満足度★★★
人民の敵
森新太郎演出。約2時間50分休憩10分含む。個性派俳優のショータイム。役や設定が変更され、群像劇を見せるより社会構造を浮かび上がらせる意図を感じた。主役の医師を単純に善人として描かず、観客に常に疑問を促す。は~…やはり凄い戯曲。
満足度★★★★
最終日観劇
四角い舞台に町の未来と健全さを巡って自己の主張の訴えようとする若い医師、そんな夫を支える出産間際の妻。
多数が勝ちの方向には現代的でタイムリーな内容に感じたが、1幕は話を聞いてるだけでややぐったりした。2幕からの議論展開は劇場内を掻き回すように舌戦を繰り広げるマイクプロレスが面白く、渋くて濃くて愛嬌ある役者たちに眼福。ヨッパライの宮島さんの扱われ方にも笑った。
満足度★★★★
四隅から役者が出入りする正方形舞台上で衆人環視の中。
吼える主人公ストックマンが若い、というのが最大の特徴。厳しい面もあった、という意味を含むが、意表をつくストックマン像での「人民の敵」を体験できた。「厳しい」とは、脇を固める役者の凄腕ゆえに相対的に「作り切れてなさ」が若干みられた、という事かも知れない。全体としては休憩を挟んで2時間50分、イプセン作のリアリズム劇にがっぷり取り組んだ硬質な舞台が観れた。近々にあったサンモールスタジオでの同戯曲の上演と比較してしまうが・・ストックマンの民衆の前での演説と、最後の家族を前にして吐く台詞が、どう決まるかが勝負だとすれば、サンモールでの寺十吾のストックマンが数段腑に落ちた。 ただ、両舞台の大きな差は劇場規模。吉祥寺シアターを四面舞台に組み、観客を巻き込んで長時間臨場感を保たせたこちらの演出、また俳優、特に「悪役」側の青山勝、山本亨ら(紅一点の松永玲子も)が、練達を個人技でなくアンサンブルへ昇華させていた所が、印象深かった。 骨太な舞台となった。
満足度★★★★
吉祥寺シアターで,イプセンの『人民の敵』を観た。
吉祥寺シアターで,イプセンの『人民の敵』を観た。正義にめざめ市長と民衆のすべてを敵にまわし,それでも「温泉の水は汚れている!!」と叫び続ける。時間がたてば,真実は明らかになる。当面,博士は一部の人たちにだけでも問題の本質を明らかにしたかった。しかしながら,怒りにまかせ,自分自身を失う。逆上し,毒づく博士はどこか哀れだ。科学者なら,もっと冷静になってほしい。愚民と同じレベルに陥ってしまう。
正しいことを思うこと,信念を持つ人もいなくてはならない。彼が,周囲から浮いてしまい,結果いじめになど会ったら最悪だ。逆境の中でこそ,人はその真価を試される。少し時間をかけて,策を持って,何が間違いで,何をするべきか,そのことを主張したい。イプセン作品の多くには,このような激しい,熱い性格はない。どこか冷めていて,人生に絶望しているようなところがある。ときには,イプセンも激昂するといった『人民の敵』だった。
サンモールの方が戯曲に忠実で良かったかもしれない。しかし,博士は,吉祥寺の方が饒舌だった。また,斬新な演出を好む人も多いだろう。
満足度★★★★
本当の人民の敵は誰?
イプセンの時代と今のこの時代が、ものすごくリンクして、ものすごくリアルに怖かったです。
劇場に入った時にリングみたいと思ったら、森さんはプロレスのリングをイメージしたのだそうです。そこは戦いの場でした。正義を通すために闘う男、目先の利益のために彼をつぶそうとする男たち・・・・壮絶なバトルでした。
見ごたえがありました。
満足度★★★★
思考停止する怖さ
イプセンがこれを書いた時代と現代日本は、恐ろしいほど共通点がある。だから、この戯曲は今見るととても怖い。「世論」は流され、作られ、道を誤ることがある。そんな世の中で強く生きていくとはどういうことなのか。この舞台では、最後のセリフにそれが象徴されるのだが、3時間の上演の間、お客さんはプロレスリングのような正方形のステージで繰り広げられる物語のこの問題を考えることになる。
問題をなかったことにして隠し、平穏な毎日を続ける。それは原発政策であり、安全保障の問題にも通じるかもしれない。問題を公表すれば職を失う、仲間はずれにされる。。。「まあ、そう事を荒立てずに」という会話は、日常生活でもよくある。思考停止する怖さを、吉祥寺へ感じに行こう。
満足度★★★★★
演劇の可能性を改めて見直した♪
吉祥寺の町中でポスターを見かけた♪そりゃ行くよね♪
さすが戯曲が良い♪しかし戯曲に負けない役者の演技も確か♪何より「民衆の愚かさ」を空間ごと描き切った演出の手腕が光る♪演劇はこうでなきゃ♪
満足度★★★★
客席にゆだねる答え
出演者は燻し銀の実力者揃い!下手な音響・照明はいらないと思わせる。が、後半になると雰囲気ががらっと変わる。客席が飲み込まれる。観客ではなくその会議に参加しているものとして、その答えを各々が考えさせられてしまう。まんまとやられた演出だった。正義を貫いたトマスのその後、作者はどう描きたかったのだろう?また演出は観客にどう感じさせたかったのだろうと答えを考えさせられる舞台だった。
人民の敵
7月に見た雷ストレンジャーズの公演「フォルケフィエンデ ー人民の敵ー」は舞台セットからして深刻そうだったので、そう言うものだと思って見てしまいましたが、今回は設定が違ったところがあるせいかいっそコメディにしちゃえば良かったのにと思いました。第2部で・・・
満足度★★★★★
装置として、また精神的も観客を巻き込む演目
初日を観た。先月末に雷ストレンジャーズで観た別の演目と同じイプセン作品。非常によかった。実力者ばかりを集めた演者陣は盤石にして揺るがない。そして観客にストレスを強くかけても描ききる「大衆の愚かさ」を前に出した構成と演出。特にこの「愚かさの表現」が秀逸。先月腑に落ちなかった箇所が本作を観て収まった。いまさらながら本作が「誠実だが頭の足りない主人公による喜劇体裁の作品」であったとに気づく。(寅さんやチャップリンと同じね) ただ重要なのは、主人公を「笑い者」にすることで「釣られて笑う観客」を装置と演出の一部として劇中へ強制的に連結しているところだ。舞台は四方が客席の所謂囲み舞台。嫌でもゲラゲラ笑う客の顔が目に入る。つまりはそれが劇中で指摘している「考えもせず迎合する大衆の間抜け面そのもの」というつくりである。まあ構成も客にとっては「参加するつもりの全くない政治集会にいつの間にか参加してしまっている」という体でもあるし。センシティブな観客は悪意を感じるだろう。しかしこの施策は原作の主題とは合致している。
「愚かな大衆」も板の上に乗っているだけならよいが板の外へはみ出すというと観る者の嫌悪感は激高となる。貞子がテレビの中から出てきちゃうようなものだ。素晴らしい演出(装置?客席配置?)である。