公演情報
「昭和虞美人草」の観てきた!クチコミ一覧
実演鑑賞
満足度★★★★
素直に面白かった。題名通り、漱石の『虞美人草』を昭和に置き換えたものである。昭和でも昭和48年。65歳の私が、大学入学したのが49年だから、まさに登場人物たちと同年齢なので、「ああ、そうそう。そんなこともあった。」という感じで、とても懐かしかった。「ラブ・アンド・ピース」「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」。大学紛争は安田講堂を頂点として、徐々に下火になりつつあったけれど、政治闘争から文化闘争へ、というような感じで、フォークやロック、アングラ演劇(私は、金沢大学演劇サークル「駱駝の会」で「状況劇場」や「黒テント」の芝居にはまっていた。)、既成の文化に対する反発が、若者たちを駆り立てていた。「物より心」「金より愛」の時代だった。そこらへんを、明治維新で四民平等、新たな世になりながら、薩長という田舎者が権力、金力を握って幅を利かせる世の中が嫌でたまらない、江戸っ子漱石の登場人物の「真面目さ」に重ねてある。
漱石の『虞美人草』の方は、主人公(=虞美人)?「藤尾」を権力、金力の権化にして、男たちが彼女に逆らうことで、「真面目」を貫き、藤尾という毒婦が自死することでめでたしめでたしという、勧善懲悪だけれど、とても情けない(一人の女性を殺して)勧善懲悪の物語になっている。漱石も後年、失敗作だと認めている。
そんな『虞美人草』をどう「昭和」に翻案するのだろうという興味があった。
宗近が「真面目さ」を説いて、小野と恩人の娘「小夜」とを結びつけようとするシーンは泣けた。そう。映画「三丁目の夕日」のように。ノスタルジーは病だと思いながらも泣かされてしまう。そして、ラストにあっと言わされた。藤尾を人種差別と闘う(ちょっと大げさか?)、まさに新しい女性として救っている所だ。(ネタバレになるので書かないけれど)最初の『アントニーとクレオパトラ』の話がうまい伏線になっている。
では、「悲劇によって人は皆『真面目』になる。」とは、今の世でどういうことだろう。そこが一番作者の伝えたかったことではないか。今の世の悲劇とは「コロナ禍」のことであろう。演劇や舞台芸術は特に、そのあおりを食らって、去年一年公演もままならない状況であった。私も久しぶりに生の舞台(高校演劇は除く)を観ることができてとても嬉しかった。
「真面目」とはどういうことだろうか。きっと「ずる」しないことであろう。「金力や権力を使ってずるしないこと。」そう考えると、この一年、「桜を見る会」だの「総務省接待」だの、権力者、権力をめぐる「ずる」じゃないの、という話が、真面目に耐えている庶民をよそ目に流行った。
「文学座」と言えば、今回『昭和虞美人草』を観て、「文学座」を検索していたところ、私のほとんど唯一「文学座」の役者で知っている(別に知り合いという意味ではない。)松山愛佳さんの退団を知った。なぜ彼女を知ったかというと、2015年に「新宿梁山泊」が唐十郎の『少女仮面』を李礼仙を招いて上演した。「ザ・スズナリ」まで見に行ったけれど、その時「貝」を演じた女優さんがとてもいいので、「梁山泊」にこんないい女優がいたんだと、驚いた。で、後で文学座の女優さんと知って「さすが『文学座』、層が厚い。」と思って(「梁山泊」の皆さんごめんなさい。「梁山泊」の芝居は私好きです。)それ以来ご贔屓の女優さんなんだが、(といってもそれ以来彼女を観るために「文学座」を観たりはしなかったんだけど。)退団と知って、残念。どうしてという気持ちがした。
これも「コロナ禍」の「悲劇」の一つなのだろうか。いや、そう(「悲劇」)ではないだろう。「真面目」に新しい道を進む彼女に、エールを送りたい。
実演鑑賞
満足度★★★★
大変面白かった。漱石「虞美人草」の人物を70年代に置き換えて、ロック雑誌を作る青年と周囲の女性たちの、世俗にまけずにいかに「真面目」を貫くかを描いた。漱石作品の換骨奪胎が実に見事。「虞美人草」を読んでからいったので、一層楽しめた。藤尾が小野に入れ込む心理も、原作以上に納得できた。
「自分の中の第一義の部分で生きるのが大人」「世界を幸せにするのが本当の大人だ」「悲劇はなぜ人を真面目にするのか」「ここが真面目になるところだ」など、「虞美人草」のエッセンスがどこにあるかが、よくわかった。
「アントニーとクレオパトラ」のNY公演の挿話も、ひねりが効いていて、藤尾の屈折をよく照らしていた。藤尾役の鹿野真央が、女王様然とした表面の奥の悔しさ寂しさをよく示して好演。糸子役の平体まひろは、同じマキノノゾミの「東京原子核クラブ」に続いて良かった。70年代を直接生きたわけではないが、フォークソング「結婚しようよ」は個人的に懐かしく、嬉しかった。
クラシックな家具と、重厚な本たちに囲まれた書斎の美術が象徴するように、大変古典的ともいえるスマートで洒落た舞台であった。
実演鑑賞
満足度★★★★
マキノノゾミの新作公演、と記憶をまさぐってみたら、思い出した。昔、MOP(だったと思う、違ったかな)とかいう京都でのマキノ氏の拠点劇団の最終公演(に近い公演)を観た。懐かしい。
名は知られているがそれだけに大衆好みとの予想通り、ウェルメイドチックな、社会派でも笑いの涙にまぶした「メッセージ性あってうまいけど甘い」舞台であった。
(殊に戦争を扱ったにしては「思いがあれば正義は勝つ」的なメッセージに集約させた、ちょっと文句の言いたくなる舞台を私はここで目にしていた。)
他のマキノ作品ではSPAC「高き彼物」(古館寛治演出)が絶品、先日の「東京原子核クラブ」も楽しめた。「高き彼物」は性的マイノリティを扱い、役者を選びそうな戯曲だが、「先生」の変人性が写実的風景の中に収まって「主張」らしい要素がなく、じんわりと、やがて高まる感動に導かれた。見ると著名なマキノ戯曲の殆どが外部への書き下しであるので、執筆方法に違いがあるのだろうか、等想像してしまった。
現代能楽集など話題作を逃し、(先のMOPのを除いて)「新作」を逃していたので、現在まだ無敗の文学座アトリエ公演となれば一も二もなくである。
ただし予約は「支援会」会員で最初埋まったとか。「今、席を作っている所、来週あたり出す予定」と週末に聞き、日曜夜にwebフォームを覗くと残一席、速攻で予約した。(この客席が奇妙不可解、後に記述。)
この芝居、音楽評論雑誌の事務所というピンポイントな風変わりな場所を舞台に選び、1970年代の楽曲(主にロック)が頻回に流れ、プログレやアメリカンニューシネマの話題に夢中になるシーン等、個人的には懐かしさに小踊りする代物であったせいで、随分肩入れした見方になったに違いないが、翻案された「虞美人草」(読んでないが)は漱石の時代にもあっただろう「恋愛と人生」のモチーフが見えてくるにつけ、ドラマの深みへと誘われる。作者がパンフにも吐露していた原作中無性に良かったシーンの台詞が、本舞台でも光っている。明治から遠くなりぬ現代に、こうした感動に出逢う幸福を噛みしめた。
舞台全体の印象としては全開コメディではないがそこはかと喜劇要素の漂うマキノ戯曲をシリアスとの絶妙な塩梅で仕上げるのは高いハードル、文学座の俳優層でも中々大変そう(特にラストへ向かうあたり)。ネタバレになるが「突撃」は「玉砕」とせず「そう言いながらも・・」と含みを持たせるのが絶対正解に思うのだが。。
俳優は文学座でも若い世代が中心だったろうか。殆どがお初の方々で、目に(耳に・・声を)した事のあるのは二三名ほど。中で平体まひろ氏は、昨年7月中津留氏の配信「パンデミック・パニック」で初お目見えしてより、秋に座高円寺「フランドル農学校の豚」、冬「東京原子核クラブ」(配信で)、今回で四度目で最若手にしてはよく目にした(今割と売れっ子のようだ)。ただ今回のは同じマキノノゾミ作の「東京・・」の役を引き摺ったかと思われる顔演技があるのが少し気になった。が特徴的な風貌は見る側が何かをそこに投影したくなるようで、強みだ。