満足度★★
平凡な出来ばえ
この芝居、原作に、よくいえば忠実な舞台化であるし、わるくいえば要約にすぎないとも思います。
あまりにもフツーすぎるといいましょうか。どうも面白くなかったですね。
ネタバレBOX
台本はよくまとまっていると思います。5時間半のドラマを2時間余りに短縮していても、大きな破綻もなく、手堅く構成されています。
演出も、長女の家の玄関、次女の家のリビング、四女の一間のアパート、生家の庭と食卓、と4つの空間を中心に据えて、場面転換や同時進行劇をスムーズに進行させます。照明や小道具も巧く使ってました。
作家も演出家も演劇的な表現に腐心していることはよく伝わってきます。
けれども、観劇後、特段の感想はありませんでした。
「女は阿修羅だよ」「気をつけような」そんな台詞を次女の夫に言わせてるエピローグは同じだったが、ドラマの視聴者は自分の感慨とそれを重ね合わせて感動を得たのと対照的に、芝居の客はなんとなくワカったような気にはさせられるけど、なンかこうよそよそしい気持ちで帰るんだ。
そんなふうに思いました。
芝居を見ていて、つくづく思ったのは、この話の中身自体は陳腐きわまりないってことです。
つまり、この作品の独創はストーリーやシチュエーションの内容というより、一見たわいないやり取りの深層、サブテキストにセック(辛口)な人間観察の凄味が潜んでいるという点にあったのだと気づかされました。
今回の舞台化、このサブテキストというものを欠いているのでした。
例えば、次女の巻子(荻野目慶子)が夫の浮気に悩み無意識に万引きをしてしまうというくだりです。ここは、荻野目のひとり芝居でよかったのではないでしょうか。警備員らしき男のナレーションは雑音でしかなかった。また、この場に先立ち、浮気相手と思い込む夫の秘書と出会う場を用意しているのも蛇足の感を持ちます。分かりやすい状況説明のつもりなのでしょう、が、客は直感や想像力でドラマに参加する余地をなくされてしまっている。同様の感想を持つくだりが多々ありました。
原作を損なわずに、という意識が強すぎたのかもしれません。
もっとも、原作ドラマと全く同じものを創るなら、わざわざ舞台化を企てる必要もないわけで、向田邦子と和田勉から出発して、ドラマと別物にならなければ意味はない、はずです。
けれども、若い作家と演出家には、公演芸術として演劇実験をおこなう大胆さも斬新さにも欠けていました。とても残念です。
満足度★★★
見ておいていい作品
舞台、その有り様自体が異色の芝居でありました。
驚いたという以上に、僕は愉快でしたね。こういうやり方もあるんだなと。
評価の分かれる演出でしょうが、僕は支持したいと思います。
(ちなみに、当日券は余裕があるそうです)
ネタバレBOX
靴を脱いで入場すると、そこは奇妙な空間。
真っ白な毛足の長い絨毯、中央にベンチが三つ、壁は黒をベースに所々に白い四角の模様。
三方の壁には、三つの大きさの異なるスクリーンとモニター、二つの大きな鏡。
天井にはミラーボール。
背後には、モダンアートのオブジェ、美術関連のパンフレットが置かれた棚、屑籠。
客は好きな場所に座っていいという。ここで芝居・・?
見回していると、客に混じって役者がいるのに気がつきました。なにが始まるのか?
場内が暗くなり、スクリーンとモニターに英語で様々なメッセージが流れ始めます。Where are you from ? 音楽が止み、役者たちが立ち上がると、自分の出身地や上京した経緯を語りながら彷徨います。
これは戯曲にはないプロローグです。本編でも同様に、役者たちは客の合間をぬって移動し、ベンチに座ったりしながら演技をすることになります。
プロローグの終りに、演出家が登場して、上演中も好きな場所に移動して構わないと言う。ホントに大丈夫?
結論を言うと混乱はありませんでした。戸惑っていた僕も段々と高揚してきて何回か移動してみました。面白かった。慣れないことをしてかなり疲れましたが。
このやり方で2時間以上は無理もあった。ツキアイキレナイ客もいて当然でしょうね。
けれども、この戯曲にカットできる余地はなかったでしょう。
さすが平田オリザの代表作ですね。ただの通行人と思えた人たちが過去に繋がりがあり、たまたま束の間の再会を果たすという`偶然`を描きながら、一箇所として展開に必然性を欠いた、あやふやなこじつけは見えない。初演当時の日本と東欧、バルカン半島から中東まで、歴史的状況を取り入れた作劇が古びた印象を与えないのも大したものです。
多田淳之介の演出のテーマは、客を見られる存在にも成すということにあったと思います。この4年余り地方との関わりから生まれた観客が参加する演劇への興味の発展、地域・東京での活動のテーゼであるのでしょう。
そのスタートダッシュにこの大胆さで臨んだ度胸と志を、僕は買いたい。
多田はあえて奇を衒てらう演出を試みましたが、作品の大事な本質は表現出来ていた点も評価しておきたいと思います。
例えば、最終シーンの泣いたら負けの「逆にらめっこ」です。
役者も好演しましたが、暗転のあと、年代が進んで 9999 そして 0000 になる映像と美しいピアノの旋律が胸を衝きました。
平凡な人間の、けれども切実を極める心の痛み。それでも、ひとは生き続ける・・。
演劇理論や批評性から語られることの多い平田オリザ作品の詩情をよく描けていたと思います。
満足度★★★★
優れた出来ばえ
千秋楽から時が経ちすぎてのコメントになってしまいました。失礼します。
野心的な企画、大変すぎる挑戦でした、が、健闘したと思いますね。
創る側の苦労や葛藤が大きいと観る側も骨が折れる。けれども、充実感は残る。
そんな舞台だったと思います。
ネタバレBOX
序幕のポセイドン(アラビア語)とアテナ(ヘブライ語)の対話では神話世界に魅了されます。特にポセイドンの貫禄が素晴らしい。荒れる海の美術も美しいものでした。
この荒波が引くと、ヘカベ(白石加代子)が地に伏しているという見事な劇的効果で本編に入ります。
第1幕、ヘカベ(日本語)とタルテュビオス(アラビア語)の対話からもう作品の世界に引き込まれます。カッサンドラ(ヘブライ語)が加わる3人の対話場面は、劇中最も見応えのある部分でしょう。カッサンドラの舞踏的身体表現の悲劇性は、言葉の壁を越えて迫真的でした。
この後から始まるコロスの合唱舞踏こそ今回の企画の真意を端的に表す場面であり、客の評価も分かれる部分でしょうね。日本語、ヘブライ語、アラビア語の順で3度繰り返される合唱、民族性を表現しているとされる各々の身体表現、見届けるのにかなりの忍耐が必要とされるのは事実です。僕も相当骨が折れましたが、先述した通り、充実感が残りました。
第2幕には、アンドロマケ(ヘブライ語)が登場。この人も好演ですが、第1幕のカッサンドラには及ばないと感じました。
2回目の合唱舞踏があって、第3幕にメネラオス(ヘブライ語)とヘレネ(和央ようか)が登場、この戦争の愚かしさが暴露される見せ場です。和央は見事な美貌ですが、類型的な演技で存在感は軽い。尤も、そういう役なのだから、責は充分果たしたというべきなのでしょう。
3回目の合唱舞踏の後、終幕です。ギリシャ人の略奪と放火に加え、大地震の直撃でトロイアは完全に崩壊する―。見事な赤の照明が忘れがたい情景を見せてくれます。古代から繰り返されてきた文明の興亡、気の遠くなるような時の流れが一瞬で閃き見えるような不思議な感覚。去りゆくトロイアの女たちの姿には、現代世界にも確実に存在する紛争犠牲者、おびただしい難民たちが重なります。心の奥深くまでくい込んでくる悲しみは悲劇のカタルシス、文句のつけようのない劇的ピリオドを刻んでました。
こうやって振り返ってみると、白石の力演がいかに素晴らしかったか再認識しました。彼女はまさに悲劇の王妃、妻、母そして祖母として舞台の上で生きていました。
蜷川幸雄には、この大仕事をやり遂げた集中力、敬意すら感じます。
どうぞ、これからも、本物の感動、大人のドラマを見せて下さい。
満足度★★★★
上出来の部類
タイトルが素材の持つ凄惨さを印象づけるのとうらはらに、軽やかで、明るく、笑いと涙に彩られた歌劇でありました。
面白かった。
そして、感動しました。
ネタバレBOX
小曽根真は素晴らしい仕事をしました。場面転換時の演奏は全て即興とは驚かされるし、役者との絡みでの楽しい裏話が、アフタートークショーで聞けました。 井上ひさしの台詞はそれ自体リズムがあるから、曲をつけるのも難しいように思えます。ジャズメンの感性と技術が活きたのでしょう。
井上芳雄以外、唄は素人の筈ですが、全く気になりませんでした。雑音は感じなかったですね。
好演揃いです。例を挙げたくても、枚挙に暇がありません。
栗山民也の演出は的確な折り目正しさ、静かな優しさを貫いていたと思います。
けれども、評価に迷う部分も少なからずありました。
特にエピローグ。
スクリーンに映し出される井上芳雄つまり小林多喜二のポートレートを囲んで、『胸の映写機』を五人が唄うエンディングは感動的です。けれども、6人の俳優全員が合唱するという作者のト書きも、僕は捨てがたい。正解は、やはり、ホンのなかにある気がするのですが。
小林多喜二と特高警察との追跡劇を宥和的大団円に導く作劇は議論の分かれるところでしょう。
憎しみの連鎖を絶ちきるアウフヘーベン、というのが僕の解釈です。
『ムサシ』と同じです。
それが晩年の作者の切実な心情だったのだと。どうしても伝えておきたかったこと、(おそらく)特に若者たちに、弱い者イジメの構図で成り立っている国の歪み、この不正と向かい合うことは、あなた方ひとりひとりの尊厳と未来への希望の問題なのだというメッセージ。
立派なのは、居丈高な社会派告発劇のコドモっぽさからは隔絶した複眼的表現の深味です。
例えば、刑事たちのデュエット『パブロフの犬』が衝いてるのは、暴力装置の恐怖といった次元にとどまらず、安易に自己放棄する人間ほど当面の職業的義務の達成にはしゃかりきになってのめりこむ、あの日本人独特の不気味さです。それがこの二人の人間臭さとしてユーモラスでもあるのだけれども、ただの博愛で、彼らが人間らしく描かれているわけではないと思うのです。
最晩年になって、作者は父が特高警察の拷問による傷害がもとで病に罹り死に至った事実を明かしました。
多喜二に父を、多喜二の理解者であった3人の女性たちに母を、作者が重ね見ていたことは明らかだと思います。この作品の結末は両親への涙の祈りでもあったのだと。
もしかして、これが最後になる予感があったのかも知れません。偶然だとしても、よほど運命的な暗合だとしか思えない。あるいはやはり、覚悟の遺言だったのでしょうか。
察するとあらためての悲哀を感じます。
満足度★★★★
上出来の部類
4時間に及ぶ大作ですが、見応えがありました。
ネタバレBOX
4時間に及ぶ大作ですが、見応えがありました。
登場人物も、コロスを除き、20人もいます。主人公を特定するのは困難です。各々が中心人物がとなるサブプロットが組み合わせられて、ひとつの物語が構成されています。冗漫に感じられる部分もありますが、概ね成功している、堅固な統一性を獲得出来ていると思います。
この巨大なモザイクの彩りを、古今東西の歴史や文化芸術への作者の知見が支えています。それが醍醐味ある人間ドラマのエンターテイメントになれているのが見事です。おそらく、核になっているのは、ラテンアメリカ的な叙事詩でしょう。実際、ここからもう少し煮詰めた地点に、例えばガルシア・マルケスの神話世界があるのだと感じました。
パスカルズの生演奏にも、南欧的あるいはラテン的と言っていい明るさがありました。興味深いのは、大バッハの『マタイ受難曲』からの引用など宗教曲的旋律です。この宗教への関心は、日本の劇作家には希有なもので、作品の大事なテーマとして見過ごせないポイントでしょう。
感動的なエピローグも、神と運命への洞察として印象的でした。己れ自身であった娘(たち)を失った父親が二人(生瀬勝久と三上市朗が素晴らしい)、生き残ってしまった者の断念と祈りの残日が、ピアニシモの響きで胸に染みます。
本格の芝居創り、本物への感動こそ演劇の贈り物。それを自分の問題としてどう考えるかは、客にとって生き方のテーマ。
そんなことを、観劇後の余韻のなかで考えました。
KERAは、持ち味を活かしながら、自身のテーマを深化させたと思います。
これからも、その活動に注目していきたいですね。