1
シニガミと蝋燭
ミジンコターボ
いつも思うのだけれど、舞台の上には子どもたちが必要だと思う。
街中の至る所にいる彼らが、舞台の上に一人もいないのはおかしいとずっと思っていた。
この舞台では、実に元気なちびっ子たちが出演する。
一方で、いつもは元気一杯な役柄で出演することが多い片岡氏が、ここでは演出に徹し、舞台の上では死にゆく老人の役を演じている。
父親の死をみていて感じたが、人が死ぬとき惹かれるのは、子どもたちの元気な姿だと思う。
衰えゆく人の死と、まだ生まれたばかりの子供たちの躍動は表裏。
ある人の死は、次に子どもが描かれることによって、やっと締めくくられると自分は思う。
陽気さと勢いが売りの片岡氏が陰気な老人として死に、元気な子どもたちに花を添えるのが素晴らしい(本当に素晴らしい役者と言うのは、子どもに何強いることなく舞台の上に立たせて自分は黒子に徹し、光を当てられる人だとこのとき思った
こども達に何かを伝えようとかいうのではなく、ただあるがまま瑞々しくそこに花のように咲かせることが素敵だ。
2
ピーター・ブルックの魔笛
彩の国さいたま芸術劇場
軽やかさと自由に。あと、やはりモーツァルトは素敵だ(笑
3
カラス/Les Corbeaux
世田谷パブリックシアター
Woyzeckのナジを目の前で観られた。やはり凄いパフォーマーだった。
4
14の夕べ / 14 EVENINGS
東京国立近代美術館
9月6日の『ツァイトゲーバー』について。
言葉をなくした人との対話を、もっとも素朴な形で再現してみせてくれていた。
・・自分の父親が死ぬ少し前、弱ってコトバも喋れなくなったときのことを思い出していた。
何時間もかけて、父親が何を絞り出そうとしているのか聞こうとした。
死ぬ前にほとんど意識はなくなりながら、自分と世間話をしたり、母親と二人の時には、起き上がって最後の別れを口にしてくれていた。
魂とはなんなのだろうか?
満員のお客さん達にも、舞台の上の出来事が通じていたようで、それが素晴らしいと思った。
日本の演劇は、もっと別のコトバを探さねばならないと思う。
5
皆のためのピザ
十六夜吉田町スタジオ
東京と大阪よりずっと近いのに、そこに言葉や表情を送り届けるということがひとつのドラマになる。かえってきた声にもまた、胸をうたれる。
自分たちは、簡単に手の届く言葉にばかり耳を傾けているのではないだろうか?
国境の向こうの人びとに、
「私は貴方たちの友達です、貴方が苦しむなら私も哀しいのだから」
と、伝える努力を怠っているのではないだろうか?
いつの時代になるかは知らないが、相手が殴り疲れるまで立っていられれば、彼らも自分たちのことを友達と認めてくれる日が来るかもしれない。
いつだって同じ国の政治家より、他の国で虐げられている人たちの心のほうが、余程大多数の人には近い存在だと思う。
6
F/T12イェリネク三作連続上演 『レヒニッツ』 (皆殺しの天使)
フェスティバル/トーキョー実行委員会
「皆殺し」
・・と書けば、中二病が抜けない(脳内)ちびっ子は胸躍る。
先の大戦で、ルーカーヌスの時代からすると比べ物にならない位、人格の劣化した中二病の戦士たちがどのような愚行に及んだのかを、非常にカッコ悪く描いている所が素晴らしい(笑
・・カッコ良いヤンキーが、カッコ悪いヤンキーの真似をわざとやってみたようなものなんでしょうか?
7
ユン・ハンソル『ステップメモリーズ―抑圧されたものの帰還』
フェスティバル/トーキョー実行委員会
観劇後に朝鮮戦争について調べようと思ったけれど、全く資料がない。仕方なく舞台の記憶をずっと思い返している。日本や周辺国の近代の歴史の資料は非常に偏っている。文明が進歩しているように見えても、自分たちは世界のすべての情報に均等に接している訳ではない。演劇には、もっと伝えられていない情報をかみ砕いて(こっそりと)提示する努力が必要だと思う。
8
ナントカ世代の落語まつり
ナントカ世代
相変わらず美術が素晴らしい!
9
わたしたちは生きて、塵
酒井幸菜
驚くべき成長に。
10
微か
世田谷美術館
春の季節に、桜の花に。