満足度★★★★
観た人から直に評判を聴き、観に行く。三好十郎作+鵜山仁演出と言えば一昨年だったか『廃墟』が鮮烈だった。東演+文化座合同で、自分は東演パラータだったが、文化座アトリエにしろ狭い劇場で唾と汗を飛ばす熱演を間近にみる観劇になったのに変りない。
今回は合同がさらに広がって新劇団5団体、上演時間も休憩込み三時間二十分。劇場が大きくなってあうるすぽっと、これが違う。後部座席では、少し厳しかった。芝居を演じられているその場の熱度、ディテイルが伝わらず、台詞の一部が聞えず、という事があり、しばしば入眠す。
第二幕では前の席に移る。と、見え方が全く異なり、確かに、ありありと、そこで起きている事に、引き付けられた。
大作であるためか台詞覚えに力を取られ、体全体での表現に至らない部分が、多かったのではないだろうか。後部からだと、俳優の身体を含めた情景として全体を眺める形になる。そこで、聞えてくる台詞の「言葉」そのものの表示する意味と、それを発する存在としての表現(身体)が、合致していなければ、意味が分からなくなる、という事が生じる。これが近くからだと、表情が見える、声の強弱がより聞き取りやすくなる、目で自然にフォーカス機能を使い、「理解しよう」と感覚器を駆使するわけである。(単に二幕で引き込む作品だった説も、あるが・・)
まあそんな事がありつつ、三好十郎がものした問題提起、情景描写は、痛烈で、日本の庶民の戦争責任を、戦後の彼らのあり方の中から探り、抉り出す作者の妥協のなさは激烈だ。それを浮き彫りにするための、主人公の人物像。純朴に「エス様」を信じて戦中投獄され、戦後は彼を導いた牧師の教会を再訪した際、そこに居合わせた信者・牧師との対比で益々その清廉さが際だつ、主人公の姿であった。
彼を鏡とすれば、現代の我々も、何かを諦め、それがために歪んだまま飲み込んでいる「おかしなこと」が随分ある事を思い知らされる。
三好戯曲が現代に生きる、これも一つの実証になった。