公演情報
「翼の卵」の観てきた!クチコミ一覧
満足度★★★★★
原田大二郎さんを客演に迎え、桟敷童子らしい設定のストーリーで安心の面白さだが、確実に心を揺さぶられ、ザワつかせる。
最初から最後までどっぷりと劇にハマる。
ラストの破壊とインノセントな美しさ。
満足度★★★★
桟敷童子の芝居は観た後ストーリーを忘れてしまう。(羽を生やして飛んでってしまう)
すみだパークスタジオという場所、内側に飾られた壮観な美術、そこでは受付・会場誘導体制に役者総出の気持ちの良い立ち働き、開幕すればスキーの如くドラマの助走路を転ばず滑走し、ジャンプと着地を為そうという能動的観劇に動員され、組織化される。この観劇パッケージを舐め尽くす事が、終わってみれば桟敷童子体験だ。
もっともドラマを分け入ってみれば(記憶を具に繙いてみれば)世界や時代や「今」に鋭く切りつけるものがあったりする。その鋭利さは桟敷の「型」によって飲みやすくされているが。とは言ってもこの劇様式に収める事が至難であるのは今回参加した原田大二郎演じた役「父」の理想形と実際との差を想像しつつ埋めながらの観劇になった事でも実感するのだが。
昭和の懐かしい感性、単語やシチュエーションにほろりとさせられる時、「今」の何が批評の対象であるのかは重要だ。全てにおいて「昔は良かった」わけはない。
毎度ながら、役者陣の貢献を思う。毎公演異なる役柄を演じ分ける板垣、ドラマの雲行の変化を僅かな言葉の粒立てで知らせてしまう大手、手練の原口、稲葉、婆役・汚れ役をそれぞれ担う鈴木・新井・・。各ポジションをしっかりと演じる好プレイによって得点に結びつけるが、客演の肌合いの違いを感知しフォローまでやる板垣以下の働きを見るにつきスポーツのようだ。
公演評というより劇団評になった。
満足度★★★★★
鑑賞日2018/06/06 (水) 14:00
座席1階2列
昨夏、「蝉の詩」を観に行ったとき、原田大二郎さんがご夫人と思しき方と観劇にいらしていました。(ちなみに、同日には辰巳拓郎さんもいらっしゃいました)その観劇がきっかけになったのか、オファーありきの観劇だったのかはわかりませんが、今回の出演を知ったとき、何とも懐かしうれしく思われました。(桟敷童子が気に入ってくれたのだなあ、と)
相変わらず出てくるクズ人間には、毎度のことながら憤りを感じて、とても不快ですし、それによって招かれる幾つもの死は何とも言えない不条理感を醸し出します。でも、これが桟敷童子の持ち味でもあり、マンネリを指摘する方もいらっしゃいますが、「モグラ」や「標」のように、活劇を織り交ぜた作品もありますから、私としては十分に許容範囲と言えます。あまり気になさらず、作りたいようにお作りいただけるのがよいかな、と。でないと、毎度毎度、満席ににはなりませんよ。
満足度★★★★★
かれこれ7作以上観ていると思うが、他の方が指摘しているように舞台美術や時代設定、時代のうねりに飲み込まれるようにコミュニティが崩壊していく様等マンネリ化を強く感じる方も多い筈。
しかし、それらを差し引いてもやっぱり凄かった。
満足度★★★★
舞台美術だけで言えば 自分の知る限り 小劇団の中でトップだと思います! 舞台の隅まで埋め尽くす 無数の葉! 圧巻です!
中味は 時代設定など少々マンネリ化してる感があり、思いきった変化を期待します。
客演の原田さんは さすがの存在感☆
満足度★★★★★
客演に原田大二郎を迎えての公演。苦難に満ちた「常藤耕作」の人生が滲み出ていました。舞台は九州。炭鉱がまだ勢いのあった時代。「常藤耕作」は、あの『泳ぐ機関車』の赤堀炭鉱でも働いていたんだ。そんな台詞もありました。どの俳優も個性的。主人公「頼子」の板垣桃子の複雑な心の演技、汚れ役「アオイ」の新井結香、『泳ぐ機関車』と同様、強いインパクトがありました。「恵子」の大手忍、私の心を揺さぶる「神」でした。音楽が雰囲気を作ります。そして何回も語られる「詩」が心に強く響きました。私は2回の観劇、2回ともに泣けました。いや、2回目だからこそ深く感じ、また泣けたのかもしれません。
満足度★★★★★
ネタバレを読まなかったおかげで知りませんでした。あっけにとられてしまいました。すごかったです。何がすごかったかはネタバレを読まないままお確かめください。
満足度★★★★★
好きな劇団の一つである劇団桟敷童子の『翼の卵』を2日午後に観てきた。知人の役者・もりちえが出ている上に、今回は客演として原田大二郎も出ると言うことで、初日を迎える前で全公演チケット完売という人気であった。
満足度★★★★
鑑賞日2018/05/29 (火) 19:00
価格2,800円
桟敷童子お得意の弱者庶民伝にしてある共同体の崩壊劇、そして「純和風悲劇」。
先日観たオフィスパラノイア「幕末異聞 明治悪党奇譚」、昨年観た野生児童「純惑ノ詩」とも歌舞伎を元ネタとするアレンジ物ながらシェイクスピア的な部分とギリシア悲劇的な部分があり、悲劇のルーツはやはりあのあたり?と思ったのに反して本作はそういったものが感じられず、極めて日本的ではないか(後から改めて考えるとギリシア悲劇に通ずるものはあったがさほど強くない)、強いて言えば伝統芸能的な部分もありつつ、自らの弱さに負けた人物によってもたらされる悲劇というのは独特ではないか?と思ったのだった。
そういえばシェイクスピアにしてもギリシア悲劇にしても「運命に操られるように」という要素が色濃いのではないか? それに対して本作はその要素よりも特定の人物によるものが大きいのではないかと。
そして悲劇でありながら終わってみると思ったほど重さが残らないのは元凶である人物が本当にダメ人間で、自分はあそこまでは堕ちないという安心感のようなものがあるからではあるまいか?
そんなこんなでクライマックスの装置の仕掛けも含めて桟敷童子の世界を堪能。
ところで「財布のエピソード」が半端で浮いてはいまいか?そこだけちょっと引っかかった。