公演情報
「水の駅」の観てきた!クチコミ一覧
太田省吾さんの無言劇『水の駅』を杉原邦生さんが演出。美術も手掛けられています。出演者はオーディションで選ばれました。上演時間は約1時間50分。私は初日前日のゲネプロを拝見させていただきました。
2012年に京都で拝見した『更地』(作:太田省吾 美術・演出:杉原邦生)が面白かったので期待をしていたのですが、残念ながら私には響かなかったです。インド人のカンパニーによる上演を観たことも関係しているかもしれません。俳優が段どりどおりに動いているように見えてしまい、最初から集中できませんでした。
記録:http://shinobutakano.com/2019/03/26/12142/
満足度★★★★
「水の駅」初日の当日券抽選に並び、くじ運の無い身が引いた事のない一番を引いて不吉さにビビりながらも、ほくほく観劇した。
沈黙の劇世界を彩る音楽はジムノペティ。ゆったりビートのアレンジ、通常演奏、エフェクトで歪めたバージョンと出てきて、このまま同曲の変奏で行くかと期待したがそれはなかった。他は基本クラシックで3曲位使っていたろうか。無音の箇所との組み合わせで変化を付けていた。
場内は、森下スタジオの内壁そのまま見せ、雛壇客席と開帳場の舞台装置が対面し(普通の舞台・客席の関係)、その周囲に隠しは置かず、照明の影に目立つ事なく沈むのみ。開帳場のどん詰まり(頂点)が人の登場する所だ。その頂上ラインの右寄りから左手前へ斜め一直線に白い矢印が、通路のように書かれている。実際人は皆ここを通る。その斜めラインに沿って、中空には洗濯物干しのように綱が渡され、綱には小型の照明が下向きに吊るされている。左奥に粗大ゴミっぽい山。そして白い通路の真ん中あたりに、ちょろちょろ水の出る音を立てて蛇口が立っている。
・・と情景の説明をしたが、聴覚情報は音楽か無音、芝居は視覚情報に殆ど頼るしかない。が、前の席の頭が舞台手前中央に位置取り、視界を阻むので、声のヒントがないと重要な情報を見損ねる。二人組の時など双方の働きかけや、それとは別におもむろにわーっと大口を開けて叫ぶ所が幾つかあるが、これを見逃してしまう。情景が見えないと退屈で睡魔が襲うので、後半は割り切って「今観るべきポイント」を探って忙しく上体を動かすことになった(もちろん最小限に)。
あと、元の形式(太田省吾演出)を知らないが、多数の出演者から想像されるように恐らくKUNIO演出の特徴と言えるのは、開帳場の奥から「役」を担った人物が順次登場し、無言のドラマを展開し去って行く仕様である事。各人物の「動き」というコンテンツ(人物設定・関係性)の作り次第で、舞台の質が左右される、という作りである事だろう。舞台全体が志向するものは多分無かった。が、意外に「まじめに」作られた印象で、生前の太田省吾の教え子であった杉原氏が、師匠の遺したものへ現在の彼なりに答えを返そうとした舞台と感じた次第。舞踏に通じるスローな動きを基準にした点にそれは表われたが、しかし貫徹するものが見えなかった、というのは、トークに招かれた内田儀がうまく解説していたが80年当時はバブルへ走り出す時代、物事が過剰さを帯びて行く世相があり、太田氏はそれをそぎ落とす事に表現の目的を据えた。過剰なドラマ性(ドラマティック)が無くとも人の営みがある事を、それを超低速の動きに映し出そうとした・・。今回の舞台の中で「あ」と思うシーンが、それは何でもない役者の動きの中にであるが、あった。「この感じが本来この舞台が狙ったものではないか」と、風が頬に当たるように感じた箇所の一つは、後ろ向きの歩行であったと思う。迷いの無い動きであるが速度は遅い。過剰を削り取っていった人間の姿は、即ち「余計なもの」がなくても生きて行ける要素を備えた姿と言える。余計なもの、の中に文化は含まれようが、本来不要なものに依存したあり方を疑うプリミティブを志向する舞台は、緩慢さに徹し、シンプルさに徹する、という所にあったことだろう。対して杉原演出版は、基本を無言、緩急に据えながら時にスピーディにも動く。人間模様に多様さを持ち込む。そうなると「水」は何の象徴なのか、という疑問が(これも内田氏が述べていたが)残る。まさにそのような印象を私も持った。「水の駅」という伝説ありきの、レイヤーとしての舞台であるが、視覚的な「形」を似せるという継ぎ方も、あるのやも知れぬ。「面白ければよい」のである。ただし私の目には(席の問題なのか)シーンが数々ある中で関係性を読み取ることができず判らず仕舞いのシーンが幾つか残り(全て判る必要は無いと考えているが)、あるいは複数いた男女カップルの営みに差異を感じられず、それがそのまま「面白さ」の半減となったのは事実だった。
部分的には表現の面白さや巧さ、形の美しさ、情緒など楽しむべき所はあったし、太田省吾のかつての仕事について想像を及ばせる貴重な材料にもなった。
満足度★★★
この芝居のことは扇田昭彦『日本の現代演劇』(岩波新書)で知った。その絶賛ぶりで一度見たかったのが今回実現した。ただ、感想は「?」という感じ。セリフのない沈黙劇から意味を汲み取るのは難しい。そもそも言葉にできるならセリフにしたほうがいいわけで、ここでは言葉以前のなにかを感じるべきなのだろう。
舞台中央に壊れた蛇口があって、水が細く垂れ続けている。右奥から一人、あるいは二人と俳優が現れては、水を飲み、そこで何事かを演じて、また去っていく。その繰り返し。
人は来りて人は去る、それが輪廻のように続いていく、生命の無限の繰り返しを描いたともいえる。100人の観客がいたら100通りの解釈があっていい。
群衆たちのけんか騒ぎでは、一発の銃声(舞台ではびんた)で平和は破れる、平和のもろさを思った。しかし人間の戦争も、終わってしまえば一陣の嵐に過ぎない。「国破れて山河あり」「夏草や兵どもが夢のあと」である。
ぼろ服の疲れ切った男女が、服を脱ぎ棄てて沐浴し合う。そして憎しみも愛もそれまでになく高まって、半裸で絡み合う。この場面が一番印象的だった。水が与える生命力、あるいは浄化を感じた。
観終わった直後は、もういいと思ったが、こうして考えているとまた観たくなる。不思議な舞台である。
満足度★★★★
大田省吾晩年の学生の中の優等生による「水の駅」である。
弟子筋だから、原作へのリスペクトも十分、テキスト(と言っても台詞はないのだが)は原文を使っているのだろうが、大田省吾演出版とは全く違う。この舞台は間違いなく現代の「水の駅」だし、大田省吾版は80年代の水の駅である。
冒頭、コロコロ太った健康そのものの少女がヤオヤ舞台を転がって登場する。ここでもう時代が変わったことを実感する。音楽はサティ。大田版と同じだが編曲が違う。ピアノ曲にかなり大きくパーカッションが編曲されていて、劇場の音響のせいもあって強く響く。舞台に寄り添うようだった音楽は、現代の健康な俳優たちに拮抗するように挑発的なサティになっている。性的な表現が表面に強く出ているのも特徴だろう。
では舞台成果としてはどうか、と言う事になると、KUNIO天晴れ、である。大田省吾を散々見た観客には、若さあふれる舞台はまぶしいが、かつては、大田省吾も十分に若く挑発的だったのだから。大田省吾はいい弟子を持った。杉原邦生はいい師匠を持った。日本の古典演劇を現代劇に生かす道が、より受け入れられやすい形で伝承されたのだから持って瞑すべし。見事に師に応えている。1時間50分、飽かず現代の水の駅を見た。