その人を知らず 公演情報 その人を知らず」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.2
1-4件 / 4件中
  • 満足度★★★★★

    純粋に生きる・・・そんなことは考えたことも無かった。
    あの時代に自分の心の指針に忠実に生きた人がいた・・・胸が熱くなりました。

  • 満足度★★★★

    文学座・文化座・民藝 ・青年座・東演という新劇5劇団の合同の公演。
    三好十郎の戯曲は骨太で、どれも面白い。
    キリスト教(というよりは主人公の信じる神)の教えを守り、召集を拒み続けた男が主人公。
    彼の戦中・戦後。

    (以下はネタバレboxへ)

    ネタバレBOX

    前に東京デスロックで観たが、それとは違った印象。
    東京デスロック版では主人公(夏目慎也さんが演じた)が、実際に十字架に掛けられているように丸太に両手を縛られて演じていた。
    彼を縛るモノは彼の中にあること、そしてそれは誰から見ても明らかであり、主人公に対する視線が強化されていた。

    それに対してこちらは、主人公を取り巻く人々の視線、戸惑いや憐憫、そして自らに戻ってくる痛みといったものを痛烈に感じさせた。
    彼自身のことよりも、彼の行動により「巻き込まれてしまった」人間の哀しさを感じたのだ。
    「転向しないと生きていけない」世の中において、主人公の存在は、「痛い」ものである。誰もが正しいと思っても同じことはできるはずがない。
    主人公を取り巻く人々の後ろめたさが、逆に主人公の存在の「怖さ」を浮かび上がらせた。

    タイトルにあるものと同様の台詞がラストに出てくる。
    それは聖書の中の一節だが、使われ方は聖書とは異なり真逆。

    ここまでのシーンで登場するのは、主人公の行動に「巻き込まれてしまった人々」だったのだが、ラストの台詞の男は、主人公の心に触れたことで「自ら変化することを選んだ」ということではないだろうか。
    異常とも思えるほどに頑なに自分の信じる神に従ってきた主人公が、本当の意味で影響を与えた唯一の、あるいは最初の、1人なのかもしれない。

    彼を助ける一言に対しても彼は嘘をつくことができず、連行されてしまう。
    どこまで行っても「彼は彼」であったいうことなのだ。
    とても苦しい話である。

    鵜山仁さんの演出は確かだ。思わずこみ上げてきそうになるシーンもあった。
    新劇5劇団の合同公演だけあって、演技はオーソドックスで確実。とてもわかりやすいし感情移入しやすかった。中でも山本龍二さんが印象に残った。
  • 満足度★★★★

    観始めてから、途中でしまった!と思った。

    友吉があんなことをした、と皆が言う。周囲から責められ家族までもが弾圧されるような、いったい何を彼がやったのか。それが途中までははっきりと語られない。何の予備知識も入れずに観ればよかった。彼が何をしたのか(いや、しなかったのか)を知らないまま、それを考えながら観られたらよかった。

    だが、そんなことを思っていたのはわずかなあいだだった。

    その時代の息苦しさそのものが、友吉への、そして友吉の家族への迫害となって具現化する。

    新劇系の5つの劇団が協力しての上演とあって、キャストの層も厚い。多彩な登場人物をそれぞれ説得力のある演技で描き出していく。

    共産主義者も右翼の国士も友吉に洗礼を施した牧師も、それぞれの迷いや矛盾が描かれる中で、友吉の頑ななまでの無垢が痛ましく輝いていた。

    それはキリスト者としての行動だったのか。あるいは、彼の観ていたエス様は、彼だけのためのものであったのかもしれない。

    戦争中から戦後にかけて揺れ動く人々の中で、彼の無垢だけが揺らがない。

    ……いや。そうとは言い切れない場面もあったか?

    戦後の苦しい生活の中で、彼は自らの信念に疑問を抱くようにも見えたのだけれど。

    タイトルは聖書の中のペテロの言葉から取られたもののようだ。

    しかし、ラストで繰り返される「そんな奴は知らない」という言葉は、ペテロの場合とは異なり、彼をかばうため、彼が妹と大切な女性を無事に連れ帰るためにつかれたウソだったのに。

    そんな時でさえ、バカ正直に応えることしかできない。

    前半の、歯を喰いしばりながら観るような緊張感と、後半のある種の喪失感と。

    殺すなかれ。

    その戒律を守ることだけをどこまでも貫こうとした ある男の物語。

    約70年前に書かれた戯曲が、もしかしたらこれからの我々にとってもっとも切実な課題を浮き上がらせているのかもしれない。

  • 満足度★★★★

    観た人から直に評判を聴き、観に行く。三好十郎作+鵜山仁演出と言えば一昨年だったか『廃墟』が鮮烈だった。東演+文化座合同で、自分は東演パラータだったが、文化座アトリエにしろ狭い劇場で唾と汗を飛ばす熱演を間近にみる観劇になったのに変りない。
    今回は合同がさらに広がって新劇団5団体、上演時間も休憩込み三時間二十分。劇場が大きくなってあうるすぽっと、これが違う。後部座席では、少し厳しかった。芝居を演じられているその場の熱度、ディテイルが伝わらず、台詞の一部が聞えず、という事があり、しばしば入眠す。
    第二幕では前の席に移る。と、見え方が全く異なり、確かに、ありありと、そこで起きている事に、引き付けられた。
    大作であるためか台詞覚えに力を取られ、体全体での表現に至らない部分が、多かったのではないだろうか。後部からだと、俳優の身体を含めた情景として全体を眺める形になる。そこで、聞えてくる台詞の「言葉」そのものの表示する意味と、それを発する存在としての表現(身体)が、合致していなければ、意味が分からなくなる、という事が生じる。これが近くからだと、表情が見える、声の強弱がより聞き取りやすくなる、目で自然にフォーカス機能を使い、「理解しよう」と感覚器を駆使するわけである。(単に二幕で引き込む作品だった説も、あるが・・)
    まあそんな事がありつつ、三好十郎がものした問題提起、情景描写は、痛烈で、日本の庶民の戦争責任を、戦後の彼らのあり方の中から探り、抉り出す作者の妥協のなさは激烈だ。それを浮き彫りにするための、主人公の人物像。純朴に「エス様」を信じて戦中投獄され、戦後は彼を導いた牧師の教会を再訪した際、そこに居合わせた信者・牧師との対比で益々その清廉さが際だつ、主人公の姿であった。
    彼を鏡とすれば、現代の我々も、何かを諦め、それがために歪んだまま飲み込んでいる「おかしなこと」が随分ある事を思い知らされる。
    三好戯曲が現代に生きる、これも一つの実証になった。

このページのQRコードです。

拡大