスピーディに的確に対応しなければ場が持たない。セリフにも、動きにもかなりの技術がいる。この舞台はNLTだけでなく、加藤健一事務所でも、確かどこか大きな劇団でも上演していた記憶がある。訓練がいるし、難しい笑劇なのだ。
NLTはこういう芝居ではさすが老舗でこの舞台にもスキがない。みなうまい。新人の若い人たちが舞台のスピードに怯えながらも懸命にチャレンジしているところも、こういう特殊な領域に生きてきた劇団らしい。NLTやエコーは喜劇を柱にもう長い歴史を持っていて特定のファンもいる。若い俳優も、観客も着実にいるところが頼もしい。初日満席。
今回は、珍しく(私が見ていないだけかもしれないが)ベテラン・海宝弘之が軸で、この俳優のガラも生きて快演。息子の海宝直人は東宝ミュージカルでメインの脇役を務め、時には主役の相手役までに成長した。やはり早いテンポの芝居がうまい。親子で小さな劇場でショー形式の舞台なども見たいものだ。
デカローグ7~10
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2024/06/22 (土) ~ 2024/07/15 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★
三月にわたった公演も後半になって後二話。このブロックDはともに上村聡史の演出である。出演者にも疲れが見えるが、観客の方も疲れてきた。今回は客席もやっと半分としか見えない入りで気勢が上がらないことおびただしい。
7は高校生妊娠で出産した子を母親が子として育てる。若気の至りだが、父親は別の町で暮らしている。実の母も成人して、子とともにカナダへ出国しようとする。出国を企てる一日の80年代後半のワルシャワの集合住宅を舞台にした一話55分。実子のつもりで育ててきた母親(津田真澄)の喪失感。母親が守ろうとしてきた娘(吉田美月喜)が孫を攫って去っていこうとすることへの思い。娘の子(娘・この子役のさらりとしたうまさでずいぶん救われている)、への思い。世上混乱期の話なので、なんだが戦後の大映映画の母ものみたいな設定で、津田真澄が現代版の三益愛子をうまく演じる。父親の元若い教師(章平)にとってはすでに過去の話だ。しかし、ぬいぐるみの製造を仕事にしている父親のところに娘が転がり込んで、気まずい親たちをよそに娘が作業場の片隅に寝てしまうところなぞ、大映映画調設定が生きて洋を問わず、人心は変わらないと思いはするが、そんなことなら七十年前から見ている話である。
8話は女性大学教授(高田聖子)のもとにそのポーランド語の本を英語に翻訳した英語圏の女性(岡本玲)が訪ねt来る。翻訳を立て前にしているが、実は訪ねてきた女性は、戦時中のナチのホロコーストをのがれた経歴があり・・・というあたりからは、日本では伺いにくいナチのユダヤ人虐殺の現代に残ろ来ず傷跡の話になっていくが、これは、日本が原爆投下されたからと言って同一に解釈するわけにはいくまい。さすがに製作者側もケーススタディのドラマ進行だが、それだけに今度はこちらには伝わりにくい。
8話を分かったつもりになるよりは7話のほうが面白く見られた。しかしここまで、このポーランドのテレビ連続ドラマの舞台版を見てきたが、一話一話は良く出来た短編集みたいで面白く見られるものもあったが、この8話のように深いところは描き切れてもいない。そこがテレビと演劇の大いに違うところで、そこを、日本の演劇作者は甘く見て簡単に取り組んだとしか思えない。亀田佳明が演じる十話通しの無名の登場人物、などただただいい役者をもったいないことをするものだという印象しか残らない。異国で演劇化するなら、そこをこの演劇上演の核としてしっかり立つように考えておかなければ、30年前のほとんど知らない異国のドラマを上演する意味がない。
ナイロン100℃ 49th SESSION 「江戸時代の思い出」
ナイロン100℃
本多劇場(東京都)
2024/06/22 (土) ~ 2024/07/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
ナイロンの49回目の公演。30周年の記念公園でもある。90年代から、独立独歩。一貫して自分の世界を追求して、ぶれることなく、官の栄誉を求めることなく、多くのファンも集めて日本の演劇史上独自の作品を作り続けた。たいしたものである。
タイトルからして、平易なようだが、このとぼけたような思い出の中にはKERAの世界が詰まっている。
ナイロン初の時代劇というとおり、幕が開くと江戸時代らしき小山の上の街道筋の峠の茶屋。道具は一杯だけだがそこで二幕3時間20分(休憩15分)の舞台が始まる。記念公演だから、ナイロンの歴史を紡いできたおなじみの俳優たちが総出演で、一言でいえば、不条理劇のナンセンスコメディ調現代劇が展開する。
軸となる登場人物は峠の茶屋を守る「お肉」「お魚」「お野菜」と名付けられた三人娘。(犬山イヌコ、松永玲子、奥菜恵)、訪れる旅人は浪人・武士之介(三宅弘城)と大名行列からはぐれた家来・人吉(大倉孝二)。丘の下の村では祭りが行われているが、実は飢饉が進んでいて、三人娘はお互いを食いかねない状況だ。物語は大名行列から外れた人吉が、武士之介に呼び止められ、武士之介の思い出話を無理やり聞かされるところから始まる。
二幕の舞台は4っつのエピソードに分かれていて、一応、エピソードとして完結しスクリーンで「○○話・莞」とも出るが、緩やかな連作形式である。
思い出話は最初は武士之介のもののようだが、物語の展開で、誰の思い出かも、話される話の時代設定もよくわからなくなる。物語の担い手も、丘の上に小学校の時に将来の夢を埋めた考古学研究会のメンバーが掘り起こしにやってきた思い出話、とか茶屋にやってきた殿様一行と祭りの時の瓦版売りの思い出、とか、何かの記憶を軸として思い出話がナイロンの名優たちによって奔放に展開する。客席も使った観客や本多劇場の管理人まで登場するバレネタもある。
ナンセンスな物語が、ナンセンスな枠取りの上に展開するのだから、客席からは笑いが絶えない。笑っているうちにお開きになるのだが、ドラマの核には現代劇のテーマが見事隠れている。残酷非情の現実は笑って過ごすしかない。思い出話はその時には、力があるかもしれないし、また残酷に無力かもしれない、だが、そこで行列を作って生きていくしかない。
まずは、観客は野田と並んで二人の優れた劇作家と時代を共有できたことを喜こびたい。
ひと月の半ばにかかろうとしているところ、若い成人客層を軸に多彩な客席満席。